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近現代史綜合スレ

110小説吉田学校読者:2006/08/03(木) 07:13:54
カストロも広島訪問した。ゲバラも訪問した。広島と革命家を繋いだのは「反米」か「反覇権主義」か「反大量破壊兵器」か「平和主義」か。

ゲバラが撮ったヒロシマ 地域誌が掲載
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000000608010001

 キューバ革命を指導したエルネスト・チェ・ゲバラ(1928〜67)が47年前に広島を訪れた際、爆心地近くの平和記念公園で撮影した未公開のモノクロ写真がキューバで保管されていたことがわかった。存在を知った広島の出版社が「被爆61年を前に公開を」と遺族に求め、地域誌に掲載された。研究者は「伝説的革命家が核の脅威に強い関心を寄せていた証しではないか」と話している。(武田肇)
 写真を保管していたのは、ゲバラの遺族が運営する「チェ・ゲバラ研究センター」(キューバ・ハバナ)。03年に革命の同志であるキューバのカストロ議長が広島を訪問したのを機に、広島市の出版社「南々社」が足跡を検証。写真の存在を知って遺族と交渉し、発刊する地域誌「がんぼ」で7月末に特集を組んだ。
 同センターによると、撮影は59年7月。平和記念公園のアーチ形の原爆死没者慰霊碑の前で人がたたずむ姿をとらえ、原爆ドームや完成まもない広島市民球場も見える。ゲバラが同公園で撮影した別カットの1枚は海外など一部で公開されたことがあるが、今回の1枚は未公開という。
 ゲバラは革命政権が成立した直後に経済使節団長として来日した。池田勇人通産相(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望。1泊して慰霊碑に献花し、平和記念資料館(原爆資料館)や原爆病院を訪れた。
 遺族があわせて南々社に提供した「原爆の悲劇から立ち上がれ、日本よ」と題した手記(帰国後キューバで新聞掲載)には、「痛ましいのは原爆が投下されて14年たった今年も後遺症で多くの人が亡くなっていることだ」「資料館では、胸が引き裂かれるような場面を見た」と訴えている。
 旧ソ連ミサイルのキューバ配備をめぐり、核兵器使用の一歩手前まで緊迫した「キューバ危機」が起きたのは来日3年後の62年。直後にキューバを訪れ、工業相だったゲバラを撮影した写真家の近藤彰利さん(77)=東京都=は、現地の子供でさえ広島で起きたことを知っていたことに驚いた。「その陰にはゲバラの広島訪問があったかもしれないと納得した。一見平凡な写真だが、込められた意味は深い」
 チェ・ゲバラ研究センターの担当者は朝日新聞社の取材に「様々な困難を乗り越えた広島市民の勇気に敬意を表し、写真を公開することにしました」と説明している。
 《関係者を取材し71年に「チェ・ゲバラ伝」を著した作家の三好徹さんの話》 当時ゲバラは国内であまり知られておらず、報道はほとんどなかった。日本政府も使節団として受け入れながら、米国への配慮から広島訪問に難色を示していた。広島行きを強行したのは、多数の非戦闘員を一瞬で殺傷した原爆の残虐性に関心を持っていたからだろう。写真好きは有名で、ゲリラ活動中もカメラを持ち歩いたほど。新たに公開された写真はゲバラの関心がどこにあったか考える材料となり興味深い。
 《エルネスト・チェ・ゲバラ》1959年、キューバの指導者、フィデル・カストロ国家評議会議長とともにキューバ革命を成功させたアルゼンチン生まれの革命家。その後、大臣の地位を捨ててアフリカ・コンゴの反政府勢力にゲリラ戦を指導し、67年、南米・ボリビアでも革命を指導している途中に国軍に銃殺された。


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