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近現代史綜合スレ

53とはずがたり:2005/01/28(金) 17:46:43
http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm
「国体明徴運動」
 貴族院勅撰議員・美濃部達吉法学博士の学説「天皇機関説」に対して、貴族院における菊池武夫議員が提出した質問に美濃部が反論したことによって、発生した運動。
 本来美濃部の「天皇機関説」は政党政治に法的解釈とよりどころを与えるものとして一般に通説と解されてきた。また、美濃部の東大における師は、枢密院議長の一木喜徳郎であったから、西園寺公の秘書であった原田熊雄などは、
「大体において美濃部博士は当て馬であって、要するに一木枢密院議長攻撃が目的である」
 と考えていた。その動きを後ろで操っているのが、右翼団体「国本社」の総帥にして、かねてから枢密院副議長にとどめられて憤懣を燃やしていた平沼騏一郎であると原田は考えていたのである。
 ところが、この機関説攻撃に政党までが与するようになった。当時多数を握りながら野党に置かれて苦悶していた政友会は、山本悌二郎を中心として美濃部を攻撃。衆議院はついに国体明徴に関する決議を採択した。
 野にある退役軍人会もこれに呼応し、軍部、特に皇道派が機関説排撃に動き、美濃部と一木枢府議長はますます窮地に追い込まれた。四月九日、美濃部の著作が発禁処分を受けた。
 内閣は美濃部博士を訴追することを防ぎたかったので、美濃部が貴族院の議席を拝辞することを希望していた。また、特定の学説を排撃することも希望しなかったので当初は国体明徴の声明を出すことを拒んだが、陸軍内部はどうにもおさまらなくなり、陸相を通じて国体明徴を声明する要請がたかまった。八月三日、政府は国体明徴を声明。翌月十八日、ついに美濃部は貴族院議員を拝辞した。
 しかし翌日、新聞紙上で美濃部は、
「私が貴族院議員を拝辞したのは混乱を収めるためであって、学説を放棄したわけではない」
 と語り、紛議が再燃した。大角海相などは岡田首相に、
「(もう一度)声明をしてくれ、声明をしてくれないと何が起こるかわからん」
 と依頼した。閣僚らは、軍部の動きは政友会などの岡田内閣倒閣派と連動していることを見抜いていたから非常に憤慨したが、陸軍の代表者である陸相自身の腰が定まらないものだから、事態は紛糾し、十月十五日、「天皇機関説はわが国体に反する」旨を再度声明することになった。
 さきにのべたように、機関説は政党と政党政治を是認化する憲法学説であったから、政友会の行動はまさしく自らの足元を掘り崩したものだとしか言いようがない。

一木枢密院議長はこの運動の最中、何度も辞意を洩らしていたが、西園寺にそのつど止められ、果たせなかった。しかし今度は牧野伸顕内府が老齢の故を以て内大臣拝辞。この後任として斎藤実が就任したが、その斎藤はこの直後に起こった二・二六事件によって射殺されるのである。


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