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近現代史綜合スレ

52とはずがたり:2005/01/28(金) 17:45:55
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/179.html?c=0
岡山生まれ。司法官僚、政治家。父は津山藩士。明治21年(1888)東京帝国大学法科卒業。東京控訴院部長、大審院検事、司法省民刑局長等をへて44年(1911)司法次官。大正元年 (1912)検事総長。8年(1919)臨時法制審議会副総裁。10年(1921)に大審院長に就任。12年(1923)第2次山本内閣司法相となる。翌年貴族院議員に勅選、枢密顧問官に任命される。また同年から復古的日本主義を唱え、国本社を主宰。のち枢密院副議長、議長を歴任。昭和14年(1939)首相。戦後A級戦犯として終身禁錮刑となった。

平沼騏一郎
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/ww2/jinbutu/hiranuma.htm
 1867.10.2〜1852.8.22。 岡山県出身。
 1888年帝大法律学科卒業。司法省に入り判事。1905年大審院検事、06年民刑局長。日糖事件の摘発を指揮する。07年大逆事件を捜査。11年第2次西園寺内閣で司法次官。12年検事総長、14年にはシーメンス事件を総指揮。21年大審院長。23年第2次山本内閣で法相。24年貴族院勅選議員。枢密顧問官となり、また国本社を創立。26年枢密院副議長。27年の若槻内閣や30年の浜口内閣など政党内閣を攻撃する。この結果元老西園寺公望に嫌われ、首相候補に推挙されず。34年の帝人事件や35年の天皇機関説事件にも背後で関わったと見られる。36年枢密院議長、同年国本社を解散。この頃から新米英派と妥協するようになる。39年に大命降下で組閣。国民精神総動員運動を展開する。しかし8月、ソ連との関係が悪化している中で、突如独ソ不可侵条約が締結されると、総辞職。「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉は流行語になった。40年から41年に掛けて国務相。45年枢密院議長。ポツダム宣言受諾に反対した※。48年A級戦犯で終身禁固刑となり、52年病気仮釈放直後に死去。

※他の資料と矛盾するがこちらが誤りか。


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