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近現代史綜合スレ
298
:
とはずがたり
:2009/03/24(火) 11:07:20
やれやれ勿体ない。。
旧吉田茂邸全焼、漏電と放火で捜査/大磯
2009/03/22
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903461/
二十二日午前六時ごろ、大磯町西小磯の旧吉田茂元首相邸二階から煙が出ているのを男性警備員(66)が見つけ、一一九番通報した。木造二階建ての本邸約一千平方メートルを全焼し、約六時間半後に鎮火した。けが人はなかった。大磯署が漏電などによる失火と放火の両面で調べている。
旧吉田茂邸は要人の会談にも使われた戦後史の舞台の一つ。西武鉄道が一九六九年に買収。県が二〇一二年度からの一般公開を目指し、西武鉄道から敷地を買い取って整備する計画を進めていた。
大磯署の調べでは、二階部分の燃え方が激しいという。本邸から約二十メートル離れた警備員室内で漏電を知らせる警報器が鳴り、警備員が外に出て出火に気づいたという。二十三日以降に実況見分をして詳しい出火原因を調べる。
同署や大磯町消防本部によると、邸には火災報知機やスプリンクラー、防犯カメラなどはなかった。
敷地を所有する西武鉄道広報部によると、本邸には管理人夫妻が週五日、朝から夕方まで滞在している。本邸玄関の鍵は管理人夫妻が持っており、二十一日は夕方に施錠して帰宅したという。警備員は敷地内を一日九回巡回することになっており、出火約三十分前の見回りでも本邸や敷地出入り口の施錠を含め異常はなかったという。
現場はJR大磯駅から西に約二キロ離れた国道1号と西湘バイパスに挟まれた丘陵地。吉田茂元首相(一八七八〜一九六七年)の養父健三氏が一八八四年に別荘として建て、戦後になり元首相が海外要人を招くため総檜(ひのき)造りの数寄屋風にした。
政財界の大物が元首相に意見を求める「大磯参り」をしたことで知られる。七九年には大平正芳首相とカーター米大統領(いずれも当時)の首脳会談も行われた。吉田元首相の孫の麻生太郎首相も幼少期を過ごしている。
299
:
とはずがたり
:2009/03/24(火) 11:12:25
>>298
こんなんばっかやねぇ。。
重要文化財の旧住友家俣野別邸が全焼/横浜・戸塚区
2009/03/15
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903273/
十五日午前五時ごろ、横浜市戸塚区東俣野町の国の重要文化財「旧住友家俣野別邸」から出火、木造二階建ての同別邸母屋約六百五十平方メートルを全焼したほか、隣接する工事用事務所と資材置き場のプレハブ二棟計約百八十平方メートルも全焼した。当時は無人でけが人はいなかった。
戸塚署によると、現場には火の気がなく、出火元も分からないことから、十六日以降に現場検証を行い、詳しい出火原因を調べる。
同署などによると、別邸は復元工事中のため高さ約三メートルのアルミ製フェンスで囲まれ、近づくと警備会社に通報する赤外線センサーが設置されていた。
十四日は作業員九人が午前八時から午後六時ごろまで屋根の下地工事を行い、午後七時半ごろ出入り口を施錠。その際、センサーを起動させて帰宅したという。だが、火災発生時までにセンサーは作動しておらず、出入り口も施錠されたままだったという。
◆旧住友家俣野別邸 1939年に財閥の住友家16代当主の別邸として建設された。昭和前期モダニズムの趣向を凝らし、中世以降のヨーロッパ北部で見られる建築様式を基調とした和洋折衷建築。2004年に国重要文化財に指定。管理団体の市は昨年1月から復元工事を進めていた。事業費は約1億6000万円で11年春には完成し、一般公開される予定だった。
工事で報知器撤去/横浜の旧住友家別邸
2009/03/17
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivmar0903342/
横浜市戸塚区東俣野町の国指定重要文化財「旧住友家俣野別邸」が全焼した火災で、昨年一月の復元修理工事着工後、邸内の火災報知機が撤去されていたことが十七日、分かった。戸塚署は同日から現場検証を開始。工事施工業者などから事情を聴き、出火原因を調べている。
工事を監理する市まちづくり調整局と戸塚消防署によると、邸内の天井に備え付けてあった火災報知機があると工事に支障が出るとして、協議の上、昨年五月以降に報知機を撤去したという。
消防法施行令では、重要文化財の建造物には火災報知機の設置が義務付けられているが、同消防署は「工事などで関係者以外が立ち入れない状況では(施行令は)適用されない。必ずしも火災報知機を設置しなくてはならないわけではない」と説明している。
同局は工事期間中、施工業者に邸内での喫煙の禁止や消火器の設置などを記した説明書を配布し、二週間に一度のペースで点検していたという。
戸塚署によると、別邸は高さ約三メートルのアルミ製フェンスで囲まれ、防犯センサーが設置されていた。センサーは異常の有無にかかわらず四時間おきに警備会社に通報する仕組みとなっており、出火の約一時間半前には異常は報告されなかったという。
300
:
とはずがたり
:2009/03/24(火) 15:22:45
>>298
戦後保守政治の舞台が灰に…絶句する地元住民ら
(2009年3月22日21時26分 読売新聞)
旧吉田邸全焼:防火設備なく 貴重品も灰に
毎日新聞 2009年3月22日 21時46分(最終更新 3月23日 2時38分)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1036413264/2830-2835
301
:
とはずがたり
:2009/03/31(火) 03:13:41
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/83-84
で出てきた高峰譲吉。
凄いですねぇ〜。
それにしても加賀藩典医の家の出とは知らなかった。
“三共の初代社長”―高峰譲吉―
http://www.geocities.jp/kazumihome2004/13-5.html
高峰譲吉は近代資本主義の二つの神器、科学技術と産業をともに手にした最初の日本人である。研究開発が産業と結びつけば、巨大な富を生むことを実証して見せた。三共の初代社長にして、二十世紀初頭の世界をリードした高峰は、政府役人、科学者、実業家、“日米親善特使”の四つの顔を駆使した。米国人女性と結婚し、日米の融和に尽力した国際人でもある。その独創を支えたのは、粘り強い知的探究心と、臆することなく世界と向き合う「志の高さ」ではなかろうか。
1854 加賀藩典医・高峰精一の長男として、現在の富山県高岡市に生まれる
1862 金沢の藩校、明倫堂に8歳で入学
1865 長崎留学、英語を学ぶ
1868 京都の兵学塾、大阪の緒方塾に学ぶ
1869 大阪医学校・大阪舎密(せいみ)学校入学
1873 工部大学校(現・東大工学部)に入学、応用科学を専攻
1880 英国留学
1884 帰国後、米国ニューオーリンズ万博に事務官として出張、キャロライン・ヒッチと婚約
1885 特許局長代理
1887 キャロラインと結婚、人造肥料会社を興す
1890 高峰式元こうじ改良法で特許。米国移住
1892 高峰式のウイスキー製造実験に成功
1893 モルト業者が強く反発、工場が全焼。肝臓病で重体に
1897 米パーク・デービス社と消化酵素タカヂアスターゼの製造開始
1899 日本での同酵素製造販売のため、三共商店(現三共)を設立
1901 上中啓三とともに、アドレナリンの抽出に成功
1921 ワシントン平和会議の事前パーティなど、日米の融和に奔走
1922 7月22日、68歳で死去
以下略
302
:
とはずがたり
:2009/04/04(土) 15:22:43
すげえ。。
「昭和の脱獄王」
白鳥由栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E7%94%B1%E6%A0%84
303
:
とはずがたり
:2009/05/21(木) 22:27:02
興味深いデータなので転載保存。
151 名前:千葉9区[] 投稿日:2009/05/16(土) 12:00:00
おもしろいデーターです
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1242432267/103-203
165 :無党派さん ◆UVotersb9o :2009/05/16(土) 10:51:39 ID:+ImmaWui
衆院選惨敗ワースト記録・党首付(第二次大戦後のみ)
議席は追加公認含む
ただし党分裂の場合は去った議員の分を、併合の場合は来た議員の分を相殺
*分裂 +併合
それ以外の引き抜き・補選・引退・公職追放などでの変動は考慮せず
自由党、1949年民主党はいずれも自民党の源流の一部
1 -163 273→110 1946進歩/町田忠治
2 -85 133→48 1949社会*/片山哲(労農へ11→7)
3 -79 191→112 1955自由*/緒方武虎(鳩山自由へ43→鳩山民主へ)
4 -66 180→114 2005民主/岡田克也
5 -65 138→73 1993社会*/山花貞夫(板橋民主へ1→0)
6 -51 141→90 1969社会/成田知巳
7 -35 35→0 1952共産/紱田球一
8 -28 287→259 1983自民/中曾根康弘
9 -27 269→242 1952自由/吉田茂
9 -27 113→86 1986社会/石橋政嗣
11 -26 96→70 1949民主/犬養健(同志クへ32→民自へ)
12 -24 58→34 1980公明/竹入義勝
13 -23 40→17 1960民社/西尾末廣
13 -23 304→281 1990自民+/海部俊樹(新自クから5)
15 -21 40→19 1976共産/宮本顕治
16 -19 279→260 1976自民*/三木武夫(新自クへ5→18)
バカ負けしているのは軒並み野党。例外は鳩山ブームで議席を獲られた1955年の自由党くらい。
1946年の進歩党は、選挙前に259人が公職追放されたので特例と見るしかない。
議席数を考慮すると、自民の安定度恐るべし(1993年は分裂を相殺すると逆に+1)。
あの公明さえ結構な大敗を経験しているのに。
ちなみに党首自身が落選したのは片山哲だけ(町田忠治、紱田球一は選挙前に公職追放)。
152 名前:千葉9区[] 投稿日:2009/05/16(土) 12:00:23
175 :無党派さん ◆UVotersb9o :2009/05/16(土) 10:53:32 ID:+ImmaWui
衆院選躍進ベスト記録・党首付(第二次大戦後のみ)
議席は追加公認含む
ただし党分裂の場合は去った議員の分を、併合の場合は来た議員の分を相殺
*分裂 +併合
それ以外の引き抜き・補選・引退・公職追放などでの変動は考慮せず
自由党、民自党、1955年民主党はいずれも自民党の源流の一部
1 +108 161→269 1949民自+/吉田茂(同志クから32)
2 +102 46→148 1946自由/鳩山一郎
3 +83 213→296 2005自民*/小泉純一郎(国新へ3→4、新日へ3→1、公認漏れ26→13)
4 +81 15→96 1946社会/(片山哲)委員長空席で片山は書記長
5 +65 120→185 1955民主/鳩山一郎
6 +53 86→139 1990社会/土井たか子
7 +48 96→144 1947社会/片山哲
8 +45 259→304 1986自民/中曾根康弘
9 +41 98→129 2000民主/鳩山由紀夫
10 +38 0→38 1993日新/細川護煕
11 +31 4→35 1949共産/紱田球一
12 +29 258→287 1980自民/(大平正芳)選挙中死去により西村英一が代行
13 +29 151→180 2003民主+/菅直人(自由から22)
14 +28 90→118 1972社会/成田知巳
15 +27 29→56 1976公明/竹入義勝
16 +26 14→40 1972共産+/野坂参三(沖縄人民から1)
例の郵政解散など、ワーストに比べて自民が上位に食い込んでいる。
保守合同以前の保守政党が上位にいるのも特徴。
また社会の乱高下も読み取れる。
153 名前:名無しさん[] 投稿日:2009/05/16(土) 13:44:55
>>151
に自民党が
>>152
に民主党がランクインするのは間違いない
304
:
千葉9区
:2009/06/01(月) 22:32:20
http://www.asahi.com/international/update/0601/TKY200906010354.html
タイタニック号、最後の生存者死亡 97歳の英国女性
2009年6月1日20時25分
【ロンドン=土佐茂生】1912年に大西洋で沈没し、1500人以上の犠牲者を出した英豪華客船「タイタニック号」の最後の生存者ミルビナ・ディーンさんが5月31日、英南部サウサンプトンの介護施設で死去した。97歳だった。英メディアによると、最近、肺炎を患っていた。
1912年2月英国生まれのディーンさんは生後9週だった同年4月、両親が米カンザス州に移ってたばこ屋を開くために、タイタニック号の3等客室に乗った。
船が氷山にぶつかる音に気付いた父の指示で客室から甲板に上がった母や兄に連れられ、救命ボートで脱出して助かったという。船に残った父は死亡した。
晩年は入居していた介護施設の料金月3千ポンド(約46万円)の工面に苦労し、救助後に与えられた救援物資の入ったスーツケースなど、思い出の品をオークションに出した。このため、映画「タイタニック」に出演したレオナルド・ディカプリオさんやケイト・ウィンスレットさんが支援を約束していた。
305
:
とはずがたり
:2009/06/07(日) 22:51:46
NHKでやってますけど,愛国婦人会と国防婦人会は仲が悪くて悪口言い合ったりして戦争への貢献度を競い合ったそうです。
それらを統合して大日本婦人会となったそうな。
●婦人会 ふじんかい
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P330C100.HTM
アジア 日本 AD
婦人会の先駆者は奥村五百子で,軍人遺族の救護事業を目的として愛国婦人会を組織したことに始まる。
【奥村五百子】明治期の国粋・軍国主義に則った婦人運動家。1845年(弘化2)唐津の本願寺派高徳寺住職の長女として生まれる。17,8歳のころ,父兄の尊王攘夷運動を助け男装して萩藩への使者役を務めたこともあった。22歳で福成寺の住職と結婚したが死別し,のち水戸浪士鯉淵彦五郎と再婚。維新後江藤新平を支持し征韓論に賛同,大陸に関心をもつ。1887年(明治20)離婚し政治社会問題に没頭する。1894年(明治27)初めて朝鮮に渡り,日清戦争を経て再三朝鮮を訪れ同29年光州に実業学校を創設,子女の教育に尽力した。北清事変が起き日露戦争へと突入するなか,わが国の将兵が辛苦をなめる状況を視察し,全国の婦人が半襟一つを節約すれば軍人の援護は可能であると訴え,1901年(明治34)愛国婦人会を設立した。1907年(明治40)没。享年63歳。
【愛国婦人会】1901年(明治34)貴族院議長近衛篤麿の後援により,岩倉久子を初代会長として創立。総裁や名誉会長に皇族を頼み,会長・役員に華族や名流婦人を推し,上流婦人のみを対象とした構成であった。その数は1万3,000人にものぼり,日露戦争を契機に大飛躍を遂げ会員の人数も46万人と増大した。女性の戦争への協力を訴え,慰問団を満州に派遣するなど愛国思想を広めた。戦後は戦死者の遺族・傷病軍人の救護などの活動のほか,農村託児所をつくるなどの社会事業にも手を広げた。1917年(大正6)には事業範囲はさらに広がり,婦人の知識・道徳を高めるという婦人報国運動を起こした。昭和12年には会員数380万人となり,本部支部が台湾・朝鮮にも設けられた。このころ愛国婦人会と同様の趣旨で組織された婦人会に大日本国防婦人会・大日本連合婦人会があった。大日本連合婦人会は1931年(昭和6),文部省によって地域婦人団体(主として農村の女性)を統合した形で結成された。
【大日本国防婦人会】翌1932年,大阪で国防婦人会が結成され次いで東京でも結成された。1934年(昭和9)には大阪・東京の組織を統合した。会長には武藤能婦子がなり,愛国婦人会が上流社会の女性達によって組織されていたのに対し,陸軍・海軍大臣などの現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督のもとで後援を受けた。結成時の会員数は750万人であったが,1941年(昭和16)には1,000万人になっていた。会の目的は愛国婦人会と同じく戦時体制のもとでの婦人の国家への協力を促し,傷痍軍人や遺族の後援・慰問品の募集,さらには防空訓練を行い銃後を守るというものであった。こうした婦人会の活動のなかで,時局はますます戦闘の色を濃くしていき1941年太平洋戦争へと突き進んでいった。当局は非常事態を乗り切るため国民の大統一化をもくろみ,各婦人会を解散させ改めて一つの団体として統合させた。
【大日本婦人会】1942年(昭和17),太平洋戦争中に政府によって結成された婦人会の統合組織。国家への奉仕という精神に基づき,軍部・官庁の監督下で,軍人の援助・防空訓練を積極的に行うことはもちろんのこと,廃品の回収による節約,貯蓄の強化などの活動を行った。20歳以上の婦人をすべて強制加入させ,賛沢は敵とする集団活動は,婦人同士の行動を戒める方向へ向かい,共同意識を高めるとともに戦時下を婦人の手で守り抜くという体制翼賛運動を展開した。しかしその反面体制への批判・不満などを口にする者は即座に非国民のレッテルをはられ,さらには生活上の細部に至るまで統制する結果も招いた。1945年(昭和20),大日本婦人会は国民義勇隊に改編した。しかし戦争終結とともに解散しここに軍国主義的国策に沿った婦人団体は姿を消した。ただ婦人会としては家庭の主婦が協力し合い,平和を願う基本方針のもとに地域社会を形成する団体として,1952年(昭和27)に全国地域婦人団体連合会が結成され,現在に至っている。
306
:
とはずがたり
:2009/06/16(火) 02:53:47
韓国人だと捏造だとかファビョるネトウヨですが豪州人ですぞw
元捕虜「麻生首相は謝罪して」 旧麻生鉱業で炭鉱使役
http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009061501000678.html
第2次世界大戦中、麻生太郎首相の父が経営していた旧麻生鉱業の吉隈炭鉱(福岡県桂川町)で使役されていた元連合国軍捕虜のオーストラリア人男性らが来日、同県飯塚市で15日記者会見し「わたしたちに与えた苦しみに対し、麻生首相は国を代表し謝罪していただきたい」と訴えた。
来日したのは元捕虜のジョセフ・クームズさん(88)と息子2人、英国人捕虜だった故パトリック・マクアナルティさんの息子ジェームスさん(62)の計4人。16日に首相の親族が経営する麻生グループの親会社「麻生」(飯塚市)や吉隈炭鉱跡などを訪問する。
クームズさんは1945年5〜8月に吉隈炭鉱で労働。「落盤事故が相次ぎ恐ろしかった。12時間もの重労働と粗末な食事のために両ひざを痛めた」と振り返った。首相に謝罪と補償を求める手紙を何度も送ったが返事がなく「奴隷のような労働をさせられた事実を認めてほしい」と訴えた。
2009/06/15 19:22 【共同通信】
308
:
とはずがたり
:2009/06/19(金) 00:30:14
別に乱を起こしたから賊だなんて思うべきではないと思う。政治なんてその時々の為政者の都合の良いように書かれるわけだし。反乱軍は印象が悪いという印象論の方を教育すべきかもしれぬ。日華事変を日中戦争,大東亜戦争を太平洋戦争としてイデオロギーを排したように佐賀の乱も佐賀戦争とすべきなのかもしれんね。西南戦争は最初から西南戦争だったんでしょうかね。
「佐賀の乱」にわかに地元白熱 「乱じゃない、戦争だ」
http://www.asahi.com/national/update/0612/SEB200906110032.html
2009年6月15日16時37分
明治政府樹立後の士族の反乱のうち、佐賀藩出身の江藤新平を中心におきた「佐賀の乱」について、「国を乱したという印象を持たれる。表現を改めるべきだ」という意見が地元で持ち上がっている。新平は「首謀者」として処刑されたが、「新政府に仕組まれた戦争」とする学説も登場。歴史教科書の表記をめぐっても議論が起きている。
11日の佐賀市議会。自民党系の市議が「中学校の歴史教科書の図表に『佐賀の乱』と記されている。印象が悪く放置できない。『佐賀の役』などと改訂を求めて運動すべきではないか」と質問。田部井洋文教育長は「授業で使う資料集では、最近の研究で佐賀の乱に新しい見方が出てきていることを紹介している。諸説ある中で史実を多面的に教えている」と答えた。
論争の火付け役は「幕末維新と佐賀藩」(中公新書)などの著書がある毛利敏彦・大阪市立大名誉教授(76)。4月に佐賀市内であった講演では、佐賀の乱を不平士族の反乱とする通説に対し、「大久保利通が一方的に仕掛けた」との自説を紹介した。
ただ、「乱」を「役」に改めるのには否定的。「『役』という言葉は国家権力の発動によって人民に無理を強いること。史実からすれば、中立的に『佐賀戦争』と言うべきだ」と話している。
佐賀市内で毎年開かれる新平らの慰霊祭では「佐賀の役」と呼ばれ、「佐賀の役記念碑」もある。新平のひ孫の江藤兵部さん(69)=埼玉県=は「小さな頃から佐賀の乱と言われ続けてきたが、事実と違うという研究が進んできた。子孫の一人としてはありがたい話で、歴史認識を改めるきっかけにしてほしい」と話す。(白石昌幸)
〈佐賀の乱〉 1874(明治7)年、明治政府の改革に不満を募らせた士族が起こした最初の反乱。政府軍が鎮圧し、明治政府の初代司法卿を務めた江藤新平、秋田県令(知事)を務めた島義勇(よしたけ)らが処刑された。これ以後、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争と、西日本各地で士族の反乱が相次いだ。
309
:
名無しさん
:2009/06/19(金) 02:09:30
>>308
「乱」を起こしたことに誇りを持って欲しいですね。
というか「大久保利通が一方的に仕掛けた」という説が事実なら、
江藤新平はカッコ悪いと思うんですが…
310
:
とはずがたり
:2009/06/19(金) 03:57:27
>>309
ですよね〜。
けど保守地盤の佐賀としてはややいたたまれない部分もあるんでしょうかねぇ。
大久保の挑発に乗せられたって部分はあるのかな,と云う気もしますが,当時の士族の不満は可成りのものだったでしょうから江藤としてはやむにやまれぬ心境だったのかもしれませんね。
司法の整備に力を注いだ元司法卿が叛乱の大逆を御犯す訳ですからさぞかし心中複雑であったかと思います。
311
:
千葉9区
:2009/06/21(日) 17:49:27
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-06-20-M_1-025-1_001.html?PSID=a12b3b95c354dfb914d0ea98f29a8692
「軽便」糸満駅確認 鉄道ファン、住宅密集地で/「戦禍免れ現存 驚き」
手洗いに弾痕も
【糸満】沖縄戦で破壊された軽便鉄道の糸満駅の一部とみられる建造物が糸満市照屋の住宅密集地に現存していることが19日までに分かった。元県立図書館館長の金城功さん(76)=那覇市=ら鉄道ファンのグループが調査し、トイレと浴室だった建物の下部部分を確認した。同鉄道の施設で現存しているのはほかに与那原町に1カ所のみ。糸満駅周辺は沖縄戦の激戦地で、金城さんは「あの戦争で破壊をまぬがれ、戦後60年余りも残っているのは驚き」と話している。(与那嶺功)
現存するトイレには、弾痕や便器、男性用小便器の間仕切り、排水用の穴などがみえる。浴室は職員用だったとみられる。戦後、上部が増築され、しばらく住民が利用していたという。
近くに住み、戦前の一帯をよく知るという伊敷喜栄さん(71)は「駅舎があった場所で、すぐ横をレールが走っていた。トイレだったのは間違いない」と話している。
調査に加わった桃坂豊さん(48)(福岡県文化財保護指導委員)は「今回の確認で、糸満駅の場所が特定できた。銃弾の跡が痛々しく、戦争遺跡でもある」と感慨深げ。
金城さんは「行政が標識などを立て、歴史的意義を広く知らせてほしい」と要望している。
軽便鉄道の施設では、JAおきなわ与那原支店の1階壁に、旧駅舎の一部分が再利用されている。
312
:
とはずがたり
:2009/06/27(土) 15:22:02
左の日本が悪い,右の日本は悪くないと云う対立は不毛である。日本も英米も悪な訳である。
まあ実際に東京の非戦闘民を攻撃したのはアメリカだけど。
英、第二次大戦中に東京の毒ガス攻撃を検討 文書公開
2009.6.27 11:34
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090627/erp0906271135005-n1.htm
第2次世界大戦中の1944年に英当局が東京への大規模な毒ガス攻撃を検討していたことを示す文書が英国で公開された。英紙タイムズ(電子版)が26日に報じた。
タイムズによると、英政府の研究者は1944年5月の「ガス爆弾による東京攻撃」と題された文書で、英軍から提供を受けた東京の写真や情報に基づき、ホスゲンとマスタードガスの2種類の毒ガスを使った効果的な攻撃を分析した。
毒ガスの使用時期については、夏の大雨の合間を縫って攻撃できるのであれば「(冬より)夏の方が良い」と指摘。
また東京の住宅密集地域の道路は狭く、ガスの流れが阻害されるため「極めて多くの小型(毒ガス)爆弾」の使用を提言した。
東京への攻撃は、まず最初に焼夷(しょうい)弾を使って木造住宅が密集する地域で火災を起こした後で、近代的な建物が多い地域で、毒ガス攻撃を行うのが最も良い方法だとした。(共同)
313
:
小説吉田学校読者
:2009/08/09(日) 00:59:52
インパール作戦は何のためだったのか。私も現代史の本は結構読んでるつもりだが、本当に何のためだったのか。
語り継ぐ夏:09京都/2 インパール作戦に従軍した桑原眞一さん /京都
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20090807ddlk26040537000c.html
◇戦友慰霊が役目、鎮魂の五条通復元図作り−−桑原眞一さん(87)=下京区
「目の前で多くの仲間が倒れた。目玉が飛び出たり、腕を失ったり。即死もしょっちゅうだった。それでも怖いとか可哀そうとか考える余裕はなかった」。ずさんな計画で約7万人もの戦死・傷病者を出し、日本陸軍瓦解の発端とも言われるインパール作戦に従軍。何度も死線を越えた。
赤紙が届いたのは大学在学中の1941年12月。入隊後、大隊砲を任された。中国・南京西方で揚子江沿いの警備を約1年務め、ベトナム、カンボジア、タイへと転戦。中国への補給ルートを断つため、数カ月の行軍を経て44年2月末、インド北東部のインパールに着いた。
ここで、小銃隊はそれぞれ通常の2倍を超える20日分の米や乾パンなど食料と弾薬360発を持たされ、英印軍掃討のため、山間部の移動を繰り返した。戦況は泥沼。5月末には大隊砲の弾薬が尽き、戦闘だけでなく、飢えやマラリアで仲間がばたばた倒れた。
「時には敵と鉢合わせになり、手投げ弾でやり合った。迫撃砲がすぐそばの樹木に当たって爆発し、仲間が吹き飛ばされたこともある。毎日夕方の点呼の度、戦友が一人、また一人と減っていった」。自身もその後、イラワジ川会戦で迫撃砲の破片が左腰部分を直撃。命に別条なかったのが不思議なくらいだという。
そして、タイのノンプラドクで45年8月15日を迎えた。連隊長が停戦を命じ「次の命令があるから兵器を手入れしておくこと」と指示。すぐに敗戦のうわさが広がった。同月30日「敵に取られるよりはまし」と軍旗を「奉焼」した時、はっきり負けを悟った。全員ボロボロ泣いた。
それから約10カ月、英印軍の捕虜としてタイの兵舎で過ごし、46年6月に復員した。生まれ育った下京区の五条通かいわいでは「建物疎開」があり、空襲の延焼を防ぐため、以前の自宅は強制的に取り壊されていた。
多くの戦友の死を看(み)取った戦場から帰ってみれば、同じ小学校区から出征した同部隊の10人の中で生き残ったのは自分1人。仲間たちの死に対し、何もできないことを悔やんできたが、地元で07年8月に始まった五条通の復元図作りに加わり、少し当時を振り返る心の余裕ができた。
「通りを歩くと、どうしても昔を思い出す。戦友を慰霊することが生きて帰った自分の役目。地図を作ることで戦友らをしのぶ気持ちもあったんです」
その“成果”は9日まで立命館大学国際平和ミュージアム(北区)で展示されている。
314
:
とはずがたり
:2009/09/01(火) 10:22:28
【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 「リベラル政権」の桎梏忘れるな
2009.9.1 02:58
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090901/stt0909010259002-n1.htm
≪政策変更には長大な時間≫
「一利を興すは一害を除くに如かず。一事を生(ふ)やすは一事を省くに如かず」という政治の要諦は、ジンギスカンに仕え、ユーラシア大陸空前絶後の大帝国である元帝国の基礎を築いた大宰相、耶律楚材(やりつそざい)の千古の名言である。
民主党新政権の発足を控えて、私がこの言葉を引用したいのには二つの理由がある。一つは過去のリベラルな政権が遺したものが長く日本国民の桎梏(しっこく)となった例があまりに多いからである。
民主党がリベラルな政権であるかどうかは今の時点ではよく分からない。ただ、民主党の中には左翼リベラルの流れを汲む人々が少なくないのも事実である。
戦後日本でリベラルあるいは左翼的な政権と言えば、三木、細川、村山、宮沢各内閣であろう。
三木内閣の残したものの中で、F−4戦闘機から空中給油能力を外したのを復元するのにはF−15の発注まで待たねばならなかった。防衛費の1%の枠を外すのには中曽根内閣まで10年を要した。武器輸出三原則の拡大解釈は三十余年を経ても今なお日米同盟の障害である。
また、三木総理が自分の靖国参拝を「個人の資格」でと言った結果、天皇の行事には公私の区別をつけるのが難しいので、戦没者慰霊のために戦後欠かさず続けられていた天皇陛下の靖国参拝がそれ以来妨げられている。それは、韓国、中国の反対で靖国が国際政治問題化する10年前の話である。
≪「自民党単独」の残滓も≫
細川内閣はさして負の遺産は残していない。1994年の北朝鮮核危機で日米間に不協和音が生じる恐れがあったが、内閣は自ら退陣して同盟の危機を避けた。それはそれなりに日本の国益に沿った立派な出処進退だったと思う。
村山内閣が、国会の多数の支持もないまま、一方的に発した村山談話が、その後日本外交に及ぼした足かせについては今更言うまでもない。
他に鈴木政権の教科書問題の時の宮沢官房長官談話、そして宮沢内閣の時の従軍慰安婦に関する河野談話は長く傷痕を残した。
315
:
とはずがたり
:2009/09/01(火) 10:22:49
>>314-315
民主党政権は心して、このような後世の手を縛る一事を生むことを慎んでほしい。非核三原則の法制化などは、万一の場合によっては、国民に惨害をもたらす可能性をよく考えてほしい。党内の良識派も監視機能を発揮してほしいし、また、三木、村山政権と違うのは自民党という強力な野党が存在していることであり、自民党は国会で、そういう余計な一害が生じるのを避けるよう十分なチェック機能を働かしてほしい。
他方、省くべき一事としては、自民党支配半世紀の残滓(ざんし)は少なくない。
ただし、外交安保政策においては、他国との信頼関係維持のために、政権が代わっても一貫性が保たれるべきことは鉄則である。現に村山内閣といえども、就任早々日米同盟“堅持”の大原則を声明した。インド洋海上補給などは、民主党も支持している日米同盟の維持強化のための政策であり、省くべき一事とは性質が違う。
≪集団的自衛権に突破口を≫
しかし、むしろ同盟の信頼関係強化を損ねるような、自民党単独支配の残滓がある。その整理を民主党政権にお願いするスジかどうかわからないが、政権が代わったときこそかかる堆積(たいせき)物を整理する機会であり、そうでなければ、二大政党交代の意味がない。
その堆積物の最たるものは、集団的自衛権の行使は許されないという政府解釈である。
そもそも憲法の解釈権は、政府でなく、裁判所にあると憲法に書いてある。まして、国会が批准し、憲法が遵守義務を定めている国連憲章などの条約に明記してあるのだから、日本にはその権利がある。権利があって、その行使が許されないなどという解釈は法治国家ではあり得ないことである。
実は、選挙戦中の自民、民主の政策論争を通じて、集団的自衛権問題の一つの突破口が見えて来たかもしれないのである。
それは自民党のマニフェストが集団的自衛権という言葉を使わず、単に、日本を守っている米国を攻撃するミサイルを撃ち落とす、共同行動をしている米艦を守るという、常識で反対出来ない問題提起の仕方をしたからである。
もともと集団的自衛権が憲法問題だというのは、こじつけが重なって出来た解釈である。裁判所の有権解釈はすでに日本固有の自衛権を認めているし、集団と個別の間に線など引いていない。
民主党も、これは憲法問題とは無関係で、ただ日本国民の安全を守るにはどうするかという行政府の政策の問題だと割り切れば、それこそ自民党支配半世紀の残滓を一挙に解決することになる。
どうしても行使したくなければ、法的問題としてではなく民主党政権の間は政策として行使しないと言えば良いだけの話である。ただ、不測の事態を考えれば、それも言ってほしくはない。
とにかく国民の安全に一害を加えるのを厳に慎むことである。(おかざき ひさひこ)
316
:
とはずがたり
:2009/09/15(火) 22:13:33
<河村名古屋市長>南京大虐殺「誤解されて伝わっている」 (毎日新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_takashi_kawamura__20090915_6/story/15mainichiF0915e071/
名古屋市の河村たかし市長は15日開かれた市議会9月定例会の一般質問で、1937年の南京大虐殺事件について、30万人以上が死亡したとする説について、「当時の南京の人口より多いので絶対違う」と否定し、「一般的な戦闘行為はあったが、誤解されて伝わっているのではないか」などと述べた。
河村市長は「おやじは終戦を南京で迎えた。南京の人に本当に優しくしてもらい、名古屋に帰ることができたと言っていた。30万人の虐殺があったら8年後に南京の人が優しくしてくれるのか」と疑問視。「一般的な戦闘行為で市民が亡くなったことはあった。捕虜収容所で放火があって市民が亡くなったり、残っている日本人を逃がそうとして銃撃戦になり、市民が亡くなった。そういうものが誤解されて伝わっているのではないか。事件そのものについて日中友好のためにきちんと検証し直す必要がある」となどと述べた。
東郷哲也議員(自民)の市長の歴史認識を問う質問に答えた。
河村市長は議会後、発言の真意について「日中友好を深めるため、正確なことを調べた方がいい。(死者数は)30万人説があれば、25万、3万もある。国会議員時代にも質問主意書を出している」などと語った。
河村市長は著書の中で、「南京大虐殺は国民党のプロパガンダだったかもしれないとか言っていると、『河村たかしは陰謀史観』とかいう声が聞こえてくる。ワシは特別変わったことを言っているわけではない」などと記している。
衆院議員時代の06年には、政府に対し「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」を提出。教科書などに「市民や捕虜の殺害」などが記載されている根拠や、政府見解を改めてただした。当時の小泉内閣は「1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害または略奪行為等があったことは否定できないと考えている」と答弁書を出した。【月足寛樹、丸山進】
[毎日新聞9月15日]
[ 2009年9月15日14時14分 ]
317
:
とはずがたり
:2009/10/04(日) 04:33:49
506 名前:無党派さん[] 投稿日:2009/10/02(金) 17:26:42 ID:0wwy023u
この前の「たかじんのそこまで言って委員会」で三宅久之が麻生と会って話した体験から、
言ってたけど、麻生はもの凄い楽観主義者で「もうすぐ給付金が国民に行き渡るから、
支持率は上がりますよ」みたいな態度だったそうだ。東條とそっくり。
東条英機首相
「大詔を拝し奉りて」
《およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、
我等は、未だ嘗つて戦ひに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる
強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。》
なかなか辞めようとしないところもそっくり。東條暗殺計画を相談された石原莞爾はそれに
賛同し、「あいつは殺しでもしない限り辞めないやつだ」と言ったそうだ。
そして、玉砕。
むかし東條、いま麻生w
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1246372643/84-86
318
:
とはずがたり
:2009/10/25(日) 00:53:11
西松建設が基金設立で和解 中国人強制労働、謝罪も
10/23 12:36
http://www.shizushin.com/news/social/national/2009102301000020.htm
太平洋戦争中に強制連行され、過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者ら5人が西松建設(東京)に1人550万円の賠償を求めた訴訟をめぐり、同社は23日、2億5千万円を信託して被害救済に向けた基金を設立し、謝罪することなどを条件に原告側と東京簡裁で和解した。
訴訟自体は2007年に最高裁で元労働者側の敗訴が確定したが、この判決が「被害者らの精神、肉体的苦痛は大きく、関係者には被害救済に向けた努力が期待される」と指摘したことを受けて、双方が協議。今回、訴訟とは別の「即決和解」手続きを取った。
戦後補償訴訟で、賠償責任を否定された企業側が自主的に金銭補償に応じるのは異例。同種裁判でのほかの被告企業にも影響を与えそうだ。
和解条項によると、西松側は強制連行の事実を認めた上で、企業としての歴史的責任を認識し、元労働者側に謝罪の意を表明。広島県安芸太田町の安野発電所建設工事に携わった原告ら360人の中国人元労働者を対象に、2億5千万円の「西松安野友好基金」を設立するほか、後世の教育のため記念碑を建立する。
元労働者らは1998年に提訴し、一審広島地裁で元労働者側が敗訴したが、二審広島高裁で逆転勝訴。最高裁判決は「日中共同声明で個人の賠償請求権は放棄された」として請求を棄却した。
西松側は、今年発覚したダミー団体による政治資金規正法違反事件を踏まえ「会社の今までの問題を見直す一環」として和解に取り組み、新潟県での強制労働をめぐる訴訟でも同様の和解を検討している。
319
:
とはずがたり
:2009/10/25(日) 16:33:35
英国で「佐賀の乱」公文書発見 駐日大使が母国に報告
鹿島出身の徳本栄一郎さん発見
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1455771.article.html
明治政府に対する士族の反乱とされる「佐賀の乱」(1874年・明治7年)について記述したイギリスの公文書が英公文書館で見つかった。当時の駐日大使が英政府に送った報告書で、24枚の文書には佐賀の乱を単なる一地方の反乱ではなく、「明治新政府内の対立を背景にしたもので、結末に不満もあり、政府は信頼を回復していない」という内容が書かれている。外国高官の目で佐賀の乱を分析した貴重な史料といえる。
鹿島市出身のジャーナリスト徳本栄一郎氏(45)が今年6月、ロンドン郊外の公文書館で日本関連文書を閲覧して見つけた。佐賀の乱に関する外国公文書の発見は初めてとみられる。
報告書は1874年4月25日付で、幕末から着任していたハリー・パークス大使が英外務大臣あてに送っている。首謀者とされる江藤新平の処刑日から12日後の日付になる。
徳本氏によると、報告書は裁判の様子を記して「死刑に加えて江藤前法務卿と島(義勇)らはさらし首にされた。この判決は大きな不満も呼んでいるようだ」と指摘。政府軍に反抗した榎本武揚が後に特赦で要職に就いた例と比較して刑が重すぎるという意見を紹介、「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と分析している。
さらに大蔵卿大隈重信らの辞任や、鎮圧を指揮した内務卿大久保利通の動きを報告し、「新政府が分裂し、人々は個人的感情が(江藤処刑に)復讐の性格を与えたと考えているようだ」としている。
「佐賀の乱」をめぐっては、明治政府に不満を募らせた佐賀の士族が起こした反乱という通説に対し、明治維新史に詳しい毛利敏彦大阪市立大名誉教授は、大久保による謀略説を主張している。
県内でも初代司法卿で「人権の父」といわれた江藤が、功績に比べて不当な評価を受けているとし、「佐賀戦争」や「佐賀の役」と呼称変更を求める意見がある。佐賀市議会でも6月議会で中学歴史教科書の表記をめぐり議論した。
それらの議論に関心を持った徳本氏が、英国通信社勤務時から活用している英国公文書館に関連資料がないか調べた。
徳本氏は「英政府が維新直後で不安定な日本の情勢を気にしていたことがうかがえる。佐賀の乱が内乱に発展し、英国にとっても対日貿易で不利益を受けることを懸念していたのではないか。歴史を内側だけでなく、外からの視点でみることも大事だと思った」と話している。
【写真】「佐賀の乱」に関する報告書が見つかった1870年代の日本関連ファイル=英国公文書館で徳本栄一郎氏撮影
2009年10月25日更新
320
:
とはずがたり
:2009/10/29(木) 09:44:34
歴史と云うには生臭いけど。
中曽根事務所が閉鎖へ 政治史の舞台また一つ消え
2009.10.29 01:10
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091029/stt0910290112000-n1.htm
国会近くの東京・平河町にある中曽根康弘元首相の個人事務所が今年中に閉鎖されることが28日、わかった。来年からは中曽根氏が会長を務める世界平和研究所(東京・虎ノ門)に拠点を移し、政治活動を続けるというが、自民党の一時代を築いた政治史の舞台がまた一つ消える。
中曽根氏の事務所がある「砂防会館」は、田中角栄元首相が率いる田中派(木曜クラブ)の本拠地だったことで知られ、現在も伊吹派(志帥会)や二階派(新しい波)が事務所を置く。
中曽根氏がここに事務所を構えたのは昭和42年。53年から同じフロアの現在の場所に移し、30年以上政治活動の拠点としてきた。
57年秋には自民党内で浮上した「中曽根総理、福田赳夫総裁」の「総総分離論」をけり、総裁選の予備選が実施された。中曽根内閣発足までの間の中曽根氏の一挙手一投足が注目され、事務所は中曽根派議員やメディア関係者で昼夜を分かたずごった返した。
首相在任中は首相官邸や自民党本部を拠点にしたが、退任すると再び事務所に戻り、ゴルバチョフ元ソ連大統領や全斗煥元韓国大統領ら多くの外国要人を迎えたほか、政局の節目では自民党の大物・中堅議員が常に出入りした。
平成15年の衆院選前には、当時の小泉純一郎首相が事務所を訪問し、引退を勧告。中曽根氏は「政治的テロみたいなものだ」と怒りを爆発させた。結局、56年にわたる議員生活から退いたが、その後も事務所で政治活動を続けてきた。
ただ、中曽根氏も91歳。政権交代により、自らも若手議員として首相に担ぎ出した故鳩山一郎氏の孫、鳩山由紀夫氏が首相になったことも一つの区切りと感じたようだ。今後は政党色を薄め、世界平和研で外交や経済の政策研究に力を入れる考えだという。
321
:
とはずがたり
:2009/11/29(日) 03:57:10
森繁のお尻と角栄のカネかw
面白い話しなんでこっちにも転載しておきます。
近聞遠見:田英夫がもらした「秘話」=岩見隆夫
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1215411124/63
佐藤政権末期、田中は通産相のポストにいたという。1971年夏ごろと思われる。田はTBSを退社し、社会党から参院選全国区に出馬、192万票の大量得票でトップ当選した直後だ。
その日、田は陳情ごとがあって大臣室を訪ねた。田中は話題の人物を機嫌良く迎え入れ、
「よし、よし、わかった」
とつぶやきながら、かたわらの紙片にメモし、やおら、
「おーい、次っ」
と大声をあげた。田が、
「じゃあ、大臣、よろしく」
と腰を浮かしかけた、その時だ。田中の右手がさっと伸び、田のスーツの内ポケットに札束らしいものを突っ込んだ。早業である。とっさにこれはまずい、と思ったが、すでに大臣室のドアがあいて、次の陳情客が入りかけていた。返すに返せない。
「カネはあって邪魔にならんよ」
と田中の低い声を背中に聞きながら、田は辞去するしかなかった−−。
帰ってみると、札束は100万円だった。
「あの人、すごいねえ。あれ瞬間芸ですよ。あとに嫌な感じがまったく残らないんだなあ」
と田は言った。そんな田中に感服したような口ぶりだった。そうかもしれないな、と当方も共感した覚えがある。
この密室のエピソード、田は文字になるはずがないと信じたからこそ打ち明けたのだろう。だから、当方も長年、暗黙の約束を守ってきた。
だが、亡くなったいま、<戦後政治のひとコマ>である貴重な証言を書くことを、田は許してくれると思う。
当時、革新陣営の花形選手だった田に、首相の座が間近の保守実力者が現金を渡す。あのころの100万円は小さい額ではない。
もしその時点で暴露されていたら、田中は首相のチャンスを失っていただろう。だが、そうならない確信が田中にはあった。何万回か、カネを渡してきた経験から、<カネと人間>の機微を熟知していたからだ。
田が残していった秘話を書くべきかどうか、同僚に相談した時、
「角さんは政界のモリシゲ(森繁久弥)じゃないの。モリシゲは女優のお尻を触るのが常習だったが、だれも文句を言わなかった。角さんも相手に抵抗なくカネを渡す術にたけていたということだ」
と面白いことを言った。そんなところだろう。角栄・モリシゲの時代は遠くなった、という感慨もある。
322
:
とはずがたり
:2009/12/08(火) 02:24:59
陸軍中将が開戦直後に太平洋戦争批判 部下を前に演説
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2009120790091245.html
2009年12月7日 09時41分
太平洋戦争開戦から間もない昭和16(1941)年12月末、中国・徐州に進駐していた陸軍第17師団の師団長だった平林盛人中将が部下の将校を集め、痛烈に開戦を批判する演説をしていたことが、元部下2人の証言で明らかになった。将校らは「他言無用」と申し合わせ、発言は表面化しなかったという。8日で開戦から68年。平林の危惧(きぐ)した通り、日本は戦争の泥沼に入り込み、日本人だけで300万人以上の命が失われた。
平林の発言を証言したのは、元副官で蓮光寺住職の平谷典樹さん(94)=兵庫県太子町=と、元主計将校で飯野海運元社長の風早英雄さん(97)=東京都目黒区。中でも平谷さんは、起居を共にする一番の側近だった。
2人の元将校の証言によると、平林の発言があったのは、掃討作戦などから徐州の師団本部に戻ってほどない昭和16年12月29日の将校昼食会の席。40人ほどの将校が出席し、食事を済ませると、平林がいつになく険しい表情で話し始めた。
「現在の日本の戦力では、対米英軍相手に干戈(かんか)(いくさ)を交えても、絶対に勝てる見込みはない。真珠湾の奇襲で寝込みを襲い、戦果を挙げたかもしれないが、1年足らずで劣勢に追い込まれ、やがて敗戦に至るだろう」
「装備劣勢の日本軍が近代戦を戦えないことは、先の(ソ連に惨敗した)ノモンハン戦で立証済みである」
「泥沼化している中国戦線を未解決のまま米英軍を相手に戦う余力は、今の日本にはない。負け戦と分かっている戦争は、絶対にやってはならない」
平林はこのように戦争の成り行きを予言。開戦を激しい調子で批判したという。
さらに当時の東条英機首相について「本来憲兵司令官を最後に予備役に編入せらるべき人物で、陸軍大臣、総理大臣の器ではない。この難局を処理する能力など持っていない」と厳しく指弾した。
話を聞いたときの衝撃を、平谷さんは「負けるとは考えもしておらず、みんなしゅんとしていました」と振り返る。風早さんは「びっくりしました。この話はなかったことにしようと、皆で話し合いました」と話した。
平林は東条と気が合わなかったとされ、約1年後、師団長の任を解かれて予備役となった。その後、長野県松本市長となったが、任期途中で再任用され、長野師管区司令官として同県松代町(現長野市)の地下壕(ごう)に首都機能を移す「松代大本営」の建設などに携わり、終戦を迎えた。
解説
(中日新聞)
◆<解説>「良識派」無視し破滅へ
海軍大将の山本五十六や陸軍中将の石原莞爾(開戦時は予備役)ら、対米英開戦に反対した軍幹部はいる。しかし開戦直後、部下を前に「聖戦」を真っ向から批判したのは、平林くらいのものだ。
当時の日本軍は真珠湾奇襲に成功し、東南アジアでも快進撃を続けていた。勝利を伝える国策報道の影響もあり、国民も前線の兵士も、対米英戦争の勝利を信じ切っていた。
そうした浮かれた気分に冷水を浴びせるような発言は、現在から見ると正当だが、当時としては「不見識」極まりなく、軍の秩序からすれば、到底許されない行為だった。
平林が発言をした背景には、もともと反りが合わず、無謀な戦争を始めた東条英機首相(当時)への憤怒があったとみられるが、それだけではない。
平林は参謀本部員当時、米国を研究する米班に所属し、東京外国語学校(現東京外国語大)で英語を学んだ後に1年間、欧米を視察旅行している。こうした経験などから、特に米国の軍事力を熟知しており、勝ち目はないと知っていた。
平林は陸軍士官学校同期の石原莞爾と親しく、戦線拡大に反対する石原の考えに共鳴していたこともある。
しかし、平林も石原も東条の手で予備役に退かされ、結局は開戦を止めることも、戦争を早く終わらせることもできなかった。
「良識派」の声を吸い上げるシステムを持たない国家は、声高に進軍を叫ぶ主戦派に誤導されるまま、破滅への道を進んだ。 (社会部・加古陽治)
323
:
荷主研究者
:2009/12/14(月) 00:36:26
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091208101.htm
2009年12月8日03時36分 北國新聞
小松の石切場に弾薬庫 大戦末期に使用
今も残る石切場の入口。大戦末期に火薬などが貯蔵されていた=小松市里川町
太平洋戦争の開戦から8日で68年。小松市北東部の石切場が第2次世界大戦末期、弾薬や航空燃料などの貯蔵庫に利用されていた。旧海軍の下士官で管理していた西川清則さん(85)=同市安宅町=ら複数の地元関係者が証言した。軍需物資の保管場所という機密情報の一端が明らかになった。
石川県立歴史博物館によると、旧日本軍は大戦末期、主に空襲を避けるため鉱山跡や石切場を地下軍事工場や弾薬庫として多用しており、県内でも金沢市額谷や小松市遊泉寺町など5カ所で確認されているという。
西川さんによると、1945(昭和20)年7月に小松市立明寺町や鵜川町に赴任した際、石切場と倉庫数棟にドラム缶約500本の航空燃料やメチルアルコール、海軍の制服や缶詰、鍋などが大量に保管されていた。ドラム缶は46年2月ごろ、県などに引き渡したという。
同市鵜川町の谷山喜二郎さん(86)は44年夏に倉庫の建設を開始、終戦後にドラム缶が運び出されるのを目撃した。旧海軍小松飛行場の滑走路は44年7月に完成しており、小松飛行場向けの物資だったとみられる。
西川さんは終戦後、上官から「約1・5キロ北にある里川町の石切場に弾薬が保管されていたが、七尾に運ばれ、海中に捨てた」と聞いた。45年10月ごろ、米兵6人が弾薬を捜索に来たが、西川さんは地上に点々と残る黄色い火薬を指して「どこかに運ばれ、もうない」と告げたという。
同市里川町の川本正芳さん(81)は44年、石切場に火薬を運び込む軍人を見たという。火薬は50〜60キロ入る木製の箱に納められており、川本さんは「全部で数十トンあったかもしれない」と話す。別の住民は「50年ごろ、海軍関係者の宿舎だった建物に直径25センチ、長さ70センチほどの砲弾があった」と証言。子どもが砲弾を持って落としたが、爆発しなかったという。
西川さんは戦犯になることを恐れ、家族以外に戦時中のことは伏せてきた。しかし戦争経験者が減っているため広く伝える決意をしたという西川さんは「戦争を起こさないように当時のことを伝えていきたい」と話した。
324
:
荷主研究者
:2009/12/14(月) 00:55:40
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091212102.htm
2009年12月12日03時52分 北國新聞
「異才」米山保三郎 漱石に文学勧め、子規に哲学断念させる
ドラマ化で再び脚光を浴びている司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」に、金沢出身の米山保三郎(やすさぶろう)なる人物が登場する。夏目漱石に作家の道を勧めたり、正岡子規は保三郎と出会ったことで哲学の道を断念したという。近代文学史に名を残す2人が、若き日に影響を受けた「異才」の実像を追うと、加賀藩の「算盤(そろばん)侍」の血脈が浮かび上がった。(本江亜珠佳)
訪れた金沢ふるさと偉人館で松田章一館長が膨大な資料とともに待っていてくれた。松田館長も今年初めから保三郎を調べていたという。金大教授も務めた大久保純一郎氏の「漱石とその思想」が詳しいと聞き、目を通す。驚くべき逸話が詳しく記されていた。
明治20年代、漱石、子規、保三郎は第一高等中学校(のちの旧制第一高等学校)で机を並べた。建築家を志していた漱石に対し、保三郎は「文学をやれ、文学なら勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作も出来るじゃないか」と説いたという。後に漱石はこの助言に深い感謝の念を示している。
保三郎は名作「吾輩は猫である」にも「天然居士(こじ)」として登場。漱石が「またとあるまじき大怪物」と評した手紙も残り、漱石研究者の間では名が通っているのだとか。
子規も、数理、哲理に長(た)けた保三郎との出会いに「四度驚かされた」と回想している。その衝撃は、子規が翌日の野球の試合に出場する元気を失わせるほどだったという。子規は哲学の道をあきらめ、国文科へ進んでいる。
「日本近代文学の波を変えた2人の青年の曲がり角に、保三郎は立っていたんです」。松田館長の口調は熱い。同郷として誇らしい気分になってきた。
こうなると気になるのは保三郎の出生だ。1869(明治2)年、金沢の旧本馬町(現野町2丁目)に生まれた。父は加賀藩の財政に携わった算用者。映画製作の進む磯田道史氏のベストセラー「武士の家計簿」で描かれた猪山家と同じ「算盤侍」だったのだ。
その血を受け継いだ保三郎は、東京帝大で哲学を学び、大学院では空間論を研究した。29歳で早世したが「長く生きていれば、西田幾多郎以上の哲学者になったかもしれない。何より、加賀藩の学力がいかに優れていたかを示している」と松田館長は指摘する。
保三郎との出会いがなかったら、漱石、子規はどんな道を歩み、近代日本文学はどうなっていたのか。郷土が生んだ「明治の群像」の1人として、保三郎の存在がすごく大きく見えた。
●夏目漱石(なつめそうせき)1867年東京生まれ。本名・金之助。1905年「吾輩は猫である」の連載を開始、06年「坊っちゃん」を発表。「三四郎」「こころ」など数々の名作を残した。「明暗」連載中の16年死去。
●正岡子規(まさおかしき)明治期を代表する俳人・歌人。1867年、現在の松山市生まれ。俳句雑誌「ホトトギス」などを通じて近代俳句を提唱し、短歌改革や写生文による文章革新運動など大きな足跡を残した。1902年死去。
325
:
チバQ
:2009/12/27(日) 01:34:15
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091226-OYT1T00850.htm
住友家、吉田茂、太宰…神奈川の「歴史」灰に
太宰治の小説「斜陽」の舞台となった神奈川県小田原市曽我谷津の別荘「雄山荘」が26日未明に全焼するなど、同県内で文化財や歴史的価値のある建物の火災が相次いでいる。
県内では2007年5月と08年1月、藤沢市の旧モーガン邸が2度全焼。09年3月には、横浜市戸塚区にある国重要文化財の旧住友家俣野別邸と、大磯町の吉田茂元首相旧邸が全焼した。
小田原署などによると、雄山荘は約10年前から空き家で通電されていない上、門の鍵はかかっておらず敷地内に自由に入れる状態だったことから、不審火の可能性が高いとみている。
雄山荘前の道路を毎日掃除していたという近所の主婦(70)は「太宰ゆかりの別荘が灰になり、悲しくて泣けてくる」と肩を落とした。
地元の「西さがみ文芸愛好会」代表代行の日達良文さん(78)は「5月に訪れた時には草ぼうぼうで、しゃれた別荘もすっかり朽ちていた。まさか火事で焼け落ちてしまうとは」と言葉を詰まらせた。
(2009年12月27日00時34分 読売新聞)
326
:
荷主研究者
:2009/12/30(水) 00:08:41
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200912170065.html
'09/12/17 中国新聞
土木遺産に呉・江田島の遺跡
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江田島市沖美町の旧三高山砲台と、呉市昭和町の旧呉鎮守府兵器部護岸関連施設の二つの戦争遺跡が、土木学会(東京都)の本年度選奨土木遺産に選ばれた。文化的価値のある近代土木構造物と評価され、両市は観光資源として活用する。授賞式は20日に広島市である。
旧三高山砲台は、軍港広島、呉へのバルチック艦隊入港を阻止するため、1901年に完成。国内最大級の砲台施設だったが、一度も使用されず、19年に廃止された。現在は森林公園として整備され、保存状態も良好なことが評価された。
旧呉鎮守府兵器部護岸関連施設は、1889年の旧日本海軍の呉鎮守府開庁後、約10年間で完成した石護岸。クレーンや軍港時代の施設が一式で保存されている。現在は「アレイからすこじま公園」として観光スポットになっている。
【写真説明】<上>森林公園の一部となっている旧三高山砲台<下>当時のクレーンも残る旧呉鎮守府兵器部護岸関連施設
327
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:38:23
いずれ歴史となりますのでここでよろしいでしょうか。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091230ddm010040078000c.html
重大ニュース2009:日本と世界を変えた1年(その1)
後世の歴史教科書に09年の出来事はどのように記述されるのだろうか。民主党が衆院選で圧勝、戦後憲政史上初という本格的な政権交代を果たした。オバマ米大統領は「核なき世界」を訴え、ノーベル平和賞を受賞。出口の見えない不況、新型インフルエンザの流行といった暗い話題にも事欠かなかったが、歴史の転換点かもしれない新たな動きがあったこの1年を振り返る。
◇民主党が政権奪取 自民が惨敗、下野
◇仕分け、ダムで論議 普天間は先送り
第45回衆院選(8月30日投開票)で、民主党は定数480のうち過半数を大幅に上回る308議席を獲得し、政権奪取を果たした。1955年の結党以来、一時期を除き、政権を担ってきた自民党は、議席を約3分の1に減らす大惨敗で下野。99年から10年続いた自民、公明両党の連立政権は崩壊した。
民主党の鳩山由紀夫代表は9月9日、社民党の福島瑞穂党首、国民新党の亀井静香代表と会談し、連立政権の樹立で合意した。鳩山氏は同16日に第93代首相に指名された。与党3党に無所属議員を含めると、参院で否決された法案を衆院で再可決できる320議席以上を有する「巨大与党」が誕生した。
鳩山首相は選挙など党務を取り仕切る党幹事長に、小沢一郎前代表を指名した。安定政権を目指し、10年夏の参院選での単独過半数獲得を狙う。一方、自民党は9月28日の総裁選で麻生太郎前首相の後継総裁に谷垣禎一元財務相を選び、党勢立て直しを急いでいる。
<政治主導掲げ>
9月16日に発足した鳩山新政権は、子ども手当など独自政策の財源捻出(ねんしゅつ)を狙った無駄遣い削減に一定程度成功する一方、米軍普天間飛行場(沖縄県)の移設問題では混乱の中にある。いずれも新政権がアピールする「政治主導」の結果だ。
鳩山政権はまず、麻生政権時代に組まれた約14兆円の09年度補正予算の一部執行停止に着手し、2・9兆円の支出を止めた。また、11月には10年度予算の概算要求などから449事業を抽出し、必要性を点検する「事業仕分け」を実施。1・9兆円を無駄と判じた。
こうした野党時代からの無駄の追及を貫く姿勢は、国民から広く支持された。八ッ場ダム(群馬県)を巡っては、就任初日に中止を明言した前原誠司国土交通相の手法が批判されたものの、その後、ダムや道路事業の見直しにつながっている。
一方、普天間問題は閣僚間の発言が食い違って混迷を深めており、民主党流の「政治主導」の負の側面が表れた。鳩山首相は衆院選前「少なくとも県外移設」と明言して沖縄県民に期待を抱かせる一方、オバマ米大統領には首脳会談で「私を信頼して」と伝えた。しかし、首相は年内決着を断念した。日米同盟の亀裂が懸念される中、着地点は見えない。
◇首相の元秘書起訴 献金偽装・虚偽記載、小沢氏秘書も
鳩山由紀夫首相と小沢一郎民主党幹事長の政治とカネの問題がクローズアップされた。
鳩山氏は6月30日、自分の資金管理団体の政治資金収支報告書に2177万円余の個人献金の偽装があったことを明らかにした。
その後、パーティー券収入などでも虚偽記載が判明、04〜08年の偽装総額は4億100万円に。原資は鳩山氏や実母が提供した。東京地検特捜部は会計事務担当だった元公設第1秘書を政治資金規正法違反で12月24日に在宅起訴、元政策秘書も略式起訴した。
一方、西松建設からの違法な献金計3500万円を収支報告書に虚偽記載したなどとして起訴された小沢氏の公設第1秘書の初公判が12月18日に開かれ、起訴内容を否認した。
328
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:38:58
>>327
◇長引く不況、デフレ宣言 雇用不安、出口なし
09年は、08年9月に起きたリーマン・ショック後の金融不安が世界規模で実体経済に波及して、底なし沼的な不況に沈んだ1年となった。
欧州系銀行の巨額損失懸念などを背景に、投資家が比較的安全な円に資金を避難させ、1月下旬に1ドル=87円台前半まで円高が進行。欧米の消費低迷による輸出減と円高のダブルパンチで企業業績は急激に悪化した。
3月には日経平均株価がバブル後最安値を更新。企業による減産↓人員削減・賃下げ↓国内消費の冷え込みという悪循環から、1〜3月期の実質国内総生産は前期比11・9%減(年率換算の確報値)と戦後2番目の落ち込みを記録した。
その反動から、景気は4月以降持ち直しの兆しを見せたが、雇用の改善は進まず、国内は40兆円規模の需要不足が生じ、8月の消費者物価指数は前年同月比2・4%減と過去最大の下落幅。政府は11月、3年5カ月ぶりの「デフレ宣言」に追い込まれ、景気回復のきっかけをつかめないまま年を越そうとしている。
◇失業率最悪の5.7%
09年の雇用は、派遣切りで仕事と住まいを同時に失った人たちが集った「年越し派遣村」とともに明けた。完全失業率は7月に過去最悪の5・7%を記録、有効求人倍率も0・42倍と過去最低となった。その後も、依然厳しい状況にある。
厚生労働省の調査では、昨年10月から今年12月までに職を失ったか、失うことが決まっている非正規雇用労働者は24万9307人(12月16日時点)。失職などで住まいを確保できない「ハウジングプア」層が拡大。無料低額宿泊所の一部で、生活に困窮した入所者から生活保護費をピンハネする「貧困ビジネス」が問題化した。
◇GM、クライスラー相次ぎ破綻
リーマン・ショック後の世界同時不況は、米国経済繁栄の象徴だったビッグ3(米自動車大手3社)のうち、米3位のクライスラー(4月末、米連邦破産法11条を申請)、米最大手のゼネラル・モーターズ(GM、6月1日、同)を相次ぎ破綻(はたん)に追い込んだ。クライスラーはイタリア大手、フィアット傘下入り。GMは米政府が約500億ドルを投入して発行済み株式の6割を握り、実質国有化して再建を目指すが、両社の前途は多難だ。
◇日航、支援の行方は視界不良
経営危機に陥った日本航空は10月、官民共同出資の「企業再生支援機構」に支援を要請した。年明けにも支援が決まれば、公的資金による資本注入を受け、国の管理下で再建を目指す。競争が激化する航空業界で生き残るため、米航空大手との提携交渉も進めている。しかし、日航が公的資金投入の条件となる手厚い企業年金の減額に失敗し、機構が支援を見送った場合は、会社更生法の適用など法的整理も現実味を帯びる。
◇「核なき世界」に共感 オバマ米大統領、ノーベル平和賞
米国史上初の黒人大統領に選ばれた民主党のバラク・オバマ氏は1月20日、第44代大統領に就任した。就任式でオバマ氏は「(国民が)責任を果たすべき新たな時代」と演説。長引くテロとの戦いや経済不振で閉塞(へいそく)感にあえぐ米国の「再生」を呼びかけた。
大きな転換の一つは核政策だった。4月のプラハ演説では、核不拡散体制の確立とともに、「核兵器のない平和で安全な世界」を目指すと宣言。核兵器を使った唯一の国として「行動する道義的責任がある」と述べ、核軍縮の機運を高めた。
対話重視の外交政策への転換は国際政治の新たな流れを生み出した。ノーベル賞委員会は10月9日、「国際的な外交を強化し市民の間の協力を強めることに非凡な努力を傾けた」としてオバマ氏へのノーベル平和賞授与を発表した。
一方で、「オバマの戦争」とも称されるアフガニスタンの戦況はむしろ泥沼化。授賞式に先立つ12月1日には米軍3万人の増派を発表した。平和に貢献した人物に贈られる世界最高の栄誉が、戦時大統領に授与されることへの疑念が国内外から噴出。オバマ氏は授賞式で「戦争という手段には平和を維持するという役割もある」と述べた。
329
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:39:16
>>328
◇北朝鮮、ミサイル発射
北朝鮮は4月5日、長距離弾道ミサイルを発射した。1段目のブースターは日本海に落下、残りは秋田、岩手両県の上空を通過して太平洋に着水した。5月25日には2度目の核実験を実施。6月に国連安保理で追加制裁決議が採択され、国際的に孤立した。
だが、北朝鮮が拘束した米記者の釈放を巡り、クリントン元米大統領が8月に訪朝したのを機に情勢は一転、韓国・現代グループ会長や温家宝中国首相の訪朝が続き、対話ムードが広がった。12月にボスワース米特別代表が訪朝し、米朝直接協議が行われたが、6カ国協議の再開確約には至らなかった。
国内では金正日(キムジョンイル)総書記の三男正銀(ジョンウン)氏が後継候補として急浮上、偶像化が始まった。
◇COP15、新たな枠組みは来年以降に
コペンハーゲンで開かれた国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は12月19日、京都議定書に定めのない2013年以降の国際的な地球温暖化対策の方向性を示す政治合意「コペンハーゲン協定」を承認した。一部途上国の反対で採択は断念した。
最大の焦点は、京都議定書を離脱した米国や削減義務を負わない中国などが参加する新しい枠組みづくりだったが、先進国と新興・途上国の対立が先鋭化する中、来年以降に先送りされた。協定には先進国は20年までの削減目標を来年2月1日以前に申告することや、新興・途上国も削減につながる行動計画をつくることが盛り込まれ、今後の枠組みづくりにつながる要素は残った。
◇家計を支援、高速1000円
政府は09年、財政出動による景気刺激策を次々と打ち出した。1月に成立した08年度第2次補正予算では1人1万2000円、総額2兆円の定額給付金の配布を決めた。全国の高速道路では3月から、ETC(自動料金収受システム)搭載車を対象に土日祝日の料金を上限1000円とする割引を始めた。
5月には総額13・9兆円の09年度第1次補正予算が成立。環境対応車(エコカー)の購入促進で最大25万円を補助する制度や、省エネ家電への買い替えを促進するエコポイント制度が導入された。
新政権も12月、7・2兆円の経済対策を盛り込んだ09年度第2次補正予算案を決定。エコポイント制度など前政権の家計支援策を引き継ぐとともに、新たに住宅版エコポイント制度などを実施することを決めた。
◇若田さん・野口さん、長期滞在
宇宙開発では節目となる出来事が続いた。
7月には国際宇宙ステーション(ISS)に建設中の日本実験棟「きぼう」が完成。最後の取り付け作業は、日本人初のISS長期滞在員の若田光一宇宙飛行士が担当した。
ISSに物資を運ぶ無人補給機「HTV」が9月、新型ロケットH2Bで打ち上げられ、無事任務を果たした。12月には野口聡一宇宙飛行士がロシアの宇宙船ソユーズでISSに向かい、約半年の長期滞在を始めた。
◇15歳未満の脳死臓器移植に道
脳死からの臓器提供者の増加を目指して7月、改正臓器移植法が成立した。現行法では認められなかった15歳未満の子どもからも、家族の同意で提供可能になる。改正の背景には世界保健機関(WHO)が渡航移植を制限するとの見方もある。全面施行は来年7月。子どもの脳死判定や移植数増加に対応できる環境整備が進められている。
◇日本郵政めぐり大臣まで交代
昨年12月の「かんぽの宿」売却先公表をきっかけに、日本郵政を巡る混乱が始まった。自公政権下、売却先選定が不透明だとして西川善文社長を責めた鳩山邦夫総務相は、閣内不一致のとがで更迭。郵政民営化見直しを掲げる新政権が誕生すると、今度は西川氏が辞任に追い込まれ、元大蔵事務次官の斎藤次郎社長が誕生した。
◇ウイグル自治区で大規模暴動
中国・新疆ウイグル自治区ウルムチで7月5日、ウイグル族による大規模暴動が発生し、当局発表で約200人が死亡した。6月に広東省の工場で起きたウイグル族と漢族の乱闘がきっかけとされる。漢族が報復デモを行うなど民族対立が激化。胡錦濤国家主席はラクイラ・サミットの拡大会合をキャンセルして北京に戻った。
330
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:39:38
>>329
==============
◇1月
1日▽キューバ革命から50周年。
3日▽イスラエル軍、ガザに地上侵攻。
5日▽年越し派遣村の500人が撤収。
7日▽エチオピアで誘拐の医師、赤羽桂子さんが解放。13日に帰国。
▽ロシアがウクライナのパイプラインを経由した欧州向けガス供給を完全停止。
▽天皇陛下、即位満20年。
12日▽麻生太郎首相と韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領がソウルで会談。
13日▽渡辺喜美元行革担当相が自民離党。
14日▽東京都文京区の中央大理工学部で同学部教授、高窪統さんが刺殺される。
15日▽米ニューヨーク市のハドソン川に旅客機が不時着水。乗客、乗員全員を救助。
17日▽日本初の心肺同時移植成功。
20日▽バラク・オバマ氏が、米大統領に就任。
22日▽イージス艦「あたご」衝突事故の海難審判で「第3護衛隊」に勧告を出す裁決。
23日▽温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」を搭載したH2Aロケット打ち上げ。
▽三井住友海上グループHD、あいおい、ニッセイ同和の損保3社が統合で合意。
25日▽山形県知事選で無所属の元県教育委員、吉村美栄子氏が初当選。
29日▽天皇、皇后両陛下の負担軽減で、国体開会式などでの「お言葉」原則廃止方針。
◇2月
4日▽三菱自動車が「ダカール・ラリー(パリ・ダカ)」から撤退を表明。
5日▽円天事件で「L&G」会長、波和二容疑者らを組織犯罪処罰法違反容疑で逮捕。
6日▽小和田恒判事が国際司法裁判所長に。
10日▽イランが革命から30周年。
▽「大光」社長の大賀規久容疑者らを法人税法違反容疑で逮捕。
▽汚染米虚偽表示容疑で「三笠フーズ」社長、冬木三男容疑者らを逮捕。
13日▽「かんぽの宿」一括譲渡契約白紙に。
17日▽中川昭一財務・金融担当相が辞任。G7での「もうろう会見」などの引責。
18日▽東京都の女性殺害、損壊事件で、東京地裁が星島貴徳被告に無期懲役判決。
19日▽香川県立中央病院が「昨秋、他人の受精卵を子宮に戻した可能性がある」。
22日▽日本人監督の「おくりびと」「つみきのいえ」にアカデミー賞。
24日▽麻生首相とオバマ米大統領が会談。
25日▽宇宙飛行士候補に全日空副操縦士、大西卓哉さん、空自2佐、油井亀美也さん。
◇3月
3日▽西松建設の違法献金事件で、小沢一郎氏の大久保隆規・公設第1秘書らを逮捕。政治資金規正法違反の疑い。
4日▽「定額給付金」の関連法成立。
10日▽チベット動乱から50年。
11日▽田口八重子さんの長男、飯塚耕一郎さんらが韓国で金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚と面会。
▽将棋の中原誠十六世名人が引退表明。
13日▽ソマリア沖海賊対策で海上警備行動発令。海賊対処法案も閣議決定。
▽損保ジャパンと日本興亜損保、統合で合意。
15日▽若田光一さん宇宙へ。国際宇宙ステーションで約4カ月間の長期滞在を経験。
16日▽「真相報道バンキシャ!」問題で、日本テレビの久保伸太郎社長が辞任。
18日▽闇サイト事件で名古屋地裁が2被告に死刑、1人に無期懲役の判決。
19日▽群馬県渋川市の「静養ホームたまゆら」で火災。10人が犠牲に。
22日▽吉田茂元首相の旧邸(神奈川県大磯町)全焼。出火時に漏電警報。
23日▽成田で貨物便が着陸失敗、2人死亡。
▽公示地価、97%の地点で下落。
27日▽宮崎県官製談合事件で前県知事の安藤忠恕被告に地裁が懲役3年6月の判決。
28日▽「高速道路1000円」本格スタート。
29日▽千葉県知事選で森田健作氏が初当選。
331
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:39:50
>>330
◇4月
1日▽介護報酬3%引き上げ。初のプラス。
5日▽北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射。
▽オバマ米大統領、プラハで「核なき世界を」と演説。
6日▽イタリア中部でM6.3。死者約300人。
9日▽北朝鮮が憲法改正。金正日総書記が務める国防委員長を「最高指導者」と明記。
10日▽天皇、皇后両陛下が結婚50年。
12日▽秋田県知事選で、無所属の前秋田市長、佐竹敬久氏が初当選。
14日▽長崎県平戸市沖で、巻き網漁船が沈没。12人が行方不明。
▽強制わいせつ罪に問われた防衛医科大教授に最高裁が逆転無罪判決。
16日▽朝日新聞阪神支局襲撃事件の「実行犯」手記連載で週刊新潮が謝罪記事。
21日▽毒物カレー事件で最高裁が林真須美被告の上告を棄却。死刑が確定。
▽イージス艦「あたご」衝突事故で2士官を在宅起訴。
23日▽酔って公園で全裸になった疑いで草なぎ剛容疑者を逮捕。東京区検は起訴猶予。
24日▽WHOが米国、メキシコで新型インフルエンザ発生と発表。
26日▽名古屋市長選で、前衆院議員の河村たかし氏が初当選。
29日▽ワンガリ・マータイさんに春の叙勲。
30日▽3月卒業大学生らの就職内定取り消しは2083人。
▽米自動車大手クライスラーが破綻(はたん)。連邦破産法11条の適用を申請。
◇5月
1日▽三井住友FGが米シティグループ傘下の日興コーディアル証券の買収を発表。
2日▽愛知県蟹江町で兄弟殺傷。翌日、母の遺体も押し入れで発見。
9日▽大阪の高校生ら3人、新型インフルエンザ感染と国内初確認。
▽森光子さん主演「放浪記」、上演2000回。
11日▽民主党の小沢代表が辞任を表明。
▽詐欺罪に問われた音楽プロデューサーの小室哲哉被告に、大阪地裁は懲役3年、執行猶予5年の判決。
15日▽福岡市の3児死亡事故控訴審で、福岡高裁は危険運転致死傷罪を認定、今林大被告に懲役20年の判決。
18日▽25年以上に及び7万人以上の死者を出したスリランカの内戦が終結。
▽秋田連続児童殺害事件で、畠山鈴香被告が上告を取り下げ、無期懲役が確定。
19日▽漢検協会の大久保昇前理事長と長男の浩前副理事長を背任容疑で逮捕。
▽静岡空港立ち木問題で伐採終了を受け、石川嘉延県知事が辞表を提出。
21日▽裁判員制度がスタート。
▽中央大教授殺害容疑で、教え子だった山本竜太容疑者を逮捕。
25日▽北朝鮮が2度目の核実験を実施。
28日▽原爆症認定訴訟で、東京高裁は9人を原爆症と認める判決。国は上告せず。
29日▽村上春樹さんの「1Q84」発売。この年最大のベストセラーに。
◇6月
1日▽改正薬事法施行。薬局・薬店以外でも条件付きで一般用医薬品が販売可能に。
▽米自動車最大手、ゼネラル・モーターズが連邦破産法11条の適用を申請。
2日▽山口県美祢市内のホテルで22人が一酸化炭素中毒。1人が死亡。
3日▽羽田で日航システムに障害。31便欠航。
4日▽「足利事件」の菅家利和さん、東京高検が釈放。23日、東京高裁が再審開始決定。
▽天安門事件から20年。
▽静岡空港(牧之原市、島田市)が開港。
7日▽「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で全盲の辻井伸行さん優勝。
12日▽日本郵政の西川善文社長の続投を決定。鳩山邦夫総務相は辞任。
13日▽イラン大統領選でアフマディネジャド大統領が再選。
14日▽千葉市長選で31歳の熊谷俊人氏が初当選。現役市長で全国最年少。
▽郵便不正事件で厚生労働省の村木厚子局長を逮捕。偽証明書作成関与の疑い。
22日▽「見切り販売」不当制限で「セブン−イレブン・ジャパン」本部に排除措置命令。
332
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:40:54
>>331
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091230ddm010040092000c.html
重大ニュース2009:日本と世界を変えた1年(その2止)
◇菅家さん無罪の光 DNA鑑定覆り、再審開始
栃木県足利市で90年、4歳女児が殺害された「足利事件」で無期懲役が確定し服役していた菅家利和さん(63)が6月、逮捕から17年半ぶりに釈放された。再審請求で、検察、弁護側双方推薦の鑑定人が、殺害された女児の下着に付いた犯人のものとみられる体液と菅家さんのDNA型を「不一致」と指摘した。
仮釈放や病気以外の理由で受刑者を釈放するのは極めて異例の措置といえ、栃木県警本部長や宇都宮地検検事正が菅家さんに謝罪した。また、菅家さんの取り調べを録音したテープの存在が判明。否認に転じた菅家さんが、検事の取り調べで再び「自白」する模様などが録音されているとされ、取り調べの全面的な録音・録画(可視化)論議に一石を投じた。
宇都宮地裁で10月に始まった再審公判で、菅家さんと弁護側は、冤罪(えんざい)・誤判原因の究明を求めており、来年3月に無罪判決が言い渡される見通し。
◇「布川事件」も再審確定
茨城県利根町布川(ふかわ)で67年、大工の男性が殺害された「布川事件」で、強盗殺人罪などで無期懲役が確定し、仮釈放された桜井昌司さん(62)と杉山卓男さん(63)の再審開始が確定した。最高裁が12月14日、検察側の特別抗告を棄却する決定を出した。再審では強盗殺人罪について無罪となる公算が大きい。
2人は公判で否認に転じたが、78年に判決が確定、約18年間服役し、仮釈放された。
水戸地裁土浦支部は05年9月、再審開始を決定、東京高裁は08年7月、再審請求後に検察側から開示された目撃証言などを新証拠として採用し、「捜査段階の自白の信用性に重大な疑問がある」と指摘。最高裁も追認した。自白偏重の捜査と裁判が、改めて問われた。
◇裁判員制度スタート 刑事裁判に市民感覚 検証のあり方、審理の短さに課題
国民が刑事裁判に参加して、裁判官とともに殺人などの重大事件を審理する裁判員制度が、5月21日始まった。8月3〜6日、全国初の裁判員裁判が東京地裁で行われ、殺人罪に問われた被告に懲役15年の判決が言い渡された。年内は全国各地で138件の裁判員裁判が実施された。
裁判に国民が参加するのは、1928〜43年に行われていた陪審制以来。この際は陪審員が有罪・無罪だけを決めていたが、裁判員制度は裁判員が量刑の判断にもかかわる。
制度は、国民の良識や感覚を判決に反映させるのが目的。法律知識のない国民にも分かりやすい審理を目指し、立証のビジュアル化など法廷でのやりとりも大きく変化した。裁判前に公判前整理手続きで争点や証拠を絞り込み、ほとんどの審理が3〜4日で終了するようになった。
裁判員は国民の義務だが、裁判所側は辞退希望を柔軟に認める運用をしている。最高裁のアンケートで経験者の98・5%が「よい経験だった」と答えるなど、順調な滑り出しを見せた。しかし、守秘義務で評議の検証が困難な点や、短期審理に伴う立証の不十分さ、プライバシー配慮が求められる性犯罪を対象とすることの是非など、課題も浮かんでいる。
◇新型インフル、猛威 国内死者100人超す 春から1500万人感染、真冬の警戒続く
豚に由来する新型インフルエンザが4月下旬、メキシコや米国で確認され、一気に世界中に広まった。日本でも5月16日に国内感染例が見つかり、世界保健機関(WHO)は6月11日、パンデミック(大流行)を宣言した。
政府は、かねて新型インフルエンザへの備えを進めていたが、誤算があった。一つは、高病原性の鳥インフルエンザ由来でなかったこと。国の行動計画が高い致死率を想定していたため、空港では厳重な検疫態勢が敷かれ、感染者の濃厚接触者は隔離された。
さらに水際阻止がかなわず、国内で感染が広がると、発熱外来の設置や一斉休校など、医療機関や自治体は従来にない対応に追われた。
結局、新型の毒性が季節性とほぼ同じだとして、厚生労働省が検疫や医療態勢などを平常に戻したのは、国内発生から1カ月後の6月19日だった。
もう一つの誤算が、例年の季節性より3〜4カ月早い8月下旬から、新型の流行が始まったことだ。ワクチン製造は流行開始に間に合わず、優先接種の対象者も9月まで決まらなかった。政治主導を掲げる鳩山政権の下で、接種回数の決定を巡る混乱も起きた。ワクチンに関しては、国内の生産基盤が弱く輸入品に頼らざるを得ない、日本の感染症対策のもろさも露呈した。
年内に国内の推計患者は1500万人を突破し、感染者の死亡も100人を超えた。例年流行が本格化する真冬に向け、警戒は続いている。
333
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:41:14
>>332
◇不審な死 詐欺事件の女の周辺、関東で、鳥取で
埼玉、鳥取両県で、詐欺容疑で逮捕された女の周辺で複数の男性が不審死する事件が明るみに出て、捜査が続いている。
埼玉県で8月、女と交際していた会社員の男性(当時41歳)がレンタカー内で死亡しているのが見つかり、遺体から睡眠薬の成分が検出された。東京や千葉でも女の知人の男性3人が相次いで死亡していた。
鳥取県では4月と10月、元スナックホステスの女の知人男性3人が水死体などで見つかり、いずれも遺体から睡眠薬の成分が検出された。過去に死亡した知人男性にも、亡くなった経緯に不審な点があるという。
◇非業の死 千葉と島根の女子大生、殺害される
千葉、島根両県で10月、女子大生殺害事件が相次いで起きた。千葉県松戸市で22日、放火されたマンションの自室から千葉大4年、荻野友花里さん(当時21歳)が他殺体で見つかった。別の強盗強姦(ごうかん)未遂容疑で翌月逮捕された無職の男(48)が、荻野さんのキャッシュカードでATM(現金自動受払機)から現金を引き出したことを認めた。島根県浜田市では26日夜、同県立大1年、平岡都さん(当時19歳)が行方不明となり、広島県の山中で11月以降、遺体の各部が相次いで発見された。その後、自宅の学生寮近くで靴が見つかり、不審車が目撃されている。
◇天皇陛下、即位20年
天皇陛下が即位20年を迎えた。天皇、皇后両陛下の結婚50年と合わせ、節目の年となった。
御在位20年記念式典は11月12日、東京都千代田区の国立劇場で行われた。あいさつで天皇陛下は、90年11月12日の即位の礼を振り返り、「あの日沿道で受けた国民の祝福は、常に私どもの支えでした」と述べた。宮内庁前の記帳所には大勢の人が訪れ、「国民祭典」が催された皇居前広場は約3万人で埋まった。
天皇陛下は式典に先立っての会見で「私はこの20年、長い天皇の歴史に思いをいたし、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇のあり方を求めつつ今日まで過ごしてきました」と述べ、模索し続けてきた心境を明らかにした。
◇2年7カ月、顔変え逃走
千葉県市川市で07年3月に起きた英国人英会話講師、リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)の殺害事件で、指名手配されていた市橋達也容疑者(30)が11月10日、大阪市内で逮捕された。2年7カ月余にわたり名古屋、福岡、神戸など各地を逃走していたとみられ、偽名で土木作業員として働き、整形手術を繰り返していた。
◇事故調の情報、JR西に漏れる
9月25日、JR福知山線脱線事故で、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)の調査報告書案が公表前にJR西日本に渡っていたことが表面化した。
その後、JR西が事故調の意見聴取会の公述人に有利な証言を頼んでいたことも判明。10月に山崎正夫前社長と土屋隆一郎副社長が取締役を事実上解任された。
◇豪雨や台風、西日本を襲う
西日本を中心に豪雨災害が相次いだ。梅雨末期の大雨に見舞われた山口県防府市では7月21日、土石流が特別養護老人ホームを襲い7人が死亡するなど中国・九州北部で計31人が死亡。
8月9日には、台風9号で河川がはんらんした兵庫県佐用町で、避難中の住民ら18人が死亡、2人が行方不明に。4県で死者は計25人にのぼった。
◇清純派女優が…芸能界、薬物汚染
警視庁は8月8日、女優の酒井法子容疑者(38)を覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕した。清純派アイドルとして人気のあった芸能人の覚せい剤事件は社会に衝撃を与えた。
同月3日には俳優の押尾学容疑者(31)が麻薬取締法違反(使用)容疑で逮捕されており、芸能界の薬物汚染問題が改めて浮き彫りになった。こうした問題を受け、警視庁は9月、芸能界主要3団体との会議を初めて開催し、薬物乱用防止で連携する方針を確認した。
押尾容疑者については警視庁が12月7日、東京・六本木のマンションに一緒にいて薬物中毒死した女性に合成麻薬MDMAを渡したとして逮捕。女性に対する保護責任者遺棄容疑も追及する方針だ。
334
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:41:55
>>333
◇6分半の皆既日食ショー
皆既日食が7月22日午前、南日本などで観測された。日本の陸地で観測できたのは46年ぶり。太陽が月に隠れる皆既時間は約6分半と今世紀最長だった。観測条件のよい鹿児島県トカラ列島には国内外からファンが詰めかけ、悪天候の中、空を見上げた。列島全体で部分日食も観測された。次に日本で見られる皆既日食は2035年9月2日だ。
◇釜山射撃場で日本人10人死亡
韓国・釜山市の室内射撃場で11月14日、火災が発生。中にいた16人のうち日本人観光客10人、韓国人のガイドら5人の計15人が死亡、日本人1人が重傷を負った。警察は射撃に伴う火花などが火薬の残存物や防音壁などに引火し、燃え広がったと判断。経営者と現場管理者の従業員の計2人を業務上過失致死傷容疑で逮捕した。
◇大雪山系で遭難の10人死亡
北海道大雪山系トムラウシ山(2141メートル)で7月16日、中高年の登山ツアー客とガイド計18人が悪天候のため遭難し、8人が凍死した。このほか、個人の登山者1人と、同山系美瑛岳のツアー客1人も凍死。夏山としては戦後最悪の大量遭難事故となった。道警は業務上過失致死容疑でツアーの企画会社などを家宅捜索した。
◇「おくりびと」にアカデミー賞
2月22日(日本時間23日)の第81回アカデミー賞授賞式で、滝田洋二郎監督の「おくりびと」に外国語映画賞、加藤久仁生監督の「つみきのいえ」に短編アニメーション賞が贈られた。外国語映画賞が56年度に独立した賞になって以来、日本映画の受賞は初。その後、日本での「おくりびと」の上映は異例のロングランとなった。
==============
◇7月
1日▽新生銀とあおぞら銀が合併合意。
5日▽静岡県知事選で静岡文化芸術大前学長、川勝平太氏が初当選。
▽大阪市此花区のパチンコ店で放火。5人が死亡。高見素直容疑者を逮捕。
▽中国・新疆ウイグル自治区で暴動。
8日▽ラクイラ・サミットが開幕。
▽JR福知山線脱線事故で、山崎正夫・JR西日本社長を在宅起訴。
12日▽東京都議選(定数127)で、民主党が54議席を獲得、初の第1党に。
13日▽改正臓器移植法が成立。
16日▽北海道・大雪山系のトムラウシ山と美瑛岳で遭難相次ぐ。死者は男女10人に。
21日▽衆院が解散。7月の解散は史上初。
▽中国・九州北部で豪雨。31人死亡(11月19日現在内閣府まとめ)。
22日▽国内の陸地では46年ぶりの皆既日食。
◇8月
3日▽東京地裁で殺人事件を審理する全国初の裁判員裁判の公判始まる。
▽合成麻薬MDMAを使用した疑いで俳優の押尾学容疑者を逮捕。11月の判決は懲役1年6月、執行猶予5年。
4日▽米国のビル・クリントン元大統領が訪朝。米国人女性記者2人釈放される。
8日▽出頭した女優の酒井法子容疑者を覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕。11月の判決は懲役1年6月、執行猶予3年。
10日▽台風9号の被害が拡大。兵庫県など4県で27人の死者・不明者(11月19日現在内閣府まとめ)。
11日▽駿河湾を震源に震度6弱。死者1人。
18日▽衆院選公示。
28日▽7月完全失業率、過去最悪の5.7%に。
30日▽衆院選が投開票。民主党が308議席(小選挙区221、比例代表87)を獲得。
▽茨城県知事選は橋本昌氏が現職最多の5選。横浜市長選は元ダイエー会長の林文子氏が初当選。
335
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:42:15
>>334
◇9月
1日▽消費者庁発足。野田聖子氏が担当相に。
7日▽千葉県で03〜07年度不正経理30億円。
8日▽公明党の新代表に山口那津男氏。
▽国際宇宙ステーション長期滞在要員候補に海自医官の1等海尉、金井宣茂さん。
9日▽民主党、社民党、国民新党が連立政権を樹立することで合意。
10日▽三井住友FGと大和証券グループが「大和証券SMBC」の合弁解消で合意。
11日▽国産ロケット「H2B」1号機打ち上げ。無人補給機「HTV」を軌道に投入。
16日▽鳩山由紀夫内閣が発足。
▽花王「エコナ」シリーズ発売停止発表。
22日▽国連気候変動サミットで鳩山首相「温室効果ガスを1990年比25%削減」。
23日▽鳩山首相が米国でオバマ大統領、ロシアのメドベージェフ大統領と会談。
▽前原誠司国土交通相が八ッ場ダム建設予定地を視察。
24日▽国連安保理は米国提案の「核兵器のない世界」を目指す決議を全会一致で採択。
▽G20金融サミット、定例開催決まる。
28日▽谷垣禎一元財務相が自民党総裁に。
29日▽前長崎市長射殺事件の城尾哲弥被告に福岡高裁判決。1審死刑破棄、無期懲役。
▽南太平洋のサモア沖でM8.0の地震。
30日▽スマトラ島沖でM7.6の地震。
◇10月
1日▽鞆(とも)の浦埋め立て免許差し止め訴訟の判決で、広島地裁は景観利益に基づく訴えを認める。
2日▽男女区別が難しい疾患の総称「性分化疾患」に。
8日▽大型の台風18号が、愛知県・知多半島付近に上陸。埼玉県などで計5人死亡。
9日▽ノーベル平和賞はオバマ米大統領に。
10日▽鳩山首相が北京で中国の温家宝首相、韓国の李明博大統領と首脳会談。
12日▽前原国交相が「羽田をハブ空港に」。
15日▽10年度当初予算の概算要求で、一般会計総額は過去最大の95兆円台。
20日▽日本郵政の西川善文社長が辞任表明。
▽全国精神障害者社会復帰施設協会による厚生労働省の補助金不正流用事件で、高野修次会長ら3容疑者逮捕。
22日▽千葉県松戸市の火災現場で女性遺体。身元は女子大生。県警が殺人事件と断定。
24日▽伊豆諸島・八丈島沖で、佐賀県唐津市の漁船が転覆。4日後に船から3人救出。
27日▽埼玉県警が結婚詐欺容疑で逮捕した女の周辺で、連続不審死が発覚。
▽関門海峡で海自の護衛艦「くらま」と韓国のコンテナ船が衝突。6人負傷。
29日▽日航が企業再生支援機構に支援要請。
336
:
名無しさん
:2009/12/30(水) 12:42:26
>>335
◇11月
4日▽トヨタ「今年限りでF1から撤退」。
5日▽鳥取市の元ホステスと接点のある男性の相次ぐ不審死が発覚。
▽プルサーマル発電に向け、九州電力玄海原子力発電所3号機が起動。
6日▽住友信託銀と中央三井トラストHDが経営統合で合意。
▽島根の女子大生と見られる遺体の一部、広島県の山中で発見。7日、身元確認。
9日▽ベルリンの壁崩壊から20年。
10日▽英国人女性殺害事件で、死体遺棄容疑で指名手配されていた市橋達也容疑者を逮捕。12月2日、殺人容疑などで再逮捕。
▽鳩山首相が02年から08年の資産報告書など訂正。訂正総額は5億4500万円相当。
12日▽「天皇陛下御在位20年記念式典」。
13日▽オバマ米大統領が初来日。
14日▽韓国・釜山市の射撃場で火災。日本人10人を含む15人が死亡。
19日▽「EU大統領」にベルギーのファン・ロンパウ首相を選出。
20日▽菅直人副総理兼経済財政担当相が事実上のデフレ宣言。
22日▽東京都杉並区高円寺の居酒屋で朝火事。客ら4人が死亡。
23日▽イエメンで地元部族民に誘拐された技師の真下武男さんが8日ぶり解放。
27日▽行政刷新会議の「事業仕分け」。9日間で1兆9500億円捻出(ねんしゅつ)。
▽「ドバイショック」。一時1ドル=84円台。
30日▽肝炎対策基本法、中小企業者等金融円滑化臨時措置法(返済猶予法)など成立。
◇12月
1日▽原爆症救済法が成立。
▽EUの「リスボン条約」が発効。
▽生活保護の母子加算が復活。
2日▽16人死亡の個室ビデオ店放火で、大阪地裁は小川和弘被告に死刑判決。
3日▽三菱自動車が仏プジョーに出資要請。交渉入りが明らかに。
4日▽「1円株」誤発注訴訟で東京地裁、東証に賠償命令。
7日▽旧日債銀粉飾決算事件で、最高裁が旧経営陣3人の有罪を破棄、高裁差し戻し。
▽終末期医療をめぐる川崎協同病院事件で、殺人罪に問われた元医師の上告棄却。
8日▽2次補正予算に盛る7.2兆円の経済対策を閣議決定。
9日▽スズキとVWが提携合意。
▽「西松建設」違法献金事件で二階俊博前経産相の長田武敏政策秘書を略式起訴。
11日▽北海道苫小牧市で7人乗りボート転覆。6人の死亡確認。
12日▽石油資源開発がイラクで油田落札。
14日▽「布川事件」で最高裁が検察側の特別抗告を棄却。桜井昌司さん、杉山卓男さんの再審開始が確定。
15日▽米軍普天間飛行場移設問題で、結論は来年に持ち越しと決定。
▽天皇陛下、中国の習近平国家副主席と会見。「1カ月ルール」めぐり波紋。
18日▽茨城県9人殺傷事件の金川真大被告に水戸地裁が死刑判決。
19日▽COP15が閉幕。新議定書は見送り。
21日▽野口聡一さんのソユーズ打ち上げ。
22日▽政府が10年度税制大綱決定。
24日▽鳩山首相側の偽装献金事件で、勝場啓二・元公設第1秘書を在宅起訴。
25日▽政府が10年度予算案を決定。
28日▽2倍を超えた8月の衆院選小選挙区の1票の格差、大阪高裁が「違憲」判断。
==============
※呼称や肩書は当時
==============
337
:
とはずがたり
:2009/12/30(水) 13:14:42
最新の歴史ですもんねw
投下有り難うございます
338
:
とはずがたり
:2010/01/05(火) 22:14:33
チャーチル英首相の通訳「千島列島引き渡しは国際法上誤り」
2010.1.5 19:22
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100105/erp1001051922006-n1.htm
【ロンドン=木村正人】第二次大戦末期、ソ連の対日参戦を決めたヤルタ会談で、チャーチル英首相の通訳を務めたヒュー・ルンギ氏(89)が本紙のインタビューに応じ「千島列島は日本の領土で、ソ連への引き渡しを決めたヤルタ協定は国際法上間違いだった」と語った。会談では、体調がすぐれないルーズベルト米大統領に対し、ソ連最高指導者スターリンはメモなしで堂々と議論を進めたという。
オックスフォード大卒のルンギ氏は大戦中、モスクワで英軍のロシア語通訳として勤務。米英ソ首脳による1943年のテヘラン、45年のヤルタ、ポツダムの3会談、44年10月の英ソ首脳会談で通訳を務めた。
ヤルタ会談についてルンギ氏は「ソ連は対ドイツ戦の勝利をほぼ手中に収めていた。スターリンはご満悦の様子で、彼を取り巻く空気は快活そのものだった」と振り返る。そして「極東問題はルーズベルトとスターリンの2人で話し合われ、チャーチルは署名に応じただけだった。それが公に知られるようになったのは戦後何年もたってからだ」と語る。
ルンギ氏がヤルタ協定の存在を知ったのも戦後のことだが、「スターリンはルーズベルトに『千島列島は日本が第二次大戦で占領した領土の一部だ』とデタラメの説明をした。ルーズベルトは、千島列島が日本の領土になった歴史的経緯を正確に示した米国務省の資料に、目を通していなかった」と説明。「千島列島は1875年の樺太千島交換条約でロシアから譲渡された日本の領土で、引き渡しは国際法上の誤りだ」と断言した。
チャーチルのすぐ後ろで3首脳のやり取りを観察した氏は、スターリンについて「彼はすべての事実と、自分が何を求め、何を成し遂げたいのかを知っていた。非常に簡潔に要点を突いて話し、袋小路に迷い込むことはなかった」という。すべて暗記していて誰の力も借りず受け答えし、「会談中、一切メモを受け取らず、決意が固いことを周囲に見せつけようとしていた」という。
一方、高血圧を患っていたルーズベルトは「見るからに調子が悪そうだった。顔はロウのように黄色かった。顧問団から多くのメモを受け取り、質問に答えるのを助けてもらっていた。チャーチルともメモを交換していた」と振り返る。
3つの会談で米英ソによって戦後秩序が決められたにもかかわらず「ソ連はかなり邪魔だてしていた。スターリンは、ソ連が対ドイツ戦で攻勢に転じたクルスクの戦い(1943年)など、ドイツに関する軍事情報を一切米英に与えなかった。猜疑(さいぎ)心が強いスターリンは全員を敵とみなしていた。冷戦は大戦中からすでに始まっていた」と語った。
339
:
小説吉田学校読者
:2010/01/11(月) 09:16:21
記事の本題と外れるけど、「坂の上の雲」を読む前に、司馬遼太郎の四国ものは読まないといけないと思い、長宗我部元親を主人公にした「夏草の賦」を読みましたけれども、「まあ、戦国の英雄といっても、地の利とかタイミングとかないと、天下は取れないよね」と珍しく身も蓋もない話だったのでとても面白かった。
軍都・旅順を対外開放 中国政府、日本人観光客に期待
http://www.asahi.com/international/update/0110/TKY201001100255.html
【大連(中国遼寧省)=西村大輔】日露戦争の激戦地で、中国政府が軍事区域として外国人の自由な立ち入りを禁じていた大連市旅順口区(旅順)が、軍事施設周辺を除いて対外開放された。観光産業や経済開発を重視しての措置とみられる。日露戦争が舞台のNHKドラマ「坂の上の雲」が始まったこともあり、地元は日本人観光客の増加を期待している。
同区は人口約26万人。1996年に北部が開放され、日露戦争の激戦地二〇三高地、旅順港攻防戦の停戦条約が結ばれた水師営会見所跡などが外国人に開放された。一方、軍港の周辺に市街地が広がる南部では、外国人が立ち入るためには同市公安局の特別許可証が必要で、違反者は拘束されることもあった。
近年、警備が緩和され、立ち入り禁止地区にある観光名所の一部も先行して外国人を受け入れ始めたが、全域の開放に向けた軍などとの調整に時間がかかっていた。同区政府によると、中国政府と中央軍事委員会が昨年末までに、軍港など軍事施設周辺を除いた地域の開放に同意した。記者も9日、市街地を歩いた。
軍港周辺には、日本統治時代の建築物が残る市街地があり、伊藤博文を暗殺した安重根が死刑にされた旧旅順監獄、旧満州時代の文物を保存する旅順博物館などがある。
同区経済合作局の王清副局長は「開放が遅れた分、今後の発展の可能性は大きい。日本人の関心は特に高いので、旅行客の増加や企業の投資が期待できる」と話した。新たに開放された地区で日本語の表示を増やすなどサービスを充実させていくという。
341
:
荷主研究者
:2010/01/12(火) 22:54:18
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201001040075.html
'10/1/4 中国新聞
日清戦争直後の広島地図現存
--------------------------------------------------------------------------------
日清戦争(1894―95年)で「臨時首都」となった広島の市街地図が現存していた。明治天皇が臨席した大本営や帝国議会仮議事堂をはじめ当時の主要施設、町名が明記されている。広島の近代化であり、原爆で壊滅に至る「軍都」の始まりも表す地図は、三重県熊野市の民家で見つかった。広島市公文書館が寄贈を受け、新年度に公開する。
広島は、日本が1894(明治27)年8月に清に宣戦を布告した翌9月、明治天皇の到着に伴い大本営が移された。続く10月には臨時帝国議会が開かれる。同時にこの月、市全域と仁保島村宇品(南区元宇品町)は「臨戦地境」として戒厳令が敷かれ、朝鮮半島と中国大陸への派兵拠点となった。
地図は、広島城本丸の第5師団司令部を使った大本営や周辺の軍事施設、現在の県庁東館辺りに作られた仮議事堂、延伸間もない山陽鉄道(JR山陽線)と宇品港を開戦直後に結んだ軍専用の宇品線(廃線)を記載。後に埋めたてられる西塔川(中区の鯉城通り)や平田屋川(並木通り)沿いなどに広がる町並み、商業施設も書き込み、日清戦争を機に軍都の機能を増しながら全国有数の都市となる広島の原形が分かる。
342
:
とはずがたり
:2010/01/16(土) 18:21:27
徳富蘇峰、戦犯容疑笑ってくれ 熊本で書簡発見
01/15 20:56
http://www.shizushin.com/news/social/national/2010011501000981.htm
明治から昭和にかけて活躍した言論人の徳富蘇峰(1863〜1957年)が終戦直後、A級戦犯容疑をかけられた際の心境を自嘲気味につづった親友あての書簡が15日までに、熊本県荒尾市で見つかった。
漢文の書簡には「私は戦争犯罪人。笑ってくれ」といった記述があり、蘇峰に詳しい大阪大名誉教授の猪飼隆明さん(65)によると「戦犯指名直後に蘇峰の心情が吐露された書簡は珍しい」という。
蘇峰は日清戦争後の三国干渉以降、国家主義の傾向を強めつつ言論界をリード。1945年12月2日にA級戦犯容疑をかけられた。書簡は、蘇峰と熊本洋学校で同級生だった余田末人さんが戦犯容疑をかけられた蘇峰の身を案じて同5日に送った手紙への返信で、同14日に記された。余田さんの孫の春光さん(81)=荒尾市=が保管していた。
猪飼さんによると、前半部分は漢文で「持病を治療して監獄に行くつもりだ。自分にとって禍福や生死は関心事ではない」といった内容。
343
:
ももだぬき
:2010/01/16(土) 18:59:49
民主党へのクーデターといって、想像するのが、帝人事件ですね…。
344
:
荷主研究者
:2010/02/06(土) 23:49:51
http://kumanichi.com/news/local/main/20100201002.shtml
2010年02月01日 熊本日日新聞
熊本市に軍需地下工場跡 重爆撃機を製造か
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20100201002_DAT.jpg
熊本市龍田町で弓削で見つかった地下工場跡。最奥部には大きな空間が設けられていた
太平洋戦争中に空襲を避けるため地下壕[ごう]で軍用機の部品などを生産していた地下工場跡が熊本市龍田町弓削で見つかった。旧陸軍の重爆撃機を製造していた三菱重工業熊本航空機製作所の工場で、「熊本の戦争遺跡研究会」が31日、現地調査。最奥部には製造機械を設置するものと思われる高さ4・5メートル、幅4・7メートル、長さ25メートルほどの大空間を備えており、県内に現存する軍需地下工場では最大規模とみられる。
同会によると、同市健軍にあった同製作所の地下工場は県内に10カ所。同市などに分散して造られ、爆撃機の胴体などを製造していたとみられる。同会が聞き取り調査などから昨年11月に見つけた。
地下工場は竹林の下にあり、岩をくり抜いた壕が約120メートル連なっている。「これだけの大きさは、県内にはないのでは」と同会。出入り口は未使用のものも含め4カ所だった。現在はイモの保管所として使われている。
同会は10カ所のうち8カ所を発見。熊本市島崎と、「坂下」という地区にもあったと伝えられているが確認されていない。同会は「戦争遺跡を掘り起こし、後世に伝えるためにも他の地下工場を見つけたい」と、情報提供を呼び掛けている。同会・高谷さんTEL0968(74)5030。(藤本英行)
345
:
とはずがたり
:2010/02/07(日) 00:07:32
>>344
ちょっと山行がスレの対象っぽいけど,現役の芋倉庫として活躍中なんかw
346
:
荷主研究者
:2010/02/07(日) 00:10:31
>>345
をれも写真の感じ的には山行がスレかなと迷ったら。
>他の地下工場を見つけたい
この辺は山行が的要素か…
347
:
とはずがたり
:2010/02/07(日) 00:33:05
>>346
この辺ね。「坂下」という地区は場所も判ってない感じか。
>会は10カ所のうち8カ所を発見。熊本市島崎と、「坂下」という地区にもあったと伝えられているが確認されていない
348
:
とはずがたり
:2010/02/12(金) 10:06:55
ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書
http://www.asahi.com/politics/update/0211/TKY201002110364.html
2010年2月12日3時30分
写真:ロッキード事件をめぐり「MOMIKESU」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館ロッキード事件をめぐり「MOMIKESU」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館
ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。
この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。
ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。
与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。
文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。
さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。
文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。
結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。(奥山俊宏、村山治)
349
:
ももだぬき
:2010/02/13(土) 09:42:17
今年、韓国では屈辱の韓国併合から100年を迎えます。
350
:
荷主研究者
:2010/02/24(水) 23:37:56
http://kumanichi.com/news/local/main/20100222006.shtml
2010年02月22日 熊本日日新聞
薩軍使用の雷管多数出土 植木町の山頭遺跡
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20100222145320001.jpg
西南戦争で薩軍が使ったとみられる銃の「雷管」
植木町教育委員会は22日、同町滴水[たるみず]の山頭[やまがしら]遺跡で西南戦争時に薩軍が使用した銃の発火装置・雷管が多数出土したと発表した。これまでの調査ではすぐ近くに、官軍の塹壕[ざんごう]跡や銃弾の薬きょうなども見つかっており、同町教委は「詳細な交戦の状態を裏付ける具体的な証拠が確認されたのは貴重。大きな成果」としている。
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20100222145320002.jpg
西南戦争で薩軍が使ったとみられる「雷管」が見つかった発掘現場(手前)。奥は兵士にふんした町教委の職員ら=22日午前、植木町滴水(小野宏明)
見つかったのは、薩軍が使った旧式のエンフィールド銃の雷管106点。薩軍、官軍のどちらのものかは判明していないが、薬きょう23点や小銃弾6点なども見つかった。
約10平方メートルの狭い場所に集中しており、同町教委は「薩軍兵士は1〜2メートルの間隔で立ち、発射したのではないか」とみている。
同町教委は2008年、出土地点から西に50〜100メートル離れた場所で官軍の塹壕[ざんごう]跡と薬きょう、弾丸を発見。官軍の塹壕跡から西に約300メートル離れた場所には薩軍の陣地「荻迫柿木台場」があったことが分かっている。
西南戦争の記録を示した官軍側の資料「従征日記」や「征西戦記稿」によると、1877(明治10)年4月6日に同台場をめぐる両軍の交戦記録があり、同町教委によると出土した一帯は、田原坂の戦いで敗走した薩軍と追撃する官軍の交戦地点だったこともあり得るとしている。
同町教委は「文献や資料にある戦いの実証ができ、西南戦争戦跡群の国史跡指定に向けて弾みがつきそうだ」と話している。(鎌倉尊信)
351
:
とはずがたり
:2010/02/26(金) 00:35:39
拾った。
_____
/::::::─三三─\ リアルな話すると元帥の5人に3人は粛正で死ぬ。
/:::::::: ( ○)三(○)\ ソ連の人口1億7000万人を平均寿命の50年で割ると
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | _____ 推定年間死亡者数は約340万人となる。
\::::::::: |r┬-| ,/ .| | このうち約35万人が粛正で死ぬ
ノ:::::::: `ー'´ \ | | つまり 10人に1人は、粛正で死ぬ。
____
/:∪::─ニ三─ヾ さらに正確な計算をすると、
/:::::::: ( ○)三(○)\ 1938年のソ連の年間逮捕者数は63万8500人
(:::::∪:::::::::: (__人__)::::: i| ____ 内 処刑者数は32万8600人。
\::::::::: |r┬-| ::::ノ | | 実に10人に6人の割合で粛正で死ぬ。
リ:::::::: `ー'´ ::\ | | ヒーロー戦隊の3人は粛正で死ぬ。
______
/:∪::─ニjjニ─ヾ またテキトーに説明すると、
/:::li|.:( ○)三 (○)\ 収容所や集団農場での死亡は
(:::||!.:∪::::: (__人__)):::: i| ___ 処刑の約10倍。 40代〜60代が中心。
)::::::::::::: |r┬-| li::::/ | | シベリヤが最多でカザフが最少。
/::::::::::::::: `ー ' ::::::ヽ | | つまり重労働のストレスで死ぬ。
全体主義国の中ではソ連がダントツ2位。 独の1.2倍、日本の20倍、中共の1/4
赤軍粛正者の大半は高級将校であり、中佐以下は10%に過ぎない。つまり、赤軍将官の58%
およそ706人中408人は粛正で死ぬ。
スターリンの精神衛生が安心。 皆生きるのがツラい。
352
:
とはずがたり
:2010/03/07(日) 12:43:17
三木元首相「自民出て総選挙」示唆 疑獄事件で米に密使
http://www.asahi.com/national/update/0306/TKY201003060351.html
2010年3月7日4時38分
写真:平沢氏を通じて伝えられた三木首相のメッセージを記録した米政府文書=米ミシガン州平沢氏を通じて伝えられた三木首相のメッセージを記録した米政府文書=米ミシガン州
戦後最大の疑獄といわれるロッキード事件への対応をめぐり、1976年春、当時の三木武夫首相が外交評論家の平沢和重氏を密使に指名して、キッシンジャー米国務長官と交渉させていたことが、このほど秘密指定が解除された米政府の内部文書でわかった。三木首相は、日本政府・与党の幹部が事件に関与しているかどうか内密で確認を求め、回答次第では自民党を割って総選挙に打って出る可能性を伝えていた。日米関係の裏面史がまた一つ明らかになった。
ロ事件は76年2月4日に米議会で明るみに出たが、ロ社のカネを受け取った政府高官の名前は伏せられていた。日本では真相解明を求める声が高まり、三木首相は同月24日、フォード米大統領に、疑惑に関する全資料の提供を求める親書を送った。
その2日後、米政府・国家安全保障会議のピーター・ロッドマン氏に、若泉敬(けい)・京都産業大学教授から電話があった。ロッドマン氏の報告文書によれば、若泉氏は「三木首相がキッシンジャー長官との秘密会談にあたらせるため、平沢氏を『個人的な秘密代理人』に指名した」と伝えた。
平沢氏は外交官やNHK解説委員を歴任し、三木氏の外交ブレーンだった。若泉氏は沖縄返還交渉などで佐藤栄作首相の密使を務めた人物で、その後も米政府と連絡を保っていた。
平沢氏とキッシンジャー氏は3月5日、ワシントンで極秘に会い、大統領の返書について話し合った。国務省の記録によれば、米側は資料提供の条件として「秘密扱い」を求め、平沢氏の同意を得た。両者で返書の文案を検討し、表現をいくつか削除した。
返書は3月12日に日本に届いた。両政府は、米国が資料を秘密扱いで日本の検察に渡すことで、同月23日に合意。捜査や訴訟にのみ使うのが条件で、「法執行の責任を有しない政府機関に開示されてはならない」と規定された。
資料が届く前の4月上旬、平沢氏はロッドマン氏に電話し、三木首相からキッシンジャー氏へのメッセージを伝えた。「元首相、現職閣僚、与党幹事長のだれかが事件に関与しているかどうか極秘・緊急に知りたい」という内容。
この際、平沢氏は「米側の返答次第では、三木首相は無党派の改革案を掲げ、内閣からも党執行部からも離れて国民の信を問うという、前例のない選択肢を実行に移すだろう」と述べた。
しかし、米側は4月10日、「日本政府と最近合意した手続きによらなければならない」として、要請を断った。
結果的に三木首相は衆院を解散せず、76年末に退陣。88年に死去した。(奥山俊宏)
353
:
名無しさん
:2010/03/08(月) 17:49:30
TheBarrenZone-04
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-04.htm
445Isogawa Takuji : 2009/10/16(金) 10:33:30 ID:FsII/bra0
瀬島龍三氏は、NTTの顧問として、米国外資の日本侵略のため
に通話明細を漏洩させ、伊藤忠の商売を成功させた行為により、
実際に第二の敗戦を招いている。
NTTの海外進出は、資金や資本を外資に略奪されるだけの粗末
な作戦だった。旧大日本帝国軍が敗戦したのも当然である。
瀬島龍三氏は、敗戦の原因を装備品の物量に求めたのだろうが、
実際には、作戦そのものが間違っていたと言えるだろう。
TheBarrenZone-06
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-06.htm
465Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 01:06:05 ID:5tRdRuLK0
また、グリコ森永事件やAUM真理教事件などの劇場型犯罪テロ
行為において、日本の旧内務省関係者が、電電公社や電話会社に
通話記録の蓄積と提供とを要求した行為は、それを仕掛けた軍産
複合体による日本企業への侵略を容易としている。
つまり、通話記録を入手することにより、日本企業の指揮命令の
系統や系列関係を、米国軍産複合体の系列である外資は、容易に
把握することができるようになっていた。
瀬島龍三氏は、そのような米国軍産複合体の謀略に加担していた
のである。
467Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 01:10:11 ID:5tRdRuLK0
瀬島龍三氏には、いろいろと迷惑を被っているので、書くことが
あるということです。
>>466
彼の秘書が、私を訪ねてきたこともありました。
500Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 11:36:10 ID:5tRdRuLK0
ちなみに、旧軍関係者には国家として米国と戦争して敗戦したの
だから戦勝国の米国に従属あるいは隷属するのが当然だ、という
意識が強いが、一般国民は、阿呆で馬鹿な軍隊が、米国と勝手に
戦争して敗戦しただけであり、俺達が敗戦したわけではないから、
米国の対日要求に屈服する必要は無い、というのが一般的な意識
である。
瀬島龍三氏は、旧軍関係者であるので、米国への追随や隷属への
傾向が強く、伊藤忠商事の商売として、米国共和党の牙城である
南部の穀倉地帯や油田地帯、および、その勢力である軍産複合体
の系列から、穀物や原油を輸入するにおいて、対米従属外交は、
その私益において必須であったと言える。
TheBarrenZone-07
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-07.htm
840Isogawa Takuji : 2009/10/23(金) 20:53:23 ID:ZQsXS6D60
ちなみに、瀬島龍三氏が顧問であったNTTでは、通話明細での
政府や企業の動向を把握するという手法が採用されていた。
TheBarrenZone-08
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-08.htm
365Isogawa Takuji : 2009/10/26(月) 00:21:28 ID:kD3LtOLF0
日米開戦は、ソビエトにとって、ナチスドイツとの両面作戦での
負担を回避するに好都合である。ということは、瀬島龍三はソ連
のスパイであった疑いが強い。
戦後、シベリアに抑留されたのは、ソビエトの庇護を受けるため
であったとも疑われる。
>>362
TheBarrenZone-12
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-12.htm
352Isogawa Takuji : 2009/11/20(金) 00:37:00 ID:CTpG13Hr0
情報力が重要であることが表現されていたが、NTTのように、
通話明細を漏洩して外資の日本侵略を補助して儲けるというよう
なことを、瀬島龍三氏はやってしまっているので、説得力が無い
と言えるだろう。
354
:
名無しさん
:2010/03/08(月) 17:52:28
>>353
TheBarrenZone-18
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2010-01/TheBarrenZone-18.htm
387Isogawa Takuji : 2010/01/12(火) 20:22:25 ID:Fb6T+QZc0
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/NHK-TaigaDrama/2010/Ryomaden-028.htm
#984
第二次世界大戦で没落した旧軍部(薩長、旧幕等)が、米国共和
党を背景に勢力を復古しようとしたのが中曽根改革であり、その
中核として、電電公社の民営化による資金の獲得、通話記録漏洩
による情報の獲得が行われて、その後、瀬島龍三氏がNTT顧問
に就任することになった。
>>823
瀬島龍三氏は、参謀本部で生存率の高い戦線に派兵することで恩
を売り、生存率の低い戦線へ派兵した人々からの報復を恐れて、
「抑留されていた」などとして、ソ連に亡命していたということ
になる。
昭和維新の共産主義革命は、蘇維埃連邦からの指導で実施され、
東条内閣が成立すると、対米戦争へと向かうことになった。
当時の認識では、米国の軍産複合体が、ナチスドイツに兵器技術
を供与して、欧州での大戦を再発させ、欧州を焦土とすることで、
大恐慌から脱出しようとしたという見方はある。
1936年 2月26日 二・二六事件
1941年 4月13日 日ソ中立条約
1941年 6月22日 ドイツ国防軍 対ソ攻撃開始
1941年10月18日 東條内閣発足
1941年12月 8日 真珠湾攻撃
瀬島龍三氏が、NTTで通話記録をデータベース化した通話明細
で、共産主義的なスパイの手法で、日本を東ドイツのように米国
の衛星国家にしたことは、大罪であると言えるだろう。
801Isogawa Takuji : 2010/01/22(金) 09:23:15 ID:7goe0FKB0
瀬島龍三氏の実像は、壹岐正(唐沢寿明氏)よりも、里井達也(
岸部一徳氏)の方に近いと思われるのだが。
昭和維新(二・二六事件等)は、共産主義革命であり、ソ連との
日ソ中立条約後の対米開戦(真珠湾攻撃等)は、ソ連からの指導
において行われたと疑われるのであり、参謀本部の瀬島龍三氏は
「抑留」という名目でソ連に亡命していたと言えるだろう。
その抑留が解除され、日本に帰国するに、CIAの傀儡(スパイ
)となることを約束させられていたはずで、瀬島龍三氏が、米国
の自動車会社と渡り合ったのかどという疑問が生ずる。
米国の自動車会社が米国民主党の勢力基盤であったことを考慮し、
米国共和党が南部の石油会社や穀物会社を勢力基盤としているの
で、伊藤忠商事が米国共和党の傀儡であることは現在でも同じで
あるという背景も説明すると、CIAが、米国共和党の利益誘導
をしていることも説明しなければならない。
Takuji-Isogawa_Talking-and-Walking
http://www.geocities.jp/isotaku503/
355
:
名無しさん
:2010/03/08(月) 18:26:40
>>348
>>352
丁度昨日読み終えたとこなんですが、ロッキード事件の発生当時の政界の状況を描いた
ロッキード事件「葬られた真実」平野貞夫著講談社
による無茶苦茶単純化した物言いをすると
・2月初旬の事件発生当時は児玉ルートで中曽根が一番危なかったが主治医が麻酔などで意識不明状態を作って証人喚問回避に成功
・田中を葬りたい三木と検察が小佐野丸紅ルートを本筋にすりかえ
・3月にCIA関与の可能性が報道され「日本の複数政党に工作資金がばら撒かれた」という証言もでる
・自民党以外では民社党が工作対象とされ、国会正常化すると追求される側に回るかもしれないと野党共闘を放棄、自民と二党で予算案可決
・さらにそのまま解散総選挙で選挙後に三木首班の自民・民社連立政権(田中抜き)を中曽根主導で計画
という展開があったようです。
> 中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。
> 三木首相は無党派の改革案を掲げ、内閣からも党執行部からも離れて国民の信を問うという、前例のない選択肢を実行に移すだろう
というのもそういう予備知識込みで見るとそういう話か、と納得できました。
356
:
とはずがたり
:2010/03/08(月) 18:39:32
もしそのストーリーが真実ならアメリカが日本の政治を或る程度コントロールしているってのは本当になりますねぇ。
で,中曽根の民営化路線は,アメリカへのキャッシュバックだった,と云う事になりますか。
357
:
名無しさん
:2010/03/08(月) 19:05:47
>>356
> アメリカが日本の政治を或る程度コントロール
工作資金の話ですか?
それならこのストーリーとは関係なく、CIAから複数の政治家(岸とか)に資金提供があったというのは既に明らかにされてませんでしたっけ?
中曽根が親米なのはまぁそういう理由かもしれませんが、本質的に風見鶏体質な性格が、寄らば大樹の陰とばかりに米国に擦り寄らせたんじゃないかな、という気もします。
ついでに書いとくと、あの本は、むしろ巷間騒がれた「独自資源ルートを開拓しようとした田中が米国に狙い撃ちされた」という見方を否定(そういう方向でコントロールされてた訳ではない)という感想を抱かせるものだと思います。
もし未読であれば、(小沢憎けりゃ平野も憎いかもしれませんが)ご一読をお薦めします。
358
:
とはずがたり
:2010/03/08(月) 19:09:37
別に小沢も平野も憎くはありませんぜw
社会党へもソ連からなんて話しがありましたが,そういう資金なんかよりもこういう輿論が沸騰するような情報に関してアメリカが決定権持ってコントロールしてたと云う方が生々しい気がします。
359
:
名無しさん
:2010/03/08(月) 19:15:47
> 別に小沢も平野も憎くはありませんぜw
そうですか、ちょっと安堵いたしました。
> こういう輿論が沸騰するような情報に関してアメリカが決定権持ってコントロールしてた
これって具体的にどの辺の事でしょうか?
自分としてはそういう風にとれる個所はなかった気がするのですが、
>>355
の要約の仕方が悪かったので誤解をさせてしまってるかもしれません。
360
:
とはずがたり
:2010/03/08(月) 19:24:51
>>352
の三木の件に関してです。
アメリカが情報を出せば自民党政権が斃れかねなかった訳で,ロッキードの決着が
>>355
の様に決して単純に真実が明らかになったんじゃないとするとアメリカが陰に陽に情報の制御で日本の方向性を制御してたんじゃないかと想像(妄想)出来るんじゃないでしょうかね
361
:
名無しさん
:2010/03/08(月) 19:41:58
>>360
米側が「極秘」を強調してたのは
・被告人サイドの人権尊重(政敵に政治的に利用されないため)
・西洋諸国にまたがる事件なので他国への影響を考慮
が理由とされてます。
逆に三木が「公表」を迫ったのはとにかく「田中」の名前をどんな形ででも出したかったらで、最初は「検察が極秘で取り寄せた資料でも刑事訴訟法47条但書を盾に公表しようとしてた」という感じです。
ところが実際に受け取った資料には田中の名が無かった(つまり、多分最初から公表しててもまともに対応してれば自民政権は倒れなかった)ので、そのウルトラCも不発に終わったと。
まぁアメリカが(向こうの人権感覚だと当然かもしれませんが)あまりに隠そうとする、一方で三木や野党は「被告人の人権」というか「田中の人権」なんて考えず「やばい資料だから隠そうとしてる」と思い込んだ結果の公開請求だったんだと思います。
ようは最初から悪玉を決めたりして結論もって事にあたって、それにそぐわない事実は全部無視するみたいな正義の味方ぶる方が一番有害なんだって感じですかね(まるっきり別スレで似たような事書いた記憶が)。
362
:
名無しさん
:2010/03/08(月) 19:45:36
あ、あと
>>355
見直して、省略しすぎて主語などの部分が抜けてて読み間違い易い書き方してたと思うので訂正(『』内の追記)します。
訂正
・2月初旬の『米国でのロ』事件発生当時は児玉ルート『が日本に関するものでは唯一証言されていたの』で『児玉と親しかった』中曽根が一番危なかったが『児玉の』主治医が麻酔などで意識不明状態を作って証人喚問回避に成功
・田中を葬りたい三木と検察が小佐野丸紅ルートを本筋にすりかえ
・3月に『ロ事件に』CIA関与の可能性が『米国内で』報道され「日本の複数政党に工作資金がばら撒かれた」という証言もでる
・『この米国報道を受けて日本国内では』自民党以外では『自民党に協力的態度をとる事が多い』民社党が工作対象『だったのでは』とされ、国会正常化すると『民社党は自分たちも』追求される側に回るかもしれないと野党共闘を放棄、自民と二党で予算案可決
・さらにそのまま解散総選挙で選挙後に三木首班の自民・民社連立政権(田中抜き)を中曽根主導で『三木と民社党とも恐らく共謀の上で』計画
363
:
とはずがたり
:2010/03/09(火) 01:27:48
平野の主眼はアメリカがどうのと云うより三木vs田中にあって,結果的にはバルカン政治家にコンピューター付きブルドーザーがやられたと云う構図なんですね。
三木vs田中の系譜が現在の仙谷vs小沢かw
364
:
名無しさん
:2010/03/09(火) 01:49:44
>>363
私の引用部分をまとめるとまぁそんな感じかもしれませんが、本書全体の記述内容としては
どんな事してでも田中を政治的に殺したい三木総理大臣 vs どんな事してでもこの国会を正常化したい前尾衆議院議長(正常化した後で別の目的有)
という感じになってます。そして平野は前尾の秘書という当時の立場から、三木への批判的コメントが多いですね。
アメリカ側はこれが日本を含めた他国で政治問題化する事を懸念し続け、田中側はこの問題自体を軽く見てまともな対応してない、という記述も多くされてます。
もし、三木が「ロッキード事件で悪党をやっつけようとした正義の味方」的な見方をされてるのなら、精神安定上読まれない方が良いかもしれません。
365
:
とはずがたり
:2010/03/09(火) 02:47:08
既にご承知と思われますが俺なんかもう三木は正義の味方とまでは行かなくても好ましく思ってる方ですが(同時代的に政治ウオッチしてたら河野親子と同じ程激しく嫌ってたかもですけど),自民党内でリベラルな政策を実現する為に上手に自分の印象を使ったんじゃないでしょうかね。
三木vs田中もどんな事してでもを政治的に殺したい個人的怨念みたいなのではなく党内基盤の弱い三木の数少ない武器という感じで。結局引き摺り下ろされちゃったあたりが限界か。
366
:
名無しさん
:2010/03/10(水) 09:33:07
山本五十六の大罪#52(本論) - 木庵先生の独り言 - Yahoo!ブログ
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木庵先生の独り言 一言メッセージ :アメリカ在住、比較文化論
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山本五十六の大罪#52(本論)
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山下奉文を窮地に追い込む、大本営・陸海の共同謀議
3、 堀栄三は、出張命令により、13日夜の電報を打った後、山下奉文の方面軍司令部に到着した(10月16日)。それが、突然、大本営参謀を一時的に解職となり、山下奉文の司令部に配属となった(10月27日)。表向きでは「山下奉文が欲しがったから」との噂を流したが、実際は、参謀本部が唐突に行った追放人事である。この27日、事前の内示もない辞令を突然に受けて堀は戸惑い驚いた。
堀が東京に戻れば、瀬島の“電報にぎり潰し”がばれるので、陸軍省・参謀本部にまたがって大細胞に膨れ上がっていたGRU組織としては“堀の口封じ”をしたのである。レイテ島が玉砕し、ほとぼりの冷めた翌1945年1月末、堀を大本営陸軍部の情報部に戻した。瀬島のモスクワからの帰国が2月11日頃と余りに遅かったのは、ソ連軍の満州・樺太侵攻の作戦策定に「ソ連人」として瀬島が参加していたからとしても、堀の東京戻りの後にする狙いもあったろう。
4、 堀に加えて、参謀本部作戦課の杉田一次まで、わざわざルソン島に滞在させる必要はあったのか(10月19日〜11月15日)。レイテ島作戦に反対する山下奉文を監視する為だったのが、瀬島の悪事を気づいて暴く能力のある参謀は杉田しかいないから、杉田の"一時追放"だったと考えられる。当時の参謀本部で、「情報分析屋ベスト・ツー」杉田、堀の二人がいなければ、作戦課は、米軍の動向に関して出鱈目な状況を設定して好き放題の作戦命令ができる。
5、 海軍は、台湾沖航空戦の誇大な嘘戦果を、なにも10月14日〜16日に発表して、嘘の上塗りをする必要はない。それは、「撃沈は空母8隻、巡洋艦3隻、撃破は空母7隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻・・・」と超誇大な嘘を並べたものであった。
瀬島は、海軍軍令部とのリエゾン将校であった。捷一号担当の作戦参謀でもあった。海軍の方では瀬島を、海軍の作戦参謀と同格に扱っていた。瀬島はいろんな工作を海軍に働きかけていただろう。このレイテ湾沖海戦の嘘戦果発表が瀬島と無関係とはいえない。
また海軍内部では、21日頃には、台湾沖航空戦で発表したのは嘘戦果だと気づき、米内海軍大臣ですら知るところであった。それを訂正もせず、27日に、新たな超誇大虚報を発表した、現地の山下奉文がレイテ島作戦を放棄するのを阻止するためでもあったろう。
6、 この27日、現地も報道で知っている、海軍の十八番「敵機動部隊が殆ど壊滅的打撃を受けたる疑いなく戦局は大局より観て我に有利・・・」との電報を、不必要にも、山下奉文の臨時側近となった杉田一次あて、参謀本部作戦課長(服部卓四郎)が送っている。27日はまた、堀の一時追放の辞令が突然言い渡された日で、堀にとって忙しい、この10月27日、「堀」の名前で、堀はそんな情報を持っていないのに、レイテ湾沖海戦の戦果についてほぼ官軍の公表どおりの嘘数字を情報部長宛に打電している。10月27日に集中して、工作めいたことが同時に起こったのは、これらが「服部ー瀬島」が実行した謀略工作だからである。
367
:
名無しさん
:2010/03/10(水) 09:37:09
>>366
戦史叢書の事実改竄と瀬島の影
政府公刊の『戦史叢書 レイテ決戦』には、首を傾げざるを得ない部分が多すぎる。まず、瀬島龍三が、この1944年9月上旬から、病名なしに「重症で入院していた」とか、「病気欠勤していた」とか、真赤な嘘が書かれている。瀬島本人は、1990年の回想時では。「鬱病」と言っている。1995年時の回想では、「心身疲労症」と言っている。だが、瀬島には鬱病になる病質が全くないから、この嘘は瀬島が元気だったことを裏付けする証拠になっている。
「9月上旬帰京し報告を終えるや衰弱の身を横たえた、・・・同少佐は重症であった」
この件について、中川は調査をしている。事実は次のようであった。
先ず、山下奉文が第14方面軍司令官(発令は9月26日)としてマニラに赴任するにあたって、瀬島を同行させようとしたので、これを回避すべく、瀬島は9月10日頃から害のない薬(木庵注:漢字で「むがいのやくぶつ」は《記事に登録できない文字列》になる)を飲んだのか入院して重病説を流した。"世紀の仮病演技"である。この結果、朝枝繁春が瀬島に代わり選ばれ、山下に同道した(発令は9月28日)。
10月に入るやすぐ、瀬島は通常通り勤務した。だから、堀の電報握りつぶしを10月13日やってのけられた。本人は、「9月から11月末までずっと欠勤していたというが、そう証言する作戦課の同僚は一人もいない。実際には、瀬島は10月1日あたりから年末まで、レイテ島戦に関する様々な工作をしていた。元気であったが故にこの年末、厳寒のモスクワに外交伝書使(クーリエ)となって、2ヶ月近くも滞在できた(1944年12月25日〜45年2月11日)。モスクワでは、ソ連軍の満州侵攻の手引きと、その作戦づくりに参画していたのだろう。
クーリエは必ず二人一組なのに、このときの瀬島クーリエは一人で、前例がない。このクーリエを命令した秦彦三郎・参謀次長(および服部卓四郎)が、実はソ連と通牒して、陸軍省・外務省トップから、一人でも特に許すとの、特例の了解を全力をあげてとりつけたようだ。
松本秀満は、『戦史叢書』の担当官であるが、彼が瀬島から高額の報酬を受けたかどうかはわからないが、不的確の人物であったことは間違いない。ところで中川は、瀬島から5百万円単位で金を受け取っている身近な例をいくつも知っていると書いている。中には2千万円のもいたという。
瀬島龍三は開戦時の1941年の時はむろん、戦時中はずっとソ連のGRUに所属し、シベリア時代ではNKGBに、1956年8月シベリアから帰還する直前にKGB第一総局付きの高級工作員になったようである。1979年、米国に亡命したレフチェンコKGB中佐が、米国議会で証言したコード名「クラスノフ」とは、瀬島龍三のことである。
瀬島は11年間のシベリア抑留時代のうち、1948〜50年の約一年半、モンゴルのウランバートルにあった、(偽装看板は一般収容所名の)高級工作員養成所で訓練を受けている。このときの教官の一人に、1954年、東京で米国に亡命した、ラストボロフNKGB中佐がいる。瀬島は、転々としたシベリア抑留時代の収容所名のすべてを明かさない。この高級工作員養成所に入所していたのが判別されないようにする、用心深さからである。
ラストボロフは、自分の教えた教室には11名の元・エリート日本陸軍将校がおり、その中に瀬島がいた旨を米国で証言している。在日のCIAオフィサーは、瀬島が1956年8月にシベリアから帰国直後、下船した舞鶴港にそのまま一週間ほど、「日本の官憲に依頼し」拘禁し尋問した。さらに瀬島が陸上自衛隊に入らぬよう、直ちに防衛庁その他に働きかけをした。米国の断固たる、この瀬島対策の根拠の一つは、ラストボロフ証言だった。
瀬島は、やむなく伊藤忠(商社)に入社したが、世間の眼は「ソ連のスパイ」であり、これを軟化させる一計を案じた。山崎豊子の所にいって自分を売り込む小説の主人公にしてもらうことであった。それが「サンデー毎日」に連載され(1973〜8年)、『不毛地帯』となった。そして、この小説の主人公「壹岐正』を通じて、瀬島はイメージを劇的に好転させるのに成功した、数多くの事実の歪曲や隠蔽にも成功した、瀬島の情報戦はかくも天才級で、スパイと名指しされながら、出世と栄誉の中で長命の人生を終えた。
368
:
名無しさん
:2010/03/10(水) 09:39:41
>>367
<中川は瀬島のことを以上のように書いているが、木庵もこれから調べてみる。You Tubで観た瀬島は次のようなことを言っていた。「シベリヤで共産主義万歳と言っていた人間も、日本に帰る船の中では、他の収容者と仲良くなり、シベリヤでのわだかまりもなく、無事に帰国できる喜びを分かちあった。やはり、同じ日本人の心をもっていたのだな」。嘘である。木庵がシベリヤ関係の人を取材したところによると、ソ連側の教育係になったような人間は、船から突き落とされるようなこともあった。ほとんどの抑留者は表向きは共産主義に賛同するようなポーズはとったが、心の底でソビエトの本当の犬になった人間、そのお陰で優遇されたり、威張っていた人間を恨んでいた。木庵>
写真の説明:ごんちゃんと猫ちゃんシリーズ、まだ続く。
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369
:
名無しさん
:2010/03/10(水) 10:13:19
瀬島龍三氏 逝去-日本財団会長 笹川陽平ブログ
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1011
瀬島龍三氏 逝去 [2007年09月07日(金)]
(著:瀬島龍三 フジテレビ出版)
「瀬島龍三氏 逝去」
瀬島龍三氏が逝去された。享年95歳。
以下はウィキペディアからの引用である。
『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀をたまわる。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。
勲一等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第二次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した。』
更に『ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については、保阪正康氏の主張に対して、本人も半藤一利氏も否定している。』とある。
ウィキペディアで興味を引くのは、
『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。
それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。
このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる」と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。
私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連側検事証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後瀬島氏は、その天皇から勲一等瑞宝章を親授された。
日本の勲章制度は与えられるものではない。自分が受章に値すると思えば、自らの履歴書と功績調書を作成し、しかるべき役所を通じ提出する。
賞勲局の審査を経て、最終的には官邸の了解を得て決定されるものである。
瀬島氏は、自ら功績調書を作成して、有罪をとなえた天皇より名誉を受けたのだろうか。
かつて、東京ヒルトンホテルの事務所で、旧ソ連での遺骨収集について話し合ったとき、問わず語りに「叙勲は女房のためだった。苦労をかけたからね」と話すのを聞いたことがある。
私には、彼の行動に、日本帝国陸軍参謀としての矜恃は感じられないのだが・・・。
かつて、モスクワ(ロシア)で日本人捕虜の責任者を務めたイワン・コワレンコ氏に会ったことがある。来日した折面会したこともあり、二、三度の面識である。
(著:イワン・コワレンコ 文藝春秋)
イワン・コワレンコ氏については、知る人も多い。
『旧ソ連共産党で、戦後長年にわたり対日責任者を務め、ジベリアに抑留された旧日本兵の親ソ化工作など、日ソ裏面史の生き証人といわれた。
第二次大戦後、旧日本軍将兵がソ連各地で強制労働などに従事したシベリヤ抑留で、抑留者を共産主義に変え、ソ連への協力者に仕立てる思想教育「民主化運動」を主導した。
日本帰国後の情報提供者の育成を任務とし、抑留者が読む日本語新聞「日本新聞」の編集長を務めた。』(日経テレコンから引用)人物である。
自宅に電話を入れると、ホテルまで来てくれた。
「心臓が悪いので、娘から外出を厳しく制限されている。今日は他でもない、笹川さんだから」と言って、日頃はもの暗い感じの男が、上機嫌で2時間近くも話してくれた。
「瀬島はラーゲリ(収容所)では静かで目立たない男であった。ただある時、ラーゲリの集会で演説を始めた。
何を話したかは記憶にないが、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発したのには正直いって驚いた。ひょっとしてこの男は対日工作に使えるかもと考えた。」
コワレンコ氏は、身振り手振りで話した後
「ラーゲリで瀬島が3年間近く行方不明になったことが、今も日本では謎とされているようだが、話は簡単。ウラジオストック郊外の一軒家に、女中もつけて、ソ連側検事証人として準備をさせていたのだ」と語った。
関係されていた亜細亜大学で、先年、大量の書類、資料などが焼却されたという。研究資料として、是非、残しておいてほしかったと、残念がる歴史家が多い。
昭和史のいくつかの重要な疑問点について、瀬島氏は沈黙を守られた。
そして、その沈黙は永遠のものとなってしまった。
ご冥福をお祈りする。
Posted by 笹川 陽平 at 08:29 |
370
:
名無しさん
:2010/03/10(水) 10:14:07
>>369
B&G全国市長会議(その2)-日本財団会長 笹川陽平ブログ
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1275
#BlogEntryExtend
B&G全国市長会議(その2) [2008年03月18日(火)]
・・・、ある部分では尊敬していたのですが、陸軍参謀の瀬島龍三氏です。60数万人のシベリア捕虜を置き、自分だけはナホトカの一軒家に住んで、ソビエト側の検事証人として極東軍事裁判に臨んで天皇有罪論を唱えました。瀬島氏も同じように私はこんな良いことをしましたということで勲一等をもらった人です。私は本人に「先生は何故、叙勲を申請されたのですか」と聞いたことがあります。すると長い間苦労をかけた妻のためにもらったというのです。
数十万人の兵士が厳寒の地で苦しみ、多くが亡くなっていく中で、一人一軒家に住んで天皇有罪論を書き上げ、ソ連の検事証人として出廷した人が、その有罪論を唱えた天皇から勲章をもらっているのです。・・・
Posted by 笹川 陽平 at 07:41 |
371
:
名無しさん
:2010/03/10(水) 21:12:42
この名前が出てくるとは思わんかったけど出てくると当然という気もしてくる
> 西山元記者
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2010031000832
西山元記者らを19日に参考人質疑=与党、歴代首相らも検討−密約問題
衆院外務委員会(鈴木宗男委員長)は10日の理事懇談会で、日米間の「密約」問題の解明を進めるため、元毎日新聞記者の西山太吉さん(78)ら4人に対する参考人質疑を19日に行うことを決めた。また、民主、社民、国民新の3党は国対委員長会談で、自民党政権時代の首相、外相経験者を国会に招致する方針を決めた。密約にかかわりが深い関係者が国会で証言するのは初めて。
参考人は西山さんのほか、斉藤邦彦元外務事務次官(75)、東郷和彦元外務省条約局長(65)、大平正芳元外相の秘書官を務めた森田一・元運輸相(75)。
西山さんは、沖縄返還交渉で日本が米軍基地跡地の原状回復補償費400万ドルを肩代わりするとした機密公電を外務事務官から入手し、国家公務員法違反罪で有罪が確定した。斉藤氏は外務省の条約局長を経て次官に就任しており、核持ち込みなどに関する密約の経緯を熟知しているとみられる。
東郷氏は核兵器搭載の米艦船の寄港を事実上黙認する政府方針を記した文書を、条約局長時代にファイルに保管したことを明らかにしている。また、森田氏は大蔵省(現財務省)勤務時に、原状回復費400万ドルの支出を担当。さらに、核搭載艦船の寄港をめぐる日米間の「暗黙の合意」を解消しようと苦悩する大平氏の姿を秘書官として間近に見ている。
一方、歴代首相らの招致に関し、民主党の山岡賢次国対委員長は記者会見で「自民党長期政権下で、国民に(密約を)知らせないままでいたことは誠に遺憾だ」と強調した。ただ、自民党の反発は必至で、実現するかどうかは不透明だ。(2010/03/10-20:39)
372
:
荷主研究者
:2010/03/14(日) 18:39:29
http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20100313/CK2010031302000166.html
2010年3月13日 中日新聞
明治の貧窮救済策 米騒動発祥地 魚津で新史料
市役所書庫から見つかった米騒動に関係する議決書=魚津市役所第一分庁舎で
旧町議会の議決書原本
全国に先駆け米施与
米騒動発祥の地とされる魚津市は十二日、市役所書庫で見つかった米騒動に関係する史料となる「貧民救済規定」や「貧民救済方法」を示した議決書の原本を報道陣に公開した。(武田寛史)
一八八九−九一(明治二十二〜二十四)年の旧魚津町議会による議決書で、不作による米価高騰で米の買えない貧窮者に米を施与することを決めた内容。市議会事務局が昨年十月、膨大な議決資料の中から探し出した。
全国的に米騒動が広まるきっかけとなった一九一八(大正七)年の魚津町の米騒動の後に、町議会が議決した臨時貧民救済規定の基になる議決であり、市は米騒動に関する重要な史料と位置付ける。
議決書は縦十七センチ、横十三センチ、厚みは二・五〜四センチ。約三百七十ページで、一度、水に漬かったため、シミや変色があり、虫食いも多く見られる。
明治時代の下層社会の労働事情を記録した魚津市出身のルポルタージュの祖、横山源之助(一八七一−一九一五年)が雑誌「国民之友」の中で、この議決書を評価する記事を記載している。
長島潔市教育長は「議決書は全国でも類例がないとみられる史料。当時の魚津町が貧窮者の救済に先進的に動いていた証し」と話している。
史料は二十六日から市図書館で一般公開する。
373
:
名無しさん
:2010/03/17(水) 15:55:28
韓国新聞・経済−& ‘ポスコ神話’の朴泰俊会長、‘戦後日本繁栄の策士’ 瀬島龍三氏に会う -wowkorea.jp
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=1
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=2
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=3
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=4
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=5
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=6
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=7
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=8
http://m.wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=9
‘ポスコ神話’の朴泰俊会長、‘戦後日本繁栄の策士’ 瀬島龍三氏に会う
「韓国に行くのは私の最後の望みだ」。「また元気になって私と一緒に韓国に行きましょう」。95歳と80歳。 瀬島龍三氏と朴泰俊(パク・テジュン)氏の出会いは節度と友情、切なさをはらんでいる。 2人の出会いは「サンドイッチコリア」の脱出口を見いだすために中央日報が企画した。
朴泰俊元総理は中央日報の提案に快く応じて、瀬島氏を訪ねた。 20日午後、桜の花が咲き始めた東京・調布市の閑静な住宅街。 2階建ての住宅の玄関付近の部屋は瀬島氏が歩んできた人生の縮小版だった。 片方の壁をぎっしり埋めた本棚には「大本営帝国」「激動の昭和史」「日本戦略研究」「陽明学」など瀬島氏の歴程を見せる歴史書物や戦略書がぎっしりと埋まっている。 もう一方の壁の陳列台には瀬島氏が昭和天皇から受けた各種勲章が並んでいた。
そしてシーツが敷かれたベッドと車椅子。 瀬島氏は少し前にベッドから車椅子に移ったところだった。 明晰な頭脳と勝負師の気質で一時代を風靡した瀬島氏だが、自然の摂理には逆らえないようだった。 話している途中、頭を垂れ、言葉を続けるのが難しい場面もあった。 朴元総理と交わした20分間の対話でも生のエネルギーが消耗されるようだった。 歳月は流れても、若い時代の軍人精神は生き続けているのか。 瀬島氏は渾身の力で腕を上げて敬礼した。 朴元総理も敬礼でこたえた。
2人が頻繁に使う共通の言葉は「国家」「戦略」「東アジア」「生き残り」などだ。 朴元総理が「最近、北朝鮮問題が少しずつ解決の方向に向かっている」と話すと、瀬島氏は「そうか、なぜそうなっているのか」と関心を表した。 朴元総理は「米国が戦略的に進めている一方、北朝鮮も飢餓で苦しい境地にあり、中国も(解決しなければ)大変だからだ」と説明した。
朴元総理は04年の夏に瀬島氏と2時間ほど会った時のことを回想した。 当時、瀬島氏は「一緒に長生きしよう。韓日間の良くないことをわれわれが解決していこう」と語ったという。 「韓国侵略に対する安倍首相のあいまいな立場」について、朴元総理は「彼ら若い極右派らは韓国国民が抱いている感情を受け入れられずにいる。理解する能力もない」とし「瀬島先生らは終生、日本が私たちにしたことを真剣に考えた。そしてそれを頻繁に表現した」と語った。
瀬島氏は1990年に‘密使’の役割を果たした。 当時、盧泰愚(ノ・テウ)大統領の訪日を控え、天皇の過去の歴史反省表現の程度をどのようにするかが論議になった。 日本政府としては昭和天皇が84年9月に明らかにした「遺憾」という表現を踏襲しようという主張が優勢だったが、瀬島氏の考えは違った。 瀬島氏は日本外務省に悟られないよう韓国と日本を行き来した。 瀬島氏の水面下調整で、その年に皇位を継承した現天皇は「痛惜の念を禁じえない」と一歩進んだ表現をしたという。
374
:
名無しさん
:2010/03/17(水) 15:56:16
>>373
◇「株式会社日本」をつくった水面下の実力者、瀬島龍三氏とは
戦後の日本が旧日本帝国軍隊の組織をモデルに日本総合商社をつくっていく過程を描いた小説「不毛地帯」(1976年、新潮社)の主人公のモデル。 この小説は最近の人気ドラマ「白い巨塔」の原作者、山崎豊子氏(82)の代表的な小説だ。 日本陸軍士官学校を次席、陸軍大学を首席で卒業した瀬島氏は大本営(戦時最高統帥機関)陸軍部作戦課主任を経て、1945年7月、満州駐屯関東軍の参謀になったが、「手に余る戦い」として日本の拡戦に反対した。 前線でソ連軍に捕まった瀬島氏は11年間、シベリアで捕虜生活を送り、44歳で帰国した。
瀬島氏は「商社マン」に転向した。 47歳の時、伊藤忠商事航空機部次長となり、その後、軍需事業、石油事業、世界的な戦略的提携事業に飛び込み、次々と成功を収めた。 そして20年後、会長に就任した。 全盛期の瀬島氏は伊藤忠以外にも89の肩書があった。 こうした人脈と実戦経験は、瀬島氏が国家経営の水面下の戦略家になった資源だった。 60年代には「日本株式会社」をつくり、70年代に入ってからは経済開発に拍車を加えた韓国の政界・財界にアイデアを提供した。
82年11月に中曽根康弘首相が就任した後、韓日教科書問題が浮上した。 これをきっかけに瀬島氏は韓国を秘密裏に2度訪問し、全斗煥(チョン・ドゥファン)当時大統領と朴泰俊(パク・テジュン)氏、権翊鉉(クォン・イクヒョン)氏に会った。 戦後の日本首相の初めての韓国訪問を実現させるためだった。 この過程で日本が経済協力資金40億ドルを韓国に支給する‘取引’を実現させる役割をした。 当時の夕食会で中曽根首相が全体の3分の1を韓国語で演説したこと、2次会で韓国語で「黄色いシャツ」を独唱したのも瀬島氏の演出だったという。
瀬島氏はその後も日本電信電話公社(NTT)民営化改革作業を総括指揮する一方、中曽根・竹下政権で行政改革と教育改革の司令官の役割を果たした。 瀬島氏の戦略家的思考は日本経済政策の精神になった。 次は80年代の瀬島氏の発言だ。
「今後の大きな方向性は‘太平洋の時代’だ。 日本という国は世界から8億トンの原資材を輸入し、それを8000万トンの製品に加工して輸出しながら生きていく国だ。 したがって日本の生存条件は2つある。 まず、われわれが貿易をできるよう世界が平和かつ安定しなければならない。 二つ目は、製品を作るために高度の教育を受けた人材がなければならない。 こうした生存条件を満たせなければ、いかなる政策も無駄になるだけだ」。
瀬島氏は昨年まで日本国内の民間専門家らが設立した「日本戦略研究フォーラム」の会長を務め、国家戦略を説破した。 「日本右翼勢力の精神的支柱」「黒幕」という暗い評価もあるが、瀬島氏が「日本繁栄の策士」だったことには間違いない。
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2007/3/26 16:57 入力
375
:
名無しさん
:2010/03/17(水) 18:54:36
>>373
>>374
韓国新聞・経済−‘ポスコ神話’の朴泰俊会長、‘戦後日本繁栄の策士’ 瀬島龍三氏に会う -wowkorea.jp
http://wowkorea.jp/news/News_read.asp?nArticleID=23042&nCP=&pg=1
376
:
名無しさん
:2010/03/19(金) 21:46:15
『季報』平成20 年「瀬島龍三特集」―目 次―Vol. 36
http://www.jfss.gr.jp/kihou_20_Spring.pdf
『季報』平成20 年「瀬島龍三特集」―目次―Vol . 36
「瀬島龍三特集発刊の意義―遺された示唆を探り今日に適用する」
会長中條高紱 ・・・・・1 〜2 頁
巻頭言「憲法はハード、教育基本法は魂」
初代会長瀬島龍三・・・・・・・3 頁
巻頭随想「瀬島龍三さんと私―戦後日本の再構築・日韓関係修復のこと―」
第71 代内閣総理大臣中曽根康弘・・・・・4 〜12 頁
国内時評「問われる国家の統治能力」
初代会長 瀬島龍三 ・・・・・・13 頁
国際時評「日本外交は毅然とすべし」
初代会長 瀬島龍三 ・・・・・・14 頁
主張「戦略なき国家に明日はない」
初 代会長 瀬 島 龍 三 ・・・・・・15 頁
個人史年表「瀬島龍三が関与した国家大事の年譜」・・・・・・・16 〜17 頁
瀬島龍三論「瀬島竜三の役割と責任」
現代史家秦郁彦・・・・・18 〜20 頁
瀬島龍三への思い「遺されたこころざし―滅私奉公―」
副理事長田久保忠衛・・・・・21 ~22 頁
瀬島龍三への思い「遺されたこころざし―次世代への継承―
<最後の最後まで日本のために―クリーンエネルギー開発への意欲>」
評議員 野地 二見・・・・・23 〜25 頁
瀬島龍三の投影『不毛地帯』・・・・・・・・・・・・・・・・・26 〜28 頁
小論「昭和の戦争指導と幕僚―何故同じ失敗は繰り返されたのか―」
防衛研究所戦史部所員和田朋幸・・・・・29~30 頁
戦略ターミノロジー(その4)「瀬島龍三の戦略思考」・・・・・・31 〜32 頁
瀬島龍三著書紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32 〜35 頁
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35 〜37 頁
日本戦略研究フォーラム役員・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38 頁
377
:
荷主研究者
:2010/03/20(土) 17:34:27
吉野作造は古川出身だったのか。「民本主義」懐かしいねぇ。おっ、佐々木公明先生が尚絅学院大の学長になったのは知らなんだ…。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100315t15005.htm
2010年03月15日月曜日 河北新報
吉野作造の業績結集6000点 尚絅学院大が服部文庫創設
尚絅学院大に寄贈された資料を見る大学関係者
民本主義を唱えた宮城県大崎市古川出身の政治学者吉野作造(1878〜1933年)の講義を記録したノートなどの文献・資料約6000点が、尚絅学院大(名取市)に寄贈された。福島大学長を務めた故服部英太郎氏(1899〜1965年)と、長男で東北大経済学部長を務めた故文男氏(1923〜2007年)が所蔵していた。19、20世紀の社会思想史や経済学史を学ぶ上で貴重な資料で、同大は「服部文庫」を創設し、研究に役立ててもらう。
資料に含まれる講義ノートは、吉野が1921年に東京帝大で政治史の講義を行った際、英太郎氏が筆記した。その前年のノートは2008年に見つかっており、話題を呼んだ。
ノートには労働運動や帝国主義の発達などについて記されている。吉野の著作や人物像などを知る上で貴重という。
寄贈資料にはこのほか、ヒトラーが政権を取る前に発行された、ドイツ社会民主主義者や旧ソ連の指導者の著作本などドイツ語やロシア語の文献が数多くある。
文男氏の門下生で、資料整理にかかわった大村泉東北大大学院経済学研究科教授によると、出版した国にも現存しない本もあるという。
文男氏の死後、長女の石幡万里さん=仙台市泉区=と大村教授が、寄贈先を相談。膨大な資料を一括保管できて、公開もできる尚絅学院大に決めた。大学は「服部文庫」として保管、整理する。
石幡さんは「自宅での資料保管も考えたが、研究者が誰でも見られるように寄贈することにした。現物をぜひ手に取って見てほしい」と話す。
吉野は旧制二高時代、尚絅女学院を創設した米国人女性宣教師のアニー・S・ブゼル(1866〜1936年)が開いていたバイブルクラスで学んでおり、大学にも縁がある。今回の寄贈は、ブゼルの「孫弟子」の業績を引き継ぐことにもなる。
佐々木公明学長は「英太郎氏は吉野に大きく影響を受けたと思う。民本主義の息吹が感じられる資料がコレクションに加わり、誇りに思う」と喜んでいる。
378
:
荷主研究者
:2010/03/22(月) 12:52:05
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100319t13015.htm
2010年03月19日金曜日 河北新報
白虎隊士の孫、長州に礼尽くす 養育説を確信、あす山口訪問
自決の場の飯盛山から、ただ1人生還した元白虎隊隊士の飯沼貞吉(飯沼一元さん提供)
飯沼 一元さん
戊辰戦争で新政府軍と戦い、集団自刃した会津藩の白虎隊士でただ一人、命を取り留めた飯沼貞吉(1854〜1931年)の孫で、東京都の会社社長飯沼一元さん(67)=仙台市出身=が20日、かつての宿敵・長州(山口県)を訪れる。山口には、貞吉が戊辰戦争後の一時期、長州藩士の屋敷で過ごしたとの説が残る。一元さんは自らの調査などで「長州滞在」がほぼ確実だったと考えており、現地の人たちに感謝の気持ちを伝える。
飯盛山(福島県会津若松市)で白虎隊の隊士が自決したのは、1868(慶応4)年10月。生き残った貞吉は戦争後、新政府軍によって東京に送られたらしい。
1872(明治5)年に当時の逓信省の技師になり、下関を振り出しに神戸、東京などで勤務。日清戦争に従軍後、仙台逓信管理局の工務部長を務めた。長く仙台で暮らしたが、会津にはあまり戻らなかったとされる。
一元さんによると、逓信省に勤めるまで数年間の足跡は明確になっていないが、意外にも、今の山口県美祢市で過ごした可能性が高いという。
戊辰戦争で会津に攻め込んだ長州藩士楢崎頼三(1845〜75年)が、貞吉を会津から東京に護送し、さらに山口県まで連れて行って自分の家で養育したとされ、楢崎家で働いていた女性の話として地元に伝えられている。事実だとすれば、貞吉の「長州滞在」は1869年前後の約1年半とみられる。
会津では、あまり知られておらず、地元研究者の間では「証拠がない」などと否定する意見も少なくない。
一元さんも以前は「敵の本拠地に行って、世話になることなどあり得ない」と思っていた。2年前に現地で語り継がれている内容を聞いたり、自らも調査したりした結果、今ではほぼ間違いない事実とみている。
一元さんは「貞吉が逓信省に入るまでには、(一人だけ生き残ったという)絶望の淵から立ち直るきっかけが必要だったはず。美祢では勉強の機会も与えられたようだ」と話す。
一元さんは20日から山口県を訪れる。郷土史家らとの公開座談会に参加して会津と長州の歴史などを語り合う。楢崎家の墓参りもするほか、ゆかりの地を訪ねて祖父の足跡をたどる予定だ。
[白虎隊]会津藩が1868(慶応4)年、朱雀、青龍、玄武とともに設けた部隊。武家の16、17歳の男子約300人で構成。本来は予備隊だったが、戊辰戦争で戦った。各隊は身分によって、さらに士中、寄合、足軽に区別された。飯盛山での自決の悲劇として知られるのは士中二番隊。
379
:
名無しさん
:2010/04/01(木) 14:37:54
故・瀬島龍三氏は何という運命を背負って生まれてきたのか:イザ!
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/290750/
国を憂い、われとわが身を甘やかすの記
永田町をうろうろしながら感じたことや、面白かった本の感想などを記し、ときに国の将来を考えたりもします
阿比留瑠比さん
政治部首相官邸キャップ。政治部の前は社会部、その前は文化部生活班に所属。趣味は読書とマージャン。至福の時間はビールを飲み、うまいつまみを食べながら、好みの本(漫画も含む)を読むこと。持病は喘息、高尿酸血症、逆流性食道炎などいろいろ。
故・瀬島龍三氏は何という運命を背負って生まれてきたのか
2007/09/05 13:07
「昭和の参謀」「昭和の生き証人」などと呼ばれ、山崎豊子氏のベストセラー小説「不毛地帯」の主人公のモデルでもあった瀬島龍三氏が4日、老衰のため亡くなりました。95歳でしたから、大往生と言えるでしょうが、やはり今年6月に妻、清子さんに先立たれたのがこたえたのでしょう。最近はあまり元気がなく、あまり人に会いたがらなかったと聞いていました。
それにしても、瀬島氏は、何という運命を背負って生まれてきたのでしょうか。今朝の産経抄は「その人生行路は、波瀾万丈との表現が陳腐に感じられる」と書いていますが、私も同感です。元大本営参謀、元関東軍参謀という経歴から、誤解も含め毀誉褒貶も激しい人でしたが、私は一人の人間に、一度の人生に、これほどの多様で重たい運命を与えた「天」の不思議さを感じます。
私は平成6年ごろ、当時かかわっていたシベリア抑留問題の取材で瀬島氏の会う機会があり、その縁から、瀬島氏の回想録「幾山河」の編集の手伝いをすることになり、瀬島氏からさまざまな話を聞くことができました。初対面のときに、瀬島氏はすでに80歳を超えていたのですが、とてもかくしゃくとしていて、肌のつやもよく、実年齢より10歳近く若く見えたのを覚えています。ここ数年は、数ヶ月に一度、瀬島氏の事務所に近況報告と雑談をしに行ったり、何かの折に記事のコメントをもらいに行く程度でしたが…。
瀬島氏のエピソードについては、今朝の産経に書いた「秀才中の秀才 数奇な運命」という署名記事の中で、多少は触れましたが、例によって狭い紙面ではとても書ききれなかったので、この場を借りて思いつくまま、順不同に少し紹介したいと思います。なるべく重複は避けてお伝えします。
瀬島氏は伊藤忠商事の元会長であり、第一義的には財界人なのですが、中曽根康弘氏をはじめ、歴代首相のブレーン・相談役的存在でしたし、臨時行政調査会や臨時教育審議会の委員を務め、国鉄分割民営化などで大きな役割を果たしました。当然、政治や行政とのかかわりも深く、政府の外交強化懇談会の座長として、外務省に総合外交政策局をつくったり、大蔵省の行政の在り方に関する懇談会や、衆議院改革に関する調査会の座長を務めたり、本当に戦後日本の中枢部で「参謀」として働いた人だと思います。
私のような若造のヒラ記者が「久しぶりに雑談でも」とアポをとっても気軽に会ってくれ、いつも一人がけのソファで足を組み、たばこを吸いながら、ニコニコとしていろいろな意見を聴かせてくれる人でした。ですが、やはり重みと影響力はさすがで、一度、瀬島氏の紹介で厚生省に取材に行った際は、局長さんが自ら出てきて対応するので驚いたことを覚えています。あるとき、アポ通りの時間に事務所に行ったのに、先客がなかなか帰らず、20分間も待たされたので、一体だれだろうとイライラしながら外で立っていると、出てきたのは弊紙の社長とフジテレビの社長で、気まずい思いをしたこともありました。
平成10年に、社会部から政治部に移ったと挨拶に行くと、「どうかね、政治部の方が面白いだろう」と聞かれ、当時は必ずしもそう思っていなかったので、答えに窮したものでした。3年ぐらい前だったか、突然電話をもらい、「イラクで働いている自衛隊員のために、国民から募って慰問袋を送るというのはどうだろう。外地にいるとき、ああいうものは、本当にうれしいものだ」と言われたこともありました。ものすごいプラグマティストでありながら、情に厚い人だなとも感じていました。
いろいろと思いがあったのでしょう。戦没者の慰霊・追悼事業にも熱心で、ハバロフスクにシベリア抑留者の追悼祈念碑を建立した際も、私財を提供したと記憶しています。大東亜戦争全戦没者慰霊団協議会や千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会などの会長も務めていました。「幾山河」の印税も、確か慰霊・追悼事業に全額寄付したはずです。
380
:
名無しさん
:2010/04/01(木) 14:40:35
>>379
パール博士顕彰碑建立委員会の委員長でもありましたね。この顕彰碑は京都市東山区にあるそうなのですが、残念ながら行ったことはありません。瀬島氏に、自身も出廷した東京裁判についてのコメントを求めると「本質は、勝者が敗者を腹いせや、復讐のために裁いたにすぎなかった」と述べていました。大東亜戦争は自存自衛の戦争だったというのが持論でした。
一度、永田町で瀬島氏と某大新聞社のトップがけんかしたという噂が流れたことがありました。その真相はと瀬島氏に聞いたところ、珍しく顔をしかめて「けんかなどしていない。ただ、Wさんはビールを飲んでいるうちはいいが、ヒヤ酒をコップで飲むようになると、わけがわからなくなる」とこぼしました。さて、だれのことでしょう。
まだまだいろいろな思い出がよみがえってくるのですが、あまり個人的なことを書いても仕方ないので、最後に、「幾山河」の中から、昭和天皇に関する瀬島氏の証言を一つ紹介します。もうご存じの人もいるでしょうが、私は「幾山河」の編集中、瀬島氏の原稿をチェックしていてこの部分で目をはらしてしまったもので。
《昭和18年5月12日、アッツ島守備隊は強力な米軍の急襲上陸を受けた。山崎部隊長以下2千数百の将兵は勇戦敢闘したが、衆寡敵せず、5月下旬、現地の戦況は、極めて憂慮すべき事態に立ち至った。
この状況は毎日上聞に達せられていた。5月24日の参謀総長上奏の際、陛下より「山崎部隊は本当によくやった」という趣旨の御沙汰があり、直ちに参謀総長から現地部隊に伝達され、山崎部隊長からも「恐懼感激、最後まで善戦健闘する」旨の返電があった。私はこのころ、南太平洋・東部ニューギニアの戦線へ出かけていたが、大本営から急遽帰京せよと命令を受け、5月20日ごろ東京へ着いた。
29日、現地部隊最後の夜襲攻撃に先立ち、決別の電報が大本営に入り、それには本電発信とともに暗号書を焼却、全無線機を破壊するとあった。誠に悲痛きわまりない最後の電報だった。
本電を直ちに宮中へお届けし、翌30日早朝、杉山参謀総長は拝謁の上、上奏した。私はこの参内に随行した。随行の折は随行者は別室で待機し、上奏が終わると総長が別室へ顔を出し「帰ろう」と言うのが通常だったのに、総長はこの日は別室に顔を出さず、ただ黙々として廊下を歩いていった。私は急いで追いかけ、総長の車に同乗した(私は左側座席を占め、運転手との間はガラスで仕切られてあった)。通常だと、坂下門を出たら車中でこの日の上奏内容、特に御下問と奉答について総長に聞き、随行者が車中でメモし、記録しておくのが習わしだった。しかし、この日に限って元帥はこちらから聞いても何も答えず、ただ黙然としていた。
私がさらに聞くと、杉山さんは口を開き、「きょうは陛下は静かに上奏をお聞きになり、何も御下問はなかった。アッツ島部隊の将兵を追悼されているように拝した。ただ御一言だけ『将兵は最後までよくやった。このことを伝えよ』と仰せられた。畏れながらただいま奏上いたしましたごとく、既に最後の総攻撃に入り、無線機は既に破壊していますので、聖旨をお伝えすることができないと申し上げると、陛下は『それでもよいから電波を出せ』と仰せられた」。
そして、総長は私に対し「帰ったらすぐ発電するように」と指示した。それを聞いて、私は涙があふれてメモを書くこともできず、杉山さんも言い終わると静かに目を閉じていた。こと切れた子供の名を呼び続ける親の気持ちのような大御心だと思われた。
私は、帰庁後直ちに御沙汰の電報を起案し、アッツ島へ向け発電したが、普段だと約30分後には電報受領の返電がくるのに、このときは現地から何の応答もなかった。この旨、電話で侍従武官へ報告した。》
2007/09/06 11:09
Commented by 阿比留瑠比 さん
官僚軍人ではあったでしょうが、「赤」だったというのはちょっと違うように思います。中川八洋さんの著作は面白いし、勉強になりますが、ときどき一方的に決めつけるような表現を見受けます。
381
:
名無しさん
:2010/04/01(木) 15:04:09
瀬島龍三氏はソ連のスパイではない クライン孝子 杜父魚文庫ブログ
http://blog.kajika.net/?eid=995441
瀬島龍三氏はソ連のスパイではない クライン孝子
2009.11.22 Sunday name : kajikablog
瀬島氏捕虜売り渡しスパイ説の明白な否定理由(1)
参照:「スターリンの国際戦略から見る大東亜戦争と日本人の課題」 落合道夫著
http://www3.plala.or.jp/tkyokinken/
さても読者氏より昨日の我が日記に関して
<<いつもありがたく拝読しています。以下の情報の感想です。
引用:>
知人で瀬島と懇意だった同台経済懇話会常任理事・野地二見氏によると「(瀬島の捕虜売り渡し話は)ソ連側が収容所で流したデマエ作によるものだった。このことはソ連崩壊後の情報公開で明らかになった」という。(筆者註:拙著「大計なき国家・日本の末路」より
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396613423/chsakuraj
)
感想:瀬島龍三氏の捕虜売り渡しスパイ説は以下の理由で明白に否定されます。
1.左翼が流すデマ:本当ならソ連が許すはずがない。ということで話にならないオソマツ。
2.ソ連工作の実態:スターリンは第二次大戦で捕えた各国の捕虜をスパイに使うことを考えた。そこでスパイになれば早く帰すという条件でスパイを強要した。
この結果日本では五百名とも一千名ともいう捕虜が、ソ連スパイになることに同意して帰国を許された。これはドイツ、イタリア、その他の捕虜も同じである。
彼らは帰国すると、日本共産党などの在日左翼組織とは一切関係を持たなかった。いわゆるスリーパーになったのである。そして各分野で昇進した。そしてある日、電話がきて、恐ろしい暗証をいう。スパイ強要の始まりである。
3.早期帰国:したがってソ連スパイの条件は早期帰国者である。そうでないと社会で昇進できないからである。スターリンは下層階級の人間は利用価値がないのでまったく相手にしなかった。
瀬島氏は10年以上の抑留を経験し、スターリンの死で始めて釈放された人である。本来は殺されていた人である。ということでスパイではないことが簡単に分かる。スパイはすぐに帰国したのである。
4.瀬島龍三氏の事績:ソ連は帰国させたことが悔しくて、左翼をつかって誹謗中傷をした。それを信じる日本人は馬鹿である。しかし、謀略工作ではソ連は超一流である。人間の卑しい心理をよく知っている。
■「愚かな大衆は連想し、知識人は推理する」(2)
5.近衛文隆氏の暗殺:近衛首相の長男・文隆砲兵中尉は抑留10年帰国が決まると、直前に毒殺された。KGBの仕業である。彼はスパイになることを拒否してきたのである。
文隆氏は、戦前米国に留学した人で、人格識見とも立派な人であった。だからソ連は日本支配の邪魔になると思い殺したのであろう。
仏のジャック・ロッシ氏は、獄中で近衛氏と会話(英語)した時の楽しい思い出を書いている。近衛中尉は長年の苦難にまけないさわやかな方であったという。文隆氏は同囚の日本人捕虜が病気で弱っていると、自分の乏しい食事を分け与えるような立派な人であった。
以上から、瀬島氏スパイ説は、全く馬鹿げた話であることが分かる。「愚かな大衆は連想し、知識人は推理する」とルボンは記している。
瀬島氏スパイ論は、謀略にすぐだまされる愚かな大衆の連想の結果である。しかしちょっとでも歴史を知っている知識人が合理的に推理すれば簡単に否定されるのである。
なお「正論」12月号において
http://www.fujisan.co.jp/Product/1482/
東京大学名誉教授小堀桂一郎氏も瀬島氏の捕虜売り渡しスパイ説疑惑について、拙著に対する書評の中で、
以下のように述べておられます。
<<生き残った軍人達の貴重な力をこの面(筆者註:戦後の情報戦)に活用できなかった不明にもまして、大きな過誤は、戦没将兵の霊に対する政府の忘恩と非礼である。
これは戦後の歳月の経過につれて益々顕著になった疲弊で、著者によれば、<占領政策の教育効果>が深く静かに潜行して日本人の精神の根幹をと(漢字)害し続けた、占領後遺症の重患部である。
論壇や自称現代史家達の中にも俗に言ふ能天気な人々が如何に多いか。
故瀬島龍三氏に向けられた所謂「密約疑惑」について著者は<これは戦争、とりわけ欧米諸国を相手に戦争し負けたらどうなるか、その実態を知らぬ者の実に無責任極まる発言>と断言してゐる。
評者も全く同感である>>
382
:
名無しさん
:2010/04/01(木) 15:05:04
>>381
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近衞文隆(このえ ふみたか)= 1915年4月3日 -1956年10月29日 死没地 ソビエト連邦イヴァノヴォ州
近衞文隆は、昭和期の陸軍軍人。元首相近衞文麿・千代子(父は豊後佐伯藩主・毛利高範、子爵)夫妻の長男。家系は藤原北家の嫡流にして摂家筆頭・近衞家。京都府出身。階級は陸軍中尉。位階は従五位。学歴はプリンストン大学政治学部修業。
学習院中等科卒業後、外交官を目指し、周囲の反対を押し切りアメリカに留学し、ローレンスヴィル高校を卒業、プリンストン大学に学んだ。ゴルフ部長として全米1位となる。滞米中はアマチュアゴルファーとして活躍。1938年(昭和13年)に帰国し、父の秘書官となる。
翌1939年(昭和14年)、東亜同文書院講師、兼学生主事(俸給・月 117円60銭、在外手当・月 54円40銭)に就任して上海へ赴く。上海では蒋介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため帰国。
なお、中国側の女スパイだった鄭蘋茹に篭絡された文隆が機密情報を漏洩するのを恐れて帰国を命令したとする説もある。帰国後も青年同志会という組織を作って直接交渉を主張した。そのため軍部から問題視され、1940年(昭和15年)2月に召集され、満州阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍中尉まで昇進。
太平洋戦争のさなか、貞明皇后の姪・大谷正子と1944年(昭和19年)にハルビンで結婚。1945年(昭和20年)8月15日、満州で終戦を迎え、GRUのスメルシ部隊によって襲撃を受け、8月19日に捕虜となる。その後、シベリア抑留で15ヶ所もの収容所を転々と移動させられた。
1949年(昭和24年)のハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で25年の禁固刑を受ける。抑留中は士官であることを盾に労役を断固拒否しソ連に対し気骨のあるところを見せた。1955年(昭和30年)の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、1956年(昭和31年)10月29日にイヴァノヴォ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村のイヴァノヴォ収容所(内務省第48号ラーギリ)で、動脈硬化による脳出血と急性腎炎のため死去したとされる。しかし、ソ連による暗殺説もある。その後、遺骨は正子夫人の尽力で1958年(昭和33年)に帰国した。
1991年(平成3年)10月18日付「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法第2条、3条で無罪、名誉回復。1992年(平成4年)2月27日、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、1997年(平成9年)10月16日、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した。
正子夫人との間に実子はない。庶子(妾腹の子)に俳優の東隆明がいる。東には男子がいる。文隆という嫡男を失った近衞家は、文麿外孫の細川護莩を養子となし、護莩は近衞忠莩と改名した。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
| クライン孝子 | 08:29 |
383
:
荷主研究者
:2010/04/03(土) 23:52:54
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100327t63012.htm
2010年03月27日土曜日 河北新報
福島大の松川資料室存続が決定 基金で運用研究所も設立
1949年、福島市松川で起きた松川事件の裁判記録などを収蔵する福島大の「松川資料室」の存続が、26日までに正式決定した。基金を設け、大学が研究員を引き続き雇用する。「松川事件研究所」も設立し、充実を図る。
資料室で事件の資料収集・管理を担ってきた福島大名誉教授の伊部正之さん(68)が、4月以降も研究員として残る。任期は2年。大学側が負担してきた人件費は、元被告や支援者らによる福島県松川運動記念会と大学で基金を設立し、賄う。
4月1日には学内に松川事件研究所を発足させる。メンバーは教授や県内の弁護士ら学内外の16人。法律や政治、文学などの多様な分野から、事件の背景や裁判などを総合的に研究する。松川事件を扱う授業の開講も検討する。
資料室を管理する福島大地域創造支援センターの伊藤宏之センター長(65)は「研究員のいる資料室の存続を求める声が全国から寄せられ、期待に応えるのが大学の使命と考えた。研究員の後継者育成が今後の課題になる」と話している。
資料室は88年の開設で、元被告の手紙など約10万点を所蔵している。伊部さんの任期が3月末で切れるため、資料室が機能しなくなるのではないかと不安視する声が出ていた。
[松川事件]1949年8月17日、福島市の東北線金谷川―松川間で列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡した。労組員20人に一、二審で死刑を含む有罪判決が言い渡されたが、被告の支援運動が全国に広がり、61年に仙台高裁での差し戻し審で全員無罪が言い渡された。63年に確定。
384
:
荷主研究者
:2010/04/10(土) 17:01:14
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/20100403t13014.htm
2010年04月03日土曜日 河北新報
魯迅直筆の書幅を東北大に寄贈 参院議員高良とみさん遺族
魯迅の書幅を東北大に寄贈する高良真木さん=神奈川県真鶴町
仙台で留学生活を送った中国の文豪・魯迅(1881〜1936年)の書幅(掛け軸)が、留学先の仙台医学専門学校(現東北大医学部)の流れをくむ東北大に寄贈されることが固まった。東北大には直筆の史料が残されておらず、魯迅の顕彰に弾みがつくと期待されている。
書幅は、男女同権や平和運動に取り組み、戦後に初の女性参院議員の一人となった高良(こうら)とみさん(1896〜1993年)のため、魯迅がしたためた。とみさんの長女で画家の真木さん(79)=神奈川県=と、次女で詩人・評論家の留美子さん(77)=東京都=が大切に保管してきた。
とみさんは31年9月に起きた満州事変に反対し、中国の知識人と話し合おうと32年1月、上海に渡った。日中文化人のサロン的存在だった上海内山書店の店主内山完造(1885〜1959年)に魯迅を紹介された。
魯迅は当時の国民党政府に反体制的と目されて追われ、日本人にかくまわれていた。魯迅はとみさんと会食し、政治談議は避けつつ、日本時代を懐かしんだ。魯迅は10日ほどして書幅を記し、内山に託してとみさんに贈ったとされる。
書幅には、1句7字の4句で起承転結を成す七言絶句の漢詩が書かれていた。前半は中国の人民が払う犠牲への祈り、後半は国難への対処を欠く国民党政府に対する風刺と解釈されている(高田淳「魯迅詩話」中公新書)。
真木さんと留美子さんは昨年、とみさんと親しかった日中友好協会の関係者の打診を受け、東北大への寄贈を決めた。真木さんは「初対面の母に魯迅が書幅を贈ったのは、進むべき道を共有できたからだろう」と推し量る。留美子さんは「母の足跡や時代背景を含めて理解してほしい」と望んでいる。
阿部兼也東北大名誉教授(中国文学語学)は「かつて国内には魯迅の書や手紙が少なからずあったが、多くは日中親善のため中国に贈られ、直筆のものは少ない」と学術的にも評価する。
東北大の北村幸久副学長は「大変ありがたい。展示や保存の方法を工夫し、しっかりと後世へ伝えたい」と話している。
[満州事変] 1931年9月18日、中国東北部(満州)で日本の権益を代表した南満州鉄道(満鉄)の線路を、日本の軍隊である関東軍が爆破した。関東軍は中国側の仕業として満州全域へ軍事行動を広げ、後の日中全面戦争への転機の一つとなった。
385
:
とはずがたり
:2010/04/16(金) 04:01:05
米軍「自殺協定」と認識 慶良間「集団自決」
県公文書館が電文確認 日本兵の強制背景に
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-04-14_5715/
2010年4月14日 09時58分
(42時間2分前に更新)
沖縄戦時下の慶良間諸島の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、米軍が本国などへ報告した電文の中に、日本兵から投降を禁じられていた住民が「米軍上陸前の自殺協定(約束)」のため、多数が死傷したとする記述があることが13日までに分かった。打電の時期は米軍が「集団自決」発生直後に日本兵や住民へ尋問した直後にあたる。地域や戦場で影響力を持つ日本兵と住民の間に、強制力などで導かれた「集団自決」が存在したとの米軍側の見方をうかがわせる公文書として注目される。(知念清張)
電文は1945年4月8日付。地上戦を担ったバックナー陸軍中将率いる第10軍が陸軍省やハワイの太平洋司令部などに報告した「アイスバーグ作戦(沖縄侵攻作戦)」の日付順ファイルに収められていた。県公文書館が、米国立公文書館から取り寄せ確認した。
電文は「慶良間列島において、約350人の住民が軍政府の管理下に置かれ、病人を除く全員が一つの村に収容されている」と捕虜の状況を説明。「壕で一緒にいた日本兵から、(米軍に)投降することを禁じられていた住民約200人がいた模様。そのうち、米軍上陸前の自殺協定により、約20人が死亡、60人がのどに切り傷を負った」と記述されている。
米軍による慶良間諸島での尋問記録から、日本兵が住民に「集団自決」を命令していたことを、2006年に明らかにした林博史関東学院大教授(現代史)は「住民は米軍が上陸した時には自殺するよう言い含められていた。協定というよりも約束させられていたという意味合いが強い」と指摘。
「戦闘状況などを簡潔に報告する大文字だけの電報からは通常、住民の被害は上がってこない。それだけ、集団自決の事の大きさを米軍が認識していたのではないか。日本兵の集団自決への強制や誘導を、裏付ける資料になる」と語った。
「集団自決」についての米公文書を県公文書館が確認したのは今回が初めて。仲本和彦公文書主任専門員は「集団自決を直接見聞きする状況になかったため、米軍側にも記録はほとんど残されていない。歴史を体系的に解明する助けになれば」と話している。
386
:
名無しさん
:2010/04/16(金) 04:23:41
ここにも貼っとくかw
NHKが昨年に引き続き、またしても今年も反日偏向番組の放送を予定しているようだ。
とはずがたり、オマエもしっかり反日売国偏向をチェックしておくように。
__________
2010年4月18日(日) 午後9時00分〜10時13分
総合テレビ
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100418.html
プロジェクトJAPAN
シリーズ 日本と朝鮮半島
第1回 韓国併合への道
伊藤博文とアン・ジュングン
1910年の韓国併合から100年になる。
日露戦争後の世界で日本はどのようにして大韓帝国を併合したのか。
その後35年に及ぶ植民地支配や、戦時動員の実態はどのようなものだったのか。
さらに戦後の関係改善はどのように行われていったのか。
5回シリーズで日本と朝鮮半島の100年の歩みに迫っていく。
第1回は、1910年の韓国併合。
その歴史的評価をめぐって、今も日韓の間で議論を呼んでいる。
その中心人物・伊藤博文について、最近、新資料が発掘された。
伊藤は欧米列強との協調を重視し、一種の「自治植民地」も構想していたというのだ。
しかし、1905年、日露戦争の勝利を受けて、伊藤が韓国を保護国化した
第2次日韓協約を結ぶと、大韓帝国皇帝・コジョン(高宗)と対立する。
1907年、コジョンはオランダ・ハーグで開かれた万国平和会議に密使を派遣。
協約が自らの意志に反すると訴えようとした。
しかし、英米だけでなく、議長国ロシアも外交方針を転換、日本と協約を結んでいた。
このハーグ密使事件を機に、伊藤がコジョンを退位させると、激しい義兵闘争が起こる。
そして、1909年、伊藤はアン・ジュングン(安重根)により、ハルビンで暗殺された。
アンは獄中で「東洋平和論」を執筆、韓国、清、日本が「みな自主独立して行くこと」を考えていた。
しかし、日本は韓国併合から大陸進出へと歩み出していった。
伊藤博文とアン・ジュングン、二人の軌跡を新資料で描き、
韓国併合への道を国際的な視点から明らかにする。
ちなみに第2回以降もこのような香ばしいラインナップwwwwwwww
第2回「民族自決を求める声」(仮)
第3回「戦場に動員された人々」(仮)
第4回「冷戦に引き裂かれた在日コリアン」(仮)
第5回「日韓関係はこうして築かれた」(仮)
387
:
建設的与党らいおんはーと
◆S3/.7DxKSg
:2010/04/19(月) 22:24:39
NHK「JAPANプロジェクト 伊藤博文と安重根」 - 村山談話から15年
http://critic6.blog63.fc2.com/blog-entry-276.html
今年は韓国併合から100年の記念年ということで、NHKが日韓近現代史の特集を5回シリーズで放送することになり、
第1回が昨夜(4/18)放送された。昨年、台湾論が放送されて話題を呼んだ「プロジェクトJAPAN」の第2幕で、
五十嵐公利が制作を統轄している。
今回の放送はそれなりに無難な出来で、台湾論のときのような問題は起きないだろう。
閔妃暗殺事件など、若干物足りなく感じる部分もあったが、73分間の内容は充実して面白く、知識や情報の面で有意義だった。
特に安重根に対する捉え方は積極的で、従来の日本人一般の歴史認識からは一歩踏み込んで、義士としての側面をよく浮かび上がらせ、
すべての国が自主独立できることが東洋平和なのだとする思想に内在的に光を照射していた。
伊藤博文暗殺の動機に理解的に接近する歴史認識の態度であり、韓国と歴史認識を共有する上で重要な契機となる。
しかし、この程度の番組は、もっと早い時期に制作され放送されているべきだった。
20世紀中にNHKが作品にしていておかしくなかった。
遅くなったのは、この間の日本の政治状況が極端に右傾化したからで、
今回の放送についても、安倍政権下であれば困難だっただろうし、政治の横槍が入って、自粛か改編の騒動に及んでいただろう。
右傾化は無益で、国益の損失をもたらすばかりである。
日本人は、韓国と仲良くすることが、どれほど国益を利して日本を富ませる方向に導くかを理解していない。
今年は村山談話から15年の年でもある。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、
植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、
心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、
責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません」。
こう宣言した村山談話は、特に韓国との二国間関係で基本法的な意味を持つ。この声明の準備に関わった人間が3人いる。
武村正義、鳩山由紀夫、司馬遼太郎。談話が出されたのは村山内閣だったが、準備と言うか、助走は細川内閣のときから始まっていた。
中心人物として名前を挙げるべきは武村正義だろう。
細川内閣のとき、司馬遼太郎が文化勲章を受賞した。当時、この50周年の宣言文の起草を司馬遼太郎が担当するのではないかという噂が立ち、
朝日新聞などはその前提で記事を書いていた。実際のやりとりは不明だが、残念ながら、その構想は実現に至らなかった。
武村正義と五十嵐広三がそういう依頼をしていたと考えるのは、特に外れた見方だとは思わない。
村山内閣の官房長官だった五十嵐広三は、96年3月の「司馬遼太郎さんを送る会」に出席していて、私はそれを大坂ロイヤルホテルの現場で目撃した。
鳩山由紀夫の東アジア共同体構想が出たときは、鳩山由紀夫が細川内閣の官房副長官を務め、記憶は曖昧だが、
特に歴史認識の領域で斬新で画期的な政府発言を繰り返したのを思い出し、当時との内面的な継続性を思わされた。
格調高い宣言文を日本は出したが、その後の15年間は、この宣言を行動で裏切って後退させる一方で、
特に小泉政権から安倍政権にかけての戦前回帰の妄動によって、日本政府は自らの立場を矛盾なく説明できなくなっている。
388
:
チバQ
:2010/05/04(火) 10:33:37
自分にとってバブルは歴史です
http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20100427/zsp1004271036008-n1.htm
超ベタベタ“本物グルメ”へのこだわりに一体何の意味が★女がダメ出し! 痛い[40代バブル男]の共通点
2010.04.27
’87〜’91年に起こったバブル景気。この間の狂乱っぷりも、もはや昔話となり、当時、就職活動を行った“バブル世代”も、40代の立派な中年である。そして今、なんでも、このバブル世代が「若い女のコにモテる!?」と、うっかり、ときめいているんだとか……。現実は、さにあらず。若い女性たちから聞こえてくるのは、いまだギラギラが冷めない40代バブル世代への「イタい」「ウザい」といったブーイングだった!
■バブル時代の風景 会社の接待や忘年会が高級レストランや会員制クラブで行われ、高級食材を貪るグルメブームが起こった。イタリアンを「イタ飯」と呼んだり、ボジョレー・ヌーヴォーを異常にありがたがったりもした。
◇
「新入社員の頃、経費月30万円を使うため、キャバクラや高級レストランに行きまくった」という男性(43歳・広告)の証言もある。確かに、いい店に行き、いい食材を食してきたのであろう。 しかし、
「上司と食事に行くことになり、『回転寿司に行きたい』と言うと、『オレ、チェーン店とかって嫌いなんだよね』と連れていかれたのが車で1時間かかる高級寿司店。注文が不慣れな私に対して、ネタを知りつくしたように自慢げに自分の注文をしていくのがウザかった。私は回転寿司で気軽にお腹いっぱい食べたかったのに、食べた気がしなかった」(24歳・サービス)と、女のコはおいしいもの、高級なものならなんでも喜ぶと思い込んでいるのが、そもそも大いなるカン違い。
まあ、ごちそうしてくれること自体はありがたくはあるのだが、「残業中の差し入れにピエールマルコリーニのアイスなど有名店のスィーツを買ってきてくれるのだが、『あのアイス、おいしかったろ?』とあとになってもしつこく言ってくる」(28歳・エネルギー)、「高層ビルの夜景のキレイな焼き肉屋に連れていかれ、終始、『こんないいお肉、食べたことないでしょ?』と何度も言われた」(30歳・エネルギー)と、恩を着せられてまで食べたくはない。
さらに、「『バブル世代だからさ、食べきれないくらい料理頼まないと気が済まないんだよね』と、大量に注文して残す。もったいない……」(29歳・派遣)と、バブルな価値観がエコな時代に浮きまくるのも当然だ。「会社の女のコたちで『どこそこの○○がおいしいよね』と盛り上がっていると、片っ端からケチをつけてくる。『本物を知ったら、あんなの食べられないよ〜』と」(29歳・コンサルティング)
そう、彼らの決めゼリフは、「本物の味を知っておかないと」。
しかし、「ロマネコンティに異常なまでに反応」(32歳・IT)したり、「バーでマッカランを注文。『デキる男はこれだよね』と言った」(26歳・マスコミ)り。
安価でもおいしいものがたくさんあり、選択肢も格段に増えた今、その超ベタベタの“本物”へのこだわりに、一体、如何ほどの意味があるのやら。
389
:
チバQ
:2010/05/04(火) 10:34:40
■バブル時代の風景 安田火災がゴッホ「ひまわり」を53億円で落札するなど、ジャパンマネーが世界を席巻。一般人も高級車を買い求め、BMW3シリーズが六本木カローラと言われたり。「24時間戦えますか」が流行語に。
◇
若い世代の車離れが指摘されるが、「ベンツに乗っている上司に、『この車以外は乗れないよ。オレ、一流のものが好きだからさ』と言われた」(26歳・事務)とまあ、バブル世代にとって相変わらず車はステータスなのである。とはいえ、
「42歳上司は20代の頃に買ったトライアンフのクラッシックカーが宝物。『月1回、イトーヨーカドーに行くくらいしか乗らないけどね』とうれしそうに語るが、月2万円の維持費に駐車場代までかけるなんて理解できない」(25歳・販売)と、車離れが指摘される若い世代に、その価値は伝わらない。
しかし、彼らを面倒くさいと感じるのは、彼らが信奉する「高級=ステータス」の方程式が理解できないだけではない。
「高層マンションに住んでいることを自慢したいらしく、頻繁にホームパーティに誘う。『素敵なマンションですね〜』とか褒めたりするのがめんどくさい」(28歳・商社)と、自慢話のお相手をするのにうんざりなのである。
そんな40代バブル男が疎まれるのは、職場でも同様だ。
「『接待もしないで仕事は取れないんだよ』と豪語。社長に疎まれていることすら気づかず、自分は仕事ができると思い込んでいる」(29歳・派遣)、「経費削減でバイトを解雇したため、社員も雑用をすることになったのだが、45歳の同僚は『これはオレの仕事じゃないよ』と文句ばかり」(30歳・IT)とその危機感のなさに、あきれる声多数。
また、「特別賞与で1万円が支給され、みんなで喜んでいたら、『たった1万円でそんなに喜んでんの?』と、盛り上がる雰囲気を台無しにした」(32歳・飲食)と、なぜか場の空気に水をさしたがる。
「『出世したければオレに聞け!!』とオレ様ぶり、飲み会の会計時は『いいよ、オレが出すから』と言うのだが、実際は立て替えているだけ。月末に1か月分の割り勘合計額が請求される。マジうざい」(26歳・販売員)と、気持ちだけはバブルでも、懐具合がついていかないのは痛々しいが……そもそも、ムリしなきゃいいのに。その虚勢がイタいんだってば。
■バブル時代の風景 アッシーやメッシーという、今となったら気恥ずかしい造語も誕生。クリスマスには、シティホテルは3か月前から満室。高級レストラン→カフェバー→ホテルが“ヤレる”デートの定番だったが……。
390
:
チバQ
:2010/05/04(火) 10:36:26
◇
とにかく多かったのが、“肉食”40代バブル男性による被害報告だ。
「合コン帰り、駅までワンメーターなのにタクシーに乗せられて、車内でキスされた」(27歳・商社)、「サークルで付き合いのある男性。電車で帰る途中、耳元で『このあと、どこに行く?』と囁かれた。どこにも行かないし」(25歳・派遣)、「得意先の40代ベンチャー社長に打ち合わせだとホテルの部屋に呼び出され、『風呂、入っていきなよ。眺めいいよ』と言われた。ホテルの部屋をとりさえすれば、ヤレるとでも思っているのだろうか」(27歳・自動車)など、そのアグレッシブさはある意味、尊敬。
しかし、「『オレの若い頃はさぁ〜、最高で同時に3人の女とヤッた』という話が定番の自慢話」(24歳・金融)と、武勇伝を披露する人はこの世代、やたら多いのだが、「知人はバーで美人を発見すると『シャンパンをあちらの女性に』と言う」(28歳・製造)、「デートに誘われ断ったら、『寿司屋でゴールドカード、食後は車でドライブに夜景スポット。これで普通の女は落ちるんだけどな。君は難しいな』だって。アホか」(22歳・事務)とまあ、その口説きのテクニックもバブル……というか、古っ!!
女性にしてみたら、普段行きなれない店や場所に連れていってもらい、大事に扱われることにときめかないわけではない。とはいえ、
「『女のコは歩くの苦手でしょ?』とワンメーターでもタクシーを使い、しかも、わざわざカードで支払う。運転手さんに悪くて、私がいたたまれない」(28歳・証券)、「沖縄旅行に連れていってもらったが、台風が来ているのにもかかわらず、彼が事前に作ったオリジナルの旅のしおりどおりの行動を強いられた」(30歳・メーカー)、「合コンの2次会用にと、リムジン&シャンパンを予約していた。すでに時間は24時。平日開催の合コンで明日は仕事。当然、お断り」(27歳・メーカー)と、相手の都合や気持ちを考えない、カネにモノをいわせてのオレ様アピールはうんざりなのである。
若い男子が草食化していると言われるだけに、肉食40代男性が下の世代に“猟場”があると踏んだのだろうが……20年前の成功体験を今に蘇らせても、盛りのついたオッサンにしか見えないわけで。それ、かなりイタいっすよ〜。
■バブル時代の風景 トサカ頭をした女性はボディコン、男性はソフトスーツ(アルマーニが流行)に身をつつみ、でかい肩パッドを揺らして闊歩。金のネックレスも流行した。ブランド全盛で「ハウスマヌカン」が人気職種にも。
391
:
チバQ
:2010/05/04(火) 10:36:37
◇
若い頃に培ったセンスはそうそう変えようもないのだろうが、「20年前から変わってなさそうなテクノカットは、社内では笑いのネタ」(28歳・小売)と、時が止まってしまった人へのダメ出しが続出した。
「44歳の取引先が飲みに連れていってくれたときのこと。支払い時に彼はおもむろにポケットから裸の札束を出し、その札束はキレイにクリップでとめられていた。マネークリップというものを、初めて知りました」(28歳・代理店)と、若い世代に新鮮に映ればまだいい。が、「今どき、セカンドバッグで通勤」(29歳・流通)なんて人もいまだ生息しているようで、「しかも、客先へもセカンドバッグで行くので、会社の品位が疑われないか心配」されている。
また、当時のブランド信仰は強烈だったのだろうが、「全身ブランド。しかも、ロゴ入りがお好きのよう(笑)」(29歳・看護師)、「職場の人とテニスをしたとき、ポロシャツの胸元に金のネックレス。『これがないと調子が出なくって』と言われ、返す言葉がなかった」(27歳・保険)、「『これ、いいでしょ』とやたら自分の服やら時計を自慢し、聞かれないと自らブランド名を吹聴する」(31歳・建築)と、カネをかければオシャレだという発想がシャレてないのである。
「夏は白いパンツに素足に白い靴。サングラスで出社し、『おはよう』と言いながら、そのサングラスを頭へ。格好だけはイタリア人だが、胸元の開いたシャツの隙間から段腹が見えた」(27歳・出版)、「ここぞという商談には、真っ黒のスーツにゼロ・ハリバートンのケース。そんな日は、『出たよ』と皆が彼に注目」(31歳・IT)と、気合が入りすぎてもイタいのである。
トレンドについていったとしても、「着こなしがやっぱ’80年代。パンツの股上が深い。ハイウエストでベルトをギュッと締めがち。パンツはタックが一個余分。全体をまとめる力に欠ける」(32歳・アパレル)、「なぜ、リブ編みのカラーソックスをはくのか疑問」(29歳・販売)と、厳しいファッションチェックは続く。
「ブルガリやD&Gの香水でイタリア男気取りの上司。『パフュームが僕の香りになっている』というが、女子社員、失笑」(28歳・商社)なんて話もあって。アラミスに馴染んだ世代。香水で伊達男を気取りたい気持ちもわからんでもないが……女性にとっては、ただの加齢臭消し!?
392
:
荷主研究者
:2010/05/07(金) 00:18:11
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyagi/news/20100426-OYT8T00105.htm
2010年4月26日 読売新聞
「尚和会」実態明らかに 東北大
大戦直前の1936年誕生 左翼学生再教育の場
謎の団体だった「尚和会」についての新聞記事をみる柳原教授
大戦が起きる直前の1930年代後半の不穏な時代の中にありながら、東北大で輝かしい青春の記憶として語り継がれる学生団体「森鴎外の会」。最近、鴎外会の前身だった謎の組織「尚和(しょうわ)会」の実態が、当時の新聞記事などから明らかになり、鴎外会設立の経緯なども浮かび上がってきた。(岡本公樹)
鴎外会については、会報や回顧録などでその内容や活動について記録されていたが、尚和会については手記などが存在せず、設立された経緯や理由、内容の手がかりも見つかっていなかった。
東北大百年史編纂の一環として、戦前の大学史を研究していた同大文学部の柳原敏昭教授が、鴎外会を調べていると、見慣れぬ名前の団体「尚和会」の存在に気付いた。
教授の依頼で、同大百年史編纂室の中川学講師が、大学の資料室を探すと、埃をかぶっていた資料の山から、読売新聞をはじめとする尚和会についての新聞記事のスクラップを発見した。
当時の日本は、治安維持法(1925年)などで共産主義者らを厳しく弾圧。30年代には、東北大でも左翼活動をした学生が大量に検挙、退学させられた。彼らが復学するための「再教育」の場として36年に作られたのが、尚和会と判明した。
記事には、学生たちが「自主的」に設立したとあるが、実態は治安当局が主導したもので、会に参加することが復学の条件となっていたという。
この会は、左翼運動家を監視する保護司制度ができたことでわずか10か月後に解散。翌37年、入れ替わるようにできたのが鴎外会で、尚和会の趣旨を引き継ぐものとして、思想犯担当の検事が、太田正雄・医学部教授(当時)に設立を依頼した。
だが、文学者「木下杢太郎」のペンネームを持ち柔軟な思想だった太田は、「換骨奪胎」(柳原さん)して、森鴎外の作品の輪読などを自由な雰囲気の中で行った。この風通しの良さが学生たちの忘れられない青春の思い出として語り草になったとされる。
柳原教授は「思想を上から一方的に修正する尚和会があったからこそ、多様な思想や文化を学ぶことで自分を見つめ直させる鴎外会が輝いて見えたのではないか」と話している。
393
:
名無しさん
:2010/05/26(水) 13:44:51
ジョン・ウォーカー・ジュニア・スパイ事件
「防衛取得研究」(第一巻 第一号)(平成19年06月)<PDF>
070630aquisionresearch_spring
http://www.bsk-z.or.jp/kakusyu/pdf/070630aquisionresearch_spring.pdf
米海軍スパイ事件の教訓
主任研究員高知尾隼
はじめに
本事件が明らかになって既に20年以上が経過したが、事件の全容を紹介している「FAMILY OF SPIES」の日本語の翻訳本がないためこれを抄訳し、併せて当事件から教訓を導き、防衛省職員及び防衛関連企業関係者の秘密漏えい防止に資することをねらいとする。
1 事件の概要
本事件は、1967年、当時米海軍准尉であったジョン・ウォーカーが、ソ連大使館に暗号規約を持ち込み、以後退役まで現金と引換えに暗号規約、暗号機のテクニカルマニュアル、米海軍の作戦基本計画等を提供し、1976年退役後は、海軍の友人ジェリー・ウィットワース、兄アーサー・ウォーカー及び息子のマイケル・ウォーカーから引き続き海軍の情報を盗ませ、ソ連に渡すことにより、米国の国防のバックボーンに大打撃を与えた。
離婚していた妻バーバラが、1984年末、FBIにジョンのスパイ行為を通報し、翌年一味は逮捕された。
この間に、米海軍の100万通の電報が解読されたといわれる。
2 ソ連との取引
1967年4月、ジョンは当直中に第2次大戦から最もよく使われている暗号機KL-47の暗号規約を複写し、当直明けにワシントンにあるソ連大使館に赴き、これを渡すとともに暗号機等の情報を提供できることを申し出た。
後日バルチモアの路上での会合で、ジョンはベトナム戦争で使用していた暗号機KW-7と暗号規約、水中固定機器(SOSUS)等に関する資料を提供できることを、ショッピングリストとしてKGBエージェントに手渡した。
KGBは、情報資料は複写によることなく、ソ連側が用意するMinoxカメラで撮影すること、情報資料及び現金の授受は、デッド・ドロップ(情報提供者が情報を、工作員が現金をそれぞれ指定地点に置き、お互いが顔をあわせることなく持ち去る)によることをメモ書きした紙きれを手渡した。(ジョンの逮捕までにデッド・ドロップは30回に及んだ)
ジョンは退役までソ連にKW-7等の暗号規約を半年に1回程度渡していた。(ソ連は、傍受電報をテープに録音しておき、数か月遅れで解読していたと考えられる。)その他、米ソ間の戦争開始時の米海軍の攻撃基本計画、SOSUSのマイクロフォンの敷設位置、沈没した米原子力潜水艦スコーピオンの捜索情報等が渡されている。
3 海軍の友人ジェリー・ウィットワースのリクルート(スパイ組織への引き込み)
1974年ジョンは退役後の情報提供者として、サンディエゴの通信学校勤務中に知り合ったジェリーに、ユダヤに秘密を売れば月4千ドルになると持ちかけた。
ジェリーは1976年から1983年の間、インド洋のディエゴワルシア基地や空母エンタープライズから、KW-7暗号機や新しい暗号機の技術情報や暗号規約を持ち出し、ジョンに渡していた。
これらは米海軍にとって最大の被害であったと連邦検事は述べており、ジェリーの情報に対するソ連の支払いが、月1万ドルに上っていたことからも情報の重要性が理解できる。
4 兄アーサー・ウォーカーのリクルート
アーサーは、海軍少佐で退役後、1975年からジョンの資金援助を得てカーステレオ販売店を経営していたが、1979年に倒産した。
アーサーは海軍と最大の取り引きを持つVSE社に勤務し、ノーフォークでの艦艇のオーバーホールに関する仕事に従事していた。
ジョンは、ジェリーだけに情報を頼ることに不安を持ち、アーサーを仲間に引き込むことを考え、1980年、過去の資金援助の見返りに、アーサーに秘密区分のない資料をコピーするように要求した。ジョンは、この資料に対し4千ドルを支払い、以後秘密資料を提供するよう要求した。
第7艦隊旗艦ブルーリッジのダメージ・コントロール・ブックや強襲揚陸艦の技術資料及び両用戦艦艇の過去5年間の故障発生に関する情報がソ連に渡された。
5 息子マイケル・ウォーカーのリクルート
マイケルは、ジョンとバーバラの4人の子供の末っ子であり、父を一番よく慕っていた。ジョンは情報源を確保するため、マイケルを海軍に入隊させた。
ジョンはマイケルが空母乗組みになると、他の乗員が家族にしているように長期行動について知らせるよう言い含め、さらに複写した秘密文書に1か月5千ドル払うと持ちかけた。
F-14戦闘機、トマホークミサイル、スパイ衛星及び新型機雷に関する資料が空母ニミッツから持ち出されたが、ソ連に渡ったかは不明である。
394
:
名無しさん
:2010/05/26(水) 13:49:21
>>393
6 スパイ活動の暴露
バーバラは、1976年に離婚した後、ジョンが子供の養育費を一度も払ってくれないこと、及びスパイをさせる目的で長女のローラを海軍に入隊させようとしていること等から、1984年11月、FBIボストン支所に電話をして援助を求めた。
バーバラは、FBI担当官に直接会い、ジョンと共にワシントン郊外でデッド・ドロップをしたことを話した。担当官は、バーバラがアル中であること、ジョンは1976年に退役しスパイをしているか疑わしいことから、これ以上の調査は必要なしと判断した。
1985年春、この報告はノーフォークFBIにもたらされた。バーバラがポリグラフにパスしたことからFBIはバーバラの訴えを取り上げ、スパイのパートナーがアーサー・ウォーカーとジェリー・ウィットワースであることを知る。バーバラは、息子のことについては話をしなかった。
7 ジョンの追跡と逮捕
FBIは裁判所の許可を得て電話傍受を行い、1985年5月19日夜ワシントン郊外でKGBとジョンの会合が行われるものと判断し、ワシントンへ向かうジョンを飛行機と車で追跡した。ジョンは、19日夜ワシントン郊外の指定場所にマイケルが空母ニミッツから盗んだ129件の秘密文書を入れたバッグを隠したが、FBIに押収された。KGBのドロップ地点には現金入りのバッグは置かれていなかった。ジョンはワシントン郊外のモーテルに入ったが不安を感じ、持っていたデッド・ドロップの指示書を部屋の外に隠そうと通路に出たところを、張り込んでいたFBIに逮捕された。
FBIは、ジョンがデッド・ドロップしたバッグ内に、ニミッツに関係する秘密文書のコピーを発見した。このためイスラエルのファイファに入港中のニミッツに対し本国から電報による指示が出され、ジョンの逮捕8時間後にマイケルは憲兵事務室に連行された。
アーサーは、ジョンの逮捕4時間後に、ジェリーは5時間後にそれぞれ自宅で逮捕された。
395
:
名無しさん
:2010/05/26(水) 13:51:43
>>394
8 教訓
(1)勤務評定
ジョンは、1967年ソ連大使館に暗号規約を持ち込む以前はまじめであったと評価されているが、スパイ行為を始めた時期は全く勤務意欲をなくしていたという評価がなされている。これは、デッド・ドロップする時の緊張感と、実施後バレるかも知れないという、不安感が常につきまとっていたものと考えられる。
上司が部下の勤務態度に異常を感じたら話し合う機会を持つ等、一歩踏み込んだ監督指導が必要である。
(2)生活態度
ジョンはスパイ行為に慣れてくると金遣いが荒くなり、ノーフォーク郊外に豪邸を建て、若い女性を連れて週末は遊び回っていたが、上司は異常な生活態度に全く気付かず、また同僚はうすうす気付いていたが、上司に報告することもなかった。
ジェリーについては、秘密の電報を許可なく複写したり、個人更衣ロッカーの中で秘密の書類を見たり、秘密の資料を家に持ち帰ったのを同僚が目撃していた。
「何かおかしい」と思いつつ報告を怠ることは、問題が生じた後で後悔する原因となる。積極的に報告をさせる手段としての「仕組み」が必要である。
米国では、1995年「大統領令:秘密情報に対するアクセス」が制定され、政府職員に対しセキュリティ上の問題点についての報告義務を求めている。
(3)秘密情報の持ち出し
KGBは、秘密文書は複写によることなくMinoxカメラでの撮影を指示しているが、フィルムはかさばらないので艦艇からの外出時あるいは隊から帰宅する時に、とがめられる可能性は少なく、また、いざという時に処分しやすい利点がある。
今日ではデジタル・カメラや携帯電話で接写ができ、直ちに送信できる機能もあるので、情報を扱う職場にこれらを持ち込ませてはならないし、会社の入出時にも持ち物の検査を実施すべきである。
(4)資格審査
空母ニミッツでの幕僚庶務室勤務では、SECRETクリアランスが必要であったが、マイケルのチェックはなされなかった。後にFBIと海軍保全担当局によって、ニミッツの保全違反が指摘された。
マイケルは、不要になった秘密文書を焼却袋に入れて作戦室の奥にある空調室へ行くことを許されており、艦載機の発着艦がない日の夜中に一人で焼却を行っていた。
また、マイケルは作戦室に備えられている艦内電話帳に、金庫のダイヤル番号が記入されているのを見つけ、誰もいない時に金庫を開けて秘密文書を複写していた。
秘密の取扱者に資格審査を受けさせること、秘密文書の破棄の手続き等、決められた事項を遵守する必要がある。
(5)被害対策
1968年1月23日、米情報収集船プエブロ号が北朝鮮沖の公海上で拿捕され、KW-7暗号機が没収された。今日、KW-7暗号機はソ連に渡ったと信じられているが、当時NSA(国家安全保障局)は、KW-7を廃止することなく、機器及び規約に一部変更を加えて対処したのみであった。この変更内容は、ジョンによりソ連に知らされており、米海軍の電報100万通が解読されたとみられている。
米国がベトナム戦争に敗れた原因の一つとして、暗号が解読された結果、米軍の爆撃効果があがらなかったことが挙げられている。
情報の漏えいやそのおそれがある場合、被る被害については、最大のものを想定して対処する必要がある。
おわりに
アメリカ人がスパイになる動機は、金を求めて自ら情報を売りにいくケースが大部分である。一方、日本人のスパイは、就職の依頼、卒業論文に必要な資料の入手等、善良な気持ちで外国人と関係し、プロの工作員にリクルートされてしまうという例が多い。日本人はスパイに対して、免疫力がないと言える。
したがって、管理責任者が管理者に対して、スパイの脅威、保全手続き・規則及び部下の指導監督法について教育し、現場の実務担当者まで徹底を図り、強固な保全組織を作り上げる必要がある。
396
:
とはずがたり
:2010/05/27(木) 10:29:11
何で遺族会にばらまき続けてきた癖に自民党はシベリア抑留者には冷たかったんでしょ?
社説:シベリア抑留 国会は早く救済果たせ
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20100527k0000m070113000c.html
戦後六十数年待ち続けあと一歩まで来たのにいつまで待たせるのか。
超党派の国会議員が今国会に提出した「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)案が、成立一歩手前で足踏みしている。参院先議で先週参院本会議を通過、今週中に衆院本会議で成立する段取りだったのが、同案を審議する衆院総務委員会が放送法改正案の採決強行でストップ、同委では郵政改革法案も抱えているため成立を危ぶむ声も出始めた、という。
法案は、戦後ソ連によって抑留されシベリアなどで強制労働させられた元日本軍兵士に対して、抑留期間に応じて1人当たり25万〜150万円を「特別給付金」として支払い、抑留の実態解明を進めることをうたったものだ。抑留兵士は約60万人。最長で11年に及び、56年、鳩山一郎首相が日ソ共同宣言を締結し最後の1000人の帰国が実現するまでの間に6万人が死んだとされる。
この悲劇は、83年に直木賞を受賞した「黒パン俘虜記」(胡桃沢耕史著)などに詳しいが、極寒の地での強制労働に対する抑留者への補償問題が戦後処理の一つとして積み残されてきた。本来の支払い義務はソ連にあるが、共同宣言で賠償請求権を相互に放棄していたため元抑留者たちは日本政府に補償を要求、歴代自民党政権は財政難を理由にこれを拒否してきた。
この問題に取り組んだのが野党時代の民主党である。共産、社民の両党とともに、元抑留者に特別給付金を支給する法案を繰り返し国会に提出、この国会では自民党も一緒になって全会一致で参院通過までこぎ着けた。昨年9月の政権交代や祖父の仕事を引き継ぎたいとする鳩山由紀夫首相の意欲がこの動きを加速させた。それが今国会会期末をめぐる与野党の攻防で宙づりにされている。
現在生存する元抑留者は推定8万人で、平均年齢は88歳。大阪高裁で係争中の国家賠償訴訟では原告五十数人のうち2年間で5人が死亡、厚生労働省統計でもこの年齢の年間死亡率は8%前後となっており、「命があるうちに国としてのけじめをつけてほしい」(平塚光雄・全国抑留者補償協議会会長)との悲願を日々踏みにじる形になっている。法案でわざわざ「公布日に即日施行する」としている意味もこれではなくなる。
「政治とカネ」や「普天間問題」でこの国会は、国民の期待に応えているとはとても言えない状態が続いている。戦後処理問題など司法や行政で対応しにくい政治課題に対し国民を代表した国会が問題解決能力を発揮する格好の機会でもある。党利党略を超えた選良たちの良識を一日も早く見せてほしい。
毎日新聞 2010年5月27日 2時32分
397
:
名無しさん
:2010/06/30(水) 20:42:48
John Anthony Walker - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Anthony_Walker
This page was last modified on 8 June 2010 at 16:12.の日本語訳
ジョン・アンソニー・ウォーカー
ジョン・アンソニー・ウォーカー・ジュニア(John Anthony Walker, Jr.、1937年7月28日 - 、ワシントンD.C.)[1]は、退役アメリカ海軍上級准尉の報道員で、冷戦(1945-91)期の1968年から1985年までの間に、ソ連大使館に暗号規約を持ち込み、ソ連のスパイをした件で有罪判決を下された。[2]1985年後半に、ジョン・ウォーカーは嘆願取り決めにおいて罪を認め、それによって、彼は共謀者ジェリー・ウィットワースに不利な証言をして、彼のスパイ活動の詳細を伝えて、彼の息子(マイケル・ウォーカー)に対する軽い処罰について交渉をした。[2]ジョン・ウォーカーは、ソ連のスパイとしての間に、ソ連が100万通の暗号化されたアメリカ海軍の電報を解読するのを援助した。[3]そして、このスパイ活動は、1987年のニューヨーク・タイムズで、「歴史上、希に見る、最もアメリカにダメージを与えたソ連のスパイ活動と言える」と報じられた。[4]
目次
1 スパイになるまで
2 スパイ活動
3 逮捕・監禁
4 参考文献
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク
スパイになるまで
ジョン・ウォーカーは、強盗の理由で逮捕された時に、刑務所行きか軍隊の道を提供され、1955年にアメリカ海軍に入隊した。[1][5]ジョン・ウォーカーは、ボストンに配属されている間に、バーバラ・クロウリーと出会って結婚した。そして、彼らは3人の娘と1人の息子の計4人の子供をもうけた。ジョン・ウォーカーは、チャールストン(サウスカロライナ州)において、アンドリュー・ジャクソン(USS Andrew Jackson, SSBN-619) に配属されている間に、お金の遣り繰りに失敗して、すぐに負債に陥ってしまった。[1]
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