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近現代史綜合スレ

151片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/18(月) 09:44:09
鳥居龍蔵を京大に誘う 内藤湖南あて承諾の手紙見つかる 徳島新聞
http://www.topics.or.jp/News/news2006121706.html

 徳島市出身の人類学の先駆者・鳥居龍蔵(一八七〇−一九五三年)が東大講師時代の一九〇七(明治四十)年、東洋史学者・内藤湖南(一八六六−一九三四年)あてに送った、京大への転職を承諾する手紙が見つかった。湖南は当時、東洋史講座開設に際して京大に招かれており、鳥居を誘っていたとみられる。

 京大への転職は実現しなかったが、県内の鳥居龍蔵研究者らは「当時三十代だった鳥居が学界で大きな評価を得ていたことが裏付けられる、貴重な手紙」と話している。

 手紙は、湖南の孫・内藤敬子さん=京都市=が所有する百六十三通の書簡に含まれていたもので、谷川道雄・京大名誉教授らでつくる「内藤湖南研究会」(事務局・京都)の会員・名和悦子さん=岡山市=が整理中に確認した。

 明治四十年九月五日付で、「先日御はなしありし貴大学『人種学』云々の件小生は承知いたしました。都合によりて東京大学をやめてもよろしい」と記している。鳥居がきみ子夫人とともに教員として赴任していた蒙古カラチン(現在の中国内モンゴル)から送っている。名和さんによると、『人種学』とは、湖南が中心になって設立を進めていた「人類学教室」のこと。

 二人の交友については、一九〇五年に中国・奉天(現・瀋陽)での民族問題調査時に宿舎で同室となり親交を深めたことが、鳥居の「ある老学徒の手記」や湖南の「游清第三記」に記されているが、湖南が京大転職を持ちかけていたことは、これまで知られていなかった。

 前県立博物館長の天羽利夫さんは「鳥居は五十四歳で東大を助教授で去るが、もし京大へ移っていれば日本の人類史の歴史が変わっていたかもしれない」と話し、「湖南がどのようにして鳥居を誘ったのか、なぜ京大への転職が実現しなかったのか、県立鳥居記念博物館に残されている膨大な資料を整理・調査していけば、そのいきさつを解き明かすことができるかもしれない」と言う。

 また、その手紙には「家内よりもよろしく申居候 令夫人へもよろしく」とも記されており、同会会員の葭森(よしもり)健介・徳島大教授(中国史)は「鳥居と湖南の間に公私にわたる交友があったことがうかがえる。明治・大正期の研究者の交友関係がみえてくる点でも、非常に興味深い」と話している。

 ないとう・こなん 秋田県生まれ。本名・虎次郎。秋田県立師範学校卒業後、「萬朝報」主幹などを経て、1907年に京大の東洋史学の講師となり、09年から27年まで教授。東方文化学院京都研究所(現・京大人文研)評議員を務めるなど東洋史学の発展に貢献し、「京都学派の祖」と呼ばれる。

【写真説明】鳥居龍蔵から内藤湖南へ送られた手紙。京大への転職を受諾する内容となっている=内藤敬子さん所蔵


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