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近現代史綜合スレ

350荷主研究者:2010/02/24(水) 23:37:56

http://kumanichi.com/news/local/main/20100222006.shtml
2010年02月22日 熊本日日新聞
薩軍使用の雷管多数出土 植木町の山頭遺跡

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西南戦争で薩軍が使ったとみられる銃の「雷管」

 植木町教育委員会は22日、同町滴水[たるみず]の山頭[やまがしら]遺跡で西南戦争時に薩軍が使用した銃の発火装置・雷管が多数出土したと発表した。これまでの調査ではすぐ近くに、官軍の塹壕[ざんごう]跡や銃弾の薬きょうなども見つかっており、同町教委は「詳細な交戦の状態を裏付ける具体的な証拠が確認されたのは貴重。大きな成果」としている。

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西南戦争で薩軍が使ったとみられる「雷管」が見つかった発掘現場(手前)。奥は兵士にふんした町教委の職員ら=22日午前、植木町滴水(小野宏明)

 見つかったのは、薩軍が使った旧式のエンフィールド銃の雷管106点。薩軍、官軍のどちらのものかは判明していないが、薬きょう23点や小銃弾6点なども見つかった。

 約10平方メートルの狭い場所に集中しており、同町教委は「薩軍兵士は1〜2メートルの間隔で立ち、発射したのではないか」とみている。

 同町教委は2008年、出土地点から西に50〜100メートル離れた場所で官軍の塹壕[ざんごう]跡と薬きょう、弾丸を発見。官軍の塹壕跡から西に約300メートル離れた場所には薩軍の陣地「荻迫柿木台場」があったことが分かっている。

 西南戦争の記録を示した官軍側の資料「従征日記」や「征西戦記稿」によると、1877(明治10)年4月6日に同台場をめぐる両軍の交戦記録があり、同町教委によると出土した一帯は、田原坂の戦いで敗走した薩軍と追撃する官軍の交戦地点だったこともあり得るとしている。

 同町教委は「文献や資料にある戦いの実証ができ、西南戦争戦跡群の国史跡指定に向けて弾みがつきそうだ」と話している。(鎌倉尊信)


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