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近現代史綜合スレ

305とはずがたり:2009/06/07(日) 22:51:46
NHKでやってますけど,愛国婦人会と国防婦人会は仲が悪くて悪口言い合ったりして戦争への貢献度を競い合ったそうです。
それらを統合して大日本婦人会となったそうな。

●婦人会 ふじんかい
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P330C100.HTM
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 婦人会の先駆者は奥村五百子で,軍人遺族の救護事業を目的として愛国婦人会を組織したことに始まる。

【奥村五百子】明治期の国粋・軍国主義に則った婦人運動家。1845年(弘化2)唐津の本願寺派高徳寺住職の長女として生まれる。17,8歳のころ,父兄の尊王攘夷運動を助け男装して萩藩への使者役を務めたこともあった。22歳で福成寺の住職と結婚したが死別し,のち水戸浪士鯉淵彦五郎と再婚。維新後江藤新平を支持し征韓論に賛同,大陸に関心をもつ。1887年(明治20)離婚し政治社会問題に没頭する。1894年(明治27)初めて朝鮮に渡り,日清戦争を経て再三朝鮮を訪れ同29年光州に実業学校を創設,子女の教育に尽力した。北清事変が起き日露戦争へと突入するなか,わが国の将兵が辛苦をなめる状況を視察し,全国の婦人が半襟一つを節約すれば軍人の援護は可能であると訴え,1901年(明治34)愛国婦人会を設立した。1907年(明治40)没。享年63歳。

【愛国婦人会】1901年(明治34)貴族院議長近衛篤麿の後援により,岩倉久子を初代会長として創立。総裁や名誉会長に皇族を頼み,会長・役員に華族や名流婦人を推し,上流婦人のみを対象とした構成であった。その数は1万3,000人にものぼり,日露戦争を契機に大飛躍を遂げ会員の人数も46万人と増大した。女性の戦争への協力を訴え,慰問団を満州に派遣するなど愛国思想を広めた。戦後は戦死者の遺族・傷病軍人の救護などの活動のほか,農村託児所をつくるなどの社会事業にも手を広げた。1917年(大正6)には事業範囲はさらに広がり,婦人の知識・道徳を高めるという婦人報国運動を起こした。昭和12年には会員数380万人となり,本部支部が台湾・朝鮮にも設けられた。このころ愛国婦人会と同様の趣旨で組織された婦人会に大日本国防婦人会・大日本連合婦人会があった。大日本連合婦人会は1931年(昭和6),文部省によって地域婦人団体(主として農村の女性)を統合した形で結成された。

【大日本国防婦人会】翌1932年,大阪で国防婦人会が結成され次いで東京でも結成された。1934年(昭和9)には大阪・東京の組織を統合した。会長には武藤能婦子がなり,愛国婦人会が上流社会の女性達によって組織されていたのに対し,陸軍・海軍大臣などの現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督のもとで後援を受けた。結成時の会員数は750万人であったが,1941年(昭和16)には1,000万人になっていた。会の目的は愛国婦人会と同じく戦時体制のもとでの婦人の国家への協力を促し,傷痍軍人や遺族の後援・慰問品の募集,さらには防空訓練を行い銃後を守るというものであった。こうした婦人会の活動のなかで,時局はますます戦闘の色を濃くしていき1941年太平洋戦争へと突き進んでいった。当局は非常事態を乗り切るため国民の大統一化をもくろみ,各婦人会を解散させ改めて一つの団体として統合させた。

【大日本婦人会】1942年(昭和17),太平洋戦争中に政府によって結成された婦人会の統合組織。国家への奉仕という精神に基づき,軍部・官庁の監督下で,軍人の援助・防空訓練を積極的に行うことはもちろんのこと,廃品の回収による節約,貯蓄の強化などの活動を行った。20歳以上の婦人をすべて強制加入させ,賛沢は敵とする集団活動は,婦人同士の行動を戒める方向へ向かい,共同意識を高めるとともに戦時下を婦人の手で守り抜くという体制翼賛運動を展開した。しかしその反面体制への批判・不満などを口にする者は即座に非国民のレッテルをはられ,さらには生活上の細部に至るまで統制する結果も招いた。1945年(昭和20),大日本婦人会は国民義勇隊に改編した。しかし戦争終結とともに解散しここに軍国主義的国策に沿った婦人団体は姿を消した。ただ婦人会としては家庭の主婦が協力し合い,平和を願う基本方針のもとに地域社会を形成する団体として,1952年(昭和27)に全国地域婦人団体連合会が結成され,現在に至っている。


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