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近現代史綜合スレ

398名無しさん:2010/06/30(水) 20:47:59
>>397
スパイ活動
ジョン・ウォーカーは、自分の財政難に取り乱して、ワシントンD.C.にあるソ連大使館のに赴き、1967年12月に、ソ連のスパイを始めた。[6]そして、彼は、週に500ドルから1000ドルの収入になる様に交渉しながら、アメリカの機密扱いの文書(暗号規約)を数1000ドル分売った。[1]ジョン・ウォーカーは、彼が、まず最初にソ連に売った機密扱いのアメリカ海軍の電報が、プエブロ号事件(この事件で、アメリカ海軍の環境調査艦プエブロは、領海侵犯を理由に北朝鮮当局に拘束され、その乗員は、ほぼ1年間捕虜になった。)で、完全に危険にさらしたという根拠に関して、この犯罪行為を弁明した。しかし、環境調査艦プエブロは、この電報が売られた1ヵ月後の、1968年1月に捕らえられた。さらに、ソ連の公文書と以前KGB将校であったOleg Kaluginからの情報を使っているアメリカ陸軍指揮幕僚大学で発表された2001年の論文が、プエブロ号事件が、ソ連が、ジョン・ウォーカーによってソ連に渡された機密文書によって記載された技術を研究したかった為に起こされた可能性を示しいる。[7]
ジョン・ウォーカーは、このスパイ活動に固執した。そして、機密情報の提供で、1ヵ月につき数1000ドルの収入を受けた。[1]ジョン・ウォーカーは、1969年に、ときおり、彼の妻バーバラの援助を受けている時に、更なる援助者を求め始めた。そして、彼は、カリフォルニア州のサンディエゴの通信学校勤務中に、学生であったジェリー・ウィットワースと知り合いになった。[1]ウィットワース、彼は、アメリカ海軍上級兵曹長(SCPO)/上級無線通信士長となって行くのであるが、1973年に、ジョン・ウォーカーが、非常に機密度の高い文書を手に入れる事を援助する事に同意した。[1]部署の移動は、ジョン・ウォーカーが、ソ連が欲っした機密文書を手に入れさせる事を困難にした。しかし、彼は、ウィットワースが、スパイ活動を困難なものにさせない為に、機密文書がアメリカ合衆国の同盟国であるイスラエルに行っていると彼に話す事で、彼が、機密文書を手に入れられ続けられる事を可能にした。しばらくすると、ウィットワースは、機密文書がイスラエルの代わりに、ソ連に行っていると理解した時、彼は、それにも関わらず、1983年にアメリカ海軍を引退するまで、ジョン・ウォーカーに機密文書を与え続けた。1976年に、ジョン・ウォーカーは、彼が、彼の特定の上級将校達が、彼の過去の記録の過ちを調査するのに、余りにも熱心であると思っていたので、彼の秘密事項扱い許可を諦め、アメリカ海軍を引退した。しかし、ジョン・ウォーカーは、彼のスパイ活動を止めなかった。そして、今まで以上に活発的に、情報提供者を自分の子供達や家族の中に捜し求めて行った(ジョン・ウォーカーは、この時には、私立探偵になっていた。)。1984年までに、ジョン・ウォーカーは、彼の兄アーサー・ウォーカー(彼は軍の少佐で退役した。)と彼の息子マイケル・ウォーカー(現役のアメリカ海軍の軍人)を仲間に入れた。[1]ジョン・ウォーカーは、彼の1番下の娘(彼女は、アメリカ陸軍に入隊した。)を仲間に入れようともしたが、彼女が、男性兵士と関係を持ち妊娠して、彼と結婚して、妻と母であることに専念してしまった為、彼女は彼女の軍人としての生活をすぐに止めてしまった。 ジョン・ウォーカーは、それから自分の注意を彼の息子に向けた。彼は、彼の10代の年の多くをふらふらして過ごし、高校を中退した。ジョン・ウォーカーは、彼の息子の保護をしっかりし、彼にスパイ活動の準備をさせる為に、彼の興信所の見習いとして働かせ、それから、アメリカ海軍に入隊させる為に、高校の卒業証書を取らせる様に再び高校に入学の薦めをした。
1990年に、ニューヨーク・タイムズのジャーナリストのJohn J. O'Connorは、「ある情報機関に携わる専門家達は、ジョン・ウォーカー氏が、ロシアとアメリカの間の勢力の均衡を変えるのに十分な暗号規約を提供したと見ている。」と報告した。[8]ジョン・ウォーカーは、後に、彼がどのようにして、それだけの機密情報を手に入れる事が出来たのか尋ねられて、「Kマートは、アメリカ海軍以上の良い保安をする。」と答えている。[9] 2002年に国家対情報局(Office of the National Counterintelligence Executive)で出された報告書に拠ると、ジョン・ウォーカーは、ニューヨーク・タイムズが、彼の収入が、わずか、350,000ドルであると見積もっているにも関わらず、[8]スパイの報酬で100万ドル以上を稼いだと思われている少数のスパイの内の1人としている。[5]ソ連が、アメリカ合衆国が、ソ連のスクリューで生じられる発泡現象(キャビテーション)に拠って、ソ連の潜水艦の位置を追跡する事が出来る事に気付いた事は、ジョン・ウォーカーのスパイ活動のおかげであった。この後、ソ連の潜水艦のスクリューは、発泡現象(キャビテーション)を減らす為に改善された。[10]

399名無しさん:2010/06/30(水) 20:51:52
>>398
逮捕・監禁
1985年5月に、FBIは、当時のジョン・ウォーカーの先妻のバーバラに拠って、彼のスパイ活動を通報を受けた。彼は、彼女に扶養手当を払うことを拒否していた。[1]捜査に従って、FBIは、ジョン・ウォーカー、ウィットワース、アーサー・ウォーカーとマイケル・ウォーカーを逮捕した。皮肉にも、ジョン・ウォーカー自身はモンゴメリー郡のモーテルで逮捕された。このモンゴメリー郡のメリーランド州では、彼が、人々を不貞事件に巻き込ませる計略を頻繁に行っていた。彼らのホテルの部屋に電話をかけて、彼らの車が事故で攻撃されたと彼らに話していたのである。[1]バーバラ・ウォーカーは、事件の究明をする事が彼女の役割であるが為に、起訴されなかった。[1][5]以前KGB職員であったVictor Cherkashinは、しかしながら、彼の著書の『Spy Handler』において、ジョン・ウォーカーは、Martynovと言う名のFBIのスパイによって危うくされたと述べている。Martynovは、モスクワで偶然に会話を耳にした。そして、Victor Cherkashinは、ジョン・ウォーカーの裁判の文書では、Martynovが、ジョン・ウォーカーの体裁の妥協で、重要な役割を演ずると述べていたと論じている。[11]
ジョン・ウォーカーは、捜査当局とは協力をした。そして、司法取引において、彼は服従の信念と終身刑を受け入れ、彼のスパイ活動の詳細の完全な開示を提供し、彼の息子が、わずか25年の投獄の判決しか受けないという保証を検察官から約束を受ける事と引きかえに、ジェリー・ウィットワースに対して証言することに同意した。[2][12]マイケル・ウォーカー以外の他のスパイ組織のメンバー全員は、スパイ活動での彼らの役割での終身刑を受け入れた。ジェリー・ウィットワースは、彼の罪に対して、懲役365年を宣告されて、410,000ドルの罰金を科せられた。ウィットワースは、2048年まで仮釈放には不適格である。ちなみに、その頃では、彼は111才である。
ジョン・ウォーカーの息子マイケル・ウォーカー(彼は、スパイ組織の中では、比較的に重要でない役割であり、減刑の判決と引き換えに証言する事に同意した。)は、2000年2月に、仮釈放で刑務所から解放された。[1]
ジョン・ウォーカーは、現在、行刑局(BOP)の囚人番号22449-037であり、United States Medical Center for Federal Prisoners(MCFP)に投獄されている。彼は、糖尿病とステージIVの喉頭癌に苦しめられていると言われている。彼の最も早い可能性のある仮釈放の日は、2015年5月20日である。その時点では、彼は、懲役30年と言う事になる。[13]

400荷主研究者:2010/07/19(月) 21:12:57

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100625/CK2010062502000013.html
2010年6月25日 中日新聞
旧海軍の格納庫、取り壊しへ 鈴鹿市議会が議案可決

取り壊される可能性が高まった旧海軍航空基地の格納庫=鈴鹿市白子町で

 「貴重な戦争遺跡」として保存を望む声のあるNTT研修センター跡地(鈴鹿市白子町など)に残る太平洋戦争中の旧海軍航空基地の格納庫3棟が、取り壊される見通しとなった。24日の市議会本会議で、跡地開発を進めるための3議案が賛成多数で可決された。独立行政法人・都市再生機構(UR)が開発する。

 3議案は、19億円の債務負担行為を盛り込んだ一般会計補正予算案▽都市公園の区域決定案▽URによる工事の直接施行の同意案−。市の防災公園(7・3ヘクタール)に対する議案だが、今後URは、NTT西日本が所有し格納庫がある市街地整備区域(17・6ヘクタール)と一体的に開発する。このため、3議案の議決が開発に伴う格納庫の取り壊しの“GOサイン”となるため、議論となった。

 討論では、4人が反対。「戦争遺跡の扱いを考える時間的余裕が必要なのでは」「格納庫のある市街地整備区域の議論ができていない」「国の事業仕分けでも問題になっているURによる施工には、不透明性がある」などと訴えた。

 一人は「周辺に住宅地が多く、早い時期に防災対策を進める手法として有効だ」などと賛成した。

 採決した30人のうち8人が一般会計補正予算案と都市公園の区域決定案に反対。URの直接施工には10人が反対に回った。

 市は「(格納庫を)写真や映像で保存する」と、建物自体を残す意思を示しておらず、市やNTTなどがまとめた土地利用転換計画に基づき、開発が進みそうだ。

 議場には、保存を働き掛けた市民団体「鈴鹿市の戦争遺跡を保存・平和利用する市民の会」のメンバーら10人余りが傍聴。

 共同代表の一人、加藤二三子さん(75)は「残念だが、議会で議論となり、問題提起した意義はあった。取り壊されることになったとしても、悔いが残らない活動を今後もしていきたい」と話していた。

 (村瀬力)

401小説吉田学校読者:2010/08/01(日) 10:21:30
中ソ諜報よりも「金大中事件、『影の軍隊』関与説」否定の方が関心を惹くものであります。
冷戦終結21年、もうそろそろ東西冷戦下のウラ話、秘話の類が出てきてもいいんじゃないでしょうか、秘密を持っている皆様方。

中ソ諜報「ムサシ機関」私が率いた 元陸将補が証言
http://www.asahi.com/national/update/0731/TKY201007310376.html

 冷戦期に米軍と共同で情報収集活動に当たった自衛隊の元情報機関長が、朝日新聞の取材に応じ、国内外で行っていた諜報(ちょうほう)活動や創設の経緯などを明らかにした。民間人になりすまし、旧ソ連や中国などの共産圏諸国に出入りする人々から軍事情報を聞き出すのが主な活動だったという。同機関の存在は、金大中氏拉致事件などにからんで注目されたことがあるが、直接の責任者が証言するのは初めて。
 明らかにしたのは、陸軍士官学校出身で、陸上自衛隊の情報部門で長く旧ソ連担当を務めた元陸将補の平城(ひらじょう)弘通さん(89)。現在は東京都内で不動産業を営んでいる。
 1964年から2年間、情報収集の実動部隊だった「陸幕第2部特別勤務班(別班)」の班長(2佐職)を務めた。陸幕第2部が公刊情報の収集や電波傍受を行っていたことは防衛省も認めているが、諜報活動に従事した別班の存在については一貫して否定してきた。別班は部内で「ムサシ機関」と呼ばれ、在日米陸軍の情報部門と秘密裏に連携した。
 平城氏によると、情報協力をめぐって在日米軍の情報部門と陸幕第2部との協定が結ばれて米側との共同機関が創設され、56年から米軍の指導のもとで情報専門家を育成する訓練が始まった。米軍がもっていた偽装の仕方や人的情報の集め方などの基本ノウハウを身につけたという。
 拠点は東京郊外にあった米軍施設のキャンプ・ドレイク(現・朝霞駐屯地)。ここに米側の情報部門「500MIグループ」があり、61年、さらに共同責任で合同工作を行うことでも合意、62年から実践活動に移行したという。
 「日系の米側将校と意思疎通を図るため、慣れないゴルフを一緒に重ねた」と話す。
 日米ともに要員は15人前後。国内で写真店や小さな商社などを経営して、中ソや北朝鮮、北ベトナムなどに出入りする日本の商社員や漁業関係者などに接近し、日本への敵対行為の兆候などがないか情報収集をしたという。
 例えば、シベリア抑留者の現地墓参団の参加者に関係者を装って近づき、ソ連国内の写真撮影や地図の入手などを依頼した。
 また将来は、海外に住む日本人らの間に「独自の情報源と連絡網を作ることを目指していた」という。
 平城氏が活動した60年前後は、冷戦構造の東西対決が深まった時期にあたり、中国が金門島に砲撃を加え米第7艦隊が出動した第2次台湾海峡危機(58年)や、米ソが対峙(たいじ)したキューバ危機(62年)などが起きている。
 機関員になると自衛隊との一切の接触が禁じられたが、「陸幕第2部長の指示を受けた連絡幕僚から受ける形」で陸幕の指揮を受けたという。
 収集した情報は日米双方に提供され、防衛庁(当時)の防衛計画の立案に役立てられたほか、米太平洋陸軍(ハワイ)と陸幕の極秘の情報会合「JA会議」などで、米側の偵察衛星画像や通信傍受情報と交換されたこともあった。
 運営資金は60年代には「月額100万円程度」(60年当時の大卒の国家公務員の初任給は約1万2千円)。陸自と米陸軍から支給された資金などでまかなったという。
 ムサシ機関がいつまであったのかについては「ある時点で途絶えたという話を最近聞いたが、確かめようがなく、わからない」という。
 同機関については、日本共産党の赤旗が、「影の軍隊」として73年の金大中事件に関与したのではないかとの疑惑を70年代に報道したことがあるが、平城氏は「任務は国内での対外情報収集だけ。謀略や破壊工作、海外活動をしたことはない」と否定する。
 今回、内幕を明かした理由については「邪悪な謀略機関というイメージを払拭(ふっしょく)し、国家の正当な情報収集活動だったことを明確にしたかった」と話している。
 80年に防衛庁を退官した竹岡勝美・元官房長は「初耳だ。自衛隊が独自の秘密情報組織をもつことは認められるはずもなかった」と話す。
 平城氏はムサシ機関にかかわった当時の陸自幹部らを実名で登場させ、その内幕を描いた著書を9月に講談社から出版する予定。

402名無しさん:2010/08/09(月) 10:39:12
「癒着」って、いったい何のことだったんだろう? :イザ!
http://sarahctr.iza.ne.jp/blog/entry/1648662/

「癒着」って、いったい何のことだったんだろう?
2010/06/11 18:54



金大中拉致事件がKCIAの犯行と発表してアメリカに亡命した韓国人ジャーナリスト文明子と、米国務省韓国部長ドナルド・レイナードは、拉致事件が政治決着した裏で、田中首相にワイロが渡ったことを暴露した。


アメリカに亡命、後にフランスで失踪(拉致殺害説あり)した元KCIA部長金炯旭は米下院公聴会で、金大中拉致事件の首謀者がKCIA部長李厚洛であること、李厚洛の朴正煕政権の政治資金調達に日本企業が深く関わっていることを証言した。


在米韓国広報官長李在鉉(アメリカに亡命)の告発によって、円借款で行われたソウル地下鉄建設計画に絡んで、新韓碍子と日商岩井との関係、車両契約を受注した日立製作所のリベート問題が発覚した。

ロッキード事件に前後して相次いで表面化した、韓国の政治家や情報機関、財閥と、日本保守政界と政商、利権右翼、企業グループの癒着構造を「日韓癒着」と呼ぶ。

日韓癒着の起源は、朴正煕政権の発足直後にさかのぼる。
日韓条約締結交渉は、竹島の領有権や戦後補償の額をめぐって何度も決裂したが、韓国の密使が児玉誉士夫に接触したことで、10年以上続いた交渉は急転直下妥結した。


自民党内の反対派を説き伏せるのにどれだけの金が闇で動いたのかは見当もつかない。条約締結で、岸派・佐藤派と伊藤忠商事が、賠償利権を手中にした。伊藤忠の瀬島龍三と朴正煕は陸士の先輩後輩の間柄である。

かつてフジサンケイグループ総帥の鹿内信隆(元陸軍)は、朴正煕との対談番組で「日韓癒着と騒がれているのは、日韓の傷口が癒されている証拠だ」と揚言した。元産経新聞社員で、許永中事件に連座して逮捕された「政財界のフィクサー」こと福本邦夫は、産経退社後、政治家秘書として国際勝共連合の結成に関与したという。


現在も、フジテレビ社長村上光一は統一教会信者と噂され、産経新聞主筆住田良能はKCIAエージェントと噂されている。

「日韓癒着」は戦後日本のコアの部分だ。朴正煕は日本を腐らせた。

403名無しさん:2010/08/13(金) 20:01:51
10.26朴正熙大統領射殺事件


朴正煕大統領は、誰が、何ゆえに暗殺したのでしょうか かれは独裁者でしたが、反... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1414517769

北朝鮮からの度重なる工作活動と学生運動の激化に危機感をもった朴は、弾圧を一層強めましたが、その結果、韓国への国債世論が悪化し、かえって北朝鮮の思う壺になりかねないと、アメリカが朴大統領に民主化するよう求めました。しかし、北の干渉を恐れた朴はこれを拒否。するとアメリカは業を煮やして,韓国から手を引くことを告げます。
最後通牒とも言うべき結論を突きつけられた朴大統領は、それならばと、核兵器の開発保有を目指すこことを宣言したのです。
そうなれば北朝鮮の核保有を促すばかりか、背後の中国に付け入る口実を与えてしまう。
こうして下したCIAの結論が、朴大統領の抹殺だったのです。


もし日本が核武装を表明すれば、アメリカはどう出ると予想しますか? - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1318162253

彼は米軍の撤退に抗議し、核兵器の保持を主張したことでCIAに指示されたKCIAに暗殺されました。


10.26朴正熙大統領射殺事件
http://1026.skr.jp/1026/

404小説吉田学校読者:2010/08/15(日) 09:56:26
ウィキペディアの記述や浅田次郎の最新作などで、8月15日以後も、戦争が続いていたことが結構知られるようになりました。私も小さい頃「本当の終戦記念日は9月2日じゃないのか」と思ったものです。
とはいいながらも、今日は政府が決めた終戦記念日、65年前、ポツダム宣言を受諾した翌日で玉音放送が正午に放送された日であることは間違いありません。
整いました、「8月15日の靖国神社」とかけまして「昔のホームレス」ととく。その心は「右や左の旦那様をお待ちしております」。

終戦記念日静かに迎える政権 首相、閣僚は靖国参拝せず
http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010081401000535.html

 65回目の終戦記念日となる15日、民主党政権として初めて迎える菅直人首相と全閣僚は靖国神社を参拝しないなど、静かに犠牲者をしのぶ姿勢を見せている。首相の靖国神社参拝をめぐり内外がざわついたこともあった自民党政権とは異なった様相となりそうだ。
 首相は、日韓併合100年に関する首相談話も、当初候補の一つだった15日を避け、10日に閣議決定したとされる。
 靖国参拝に関しても、就任当初から「A級戦犯が合祀されており、首相や閣僚の公式参拝には問題がある」と指摘し、在任中は参拝しない意向を繰り返し表明。
 これを受け仙谷由人官房長官は「閣僚として公式参拝を自粛するのが政府の考えだ」と表明、連立を組む国民新党の自見庄三郎金融担当相を含め全閣僚が既に参拝しない考えを明らかにしている。
 一方で首相は、新たな国立追悼施設に関しても14日、「今すぐどうこうということではない。党内外の議論をみていきたい」と述べるにとどめた。15日は、千鳥ケ淵戦没者墓苑を参拝した後、全国戦没者追悼式に出席する予定だ。

405名無しさん:2010/08/19(木) 19:46:24
源田実論  出口吉孝氏 寄稿 - 草莽の記    杉田謙一 - 楽天ブログ(Blog)
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200807070000/
源田実論  後編 - 草莽の記    杉田謙一 - 楽天ブログ(Blog)
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200807070001/

406名無しさん:2010/08/23(月) 06:52:19
「つくる会」教科書検定合格おめでとう。
http://natto.2ch.net/mass/kako/986/986388406.html

46 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/04/05(木) 02:04

元桜花隊パイロットの方のおはなし

「(※特攻隊慰霊祭での)生存者代表の祭文に、『東京裁判史観に惑わされて国がおかし
くなってしまった』というような文言が散見される。日本遺族会や靖国神社も『侵略戦争
だなんて言うのは、戦没者の霊を冒涜するものだ。大東亜戦争は自存自衛の戦争である』
とキャンペーンを張っている。
 特攻隊にかぎらず、戦没者の大部分は、上からの命令に従い、祖国民族のためと思って
戦ったので、侵略戦争問題には関係がない。
 侵略戦争問題は、為政者や権力者の行為に対して論じるべきだ。
 為政者や権力者の行為と、大部分の戦没者の行為をまぜこぜにして、戦没者の名を借り
て、為政者や権力者の侵略行為を覆い隠そうとするならば、それこそ戦没者に対する冒涜
である。
 元特攻隊員の私とすれば、特攻隊の名を借りて、そういうことをされるのは、ぜったい
に許せない。生理的嫌悪感というか、腸(はらわた)が煮えくりかえる思いである。
 慰霊祭に政治を持ちこむことはやめてもらいたい。慰霊祭から政治色を抜いて浄化すれ
ば、靖国神社も戦没者たちも、もっと広くから敬愛されるようになるだろう」

 (生出寿『一筆啓上 瀬島中佐殿』(徳間文庫)所載)

407名無しさん:2010/09/02(木) 12:15:10
瀬島龍三氏の米寿祝う会に小渕首相、小沢党首ら勢ぞろい
http://www.asahi.com/1211/news/politics11009.html

1999年12月11日

 中曽根康弘元首相のブレーンで、伊藤忠商事特別顧問の瀬島龍三氏の「米寿」を祝う会が11日夜、東京都内のホテルで開かれ、小渕恵三首相、自由党の小沢一郎党首、橋本龍太郎前首相、中曽根氏らが顔をそろえた。瀬島氏は戦前、関東軍参謀を務め、戦後は伊藤忠商事に入社。政界にも知己が多い。

 瀬島氏はかつて臨時行政調査会や臨時教育審議会の委員として、民間の立場から行政改革や教育改革の推進役を務めた。

 あいさつした中曽根氏が瀬島氏とともに進めた行革の思い出話を語り、小渕首相も「教育改革が非常に大事だ。中曽根元首相、橋本前首相がやり残した仕事に力を尽くしていきたい」と語るなど、「改革」話に花が咲いた。

408名無しさん:2010/09/02(木) 12:17:04
國民新聞(平成11年1月)あの瀬島氏が「日本戦略研究フォーラム」を企画
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110113sejima.html

110113    あの瀬島氏が

「日本戦略研究フォーラム」を企画



 戦中は大本営、戦後シベリアからの帰国後は財界、中曾根
政権以降は政界の、それぞれ「参謀」としての道を歩んでき
た瀬島龍三伊藤忠商事特別顧問が国家戦略研究のため、日本
戦略研究フォーラム設立へ向けて動き出した。

 設立趣意書によれば、わが国の21世紀における国家戦略
確立へ向けて、政治、経済、軍事、科学技術分野に重点を置
いた研究を行う。

発起人には、

自由党の小沢一郎 党首、
 自民党の中山太郎 元外相、
 樋口廣太郎 アサヒビール会長、
 小田村四郎 柘植大学総長、
 田久保忠衛 杏林大学教授、
 岡崎久彦 元駐タイ大使

 らが名を連ねている。

抑留や東京裁判証人、ソ連(ロシア)との関係などで
さまざまに論評される瀬島氏だけに危ぶむ人々も。

409名無しさん:2010/09/02(木) 14:31:41
TheBarrenZone-04
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-04.htm

445Isogawa Takuji : 2009/10/16(金) 10:33:30 ID:FsII/bra0
瀬島龍三氏は、NTTの顧問として、米国外資の日本侵略のため
に通話明細を漏洩させ、伊藤忠の商売を成功させた行為により、
実際に第二の敗戦を招いている。


TheBarrenZone-06
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-06.htm

465Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 01:06:05 ID:5tRdRuLK0
また、グリコ森永事件やAUM真理教事件などの劇場型犯罪テロ
行為において、日本の旧内務省関係者が、電電公社や電話会社に
通話記録の蓄積と提供とを要求した行為は、それを仕掛けた軍産
複合体による日本企業への侵略を容易としている。

つまり、通話記録を入手することにより、日本企業の指揮命令の
系統や系列関係を、米国軍産複合体の系列である外資は、容易に
把握することができるようになっていた。

瀬島龍三氏は、そのような米国軍産複合体の謀略に加担していた
のである。

467Isogawa Takuji : 2009/10/21(水) 01:10:11 ID:5tRdRuLK0
瀬島龍三氏には、いろいろと迷惑を被っているので、書くことが
あるということです。>>466

彼の秘書が、私を訪ねてきたこともありました。


TheBarrenZone-07
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-07.htm

840Isogawa Takuji : 2009/10/23(金) 20:53:23 ID:ZQsXS6D60
ちなみに、瀬島龍三氏が顧問であったNTTでは、通話明細での
政府や企業の動向を把握するという手法が採用されていた。


TheBarrenZone-12
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2009-10/TheBarrenZone-12.htm

352Isogawa Takuji : 2009/11/20(金) 00:37:00 ID:CTpG13Hr0
情報力が重要であることが表現されていたが、NTTのように、
通話明細を漏洩して外資の日本侵略を補助して儲けるというよう
なことを、瀬島龍三氏はやってしまっているので、説得力が無い
と言えるだろう。


TheBarrenZone-18
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/2010-01/TheBarrenZone-18.htm

387Isogawa Takuji : 2010/01/12(火) 20:22:25 ID:Fb6T+QZc0
http://www.geocities.jp/isotaku503/eihyou/NHK-TaigaDrama/2010/Ryomaden-028.htm#984
瀬島龍三氏が、NTTで通話記録をデータベース化した通話明細
で、共産主義的なスパイの手法で、日本を東ドイツのように米国
の衛星国家にしたことは、大罪であると言えるだろう。


Takuji-Isogawa_Talking-and-Walking
http://www.geocities.jp/isotaku503/

410名無しさん:2010/09/02(木) 18:01:41
NTTと瀬島龍三/「日本戦略研究フォーラム」 - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20051011/1129020189

412とはずがたり:2010/09/22(水) 09:42:23
先日池上さんが解りやすく解説してましたね

大阪大、壁壊したら「奉安庫」 戦前に御真影など収納
http://www.asahi.com/national/update/0921/OSK201009210065.html
2010年9月21日17時5分

写真:解錠作業が進められる奉安庫=21日午前、大阪府豊中市の大阪大学、筋野健太撮影解錠作業が進められる奉安庫=21日午前、大阪府豊中市の大阪大学、筋野健太撮影
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/nihonshi/OSK201009210068.jpg

 耐震改修中の大阪大学豊中キャンパスのイ号館の壁を壊したところ、戦前に天皇、皇后の「御真影(ごしんえい)」や教育勅語を納めていた金庫型の「奉安庫」が見つかった。同大は21日午前、鍵を開ける作業を始めた。全国の学校に設置されていた奉安庫、奉安殿の多くは、連合国軍総司令部(GHQ)が1945年12月に出した神道指令で解体された。発見した同大学の廣川和花助教は「奉安庫の手前に壁を作り、65年間も見つからなかったのは珍しい」とみる。

 イ号館は28年の建築。49年の学制改革で大阪大に包括された旧制浪速高校の本校舎で、国の登録有形文化財に指定されている。1階の元校長室(約66平方メートル)の北西角を斜めに仕切っていた壁(厚さ約3センチ)をはいだところ、しっくいに埋め込まれた観音開きの奉安庫(高さ94センチ、幅73センチ)が見つかった。

 東京、神奈川で奉安殿の遺構調査をした玉川大学教育博物館の白柳弘幸学芸員は「建物に埋め込まれた奉安庫を動かすのは大変なので、手前に壁を作り、GHQから隠したのではないか」と指摘する。調査した他の学校では、建物外の奉安殿は46年までに教職員がハンマーやダイナマイトで壊していたが、動かせない奉安庫は戦後、金庫や書類入れとして使ったという。

 神戸高校や奈良女子大には講堂に奉安庫の名残の観音開きの扉が残されている。神戸市外国語大学の長志珠絵(おさ・しずえ)准教授(日本現代史)は「旧制高校や帝国大学は行政や軍とかかわって、戦争を積極的に支える役割を担っていたため、GHQの捜索を受けまいと過剰反応して隠したのではないか」と推測している。

413とはずがたり:2010/09/22(水) 09:45:18
>>410
おお,カマヤンさん(ヤンが敬称だとするとさん付けなくて良さそうな気もするけどw)とこのリンクが貼られてますね。追加でカマヤンさんとこのオタクの政治プラス掲示板より

瀬島龍三《真正売国奴》スレッド
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1097928844/l50

414荷主研究者:2010/09/23(木) 14:08:53

http://www.oita-press.co.jp/localNews/2010_128356523638.html
2010年09月04日 10:50 大分合同新聞
「小倉陸軍造兵廠糸口山製造所」全容解明

豊の国宇佐市塾の例会で調査結果を報告した藤原さん(左)と、糸口山製造所で働いていた当時の様子を語る国東さん=2日、宇佐市森山の教覚寺

 戦時中、宇佐市糸口山に建てられていた「小倉陸軍造兵廠(しょう)糸口山製造所」について、豊の国宇佐市塾メンバーの会社員藤原耕さん(37)=中津市三光=の調査で建物の配置や規模、工員数などが明らかになった。これまで、残された資料もなく全容が分からなかったが、藤原さんが関係者の話や写真、地図などを収集して解明。同市塾はこれを機にさらに調査を進め、糸口山製造所のことを「記録として後世に残す」取り組みを始める。

 糸口山製造所は、北九州市にあった同造兵廠が爆撃を受けたため、移転先の一つとして1944年に建設。9月ごろから順次稼働を始めた。

 藤原さんによると、96万平方メートルの敷地内に機関砲を造る工場や倉庫、事務所などが分散配置され、床面積は44年時点で3万2千平方メートル、45年は6万4千平方メートル。軍人、工員、動員学徒など約1万人が働き、女子挺身(ていしん)隊員など女性も約3900人いた。

 藤原さんが調査に取り掛かったのは昨夏から。旧制宇佐中を卒業後、製図手として製造所に勤務していた国東利行さん(83)=宇佐市南宇佐=に話を聞き、造兵廠同窓会が出した史料を参考に配置図を作成。その後、米軍が戦後撮影した糸口山付近の航空写真や当時の製造所の地図も取り寄せ、調査内容を裏付けた。

 2日夜にあった同市塾の例会で報告。国東さんも参加し、「製造所のことは振り返られていなかったのでありがたい。一番不思議なのは、高い煙突や鉄道の引き込み線もあったのに一度も爆撃を受けなかったこと」などと語った。

 同市塾は工員ら製造所関係者の手記を募っている。平田崇英塾頭は「取っ掛かりができた。証言を寄せてもらい、これだけの規模の工場が稼働していたことを記録としてきちんと残したい」と話している。

415チバQ:2010/10/16(土) 20:19:07
http://www.asahi.com/international/update/1015/TKY201010150519.html
タブー破った? ベルリンで大規模な「ヒトラー展」2010年10月16日12時9分
 【ベルリン=松井健】ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーをテーマとする展覧会が15日からベルリンのドイツ歴史博物館で始まった。戦後ドイツではナチスの犯罪を紹介する展示は絶えず開かれているが、ヒトラー個人を取り上げることは、その主張を宣伝することにつながりかねないため、敬遠されがちだった。「戦後初の大規模なヒトラー展」として注目されている。

 「ヒトラーとドイツ人――民族共同体と犯罪」と題され、ナチス時代のヒトラー崇拝ポスターやナチスの制服などが並ぶ。ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)や第2次世界大戦などヒトラーが起こした惨劇も詳しく伝える。ヒトラーが着ていた制服などは、ネオナチから神聖視される恐れから展示しない。

 企画したミュンスター大のターマー教授は「ヒトラーの展示ではなく、ヒトラーとドイツ社会の関係がテーマだ」と話す。ヒトラーは秘密警察などによる弾圧や巧妙なプロパガンダも権力拡大に使ったが、当初は選挙で多くのドイツ国民に支持を広げた。経済が危機にあり、国民が強い指導者を求めた背景もあった。

 戦後ドイツにとって「ヒトラー支持」の過去は重荷で、ヒトラーは「怪物」として一面的に取り上げられることが多かった。だが、近年は多面的に紹介する動きが出ており、今回の展覧会もその流れに位置づけられる。

 今回、有力誌「シュピーゲル」は「右派からの歓迎と、ほかからの激しい抗議」の可能性に言及。「タブーを破った」(AFP通信)と報じるメディアもある。ターマー教授は「批判的に取り上げており、極右が喜ぶ恐れはない」と強調した。

416小説吉田学校読者:2010/11/02(火) 06:09:01
大阪地検の前代未聞の不祥事を病床でも聞いたか。イトマン事件という前代未聞の経済事件で大阪地検特捜部の捜査標的にされた(とされる)人物の死であります。
「人脈」を背景に活躍する「黒幕」時代の終焉。黒幕と言われながらもKBS京都は救えなかったので、「本当に黒幕かよ」と私は思っているのですが・・

福本邦雄氏死去 旧KBS京都元社長
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110101000803.html

 福本 邦雄氏(ふくもと・くにお=画廊フジ・インターナショナル・アート会長、旧KBS京都元社長)1日午前11時18分、敗血症のため東京都港区の病院で死去、83歳。神奈川県出身。葬儀・告別式は3日正午から港区高輪3の15の18、高野山東京別院で。喪主は妻智子(ともこ)さん。
 故竹下登元首相の政治団体代表を務めるなど、実力者との親交が深く政界フィクサーとして知られた。新聞社勤務を経て国会議員の秘書になり政界とのつながりを築いた。戦前の日本共産党幹部福本和夫氏の長男。

417小説吉田学校読者:2010/11/10(水) 19:31:34
往年の政治家のモノマネが、もうツボに入って入って、坪内ミキ子状態であります。ので、ご紹介。
私ができるのは亀井静香と自民党幹事長辞任表明時の小沢一郎くらいです。

ものまね 大物政治家 田中角栄渡辺美智雄大平正芳福田赳夫
http://www.youtube.com/watch?v=XMezkSHx_QE

418荷主研究者:2010/11/21(日) 13:43:25

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1011090016/
2010年11月9日 神奈川新聞
登戸研究所からみる戦争遺跡、旧日本軍の兵器や偽札を写真で紹介/川崎

登戸研究所や川崎市内の戦争遺跡などを紹介する写真展=明大生田キャンパス

 川崎と第2次世界大戦のかかわりを知ってもらおうと、明治大学生田キャンパス(川崎市多摩区)内にある、平和教育登戸研究所資料館で写真展「登戸研究所から戦争遺跡をみる」が開かれている。12月4日まで。

 同資料館は、旧陸軍の「登戸研究所」を活用した施設として今年3月に開館、4月から一般開放されている。今回は第1回の企画展として、市内在住の写真家小池汪さんが1960年代から2009年まで撮影した、同研究所にかかわる戦争遺跡などの写真23点が並ぶ。

 戦時中、中国にインフレを起こさせるために発行した偽札や、旧陸軍731部隊が開発した兵器などを写真で紹介しながら、戦争中に同研究所が果たした役割を解説。戦後も宮前区に残っていた兵舎、幸区や高津区の地下壕(ごう)など、市内の戦争遺跡の写真も展示している。

 同資料館は「普段暮らしている場所のすぐそばに軍事施設があり、兵器開発が行われていた事実を知ってほしい」と来場を呼び掛けている。

 午前10時から午後4時まで。日曜から火曜は休み。11月21日は開館。入場無料。問い合わせは、同資料館電話044(934)7993。

419チバQ:2010/12/29(水) 20:35:19
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201012280048.html
下関の旧山陽ホテル解体へ '10/12/28

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 JR西日本広島支社は27日、下関市細江町3丁目の旧山陽ホテルを解体すると発表した。旧鉄道省が1902年に国内初の直営ステーションホテルとして開業し、伊藤博文、アインシュタイン、ヘレン・ケラーたちが宿泊したとされる。戦前の下関の繁栄を象徴する建造物の一つが姿を消す。

 山陽ホテルは、01年の山陽鉄道(神戸―下関)開業を機に翌02年、当時の下関駅そばの現在地に建設。3年後、関釜連絡船が就航した。当初は木造2階建てだったが22年、漏電による火災で焼失。現在の鉄筋3階、地下1階建ては24年に再建された。東京駅を設計したことで知られる辰野金吾が設計を監修し、アーチ型の窓などが特徴だ。

 武者小路実篤や高浜虚子、山田耕筰、ベーブ・ルースも宿泊したとされ、04年には市民有志が保存を求めて署名活動をした。


 しかし、JR西日本は、老朽化が激しいため解体を決めた。

【写真説明】JR西日本広島支社が解体を決めた旧山陽ホテル(下関市細江町3丁目)

420荷主研究者:2011/01/17(月) 23:45:11

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201101050034.html
'11/1/5 中国新聞
旧海軍の地下タンク埋め立て
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ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110105003402.jpg

 旧海軍が重油の保管用として大正時代に建設した、江田島市江田島町江南の「飛渡瀬地下タンク」の埋め立てが4月に始まる。約15万立方メートルのタンクは戦後は空洞のままで、地上は農地になっている。安全対策の一環で約2年かけて埋め、地上を農地に戻したうえで地下の所有権を地権者に移す。管理する中国四国防衛局は「農地の下の国の財産を用途廃止する全国でも珍しい工事」としている。

 大呉市民史によると、旧海軍が6年間かけて建設し、1923年に完成した。第1次世界大戦で国内の地上タンクが破壊され、爆弾投下対策として地下に建設されたとある。

 縦約100メートル、横約90メートル、高さ7〜8・5メートルのコンクリート製のタンクが二つ並び、内部に数メートル間隔で支柱が残る。江田島市文化財保護委員会の宇根川進委員長(59)は「呉の旧軍港近くに実験的に建てたのではないか。隠れた土木遺産としても価値が高い」と見る。

 工事は、老朽化したタンクの崩落を防ぐ目的。上部コンクリートを撤去し、支柱も倒してタンク内に土砂を入れる。砂などは船で輸送し、陸揚げ後にダンプで搬入。工事額の目安は15億円未満〜6億9千万円という。

 農地の土は一時的に別の場所に保管し、工事完了後に戻す。今は国が「地下タンクの管理」の用途で持つ権利は廃止し、農地の地権者が所有権を持つ。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110105003401.jpg
【写真説明】<上>旧海軍が建設した地下タンクの上に広がる農地<下>工事概要のイメージ図

421とはずがたり:2011/01/18(火) 09:30:33
ヨッキは興味ないだろうけど山行がスレ相当ちゃうの?(・∀・)
其れは兎も角地下遺跡は文化財として残しにくいかなぁ。何か勿体ない。
>隠れた土木遺産としても価値が高い

422荷主研究者:2011/01/30(日) 21:35:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201101110024.html
'11/1/11 中国新聞
宮島に旧海軍の防空施設跡
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ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110111002402.jpg

 世界遺産厳島神社がある宮島(廿日市市)に、太平洋戦争中、旧日本海軍が築造した防空施設跡が残っている。同市に記録はないが、防衛省防衛研究所(東京・中目黒)が保管する「呉海軍警備隊戦時日誌」に記述の「厳島聴測照射所」とみられることが、郷土史家らの調査で分かった。

 同照射所は呉軍港防衛のため敵機の探知を任務とし、指揮所や探照灯(サーチライト)、兵舎などを備えたらしい。施設跡は宮島の御床(みとこ)山南西部、標高230メートル前後の尾根筋に点在。指揮所とみられる平屋建物は、れんが積みモルタル仕上げの約80平方メートルで、扉や窓は失われ内壁も一部崩れていた。

 建物を挟んで離れた高い場所にはコンクリート台座(直径1メートル余り)が2基あり、聴音機や探照灯を設置していたらしい。掘削した平地に、かまどや流し台を伴った兵舎跡らしい数棟の建物基礎が確認された。貯水槽も2基ある。

 宮島の近代戦争遺跡には日露戦争当時の砲台跡があるが、1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争当時の旧軍施設跡はほとんど知られていない。現地は厳島神社から南西へ約6・5キロの山中で、整備された登山道はない。これまで一部の登山愛好者や郷土史家に知られるだけだった。

 郷土史家藤下憲明さん(67)=廿日市市=によると、「呉海軍警備隊戦時日誌」などに「聴測照射所」「特設見張所」と記され、所収の地図中、島南西部に○印があった。42(昭和17)年2月に建設。広島湾や芸南海域の島々や、沿岸の山に配置された同種の施設と連携し、敵機に備えたとみられる。

【写真説明】ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110111002401.jpg
<上>「厳島聴測照射所」指揮所とみられる建物内部。窓は失われ、内壁が一部剥落していた(昨年12月16日、撮影・宮原滋)
<下>宮島南西の尾根に残る旧海軍の「厳島聴測照射所」跡(昨年12月9日、撮影・山本誉)

423荷主研究者:2011/02/06(日) 13:28:50

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9777959&newsMode=article
2011/01/23 10:12 福島民報
松川事件転覆列車の一部か、部品を発見  

 福島市松川町で昭和24年に起きた松川事件で、脱線転覆した列車の物とみられる鉄製の部品が22日までに見つかった。蒸気機関車の石炭を燃やす「火室」の一部とみられ、事件現場近くで地中に半分埋まった状態で発見された。事件発生から60年余。関係する物品は裁判の証拠品を含めて散逸し、ほとんど残っておらず、関係者は「事件を後世に伝えるための貴重な資料」と注目している。

■福大資料室公開を検討

 発見場所は列車が脱線転覆した現場の東側の線路付近で、昨年春ごろに通り掛かった人が見つけ、福島大の松川資料室に持ち込んだ。大きさは長さ約50センチ、幅約30センチ。JR関係者や蒸気機関車の元機関士に確認したところ、脱線した列車と同じタイプのC51形蒸気機関車の「火室」に使われた鉄製の部品で、灰を取り出す下ぶた部分とみられることが分かったという。

 切断された痕跡があり、事件後、横転した列車を現場から速やかに撤去するため、車両を持ち運びできる大きさに切断したとされる記録にも合致している。切断したものを運び出す際に何らかの理由で現場に残された可能性があるとみられる。

 部品の発見場所は昨年春より前には草木で覆われており、JR東日本が視界を確保するため、草木を伐採した後に見つかった。

 松川資料室の研究員で、事件に関する著書もある伊部正之福島大名誉教授は「発見の状況からみて脱線した列車の一部にほぼ間違いない。事件を後世に伝えるために意義ある資料だ」と話している。松川事件の裁判資料を保管している法政大大原社会問題研究所も「写真や文書以外に、事件を伝える物があるとは聞いたことがない」としている。

 伊部名誉教授や関係者は今後、部品の製造年など詳細な鑑定と分析を行うことや、一般公開を検討している。

 突然の発見に関係者も驚いている。県松川運動記念会の渡辺香津夫事務局長は「60年も過ぎた今になって見つかるとは…。事件が残した問題の大きさを感じさせる。大事に保存する必要がある」と強調。事件の元被告の阿部市次さん(88)=福島市在住=は「忘れてはならない事件。貴重な物が見つかって良かった」と語った。

※松川事件 昭和24年8月17日未明、福島市松川町の東北線金谷川−松川駅間で上り列車が脱線転覆し、機関士ら3人が死亡した。レール外しによる列車往来妨害事件で、当時の国鉄と東芝の労働組合員ら20人が逮捕され、福島地裁は25年に死刑5人を含め全員に有罪判決を下した。その後、全国的な支援運動が展開され、36年に仙台高裁での差し戻し審で被告全員に無罪が言い渡された。38年9月、最高裁で全員無罪が確定した。現在まで真犯人は不明。

【写真】脱線列車の一部とみられる鉄製の部品を手にする伊部名誉教授

424荷主研究者:2011/02/06(日) 13:56:33

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/221784
2011年1月19日 02:01 西日本新聞
志免町・竪坑櫓 国重文指定1年 本格補修はこれから

志免町の竪坑櫓。1943年の完成から70年近くにわたり、町の歴史を見続けてきた

 志免町の中心部にそびえる「旧志免鉱業所竪坑櫓(たてこうやぐら)」(高さ47・6メートル)が国の重要文化財に指定されてから1年が過ぎた。「負の遺産」として、解体を求める声も強かったが、重文指定を経て、町は「積極的な保存」へとかじを切った。しかし、本格的な補修はこれから。具体的な活用方法の検討も4月の統一地方選で行われる町長、町議のダブル選挙後に委ねられる。

■苦肉の策で保存

 「旅行から戻って櫓が目に入ると『帰ってきたな』って思う」。竪坑櫓付近でカメラ店を営む花岡幸弘さん(72)はしみじみと話す。花岡さんは閉山間際の1962年まで、4年間櫓の上で地下から鉱員や石炭を上げ下げする巻き上げ機を操作していた。

 店には、鉱業所稼働時と閉山後の町の航空写真が並ぶ。様相の全く違う2枚の写真で共通するのは、竪坑櫓。町の変遷を見続けてきたことを物語っている。

 また、丘の上にあり、町内のあらゆるところから見える「町のランドマーク」と南里辰己町長。竪坑櫓はまさに、町のシンボル的な存在といえる。

 しかし、志免鉱業所の閉鎖(64年)後、竪坑櫓は消極的な言葉で語られてきた。「暗い炭鉱時代を思い起こさせる負の遺産」。住民の間では、こんな声が大勢だった。21世紀に入り、日本の産業発展を象徴する「近代化遺産」に注目が集まる中、竪坑櫓にも保存の要望が寄せられるが、財政的な負担への反対意見は多かった。

 このため“苦肉の策”として町は、2006年に竪坑櫓の半径40メートルをフェンスで囲み、安全を確保する一方、櫓本体には手を加えない「見守り保存」をしてきた。ただ、結果として閉山から現在まで40年以上、櫓には、本格的な補修がなされない状況が続くことになってしまった。

■住民の力に期待

 そうした中での09年12月の国の重文指定だった。「日本建設技術史上、価値が高い」との国のお墨付きに町は方針を転換。南里町長は昨年12月の議会で「見守り保存から活用保存へシフトする必要があるのではないか」と言及した。

 とはいえ、補修だけで億単位の経費がかかる。重文の補修費は国と県が6割を負担するが、それでも町は4割の負担を迫られる。とりあえず町は、11年度以降の予算で、強風などではげ落ちが激しいコンクリートの補強費を計上する予定だが、最終的な補修費として、少なくても数千万円の地元負担を強いられる可能性があるという。

 こうした事情もあって南里町長は「住民の力も借りて、櫓の付加価値を向上させたい」と期待する。

 05年に櫓の保存を要望する署名運動をした「志免立坑櫓を活かす住民の会」は毎年、櫓のライトアップイベントなどに取り組む。古庄信一郎会長(63)は「粕屋地区の財産である櫓を地元の商工、観光に生かす方策を考える時期」と意気込む。「旧志免鉱業所の歴史を学ぶ会」は、櫓をはじめ志免鉱業所の歴史を伝えるボランティアガイドを養成。森内平会長(75)は「説明を聞くことでより深く知ってもらう。地道に続けたい」としている。

■「先走りを心配」

 重文指定以降、竪坑櫓に関しては「エレベーターで屋上に行けるようにしては」「近くに物産館を」という町の活性化につなげようという意見が上がるものの、活用方針をめぐり意見は一様ではない。「保存計画を置き去りにして、活用のアイデアばかりが先走るのは心配」という声もある。

 炭鉱に詳しい東定宣昌・九州大名誉教授(68)=エネルギー産業史・石炭産業史=は「地元に愛されない文化財は長生きしない。地元が納得した方法で、自らの古里を確認できる場として残されるのが大切」と指摘する。

=2011/01/19付 西日本新聞朝刊=

425ソース:2011/04/11(月) 18:41:16
ttp://freewindblg.blog114.fc2.com/に飛渡瀬地下タンクへ通じる通路の画像らしきものが載ってる。名前が違うけどたぶんコレ

426荷主研究者:2011/05/15(日) 13:42:48

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110507t15007.htm
2011年05月07日土曜日 河北新報
野蒜築港の遺構被災 東松島・日本初の洋式港湾計画

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/MIYAGI/20110507_a3-001.jpg

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/MIYAGI/20110506014jd.jpg
津波被害を受けた野蒜築港遺構の橋の土台。左岸の3基のうち1基だけが残った=東松島市浜市

 明治政府が日本初の洋式近代港湾として、鳴瀬川河口に計画した宮城県東松島市浜市の野蒜築港の遺構が東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。新鳴瀬川に残っていた橋の土台が流失、損壊したほか、工事で地ならしに使われたとされるローラーも失われた。市教委は実態把握を急いでいる。

 新鳴瀬川は港内への流砂堆積を防ぐため、鳴瀬川の東側に掘削された。1881(明治14)年から82年にかけて木橋が3本架けられ、橋1本につき、左右両岸にれんが製の土台がそれぞれ3基が建造された。橋そのものは後年、失われたが、土台はほぼそのまま残っていた。

 3月11日の震災では浜市地区にも津波が押し寄せ、土台がまるごと流されたり、れんがが壊れたりする被害が出た。れんがの一部は現場近くに残っているが、多くは不明のまま。当時を記念して浜市地域に置かれていた石製のローラーも流失したとみられる。

 市教委生涯学習課は「まず被害確認を急ぎたい。どうやって流失した土台を探し、復元を進めるか、見通しが立たない状況だ」と説明する。

 野蒜築港は土木学会の「選奨土木遺産」に選ばれるなど、地域のシンボル。鳴瀬川河口近くにある野蒜築港資料室も津波被害を受け、休館を余儀なくされている。

 地元住民らでつくる野蒜築港ファンクラブ事務局の松川清子さん(60)は「自分を含め多くの住民が被災した。今はまだ気持ちの整理がつかないけれど、時期が来たら津波被害と合わせ、地域の宝物である築港の歴史を伝えていきたい」と話している。

[野蒜築港]明治政府が東北地方を「富国強兵」「殖産興業」の重要拠点に位置づけ、1878(明治11)年に着工。安積疎水(郡山市)にも関わったオランダ人技師ファン・ドールンが工事を担当した。北上運河と東名運河を開削したが、84年9月の台風で突堤が流失、計画は断念された。

427荷主研究者:2011/08/28(日) 14:14:54

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004362437.shtml
2011/08/13 08:00 神戸新聞
地下指揮所66年ぶり現る 加西の旧海軍飛行場跡 

66年ぶりに全体像が明らかになった地下防空壕=加西市鶉野町

 太平洋戦争の際、旧姫路海軍航空隊の飛行士養成のため設置された鶉野飛行場(加西市鶉野町)の跡地に、同隊飛行科の指揮所(管制塔)とみられる地下防空壕が66年ぶりに姿を現した。民家敷地内にあり、流れ込んだ雨水で水没していたが、地元住民らが水を排出。複雑な内部構造が明らかになり、住民らは貴重な戦争遺跡を多くの人に見学してもらおうと、展示場として整備した。

 同飛行場に詳しい高砂市の戦史研究家上谷昭夫さん(72)によると、同飛行場跡には防空壕や滑走路、弾薬庫など約60の遺跡が残るが、中でも入り組んだ構造の防空壕が確認されたのは初めて。

 防空壕はコンクリート造りで、夏も涼しい。2部屋あり、東部屋が縦3・7メートル、横4・7メートル、西部屋は縦3・7メートル、横3・1メートル。両部屋とも天井はドーム状で、高さは最大約3メートル。壁は厚さ約1・5メートルの部分もあり、頑丈に造られている。

 部屋と地上を結ぶ通路は2カ所にあり、それぞれ全長約10メートル。外から爆風が入り込んでも部屋まで届かないよう、各通路には曲がり角が3カ所ある。

 この防空壕は、周囲に地上指揮所や、戦闘機を収納する格納庫があった状況から、空襲時に退避できる地下指揮所だったと推測できるという。

 戦後、この防空壕を含む用地は払い下げられ、現在は民家の敷地内にある。住民らによると、防空壕にはこれまで雨水が流れ込み、水深は約1・5メートルに達していたため、足を踏み入れることはなかった。

 戦後66年を迎える今年、地元老人会が防空壕を平和学習に活用し、地域の活性化にもつなげようと発案。7月下旬、消防団の協力を得て、たまった水を抜き清掃。排水設備も整えた。

 防空壕内では戦闘機の模型や現物のタイヤ、写真などを展示、戦争関連映像も見られるようにした。老人会の尾花幸雄さん(66)は「とても立派な防空壕で驚いた。たくさんの人に見てほしい」と話している。

 入場無料。見学希望者は事前に尾花さんTEL090・1023・2389へ。

(藤村有希子)

428荷主研究者:2011/10/02(日) 16:53:34
なかなか由緒ある建物ではないだろうか。勿体ない気がするなぁ。
>北陸電力の前身「高岡電燈(でんとう)」本社ビルだった歴史

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20110917/CK2011091702000143.html
2011年9月17日 中日新聞
高岡の「近代遺産」 本丸会館本館 解体へ

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011091702100086_size0.jpg
市急患医療センター(左奥)新築のため解体されることになった高岡市本丸会館本館=同市本丸町で

市長が方針 医療センター建設

 高岡市の高橋正樹市長は十六日、昭和初期建設の市本丸会館本館(本丸町)を解体し、跡地に、隣接する市急患医療センターの新しい建物を建設する方針を明らかにした。市議会九月定例会で、高橋市長が、畠起也(自民党議員会)、曽田康司(自民クラブ)の両氏の代表質問に答えた。(飯田克志)

 現在の急患医療センターは老朽化が進んでいる。高橋市長は、本丸会館本館を改修し、同センターとして再活用するには多額な費用がかかると説明。さらに、センターの現在の敷地内だけでは狭いため、十分な診療機能のあるセンターが造れないと説明。

 新築するセンターは、インフルエンザといった感染症患者と一般の患者が接触せずに診療できるようにするなど、機能を強化する方針。新築後、現在のセンターは取り壊す。

 本丸会館本館について、市は「近代遺産」として一定の価値を認めており、資料による記録など可能な保存方法を検討する。

 現在の急患医療センターが入っている本丸会館新館は一九六四(昭和三十九)年に建設された建物。センターは八〇年に開設され、高岡だけでなく、射水、氷見両市の市民も夜間や休日に利用している。

 本丸会館本館について、市民団体「本丸会館とまちづくりの会」などは、北陸電力の前身「高岡電燈(でんとう)」本社ビルだった歴史などから貴重な近代遺産として保存を求めている。同会の本田恭子代表は「大変遺憾。会員や有識者と話し合い、可能な限り保存を市に働き掛けたい」と話している。

 市は一月、内部検討委員会が歴史的・文化的価値を認めつつも、再活用は困難とする報告をまとめている。

429とはずがたり:2011/10/02(日) 23:11:54

歴史教科書“日中全面戦争”のウソ
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/other/530409/
配信元:産経新聞
2011/10/02 08:23更新

【from Editor】

 ことしの教科書採択は終了したようだが、毎年、考えるのは歴史教育が随分とゆがめられているのではないか、ということだ。教科書を執筆している人も、採択の担当者も教師も歴史を知らないのではないか、とさえ思えてしまう。とくに近現代史がそうで、例えば、昭和12年7月に始まったとされる日華事変(教科書では日中戦争)について、「北京郊外での日中両軍の衝突によって日本と中国が全面戦争状態に入った」などと書かれる。が、これは正しくない。

 盧溝橋事件は日本の支那駐屯軍と中国の宋哲元軍(第29軍)との衝突だが、10日後には宋が日本軍の香月清司軍司令官に遺憾の意を表明して停戦が成立している。しかも、日本軍の桜井徳太郎少佐が宋哲元軍の軍事顧問をしていたのである。日本軍と米軍が戦争しているときに、日本軍人が米軍の軍事顧問になるだろうか。

 その後、8月13日に第二次上海事変が起こり、日本軍と蒋介石軍との間で戦争状態となるが、日本軍が戦ったのは、蒋介石軍と、共産軍である八路軍であり、蒋介石軍と八路軍もまた、互いに戦争状態にあった。蒋介石軍と八路軍が戦闘をしている場面に出くわした日本軍が両軍の戦闘を傍観するということもあった。さらに、日本政府は国民政府の汪兆銘と協定を結び、その結果、日本軍は汪兆銘軍と共同して作戦を遂行したりしている。日本の将兵と汪兆銘軍の中国人将兵が一緒に行軍して、八路軍と戦うということもあった。

 また、上海のクラブでは、中国人バンドの演奏で、日本人と中国人が同じテーブルで酒を飲み、歌を歌い、踊りを踊っていた。そこにはアメリカ人もイギリス人もいて、中国各地で繰り広げられている日本軍、蒋介石軍、汪兆銘軍、八路軍の動向が話題に上ったりもしていた。映画「上海バンスキング」の世界である。

 当時の日本は政府であれ、軍であれ、国民であれ、中国と戦争をしているという自覚はなかったのである。あえていえば、日本の権益を守るために、それを妨害する蒋介石軍と八路軍を懲らしめているといった認識であったろう。あくまで戦争の対象は「蒋介石」であったから、「援蒋ルート」などの言葉も生まれたのである。

 わたしは産経エクスプレスのネット版に「歴史ドラマのウソホント」を連載しているが、教科書に「日中全面戦争」などと書かれては、「日本歴史教科書の大ウソ」といわなくてはならなくなる。(編集委員 大野敏明)

430荷主研究者:2011/10/18(火) 00:33:53

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20110930/625041
2011年10月1日 下野新聞
足尾銅山の所長宅を公開 鉱都の勢い伝える

 【日光】鉱都・足尾の中枢施設の一つとして、旧古河鉱業足尾鉱業所が100年以上前に建築した所長宅と課長宅が1日から、足尾町掛水で一般に公開される。ほぼ創建時の状態で現存しているため、専門家も「全国的に極めて珍しい」と太鼓判を押す。昨年2月の県有形文化財指定を受け、所有する古河機械金属が公開の準備していた。

 所長宅は、1907年の足尾暴動事件後、焼失した事務所などの掛水への移転に伴い建築された。迎賓館の「古河掛水倶楽部」に隣接し、床面積100坪(約330平方メートル)超の木造平屋建て。東側の接客棟と西側の居住棟が中廊下で区切られ、それぞれに玄関がある。

 接客棟は、洋風応接室と座敷2室で構成。特に応接室はよろい戸のついた窓を並べ、外側は石積み風に仕上げられるなど意匠を凝らした造りだ。居住棟は4室の座敷や風呂などがある。

 建て替え計画があったものの、バブル崩壊で頓挫し、2年前まで社宅として使用されていた。そのため保存状態が比較的良好なのだという。

 同所には所長宅の他に5棟の重役宅があり、いずれも県指定有形文化財。調査を担当した建築史研究家の河東義之小山高専名誉教授は「当時としては最先端の住宅建築だった」と評価する。

 昨年11月に1日のみの特別公開をしたところ好評だったため、防火設備を設置し、所長宅と課長宅の2棟を一般公開することに。同社足尾事業所は「地域活性化につながれば」と期待している。

 入場料は、以前から公開しいる「古河掛水倶楽部」と合わせ、大人400円、小中学生200円。営業は土、日、祝日で、それ以外は事前予約が必要。冬季は休館。問い合わせは同社足尾事業所電話0288・93・3255(土、日、祝日は0288・93・2015)

431荷主研究者:2011/11/26(土) 15:03:02

あれはそう呼ぶのか。今の感覚ではみっともない様式に感じられるが、近代建築の歴史としては貴重なものかもしれないなー。
>鉄筋の現代建築に城郭風の瓦屋根を載せた「帝冠様式」と呼ばれる造り
>県本庁舎と、隣にある同じ帝冠様式の名古屋市役所庁舎の国重要文化財への指定を目指している

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20111101/CK2011110102000105.html
2011年11月1日 中日新聞
精巧!県庁舎プラモ 豊橋のメーカー試作、3日に展示

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011110102100051_size0.jpg
完成した県本庁舎のプラモデル試作品=県庁で(県提供)

 お城のような屋根が特徴の県本庁舎の模型を、豊橋市のプラモデルメーカー「ファインモールド」が試作した。鈴木邦宏社長(53)が31日、県庁を訪れ、試作品を大村秀章知事に紹介した。

 県本庁舎は1938(昭和13)年に完成。鉄筋の現代建築に城郭風の瓦屋根を載せた「帝冠様式」と呼ばれる造りで知られる。

 鈴木さんが4年ほど前に「世界に類がない特徴でプラモデルにしたら面白いのでは」と発案。来年5月の発売を目指し、原型となる試作品を完成させた。

 試作品は台座を含め幅21・5センチ、高さ10・5センチ、奥行き11・5センチで、サイズは本物の500分の1。合成樹脂製で、特徴のある瓦屋根や壁面などを精巧に再現している。販売価格は未定。

 同社はこれまで、映画「スター・ウォーズ」や、スタジオジブリのアニメ作品に登場する戦闘機の模型を製作してきた。鈴木さんは「官公庁の建物のプラモデル化は世界初では。新しい愛知ブランドになる」と売り込んだ。

 県は名古屋市と連携して、県本庁舎と、隣にある同じ帝冠様式の名古屋市役所庁舎の国重要文化財への指定を目指している。3日には県本庁舎内を一般公開するイベントを開き、この模型の試作品も展示する。大村知事は「県本庁舎は戦争で焼け残った建物で大事にしないといけない。プラモデル化は大変に勇気づけられる」と感謝していた。

 (島崎諭生)

433名無しさん:2012/01/21(土) 15:49:44
http://www.asahi.com/national/update/0121/TKY201201200767.html
2012年1月21日3時3分
靖国戦犯合祀、国が主導 地方の神社から先行

 戦争犯罪に問われた軍人らの靖国神社への合祀(ごうし)について、旧厚生省が日本の独立回復翌年の1953年に、公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める、との方針を決めていたことが同省の内部資料でわかった。方針に沿って、先に地方の護国神社での合祀を目指すとの記述もあり、朝日新聞が調べたところ、6カ所でA級戦犯3人を含む先行合祀の記録が残っていた。

 天皇や閣僚の参拝や、戦争責任をめぐる議論を起こしてきたA級戦犯合祀の原点となる方針が、独立回復に際して政府内で練られていたことになる。

 政府は従来、国会答弁などで、戦犯合祀は「靖国の判断」とし、宗教行為である合祀には関与しておらず、政教分離を定めた憲法に反しないとの姿勢を強調してきた。だが、今回の文書で、終戦までと同様、政府が合祀という靖国の根幹領域に立ち入って方針を定め、戦犯合祀の環境をつくり上げたことがわかった。

続きは朝日新聞デジタルでご覧いただけます

434とはずがたり:2012/02/10(金) 10:19:18

すげえ。。

第一次大戦兵士の最後の生存者死去、110歳の英国人女性
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120209-00000017-cnn-int
CNN.co.jp 2月9日(木)16時3分配信

(CNN) 米週刊誌タイムなどは8日、第一次世界大戦の従軍兵士で最後の生存者として知られる英国人女性のフローレンス・グリーンさんが死去したと報じた。110歳だった。

英BBC放送によると、同国ノーフォークにある養護施設で4日夜、就寝中に息を引き取ったという。111歳の誕生日を2週間後に控えていた。

グリーンさんは17歳だった1918年、停戦が発効する前の2カ月前に英国空軍の女性部隊に入隊し、食堂の接客係として働いた。

2008年にはタイム誌との会見に応じて戦時体験に触れ、「多数のパイロットと知り合い、デートもした」などと述懐。「航空機に乗る機会もあったが飛ぶのが怖かった。基地ではたくさんの友人ができ、暇な時には愉快なこともした。楽しい思いをさせてもらった」と振り返っていた。

グリーンさんの死去を受け、退役した元英空軍少将は「従軍兵士の最後の生存者は女性であるべきだったかもしれない。母国で奉仕した人物は、我々に戦争は塹壕(ざんごう)に限られた話ではないことを思い起こさせる」としのんだ。

435荷主研究者:2012/02/15(水) 23:55:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201201120055.html
'12/1/12 中国新聞
原爆資料館の写真、一部劣化

 写真フィルムが長い年月の間に化学変化を起こし、溶けるなどして画像が失われる「ビネガーシンドローム(加水分解による劣化)」が、広島市中区の原爆資料館に保管されている写真の一部でも起きていることが分かった。被爆後や復興期の写真を次代に継承できなくなる恐れもあり、専門家は「長期保存への多角的な取り組みが必要」と指摘している。

 同資料館によると、ビネガーシンドロームが見つかったのは、原爆の惨禍とまちの復興を記録した佐々木雄一郎さん(1917〜80年)のフィルム。

 約6万こまのうち、主に46年と、48〜49年の一部の計数百こまについて、フィルム同士が溶けて固まったり、波打つなどし、プリントできない状態になっている。「靴磨きの兄弟」(48年)の名で知られる写真も、フィルムが失われた可能性があるとしている。

 写真保存の専門家で日本写真家協会の松本徳彦専務理事が同館で確認した。「資料館の温度、湿度などの保管方法に問題はない。避けられない化学変化が進行している」と指摘。「劣化が進んだフィルムを別の容器で保管したり、健康なフィルムは早めに紙焼きしておくことが最善。画像の長期保存に向け、多角的な対策を進めてほしい」と言う。

 同館学芸担当の大瀬戸正司主任は「遺族が大事にしてきたフィルム。専門家の指導の下、紙焼きなども検討材料の一つとし、適切に保管管理をしていきたい」としている。

 ビネガーシンドロームは、主に50年までに製造されたフィルムで起きやすいという。松本さんは「日本の写真家の間でその危険性が話題になり始めたのもわずか10年程前から。国レベルでの研究、対策が始まったが、写真資料を保管する各地の公文書館や図書館などでも現象の有無を確認し、適切な管理を進めてほしい」と話している。

【写真説明】ビネガーシンドロームが起きた佐々木さんのネガフィルム

436荷主研究者:2012/03/31(土) 17:36:15
>>298
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1202110017/
2012年2月11日 神奈川新聞
09年焼失の旧吉田茂邸、県も予算化して再建始動へ/神奈川

 2009年3月に焼失した旧吉田茂元首相邸(大磯町西小磯)について、県と大磯町は12年度、再建に着手する。県は12年度予算案に建物の基本設計費を盛り込んだ。再建主体となる大磯町からの受託事業で、費用は同町が負担し12年度予算案に計上する。技術的支援を担う県が基本設計の発注業務を行う。建物の再建が予算化されるのは初めてで、地元や関係者の悲願が進み出した。順調に進めば、13年度に実施設計、14年度に建設工事着手のスケジュールが想定される。

 再建問題は昨年12月、県と町による再建方針案が確定。大磯町が建物の再建の主体となり、完成後の維持管理、運営を担当。県は、崖部分ののり面保護工事など敷地の基盤整備のほか、建物再建の技術的支援、協力を行うとしていた。

 県はこの役割分担により、設計に関する業務を町から受託して担当。新年度予算案で、公園整備費の中に基本設計費の枠を盛り込んだ。

 大磯町旧吉田茂邸再建基金には昨年12月末現在で、町民や全国から約2億5171万円の寄付が寄せられている。再建は焼失前の姿に戻すのが基本だが、再建の範囲、経費などは慎重に検討を進める。

 ◆旧吉田茂邸 総ひのき造りで数寄屋風の木造2階建て約千平方メートル。政財界の大物が元首相に意見を求める大磯参りを繰り返すなど戦後政治史の舞台の一つだった。1979年には当時の大平正芳首相とカーター米大統領の首脳会談も行われた。漏電などによる失火が原因とみられる火事で2009年に焼失。敷地約2・9ヘクタールは県が09年度に購入し県立公園として整備している。

437とはずがたり:2012/04/05(木) 12:18:10
>>251
>>249は読めなく成っちゃったし転載しておこう。


1933/03/28
日本、国際連盟脱退
http://www.c20.jp/1933/03datta.html
首相の斉藤は、もともとは、脱退反対論だった。閣僚の大半、内相山本達雄、蔵相高橋是清、文相鳩山一郎、農相後藤文夫、拓相永井柳太郎らも脱退には反対だった。また、海軍も斉藤を支持していた。閣僚ではないが、内大臣牧野伸顕も、イギリス提案をのんだ方がいいという意見だった。
だが、新聞各社は、圧倒的に脱退論をとなえていた。全国百三十二社が共同声明を作って、一面にのせた。内容は、満州国の存在を危うくするような解決案は、いかなる事情があろうとも、絶対に受諾すべきではないことを、全言論機関の名において声明する、というのであった。
客観的にいって、新聞はじつにだらしなかった。陸軍の青年将校の威勢のいい言辞にひきずられていた。
あるいは、同情的にいうならば、新聞にはもはや言論の自由はなかった。憲兵隊と特高警察がその力をほしいままにしていたのである。

伊東巳代治の国連脱退反対運動
http://www.ndl.go.jp/modern/column/07.html

昭和8(1933)年2月24日、国際連盟総会は満洲における日本の特殊権益を認める一方、同地方の主権は中国にあるとする対日勧告を採択した。それは「千九百三十一年九月前ノ原状ヘノ単ナル復帰ヲ定ムルモノニ非ズ」とされたが、日本は前年九月、日満議定書により満洲国を正式承認していたので落とし所を見出すのは困難だった。この問題は前年12月9日、十九ヶ国委員会に付託されていたが、委員会の段階で日本の劣勢が明らかになっていたことから、1月下旬になると国連脱退の主張が各界で頻りに唱えられるようになった。それは朝野、左右を問わず、ほとんど国を挙げての現象と化したが、その中にあって独り国連脱退に異を唱えた人物がいた。

それは帝国憲法の起草者の一人で伊藤博文の懐刀として聞えた伊東巳代治である。伊東は明治32(1899)年以来、枢密院に蟠居し、政党内閣期には「内閣の鬼門」として恐れられた。金融恐慌救済緊急勅令問題では第1次若槻内閣を倒し、不戦条約問題では田中内閣を倒壊寸前まで追い詰めた伊東はロンドン条約問題で浜口内閣に一敗地に塗れてからは鳴りをひそめていたが、今ここに脱退反対に立ち上がったのである。伊東は2月6日夜のラジオで十九ヶ国委員会の審議が満洲国の不承認で固まったことを聴き、憂慮のために寝つけなかった。9日、伊東は来訪した二上兵治枢密院書記官長に「脱退の危険なる事并に其理由なきこと」を内閣に伝えるよう求めた。二上は大正5年以来、枢密院書記官長を務め、「枢密院の主(ぬし)」とも「枢密院の癌」とも言われた人物である。ここから伊東の活動が始まり、10日には政友会の望月圭介、11日には国家主義者の杉山茂丸(作家夢野久作の父)、12日には政友会代議士の西岡竹次郎、13日には東京日日新聞社副社長の岡実(政治学者岡義武の父)、実業家の山下亀三郎、14日には政友会の岡崎邦輔(陸奥宗光の従弟)に外交の失敗を痛罵し、潜水艦の急造など軍備の拡張を主張している。伊東は満洲国の承認そのものに反対していたのではなく、日本の国際的孤立がもたらす軍事的危機を憂慮していたのである。

ここまでは政府の外交失策への批判だったが、14日に来訪した貴族院議員の石塚英蔵に牧野伸顕内大臣に対して「一朝の怒に乗して聯盟を脱するの不可なる所以」を忠告せよと依頼したあたりから国連脱退反対運動が本格化する。同じ日には来訪した外交官の吉田茂に「英国に頼りて一箇年の猶予を求むへきこと」を内田外相に伝えよと求めている。イギリスは在華権益を守るために日本との妥協を模索しており、伊東はここに期待をかけたのであろう。15日には旧友でライバルでもある枢密顧問官の金子堅太郎と会い、金子に栗野慎一郎・黒田長成の両顧問官に国連脱退反対を働きかけるよう勧説した。伊東は原嘉道・元田肇の両顧問官には自分が接触すると述べている。16日、山下の取り次ぎで海軍大臣の大角岑生が来訪したので、伊東は国連脱退は南洋委任統治領を失うことになるとして反対を説いた。大角は、国連に1年の猶予を求めよとの伊東の提議については熱河作戦が始まろうとしているので覚束無いと答えた。伊東は大角に進退を賭して脱退に反対するよう勧告した。17日には貴族院議員の児玉秀雄(源太郎の長男)、民政党の俵孫一に入説し、児玉は翌日、斎藤実首相に伊東の意向を伝達した。

438とはずがたり:2012/04/05(木) 12:18:31
>>437-438
18日、岡が大角の内意を伝えに来訪した。大角は自分一人が一身を賭しても国内を紛擾させるだけなので、伊東の注意に背くことになるかも知れないと言って来た。要するに反対は出来ないということである。海軍の反対に期待をかけていた伊東はかなり失望した。19日、荒木貞夫陸軍大臣が来たので、伊東は外交的には遷延策をとって、その間に中国の譲歩を引き出すべきだったことや潜水艦の急造などの持論を展開した。伊東は近く開始される熱河作戦について触れ、さらに問題が起きるので国連からの全権引揚げや脱退は不得策で軽挙だと説いた。荒木からは特段の意見はなかったようだ。実質的に賛同しなかったのだろう。

伊東の狙いは枢密院だけでなく、政官界の有力者に広く働きかけることで潜在している脱退反対論に点火し、最終決定の鍵を握る唯一の元老西園寺公望の意思形成に影響を与えることだったらしい。伊東の反対論はあくまで国連に留まって主張を貫くことが日本の国益にかなうというもので、二上が「硬軟ノ別ナラ却テ非脱退説ノ方ガ硬論ト云フコトカ出来ル」(「倉富勇三郎日記」昭和8年2月15日条)と評するように、決して「協調外交」「親英米論」の立場をとるものではなかった。

20日、伊東はラジオで西園寺が「内閣の提唱に一もなく雷同したる様子」を聴いた。「上下挙って聯盟の態度に憤懣の余り自制する所を知らす、一に脱退論に邁進しつゝあり」と判断した伊東は、自分はすでに首相・陸海相に忠告したので「今後一切此問題に触れさる覚悟を為すに至れり」と、脱退反対運動を諦め、この問題に背を向けたのである。誇り高い伊東は政治的なプライドが勝ち目の薄い抗争で傷つくのを嫌ったのであろう。半世紀に及ぶ政治生活で伊東が放った最後の淡い光茫であった。

439荷主研究者:2012/04/08(日) 16:10:17

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120220/CK2012022002000125.html
2012年2月20日 中日新聞
金嬉老事件 寸又峡温泉の旅館閉館へ 殺人犯籠城、昭和史に残る舞台

女将「元気なうちに」

山あいにたたずむふじみや旅館。金元受刑者は左手2階に籠城した=川根本町千頭の寸又峡温泉で

 ライフル片手にダイナマイトを抱えた殺人犯が、宿泊客らを人質に旅館に立てこもった金嬉老事件から20日でちょうど44年。昭和史に残る事件の舞台となった川根本町寸又峡温泉の「ふじみや旅館」が、近く閉館する。全国のお茶の間にテレビ中継され、劇場型犯罪の走りとされた壮絶な事件。人質だった女将の望月英子さん(73)は「元気なうちがいい」と廃業を決意した。静かな山あいの秘境温泉で、老舗旅館がひっそりと幕を閉じる。 (浅野宮宏)

 ふじみや旅館は1950年、発電ダム建設に従事する技師や作業員らの簡易旅館として寸又峡で一番古い開業。62年に寸又峡温泉の開湯で温泉旅館となった。静かな温泉街と旅館を一躍、全国に広めた籠城(ろうじょう)事件は68年2月20日深夜、金嬉老元受刑者がたどり着いて始まった。

 望月さんは、寝たきりの義母を看病し、子ども3人と母屋で寝ていた。突然、夫和幸さんに起こされ、旅館2階「藤の間」に連れて行かれると、金元受刑者にすごまれた。「最初は、何がなんだか分からなかった。でも、コンロ2つを近くに置いて、どんどん炭を燃やして、炎はわあって上がってて。近くにダイナマイトはあるし、ライフルだって撃つし。子どもだけは助けたいって」

 事件は4日後の夕、金元受刑者が逮捕されようやく終わった。望月さんは少し早く22日朝、子どもと解放されたが、生きた心地がしなかったという。「あらためて聞かれると、嫌な記憶を思い出すけど、時間が解決したというか」。金元受刑者が一昨年、亡くなったこともあり、事件を静かに振り返ることができるようになった。

 18年前、和幸さんは病死。3人の子どもも独立した。旅館を手伝ってもらった妹も県外に去り、最近は事実上、廃業状態だった。望月さんは既に旅館と土地を売りに出しており、近く廃業届を出す。

 「18歳で嫁いで。こんな人生を送った人なんていないよ。未練がないといえばうそになる。ここでほとんど生きてきたんだから」と、半世紀の女将人生を振り返った望月さん。「私はもうできないから。やりたい人があれば、譲りたい。そういうのは元気なうちがいいのよ。だって、ここは温泉がいいでしょ」と寂しさを振り払うように言い切った。

金嬉老事件 1968年2月、清水市(現静岡市)のキャバレーで暴力団組員2人を射殺した金嬉老(キム・ヒロ、本名・権嬉老=クォン・ヒロ)元受刑者が、寸又峡温泉の旅館で宿泊客ら13人を人質に88時間立てこもり、在日韓国・朝鮮人差別を糾弾して社会的な関心を集めた。金元受刑者は無期懲役に服したが、仮釈放で韓国・釜山入りし、2010年3月、81歳で死去した。

440荷主研究者:2012/04/08(日) 16:30:35

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201202200030.html
'12/2/20 中国新聞
旧日銀、50年代の装い再び

 広島市は2012年度から、被爆建物である中区袋町の旧日本銀行広島支店の国重要文化財指定に向け、被爆後に復旧工事を施した1950年代の姿に復元する取り組みを始める。3年がかりで調査し、15年度に復元工事の計画をまとめる。

 旧日銀広島支店は被爆後、50年代後半までに復旧工事を完了。その後も断続的に壁の塗り替えや床の張り替えなど修繕が行われた。

 調査では復旧当時の状態やデザインに復元できるかどうかを検討する。後で取り付けられた1階の天井板を取り外し、元の天井の状態を調べたり、壁の一部を削って当時の塗装の色や材料を確かめたりする。

 市は12年度一般会計当初予算案に調査費430万円を計上。14年度まで調査を続ける。15年度に工事計画を固め、復元に着手する。市文化財課は「当時の姿に復元すれば国重文に指定されるわけではないが、文化財的価値を高めて指定に近づけたい」と説明する。

 旧日銀広島支店は外壁が石張りの鉄筋3階地下1階で36年に完成した。ギリシャ風の装飾彫刻や渦巻き状の柱頭など古典様式が特徴で、昭和初期の広島を代表する建築物だ。

 爆心地から380メートルにあり、原爆で窓枠や欄干が吹き飛ばされ、内部が大破。職員たち20人が亡くなった。被爆2日後に業務再開し、92年まで支店として使われた。

 市は2000年に市重文に指定し、日銀が土地・建物を無償貸与した。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20120220003001.jpg
【写真説明】広島市が復元に向けた調査を始める旧日本銀行広島支店

441荷主研究者:2012/05/27(日) 11:21:43
明治期以降の建物でも伝統的建造物群保存地区に指定されるのか。
>明治期以降に建てられた店蔵

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/05/20120503t11017.htm
2012年05月03日木曜日 河北新報
県内初の「伝統的建造物群保存地区」 村田町が計画策定

村田町が伝統的建造物群保存地区への設定を目指す「蔵の町並み」

 宮城県村田町は「蔵の町並み」として知られる町中心部を、伝統的建造物群保存地区(伝建)に設定する準備を進めている。明治期以降に建てられた店蔵は東日本大震災で損壊が進んでおり、制度を活用して国から補修費の補助を受けたい考え。昔ながらの町並みを再生し、観光振興も目指す。蔵の町並みが伝建に設定されれば県内初のケースとなる。

 町は2013年度末にも、保存の基本方針や対象物件を記した保存計画を策定する方針。現在、設定に向けた役場内の体制整備、歴史を生かした町づくり構想の描き方などを検討している。地域内の住民への周知、合意形成も課題で、ことしの夏ごろに住民説明会を開く予定。

 町教委によると、町内には明治期以降に建てられた蔵などが約100棟あったが、うち約20棟は震災による損壊が著しく取り壊された。残る蔵の多くも土壁の崩落、柱や床の傾きなどが進んでいる。ほとんどの蔵は個人所有のため、持ち主が多額の修繕費用を負担しているのが現状だ。

 国から特に価値が高い重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されれば、歴史的建造物の修復に要した費用は国や町が補助するため、所有者の負担はほとんどなくなる。固定資産税などの税の軽減措置も適用される。

 一方、伝建内では建築物の新築や改築などについて町教委の許可が必要になり、歴史的建造物と調和しない建築物は許可されないといった規制も生じる。

 佐藤英雄町長は「制度は蔵の町並みを保存、活用するのに有効で、交流人口拡大にも役立つ。選定を受けた後に歴史を生かした町づくりをするため、住民と十分に話し合いたい」と説明している。

[伝統的建造物群保存地区(伝建)の制度] 城下町や宿場町、門前町など歴史的な集落、町並みを保存するため、1975年の文化財保護法改正で創設された。市町村が伝建を設定し、市町村の申し出に基づき、国が特に価値が高いと判断した地区は重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定される。現在、弘前市仲町、仙北市角館、福島県下郷町大内宿など77市町村の93地区が重伝建に選定されている。

442とはずがたり:2012/05/29(火) 10:30:59

小松原師団長はソ連のスパイ?=ノモンハン事件で新説
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201112/2011120800677&rel=j&g=soc

 太平洋戦争勃発の2年前の1939年、当時の満州国西部国境で日本の関東軍がソ連軍と衝突、大損害を被ったノモンハン事件について、黒宮広昭・米インディアナ大教授(ソ連政治史)が日本とロシアの公文書などを基に、関東軍第23師団の小松原道太郎師団長がソ連のスパイだった可能性が大きく、関東軍はスターリンの巧妙なわなに陥れられたとの新説を唱えている。
 小松原師団長は陸軍大学校卒で、満州国が建国された32年から約2年間、ハルビン特務機関長を務めるなど主に情報畑を歩んだ。38年に第23師団長に任命され、満州北西部ハイラルに駐屯。39年5月にノモンハン付近で発生した小競り合いに独断で部隊を出動させ、大規模紛争のきっかけをつくった。ソ連は周到な準備で機械化部隊を投入、同師団に壊滅的打撃を与えた。
 黒宮教授が米誌「スラブ軍事研究」12月号に発表した論文によると、小松原師団長は在モスクワ日本大使館付武官だった27年、ソ連情報機関による「ハニートラップ」(女性を使って弱みを握る工作活動)に引っ掛かり、ソ連の対日情報工作に協力するようになったとみられるという。
 ハルビン特務機関長時代には多くの機密情報がソ連側に漏えいした形跡があり、ロシア国立軍事公文書館などにそれを裏付けるファイルが保管されている。
 小松原師団長に対するハニートラップ説はロシアの研究者が唱えていたが、黒宮教授は最近、この研究者にインタビューし、ソ連の元防ちょう機関員(故人)が情報源だったことを確かめた。(2011/12/08-16:32)

443荷主研究者:2012/10/21(日) 17:44:43

http://www.at-s.com/news/detail/450477212.html
2012/9/17 08:50 静岡新聞
湖底に眠る「幻の戦車」 歴史継承へ調査開始 浜松

 浜松市北区三ケ日町で、同町の猪鼻湖に眠る「幻の戦車」の調査プロジェクトが動き出した。戦車は戦後ひそかに沈められたとされる「四式中戦車チト」。地元の若者たちが戦争を体験した住民らを訪ねて戦車と同町の関係に迫り、地元の歴史の再認識を図る。国内に1台しか残らないという歴史的遺産の探索は全国から注目を浴びそうだ。

 戦車が沈むのは同町大崎と下尾奈を結ぶ瀬戸橋付近。地元では昔から存在は有名だったが、終戦間際の日本陸軍が技術を結集したチトだということは知られていなかった。

 調査に乗り出すのは、同町の若者たちでつくるまちおこし団体「スマッペ」。中村健二事務局長が戦車が歴史価値の高いチトだと聞いたのがきっかけだ。中村事務局長がチトについて調べるうちに、水没作業に携わった技術兵で、戦後同町に暮らしていた大平安夫さんが既に亡くなっていた事を知った。当時の町の状況についても高齢化によって情報収集が困難で「地元の歴史を次世代に残すためには今しかない」と調査を決めた。

 同団体の若者を中心に、町内の70、80代の住民への聞き取りを実施。生前の大平さんに水没の経緯を聞いたことがある豊橋市の模型メーカー「ファインモールド」の鈴木邦宏社長らにも話を聞くという。

 実際の調査には、豊橋市の魚群探知機メーカーの協力を受けた。戦車の位置を確定し、ダイバーによる水中写真の撮影が大きな目標だ。一連の活動記録をドキュメンタリー映画として撮影し、映画祭などの出品も予定。来年2月をめどに兵器や戦史の専門家によるシンポジウムも検討している。

 四式中戦車チト 完成したのはわずか2両といわれる。戦局逆転の期待を担いながら戦場に出ることなく終戦を迎えた。従来の日本戦車と一線を画し、75ミリ戦車砲や400馬力の空冷ディーゼルエンジンを備える。1両は戦後、米軍に回収された。

444とはずがたり:2012/10/22(月) 21:49:19

キューバ危機50年記念あげ♪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E5%8D%B1%E6%A9%9F

446荷主研究者:2012/11/25(日) 23:31:27
>>431
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20121027/CK2012102702000033.html
2012年10月27日 中日新聞
重文指定目指す県庁と名古屋市役所

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2012102602100177_size0.jpg
同時に重要文化財指定を目指す名古屋市役所本庁舎(左)と県庁本庁舎(右)=名古屋市中区で

 県庁本庁舎と名古屋市役所本庁舎で、国の重要文化財(重文)の指定を目指した調査が進んでいる。年内には市の有識者検討会も発足する。県と市の調査は来年度末まで続け、その後、国への働き掛けを本格化させる。十一月三日には両庁舎の公開イベントがあり、双方の担当者は「世論の盛り上がりにつながれば」と期待している。

 県庁舎は地下一階地上六階建てで一九三八(昭和十三)年に、市庁舎は地下一階地上五階建てで三三(昭和八)年にそれぞれ完成した。洋風建築に城郭風の屋根を載せた「帝冠様式」の建物が隣り合う景観は、わが国ではここだけという。

 壁や天井、タイルや内部の飾りなど建設当時のまま残されている箇所も多く、九八年には同時に国有形登録文化財に指定された。

 両庁舎の重文指定申請は、大村秀章知事と河村たかし市長の共同公約。県と市は昨年、担当部署によるプロジェクトチームを設置し、それぞれの庁舎の文化財的な価値や現状の調査を進めている。県などの担当者は「文化庁も『帝冠様式が二つ並んでいる景観はほかにはない』と言っている。脈はある」と重文指定に自信をのぞかせる。自治体の中枢機能を持つ庁舎が重文に指定されれば全国初という。

 県庁舎は小中学校の社会見学で人気を集めているほか、今年六月には豊橋市のプラモデルメーカーが模型を作り、売り出した。市庁舎もドラマや映画のロケ地に使われるなど関心が高まっている。市の担当者は「重文になることで、全国に誇れる建物というプライドを市民、県民に持ってほしい」と期待し、庁舎公開には「建物が自分たちの財産ということをあらためて認識してもらえれば」と話す。

 十一月三日の両庁舎の公開は、県庁が午前九時から、市役所は九時半から。いずれも午後四時までで無料。事前申し込みは不要。知事室や市長執務室、貴賓室などが見学できるほか、吹奏楽やダンスなどのステージイベントもある。

 問い合わせは県財産管理課=電052(954)6055、名古屋市総務課=電052(972)2106=へ。

 (吉光慶太)

447荷主研究者:2012/12/30(日) 23:54:14

http://kumanichi.com/news/local/main/20121126007.shtml
2012年11月26日 熊本日日新聞
荒尾市が「変電所跡」取得へ 戦争遺跡・二造

旧陸軍の火薬工場「荒尾二造」変電所跡。市民団体主催の見学会も開かれている=6月、荒尾市

 荒尾市は26日、旧東京第二陸軍造兵廠[ぞうへいしょう]荒尾製造所(荒尾二造)最大の遺構「変電所跡」を取得、保存すると発表した。12月3日開会の定例市議会に提出する本年度一般会計補正予算案に、建物を含む土地取得費208万円を盛り込む。

 二造は旧陸軍が造った巨大火薬工場で、敷地は約300ヘクタール。三池炭鉱の石炭を原料に、第2次大戦中に爆弾の原料となる火薬を生産した。一帯は戦後に払い下げられ、工場や病院、福祉施設、高校、団地などが建つ。

 変電所跡は面積約2020平方メートル。建造物は横40メートル、高さ約15メートルの鉄筋コンクリート2階建てで、崖に埋め込まれたような構造。二造を象徴する施設として、市民団体が保存を要望していた。

 市教育委員会社会教育課は「工場用地整備や道路の築造、市電に転用された引き込み線など、二造は市の社会資本整備の基盤となった。戦後復興のモニュメントとして残したい」と説明する。

 現在、土地と建物は国が所有。点在する火薬庫跡などほかの施設については「取得の話は進めない」としている。(小野由起子)

448とはずがたり:2013/01/25(金) 19:42:15

> 1911年(明治44年)に第13代宮崎県知事に就任した有吉忠一は細島、内海、油津の三港を宮崎県に於ける重要港湾として改修に着手、折しも飫肥と油津とを結ぶ県営軽便鉄道と、民間事業による内海と大淀駅(現在の南宮崎駅)とを結ぶ宮崎軽便鉄道が1913年(大正2年)に開通、港湾と鉄道による物流の整備が行われた。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1047289790/6160

細島は富高・延岡地区の,内海は宮崎の油津は飫肥・吾田・油津(日南)地区のそれぞれ港湾として機能してきた様だが,細島は三菱の石油化学コンビナート構想こそ実現しなかったけど,様々な工業が立地し,日南にも王子製紙の工場が有るのに対して,内海にはそういう近代資本主義的工業は皆無である。。
因みに日向市は(富高+細島=)富島と(多分平岩+幸脇=で)岩脇との合併で成立である。富高と細島で日向ではなく富島なのか。

内海は宮崎から結構遠い上に,平野らしい平野も無さそうであるし,宮崎には結局衰退した赤江港に代わりS44に大淀川の河口港の宮崎港が開設,細島・油津に次いで重要港湾の指定を受けることになる。折角だし赤江港に改称して欲しいところだけど,赤江は大淀川挟んで南側,今の宮崎空港辺りである。因みに南宮崎は大淀である。


宮崎港
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%B8%AF

宮崎港(みやざきこう)は、宮崎県中央部、宮崎市高洲町・吉村町一帯にある港湾。県庁所在地の宮崎市の東岸にあり日向灘に流れる大淀川河口の左岸(北側)、一ツ葉入江に位置する河口港。1969年(昭和44年)年に開港。港湾管理者は宮崎県。1973年(昭和48年)4月16日、県内では細島港・油津港についで3番目に重要港湾の指定をうける。

沿革
当港はかつて赤江港と呼ばれ日向沿岸の要港であった。文明年間は大陸交易路に日向沿岸経由の南海路が採用されはじめると、赤江港は寄港地となったとされ、藩政期の文化年間頃から、上方交易が活発となる。当時の赤江港は大淀川河口の右岸部(南側)に位置し、飫肥藩領における東北端の地であった。明治期は大淀川水運によって内陸部(国富町本庄、宮崎市高岡町など)と結ばれていたので、宮崎県最大の河口港として栄えた。

しかし、1923年(大正12年)年国鉄日豊本線開通による輸送体系の変化、河口港の宿命である漂砂堆積による航路維持困難さに直面し急激に衰退する。1937年(昭和12年)年、赤江港から宮崎港に改称する。第2次世界大戦後、後背圏の成長に経済成長に伴い、宮崎港の浮上が求められ、1958年(昭和33年)年から改修工事に着手、1969年(昭和44年)年に一ツ葉入江に宮崎港が再生する。

449荷主研究者:2013/02/10(日) 12:25:47

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20130115/CK2013011502000022.html
2013年1月15日 中日新聞
松代大本営建設に海軍関与の可能性 村長の記述見つかる

故塚田伍八郎さんが公務などについて詳細に記録していた日記=長野市の長野俊英高で

 旧日本軍が太平洋戦争末期、本土決戦に備えて長野市一帯に大本営や政府中枢機能を極秘移転しようと建設していた松代大本営に、海軍が関与していた可能性を示す資料が見つかった。大本営移転は陸軍主導で進み、海軍は反対していたという通説を覆す可能性も出てきた。

 見つかったのは当時を記録した日記と、海軍部隊名を記した表札や食器類で、長野市安茂里小市の塚田興造さん(75)の自宅に保管されていた。終戦当時、塚田さんの祖父の伍八郎さん(故人)は旧安茂里村の村長を務めており、公務記録を日記へ詳細に記していた。

 日記によると、終戦直前の一九四五年七月ごろから約一カ月間、海軍通信隊の薗田美輝中佐率いる部隊が安茂里村に駐屯し、伍八郎さん宅を宿舎や事務所として使っていた。この事実を裏付けるように「海軍薗田部隊士官宿舎」と書かれた表札や、部隊が使用した水筒などが見つかった。

 薗田中佐が松代大本営建設の現場責任者だった陸軍大尉の元を訪れた記録は既に確認されており、松代地区の陸軍と安茂里村の海軍の間で意思疎通があったと推測される。当時小学一年生だった塚田さんは「海軍の兵隊さんにトラックで松代へ連れて行ってもらい、穴を掘るのを見ていた」と証言する。

塚田さん宅に保管されていた表札=長野市の長野俊英高で

 松代大本営を研究している長野俊英高校(長野市)の土屋光男教頭は「当時、海軍部隊が安茂里村で地下壕(ごう)を掘っていたことが分かっているが、陸軍とも連携して本格的に大本営移転を進めていたと考えられる」と話す。

 日記には他にも重要な事実が書かれている。一九四五年六月二十八日には「大本営ヨリ両将校来場アリ」と書かれており、海軍幹部が東京の大本営から安茂里村を極秘訪問したとみられる記述がある。土屋教頭によると、海軍が組織的に大本営建設へ関わっていたことを示す記述と考えられるという。

 見つかった資料の一部は、塚田さんが長野俊英高校の郷土研究班に寄贈した。土屋教頭は「非常に貴重な資料ばかりで興奮している。日記を中心に解読を進め、新たな事実を発見したい」と話している。

 (武藤周吉)

 <松代大本営> 太平洋戦争末期、本土決戦に積極的だった陸軍を中心に国家中枢機能を移転しようと計画した地下壕群。長野市松代にある三つの山を中心に1944年11月から終戦まで工事が続けられ、地下壕の総延長は10キロ余りに及んだ。延べ300万人の住民や朝鮮人労働者が動員され、過酷な環境下で多数の犠牲者が出たと言われている。

450名無しさん:2013/02/28(木) 11:41:49
チャンネル桜が、瀬島龍三をソ連のスパイであったと断定する。

【アーカイブ】上念・倉山・浅野、政府の日銀総裁人事案を語る[桜H25-2-26] - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0LRNIospJ0c

50分から56分の間あたり。

451とはずがたり:2013/05/01(水) 21:57:50

時局匡救運動 ( じきょくきょうきゅううんどう)
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n384.htm
ニューディールかファシズムへの橋渡しか

 昭和初期の金融 恐慌 世界恐慌 金解禁 恐慌をうけて政府行政側の主導で全国に展開された事業。浜口 雄幸(おさち)内閣(蔵相は 井上準之助 )による金融引締 緊縮財政 金輸出解禁のあとをうけて、 犬養毅(いぬかいつよし)内閣 斎藤 実(まこと)内閣 岡田啓介内閣三代の大蔵大臣であった高橋 是清(これきよ)が編成した膨張予算で裏付けがなされた。内務省と農林省所管の土木事業が中心であるが、都市失業者救済 農村経済更正施設 米穀貯蓄奨励 繭共同保管 義務教育費国庫負担増額 船舶改善助成 移民奨励など、広くその他の分野に及ぶ。高橋財政の2本柱は、不況対策としての時局匡救事業費と、満州事変費を中心とする軍事費であったが、この金本位停止のもとにおける財政支出拡大策については、ニューディール型へ向かう歴史的可能性を秘めたものであったとする評価と、 ファシズム 軍国主義化への手助けになったとする評価に分かれている。
〈大分県での事業〉
 大分県における時局匡救事業費の決算額は下表のとおりである。決算年次は、昭和7年(1932)から11年までの5か年にわたっているが、7年から9年までの3年間に全体の92%が消化された。合計額の720万余円は、昭和6年度大分県総決算額に近い巨額なものであった。内容的には、土木費(54.3%)と耕地拡張改良農業土木費(17.0%)が中心であるが、それぞれ少額ながら、土木 産業関係費以外のものも見られる。 別大国道拡幅工事 大分港修築工事 大野川改修工事 のいわゆる県の三大事業とともに、県下全市町村で展開された時局匡救事業は、空前の事業ブームをまき起こした。土木事業への雇用等によって県民に貴重な現金収入をもたらしたことは評価されるべきであろう。しかし、工事がにわか仕立てで粗雑なものが多く、真の産業基盤整備に結びついていないとする批判も、県議会で出されていた。
〈田口県政〉
 時局匡救運動展開期の大分県 知事 は、第29代 田口 易之(やすゆき) であった。田口以前の歴代知事は、それぞれ政友 民政(憲政)両党との結びつきが強く、就任と同時に 党色人事 を敢行、各内閣と命運をともにして来た。田口は検事畑の出身で、京都府内務部長からの栄転であったが、党派色を持たず、したがって大飛躍もなかったが一度の休職もなく、大分県知事を最後に勇退した。昭和前期の歴代大分県知事の任期が2年に達する者が皆無という状況の中で、田口はただ1人3年10か月の長期在任を誇った。在任中の事績としては、時局匡救事業のほか、 選挙粛正運動 や 広瀬神社 の創建、 松栄山(しょうえいざん) 大分県 招魂(しょうこん)社 の神苑拡張、 宇佐神宮造営奉賛会 の組織等があげられる。勇退に際しては、県町村長会や県 農会 商工会等広範な階層からの留任要請をうけた。歴史的には、田口自身もまた、ニユーディーラーかファシズムへの橋渡し者かを問われる人物といえよう。なお、7年9月の文官分限令改正法の公布もあって、田口以降は大分県でも非政党知事が続くこととなる。
〈農山漁村経済更正運動との関係〉
 時局匡救事業は一時的なものであり、 農山漁村経済更正運動 の一部としてとらえることもできる。この運動は、兵庫県農会の自力更正運動に端を発するものであったが、政府が吸収して官主導のものとなって行く。7年9月農林省に設置された経済更生部がその中枢である。7年から16年まで続くこの運動の第1期(7〜10年)「組織整備の段階」と匡救事業の施行期が重なる。時局匡救事業は、更正運動の「組織整備」に寄与し、第2期(11〜13年)の「特別助成による本格的展開」を促して行くのである。
 参考文献 吉岡健次『日本地方財政史』

453荷主研究者:2013/05/12(日) 14:44:42

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1304170002/
2013年4月17日 神奈川新聞
「日吉台地下壕」坑口が解体へ、戦争伝える貴重な遺構/横浜

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宅地造成に伴い解体されつつある旧海軍地下壕の遺跡(大西章さん提供)

 第2次大戦末期に旧日本海軍が建造した横浜市港北区の地下壕遺跡のうち、民有地にある坑口が宅地開発に伴い解体されることが16日、分かった。壕は海軍の中枢機関が置かれた第一級の戦争遺跡として知られ、専門家は「戦争の実相を伝える貴重な遺構が消える」と危惧している。

 地下壕は大戦末期の1944〜45年、旧海軍が慶大日吉キャンパスの台地を借用して建設し、内部に連合艦隊司令部や航空本部を置いた。慶大敷地内の壕は現在、同大が保存している。

 今回問題になっているのは、台地の端に位置する民間業者の所有地。地下壕の坑口が4カ所あるが、3月下旬からの宅地造成のため一部の解体が進む。坑口の存在は50年代から知られていたが、民有地でもあり、専門家による調査は進んでいなかった。

 市民や研究者でつくる「日吉台地下壕保存の会」の大西章会長(慶応高校教諭)は「地下壕の構造がしっかり残っており、この一帯が海軍の中枢だったことが分かる」と遺跡の意義を説明。慶大の安藤広道教授(考古学)は「地元の横浜市が十分な調査をすべきだった。誰にも知られずに解体されることは、文化財行政にとって大問題だ」と話している。

 近代以降の戦争遺跡を保全する行政の枠組みは十分でない。文化庁は15年にわたり全国で調査を続けているものの、遺跡の役割や意義の「公式記録」となる報告書は、歴史認識をめぐる議論などを背景に、刊行されないままだ。遺跡が開発などで損なわれかねない現状に、懸念の声が上がっている。

 今回の件で、横浜市の文化財担当は「貴重な遺跡であることは認識しているが、法的な規制がない」と説明。戦争遺跡を市の文化財などに位置づけ、保護することについても「国の調査動向をにらみながら検討したい」と慎重だ。

 背景には、国による戦争遺跡の位置づけの曖昧さがある。文化庁は1998年度から、500超の「政治・軍事に関する遺跡」を調査、うち51件は詳細な現地調査も行ったが、報告書は未刊。同庁記念物課は「まとめる作業に時間がかかっている」と説明する。

 調査の事情を知る関係者は、こうした背景には「集団自決」が強制かどうかが議論になっている沖縄戦などを念頭に、歴史の「負の側面」を文化財とすることに消極的な「政治的判断」もある、と指摘する。

 しかし、国ではなく地元自治体が保存を主導する方策はある。専門家らでつくる「戦争遺跡保存全国ネットワーク」の代表を務める十菱駿武・山梨学院大客員教授(考古学)は「文化財は国の動向に左右されず、地域が主体となって守るべきだ」と訴えている。

454荷主研究者:2013/05/29(水) 23:45:40

http://kumanichi.com/news/local/main/20130512003.shtml
2013年05月12日 熊本日日新聞
点在の国史跡、西南戦争どう伝える 植木・玉東

田原坂資料館や弾痕の家などがある田原坂公園=熊本市北区植木町

国史跡に指定された戦跡群の一つの二俣瓜生田(うりゅうだ)官軍砲台跡。官軍が、薩群の陣地であった田原坂方面に向けて撃ったとみられる大砲の轍(わだち)跡が見つかった。写真奥には田原坂公園が見える=玉東町

 熊本市北区植木町と玉東町に点在する西南戦争戦跡群9カ所が3月末、国史跡に指定された。しかし、戦跡が広域に点在している上、民有地も多いため、今後、戦場跡としてどう整備し保存活用していくか課題も少なくない。

 1877(明治10)年の西南戦争の大激戦地だった植木・玉東地域には、古戦場跡や官軍砲台跡など、官薩両軍の攻防戦の実態を伝える多様な戦跡が良好な状態で残る。両市町は2009年、国史跡指定を目指して「西南戦争遺跡群連携保存活用協議会」を設置。戦跡の調査研究やPR活動に努めてきた。

 植木・玉東地域の戦跡群の特徴は、広大な地域に点在している点。今回指定された9カ所だけでも約20ヘクタールの区域に及ぶ。

 国史跡として生かすにはまず、西南戦争の歴史を振り返る戦場跡として地域を一体的に整備することが求められる。しかし、戦跡と戦跡が最大で4キロ近く離れ、畑や林になっている場所もあり、136年前の戦闘の実態を伝えるためには、整備手法をどうするべきか悩ましいところ。民有地の場合、土地取得も含めた所有者らとの調整も必要だ。

 今回の指定は第1弾で、両市町が追加指定を目指す残りの戦跡を加えると、区域はさらに広がる。両市町の担当者は「点在する史跡をどう結び付けて整備するかが難問。指定に向けて盛り上がった地元の熱意をどう維持していくかも含めて、これからが正念場だ」と口をそろえる。

 史跡の維持管理も課題だ。清掃などの日常的な維持管理費には国庫補助が出ないため、史跡を持つ自治体共通の問題だが、「行政だけでは限界があり、周辺住民の協力が欠かせない」と両市町。地域は自分たちで守るという住民の意識も希薄になりつつあり、史跡保存の担い手育成も急がれる。

 同協議会会長の甲元眞之・熊本大永青文庫研究センター長は「国史跡は、うまく保存活用しないと意味がない。そのためにも地元の理解と協力が不可欠。熱が冷めないうちに地元の理解とやる気を引き出す工夫を考える必要がある」と話す。

 一方、指定は、関係自治体との広域的連携の弾みにもなりそうだ。西南戦争の戦跡は県南や鹿児島、宮崎、大分に点在、戦没者遺族らは全国各地に広がる。「戦跡は、植木・玉東地域と全国各地を結ぶ格好の材料。顕彰や観光など活動の広がりが期待できる」と熊本市埋蔵文化財調査室の中原幹彦・主任文化財保護主事。今秋には国史跡指定の記念式典やシンポジウムも開き盛り上げを図るという。

 国史跡指定に向けて自治体の枠を超えた両市町の取り組みは、全国的にも注目され、10年近くかかるとされた指定を4年で実現した。地域の遺産をどのように保存活用するか、再び地域力が試される。(浪床敬子)

455とはずがたり:2013/07/29(月) 08:25:13

【歴史学者が橋下氏批判】「慰安婦制度は特異」 軍施設として組織的に設置 他国になし
http://www.47news.jp/47topics/e/242092.php

 旧日本軍の従軍慰安婦をめぐる日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の発言に絡み、慰安婦問題に詳しい中央大の 吉見義明教授(日本史)が4日、大阪市役所で記者会見した。橋下氏が「他国も同じようなことをしていた」と繰り返し主張したことに対し「軍の施設として組織的に慰安所を作った国はほかにない。日本の慰安婦制度は特異だった」と否定した。
 吉見氏は「慰安婦は居住、外出の自由、拒否する自由がない性奴隷だ」と指摘。「慰安所を軍の施設として設置し、内務省や総督府も深く関与していた。橋下氏には国が慰安所を組織的に作ったという認識がない」と批判した。
 橋下氏は「国が暴行、脅迫、拉致をして女性を連れてきた事実はない」とも主張している。吉見氏は「業者が詐欺や甘言、人身売買で女性を連行したのを軍が認識した場合、女性を解放するべきだが、そうしなかった。官憲に連れて行かれたという証言もある」と述べ、旧日本軍の責任は免れないとの見方を示した。
 5月27日に橋下氏が日本外国特派員協会で記者会見した際、同席した日本維新の 桜内文城衆院議員が吉見氏の主張を「 捏造 (ねつぞう) 」と表現したことを「私の名誉を著しく傷つける発言だ」と非難した。
 吉見氏はまた、慰安婦に関する認識をただす約30項目の公開質問状を橋下氏宛てに提出し、1カ月以内の回答を求めた。
(共同通信)

456とはずがたり:2013/08/22(木) 19:16:32

二つの被爆地、資料館が参加=グーグル「歴史アーカイブ」−日本の施設で初
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201308/2013081900571&rel=m&g=int

被爆地・広島と長崎の原爆に関する二つの資料館がグーグルのサービス「歴史アーカイブ」に新たに参加し、原爆ドーム前で開かれた式典でテープカットする松井一実・広島市長(中央)ら=19日午前、広島市中区
 被爆地・広島と長崎の原爆に関する二つの資料館が19日、インターネット検索サイト「グーグル」のサービス「歴史アーカイブ」に新たに加わった。同サービスでは歴史的瞬間の写真などの史料を世界中で閲覧でき、ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ博物館なども登録されている。日本の施設では初めてだ。
 グーグルによると、「原爆を世界に伝えるべきだ」として、広島平和記念資料館(同市中区)と長崎原爆資料館(長崎市)が選ばれた。同日の式典で、松井一実広島市長は「被爆の実相に触れるチャンスが増え、世界中の人と平和への思いを共有できれば」と話した。
 広島の資料館は計55点の写真を寄せた。原爆投下前後の広島の街や犠牲者の遺品、生き残った人たちを苦しめたケロイドなど「後障害」に焦点を当てており、爆心地近くで被爆して亡くなった女学生らが記した原爆投下前日の日記も見ることができる。
 一方、長崎は半分以上が常設展示品と異なる計177点の写真と動画を公開。長崎に多くの信者がいるキリスト教や、植物への放射能の影響をテーマにしており、今後は被爆者の証言などの公開も企画しているという。(2013/08/19-16:39)

原爆追悼「うんざり」に遺憾=イスラエル首相補佐官
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/world/jiji-130821X366.html
時事通信2013年8月21日(水)00:11

 【エルサレム時事】イスラエル政府高官がフェイスブック上に広島、長崎の原爆犠牲者を追悼する式典を「独善的でうんざり」などと書き込んだ問題で、イスラエルのアミドロール首相補佐官(国家安全保障担当)が、佐藤英夫駐テルアビブ日本大使に電話で遺憾の意を伝えていたことが分かった。在テルアビブ日本大使館が20日、明らかにした。

 イスラエル首相府筋によると、アミドロール補佐官は、この高官の主張は政府の立場を代表したものではないと伝えたという。

 高官は自身のフェイスブック上に「ヒロシマとナガサキは日本の侵略が招いた結果で、自業自得だ。追悼式典は独り善がりでうんざり」などと書き込んだ。

457とはずがたり:2013/10/12(土) 17:11:25

中ソ和解に見る演出「抱擁はだめ、握手だけ」 日韓は?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131008/chn13100815000011-n1.htm
2013.10.8 15:00

 やや意味深な題をつけたが、24年前、1989年5月の中ソ和解にかかわる話である。ゴルバチョフが北京を訪れ、トウ小平と首脳会談を行った際、握手はしたものの、抱き合うことはなかったという話である。

 ソ連の最高指導者の訪中は30年ぶりのことだったが、胡耀邦の死をきっかけとする民主化運動のあおりを受けて、ゴルバチョフの北京での日程は大幅な変更を余儀なくされた。天安門広場がハンスト学生らによって占拠されていたため、広場にある人民英雄記念碑への献花は中止され、広場に面する人民大会堂で予定されていた記者会見は場所を変えて行われた。

 ただ訪中のハイライトだったトウ小平との会談は人民大会堂で実現した。応援取材で北京にいた私は、会談の模様を実況のテレビ放送を通じて見守った。2人はまず握手を交わした。30秒間も続いた。腕時計で確認したのだが、長い長い握手だった。

 握手はしたものの抱擁はしなかったという事実を、当時、私はまったく気にとめなかったように記憶している。握手にばかり気をとられていた。ソ連の指導者とは握手をしても抱擁はしないというのが、その当時の中国政府の方針だったという。

 当時、中ソ和解にかかわった中国外務省職員が、北京で発行されている月刊誌(『百年潮』8月号)に回想記を寄せている。それによると、中ソ和解が現実のものとなりつつあった88年10月、トウ小平は李鵬(当時、首相)や銭其●(同、外相)らに、ソ連との首脳会談や外相会談の際、抱擁をするのかしないのか、検討するよう指示した。

 米国をはじめとする西側諸国は中ソ和解の動きを注視していた。社会主義国間の首脳会談では、抱擁は見慣れた光景だったが、トウ小平の指示はソ連との和解が西側諸国との緊密な関係を損なわないよう、配慮することを求めたものだった。

 李鵬らはトウ小平の指示に沿って、「握手だけ、抱擁はしない」ことを決めた。そのことはソ連側にも伝えられ、88年12月、銭其●がモスクワを訪れた際に行われた外相会談以降、この方針が実施されたという。握手だけでなく抱擁も、ということになれば「世界に誤ったシグナルを送ることになっただろう」と回想記には書かれている。

 最近では、「会談はだめ、立ち話だけ」という首脳と首脳の関係もある。むろんそれも、綿密な検討と計算をしたうえでのことだろう。(敬称略)

(前滋賀県立大学教授・荒井利明)

465とはずがたり:2014/03/23(日) 13:22:46

「慰安所隠蔽 軍が資金」元日本兵供述の資料 専門家「河野談話裏付け」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014032302000122.html
2014年3月23日 朝刊

 旧日本軍の従軍慰安婦問題で、太平洋戦争中にインドネシアのバリ島に海軍兵曹長として駐屯していた男性が、一九六二年の法務省の調査に「終戦後(慰安所を戦争犯罪の対象に問われないよう)軍から資金をもらい、住民の懐柔工作をした」と供述していたことが分かった。
 元兵曹長は「(慰安婦として)現地人など約七十人を連れてきた」「他にも約二百人を部隊の命で連れ込んだ」などと連行の実態も説明していた。
 関東学院大の林博史教授(日本近現代史)の研究室が国立公文書館(東京)保管の資料で見つけた。林教授は「河野洋平官房長官談話が認めた軍の関与を裏付けるもので重要だ」と評価している。
 安倍政権は、旧日本軍の関与と強制性を認定した河野談話の作成経緯を検証する方針を示している。
 法務省の担当者は、男性の供述について「既に公文書館に資料を移管していて確認できず、責任を持って答えられない」と回答した。
 法務省の資料によると、元兵曹長は四七年八月、オランダ軍がBC級戦犯を裁いたインドネシア・バタビア(現在のジャカルタ)の軍法会議で、住民への暴行などに問われ、懲役十二年(求刑懲役十五年)の判決を受けた。
 元兵曹長は六二年八月の調査に、罪に問われた十件余りは「殴った蹴った程度の事件ばかり」と振り返り「(発覚を)一番恐れたのは慰安所事件だった」と告白した。
 強制売春は戦犯行為に問われる。元兵曹長は「軍需部などに強硬談判して約七十万円をもらい、各村長を通じて住民の懐柔工作に使った」と述べ、組織的な隠蔽(いんぺい)を示唆した。「これが完全に功を奏したと見え(慰安婦関連では)一件も訴えが出なかった」と話した。
<河野官房長官談話> 宮沢内閣の河野洋平官房長官が1993年に従軍慰安婦問題の政府認識について発表した談話。「甘言、強圧により本人たちの意思に反して集められた事例が数多くある。官憲などが直接加担したこともあった」と旧日本軍の関与と強制性を認め、慰安婦に謝罪した。歴代内閣は談話を継承してきたが、菅義偉官房長官は談話作成の経緯を検証する方針を表明。安倍晋三首相は3月「安倍内閣で見直すことは考えていない」と述べた。

466とはずがたり:2014/04/28(月) 18:14:07
英、日本の尖閣領有権に疑問 「固有の領土」支持せず
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20140427/Kyodo_BR_MN2014042701001536.html
共同通信 2014年4月27日 18時34分 (2014年4月27日 19時57分 更新)

 【ロンドン共同】尖閣諸島に対する中国の領有権主張が注目を集めた1970年末、在日英国大使館が本国に「日本の領有権主張には疑問が残る」と報告、英外務省は翌71年に日本、中国のいずれにも領有権を証明する歴史的証拠はないと判断、どちらも支持しない立場を決めていたことが27日、英公文書で分かった。
 英の「不関与政策」は現在も引き継がれており、主要友好国でさえ、「尖閣は固有の領土」という日本の主張への立場表明を回避してきた実態が明らかになった。

467とはずがたり:2014/05/06(火) 14:04:25

富岡製糸場 「赤字続きで払い下げ」に疑義
http://news.goo.ne.jp/article/tokyo/region/tokyo-CK2014050302000151.html
東京新聞2014年5月3日(土)08:10

 官営富岡製糸場は赤字続きで民間に払い下げられた−。こんな通説が覆る可能性が出てきた。富岡製糸場総合研究センターがまとめた官営期の経営実態に関する研究で、上質な生糸の生産体制が整った一八八五(明治十八)年度以降は黒字に転じていたことが分かった。今井幹夫所長は「経営実態から、赤字続きで民間に払い下げられたとは言えない」と指摘している。 (大沢令)

 官営期の経営実態について、時系列で総合的にまとめた研究はこれまでないという。

 今井所長は、官営期の年報や報告などをもとに、収入に当たる生糸の生産量や売上高、支出に当たる事業費を年度ごとに精査。「官営期における経営実態に関する一考察」として報告書にまとめた。

 製糸場は明治五年に官営模範工場として操業を開始、同二十六年に三井家に払い下げられた。

 報告書によると、官営工場の払い下げ通達が出された同十三年度ごろから、輸出に堪える上質な生糸の生産が高まった。

 同八年の経営診断で、早急な民営化を提言した速水堅曹(けんぞう)が同十八年に二度目の所長に就き、労働時間延長などによる上質な生糸の生産体制が整って黒字に転換。

 その後、製糸場に公売方針が伝えられたが、払い下げまで黒字経営が続いた。各年度の報告書などをもとに、操業全期の総合的な損益を合算すると、報告書の一部不備で正確さを欠くものの、四千八百十二円の利益があったとしている。

 繭の購入資金を補うためか同十三年度から一時期、座繰り糸が生産されていたことも確認された。

 研究成果について、今井所長は「各年度の収支計算を厳密に行うことで、官営期の経営実態に迫ることができたのでは」と話す。

468荷主研究者:2014/07/11(金) 00:14:36

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20140619/CK2014061902000053.html
2014年6月19日 中日新聞
繊維協会ビル解体危機 一宮・1933年築の洋館

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2014061902100003_size0.jpg
81年前に建てられた尾西繊維協会ビル。昭和初期の繊維業界の繁栄を象徴している=一宮市栄で

 昭和初期に建造され、一宮市の繊維産業の繁栄を象徴する尾西繊維協会ビル(同市栄)が、存続の岐路に立つ。長年入居してきた繊維関連団体の事務所が、近くに新設される一宮商工会議所会館に移転するためだ。このまま借り手が見つからないと、来年秋ごろには、地域の「ランドマーク」は八十年余りで姿を消す。装飾に優れ、ノスタルジーを感じさせる洋館だけに、市民から惜しむ声も聞かれる。

 建物は、一九三三(昭和八)年に建造された鉄筋コンクリートの三階建て。建設時、こうした近代建築の造りは、現在の一宮市旧庁舎などごくわずかしかなかった。四五年七月の一宮空襲で市街地一帯が焼け野原になった時も、残った数少ない建物の一つだった。

 白いアーチ窓と茶色のタイル張りの外壁、天井や壁には花柄などの装飾が施されている。建設されたころ、毛織物の服地の需要が急増し、繊維業界が急速に発展を遂げた。業界の勢いは外観の豪華さにも表れている。

 和洋文化が融合する「昭和モダン」の時代を感じさせ、最近ではコスプレ愛好家たちの撮影スポットにもなっている。

 ただ、一宮商議所が来年秋ごろをめどに、建物近くに新会館を建設。これに伴い、入居する尾西毛織工業協同組合など十の団体、企業の事務所も移転または廃止することになった。

 残される建物について、尾西繊維協会の早川隆雄理事長は「レトロで面白い造りだが、繊維の組織を存続していく上で経費は掛けられず、条件が合わなければ取り壊すしかない」と話す。

 協会内でも残した方が良いとの声もあり、借り手を探しているが難航している。見つからなければ駐車場になる見通しだ。

◆昭和天皇のいす残る

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昭和天皇が戦後復興の視察に訪れた際に座ったいす=一宮市栄で

 終戦間もない一九四六(昭和二十一)年、昭和天皇が一宮市を視察した際に座った一人掛けの装飾いすが、尾西繊維協会ビルの倉庫に保管されている。

 尾西毛織工業協同組合の九十年史「毛織のメッカ尾州 尾西毛織工業九十年のあゆみ」によると、昭和天皇は愛知、岐阜県を巡幸した四六年十月、一宮中学校(現一宮高校)や一宮市役所などを訪れた。当時、県毛織物工業統制組合尾西支所だったこのビルにも立ち寄り、毛織産地の復興ぶりを見たという。

 今も残る昭和天皇が座ったいすは、金華山織りのきらびやかな模様に覆われているが、布地は半世紀の間に劣化が進んでいる。

 ビルの取り壊しが決まった場合、移して保管する場所がないため、尾西繊維協会は、公的な団体を中心に引き取り手を探している。

 (安福晋一郎)

469とはずがたり:2014/08/04(月) 21:44:21
終戦間際、幻の「橘花」に積まれた世界初のバイオジェットエンジン「ネ20」
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140804/biz14080412520004-n1.htm
2014.8.4 12:52

 終戦をわずか8日後に控えた昭和20年8月7日、東京湾上空を1機の戦闘機が飛行していた。千葉県の木更津基地を飛び立った海軍の特殊戦闘機「橘花(きっか)」だ。

 橘花は、文字通り“特殊”な戦闘機だった。海軍航空技術廠(空技廠)が開発し、石川島重工業(現IHI)などが生産に携わった日本初のジェットエンジン「ネ20」を搭載。物資不足が背景とはいえ、燃料の一部に松の根から採取した油を使用していた。橘花は、世界初のバイオ燃料を使ったジェット機でもあった。

 「日本のジェットエンジンの開発は米国や英国と比べても進んでいた」

 IHI航空宇宙事業本部史料館名誉館長の原田実氏(70)は解説する。当時、ジェットエンジンの研究開発は欧米で活発化していたが、日本も昭和15年ごろには着手していた。

 実用化にいち早く成功したのはナチス・ドイツだ。同盟国である日本は開発技術の入手に動いたが、潜水艦などを使った極秘輸送中に資料が散逸。日本の開発者の元に届いたのは1枚の断面図だけだった。

 それでも、蓄積した研究成果や技術で補完し、ネ20は完成した。ネは「燃焼噴射推進器」の頭文字。日本生まれのジェットエンジンを作るという技術者たちの思いがこもっている。組み立ては群馬県の農家の養蚕小屋などで行われた。

 初飛行から8日後、日本は終戦を迎えた。日本初のジェットエンジンの開発はここでストップした。

 石川島重工が航空エンジン事業に復帰するのは昭和29年。米ゼネラル・エレクトリック(GE)が開発したジェットエンジンの部品生産で技術提携した。当初は単純な交換部品の生産だったが、次第にライセンス生産も手がけていく。

 原田氏は「それが新しい技術を身につけるための唯一の情報収集の方法だった」と指摘する。その中で、品質管理や生産技術などを磨いた。

 「ジェットエンジンを作れなければ、日本は三等国だ」。経団連会長なども務めた元石川島重工社長の土光敏夫氏は、他社が手を引く中、こう言ってジェットエンジンの開発・製造の旗を振ったという。

 現在、航空機用ジェットエンジンの市場はGEなど欧米大手に占有されている。戦後、日本のジェットエンジンの開発が止まっている間も知識や技術を蓄積し続けてきたからだ。

 ただ、IHIは、米ボーイングの「B777X」に搭載予定の世界最大級の推力を持つGEの最新鋭エンジン「GE9X」の開発などにも参画。「日本企業がいなくなれば開発はストップする」といわれるほど、存在感を放っている。

 終戦間際に生まれた日本初のジェット機「橘花」は、結局、たった2機が生産されただけで歴史のひだに埋もれてしまう。しかし、ネ20の開発を指揮し、石川島重工顧問も務めた種子島(たねがしま)時休(ときやす)氏は終戦時、こう予言していた。「橘花は1回だけの飛行で消えていくが、将来、ジェット機の時代はやってくる」

470とはずがたり:2014/08/05(火) 12:13:29
マスコミスレ相当か?

「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断
http://www.asahi.com/articles/ASG7L71S2G7LUTIL05N.html?iref=com_rnavi_arank_nr02
2014年8月5日05時00分

 〈疑問〉日本の植民地だった朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した男性がいました。朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で男性を取り上げましたが、証言は虚偽という指摘があります。

慰安婦問題を考える
 男性は吉田清治氏。著書などでは日雇い労働者らを統制する組織である山口県労務報国会下関支部で動員部長をしていたと語っていた。

 朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。大阪市内での講演内容として「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す。

 90年代初め、他の新聞社も集会などで証言する吉田氏を記事で取り上げていた。

 92年4月30日、産経新聞は朝刊で、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。

 東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事の掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。

 97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と表記した。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。

 しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と発言。一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。

471とはずがたり:2014/08/05(火) 12:13:50
>>470-471
 今年4〜5月、済州島内で70代後半〜90代の計約40人に話を聞いたが、強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。

 干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったとされる北西部の町。魚を扱う工場は村で一つしかなく、経営に携わった地元男性(故人)の息子は「作っていたのは缶詰のみ。父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない」と語った。「かやぶき」と記された工場の屋根は、韓国の当時の水産事業を研究する立命館大の河原典史教授(歴史地理学)が入手した当時の様子を記録した映像資料によると、トタンぶきとかわらぶきだった。

 93年6月に、吉田氏の著書をもとに済州島を調べたという韓国挺身隊研究所元研究員の姜貞淑(カンジョンスク)さんは「数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」と語った。

 吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。吉田氏は00年7月に死去したという。

 吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は「証言としては使えないと確認するしかなかった」と指摘している=注①。

 戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」と話す。

 吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は「陸軍部隊本部」が「軍政を敷いていた」と説明していた。この点について、永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の資料から、済州島に陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。「記述内容は事実とは考えられない」と話した。

■読者のみなさまへ

 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。
     ◇
 注① 吉見義明・川田文子編「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(大月書店、1997年)

472とはずがたり:2014/08/05(火) 12:46:03
朝日新聞元記者 従軍慰安婦の虚報招いた吉田清治氏の嘘告発
2014.08.05 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20140805_269705.html

 韓国が喧伝する、いわゆる従軍慰安婦のデマは、いまや世界中に拡散し、欧米では「慰安婦=性奴隷」という誤ったイメージが定着してしまっている。その原点は、朝日新聞が報じた強制連行の「誤報」だろう。
 かねて朝日の報道をめぐっては、多くの識者やメディアから批判があったが、朝日は依然としてその過ちと向き合おうとしない。そんななか、朝日新聞元ソウル特派員として慰安婦問題を取材した記者の前川惠司氏(現ジャーナリスト)が、告発の声を上げた。
 * * *
 1991年5月22日付の大阪本社発行の朝日新聞の、「木剣ふるい無理やり動員 従軍慰安婦 加害者側の証言(手紙 女たちの太平洋戦争)」には、「自分は朝鮮半島で950人の女性を強制的に連行して慰安婦にした」と、告白する著述業・吉田清治氏(故人)の証言を大きく伝えた。
 実は、私が川崎支局員だった1980年ごろに、「朝鮮人の徴用について自分はいろいろと知っているので、話を聞いて欲しい」と電話してきたのが、吉田氏だったことがある。
 横浜市内の彼のアパートで3〜4時間は話を聞いた。大筋は、当時、警察に直結し、炭鉱などへ労働者を送り込む組織である山口県の労務報国会にいて、朝鮮の慶尚北道に行き、畑仕事をしている人たちなどを無理やりトラックに乗せて連れ去る「徴用工狩り」をした、ということだった。
 奇妙なことに、彼はその時、その後に「告白」する「慰安婦狩り」にまるで触れなかった。当時の記憶は薄らいでいるが、それでも、彼の話には辻褄が合わないところもあった。
 当時、私は、地方版で「韓国・朝鮮人」という連載を続けており、ちょうど、朝鮮人軍属の体験を書いていたので、吉田氏は、その記事を読んで電話をしてきたのだろうが、すでにたくさんの在日の方を取材し、徴用工だった人からも話を聞いていた。
 吉田氏が証言した、集めた徴用工を釜山港で船に乗せるときに「手を縛り、数珠つなぎにした」という話は聞いたことがなかった。山口県の報国会の「朝鮮人狩り」なら、徴用工を連れてくるのは、山口県内で働かせるためだろうから、どこに連れて行って働かせたかを尋ねると、行った先の現場などの名前ははっきりしなかった。重ねて尋ねると、「当時、朝鮮人はモノ扱いだったから」というような返事だった。
 余談だが、日本支配下の朝鮮は、経済的な理由や、重苦しい鬱屈した気持ちや、明日を捜そうと、朝鮮から脱出し、日本に行きたい人はたくさんいた。日本は当初、朝鮮半島出身者の流入を抑えたが、長引く戦争で、本土の労働力の穴埋めに徴用に踏み切った。徴用を日本行きの好機とした逞しい人も多かったはずだ。

 朝日新聞は、吉田氏の「慰安婦狩り」の証言を何回か紹介したようだが、私は、ソウルで伝手をたどり、
「戦争中に日本兵や日本人警官に無理やり連れて行かれた娘がいたか。そんな噂を聞いたことがあるか」
 と60歳を超えた友人の母や、新聞社の幹部、元軍人、大学教授などに尋ね回ったが、そんな噂を聞いたという人は、一人もいなかった。ある人の返事は、
「日本人が無理やり娘をさらったりしたら、暴動が起きましたよ」
 日本支配下の1929年に、列車の中で日本人男子中学生が朝鮮人の女子生徒をからかったことがきっかけで、生徒同士のけんかになり、とうとう大規模な独立運動にまでなった「光州学生事件」は、有名な出来事だ。そのようなことも合わせれば、日本の官憲が朝鮮人女性を暴力的に戦地へと連れ去ることなどはできることではないし、また、必要もなかったというのが私の判断だった。

473とはずがたり:2014/08/05(火) 12:46:27
>>472-473
 すでに朝鮮には、日本の公娼制度が持ち込まれ、あちこちに売春地区があった。女衒は、もう戦争前からあふれていた。そして、哀しい話だが、当時の日本本土と同様に、娘を売る親はいくらでもいた。
 ところで、吉田氏は、1992年8月12日にソウルに現われた。韓国で元従軍慰安婦を支援している団体である、「太平洋戦争犠牲者遺族会」に呼ばれ、亡くなった元慰安婦に謝罪し、慰霊するためだと、ソウルにある韓国プレスセンターで記者会見をした。
 吉田氏を取材したのは、彼が、朝鮮半島で慰安婦狩りをしたと書いた、『私の戦争体験 朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版する1983年より前で、私は10余年ぶりの彼を見た。
 ひょろひょろとしていて、幾分か痩せたような気がしたが、ぬるっとした感じは変わらなかった。

 私は、「このうそつき」と言う目で見ていたが、記者会見では、他社の特派員も、済州島での慰安婦狩りについて、執拗に聞き続けるので、彼はちょっとしどろもどろになった挙げ句、会見の席上で怒り始めたように記憶している。
 韓国社会を熟知している各社の特派員は、吉田氏の証言を端から疑っていたのだ。朝日新聞だけでなく、ほかの新聞社も、従軍慰安婦問題の記事は、ソウル特派員ではなく、それぞれ本社の社会部などの記者が活躍していた気がする。
 結局、吉田氏は1996年には慰安婦狩りは「創作」だったと認めた。証言は、ドラマのような話だったのである。横浜のアパートで、慰安婦狩りを語らなかったのは、まだ、シナリオが十分に練られていなかったからだったか。
 ソウルの記者会見で話す吉田氏を写した写真を後から見ると、私の座っている方に顔を向けている写真は一枚もないのに気が付いた。
 それにしてもなぜ、慰安婦狩りと言う「物語」が、かくも事実として広まったのか。しかも、いまも、「吉田氏は、実際にはしなかったかもしれないが、本当に済州島で慰安婦狩りをした部下の話を聞いて、しゃべったのだ。だから、証言は本当だ」と主張する人たちがいるのも事実だ。
 私は、済州島を自転車で走ったことがある。急げば一周に2日もかからない、小さな島だ。女狩りのようなことが起きれば、あっという間に、島中に知れ渡り、今でも語り継ぐ古老がたくさんいるに違いないのだが。
 韓国の繁華街で白昼、普通の娘がいきなりさらわれ、売春街に売り飛ばされることが、頻発し、大社会問題になったことがある。この人さらいのやり方は、乱暴きわまる。街で「獲物」を見つけるや、いきなり殴りかかり、「お前なんで、家を出たんだ」などと叫ぶや、ワゴン車などに押し込んで、連れて行ってしまうのだ。
 韓国には昔から、「処女が子を産んでも言うべき言葉がある」という諺がある。まあ、女性の一種の気の強さを言っているわけだが、夫婦喧嘩でも派手に夫に逆らう姿に慣れているから、街中で必死に女性が抵抗し騒ごうが、周りは夫婦喧嘩か、と思い込んでまるで気にしないという、ウソのような、韓国社会ならではの手口だ。
 李朝時代には、未亡人を再婚させるときには、相手に「拉致」させた。貞操を守ろうとしたが、無理やりにという形にして、体裁を繕うためだ。
 儒教道徳の強い韓国では、「慰安婦にされた娘がいても、口にしたりしない」という人もいるが、他家の噂話にはあけすけなのも韓国だ。おばあさんたちの証言をはっきり裏付ける話が、知る限りでないのが気になるのは私一人だろうか。
※SAPIO2014年9月号

474名無しさん:2014/08/05(火) 16:21:33
■朝日新聞【伝説の珊瑚捏造事件】
http://asahi.kirisute-gomen.com/sango.html

475名無しさん:2014/08/06(水) 14:50:50
朝日、慰安婦報道で「誤り」…一部記事取り消し 読売新聞

朝日新聞は5日朝刊で、同社のいわゆる従軍慰安婦問題を巡る報道について、誤りがあったとして一部を取り消す記事を掲載した。

取り消したのは、「女性を強制連行した」との証言を紹介した記事。
同社は1982年から90年代初めにかけて、確認できただけで16回掲載したが、
裏付けが得られなかったとして、初報から32年後の異例の取り消しとなった。

済州島(韓国)で慰安婦にするために女性を強制連行したとする吉田清治氏の証言について、
追加取材の結果、「虚偽だと判断し、記事を取り消します」と結論付けた。
同社は97年3月31日朝刊でも、慰安婦報道の特集記事を掲載したが、吉田氏の証言の真偽は確認できないとしていた。

また、90年代初め、戦時下に労働力として女性を動員した「女子勤労挺身隊」と慰安婦とを誤って混同した記事が複数あったとも認めた。
原因は、参考資料などでも混同があったためだと指摘した。

同社は、91年8月に朝日新聞大阪本社版で報じた元慰安婦による証言記事についても事実関係を検証。
これによると、担当記者の義母は韓国人で、元慰安婦が所属した遺族会の幹部を務めていた。
これに対し、義母との関係を利用したとの批判があり、この元慰安婦が宴席での芸事を学ぶ「キーセン(妓生)学校」に通っていた事実も後に判明した。

しかし、記者は義母からの情報提供はなかったとし、「義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明しているという。
「キーセン学校」の件に関して も、同紙は元慰安婦を紹介する記事で触れなかったことを認めたものの、この点については「記事には、意図的な事実のねじ曲げなどはありません」と説明した。

朝日新聞社の杉浦信之編集担当は1面の署名記事で、「事実関係の誤りがあったことがわかりました。裏付け取材が不十分だった点は反省します」と記した。
同社広報部は5日、読売新聞の取材に「紙面で詳しく報じた通りです」と答えた。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140805-OYT1T50154.html

476名無しさん:2014/08/06(水) 14:53:31
【メディア】読売新聞「誤った認識が世界に広がる一因となった吉田証言、20年以上にわたり放置した朝日新聞の責任は極めて重い」

 朝日新聞は1982年9月、「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」
とする吉田氏の発言をうのみにして報じた。

◆世界に誤解広げた一因
 これが韓国の反日世論をあおっただけでなく、日本について誤った認識が、世界に
広がる根拠の一つとなった。今回、吉田証言を初めて虚偽と判断し、それをめぐる記事を
ようやく撤回した。

もっと早い段階で訂正されるべきだった。92年には疑問が指摘されながら、
20年以上にわたって、放置してきた朝日新聞の責任は極めて重い。

 朝日新聞は82年以降、確認できただけで計16回にわたって、吉田氏について
記事にした。92年に歴史家の秦郁彦氏が吉田証言への疑問を指摘したが、
修正することはなかった。

 97年3月の検証記事でさえ、吉田証言について「真偽は確認できない」
と表記するにとどめた。

 吉田証言は、96年の国連人権委員会のクマラスワミ報告にも引用された。
これが、慰安婦の強制連行があったとする誤解が、国際社会に拡大する一因となった。

※本文より抜粋しました
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140805-OYT1T50178.html

477名無しさん:2014/08/06(水) 14:57:52
【慰安婦報道】 問題報じた雑誌SAPIOの注目度が上昇 「衝撃スクープ 朝日新聞 従軍慰安婦虚報 騒乱はうそつき男から生まれた」

朝日新聞が5日に従軍慰安婦報道に関する検証特集を紙面に掲載したが、
同日の社会面には「SAPIOに本社が抗議 『引用記事を歪曲』」の見出しの記事が掲載された。

これは国際情報誌・SAPIO9月号(8月4日発売)に掲載されたジャーナリスト・水間政憲氏による
『発掘! 朝日新聞の「韓国売春宿」突撃ルポ」という記事だ。

この記事は、元朝日新聞記者・前川惠司氏による『<衝撃スクープ>朝日新聞元ソウル特派員が告発・検証!
朝日「従軍慰安婦虚報」騒乱は「うそつき男」から生まれた』と題された特集の囲み記事として掲載されている。

水間氏は過去の韓国の妓生(キーセン=芸者と娼妓を兼ねた女性)を取材した朝日新聞の記事を発見。
SAPIOの記事では、「朝日の記事を読むことで、戦場慰安婦の多くは高給目当てに妓生から転身したものだった、
という歴史的経緯がはっきりするのである」と締められた。

朝日新聞はこれを「意図的な歪曲」とし、名誉と信用を著しく傷つけたと5日付けの記事で報じた。
この事態を受け、ネットでは「SAPIO」というキーワードが多数書き込まれる状態になっている。

その中には4日発売の同誌に合わせ、朝日が5日に慰安婦問題の検証記事を出したのでは? との指摘も。
http://yukan-news.ameba.jp/20140805-10882/

http://www.zassi.net/mag/SAPIO/201409/i/000.jpg

478名無しさん:2014/08/06(水) 14:59:51
【新聞】朝日新聞の「強制連行は使う人によって定義に幅がある」という言い逃れに池田信夫氏「朝日は見苦しい嘘の上塗りをやめよ」
従軍慰安婦なるものは、もともと吉田清治が性的好奇心に訴えて講演料を稼ぐためにつくった
フィクションである。もちろん戦地にも公娼はいたので、それに似た話をさがせばいくらでも
出てくる。それは吉田証言を信じた記者の確証バイアスが原因だ。

追い詰められた朝日新聞は「強制連行」は使う人によって定義に幅があるという言い逃れを
始めた。慰安婦の強制連行の定義も、「官憲の職権を発動した『慰安婦狩り』ないし
『ひとさらい』的連行」に限定する見解(秦郁彦氏)と、「軍または総督府が選定した業者が、
略取、誘拐や人身売買により連行」した場合も含むという考え方(吉見義明氏)が研究者の
間で今も対立する状況が続いている。

そんな対立は存在しない。吉見氏のいうような「軍の関与」は、日本政府が1992年の加藤談話で
認めて謝罪しており、すべての研究者も政府も一致する事実である。売春というのは紳士的な
仕事ではないので、民間の業者の「強制」や人身売買があったことは周知の事実だ。
そんな問題は争点ではないのだ。

「強制連行」という言葉をつくった朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』では、軍や官憲が
国家権力によって徴用したことをさしており、この意味での強制連行は245人の男性に
ついて確認されている。女性の徴用は制度としてなかったので、この意味での強制連行はありえない。

単純な嘘つきだった吉田清治より、定義を変遷させて問題をすり替える吉見義明氏のほうが
罪が重い。彼は民間業者の「誘拐や人身売買も強制連行である」と定義している。こう
定義すれば強制連行があったことは自明で、朝鮮戦争の時代の韓国にもあった。それに
政府や軍が「関与」したのも当たり前だ。戦場で軍が関与しないで商行為はできない。

朝日は1992年の女子挺身隊という報道が誤りだったことも認めたが、これは単純ミスではない。
宮沢訪韓の1週間前に「強制連行」のニュースを出して政権に打撃を与えるための政治的
演出だった。問題のコアである吉田証言が嘘であることを認めたのだから、朝日は見苦しい
嘘の上塗りをやめ、過去の報道をすべて虚心に見直すべきだ。

http://blogos.com/article/91851/

479名無しさん:2014/08/06(水) 15:05:19
【慰安婦問題】橋下市長「32年間、間違いを認めなかったことは大問題で、朝日の罪は大きすぎる」
読売新聞 8月6日(水)13時35分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140806-00050122-yom-pol

 朝日新聞がいわゆる従軍慰安婦問題を巡る過去の報道に一部誤りがあったとする記事を掲載したことに対し、
橋下徹・大阪市長は6日、市役所で記者団に
「(記事を最初に掲載した1982年から)32年間、間違いを認めなかったことは大問題で、
朝日の罪は大きすぎる」と批判した。

 朝日新聞は、5日朝刊で韓国で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言を取り上げた過去の記事を
「虚偽と判断した」として取り消した。これについて、橋下氏は「証言が根拠となり、強制連行があったと
国際社会から不当な批判を受けた。この記事でどれだけ日韓関係がこじれたか、しっかり議論していくべきだ」と語った。

480名無しさん:2014/08/06(水) 15:17:07
朝日慰安婦報道 「強制連行」の根幹崩れた

■これでは訂正になっていない

 朝日新聞が慰安婦問題の報道について、一部の記事が虚構だったことを認めた。だが、その中身は
問題のすり替えと開き直りである。これでは、日本がいわれない非難を浴びている原因の解明には
結び付かない。

 最大の誤報は、慰安婦を「強制連行した」という吉田清治氏の証言である。朝日はこれを虚偽だと
認め、記事を取り消すという。

 根拠なく作文された平成5年の河野洋平官房長官談話などにおける、慰安婦が強制連行されたとの
主張の根幹は、もはや崩れた。

 ≪誤りは逐次正すべきだ≫

 遅きに失したとはいえ、朝日が慰安婦問題の事実関係について検証したことは評価できよう。記事
取り消しも当然である。

 だが、真偽が確認できない証言をこれまで訂正せず、虚偽の事実を独り歩きさせた罪は大きい。

 訂正に当たる「証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」との表現は特集記事中にあるが、
1面記事にもどの面の見出しにもない。削除対象の記事ぐらいは明記すべきだ。

 朝日新聞は今回、編集担当名の記事の中で、「問題の全体像が分からない段階で起きた誤り」と
して専門家による研究が不足していることに責任を転嫁している。

 取材などで事実が判明すれば、その都度、記事化して正し、必要があれば訂正を行うのが当然の
報道姿勢ではないのか。

 暴力で無理やり女性を強制連行したなどとする吉田氏の証言は、旧日本軍が慰安婦を「強制連行」
したり、「慰安婦狩り」が行われたりしたという誤解がまかり通るもととなった。

 吉田氏は戦時中に山口県労務報国会下関支部動員部長だったと名乗っていた。昭和58年に『私の
戦争犯罪 朝鮮人強制連行』という本を出し、18年に韓国・済州島に部下を連れて上陸し泣き叫ぶ
朝鮮人女性205人をトラックで強制連行したなどとしていた。

 朝日新聞は、吉田氏の講演内容を57年に報じたのをはじめ、コラムなどを含め、同証言をたび
たび取り上げていた。

 しかし、平成4年に現代史家の秦郁彦氏が済州島で現地調査を行ったところ、地元のジャーナリストや
古老らがそろって吉田証言を否定し、産経新聞がこの秦氏の調査結果を報じた。

 朝日新聞は9年の特集記事取材で、吉田氏への電話取材や済州島での取材を行ったものの、裏付けが
取れなかった。今年4〜5月、済州島で行った再調査でも証言は得られなかったという。

 慰安婦問題は、宮沢喜一政権発足まもない3年12月、慰安婦だったという韓国人女性が日本政府を
相手取り、謝罪と損害賠償を求める訴訟を起こしたのがきっかけだった。

 宮沢首相訪韓を控えた4年1月には加藤紘一官房長官が十分な調査も行わず「おわびと反省」の談話を
出し、宮沢氏も日韓会談で謝罪した。さらに翌5年に慰安婦募集の強制性を認めた河野談話が出された。

 当時、朝日新聞など日本の一部マスコミも慰安婦問題追及キャンペーンを展開した。この中には、
慰安婦と工場などに動員された「女子挺身隊」と混同した記事もあった。朝日新聞は今回、誤用したと
認めた。
(つづく)

産経ニュース 2014.8.6 03:43
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140806/plc14080603430002-n1.htm

 ≪事実が日韓の信頼築く≫

 朝日は今回の特集記事では、吉田氏の証言を他紙がどう報じてきたかという記事も掲載し、産経新聞が
5年に大阪本社版夕刊の連載「人権考」で「吉田氏を大きく取り上げた」とした。

 しかし、その後、本紙は取材や秦氏らの実証的研究をもとに、証言が「作り話」であることを何度も
報じている。

 朝日の報道が日韓関係悪化の発端となったにもかかわらず、「自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、
日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っている」と、ここでも責任を転嫁
している。

 産経新聞が河野談話の虚構性や吉田証言が偽りであることなどをただしてきたのは、事実を重ね歴史
認識を正しく伝えることが長期的に日韓両国の信頼につながると信じるからだ。

 菅義偉官房長官は「客観的事実に基づく正しい歴史認識が形成されることを望んでいる」とした。
その通りである。事実を歪(ゆが)めては国際的な信用は得られない。

481名無しさん:2014/08/06(水) 17:00:24
【慰安婦問題】 “火付け役” 元朝日新聞記者の植村隆氏、神戸松蔭女子学院大学クビ→北海道の北星学園大学に

「誤りがあったかも知れませんがそれは彼の長い記者人生のなかでごく一部のこと。それだけで彼を評価するのはどうかと思います」
いわゆる従軍慰安婦問題の“火付け役”となった元朝日新聞記者の植村隆氏を非常勤講師として迎え入れた札幌市内の大学の学長はそう庇ってみせた。

植村氏といえば、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦がソウル市内に生存していることがわかったとする記事を書き、
慰安婦問題の先鞭をつけた記者である。いまではこの記事に捏造と言えるほどの重大な誤りがあることが明らかになっているが、
当時はこの記事をきっかけに韓国世論が沸騰し、日本政府はいわゆる河野談話を発表。強制連行を認めたとの印象を世界中に与える事態を招いてしまった。

その植村氏、小誌2月6日号の記事「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」で明らかにしたように、
今年3月で朝日を早期退社し、4月から神戸松蔭女子学院大学で教授となる、はずであった。

「文春の記事で批判が殺到し、神戸松蔭女子学院大学側は、植村さんと結んでいた雇用契約を3月に解消したのです。
すでに朝日を退職することが決まっていた植村さんはこれに激怒して、解約の無効を求めて大学を訴えると息巻いていました」(朝日新聞関係者)

2月6日号の取材では、植村氏は職場の朝日新聞函館支局を訪ねた小誌記者から走って逃げるばかりで、自らの記事について何ら説明することもなかった。

女子大教授の夢も叶わず、朝日も退社した植村氏は今、北海道内の大学で非常勤講師をしているという。

「札幌市内にある私立大学の北星学園大学の非常勤講師です。慰安婦問題についての記事の誤りが明らかになり、
処遇に困った会社が彼を北海道の支局で塩漬けにしていた2年前から講座を受け持つようになったことが縁だそうです」(同前)

現地で田村信一学長を訪ねて問うたところ、出たのが冒頭の発言だ。田村学長はこうも言う。
「韓国からの留学生に韓国語で講義できる人材を北海道で確保するのはたいへんです。その点、彼は韓国語に堪能で、うってつけの人材だと思っています」

だが、大学事務局に植村氏本人と連絡を取りたい旨を申し出たところ、植村氏が非常勤講師をしていることすら、なかなか明らかにしようとしない。
同大学関係者が話す。

「非常勤講師をしていると知った保守系団体がキャンパスのそばでビラ配りをしたこともあって大学はナーバスになっているのです。
学内で慰安婦問題の記事に触れるのはタブーで、誰も植村さんにこの話をしようとしません。

大学では主に韓国からの留学生を対象に、『メディアで読む日本 そして世界』という講義などを担当しています。
朝日の記事を学生に読ませて日本国内の問題や国際情勢について考えてもらうというもので、『早口だが、丁寧に教えてくれる』と評判です」

韓国人留学生に対し、自らの捏造記事を用いて再び“誤った日本の姿”を刷り込んでいたとしたら、とんでもない売国行為だ。
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4261

482名無しさん:2014/08/07(木) 06:34:54
【社会】朝日新聞が慰安婦記事の一部を取り消し…韓国紙は25年前に強制連行を否定

朝日新聞が慰安婦記事の一部を取り消した。
欧米諸国で流布されている反日プロパガンダに英文で反論するため、
近現代史に関する日本語文献を英訳、発表するなどの活動を行う
「史実を世界に発信する会」の茂木弘道事務局長はこう語る。

「『済州島で連行』証言は裏付けられず、というのは
もう一つのうそである。現地の調査でうそが判明している。
うそが裏付けられている」
吉田清治氏の「済州島で慰安婦狩りを行った」という講演が
朝日新聞の記事に大きく取り上げられたのが、1982年。
83年にその講演と同じ内容の「私の戦争犯罪」が、
89年にはその韓国語訳版が刊行されている。
茂木氏は「地元の『済州新聞』の女性記者、許栄繕氏が郷土史家とともに
徹底調査をしたところ、そんな事実はなかったことを確認して、
89年8月14日付の済州新聞にそのことを報じるかなり長い記事を
載せている」と指摘する。

その記事の中で、郷土史家の金奉玉氏は「1983年に日本語版が
出てから何年かの間、追跡調査をした結果、事実でないことが判明した。
この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」
と憤慨している。
「もうこの時点で、現地で、吉田のうそは確認されており、
90年代以降もなお朝日新聞などが、吉田証言を取り上げていたのは、
報道として怠慢の限りである」と茂木氏。

*+*+ 東スポWeb +*+*
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/298202/

483名無しさん:2014/08/07(木) 07:39:50
朝日新聞が5、6日付の紙面で「慰安婦問題を考える」との大特集を組み、過去に同紙で取り上げた韓国・済州島での
強制連行があったとした男性の証言を虚偽とし、記事を取り消した。従軍慰安婦問題で国際世論をミスリードしてきた
非を認める大英断のようにも見えるが、その中身は言い訳がましい。“明確な謝罪なき検証”の先には、強烈なしっぺ返しが待ち受けている――。

朝日新聞は、5日付紙面で1面を含めた3ページで慰安婦問題を取り上げ、異例となる“釈明”に打って出た。

同紙は1980年代から90年代初めにかけ、日本人男性の吉田清治氏(故人)が済州島で
「女性を慰安婦として、無理やり連行した」という証言を何度となく掲載。強制連行があったとするキャンペーンを張っていたが
「再取材したが、証言を裏付ける話は得られませんでした」とし、記事を取り消した。

また90年代初めに女学生らを労働力とした「女子挺身隊」が慰安婦と同一扱いされた件も同紙は
「当時、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、誤用した」と間違いを認めた。

吉田証言は約20年前に吉田氏自身が創作と証言し、デタラメと判明。挺身隊と慰安婦の同一視問題も20年以上前に明らかとなっていたが、
朝日新聞は訂正に応じていなかっただけに、今回の特集は異例ともいえるわけだ。

ただ、保守論客で「マスコミと政治家が隠蔽する中国」などの著書がある前衆院議員の長尾敬氏(51)は「遅きに失するし、訂正はあっても謝罪がない。
誰も責任を取らない。捏造(ねつぞう)を確信犯で報じていながら、謝れない。朝日新聞の体質は全く変わっていない」と断罪する。

確かに特集では、慰安婦問題に火をつけたとされる91年に掲載した植村隆氏(当時記者)による元従軍慰安婦の金学順さんの証言は、
うそや隠蔽があったとされてきたが、同紙は「意図的な事実のねじ曲げはありません」と擁護すれば、女子挺身隊と慰安婦の混同は、
他紙でも見受けられたと責任逃れ。1面では「慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質」と問題をすり替えてもいる。

もっとも、吉田証言のうそ発覚から約20年にわたって、非を認めてこなかった朝日新聞が今回、わずかながらも訂正報道に踏み切った背景には社を取り巻く厳しい環境にあるようだ。

安倍晋三首相(59)は、一昨年の政権就任前に「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と言及。
朝日関係者によれば、政権発足後は朝日バッシングが加速し、苦情や抗議活動、不買運動が連日展開され、部数を大幅に落とした。

明々白々なうそと分かっている慰安婦問題の過去報道を隠し切れなくなったというのが実情で、
同紙は「一部の論壇やネット上に朝日の捏造といういわれなき批判が起きている。読者への説明責任を果たしたい」と言及している。

自民党の石破茂幹事長(57)は「検証を議会の場で行うことが必要かもしれない」と朝日新聞関係者の国会招致の可能性もにおわせた。
保守陣営やネット上では「朝日の報道でどれだけの国益を損なったか。吉田証言がウソまみれと認めた以上、国は損害賠償請求するべき」
などと、朝日バッシングはやむどころか火に油を注ぐ事態となっている。
http://news.livedoor.com/article/detail/9121957/

484名無しさん:2014/08/08(金) 19:57:35
「慰安婦誤報訂正」なぜ今?関係者「実はネット調査で、朝日のイメージが“反日”と悪いため払拭したい意向もあるらしい」
朝日新聞が5日付の紙面で、従軍慰安婦をめぐり「強制連行」があったとした過去の
一部報道を取り消した。自民党の石破茂幹事長は6日夜のBSフジ番組で、過去の報道の
経緯を国会で検証すべきだとの考えを重ねて示すなど、問題は拡大している。

朝日新聞による強制連行報道は、30年以上にわたり日本のイメージをおとしめてきたが、なぜいまになって大新聞がそれを取り消したのか? その答えはインターネットにあった。

朝日新聞が初めて吉田氏の記事を掲載したのは1982年9月で、記事を取り消すまで32年近くもかかった。
 すでに本紙も報じたが、誤報を認めた背景には朝日バッシングによる部数減が大きい。

5日付の紙面で「一部の論壇やネット上に朝日捏造といういわれなき批判が起きている」
と言及したが、前出の関係者によれば、論壇と並列に匿名のネットの声を挙げたことに
驚いた者が多かったという。

「部数減が深刻で、朝日は急速にネット移行を進めている。新聞を読まない若者世代に
アピール中ですが、実はネット上の調査で、朝日のイメージが“反日”“親中、親韓”
と悪いため、そのイメージを払拭したい意向もあるようですね」(前出の関係者)

 最近ではネット上を中心に“韓流推し”を批判され、反日イメージを重ねられて
凋落したフジテレビが記憶に新しい。ネットの声が大手メディアを食う時代が来たのか。

※本文より抜粋しました
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/298672/

485名無しさん:2014/08/08(金) 19:59:59
元朝日特派員「記者の自負心ないのか」、朝日新聞の報道取り消しで、裏付けなど取材の基本をしなかったことが明らかに

慰安婦報道が、どのように日韓関係を歪(ゆが)め、日本の立場を貶(おとし)めたのか。
朝日新聞の慰安婦問題の2日間の「特集」は、その部分に関する検証が欠落している。

 日韓関係悪化の原因は、もちろん朝日新聞だけではなく、慰安婦支援団体や韓国側の
動きにもあった。だが、朝日新聞の一連の報道は、慰安婦支援団体に勢いを与え、運動を
正当化させた。そうした点を検証しないのはおかしいのではないか。点検であって検証
ではなかったと言える。

 吉田清治氏の証言を「虚偽」として取り消し、挺身隊と慰安婦の混同を「誤用」と
認めたのは、よいことだとは思う。だが、吉田証言は本来、吉田氏にデータ提供や面会を
拒まれた段階で新聞社として明確に疑問を呈すべきだった。挺身隊と慰安婦の混同に
ついても、当時は戦時中を知る人たちが大勢いたのだからそうした人に聞けばよかった。

「参考資料にも混同がみられた」と説明するが、それでは記者は一体何をしていたのか。
結局、「騙(だま)された」「騙した方が悪い」とすべて他人のせいにしている。
それでは「相手の言うことをうのみにして記事を書いているのか」ということになる。
かえって読者の信用を落とすのではないか。

後に「元慰安婦が強制連行ではなくキーセンに売られた」という話が出たのなら本人に
確認して報じればよい。取材の基本動作をしてこなかったことを自ら明かしてしまった
に等しい。ある意味で衝撃を受けた。

 産経新聞など他紙も吉田証言を取り上げたり、挺身隊と慰安婦の混同があったことも
指摘しているが、「他の人も同じことをやりました」というのは、報道の世界では
通用しない。自分たちが日本の報道を引っ張っているという自負があるならば
「他紙はどうだ」とは書けないはずだ。「朝日新聞にそういう自負心や誇りは
もうないんだな」と感じてしまう。

 一般商業紙は、政党機関紙とは違う。裏付けもしていない記事が新聞に出ているんだ
と読者に誤解させたことは業界全体にとっても大きなマイナスだ。朝日新聞だけでなく
新聞という媒体の価値を貶めることにもつながってしまったのではないか。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140808/plc14080810300013-n1.htm

486名無しさん:2014/08/08(金) 20:02:05
【朝日慰安婦検証記事報道】
橋下氏が朝日記者にチクリ「僕だったら瞬間に辞める」

 朝日新聞の慰安婦報道の検証記事をめぐり、橋下徹大阪市長は7日の囲み取材で、
朝日記者に対して「僕だったら報道が出た瞬間に辞める。日韓関係をこじらせちゃって、
とてもじゃないが(社内に)いられない」と皮肉った。

 橋下氏はさらに「検証記事はあれで終わりか。(記事を見て)どう思うのか」と逆質問。
朝日記者が「社内で議論しているところ」と答えると、「よく(社内に)いられる。すごい精神力。
政治家向きだ。僕だったら辞めるが、朝日の人はそこまでのことだと感じていないんでしょうね」
とたたみかけた。

 さらに「強制連行という話は日本国民、もっと言えば子供や孫たち全員に対して汚名を着せた」と強く批判した。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140807/wlf14080722410026-n1.htm

487名無しさん:2014/08/08(金) 20:08:59
【慰安婦問題】 朝日新聞の「世紀の大誤報」であり「捏造記事」だった

朝日新聞が、自身が展開してきた「従軍慰安婦記事」の検証と反省、訂正を始めました。なぜ今頃、とネット上では非難囂々です。
朝日新聞を国会へ招致し、事実関係の検証をしろ、という声まで出る始末。これは「世紀の大誤報」であり「捏造記事」だったわけで、
大いに「国益を損ねた」朝日新聞の信用失墜ぶりは目をおおうばかりです。

“被害者を「売春婦」などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、
問題をこじらせる原因を作っているからです。見たくない過去から目を背け、感情的対立をあおる内向きの言論が広がっていることを危惧します。

戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。
慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです。”

慰安婦は売春婦である。戦前は売春は合法であり、多かれ少なかれ「性の相手を強いられた」のだ。
それは吉原の歴史を見ればわかる。朝日新聞は「軍が強制連行した」という証拠が出せなかったから「女性としての尊厳」に問題をすり替えているのだ。

問題の本質は女性の人権といった一般論ではなく、公権力による強制の有無である。民間の商行為に政府が謝罪する理由はない。
この点で特に問題なのは、1992年1月の植村隆記者の記事だ。

きのうの記事ではごまかしているが、植村記者の「解説」はこうなっている。

“一九三〇年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。
元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割は朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。”

「当時は研究が乏しかったので挺身隊と慰安婦を同一視した」という言い訳には驚いた。私は当時、植村記者と同時に取材したが、
女子挺身隊は女性を工場に動員する組織であり、娼婦が含まれるはずがない。こんなことは「研究」するまでもない常識だ。

ここで朝日が「挺身隊の名で強制連行」という言葉を使ったことが問題を混乱させ、その直後に宮沢首相が訪韓して謝罪したために、
強制連行が既成事実になったのだ。今ごろ「訪韓の直前をねらったわけではない」などと言い訳しても、小保方氏ほども信用されない。

「軍関与示す資料」
については、原文を読めば
「慰安婦を誘拐するな」という業者に対する監督の文書であることは明らかだ。だからこれは秘密でも何でもなく、防衛研究所の図書館で公開されていた。

さらに唖然とするのは、「他社の報道は」

という記事だ。「吉田証言は他社も取り上げた」という。
しかし読売も産経も、のちに吉田の「慰安婦狩り」が架空だったことを認めた。朝日のように、いまだに「強制連行は本質ではない」などと言い張ってはいない。

慰安婦問題の本質は「日本政府は韓国に対する戦争犯罪を永久に謝罪しなければならない」という朝日の錯覚にある。
第2次大戦当時の朝鮮半島は日本の領土であり、戦争犯罪をおかすことはできない。旧植民地に謝罪した宗主国はなく、日韓条約でも謝罪はしていないのだ。

歴史に無知な記者が、こういう問題をごちゃごちゃにして「アジアへの責任」を語ることが、中韓が図に乗って「歴史問題」を蒸し返す原因だ。
日本政府が韓国に対して謝罪する理由はどこにもない。朝日の記者が歴史を勉強して問題の本質を直視することが出発点だ。

いまだに常務が開き直っているようでは、大きく傷ついたブランドイメージは回復できない。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140807-00010003-agora-soci

488名無しさん:2014/08/08(金) 20:11:14
リンクのワードがNGになってるので貼れない

489とはずがたり:2014/08/09(土) 11:43:53
一度に沢山のリンクを貼ろうとするとNGになることがあるのでその場合は俺はhttpのhを抜いて貼ってます。

あと一部のリンクはしたらばに貼れなくなっているようです。例えばfc2関係です。

490名無しさん:2014/08/09(土) 12:17:09
なるへそ、たまに改行を多様すると貼れる様になるのは不思議

491名無しさん:2014/08/09(土) 12:17:34
【慰安婦誤報】 朝日新聞の若手記者が悲鳴 「いい加減にしてくれ!直接批判にさらされるのは現場に出ている我々だ」

朝日新聞が5、6日付の紙面で「慰安婦問題を考える」との特集を組み、「強制連行があった」とした過去の一部報道を取り消したことに、
政界では自民党の石破茂幹事長や民主党の松原仁国対委員長、日本維新の会の橋下徹大阪市長などが批判した。

ネット上でも批判のオンパレードとなっているが、朝日新聞社内では若手記者を中心に「いい加減にしてくれ!」
と悲鳴に近い怒りの声が渦巻き、険悪な雰囲気になっているという。

ある20代の記者は本紙にこう激白した。「32年前のことをわざわざ『誤報だった』と報じて、直接批判にさらされるのは現場に出ている我々、
若い記者。取材先で『あれは何?』と聞かれても、僕らは答えようがないですよ」とため息交じり。

また30代の記者は「もし今、自分が書いた記事で『誤報でした』なんてことになったら大問題で、すぐ処分される。
内容次第では上司も飛ばされるでしょう。でも、32年前のこの記事では書いた記者も社会部長もおとがめなしどころか、結構出世してる。
退職金もきっちりもらってる。『こんな不公平はない』と社内は不満の声ばかりですよ」と明かした。

社内でも「なぜこの時期に検証記事を掲載したのか」との声もあるとか。
一因として「慰安婦問題の火付け役」の元記者U氏が今年3月、早期退職したのと関係があるともささやかれている。

「Uさんがまだ社内にいたとしたら、さすがに検証記事はやりづらいでしょう。
もっとも紙面ではUさんの記事について『意図的な事実のねじ曲げはありません』と擁護してましたけど…」(同)
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/299064/

492名無しさん:2014/08/09(土) 16:22:29
慰安婦の件で連日騒いでいるのは産経新聞だけ
新聞を見比べたけど他紙は冷静だ

むしろ産経新聞が騒ぎすぎでるから日中関係・日韓関係が悪化していくような気がするんだが

493名無しさん:2014/08/09(土) 22:37:35
朝日捏造問題動画

ウェークアップ!ぷらす
https://www.youtube.com/watch?v=XTUvnSrSQLk

辛抱
https://www.youtube.com/watch?v=jELH5Am-QJ4  8/5
https://www.youtube.com/watch?v=38iNnZ5U76E  8/6

関西テレ青山
https://www.youtube.com/watch?v=QMIQT-3ZSiY

https://www.youtube.com/watch?v=xDoWNBvm2_E

ミヤネ
https://www.youtube.com/watch?v=72-Irdg7RCY

494名無しさん:2014/08/09(土) 22:40:53
>>492
本当にそんな風に思ってるのか?www

495名無しさん:2014/08/10(日) 01:54:11
>>494
もち
煽って国民感情を悪化させてんだからさ

未来志向に水をさしているだけ

騒いでいるのは産経新聞とひきこもりニートが多数のネット保守だけだと思うよ
平日の昼間から騒ぎたてているんだから

ネット保守も人数はそんなに多くないけど声がでかいから目立つんだよな

ネットへの書き込みや抗議のメールなんかも1人で10回とかしちゃってるようだしね〜

経済面で中国・韓国との協力なしにはやっていけないのが現実で騒ぎ立てるのは国益も害する

ネット保守はネットの中しか知らないから教えても理解できないんだろうが

496名無しさん:2014/08/10(日) 07:58:52
大阪市の橋下徹市長(45)は8日、大阪市役所で開いた定例会見で、
朝日新聞が過去に報じた旧日本軍による従軍慰安婦の強制連行があったとする日本人男性(故人)の
証言を虚偽認定した問題に対し、追及第2弾を行った。

25分間にわたり「朝日の大誤報が日韓関係をブチ壊した」「これからどうやって自分のケツを拭くつもりか」と橋下節をさく裂させた。

会見は市政、大阪都構想関連の質疑・議論で予定の80分をオーバーしたが、
83分が経過した頃に慰安婦問題に関する質問が出ると、そこから25分間の“独壇場”となった。

橋下市長は朝日新聞が、5日付で80年〜90年代に16回にわたり報じた、
済州島(韓国)で女性を慰安婦にするため暴力を使って無理やり連れ出したとする日本人男性の証言に基づく過去記事を撤回した検証記事について
「言い訳じみてて、自分たちが日韓関係をこじれさせた最大の責任者だという認識が全くない。事の重大さを理解していない」と批判した。
http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/08/09/0007218324.shtml

497名無しさん:2014/08/10(日) 08:03:10
池田信夫氏「慰安婦問題は朝日新聞の捏造だ。植村氏は民間の人身売買だと聞いたのに官憲による連行と書いている。」

きのうの言論アリーナでも話したことだが、朝日新聞の「慰安婦問題の本質、直視を」という記事は、なかなか味わい深い。特
におもしろいのは、次の部分だ。

一部の論壇やネット上には、慰安婦問題は朝日新聞の捏造だといういわれなき批判が起きています。しかも、元慰安婦の記事を
書いた元朝日新聞記者が名指しで中傷される事態になっています。読者の皆様からは「本当か」「なぜ反論しない」と問い合わせが
寄せられるようになりました。

慰安婦問題が朝日新聞のブランドイメージを失墜させ、植村隆元記者がネトウヨの標的になって再就職もパーになった
(大学が採用を撤回した)。これ以上放置すると部数が落ち、まともな社員が入ってこなくなるという危機感があったのだろう。
今年5月のOB会でも、批判があったらしい。

特に「捏造」というのは意図的に嘘の話をつくったという意味だから、報道機関としては致命傷だ。この特集では、そこに
こだわって「挺身隊」は植村氏の善意のミスだったと主張している。しかし産経の阿比留記者も指摘するように、植村氏の記事は
矛盾している。「元慰安婦 初の証言」は、元朝日記者の植村隆氏(今年3月退社)が3年8月11日付朝刊で書いた「元朝鮮
人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という記事を指す。韓国メディアより先に、初めて韓国人元慰安婦の証言を伝えたもので、
これも「母に40円でキーセンに売られた」と別のインタビューなどで語っている金学順氏について「女子挺身隊の名で戦場に連行」
と記している。この「挺身隊」の記事の前に植村氏は「キーセンに売られた」という話を本人から聞いている。それがなぜ
「戦場に連行」になったのか。朝日が言い訳するように、挺身隊については「研究が進んでいなかったため同一視」したとしても、
植村氏は民間の人身売買だと聞いたのに官憲による連行と書いている。このように事実を知った上で嘘を書くことを捏造というのではないか。

ところが朝日新聞は「捏造はなかった」と主張し、それを根拠にいくつかの週刊誌に抗議文を送っている。どうやら捏造を論点に
して反撃に転じようという作戦らしいが、上のように朝日の検証にもとづいても植村氏の記事は捏造である。強制連行がなければ、
商行為としての慰安婦は問題にならなかったので、「慰安婦問題」は朝日の捏造である。

http://blogos.com/article/92069/


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