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近現代史綜合スレ

198小説吉田学校読者:2007/03/25(日) 09:24:25
中曽根元首相vs外国人記者クラブ。慰安婦問題で集中砲火。

慰安婦問題でトバッチリ喰らった中曽根元首相
http://www.janjan.jp/government/0703/0703232269/1.php

199小説吉田学校読者:2007/03/31(土) 09:06:30
検定後教科書によれば、「集団自決に追い込まれた」という修正になっているが、それでは「追い込んだ」のは日本軍か米軍か、それとも「空気」のようなものか。
空気だとすれば、空気を作ったのは誰か。サイパンの住民自決とどう違うのか。
と、やはり論争の的になるのを断定的に書くのは「いかがなものか」。
日中、日韓の歴史論争以前に、国内でも、ここらへんの歴史はあまり研究が進んでいないのではないか?

日本史「沖縄戦集団自決」、「軍の強要」に検定意見
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070330i113.htm

 文部科学省は30日、来春から使用される高校中学年向け教科書の検定結果を公表した。
 日本史では、沖縄戦の集団自決に関する記述について、今回の検定から、日本軍の強制があったとする表現すべてに検定意見が付けられた。
 一方、数学や英語などの主要科目では、大学入試を見据えた教科書から、学力低下に対応するため小学校の内容を盛り込む教科書まで、二極化が鮮明となった。
 今回の検定には、工業など専門高校の教科を除く普通教科7教科207点の申請があった。「生物2」の2点が「誤りや不正確な記述が多い」として不合格となったほかは、最終的に205点が合格した。
 日本史で沖縄戦に言及したのは、日本史Aと日本史Bの教科書計10点のうち8点。文科省はこのうち7点について、日本軍が住民の集団自決を強要あるいは命令したという内容の記述に、「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」との意見を付け、修正を求めた。修正後の記述は「追いつめられて集団自決した」などとなり、集団自決に軍が直接関与したとする表現は教科書からすべて消えた。
 文科省は最近の学説などを根拠に、「日本軍による集団自決の強要や命令があったかどうかは明らかでない」としている。これに対し、沖縄県民からは「集団自決を軍と切り離して考えることは出来ない」などの反発が出ている。
 沖縄県教委は「『集団自決』を含む沖縄戦の実相については様々な指摘がある。今回の検定内容については把握していないので、コメントを差し控える」としている。

200やおよろず:2007/04/01(日) 23:53:42
>>199

 集団自決の「自発性」の有無が論点ですね。

 集団自決の動機が問題になるものと思われます。

 しかも、集団自決事件は1つではないので、複数の事象を各々検討することが必要かと思います。

 この辺の研究は、イデオロギー対立や中国の情宣活動が混入しやすい部分なので、どこまで客観的に研究がなされるのかは疑問ですね。

201やおよろず:2007/04/20(金) 06:31:08
自民党の歴史教育議連、訪米中止

http://www.sankei.co.jp/seiji/seikyoku/070419/skk070419006.htm

 自民党の有志議員でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・中山成彬元文部科学相)は19日、慰安婦問題をめぐる米下院での対日非難決議の採択阻止に向け今月下旬から予定していた有志議員の派遣を、中止することを決めた。

 議会関係者への働きかけが採択阻止に逆効果になることが懸念されるうえ、シーファー駐日米大使が18日、決議が採択された場合でも「日米関係に大きな影響はない」と述べたことを考慮した。

202片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/03(木) 00:30:01
5月1日・2日と、日経が富田日記の検証特集をしていましたが読み応えがあってよかった。
昨年の8月ごろに小泉にぶち当てる形で一面の見出しをつけたのには疑問を感じたが、それ以外はよい仕事に思える。

昭和天皇って明治天皇を範としようとして苦しんだ人だ。就任後いくつかの政治への強い関与があり、立ち位置に苦労しているうちに世界的戦争に入っていったという感じだ。(日記とは直接関係ないが)
日記と関係あるとこで言うと、野望が強い高松宮との関係が面白い。

203やおよろず:2007/05/03(木) 00:49:28

 皆が尊皇攘夷になった、昭和初期は
 西郷にしろ、山県にしろ、明治天皇への尊崇の念は皆無だったのに比べて

 東郷や乃木は忠臣だったので、庶民からの人気も高かった

204片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/03(木) 01:35:18
明治帝ってのは庶民のあいだでも人気が高かったということなんでしょうかね。まぁそれはなんとなくわかる。

205やおよろず:2007/05/03(木) 01:37:58

 白河天皇は、京都市中の庶民から人気があったそうですがね。
 呪術や祭祀などが、受けたようです。

 近現代とは無関係

 今上天皇も難しい立場の中、国民からの支持は非常に高いと思います。

206片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/03(木) 01:45:24
今上は昭和天皇みたいに不勉強な進講者に厳しい質問をしたりしないだろうなぁー。
ちょっと無機質で面白みがない気もするが、まぁそんなもんか。

207やおよろず:2007/05/03(木) 01:52:50
            __,,,,_
            /´      ̄`ヽ,
            / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ
         i  /´       リ}
          |   〉.   -‐   '''ー {!
          |   |   ‐ー  くー |
           ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}
         ヽ_」     ト‐=‐ァ' !
          ゝ i、   ` `二´' 丿
              r|、` '' ー--‐f´
         _/ | \    /|\_
       / ̄/  | /`又´\|  |  ̄\
皇太子殿下がこのスレッドに関心を持たれたようです。

208やおよろず@女系容認派:2007/05/03(木) 01:57:32

 今上陛下は、そこら辺の節度があって、名君だと思いますよ。

 皇太子殿下にしろ、日本に皇室があってよかったなあと思います。

 担いでいる人間への支持はともあれ、国民からの支持を考えれば、皇室は安泰でしょう。

 難しい局面を乗り切ったのは、人柄によるもんでしょう。

209片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/03(木) 02:50:00
皇室に生まれたからといって必ずよい人柄が出てくるとも限らないと思いますよ。
まぁ、目下のところの敵はそういうことよりも血筋の継承なので、それはそれでなかなか大変ですが。

天皇の意義については富田日記の中に名文がありました。陛下にとって私は武蔵野の雑木林、というくだり(長いので割愛)。
無私の努力をされるということは尊いことで、なにはともあれそこに思いをいたすのがよいのではないかなと思いました。

210やおよろず:2007/05/03(木) 04:04:42

 人格形成には、環境が圧倒的に大事でしょう。

 戦後の旧皇族が置かれた環境を見れば、こういう人たちを皇室に復帰させてはならないだろうなと思います。

211とは@憲法記念日ですねぇ:2007/05/03(木) 16:19:30
東京皇居付近はちょいと警戒体制でした。桜田門付近では社民党の街宣車もみた。まぁ基本的に街は平和でしたが。
平等と云う基本的人権と本質的に矛盾する皇室の存在に莫大なカネを投じて維持する事のメリットが果たしてあるのかねと思わなくもないですが、まぁメリットの方が多いのでしょうな。
戦後の(最近の?)皇室は当たり障りなさすぎて詰まらない気もしますが、要らぬ非難を避ける為には賢明に動いて来たのかもしれません。昭和天皇が皇室最後の政治家だった様な気がしなくもないですからウオッチするのは先代の方が興味深ったのかも。

212やおよろず:2007/05/03(木) 16:46:08

>>平等と云う基本的人権と本質的に矛盾する皇室の存在

 むしろ、皇族の自由権の問題であろうかとも思います。

>>莫大なカネを投じて維持する事のメリットが果たしてあるのかねと思わなくもないですが

 とは氏の他の事象に対する言説から、この結論に達するのは、論理一貫性が感じられます。

>>まぁメリットの方が多いのでしょうな。

 この辺は、温和な性格をものがったっている部分。

>>戦後の(最近の?)皇室は当たり障りなさすぎて詰まらない

 取り巻きは、煩いままです。
 ワイドショーも煩いです。

>>要らぬ非難を避ける為には賢明に動いて来たのかもしれません。

 そうでしょうな。
 皇室廃絶を狙う共産党・社民党は、あれですが、国士の皆さんも後継問題で大騒ぎ。
 皇太子一家批判など、まさに、国賊。
 
>>昭和天皇が皇室最後の政治家だった様な気がしなくもないですからウオッチするのは先代の方が興味深ったのかも。

 大正天皇の摂政から、天皇=神というトンデモ期を経て、占領期・左傾期を巧みに生き抜いてきた印象があります。
 存在感から、研究の対象にもなるし、また、畏敬の念を持つ人間が多いのも頷けます。

213とはずがたり:2007/06/23(土) 18:34:22
こうやって政権側に都合の悪い歴史は消されて行くんだな。

沖縄:教科書検定問題で記述の復活はしない考え…安倍首相
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070623k0000e040086000c.html

 安倍晋三首相は23日午後、沖縄県糸満市の平和祈念公園で行われた沖縄全戦没者追悼式に出席後、記者団の質問に答え、文科省の教科書検定意見で、集団自決を巡る日本軍の強制性の記述が削除された問題について「教科書検定調査審議会が学術的観点から検討している」と述べ、記述の復活はしない考えを示した。ただ、首相自らが軍の関与をどう認識しているかについては言及を避けた。【三森輝久】

毎日新聞 2007年6月23日 15時31分 (最終更新時間 6月23日 16時19分)

沖縄:教科書検定、国と溝 「自決強制」目撃の女性に怒り
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070623k0000e040055000c.html

 「日本軍がいなければ自決なんかしませんよ」。平和の礎(いしじ)に刻まれた親せきの名を前に、沖縄県南風原(はえばる)町の仲程(なかほど)シゲさん(77)は悔しさをにじませた。その額には62年前、沖縄戦で受けた艦砲射撃の砲弾の破片とともに、集団自決や日本兵による住民虐殺のいまわしい記憶が刻まれている。

 当時、本島南部の大里村(現南城市)に住んでいた仲程さんは、戦火が迫った5月28日、母カマさん(49)と13歳、10歳の弟、そしておじ、おばら計13人で南へと避難を始めた。6月19日、隠れていた糸満市真栄里のガマ(壕(ごう))に米軍の戦車が迫った。

 沖縄守備軍が現地で召集した防衛隊から逃げてきたおじが言った。「アメリカーにやられるより、自分で死んだ方がまし」。手投げ弾を持っていた。それを見たカマさんがおじの手に取りすがった。

 「いくら何でも生きている子供たちをなぜ殺せるか。まず待ちなさい」。子を持つ母親の訴えにおじは思いとどまった。

 夜、再び南へ。火炎放射器で焼き払われていた米須(こめす)集落で、激しい艦砲射撃に襲われた。おばがうめいて倒れたが、暗闇でどこをけがしたのかわからない。カマさんが「姉さん、恨まないでね」と額に手を当てると、息を引き取った。足の肉をえぐりとられて倒れたおじは「戦争が終わったら遺骨を取りにきてくれ」と言った。残していくしかなかった。

 翌日、隠れていた摩文仁の山中で砲弾がさく裂。仲程さんの額に破片がめり込んだ。さらに次の日、一人の沖縄の青年が、隠れている住民に呼びかけた。「アメリカの捕虜になったほうがいい。みんなで出て行こう」

 すると2人の日本兵が走り寄り「こんなバカがいるから沖縄は負けるんだ」と言い放つや、日本刀で青年の首を切った。

 怖くなって下りた摩文仁の断崖(だんがい)。海には赤ん坊の死体が浮き、岸辺には破傷風で苦しむ人たちが大勢いた。1週間近く、水だけでしのいだ。

 仲程さんが捕虜になったのは26日。別の日本兵が「日本は負けた。民間人は出て行ったほうがいい」と言ってくれた。当時、「米軍に捕まると、女は強姦(ごうかん)され、男は戦車でひき殺される」と言われていた。「この日本兵は命の恩人です」。だがおじ、おばらたくさんの親族を亡くした。

 仲程さんは、文科省の教科書検定に声を震わせて怒る。「軍さえいなければこんなことにはならなかった。人の命を大切にするのが教育なのに、あったことをなかったことにするとは何事ですか。生かされた私は亡くなった人の嘆き、苦しみ、悲しみを伝えなければならない」

 改憲を急ぐ安倍首相にも厳しい視線を向ける。「憲法9条は絶対守らなければだめ。首相は沖縄戦も空襲も知らないのに何を言うか。爆弾が家に落ちれば分かる。戦の末に生まれた基地がある限り、沖縄の戦後は終わらないですよ」【三森輝久】

毎日新聞 2007年6月23日 12時52分 (最終更新時間 6月23日 13時26分)

214やおよろず:2007/07/01(日) 05:10:43
原爆自業自得論は、左派の主流の論調だと思うんだけどね

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20070701k0000m010128000c.html

 一方で、79〜95年に長崎市長を務めた本島さんは「今の時期になぜ、こういう発言をしたのか分からない」と疑問を呈したうえで、
「被爆地では今も被害だけを強調する傾向がある。原因があるから結果がある。
 日本が戦争を始めなければ原爆投下はなかった」と話す。
 本島さんは日本の加害を問い続け、市長落選後は「原爆投下は仕方なかった」と繰り返してきた。

215とはずがたり:2007/07/01(日) 10:57:47
>>214
ハト派と重なる日本の左派の多くは原爆許せないだと思うんですけど。
特にソ連の核が平和の核だとしてもアメリカの核は駄目な核なんじゃないっすか?

原爆は非戦闘員の市民をも無差別に殺戮するどれかしりませんが国際法違反する行為だと思うんですけど,一方で日本の終戦への決断を早めたことはありましょう。
けど日本はずっと中立条約を結んでいたソ連の斡旋での終戦を望んでいて駄目だと諦めたのは急遽ソ連が有効期限内の条約を破って満州に攻め込んだ事の方が大きいでしょうから,この原爆しょうがない理論を使えば,関東軍や満蒙開拓団の悲劇は日本の終戦を早める為に仕方がなかったとなりますな。
どちられも真理は含まれているのでそれを歴史学上否定してしまうのは難しいでしょうが政治的には被害者感情を考えると愚かしい発言となりましょう。

216やおよろず:2007/07/01(日) 12:06:00
「あやまちはくりかえしません」の自業自得論は大きいと思いますよ
心情左翼の方はどうか知りませんが、
団体でやってるところで、これを掲げるところは多いです。

217小説吉田学校読者(解熱剤投入):2007/07/01(日) 12:27:24
>>216
この「繰り返しません」の主語が誰なのかというところで、争いがありますね。そこらへんが日本的曖昧さなのかもしれない。

岡本三夫氏の指摘のような考えが久間の頭にあったとなると、相当したたかなのかもしれませんが・・・ないでしょうね。

広島の被爆者らに怒り、ため息 久間発言
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200707010099.html

 久間章生防衛相が原爆投下を「しょうがない」と発言した三十日、被爆地広島では被爆者を中心に「核戦争を肯定するのか」「被爆の苦しみを理解していない」など怒りの声が渦巻いた。
 「かつて米国でぶつけられたのと同じ言葉を被爆国日本の大臣から聞くなんて理解できないし、本当に悲しい」。一九六二年以来、米国に被爆体験を伝える旅を繰り返している松原美代子さん(74)=広島市南区=は「二度と繰り返してはならない、と分かってもらうために語り続けてきたのに…」と声を震わせた。
 広島県被団協の坪井直理事長(82)は「原爆で何十万人も殺されたのに、人の命を何と考えているのか。核戦争を肯定しているとしか考えられず、まったく許し難い」。もう一つの県被団協金子一士理事長(81)も「米国の言い分そのままで、許せない暴言。いまも後障害に苦しむ被爆者の思いをまったく理解していない。核兵器を持ちたい本音があるのではないか」と怒りをあらわにした。
 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会の森滝春子共同代表(68)は「核武装も仕方がないとの世論を誘導しようという政権の意図があるのではないか」と警戒。従軍慰安婦問題をめぐり米下院外交委員会が日本政府に謝罪を求める決議をしたのに絡め、広島修道大の岡本三夫名誉教授(74)は「私たちも恨んでいない、と米国に伝える駆け引きにも思える」と指摘する。
 秋葉忠利広島市長は「被爆者の気持ちを踏みにじる暴言であり、強い憤りを覚える」、広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は「被爆地の訴えに真摯に耳を傾けるよう求める」と、それぞれ発言の撤回を求めるコメントを出した。

218小説吉田学校読者(解熱剤投入):2007/07/01(日) 12:36:29
昭和天皇は「遺憾なことではあるが、戦争中のことでもあったので、やむを得なかった」発言を、昭和の広島、長崎はどう反応したのでしょうか?
久間がこの昭和天皇の言葉を引用して釈明したら、またぞろ天皇の政治利用という「失言スパイラル」に陥る可能性はありますので、そこらへんも注視していきたい。

久間氏原爆容認発言 被爆地に怒りと失望
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070701/01.shtml

 「被爆者の尊厳を傷つける行為」。本県選出国会議員、とりわけ現職閣僚の久間章生防衛相から飛び出した“原爆容認論”。被爆地長崎からは、原爆投下を「しょうがない」と発言した久間防衛相に怒りと失望の声が上がり、被爆者、平和運動団体は防衛相あての抗議文を送付。週明けから抗議活動を本格化させる。
 若い世代への継承を平和行政の柱に掲げる長崎市の田上市長。三十日夕、市内での「高校生平和大使十周年記念の会」に出席した際、報道陣に囲まれ、「何らかの理由があれば核兵器を使用できるということにつながり、被爆地としては到底容認できない」と語気を強めた。
 被爆者や平和運動の関係者からは、防衛相としての資質や歴史認識を疑問視する声が続出。元長崎大学長の土山秀夫氏は「不見識極まりなく、論外」と非難。イラク戦争をめぐる久間防衛相の対米批判発言を挙げ、「日本は毎年、国連に核軍縮決議案を出し核廃絶を訴えてきたが、その足元からの発言。今度は米国へのポイント稼ぎか」と皮肉を込めた。
 長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の山田拓民事務局長は「原爆投下は日本を負かすためではなく、戦後(の核軍拡競争)をにらみ旧ソ連との関係を有利に導くためだった」と久間発言の“歴史観”を否定。「国際司法裁判所は『核兵器は使ってはならない兵器』と勧告的意見を出しており、『しょうがない』との肯定は許されない。大臣を罷免しないなら、政府・与党が同じ視点だと内外に示すことになる」と政府の対応を迫った。
 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の川野浩一副議長は「毎年、平和祈念式典にも出席していたのに何を聞いていたのか。情けない。防衛相は、原爆投下は誤りだったと米国に抗議する立場。怒りを通り越して悲しみが込み上げた」。長崎原爆青年乙女の会の広瀬方人会長は「日本の核武装への懸念を周辺国に抱かせるのではないか」と危機感を示した。
 県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は「被爆者の気持ちを逆なでした」と、被爆者五団体で政府、久間防衛相への抗議を計画。平和労働団体も週明けから、抗議行動を本格化させる。

219やおよろず:2007/07/01(日) 12:38:53
「君が代」の「君」と同じくらい明白だと思いますが>>「繰り返しません」の主語が誰なのか
 批判を恐れた左派が、無理やり作った論争だと思いますね。

>>>>>>>>広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長
 しかし、なんだか、インチキ臭いですなー

今回の発言が、「戦勝国の言い分を全て受け入れなければならない」
 という考えに疑義をもたらす切っ掛けになってくれればいいなと思いますけど、そうはならんでしょうね。

220とはずがたり:2007/07/01(日) 12:54:41
>>216
心情左翼のワタシとしてはアメリカもソ連も日本も英仏も侵略戦争やったので皆同等に悪いと思ってますよ。反省して自虐史観に染まって欲しいと思います。植民地収奪で迷惑を掛けたのは事実だし。
ただODA等でめちゃめちゃ戦後賠償は(日本を含めた)各国はしてるとは思いますけど。カネ散々恵んでもらっといてその言い草は何だという気持ちも良く判るけど近隣諸国を占拠するとその後の近親憎悪は兎角大変ですな。イギリスもエール(アイルランド)統治を後悔しているかも知れない。
更にサヨクとして6流の煽りを続けますと靖国に祀られている連中はただの犬死にした惨めな連中で,日本の英霊は日本の産業発展を支える過程で搾取され貧困の中で死んでいった労働者同志こそである!しかも前者が手厚く恩給貰ってるのに後者は歴史に埋もれ朽ち果てているのだ。。

>>217
従軍慰安婦決議問題でぎくしゃくする対米(議会)お追従って戦略ってことすかね?
選挙前に広島・長崎・沖縄なんかで自民の票を減らそうとは有り難い話しでw。

221名無しさん:2007/07/01(日) 15:49:59
石見銀山 世界遺産登録の舞台裏 欧州主導、アジア不利 カルチャー Sankei WEB
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070701/bnk070701006.htm

紆余(うよ)曲折の末、世界文化遺産に登録された石見銀山遺跡(島根県大田市)。一連の経緯を今後の教訓にしようとする動きが広まっている。事前調査を行う専門家機関から「登録延期」という“落第点”をつけられ、日本政府の巻き返し工作でかろうじて登録にこぎつけた今回の“大逆転劇”。年々厳しくなる登録審査に、文化庁や他の候補地は戦略の見直しを始めている。

審査員へ説得工作奏功

 「えっ、本当?」

 ニュージーランドで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会から、石見銀山遺跡の登録決定の一報が文化庁に入ったのは28日午後0時26分。幹部職員らは一瞬、きょとんとした表情をみせたが、すぐに拍手と歓声が庁内に響いた。

 文化庁も驚かせる“意外な結果”だった。各国の専門家で構成するユネスコの諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)が、同遺跡について「登録延期」の勧告をしたのはわずか1カ月半前。勧告には「登録」「追加情報の提供」「登録延期」「不登録」の4段階があるが、下から2番目という低い評価に、「今回は無理かもしれない」と悲観的ムードが広がっていた。

 なぜ、逆転登録となったのか。

 文化庁の岩本健吾記念物課長は「地元の長年の努力と政府の巻き返し工作が土壇場で実った」と胸を張る。

 イコモス勧告を受け、文化庁は英文110ページの反論書を作成。ユネスコの近藤誠一大使をはじめ政府関係者も、世界遺産の審査委員を務める全20カ国の大使らに直接面会して説得に努めた。「土壇場でこれほど熱心な説得工作を行ったのは日本が初めてではないか」と関係者は振り返る。

 28日の世界遺産委員会。文化庁によると、石見銀山遺跡の審査では冒頭にイコモス勧告が説明された後、5、6カ国の代表から発言を求める挙手があった。

 「(石見銀山は)周囲の自然を破壊せず、共生している」「環境にも配慮している」−。

 否定的な意見は聞かれず、イコモス勧告は覆された。

アジアのハンデ

 今回の騒動を受け、他の国内候補地でもPR活動などの練り直しを進める動きが出ている。登録審査が年々厳しくなっている現状が、改めて浮き彫りになったからだ。

 今年は審査を受けた35件中22件が登録。採択率は62%で、3年前の82%から20ポイントもダウンした。

 来年審査を受ける「平泉の文化遺産」(岩手県平泉町)では、景観に配慮した町づくりなど「保存管理アクションプラン」の策定作業を急ピッチで進める。「彦根城」(滋賀県彦根市)では従来の戦略を大幅に見直し、登録の申請内容を単独の「城」から、周辺の城下町を含めた「城郭都市」に変更することを決めた。

 最大の関門はイコモスをどうやって説得するかだ。岩本課長は「アジア的な遺産はイコモスに過小評価されるおそれがある」と懸念を示す。

 日本イコモス国内委員会関係者によれば「イコモスは世界遺産が始まる前から欧州で発足していたNGOで、欧州の主導権が強い現状がある」といい、今後は各候補地の魅力を訴えるだけでなく、アジア全体の遺産価値をアピールする取り組みが必要になりそうだ。

 だが、やはり最大のアピールポイントは遺跡の魅力だ。平成15年にイコモス副会長を務めた西村幸夫東大教授は「最近は世界的知名度が足りない遺跡を申請しようとする自治体が増えている」と、観光振興を狙った安易な風潮を戒めている。

(2007/07/01 13:03)

222小説吉田学校読者(解熱剤投入):2007/07/01(日) 18:21:20
>>219
私、少年期にそれを「人類は」というように習ったのだが、大学へ行って初めて自業自得論というか「戦争を始めなければ原爆投下はなかった。主語は『私たち日本人』である」説を講義で初めて聞いて、なるほどそういう説もあるのかと素直に日本語の曖昧さに感心した記憶があります。それも日本語学のところで。小生、なにぶん、文学部卒。
「くりかえしません」より原爆への怒りがストレートなのが峠三吉の詩集です。峠三吉に原民喜、、、読まれなくなったね。
この日記、写真見る限り、読まれることを前提としていないので、たぶん、楽しい日記帳なんだと思う。

原爆詩人、峠三吉の愛妻日誌を初めて公開
http://www.asahi.com/culture/update/0701/OSK200707010001.html

 「にんげんをかえせ」の一節で知られる広島の原爆詩人、峠三吉(1917〜53)が、妻との出来事を記した日記が30日、広島市の平和記念資料館で初公開された。肺結核で療養中の峠を見舞う妻の服装や会話などが記され、自筆の挿絵もあった。原爆詩人の「愛妻日記」といえる内容で、峠の素顔の一端がうかがえる。
 「広島に文学館を!市民の会」が約20年前に遺族から寄託を受けて保管していた。市販のスケッチブックに記された17ページ。日付は51年1月7日から同4月11日までで、峠が国立広島療養所(広島県東広島市)に入所していた時期にあたる。
 峠は47年、3歳年上の和子さん(故人)と結婚。日記は「私はお前のために美しい園丁(庭師)となろう」と書き出され、「和子は思いがけなくやってくる。新しく作った藤色の和服のコートを着ている」などと記載。2人がかんだチューインガムや、夫婦で見た映画のチラシ、お菓子の包み紙、市内電車の切符などもコラージュ風に張り付けられていた。和子さんが口紅で書いたとみられる「三吉さん」という文字もあった。
 峠と親交があった詩人の御庄博実さん(82)は「こんな日記を書いていたとは知らなかった。原爆への怒りを織り込んだ詩集の力強さは、優しさと命へのいとおしみの裏返しだったことがよくわかる」と話していた。

223やおよろず:2007/07/01(日) 18:37:57
左翼団体の解釈は、どこも、こんなもんですよ

ここには侵略戦争を行なった反省など欠片もない。
ヒロシマに掲げられた「二度とあやまちはくりかえしませんから」とする、
血を吐くようなメッセージに込められた思いを踏みにじってはならない。

http://www.doro-chiba.org/nikkan_dc/n2005_07_12/n6147.htm
動労千葉

224小説吉田学校読者(やっと36度台復帰):2007/07/01(日) 18:45:13
コメントの「リベラルな父」の部分に政治家一家の真髄をみた。

宮沢喜一元首相の通夜に各界から1000人
http://www.asahi.com/politics/update/0630/TKY200706300254.html

 28日に死去した宮沢喜一元首相の通夜が30日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。中曽根康弘元首相や羽田孜元首相、河野洋平衆院議長、御手洗冨士夫・日本経団連会長ら各界から約1000人が参列した。
 長女の啓子さんは「私人としての宮沢喜一は妻を尊敬し、子供を信頼してくれた、少し風変わりな夫であり、リベラルな父だった」とあいさつした。1日正午から同所で密葬が行われる。

225名無しさん:2007/07/01(日) 19:13:29
あやまちというのは、開戦責任とは別に、終戦が遅れた責任もあるでしょう。
十日早くポツダム宣言を受諾していれば、広島も長崎もソ連参戦もなかった。

226やおよろず:2007/07/01(日) 20:28:35
戦争は相手があってやることだからね
終戦の交渉も同じ

227名無しさん:2007/07/02(月) 09:55:31
>>225>>226
始まり方は見方によっては、止むを得ない面もあったと思いますが。
「終わらせ方」はもっと難しい、と改めて思います。

228とはずがたり:2007/07/02(月) 12:16:18
確かにそうですね。>「終わらせ方」はもっと難しい、と改めて思います。
終戦の交渉は連合国側がポツダム宣言を発して後は日本がどのタイミングで受諾するだけで後は国内調整であって相手は関係ないような感じもしますが,逆の米ソの立場になってみると戦後の力関係を考えて日本の受諾の前に間に合わせるように戦勝国も実績作りに動きますから日本が急げばソ連の満州侵攻もアメリカの原爆投下も早まっていただけなのでしょうし。

229名無しさん:2007/07/03(火) 00:02:48
>>228
早めるって言ったって限界がありますよ。
最初の原爆実験は7月16日で、投下決定が25日。
日本の受諾に合わせて決めたわけじゃありません。

230とはずがたり:2007/07/03(火) 15:25:06
>>229
ご指摘感謝っす。
こんな新型兵器なのに初実験から一ヶ月以内に二発も実戦で使用とは,めためた急いだ感じを禁じ得ないんですけど。。
第二次大戦後半は既に米ソは戦後の対立を睨んで動いていたと見るのが順当ではないでしょうかね。

231やおよろず:2007/07/03(火) 20:33:59
スターリンにアメリカとの対立の意図はなかった。
ルーズベルトにもなかった。
スターリンは、中国革命を望んではいなかった。

しかし、モロトフとチャーチルは米英・ソの対決を予感していた。
トルーマンもアイゼンハワーもスターリンを信頼しなかった。

232名無しさん:2007/07/03(火) 22:52:24
ハリー・S・トルーマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。1945年7月にはポツダム会談に参加した。26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図があった。

1945年4月の時点で原爆の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原爆投下命令はポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行われていた。共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の二日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスチムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

トルーマンが原爆投下を決定した背景として、アメリカ軍の損失を最小限に止めること、実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとする一方、自らを男らしい決断力のある存在として誇示する考えと、人種的偏見があったとする説もある。トルーマンは二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出した。トルーマンは公式的な場では原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマン大統領が日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。

233やおよろず:2007/07/05(木) 00:52:07
広島市長 米特使発言に不快感
http://www.nhk.or.jp/news/2007/07/04/k20070704000149.html

広島市の秋葉市長は、記者団に対し、アメリカ政府で核不拡散を担当する特使の
 ジョゼフ前国務次官が原爆投下について「戦争を終結させ、結果的に多くの日本人の
 命を救った」と発言したことについて「アメリカの政府首脳も広島や長崎のことをもっと
 深く理解すべきだ」と述べ、強い不快感を示しました。

 ジョゼフ前国務次官は、記者会見で、広島と長崎への原爆投下について「さらに何百万人
 もの日本人の命を奪うところだった戦争を終結させることができたというのは、ほとんどの
 歴史家が同意するところだ」と述べました。これについて、広島市の秋葉市長は、4日、
 総理大臣官邸を訪れた際、記者団に対し「アメリカ政府はこうした発言を続けているが、
 アメリカの歴史学者の定説とは大きく違う。アメリカの政府首脳も広島や長崎のことを
 もっと深く理解すべきだ。ブッシュ大統領にはできるだけ早い時期に広島に来てもらうことが
 非常に重要だ」と述べ、強い不快感を示しました。

 これに先だって、秋葉市長は、辞任した久間防衛大臣の発言をめぐって「閣僚全員が広島や
 長崎を訪れ、被爆の実態などを学習するよう求める」などとする安倍総理大臣にあてた
 要請文を政府側に提出しました。

234名無しさん:2007/07/07(土) 02:01:29
[正論]現代史家 秦郁彦 沖縄集団自決をめぐる理と情
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070706/srn070706000.htm
 ■報道は冷静な検証の姿勢忘れずに
 ≪情緒過剰な記事が並ぶ≫

 6月23日は、62年前に沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)の洞穴で、牛島軍司令官が自決、沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日である。

 沖縄県は、この日を「慰霊の日」と定め、軍人・軍属、一般住民がそれぞれ9万余人、米兵をふくめると20万人の全戦没者を追悼する式典を挙行してきた。しかし今年は、住民の集団自決をめぐる高校用日本史教科書の検定で「軍命令による強制」が削除されたことについて、県議会が検定意見の撤回を求める意見書を採択したこともあり、騒然とした「慰霊の日」となった。

 ほぼ全面無視した読売新聞を除き、主要各紙は社説や社会面記事で大々的にこの問題をとりあげた。これまでは「沖縄の心」という目に見えぬ壁への配慮が働き、マスコミも識者もハレものにさわるような扱いをしてきたが、今年も同じトーンで生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった。

 たとえば、県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。

 激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。

 ≪攻撃用武器の手投げ弾≫

 ついでに記すと、県議会では「集団自決の軍命令はあったはず」と主張する野党と「なかったらしい」と主張する与党の議員が対立、妥協のすえ意見書は「日本軍による関与なしに起こり得なかった」という争点を外した表現におちついたとのこと。

 「関与」とは一部で日本軍の手投げ弾が自決用に使われたのを指しているらしいが、兵器不足に悩み、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手投げ弾は貴重な攻撃用武器だった。現地召集の防衛隊員(軍人)に持たせていたものが家族の自決に流用されたのに、16歳だった語り部の元短大学長が「手投げ弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのを、朝日が社説(6月23日付)で「悲惨な証言」と信じ込み、引用しているのはいかがなものか。

235名無しさん:2007/07/07(土) 02:01:47
 ≪軍命令見つからない理由≫

 さすがに社説ともなると冷静なタッチが多いなかで、朝日だけは突出した情緒論で終始している。他にも日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告し実行していったとか、捕らえられれば「女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた」と書いているが、いずれも事実無根に近い。

 牛島軍は、県当局と協議して住民を予想戦場から遠ざけるため本土や本島北部への疎開を命じ、戦闘末期には米軍の保護に委ねるふくみで戦場外の知念半島への避難を指示している。

 その結果、米軍記録によると28万余人の住民が投降した。そのなかには日本軍陣地へ投降勧告に出向く志願者がいて、スパイと疑われ処刑された例もあったが、例外的事件にすぎない。

 そのころ12歳の軍国少年だった筆者も「鬼畜米英」への憎しみと恐怖を抱いていた記憶はあるが、誰が吹きこんだのか覚えていない。親や先生ではなかったと思うし、ひょっとすると、わが家で取っていた朝日新聞か主婦の友かもと考えたりもするが、少なくともこの種の流言、浮説を記した政府・軍の公文書はなかったと思う。

 ところが、研究者でも集団自決や慰安婦の強制連行を証する軍命令が見つからないのは、終戦時に焼却したからだとか、個々の命令はなくても戦前期の天皇制や軍国主義教育に起因すると強弁する人が少なくない。

 集団自決が起きたのに「いまさら『日本軍は無関係』と言うのなら、それは沖縄をもう一度裏切ることになる」としめくくった朝日社説も同類項なのだろうか。(はた いくひこ)

(2007/07/06 05:04)

236名無しさん:2007/07/07(土) 21:49:19
小沢発言は歴史歪曲? 「ドレスデン爆撃で米謝罪」
7月7日9時22分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070707-00000901-san-pol

 ■与党反発、外務省も「根拠なし」の立場

 1日に行われた安倍晋三首相と小沢一郎民主党との党首討論会で、小沢氏が「米国は(第2次世界大戦の)ドレスデン無差別爆撃について謝罪している」と指摘し、原爆投下について米国に謝罪を求めない日本政府の姿勢を追及したが、この問題で政府・与党側が事実関係が間違っているとして強く反発している。

 「(小沢発言は)事実に反する。ドイツは米英に謝罪を求めていないし、米英はドイツに謝罪していない。小沢氏は歴史をねじ曲げ、政局に利用しようとした」
 自民党の中川秀直幹事長は5日、記者団にこう語り、小沢氏に党首討論などの公式の場での釈明や謝罪を求めた。塩崎恭久官房長官も会見で「事実でないことを言ったのは政治的発言だから、政治的責任が問われる」と指摘した。
 1日の党首討論会で、小沢氏は米国はドイツに謝罪していると2度にわたって強調し、安倍首相に対し「謝罪を求めるという考えで、米国といろんな機会に話をすべきだ」と迫った。ただ、米国がいつどのように謝罪したかに関しては言及しなかった。

 ドレスデン爆撃では市民ら約3万5000人が犠牲になったが、外務省は「米国はドイツに公式謝罪などしていない」(中・東欧課)としており、小沢氏の話に根拠はないとの認識だ。
 また、現代史家の秦郁彦氏は「1945年2月に英米軍が行ったドレスデン爆撃では、罪の重さは英国8対米国2ぐらいで英国が主役。米国では責任論議はなかったはずで、謝罪までするはずがない」と解説する。
 これに対し、民主党は「戦後50年、55年、60年と、米英軍も参加して、和解の意味を込めて犠牲者追悼の式典が開かれた。正式に政府が謝罪したということではないが、互いに忖度(そんたく)した和解をしたということだ」(党幹部)と説明し、根拠がないとの批判に反論している。

237とはずがたり:2007/08/16(木) 01:14:46
若き日の吉永小百合が主演する映画『あゝひめゆりの塔』をみた。
①日本軍や国民は勇敢に戦って立派に戦争に殉じた
②戦争は悲惨だ
の2点は読み取れた。

①に関しては日本軍の一般構成員や銃後を護る臣民の汚い部分やずるい部分がまるで欠けている。本当にそうだったのかも知れないがリアリティに欠けてる様な気がする。
映画作成当時の国民みんなのあの戦争に対する虚しさを慰める自慰的な感じがあるけど作成時の1968年ですらまだこんなのが必要だったのか?戦争末期に少年少女だった連中も40代にならんとする頃だが。
それとももっと若い連中に軍国主義の或る種の良さを押しつける効果を狙った物なのか。②が有る分屈折していると云えるが。
今日の若者と教育がもし仮に堕落しているとするならば,その原因は日教組の偏向教育ではなくて,戦後の保守勢力の戦争郷愁路線が原因ちゃうやろか!?お国の為に市ねが無くて天皇陛下万歳だけあるのは畸形であるのかも知れぬし。

238やおよろず:2007/08/16(木) 08:05:03
戦後左翼と戦後右翼は、アメリカが生んだ双子の兄弟です。

戦後の保守勢力の戦争郷愁路線=日教組の偏向教育でしょう
ほとんど妄想に近いものではなかろうかと
左翼勢力が主張しているほど右翼が危険ではなく、右翼勢力が主張しているほど左翼が危険でもない。
どちらも、大した影響力がない。
しかしながら、自陣営の影響力を確保するためには、相手方の脅威を煽り立てるしかない。
本当に恐ろしいのは、その勢力の主張と言うよりは、それを隠れ蓑に使った様々な犯罪行為でしょう。

冷静な議論は、この両陣営が主張するベールを取り払ってみるべきかと思います。

それと、いわゆる日教組の偏向教育は、
彼らの中でも共産主義の敗北が確実になった80年代から激しくなっていくわけです。
中国の反日宣伝が始まるのは70年から、本多の「中国の旅」は72年です。

239とはずがたり:2007/08/16(木) 10:13:09
>>238
>戦後の保守勢力の戦争郷愁路線=日教組の偏向教育でしょう
>本当に恐ろしいのは、その勢力の主張と言うよりは、それを隠れ蓑に使った様々な犯罪行為でしょう。
>冷静な議論は、この両陣営が主張するベールを取り払ってみるべきかと思います。
なるほど〜。確かに2ちゃんの煽りじゃないですけど,向こう側の煽りあいに乗った時点で,この枠組みに組み込まれてしまいますよね。

80年代に日教組の偏向教育が激化したというのはどの事を指しているんですかね?
詳しくはないので生半可に論評出来ないんですけど,日中関係は70年代に国交恢復とともに出てきたって面も大きいんではないでしょうかねぇ?

240やおよろず:2007/08/16(木) 10:28:09

82年 「侵略・進出」誤報事件

これが一つ流れを作ったように思いますが、
慰安婦とかそういうのが教科書に登場するのは、その後です。

このあとで、近隣諸国条項ができて、教育問題が国際問題に直結することになり、
国内で支持を失った左翼側が、政府の攻撃材料に使えるとなり、激化していったものと思われます。

もっとも戦後において右翼が支持を得たことは一度もなかったと思いますが

241とはずがたり:2007/08/16(木) 22:02:30
>>240
>82年 「侵略・進出」誤報事件
これは教科書に侵略という用語を使うか進出とするかの議論でしょうか?

>もっとも戦後において右翼が支持を得たことは一度もなかったと思いますが
やや煽り気味に云うと,靖国に参拝したがる連中は,みんな右翼だと思ってるんですけど違いますかねぇ。
少なくとも自民党従って,政府は兎も角,議会の主流は右翼だったと思うんですけど如何でしょう。

>>237でもその前からでも思ってたんですけど,(日本的サヨ的の理想である)戦後民主主義の主流だった戦後は,その底流にかなりの戦前の意識を残していた様な印象があります。
其れが漸く弱体化したのが戦後40年経とうとする80年代ぐらいだったのかなぁという気がします。だから戦後自民党的保守への嫌悪感を持っているのは80年代に子供だった現30代ぐらい迄で,それより下の世代は嫌悪すべきエスタブリッシュメントが左翼になったのかなぁと現在のネット右翼全盛を見て思ったりします。
80年代の日教組の攻勢なんてのは,組合の弱体化を考えると幻想な気がするんですけどどうでしょうかねぇ。
思想的な1940年体制と云うべき様な物の終焉物が80年代に有ったような気がするんですけど,そのせいで一連の旧日本軍への反省行為の様なものが発生してきたのでは?

纏まらぬレスで3失敬です。。

242やおよろず:2007/08/17(金) 08:50:27
>>241
>>82年 「侵略・進出」誤報事件
>これは教科書に侵略という用語を使うか進出とするかの議論でしょうか?

「侵略を進出に書き換えた」という虚報を朝日新聞が報じて、中国から反発が来ました。
それ以降、教科書問題が国際問題化するようになり、
左翼陣営の活動の中心が教科書中心に移っていくわけです。

>(日本的サヨ的の理想である)戦後民主主義の主流だった戦後は,その底流にかなりの戦前の意識を残していた様な印象があります。

国民が連続していることを考えれば、それは当然と言えば当然でしょう。

しかしながら、事実として主権回復までの7年弱の期間、戦中の以上に激しい報道統制があったわけで、
その時期に少年期を過ごした年代は、報道統制から抜け出ていないというのも確実にあるわけで、
これが左派=良心的との評価の源泉ではなかろうかと思います。
社会の中軸が戦前派から戦中・戦後派に移行していくのが80年代であったのでしょう。


左派が決定的に信頼を失ったのは、「浅間山荘事件」で、
それ以前、60年代における経済成長で、共産主義に対する幻想は市井からは消えていたとは思いますが。


>80年代の日教組の攻勢なんてのは,組合の弱体化を考えると幻想な気がするんですけどどうでしょうかねぇ。

事実として日教組上層部の北朝鮮訪問が常態化していたわけで、「最も尊敬する人物は金日成将軍」などという日教組委員長の言葉も残っているほどで、
組合員の多くが思想・信条とは無関係であることは知っていますが、組合の上層部には確実に共産圏とのつながりがあります。

243やおよろず:2007/08/17(金) 09:11:12
>>242

>左派が決定的に信頼を失ったのは、「浅間山荘事件」で、
>それ以前、60年代における経済成長で、共産主義に対する幻想は市井からは消えていたとは思いますが。

続き

 この辺の左翼団体が平和団体・市民団体に衣替えしてきたのが大きいのかと思われます。
 実際、この辺が騒いでいただけで、イデオロギー的なものが一般市井に広がっていったわけではなかろうとも思いますが

 逆に言えば、いわゆる「右傾化」の動きは、戦争論やネット右翼というよりは、北朝鮮の拉致発覚が大きいでしょう。
 かといって、この問題で一般的に社民党をはじめとする左派=北朝鮮派が批判されているかと言えば、そうでもないような気がします。
 北朝鮮は批判されていますけど
 基本的に左派は北朝鮮シンパが多いので、北朝鮮批判が広がったことを捉えて「右傾化」と捉えているのかもしれませんが

 部落問題にしろ、北朝鮮問題にしろ、その当事者は批判されてはいますが、それをもって左派全体が批判されているかと言えば、そうでもないように思います。

244名無しさん:2007/08/17(金) 11:47:57
それと同様に、北朝鮮批判は支持されても、いわゆる右派の主張が受け入れられているわけでもないでしょう
世の中は右派と左派の2陣営に分割されるとの前提のもと、
左派が批判されれば、右傾化だとか、
左派陣営に属する北朝鮮が批判されているから、右派が支持を得ているとか、
そういう見方は間違っているのではなかろうかと思います。

245杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2007/09/10(月) 20:57:55
韓国国内で「日本の植民地支配は正しかった!『嫌韓流』支持!!戦前日本万歳!!!」てやっている面子と同じか!?!?

イスラエルでネオナチ集団逮捕、旧ソ連出身のユダヤ系移民
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070910i213.htm

 【エルサレム=三井美奈】イスラエル警察は9日、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーを崇拝する8人のネオナチ集団を逮捕したと発表した。

 イスラエルは、ナチスによるユダヤ人虐殺を生き延びた被害者が中心となって建国しただけに、ネオナチの存在は国民に大きな衝撃を与えている。

 8人は16〜21歳で、いずれも旧ソ連出身のユダヤ系移民。同国中部ペタハティクバで、シナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)に出入りする信者やアジア系移民、同性愛者を次々と襲撃していた。報道によると、自宅でヒトラーの肖像や拳銃が見つかり、押収されたビデオには、8人がナチス式の敬礼をしたり、麻薬中毒者を路上でひざまずかせ、「ユダヤ人」であることをわびるよう脅したりする様子が映っていた。

 イスラエルは、ユダヤ人には無条件で国籍を与えており、8人は子供のころ、両親と移民したらしい。同国には1990年代、旧ソ連から100万人以上のユダヤ系が流入。現在、国内人口の約6分の1を占めるが、イスラエル社会にとけ込まず、ロシア語を使いながら独自の共同体を作っているケースも多い。

 逮捕者の1人は、腕に「白人パワー」という言葉を刺青しており、ユダヤ系としての自覚が薄い「白人至上主義者」だったと見られる。

 オルメルト首相は9日の閣議で、「イスラエル国民なら、だれでも無関心ではいられない」と話し、教育制度を見直す必要があると強調した。

246とはずがたり:2007/10/16(火) 20:10:57
旧日本軍を神聖化したい連中の野望が挫かれるのは非常に意義深い事である。

2007年10月16日(火) 夕刊 1面
「要請を実現したい」/細田幹事長代理前向き
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200710161700_02.html

 【東京】自民党の細田博之幹事長代理(元官房長官)は十六日午前、沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した高校歴史教科書の検定問題への対応について、「本道に戻したい。(県民大会実行委員会の)要請内容を実現したいと思っている」と述べ、検定意見撤回や記述の回復に積極的に取り組む考えを示した。十一万人が参加した県民大会の実行委員会要請団に答えた。実行委はこのほか、社民党の福島瑞穂党首、公明党の太田昭宏代表や浜四津敏子代表代行、池坊保子文科副大臣らにも要請。教科書協会も訪ね、今回の検定で意見が付された五社の担当者らに記述の訂正を要請した。

 要請団の約百七十人は同日、七班に分かれて関係先を回り、検定意見の撤回と記述の回復を含めた四項目を要望。実行委員長の仲里利信県議会議長や高嶋伸欣琉球大学教授らのグループは自民党本部に細田幹事長代理を訪ね、検定意見の撤回などを求めた。

 仲里委員長らによると、同席した河村建夫広報本部長(元文科相)も「教科書に歴史の事実が書かれなければ、文部科学相はきちんと直すよう監督指導する責任がある」と述べ、文科相の責任で対応する必要性を強調したという。

 仲里委員長は要請後、細田幹事長代理の発言について「力強い話があり大きな前進だ」と歓迎。高嶋教授も、河村広報本部長の発言に「政治家の責任の在り方を示したいい発言」と評価した。

 一方、実行委幹事の伊波常洋県議(自民)らのグループは、自民党沖縄振興委員長の山崎拓衆院議員を平河町の個人事務所に訪ねた。山崎氏は冒頭、「超党派の県民大会は県民の総意としてしっかりと受け止めたい。沖縄振興委員会でも、この問題で何かできることがあるか検討している」と述べ、党として対応する姿勢を明らかにした。

 面談は非公開だったが、伊波県議らによると山崎氏は「子どもたちに教える立場から、軍部の関与については事実上元に戻すことを希望しており、そうなると予見している」など、記述回復に前向きな姿勢を示した。

 検定意見の撤回については「制度の問題があるが、今後起こらない仕組みを必ず確立する」と述べ、検定意見撤回以外の手段で解決に取り組む考えを示した。

 要請団の要望は(1)検定意見の撤回と記述の回復(2)教科用図書検定調査審議会の速やかな再開催(3)審議の公開と審議会への沖縄戦研究者の参加(4)沖縄条項の確立―の四点。

小沢氏、国会決議に意欲
「政府・文科省と戦う」

 【東京】民主党の小沢一郎代表は十六日、国会への「沖縄戦『集団自決(強制集団死)』の教科書検定に関する決議案」提出について、「民主党の認識は一致している。政府や文部科学省に対して戦っていく」と、意欲を示した。十一万人が参加した「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長の仲里利信県議会議長らの要請団に答えた。

 検定手続きの見直しなどを求める同決議案提出をめぐっては、自民党執行部から反対意見が相次いでいるほか、民主党内からも「全会一致」の慣例を重視し「多数決ではできない」(平田健二参院民主幹事長)との異論が出ており、めどが立たない状況に陥っている。

 小沢代表はこれまで、「参院の判断、運営に任せている」と述べ、事態を静観する構えを見せていたが、今回の発言は従来より踏み込んだものといえる。

 仲里議長らによると、小沢代表はそのほか「政府は審議会に責任を負わせるような格好でやっているが、真正面からはっきりと政府の言葉を言わなければならない」と述べ、同問題をめぐる政府の対応を非難。

 その上で「歴史の事実は一つ。その事実を歪曲することは厳にあってはならないし、それは自分たちもただしていく」と述べ、県民大会で決議した検定意見の撤回や記述の回復に前向きに取り組む姿勢を示したという。

247とはずがたり:2007/10/28(日) 21:43:23

京大教授陣に反共工作 米、左傾化阻止へ世論誘導
http://www.47news.jp/CN/200710/CN2007102101000161.html

 【ワシントン21日共同】1950年代に日本の左傾化を恐れた米広報文化交流局(USIS)が日本で行った世論工作を詳述した報告書が21日までに米国立公文書館で見つかった。左派勢力が強かった京都大学の教授陣を対象にした反共工作のほか、日本映画やラジオ番組の制作、出版物刊行をひそかに援助、米国が望む方向への世論誘導を図った実態が細かく描かれている。

 報告書は、米政府情報顧問委員長(当時)を務めたエール大学の故マーク・メイ教授が59年、日本に5週間滞在しまとめた。フロリダ・アトランティック大学のケネス・オズグッド助教授が発見、冷戦時代の米対外世論工作をテーマにした著書「トータル・コールドウォー」の中で明らかにしている。

 報告書によると、USISは(1)日本を西側世界と一体化させる(2)ソ連、中国の脅威を強調する(3)日米関係の強化で日本の経済発展が可能になることを理解させる−などの目的で、50の世論工作関連事業を実施。このうち23計画が米政府の関与を伏せる秘密事業だった。

2007/10/21 16:00 【共同通信】

248とはずがたり:2007/12/02(日) 21:37:47
五・一五前夜のチャップリン 皇居前一礼の謎に新事実
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071202-00000919-san-soci&kz=soci
12月2日18時50分配信 産経新聞

 昭和7(1932)年に来日した世界の喜劇王、チャールズ・チャプリン(1889〜1977年)が「五・一五事件」の前日、皇居前で一礼したのは自身を守る“演出”だった−。親日家でありながら、外国勢力打倒をかかげる軍人らの標的にされたチャプリンを守るため、皇居訪問を最優先させるなど、秘書やその知人らが訪日の行動計画をたてた手紙が研究者によって発見された。「親日ぶりの単なるアピール?」「不審な車につけられた?」など、その意味が明かされず謎とされた「一礼」が、チャプリンの“世紀の名演技”だったことを裏付ける貴重な資料という。

 手紙は元陸軍少将の作家、櫻井忠温(ただよし)がチャプリンの秘書、高野虎市(1885〜1971年)にあてたもので、チャプリン研究の第一人者、大野裕之・日本チャップリン協会会長が高野の遺品などから発見した。原稿用紙7枚に書かれ、正確な日付は不明だが、「最近の日本は騒がしいのでお気をつけください」など日本の情勢の報告とともに、「お早めに東京に来られたほうがいいと思います」「東京でまず宮城(皇居)に行く」よう指示。このほか、撮影所訪問や歓迎会への出席など行動計画が綿密にたてられていた。

 欧州やアジアをめぐる世界旅行の途上、5月14日に神戸港に入ったチャプリンは、京都や大阪を“とばして”東京に直行。その夜、ホテルへ行く前にまず二重橋に立ち寄った。「高野が『車から降りて皇居を拝んでください』というので、(腑に落ちないまま)礼をした」と、皇居への訪問を“最優先”させたことを自伝に記している。この「一礼」は当時、新聞などで大きく報じられたという。

 翌日には、一部軍人が蜂起して犬養毅首相を殺害した「五・一五事件」が発生、チャプリンも“外国文化の象徴”として標的にされていたことが、裁判記録などから明らかになっている。

 その特異な行程や一礼の意味はこれまで“謎”とされ、研究者からは「跡をつける不審な車におびえた高野が礼をさせた」などという見方も出されていた。

 高野はチャプリンより1カ月早く来日して日程を調整しており、大野会長は「不穏な動きを高野が事前に察知して、軍部に詳しい櫻井に相談したのではないか」と分析。「高野らが綿密に作戦をたて、チャプリンがその通りに演じたことが分かる貴重な資料」と、没後30年にして発見された資料を高く評価している。

 事件当日、チャプリンは首相の歓迎会には行かず、気まぐれで相撲観戦に出向き、難を逃れた。大野会長は「歴史は皮肉なもの。しかし高野の努力もあり、命拾いしたともいえる。手紙はそれを証明し、高野とチャプリンの深い関係をも裏付ける」と話している。

249とはずがたり:2008/01/31(木) 23:57:59
大恐慌を放置してもっとも人気のない大統領であるフーバーとGHQでお馴染みのマッカーサーの意外な関係

http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19430126buyou/buyou.htm

250とはずがたり:2008/02/01(金) 00:04:59
>>249
>もっとも人気のない
wiki等を見ると退任後は色んな活動を通じてそれ程悪評価で死んだわけでは無さそうである。。

251とはずがたり:2008/02/08(金) 21:49:47
こんなスタンスだったんですね。せめて西園寺も此に賛同してくれれば・・。

伊東巳代治の国連脱退反対運動
http://210.128.252.171/modern/column/07.html

この表現がなかなかいいっすねぇ。
>半世紀に及ぶ政治生活で伊東が放った最後の淡い光茫であった。

252とはずがたり:2008/02/28(木) 22:13:34
私は日本の民主主義社会の原点を室町・戦国期の町衆や国人らの自治に求めていて,南山城の国一揆や加賀の一向一揆(専門のウェブサイト迄みつけた http://rokuro.at.infoseek.co.jp/ )を高く評価してるけど,明治体制下のこの富山県の米騒動の震源地ぶりもなかなか評価できるぞ!
なんでも一番有名な1918年以外にも大きな物は3度あったそうだが,いずれも富山県がきっかけになっちょる。最近では自民党の金城湯池になっちまたが農地解放前迄は庶民の不満のポテンシャル高かったのか。

米騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

米騒動の発生契機としては凶作による米不足や米価格の暴騰が直接的な要因になる事が多い。一般に「米騒動」とのみ呼称した場合は、大正時代の1918年に発生したものを指す。しかし、単純な「米価格の暴騰に伴う民衆暴動」という定義の騒動は江戸時代の享保の大飢饉の頃から幾度となく発生しており、明治維新以降で全国規模にまで発展した米騒動は1890年、1897年、1918年の3度を数える。
1890年の米騒動
1890年1月18日、富山県富山市において市民による市役所・資産家に対する救助要請運動が始まったのをきっかけとして、同年4月から9月にかけて鳥取県、新潟県、福島県、山口県、京都府、石川県、福井県、滋賀県、愛媛県、宮城県、奈良県など19箇所において騒動が発生した。特に新潟県佐渡市相川町では6月28日から7月5日にかけて鉱夫を中心として2000名以上が蜂起し、軍隊の出動をもって鎮圧する事態にまで発展している。[要出典]
1897年の米騒動
1897年5月下旬の富山県魚津町での騒動をきっかけとして始まった騒動で、同年8月から10月にかけて、石川県、長野県、山形県、新潟県、福井県など10箇所において発生した。最も大騒動となったのは長野県飯田町の騒動で、9月1日から9月3日の3日間で約2000名の民衆が暴徒と化し、米問屋や警察署などを襲撃する事態に至った。[要出典]
1918年の米騒動
1918年7月下旬から9月にかけて、富山県魚津町を中心にして参加者100万人を超える全国規模の民衆暴動へ発展した事件。本項次節以降で詳述する。

253とはずがたり:2008/04/16(水) 12:50:41
上原勇作と云えばキーワードは帷幄上奏権・二個師団増設問題・軍部大臣現役武官制ですねぇ〜。基本事項であるから抑えておくよーに♪
民党の経費節減・民力休養に対する蛮勇演説の樺山資紀とついごっちゃになってしまうね。樺山と聞けばすっと蛮勇演説が出てくるけど。
熊本鎮台司令長官として熊本城を西南の役で守り抜いた谷干城も組閣の大命が下るも陸軍が陸相を推挙しなかった為に組閣に失敗した流産内閣宇垣一成も間違えない。田中義一も軍人出身だけど政友会総裁の印象が強いなぁ。
上原の日本史上というか日本史入試上の印象はこう見るとあんま強くないのかねぇ。
あんま関係ないけど「たにたてき」よりも「たにかんじょう」と有職読みするのが個人的な好み。もっと関係ないけど宇沢弘文先生もひろふみではなくこうぶんな感じですな。

旧陸軍大臣収集の「上原文庫」、都城市立図書館が調査へ
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20080413-OYS1T00337.htm

 旧陸軍大臣の上原勇作が集めた戦前の軍やOB関連の雑誌など約5000冊を蔵している「上原文庫」(宮崎県都城市立図書館)の本の劣化が進み、同図書館が保存や複写本の作成に向けて蔵書の内容調査を始める。上原は読書好きとしても知られ、文庫には国会図書館にもない貴重な史料が多いとみられているが、内容の詳細な研究は行われていなかった。専門家は「史料の重要性がつまびらかになれば」と期待している。

 同文庫は都城出身の上原の陸軍大臣就任を記念して1914年(大正3年)に設立。多くが上原の蔵書で、市民からの寄贈もある。OB組織「帝国在郷軍人会」の機関誌がほぼそろっているほか、新兵生活の苦心談などを掲載した啓発雑誌「皆兵」、陸海軍の下士官が投稿した作文や俳句などの文芸誌も。

 有馬学・九州大教授(日本近代史)によると、旧日本軍は平時から国民向けの啓発活動に熱心で、軍のOB組織が重要な役割を担っていた。雑誌などから陸軍や在郷軍人会が何を目指していたかがわかるという。「文庫は戦前の軍と社会の関係を研究する上で欠かせない史料群で、その豊富さは全国一では」と話す。

 しかし、蔵書はほとんどが酸性紙で劣化が進行。開くだけで紙が崩れる本もある。図書館では本をばらしてとじ直し、酸化を防ぐ箱の中で保管するほか、複写本を作るなどして史料の存続を図ることを計画。1冊あたり数千円の費用がかかることから、日本近代史に詳しい大学教授らに蔵書を読み解いてもらい、概要を記したリストを作成して重要な史料を選別していく。

 同図書館の羽田野信拓・副主幹は「各史料の内容調査を急ぎ、重要性を広く訴えたい」と話している。
(2008年4月11日 読売新聞)

254荷主研究者:2008/06/19(木) 23:32:04

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/05/20080506t33007.htm
2008年05月05日月曜日 河北新報
旧陸軍施設相次ぎ解体 盛岡・青山地区

4月に解体された覆馬場。消えゆく赤れんが造りの建物に住民から惜しむ声が上がった=盛岡市青山2丁目

 旧陸軍関連の建物が数多く残る盛岡市青山地区で、街の景観が様変わりしている。覆馬場と兵舎が今年に入り、相次いで解体された。江戸期の町家をはじめ明治、大正期のモダン建築などの保存活用に力を入れる土地柄だけに、失われゆく地域のシンボルを惜しむ声が上がっている。

 市北西部の青山地区は戦前、騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した。戦後は戦地などからの引き揚げ者が住み着き、戦時の記憶を色濃く刻む街並みとして知られる。それが今年、いずれも民間企業が所有する覆馬場と兵舎が次々壊された。

 さらに6月には、これも民間企業所有の覆馬場が姿を消す。旧陸軍施設で青山地区に残るのは市所有の覆馬場1棟だけとなる。

 施設解体後の跡地は緑地になったほか、今後、スーパーなどが建てられる。施設所有の企業側には工場の規模拡大や業務縮小という事情があり、「既に決まっていたこと」と口をそろえる。

 変ぼうする街並みに、青山大通り商店街の安部一夫会長(58)は「街の顔が失われていくのが寂しい。もう少し保存に向けて行政や企業と協議する時間が欲しかった」と肩を落とす。

 「いわて・戦争を記録する会」の加藤昭雄事務局長(花巻市)も残念そう。旧陸軍の関連施設が1カ所に集中するのは全国でも珍しく、「文化財としてとても価値が高かったのに…」と解体を惜しんでいる。

 建物の保存について、盛岡市は「多くは民間企業の施設で、市の現在の財政事情では買い取れない。ただ、市所有の覆馬場は国指定の文化財を目指して、地域の中で活用法を探りたい」(環境企画課)と語るのが精いっぱいだ。

255名無しさん:2008/06/22(日) 17:25:55
明治天皇の孫、海渡り60年 ブラジルで皇太子さま対面
http://www.asahi.com/national/update/0621/TKY200806210120.html
2008年6月21日17時58分

 【サンパウロ=島康彦】皇太子さまは20日夕(日本時間21日早朝)、サンパウロ市内のホテルで、日系人ら約50人と懇談した。その中に、約60年前、皇籍離脱してブラジルに渡った元皇族がいた。多羅間俊彦さん(79)。終戦直後の皇族首相・東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)氏の四男、明治天皇の孫だ。

 宮家のプリンスとして一目置かれる生活が、戦争で一変する。自宅は焼け、終戦直後の1947年、他の宮家とともに皇籍を離脱した。

 同じころ、知人からブラジル行きの誘いを受けた。大学でラテンアメリカ研究会に所属し、南米の自然にあこがれる気持ちもあった。「ロマンがある世界に飛び込みたかった」。コーヒー農場を経営する元外交官夫人の養子となって、51年、海を渡った。

 周囲は驚いたというが、多羅間さんは「苦労はなかったですね。希望に満ちていたから」と笑顔で振り返る。

 日系2世の女性と結婚。長男と3人でサンパウロで生活する。ブラジルでの半世紀を超える年月は「非常に豊かな人生でした」と話す。

 今回の皇太子さま訪問では、ブラジル日本文化福祉協会副会長として、準備作業にかかわった。「100周年は一つの区切り。日本側との連絡など今後も力になれることをやっていきたい」

256石垣眞人:2008/07/30(水) 14:42:20
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

257とはずがたり:2008/08/13(水) 18:38:39

終戦直前の東条手記 「内閣、国民に嘆息」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080813-00000060-san-soci&kz=soci
8月13日8時0分配信 産経新聞

 太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機陸軍大臣が、終戦直前の緊迫した情勢の中で心情をつづった手記が国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることが12日、わかった。

 昭和20年8月10日から14日の間に書かれたもので、昭和天皇が臨席された10日の重臣会議の記述から始まる。東条元首相は政府がポツダム宣言受諾を決めたことについて、11日に「新爆弾に脅(おび)え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く『敗戦者なり』との観念に立ちたる無条件降服を応諾せりとの印象」と政府の“弱腰”を厳しく批判している。

 13日には「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及び国民の無気魄(きはく)」に嘆息を漏らし、自身の責任に言及する。そして14日には首相時代の秘書官にあてて「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と自決の覚悟を記している。

 東条元首相は同年9月にピストルで自殺を図るが一命を取り留め、東京裁判で絞首刑判決を受けて、23年12月に刑死した。手記は東京裁判で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎弁護士が法務省に寄贈した裁判資料の中にあった。

 小堀桂一郎・東大名誉教授の話「生々しさはあるが、新たな発見はこれといってない。ただ興味深かったのは、東条さんのような地位にあった人でも、ポツダム宣言の条件を無条件降服だと思い込んでいたこと。国際法の厳密な解釈ができていないことが随所にうかがえる。また、全面的な武装解除を履行すれば国体の護持はできないという認識は正しく、この点はさすがに軍人だと感心した」

258とはずがたり:2008/08/14(木) 14:24:48
政界名(迷)言集
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/meigen.html

259とはずがたり:2008/08/15(金) 13:53:31
なんだ,この文語体であること以外あんま中身の無い文章は。。
しっかし,現代に於いて日本國民が8/15を大東亞戦争の一大劃期だと考えてゐるのは天皇から終戦を直接に語られた日だからなんだな。。

【正論】「8月15日」 埼玉大学教授・長谷川三千子
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080813/trd0808130328001-n1.htm

260とはずがたり:2008/08/20(水) 18:26:05
ちょいと前の記事だが。

2007/06/15
文科省が削除要求 「集団自決」修正
軍関与の記述部分 沖縄T
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1089893576/2746

2007/06/23
沖縄:教科書検定問題で記述の復活はしない考え…安倍首相
沖縄:教科書検定、国と溝 「自決強制」目撃の女性に怒り
>>213

「集団自決」に「軍の関与」復活 検定意見を実質修正
http://www.asahi.com/politics/update/1226/TKY200712260329.html
2007年12月27日06時47分

 沖縄戦の「集団自決」をめぐり、来春から使われる高校日本史の教科書検定で「日本軍の強制」が削除された問題で、渡海文部科学相は26日、教科書会社6社から出されていた訂正申請を承認した。「日本軍が強制した」という直接的な記述は避けつつ、「軍の関与」や「戦中の軍の教育」などによって住民が自決に追い込まれたと記しており、「集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因」と読める内容になった。

 一度検定に合格した教科書の記述に沖縄側が激しく反発したことをきっかけに異例の再審議となった。6社中5社は文科省側とやりとりしながら、訂正申請を一度取り下げたうえで、修正して再申請し承認された。文科省は、「軍の強制」を認めなかった検定意見を撤回しなかったものの、内容を事実上修正する結果となった。

 渡海氏はこの日の会見で「審議経過も明らかにしており、沖縄の理解をいただきたいと思っている」と語った。一方、9月末に開かれた沖縄県民大会の実行委員長を務めた仲里利信・県議会議長も会見し、「記述の回復がほぼなされ、これまでの検定意見は自動的に消滅したと考えている」と表明した。ただし、県民大会で決議した「検定意見の撤回」が実現しなかったことには不満の声も根強く、28日に実行委員会を開いて、正式な態度表明をするという。

 渡海氏は県民大会の直後、「訂正申請があれば真摯(しんし)に対応する」と表明。11月に各社から申請が出されたことを受けて、諮問機関の教科用図書検定調査審議会(検定審)に検討を要請。検定審日本史小委員会は25日に訂正申請を承認する報告をまとめた。

 今回の再審議では、「日本軍が強制した」と記した訂正を認めるかどうかが焦点だった。日本史小委は、沖縄戦や軍事史の専門家9人に意見を求めたうえで、(1)集団自決が起きた状況をつくった要因として、軍の関与は主要なもの(2)軍命令で行われたことを示す根拠は確認できていない(3)住民側から見れば、自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる――という「基本的とらえ方」をまとめた。この方針に沿って、教科書会社に訂正申請の根拠となる資料の提出や説明を求めた。

 その結果、三省堂、実教出版、清水書院、第一学習社、東京書籍の5社は訂正申請にあった「自決を強要された」「集団自害と殺し合いを強制した」といった直接的な表現を取り下げ、「日本軍の関与」「米軍の捕虜となることを許さないなど指導」との表現に変えて再申請した。山川出版社は事実関係だけで、背景や要因には触れなかった。

 「強制的な状況のもとで」「『強制集団死』とする見方が出されている」といった記述も承認された。文科省は「『強制』や『強要』があれば即不合格になるのではなく、全体の文脈の中で小委が判断した」と説明している。

261とはずがたり:2008/09/15(月) 01:18:04
麻生太郎外相と韓国・朝鮮、被差別部落/坂井貴司
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/c40aeeaef38844fe604e08bee1a98452

262名無しさん:2008/09/15(月) 01:58:31
>>261
典型的な朝鮮万歳系・部落万歳系の記事ですね。

263とはずがたり:2008/09/15(月) 09:18:17
典型的であろうと無かろうと近代や帝国主義の時代がこういう事が法治主義の名の元で行われてたって事は事実かと思います。
散々抑圧しといて向こうから日本に来たがったとか向こうが日本の名前欲しがったとか云う典型的な保守派の発言は身勝手で他者への配慮が決定的に欠けているとしか思えませんね。

264名無しさん:2008/09/15(月) 11:48:06
その話自体がインチキ臭いんですよね。

265とはずがたり:2008/09/15(月) 17:27:17
>>264
どの辺りがインチキなんでしょう?
あと50年もしたらこの時期(現代)の日本の政治家は韓国が嫌がるようなことを云った事実はない善隣友好に尽くしたのに中韓は勝手に日本を恨み続けたって言い出しそうです…。

267やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 02:04:54
>>265
>>261がファクトかどうかの話ですから。
嫌がったとか何とか、一般的な話にもっていくのは、いかがなものかなと思いますけどね。

ファクトを無視して、共産独裁国家を賛美していた大学教授や文化人など自称インテリ(実態は単なる馬鹿)の飯の種にしか思えませんけどね。

268とはずがたり:2008/09/23(火) 03:12:39
日本なりイギリス成りが朝鮮なりインドなりに植民地収奪したと云うファクトから出発しないと議論にならないような気がしますが如何でしょうか?
日本人が朝鮮地域の発展と繁栄のみを祈るお人好しだった疾っくに欧米の植民地となっていたでしょうし。
収奪なり侵掠なりしたと云うファクトから始めないと,無謬の皇軍,無辜の臣民,無欠の皇室が前提ではやおさんの云う共産独裁国家を賛美していた大学教授や文化人など自称インテリ(実態は単なる馬鹿)と大差ない事に成ってしまいませんかね。

269名無しさん:2008/09/23(火) 11:09:08
1.イギリスと日本が同じである。

これは立証なしで、前提としなければならないのでしょうか?

2.論点は、日本の善意の有無である。

日本が善良なお人好しでなければ、その行為は全て否定されるべきであるというのが前提になりますね。


どっちにしろ、奴隷として強制連行したことがファクトであるとの裏付けにはなりませんけどね。

270とはずがたり:2008/09/23(火) 20:02:22
>>269
>1.イギリスと日本が同じである。
>これは立証なしで、前提としなければならないのでしょうか?
まぁイギリスも善意でやってたかも知れませんので,其れを言い出すとなかなか大変ですな。。

>2.論点は、日本の善意の有無である。
>日本が善良なお人好しでなければ、その行為は全て否定されるべきであるというのが前提になりますね。
欧米の侵掠の危機に対して日本が自衛の為にやった事だから何やっても良いという結論にはならんと思います。

現在に至る迄,中韓が日本に頭下げろと云って来て腹立たしいと云う感情と当時の列強のやった事の是非は切り離して論じるべきではないでしょうかね。

271やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:25:04
>>270
善意かどうかと、強制連行があったかどうかとが、どういう風にリンクするのでしょうか?

272とはずがたり:2008/09/23(火) 22:31:08
>>271
日本の保守陣営の観点からの典型的な日本の植民地支配観は日本は良い事をしてあげたと云う善意論ではないでしょうかね?
革新陣営が主張する植民地支配者としての日本の悪行の典型の一つが強制連行だとするとそれの対応物かと。

273やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:35:12
>>272
強制連行の有無が論点ですけど。
植民地支配云々が論点ではないはずですが。

274とはずがたり:2008/09/23(火) 22:44:08
植民地支配の一環として”強制連行”があったのではないでしょうかね?
沖縄戦での陸軍の強制と同じくその強制の中身を論じないと駄目なのでしょうけど。
日本が朝鮮人に対して不利な立法をして経済的困窮に追い込み結果として日本の劣悪な労働環境で働くことを強いられるようになった,と云う事を強制では無く募集に応じたのが彼らの自発的行為だから強制連行は無かったという主張ですかね?

275やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:44:51
>>274
それでは、日本国民はどうなのでしょうか?

276とはずがたり:2008/09/23(火) 22:47:31
>>275
といいますと?
日本人労働者も当時の産業資本にさんざん搾取されていたから同じと云う事でしょうか?

277やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:49:27
>>276
そういうことになりませんかね?搾取論だと。
戦後の東北地方からの出稼ぎも、強制連行であるといえなくもない。

なんにしろ、奴隷狩り的な強制連行はファクトではありませんね。
かりに、搾取があったから強制連行でとしても、奴隷狩りをファクトとすることはできません。

278とはずがたり:2008/09/23(火) 22:53:33
>>277
そうだったんじゃないでしょうかね。
搾取という違うタームが付いているだけで本質は同じだと思いますよ。
一生懸命経済発展の為の資本蓄積をしていたとしても当時の劣悪な労働環境に置かれた労働者や明治政府に拠って植民地的な地位におかれた東北地方民が産業資本家や薩長藩閥政府に怒りを持ったとしてもそんなものは無かったと云う気には成れませんねぇ。

279やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 22:57:06
>>278
論点は、怒りの有無ではなく、奴隷狩りの有無ですが。

今なお朝鮮や中国からわたってくる不法難民も、強制連行なのでしょうか?

280とはずがたり:2008/09/23(火) 23:01:46
>>277 >>279
>奴隷狩り的な強制連行
日本は歴とした法治国家でしたからその辺は巧妙にソフィスティケートされていた筈です。
法律に照らしてグレーではあり,朝鮮人に不利なようになっていたかも知れませんけど,其処がクリティカルなんでしょうかね?

日本による植民地化が直接の原因で状況に追い込まれて日本に渡らざる得なかった,ってのと現代の独立国からの不法入国を同一視するのは無理があるんじゃないでしょうかね?

281やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 23:07:27
>>280
どうでしょうね?
まず、朝鮮と日本の経済格差が日本政府によるものであるのかどうか?

朝鮮内にいるのと、日本に行くのとで、日本に行くほうがカネになるのなら、
日本に来る朝鮮人が多くても不思議はありませんけどね。

そういう経済格差と人口動態は、現在の脱北者の行動と類似しているのではないでしょうか?

282やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 23:09:59
>>280
>>日本は歴とした法治国家でしたからその辺は巧妙にソフィスティケートされていた筈です。

一般に革新陣営が流布している言説は、虚言となってしまいますね。

飯の種とは言え、言説が過激になっていくことは、
誰のためにもならないのではないでしょうかね?

無理に一般国民と一般在日との間に壁を構築して、
それでもって、飯の種にしている人間が、社会的に一定の影響力を持っている以上、
どうしようもないことなのかもしれませんけどね。

283とはずがたり:2008/09/23(火) 23:26:06
>>281
論理を敷衍すると中韓が(半)植民地化されたのも,情勢を見て適切に国家運営できなかった彼らの自己責任でそれを侵掠した方の責任にするのは筋違い,全て合法的なものであったと云うことになるんでしょうかね。
確かに当時の産業資本の現代に繋がる発展への役割を無いと云うことは出来ず,寧ろ積極的な意義を見いだすべきだと思いますが,当時の劣悪な労働環境を問題であったと認識する事から現代の社会権や生存権が正当化されるのだと思います。

同じように当時の列強の行動を適切に批判してこそ将来嘗てのような帝国主義による抑圧が再来する事の抑止になると思ってます。
で,日本の支配にも積極的な意義があった可能性はあるとは思いますがその辺は当時の労働者と資本家への現代人の帰属意識よりも当時の朝鮮人の現代の朝鮮人の帰属意識の方が遙かに高いのでそれに日本人が触れるのは難しいであろうかと思います。

日本語が判らないのを良いことに契約書にサインして連れてきたり,美味い飯が食えるぞと騙して連れて来たりがあった様に聞いてますけど,少なくとも一部の拉致被害者を騙して自分の意志で北朝鮮入りさせた北朝鮮位には当時の資本家好き勝手やってた様に思いますけどねぇ。
タコ部屋での悲惨な生活を正確に知らされて日本に来た人なんているんですかね?

>>282
煽りあいがエスカレートしてゆくのは不毛でしょうね。
革新陣営が殊更に戦前の日本を貶め,保守陣営が殊更に無謬性を主張し,それに海外の言説も絡んで紛糾すると云うのは不健全でしょう。
日韓中で解決するのは難しそうですので欧米の歴史学者にも這入って貰って検証する必要があるのかも。ドイツとその周辺諸国みたいに自分らで解決できないのは情けないですけど,向こうは全部ナチスが悪いで押し込めてしまえたからなぁ。。

284やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/23(火) 23:41:18
>>283
仲介業者がいたのは事実でしょうね。
仲介業者と労働者の話で、政府の話なのかどうかは微妙ですし、
全く無関係な世代が騒ぐことでもないような気がします。
そういう仕事についている人は別ですが。
暮らしが苦しいのと、普通に暮らしていたのを羅利するのとを同一視するところに、革新陣営の不誠実を感じますが。

革新陣営も細る一方なので、言説が過激になっていくのも組織の宿命として理解できます。

南北朝鮮とも、日本叩きなくして政権維持ができないでしょうから、これはどうしようもないですね。
学者も利害関係を背負ってるでしょうから、難しいでしょうね。

北朝鮮拉致問題ですが、拉致されたとされる人の中にも、北朝鮮に自ら入国した人もいるでしょうね。
現在のように、北朝鮮の情報が国内に流れるような時代でもなかったでしょうしね。
もちろん、普通に暮らしていて拉致誘拐されたケースが多いでしょうけど。

285とはずがたり:2008/09/24(水) 00:52:03
>>284
>政府の話なのかどうかは微妙ですし、
慰安婦なんかもそうでしたけど確かに微妙でしょうけど如く巧妙なソフィスティケートの一環で推奨しなかった迄も黙認等はあったでしょうから無関係と突っぱねるのもどうでしょうかね。

>全く無関係な世代が騒ぐことでもないような気がします。
これは矢張り帰属意識なんじゃないでしょうかね。
会津が薩長と"歴史的和解"みたいなニュースが時々流れますが裏返せば未だ引っかかるものがちょいとあるって事ですよね。
日中韓が会津と薩長ぐらい落ち着いた関係になるといいんですけど…。
知ってるのは留学生ぐらいですので本国の人の事は知りませんけど彼らは全くそんな不幸な歴史などなかったかの様に振る舞ってくれますし,騒いでるのは一部の人だけなんじゃないでしょうかね?

286やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/09/24(水) 02:18:54
>>285
一部ではありましょうけど、政権が左右されるほどの影響力を持つ一部ではあるでしょう。

287石垣眞人:2008/10/10(金) 15:23:57
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

288小説吉田学校読者:2008/10/24(金) 08:56:20
歴史の小さな一ページの一こまが変わるかもしれない。成田市の調査に期待する。

皇室用の防空壕?
http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000000810230002

 成田市三里塚御料の三里塚記念公園に、地元で皇室用ではないかと伝えられる防空壕(ごう)が残っている。市によると、市にも国にも記録はなく謎のままになっていた。市は21日から地元からの要望を受けて内部の調査を始めた。(的場正)
 記念公園は、成田空港の建設前は宮内庁の御料牧場の一部だった。防空壕は皇族の宿舎などに使われた貴賓館の北に位置し、中央の部屋は深さ5〜6メートルのところにある。広さは6畳ほどで、天井の高さは約2・5メートル。壁はコンクリートで、出入り口は東西に2カ所。それぞれ厚さ約20センチの扉が二重になっていて、その外側に南北へ抜ける幅約1メートルの通路がある。いずれも部屋から見て左側にだけ階段が付いていて、階段の側を出入り口として使い、反対側は近くに爆弾が落ちた時に爆風が吹き抜けるようにしていたと考えられている。
 中央の部屋には電灯が付いていた跡やコンセントが残っている。防空壕の入り口付近にある配電盤には「昭和16年」の文字があり、1941年ごろに建設されたと考えられている。コンクリートの壁には69年の牧場移転後に書かれたらしい落書きもあったが、表面は建設されたときからほとんど劣化していないように見える。
 調査の様子を見ていた地元の人によると、地元では皇室用と考えられていた。「秘密の防空壕」と呼ばれ、御料牧場の関係者は「お文庫」と呼んでいたという。中央の部屋には畳が敷かれていたが、戦後は牧場でとれたサツマイモやジャガイモの貯蔵庫に使われていたらしい。
 2・9ヘクタールの公園一帯は国有地で、市は牧場の事務所棟を「御料牧場記念館」として、貴賓館とともに管理している。だが、防空壕は国にも記録がなく、これまで調査はされていなかった。今回、市が国に調査を申し出たところ、初めて認められたという。
 この日、中に入った小泉一成市長は「当時の最高の技術と材料が使われ、保存状態も想像以上に良かった。貴重な歴史的建造物を一人でも多くの方にみていただけるよう、一般公開に向けて努力します」と話した。

289とはずがたり:2008/10/24(金) 10:09:10
興味深い。子供の頃お寺の脇の崖に洞穴があって防空壕だと小学生の間では噂されてましたが本当だったのかなぁ。。
戦争末期は松代に地下要塞建設をしてたのは良く知られてますが,昭和16年だからもっと前の話ですね。
このまま成田に御遷座いただけたら今頃千葉が日本の首府に成ってたかも知れませんなぁw
それにしても新勝寺に空港に防空壕と成田は色々立地してますなぁ。。元々空港も御領牧場などが有って用地買収が簡単とか思ってのことなんでしょうかね。だとすると空港と防空壕の立地は偶然という訳でも無いでしょうけど。

290とはずがたり:2008/10/24(金) 10:26:48
やっぱそう(御料牧場があったから空港立地)なんか。。しかも今は廃止されてるのか。未だ残ってるのかと思ってた。。
>当初は千葉県富里村(現・富里市)を建設予定地としていたが、地元自治体との調整は難航した。そのため、1966年佐藤栄作内閣は、建設予定地を同県成田市三里塚に変更した。国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林、またその周辺の土地は開拓農民達の物であった為、用地買収は容易に進むと考えたからである。

それにしても今は成田に合併を要請して断られている富里に空港が立地してた可能性もあったのか。

まさか新勝寺と御料牧場は関係あるまいなと思ったが流石に無関係かw

宮内庁下総御料牧場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

前身

江戸時代、下総台地の北部に江戸幕府によって佐倉牧が設置されて、軍馬や農耕馬の放牧地があった。佐倉牧は7つの牧から構成されていたことから「佐倉七牧」とも称され、三里塚一帯には七牧の1つであった「取香牧(とっこうまき)」が置かれていた。明治時代に入り文明開化の煽りを受け、国内での羊毛の生産を高める必要性が起こり、「1.青草に富むこと」「2.樹林地に恵まれていること」「3.物資の輸送に便利な所」を条件に、内務省は用地選定にアメリカの牧羊家アップ・ジョーンズを起用して各地の実地調査を行った。その結果、七牧の一つ取香牧(現:成田市取香、三里塚周辺)の隣接地が牧羊場に定められ、1875年(明治8年)9月、下総牧羊場が開場した。この時、取香牧も閉場し、牛馬の改良に当たる取香種蓄場として発足した。この頃、内務卿・大久保利通は現地の視察を行い、また、牧羊場・種蓄場両場の初代場長に、内務省の岩山敬義が就任した。

設立
1878年(明治11年)5月、大久保が暗殺され非業の死を遂げる。その影響もあってか1880年(明治13年)1月、両者が合併して下総種蓄場となった。この合併は事業を整理する意味合いが含まれていたとされる。下総種蓄場は、場内を三里塚区、両国区(現:富里市両国)など七区に分けられており、本庁は両国区高堀に置かれた。
下総種蓄場の管理は、1881年(明治14年)にそれまでの内務省から新設された農商務省に移され、1885年(明治18年)6月には宮内省御料局の直管となり、1888年(明治21年)10月に「宮内省下総御料牧場」と改められ、それまで高堀にあった本庁が三里塚に移された。その後、牧羊事業は次第に縮小され綿羊の数も減少した。

291とはずがたり:2008/11/20(木) 01:23:20
浄土宗、戦争責任を検証
戦後63年、加担を反省へ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1226053946/6

292とはずがたり:2008/12/10(水) 17:21:29

終戦時の鈴木首相証言、幻に 天皇へ波及恐れ 東京裁判
http://www.asahi.com/national/update/1210/TKY200812100191.html
2008年12月10日15時6分

 第2次世界大戦後に日本の戦争指導者らを裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)で、日本の弁護団は当初、終戦時の鈴木貫太郎首相を証人に呼ぼうとしていたが、天皇への波及を恐れる声が内部にあり、結局は断念していた。国立公文書館が所蔵する弁護団の内部資料から、こんな事実が分かってきた。国体護持のため天皇を裁判から守ろうとした弁護活動の内幕がうかがえる。

 資料は、法務省が70年代初めまでに収集。移管された公文書館が07年夏以降、公開している。6千冊を超え、専門家の分析も終わっていない。

 「鈴木貫太郎宣誓供述書」と題するタイプ文書によると、千葉県の鈴木邸を1946年5月12日、弁護団の清瀬一郎副団長が訪れた。

 清瀬は鈴木に、45年8月にポツダム宣言を受諾した時、宣言にある「戦争犯罪人」の意味をどう解釈していたのかを尋ねた。宣言が作られた時は、捕虜虐待など通常の戦争犯罪しか国際的に認められておらず、連合国が後から作った「平和に対する罪」や「人道に対する罪」は不当だと理論上、考えていたからだ。

 鈴木を訪れたのは、実際には政府がどう考えていたかを確かめるためだった。

 鈴木「国際法上、既成の概念として何人も疑念を持たざりし為(た)め、閣議に於(おい)ても別に議論は為(な)さず」。通常の戦争犯罪しか想定していなかったという説明だった。

 翌13日に、清瀬が法廷で「戦争犯罪」の解釈に異議を唱えたことは、速記録などで知られる。鈴木証言は、この裏付けの一つだった。ただ判事団は訴えを却下した。

 そこで清瀬は、再び「戦争犯罪」の解釈論を戦わせるべきだと主張。47年1月の「一般委員会取扱事項及劈頭(へきとう)陳述起草について」という文書では、ポツダム宣言受諾時の「首相並(ならび)に連帯責任ある各閣僚」を証人に呼ぼうと提案した。

 しかし、これには内部から反対の声が上がった。清瀬への返信と思われる「清瀬氏劈頭陳述案に対する所見」で、ある弁護人は「終戦は御上の御発意に依(よ)れる」ので、「受諾当時の首相其(そ)の他を証人とするは、御上に如何(いか)なる累を及ぼすや予断を許さざるものあり」と天皇への影響を懸念した。

 もし弁護側が鈴木を呼び、終戦の経緯をたてに「戦争犯罪」の解釈を争うなら、検察側も、終戦を決断したのは天皇だと証人に引きずり出そうとするのでは、と恐れたわけだ。

 いかなる形でも天皇を法廷に立たせないというのは、弁護の絶対方針だった。46年6月14日の「日本弁護団会議記録」には、天皇について「(戦争)責任として煩わさないことは勿論(もちろん)ですが、証人としても煩わさないということで進みたい」とある。

 その後、鈴木は証人に呼ばれず、宣誓供述書も法廷に提出されなかった。弁護側は48年3月の最終弁論で、連合国の「戦争犯罪」の解釈を法律論から批判。しかし判決は、こうした主張を退けた。(谷津憲郎)

■新しい知見

 東京裁判に詳しい日暮吉延・鹿児島大法文学部教授(日本政治外交史)の話 東京裁判で、弁護側は大量の証拠を次々と提出するのを法廷戦術の一つとしていた。にもかかわらず、鈴木元首相を呼ばず、宣誓供述書も提出しなかったのはなぜか。天皇への影響を恐れて、というのは新しい知見だ。この時期、東京裁判で天皇が起訴される可能性はすでになくなっていたが、弁護側にとっての現実的な脅威は、天皇が証人に呼ばれることだった。未提出の大きな理由の一つだろう。

293とはずがたり:2009/01/23(金) 15:53:46
硫黄島滑走路、島内移設へ 地下に眠る遺骨捜索要望受け
http://www.asahi.com/national/update/0123/TKY200901230199.html
2009年1月23日15時2分

 太平洋戦争の激戦地として知られる硫黄島(いおうとう)にある海上自衛隊管理の飛行場滑走路について、政府は、島内の別の場所に移設する方向で検討を始めた。地盤の隆起や沈下で運航に支障がでてきかねないため。島内に張り巡らされた地下壕(ごう)の跡などには今も1万3千人以上の戦没者の遺骨が残されており、移設後、滑走路の地下の捜索・収集を進めたい意向だ。

 旧日本軍は戦時中、米軍来襲に備えて硫黄島の地下に陣地を築き、トンネルを張り巡らせた。その長さは約20キロに及ぶといわれる。米軍は壕の開口部をふさぐなどして、日本軍の将兵を殺害した。このため、厚生労働省の把握できていない壕が島内のいたる所にあって、その中に戦没者の遺骨が多数あるとみられている。

 現在の滑走路は幅60メートル、長さ2650メートル。防衛省によると、米軍が1945(昭和20)年、旧日本海軍の元山(もとやま)飛行場を利用して設置した。その後、68(昭和43)年に硫黄島を含む小笠原諸島が米国から日本に返還され、改修を経て、70年5月9日、防衛庁の飛行場となった。米海軍航空母艦の艦載機の夜間発着訓練(NLP)にも使われている。

 硫黄島周辺はもともと火山活動が激しい。防衛省によると、93年に大規模な改修をしたが、その後、滑走路の中央部や東端が沈下する一方、西端が隆起し、凹凸の差は最大80センチになっている。今年度から数カ年かけて、アスファルトで滑走路をかさ上げする大規模な改修を予定し、工事費の一部11億円の予算を今年度分として確保していた。

 ところが、戦没者遺族らから滑走路下の遺骨収集への強い要望があり、方針を転換。現滑走路は応急的な改修にとどめる。本格改修をしてしまうと、今後何十年も滑走路を掘り返すことができなくなり、遺骨収集ができなくなるためだ。

 太平洋戦争の激戦地として知られる硫黄島(いおうとう)にある海上自衛隊管理の飛行場滑走路について、政府は、島内の別の場所に移設する方向で検討を始めた。地盤の隆起や沈下で運航に支障がでてきかねないため。島内に張り巡らされた地下壕(ごう)の跡などには今も1万3千人以上の戦没者の遺骨が残されており、移設後、滑走路の地下の捜索・収集を進めたい意向だ。

 旧日本軍は戦時中、米軍来襲に備えて硫黄島の地下に陣地を築き、トンネルを張り巡らせた。その長さは約20キロに及ぶといわれる。米軍は壕の開口部をふさぐなどして、日本軍の将兵を殺害した。このため、厚生労働省の把握できていない壕が島内のいたる所にあって、その中に戦没者の遺骨が多数あるとみられている。

 現在の滑走路は幅60メートル、長さ2650メートル。防衛省によると、米軍が1945(昭和20)年、旧日本海軍の元山(もとやま)飛行場を利用して設置した。その後、68(昭和43)年に硫黄島を含む小笠原諸島が米国から日本に返還され、改修を経て、70年5月9日、防衛庁の飛行場となった。米海軍航空母艦の艦載機の夜間発着訓練(NLP)にも使われている。

 硫黄島周辺はもともと火山活動が激しい。防衛省によると、93年に大規模な改修をしたが、その後、滑走路の中央部や東端が沈下する一方、西端が隆起し、凹凸の差は最大80センチになっている。今年度から数カ年かけて、アスファルトで滑走路をかさ上げする大規模な改修を予定し、工事費の一部11億円の予算を今年度分として確保していた。

 ところが、戦没者遺族らから滑走路下の遺骨収集への強い要望があり、方針を転換。現滑走路は応急的な改修にとどめる。本格改修をしてしまうと、今後何十年も滑走路を掘り返すことができなくなり、遺骨収集ができなくなるためだ。

294名無しさん:2009/01/29(木) 00:27:39
ここで良いでしょうかね!?とりあえず、URLのみをば。

朝日新聞襲撃犯、名乗り出る…87年阪神支局で発生 すでに時効、実名公表し詳細語る
http://www.zakzak.co.jp/gei/200901/g2009012817.html

当初、ヤフー(産経)で載って、すぐ削除、それでZAKZAK(夕刊フジ)の、しかもどうゆう訳か「芸能」に載ったそうです。

295とはずがたり:2009/01/29(木) 08:31:36
>>294
こういうテロはやりきれんですなぁ。。転載しておきます。

朝日新聞襲撃犯、名乗り出る…87年阪神支局で発生
http://www.zakzak.co.jp/gei/200901/g2009012817_all.html
すでに時効、実名公表し詳細語る

 1987年5月、朝日新聞阪神支局に何者かが押し入り散弾銃を乱射、記者1人が死亡した「赤報隊事件」(時効)の実行犯を名乗る男が、29日発売の週刊新潮に実名で手記を寄せていることが分かった。今年1月、別件で4年間収監されていた網走刑務所を出所した男は昨年1年間、同誌と情報を交換。収監先の刑務所では、朝日新聞記者2人と特別面会もしていたという。

 記事によると、男は都内の元右翼構成員。誰もが知る“公的な組織に属する人物”から「朝日を狙ってくれ」と金で依頼され、「東京本社」「阪神支局」「名古屋本社寮」「静岡支局」の順に襲撃(静岡支局は爆破未遂)。当初言われていた怨恨や思想的背景はなく、記者1−2人を殺害することのみが目的だったという。

 また、一連の朝日新聞襲撃事件と同じ「警察庁指定116号事件」に後に指定された「リクルート会長江副浩正宅銃撃事件」、参考事件の「中曽根康弘元首相襲撃事件」には関与しておらず、「赤報隊」を名乗る犯行声明は後日、別人に書かせたものだという。

 阪神支局襲撃にはバイクを使用し、複数回の下見の後、関西系暴力団に所属する案内役兼運転手と、男の手下で見張り役らの複数で実行。事件から10年後の97年、見張り役の男が自殺したことから、真相を表に出したいという思いを強くした。

 2004年、刑務所収監時に朝日新聞東京本社や阪神支局に手紙を送付し、記者2人との特別面会が実現したが、刑務所の面会室で、記者の1人に高圧的かつ直接的に問いただされたことから面会は決裂。今回の独占手記につながったという。

ZAKZAK 2009/01/28

296とはずがたり:2009/03/01(日) 01:08:19

半世紀前の京都知事選「大連立」工作の証拠か 側近?のメモ見つかる
2009.2.28 01:37
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090228/lcl0902280143002-n1.htm

 高度経済成長期を中心に京都府で7期28年にわたって知事を務め、革新府政時代を築いた故蜷川虎三氏が知事室に残した資料から、蜷川氏3選時の昭和33年の知事選の前に書かれたとみられるメモが見つかった。本来、蜷川氏の対立軸となる自民党側の動向に関する記述で、支持基盤の社会党と自民党が手を組み、無投票3選をもくろんだことをうかがわせる内容。同年には「55年体制」後初の衆院選が行われており、中央で自社2大政党化が進む中、京都では「大連立」が工作されたことをしのばせる興味深い資料となっている。

 メモは、府立総合資料館(京都市左京区)が保管していた。「知事選」と鉛筆で書かれた茶封筒の中に、昭和33年の知事選のスクラップや政見放送時の原稿とともに入っていたという。

 同年4月に行われた知事選は、社会のほか自民からも初めて推薦を受けた蜷川氏が、共産公認、保守系の2候補と対決。70%近い得票率で圧勝した。

 B5判の原稿用紙4枚のメモは手書きで、推薦の構図が決まる少し前に書かれたとみられる。「高山市長より午後三時前に電話があり…」という書き出しで、蜷川氏の側近が「至急耳に入れておきたい件あり」として当時の高山義三・京都市長から呼び出され、伝えられた話を書きとどめ、蜷川氏に渡したとみられる。

 メモには「『社会党推薦』に対する態度は今暫(しばら)く保留して頂き、自、社の『共同推薦』の形ではなく『無選挙』の方向にもってゆきたく思う。又その可能性も高い」と記載。高山氏が、自民党が独自候補を立てない確約を得たことをにおわせる内容で、さらに「東京へは是非行ってほしい。中央との話は出来ている」とし、蜷川氏自ら自民党本部へ行くよう促すような記載もある。

 また、反蜷川派の自民関係者が独自候補の擁立に動かないよう、後に衆院議長となる前尾繁三郎氏のビッグネームを利用したことをうかがわせる記述も。知事選の対立候補として前尾氏の名前がうわさされることについて「泡沫候補を封ずる為の作戦に過ぎない」とし、「絶対出ない者(前尾氏)を看板にしていくのだ」と、周到な戦略ぶりをうかがわせている。

 また「四月解散間違いなし(中略)そのおつもりでやって頂きたい」という記述も。実際、知事選のわずか2週間後には岸信介政権下で「話し合い解散」が行われており、5月の衆院選で自社が全議席の97%を占め、2大政党化が進んだ。

 当時を知る共産党関係者は「高山氏が東京を訪れ、自民党本部から独自候補を擁立しないという確約を得ていたといううわさは当時からあった。それを裏付ける内容だ」と話している。

297とはずがたり:2009/03/23(月) 15:57:39
小説「大菩薩峠」から宮沢賢治,赤軍派迄。

大菩薩峠の歌
http://www.ihatov.cc/song/bosatsu.html

 中里介山の未完の小説「大菩薩峠」は、原稿用紙にすれば13,000枚にもなるかという記録的な長編で、「日本一長い小説」とも「世界一長い小説」とも言われます。

 その物語は、武蔵と甲斐の国境にある大菩薩峠の頂上で、机龍之助という一人の剣士が、通りかかった老巡礼を無惨に斬り捨てる場面から始まります。この「動機なき殺人」によって、龍之助は血と欲望にいろどられた終わりのない旅を彷徨う宿命を背負いました。
 時は幕末、その後の龍之助は京で新選組と大立ち回りを演じたり、天誅組の蜂起に加わって失明したりしますが、盲目になることで彼の「音無しの剣法」はますます冴えわたります。善や悪などという観念を超出していくヒーローの魔剣は、さらに多くの人々の血を浴びつづけていくのでした。…

 ここに広がる情景は、私たちがイメージする宮澤賢治の作品世界とは、よほど異質で対極的なものに感じられますから、彼がこの「大菩薩峠」の愛読者であったと聞くと、かなり意外な感じもします。しかし、賢治の初期短篇の中には、何となくこれと相通ずるような劇画調のタッチの作もあり、彼もどこかには、このような世界への親和性を持っていたのだろうと思います。
 何よりも、作者の中里介山は、仏教とりわけ田中智学の主導する国柱会の日蓮主義に強く傾倒していたと言われています。また田中の方も、この小説が世に出た当初、各所でこれを賞賛し推奨していました。したがって、ひと頃の賢治――田中智学に心酔し、文学によって国柱会に貢献しようと決意していた――にとっては、当然この小説は必読の文献だったに違いありません。

 それにしても、読んだ小説をもとに自分で詞と曲を作り、歌曲にして唄っていたというのは、賢治としてもこの物語によほど何かの思い入れがあったのでしょう。…

  さて時は変わって、机龍之助の時代から100年後、また「大菩薩峠事件」と呼ばれる出来事が起こります。
 全共闘運動が敗北した1960年代終わり、最も暴力的な路線をとっていた共産同赤軍派は、「前段階武装蜂起」のための軍事訓練をこの大菩薩峠で行っていました。内偵を進めていた警視庁と山梨県警は、彼らの集結していた山荘を包囲して、最高幹部ら53名を逮捕します。
 この後、追いつめられた赤軍派はますます武器への固執を強めて連合赤軍を結成し、やはり中部の山岳地帯において、組織内部の連続リンチ殺人から「あさま山荘事件」を経て、崩壊へと進んでいったのです。
 机龍之助にしても連合赤軍にしても、暴力に魅入られた人間が歩もうとする道筋は、私たちに強い印象を与えます。また両者のその「修羅」のような行状が、「菩薩」という名を冠した地点で繰り広げられるアイロニーは、何か仏教的な「業」を連想させずにはおきません。
 中里介山がこの小説を形容した言葉で言えば、これはまさに「カルマ曼荼羅」です。


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