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近現代史綜合スレ

367名無しさん:2010/03/10(水) 09:37:09
>>366
戦史叢書の事実改竄と瀬島の影
政府公刊の『戦史叢書 レイテ決戦』には、首を傾げざるを得ない部分が多すぎる。まず、瀬島龍三が、この1944年9月上旬から、病名なしに「重症で入院していた」とか、「病気欠勤していた」とか、真赤な嘘が書かれている。瀬島本人は、1990年の回想時では。「鬱病」と言っている。1995年時の回想では、「心身疲労症」と言っている。だが、瀬島には鬱病になる病質が全くないから、この嘘は瀬島が元気だったことを裏付けする証拠になっている。
「9月上旬帰京し報告を終えるや衰弱の身を横たえた、・・・同少佐は重症であった」
この件について、中川は調査をしている。事実は次のようであった。
先ず、山下奉文が第14方面軍司令官(発令は9月26日)としてマニラに赴任するにあたって、瀬島を同行させようとしたので、これを回避すべく、瀬島は9月10日頃から害のない薬(木庵注:漢字で「むがいのやくぶつ」は《記事に登録できない文字列》になる)を飲んだのか入院して重病説を流した。"世紀の仮病演技"である。この結果、朝枝繁春が瀬島に代わり選ばれ、山下に同道した(発令は9月28日)。
10月に入るやすぐ、瀬島は通常通り勤務した。だから、堀の電報握りつぶしを10月13日やってのけられた。本人は、「9月から11月末までずっと欠勤していたというが、そう証言する作戦課の同僚は一人もいない。実際には、瀬島は10月1日あたりから年末まで、レイテ島戦に関する様々な工作をしていた。元気であったが故にこの年末、厳寒のモスクワに外交伝書使(クーリエ)となって、2ヶ月近くも滞在できた(1944年12月25日〜45年2月11日)。モスクワでは、ソ連軍の満州侵攻の手引きと、その作戦づくりに参画していたのだろう。
クーリエは必ず二人一組なのに、このときの瀬島クーリエは一人で、前例がない。このクーリエを命令した秦彦三郎・参謀次長(および服部卓四郎)が、実はソ連と通牒して、陸軍省・外務省トップから、一人でも特に許すとの、特例の了解を全力をあげてとりつけたようだ。
松本秀満は、『戦史叢書』の担当官であるが、彼が瀬島から高額の報酬を受けたかどうかはわからないが、不的確の人物であったことは間違いない。ところで中川は、瀬島から5百万円単位で金を受け取っている身近な例をいくつも知っていると書いている。中には2千万円のもいたという。
瀬島龍三は開戦時の1941年の時はむろん、戦時中はずっとソ連のGRUに所属し、シベリア時代ではNKGBに、1956年8月シベリアから帰還する直前にKGB第一総局付きの高級工作員になったようである。1979年、米国に亡命したレフチェンコKGB中佐が、米国議会で証言したコード名「クラスノフ」とは、瀬島龍三のことである。
瀬島は11年間のシベリア抑留時代のうち、1948〜50年の約一年半、モンゴルのウランバートルにあった、(偽装看板は一般収容所名の)高級工作員養成所で訓練を受けている。このときの教官の一人に、1954年、東京で米国に亡命した、ラストボロフNKGB中佐がいる。瀬島は、転々としたシベリア抑留時代の収容所名のすべてを明かさない。この高級工作員養成所に入所していたのが判別されないようにする、用心深さからである。
ラストボロフは、自分の教えた教室には11名の元・エリート日本陸軍将校がおり、その中に瀬島がいた旨を米国で証言している。在日のCIAオフィサーは、瀬島が1956年8月にシベリアから帰国直後、下船した舞鶴港にそのまま一週間ほど、「日本の官憲に依頼し」拘禁し尋問した。さらに瀬島が陸上自衛隊に入らぬよう、直ちに防衛庁その他に働きかけをした。米国の断固たる、この瀬島対策の根拠の一つは、ラストボロフ証言だった。
瀬島は、やむなく伊藤忠(商社)に入社したが、世間の眼は「ソ連のスパイ」であり、これを軟化させる一計を案じた。山崎豊子の所にいって自分を売り込む小説の主人公にしてもらうことであった。それが「サンデー毎日」に連載され(1973〜8年)、『不毛地帯』となった。そして、この小説の主人公「壹岐正』を通じて、瀬島はイメージを劇的に好転させるのに成功した、数多くの事実の歪曲や隠蔽にも成功した、瀬島の情報戦はかくも天才級で、スパイと名指しされながら、出世と栄誉の中で長命の人生を終えた。


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