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近現代史綜合スレ

323荷主研究者:2009/12/14(月) 00:36:26

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091208101.htm
2009年12月8日03時36分 北國新聞
小松の石切場に弾薬庫 大戦末期に使用

今も残る石切場の入口。大戦末期に火薬などが貯蔵されていた=小松市里川町

 太平洋戦争の開戦から8日で68年。小松市北東部の石切場が第2次世界大戦末期、弾薬や航空燃料などの貯蔵庫に利用されていた。旧海軍の下士官で管理していた西川清則さん(85)=同市安宅町=ら複数の地元関係者が証言した。軍需物資の保管場所という機密情報の一端が明らかになった。

 石川県立歴史博物館によると、旧日本軍は大戦末期、主に空襲を避けるため鉱山跡や石切場を地下軍事工場や弾薬庫として多用しており、県内でも金沢市額谷や小松市遊泉寺町など5カ所で確認されているという。

 西川さんによると、1945(昭和20)年7月に小松市立明寺町や鵜川町に赴任した際、石切場と倉庫数棟にドラム缶約500本の航空燃料やメチルアルコール、海軍の制服や缶詰、鍋などが大量に保管されていた。ドラム缶は46年2月ごろ、県などに引き渡したという。

 同市鵜川町の谷山喜二郎さん(86)は44年夏に倉庫の建設を開始、終戦後にドラム缶が運び出されるのを目撃した。旧海軍小松飛行場の滑走路は44年7月に完成しており、小松飛行場向けの物資だったとみられる。

 西川さんは終戦後、上官から「約1・5キロ北にある里川町の石切場に弾薬が保管されていたが、七尾に運ばれ、海中に捨てた」と聞いた。45年10月ごろ、米兵6人が弾薬を捜索に来たが、西川さんは地上に点々と残る黄色い火薬を指して「どこかに運ばれ、もうない」と告げたという。

 同市里川町の川本正芳さん(81)は44年、石切場に火薬を運び込む軍人を見たという。火薬は50〜60キロ入る木製の箱に納められており、川本さんは「全部で数十トンあったかもしれない」と話す。別の住民は「50年ごろ、海軍関係者の宿舎だった建物に直径25センチ、長さ70センチほどの砲弾があった」と証言。子どもが砲弾を持って落としたが、爆発しなかったという。

 西川さんは戦犯になることを恐れ、家族以外に戦時中のことは伏せてきた。しかし戦争経験者が減っているため広く伝える決意をしたという西川さんは「戦争を起こさないように当時のことを伝えていきたい」と話した。


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