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近現代史綜合スレ

313小説吉田学校読者:2009/08/09(日) 00:59:52
インパール作戦は何のためだったのか。私も現代史の本は結構読んでるつもりだが、本当に何のためだったのか。

語り継ぐ夏:09京都/2 インパール作戦に従軍した桑原眞一さん /京都
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20090807ddlk26040537000c.html

◇戦友慰霊が役目、鎮魂の五条通復元図作り−−桑原眞一さん(87)=下京区
 「目の前で多くの仲間が倒れた。目玉が飛び出たり、腕を失ったり。即死もしょっちゅうだった。それでも怖いとか可哀そうとか考える余裕はなかった」。ずさんな計画で約7万人もの戦死・傷病者を出し、日本陸軍瓦解の発端とも言われるインパール作戦に従軍。何度も死線を越えた。
 赤紙が届いたのは大学在学中の1941年12月。入隊後、大隊砲を任された。中国・南京西方で揚子江沿いの警備を約1年務め、ベトナム、カンボジア、タイへと転戦。中国への補給ルートを断つため、数カ月の行軍を経て44年2月末、インド北東部のインパールに着いた。
 ここで、小銃隊はそれぞれ通常の2倍を超える20日分の米や乾パンなど食料と弾薬360発を持たされ、英印軍掃討のため、山間部の移動を繰り返した。戦況は泥沼。5月末には大隊砲の弾薬が尽き、戦闘だけでなく、飢えやマラリアで仲間がばたばた倒れた。
 「時には敵と鉢合わせになり、手投げ弾でやり合った。迫撃砲がすぐそばの樹木に当たって爆発し、仲間が吹き飛ばされたこともある。毎日夕方の点呼の度、戦友が一人、また一人と減っていった」。自身もその後、イラワジ川会戦で迫撃砲の破片が左腰部分を直撃。命に別条なかったのが不思議なくらいだという。
 そして、タイのノンプラドクで45年8月15日を迎えた。連隊長が停戦を命じ「次の命令があるから兵器を手入れしておくこと」と指示。すぐに敗戦のうわさが広がった。同月30日「敵に取られるよりはまし」と軍旗を「奉焼」した時、はっきり負けを悟った。全員ボロボロ泣いた。
 それから約10カ月、英印軍の捕虜としてタイの兵舎で過ごし、46年6月に復員した。生まれ育った下京区の五条通かいわいでは「建物疎開」があり、空襲の延焼を防ぐため、以前の自宅は強制的に取り壊されていた。
 多くの戦友の死を看(み)取った戦場から帰ってみれば、同じ小学校区から出征した同部隊の10人の中で生き残ったのは自分1人。仲間たちの死に対し、何もできないことを悔やんできたが、地元で07年8月に始まった五条通の復元図作りに加わり、少し当時を振り返る心の余裕ができた。
 「通りを歩くと、どうしても昔を思い出す。戦友を慰霊することが生きて帰った自分の役目。地図を作ることで戦友らをしのぶ気持ちもあったんです」
 その“成果”は9日まで立命館大学国際平和ミュージアム(北区)で展示されている。


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