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近現代史綜合スレ

324荷主研究者:2009/12/14(月) 00:55:40

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091212102.htm
2009年12月12日03時52分 北國新聞
「異才」米山保三郎 漱石に文学勧め、子規に哲学断念させる

 ドラマ化で再び脚光を浴びている司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」に、金沢出身の米山保三郎(やすさぶろう)なる人物が登場する。夏目漱石に作家の道を勧めたり、正岡子規は保三郎と出会ったことで哲学の道を断念したという。近代文学史に名を残す2人が、若き日に影響を受けた「異才」の実像を追うと、加賀藩の「算盤(そろばん)侍」の血脈が浮かび上がった。(本江亜珠佳)

 訪れた金沢ふるさと偉人館で松田章一館長が膨大な資料とともに待っていてくれた。松田館長も今年初めから保三郎を調べていたという。金大教授も務めた大久保純一郎氏の「漱石とその思想」が詳しいと聞き、目を通す。驚くべき逸話が詳しく記されていた。

 明治20年代、漱石、子規、保三郎は第一高等中学校(のちの旧制第一高等学校)で机を並べた。建築家を志していた漱石に対し、保三郎は「文学をやれ、文学なら勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作も出来るじゃないか」と説いたという。後に漱石はこの助言に深い感謝の念を示している。

 保三郎は名作「吾輩は猫である」にも「天然居士(こじ)」として登場。漱石が「またとあるまじき大怪物」と評した手紙も残り、漱石研究者の間では名が通っているのだとか。

 子規も、数理、哲理に長(た)けた保三郎との出会いに「四度驚かされた」と回想している。その衝撃は、子規が翌日の野球の試合に出場する元気を失わせるほどだったという。子規は哲学の道をあきらめ、国文科へ進んでいる。

 「日本近代文学の波を変えた2人の青年の曲がり角に、保三郎は立っていたんです」。松田館長の口調は熱い。同郷として誇らしい気分になってきた。

 こうなると気になるのは保三郎の出生だ。1869(明治2)年、金沢の旧本馬町(現野町2丁目)に生まれた。父は加賀藩の財政に携わった算用者。映画製作の進む磯田道史氏のベストセラー「武士の家計簿」で描かれた猪山家と同じ「算盤侍」だったのだ。

 その血を受け継いだ保三郎は、東京帝大で哲学を学び、大学院では空間論を研究した。29歳で早世したが「長く生きていれば、西田幾多郎以上の哲学者になったかもしれない。何より、加賀藩の学力がいかに優れていたかを示している」と松田館長は指摘する。

 保三郎との出会いがなかったら、漱石、子規はどんな道を歩み、近代日本文学はどうなっていたのか。郷土が生んだ「明治の群像」の1人として、保三郎の存在がすごく大きく見えた。

●夏目漱石(なつめそうせき)1867年東京生まれ。本名・金之助。1905年「吾輩は猫である」の連載を開始、06年「坊っちゃん」を発表。「三四郎」「こころ」など数々の名作を残した。「明暗」連載中の16年死去。

●正岡子規(まさおかしき)明治期を代表する俳人・歌人。1867年、現在の松山市生まれ。俳句雑誌「ホトトギス」などを通じて近代俳句を提唱し、短歌改革や写生文による文章革新運動など大きな足跡を残した。1902年死去。


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