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近世日本史スレ

1■とはずがたり:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。

88小説吉田学校読者(ムチ打ち静養中):2006/10/22(日) 10:55:49
いやあ、伊達家のお家騒動、いいですねえ。次の会の名前は「原田会」になるそうです。

wikiを見たら、こんな記述があったので、戦国時代に詳しいとは氏初めとして、解説願いたい。隆慶一郎おらせば、影武者徳川家康並みの大傑作が出来たはずだ。

上杉謙信女性説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1#.E4.B8.8A.E6.9D.89.E8.AC.99.E4.BF.A1.E5.A5.B3.E6.80.A7.E8.AA.AC

89とはずがたり:2006/10/22(日) 11:04:51
歴史は好きですけど戦国武将には余り詳しくないのれす・・初めて知りました
へぇ女性説かぁ〜。

90今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/10/22(日) 12:55:33
>>88
亡父が持ってた「男が死ぬ時」というトンでも的な歴史人物録小説にも
謙信が村上義清を支援して川中島に出兵したのは謙信の恋心からという
話がありました(笑)

91とはずがたり:2006/10/29(日) 08:03:20
駄洒落っすか(笑)>原田会>>88
18代当主とかいてホムペも持ってるみたいですが何をやってる人なのか?

仙台藩志会問題 現会長の再任決定 体制維持派が臨時総会
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2006/10/20061029t13021.htm

 仙台藩士の子孫らでつくる「仙台藩志会」が会長人事で内部対立している問題で、体制維持を主張する「会長派」は28日、臨時総会を開き、伊達篤郎会長(95)の再任を決めた。人事刷新を求める「執行部派」は、既に新会長を選出している。両グループは対立したまま、それぞれが「藩志会」を名乗って活動することになった。

 会長派の臨時総会には会員237人のうち、委任状を含め45人が出席。選挙の結果、伊達会長を再任する人事案は32人が賛成し、可決された。
 伊達会長は体調不良を理由に欠席したが、メッセージが読み上げられた。25日に新会長を選出した「執行部派」を「名誉職獲得のために、エネルギーを邪道に使っており、困惑している」と批判した。

 臨時総会には、藩志会総裁で伊達家18代当主の伊達泰宗http://datemasamune.com/氏(47)が出席した。出席者から分裂騒動への所感を求められたが、「経過をよく知らない」とだけ述べ、5分で退席した。

 泰宗氏は執行部派の総会にも出席した。会員からは「当主が仲裁に入らなければ、藩志会の再生はあり得ない」との意見もあった。
 執行部派は、副会長だった古内重義氏(75)を会長に擁した。伊達会長の再任について執行部派役員は「向こうは向こう。関係はない」と話している。

2006年10月28日土曜日

92小説吉田学校読者(ムチ打ち静養中):2006/10/29(日) 08:18:30
>>90
隆慶一郎おらせば、「家康影武者説」みたいなトンデモ論だって、痛快な伝奇小説になるのでありますから、出でよ第2の隆慶一郎。

>>91
>名誉職獲得のために、エネルギーを邪道に使っており、困惑している

あんたらもそうじゃないかと・・・隣の県の本間様は、未だにすっごい土地を持っているけど、こんな話を聞かないのであります。

93今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/10/29(日) 08:36:34
酒田市の本間美術館(10代のときにいったなあ)
は本間氏私有でしたっけ

94とはずがたり:2006/10/30(月) 00:59:40
【家康→水戸徳川→会津松平→徳川宗家・福島県知事とか】

家康(徳川宗家①)─頼房(水戸徳川①)┐
┌────────────────┘
├頼重─綱条(水戸徳川③)
└光圀(水戸徳川②)─頼常(高松松平)─頼豊─宗堯(水戸徳川④)─宗翰(水戸徳川⑤)─治保(水戸徳川⑥)┐
┌──────────────────────────────────────────────┘
├治紀(水戸徳川⑦)──┬斉脩(水戸徳川⑧)
└義和(美濃高須松平)┐└斉昭(水戸徳川⑨)
┌─────────┘
├義建(美濃高須松平)
├容敬(会津松平)───┐
└胤昌(近江三上藩遠藤)|
┌──────────┘
├慶勝(尾張徳川)
├武成(浜田藩越智松平)
├茂栄(高須松平(義比)→尾張徳川(茂徳)→一橋徳川(茂栄))
├容保(会津松平)───┐
├定敬(桑名藩久松松平)|
└義勇(高須松平)___|
┌──────────┘
├容大(子爵)
├健雄(伊佐須美神社宮司)─勇雄(福島県知事)
└恒雄(初代参院議長)─一郎(東京銀行)┐
┌─────────────────┘
├恒忠(日本英語交流連盟専務理事)
├恒孝(徳川宗家⑱)─家広(翻訳家)
└恒和(早稲田大学客員教授)

95とはずがたり:2006/11/25(土) 15:48:53
大田南畝・蜀山人
http://www.edoshoga.jp/nanpo.html

蜀山先生 狂歌百人一首 (蛇足解説付)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kyouka100i.html

真面目に働く幕府の下級役人としての顔の一方狂歌詠みとして軽やかに江戸文化を駆け抜けた南畝先生を見習いたいっすねぇ〜。

96片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/11/25(土) 17:06:25
>>95
私も蜀山人先生は好きです。愛読者とはいえないですけど・・・。
これも中学時代に丸谷才一さんの本で知りました。

わが庵はみやこの辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治 という歌が印象に残っています。

中学生の頃は、流行ってる楽曲を替え歌して遊んだものですが、最近は頓とやりません。

97とはずがたり:2006/11/26(日) 13:11:35
へぇ中学生の頃から知ってるとは凄いですねぇ。
俺は日本史での知識ぐらいで殆ど接したことは無かったんですけど,古典でも江戸時代ぐらいのものだと,感覚というか言葉の使い方というかが結構現代とじかに繋がっている感じがして非常に面白いです。

98とはずがたり:2006/12/08(金) 21:23:21
急いで史跡の指定でもして保存を義務付けなきゃあかんやろ。

庭園競売、京都市が「待った」 郵政公社に保存要望
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061208-00000030-kyt-l26

 日本郵政公社の京都貯金事務センター跡地(京都市北区・上京区)売却計画に対し、京都市が跡地内にある江戸時代初期の日本庭園「擁翠園(ようすいえん)」を保存するよう要望し「待った」をかけた状態にあることが8日分かった。
 庭園は市指定文化財に相当する価値があるとして、市は「売るにしても庭園の保存を条件に付けてほしい」と求めているが、公社側は遊休資産とみて近く競売することを決め「保存を条件にはできない」と突っぱねている。
 庭園は北区長乗西町と上京区岩栖院町にまたがる同事務センターの敷地(約1万平方メートル)の半分以上を占め、著名な金工師・後藤長乗(1562−1616年)の邸宅に築かれたといわれる。池泉回遊式庭園で、1999年には上京区の「史跡百選」にも選ばれた。
 戦後間もなく旧郵政省が土地を購入、貯金事務センターとして使ってきたが、業務効率化の一環で2005年12月に廃止された。今年8月、公社が市に文化財的価値の調査を依頼した。
 市文化財保護課が調べたところ、後藤家を中心とする金工師たちが住んだ地域を唯一残す遺構で、庭園の改変に関する図面や資料も数多く残っている貴重な文化財であることが判明した。
 同公社近畿ネットワークセンターは「売却は決定済みで、庭園保存の条件は付けられない」と譲らず、14日に競売説明会を開き、25日に入札を実施する予定。「入札参加者に貴重さを説明するが、庭園は指定文化財ではない。これまで競売で極端な制限はかけておらず、条件を付ければ売却価格が下がる要因にもなる」としている。
 市文化財保護課は「学術的に貴重で、先人の残した財産を後世に伝えていく必要がある。保存条件を付けなければ残る可能性は薄い。公社は社会的使命を果たしてほしい」と再考を求めている。
 【擁翠園】 室町時代以来の彫金家で、桃山時代以降は金座として大判鋳造を営んだ後藤家の旧領。管領細川満元が住んだ岩栖院旧趾でもある。金工で有名な後藤長乗が徳川家より譲り受け、江戸時代初期に築いたという。
(京都新聞) - 12月8日16時7分更新

99とはずがたり:2006/12/19(火) 16:44:43
公卿の内々と外様を調べてる時に引っかかったホムペたち

天皇公卿の制度と事件
http://www.0105.jp/~mizuki/tennoukughounoseido3.html
江戸大名公卿net
http://www1.parkcity.ne.jp/sito/

21 遠藤珠紀 卑姓にも五分の魂!?下っ端役人魂見せてやります!
「官務家・局務家の分立と官司請負制」
http://fehd.view21.net/~junhe/ronbun4.htm
歴史部
http://fehd.view21.net/~junhe/rekisibu.htm
駄事類苑
http://fehd.view21.net/~junhe/index.htm

公卿類別譜
http://www.geocities.jp/okugesan_com/urinke.html

100荷主研究者:2006/12/31(日) 16:50:46

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20061014/20061014_001.shtml
2006/10/14付 西日本新聞朝刊
動力水車の排水路? 遺構確認 大砲製造“秘密工場”か 「鍋島藩内密に」の指摘も

河川改修工事に伴う発掘調査で見つかった地下水車の排水路とみられる遺跡

 武雄市教委は13日、河川改修工事に伴う発掘調査を続ける同市武内町真手野の土中で、江戸時代末期に佐賀・鍋島藩武雄領で行われたとされる洋式大砲製造の際、旋盤加工の動力源となった地下水車の排水路とみられる遺構を確認した。当時、大砲製造には徳川幕府の許可が必要で、鍋島藩の“秘密地下工場”が付近にあったことを示す遺構として注目を集めそうだ。

 遺構は地表から約3メートルの土中で発見された。幅95センチ、深さ6‐8メートルで、石材で囲った排水路が約10メートル続いていた。

 発掘現場周辺は、古老らの言い伝えで、火薬原料の硝石を粉末化する石臼を回す水車があったとされてきた。1974年には農地整備の工事で地表から1.6メートルの土中で取水路跡が見つかっており、地下に水車を設けて動力源にしていた可能性が指摘されていた。

 すでに、鍋島家が武雄市に寄贈した古文書などから、武雄領では水車を利用した大砲の旋盤作業が行われていたことが判明。市教委は、幕府に内密で大砲を造るため、長崎街道から離れた武内町の地下に“秘密工場”を設けた可能性があるとみている。

 同市教委文化財係の原田保則係長は「遺構は形状などから地下水車の排水路跡とみられるが、今後、整備の年代などを分析し、武雄における大砲製造の全容を解明したい」と話している。

101ぽんこ:2007/01/26(金) 00:20:15
江戸の古地図が面白いです。
http://map.yahoo.co.jp/kochizu/maptop

102とはずがたり:2007/01/26(金) 01:24:58
>>101
すげぇ!!
東京だけなのとOperaで見ようとするとエラーが出て見れないのが残念だけど。。

104片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/15(木) 15:21:38
古文書:宇土細川家が市に寄贈の1400点、4月から一般公開 /熊本
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kumamoto/news/20070215ddlk43040474000c.html

 ◇6代目興文の絵や和歌も

 宇土市教委は肥後細川藩の支藩、宇土細川家の子孫から寄贈された古文書約1400点を4月から市立図書館郷土資料室で一般公開する。多くは江戸時代中期から後期にかけての6代目当主、細川興文(おきのり)に関する史料。政治に関するものだけでなく、趣味で描いた絵も多い。【谷本仁美】

 関東に住む子孫が昨年10月、市に寄贈した。段ボール5箱分の量で市にこれだけ大量の古文書が寄贈されたのは初めて。虫食いもほとんどなく、保存状態も良い。

 史料は縁側のたばこ盆から落ちた灰をカエルが興味深そうに眺めている絵や茶室の設計図まであり、多彩な趣味をうかがわせる。また、興文が隠居名を「月翁」と名乗ることを書いた文書には「今日よりは世の浮雲をもれ出て さやけき月の翁とぞなる」と自ら詠んだ和歌を添え、心情を表している。

 3月末の完成を目指して編さん中の市史通史編2巻も、今回寄贈された史料の一部を基にまとめている。

 市文化振興課は「今後は体系的に分類し、市民や研究者に使ってもらえるようにしたい」と研究が進むことを期待。市史執筆委員の一人、根本なつめさんも「史料が散逸しており、これだけまとまって寄贈していただいたのはうれしい。宇土のものは地元にある方が役に立つ」と喜んでいた。

毎日新聞 2007年2月15日

105杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2007/03/04(日) 01:31:10
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/­feature/kibe_187/list(061212).pdf 見てみたけど、いたいけな子供までも血祭りに挙げられてるやんけ。・゚・(ノД`)・゚・。ウワァァン

17世紀の日本人殉教者188人が聖人に次ぐ「福者」に
http://www.asahi.com/international/update/0303/020.html
2007年03月03日23時51分

 在バチカンの外交筋によると、法王庁列聖省の枢機卿会議はこのほど17世紀前半の日本人188人の殉教者を「福者」とすることを了承した。最終的には4月の復活祭の前後にローマ法王ベネディクト16世が裁可を下し、正式決定すると見られる。カトリックでは福者は聖人に次ぐ尊崇の対象。188人は激烈なキリシタン弾圧が行われた江戸時代初期の全国の殉教者で、一般信徒がほとんど。女性や子供も多い。

 枢機卿会議は法王裁可までの最後の関門で、2月6日に開かれた。

 188人は日本カトリック司教協議会が81年の前法王ヨハネ・パウロ2世の長崎訪問を機に全国の16教区で調査を始め、96年法王庁に申請した。一般信徒の史料を集めるのに時間を要した上、バチカンでは極めて慎重に審査が行われるため、実現までに四半世紀かかることになった。

 日本では1862年と1987年に計42人が聖人に、1867年に205人が福者とされているが、日本で殉教した外国人司祭のほか、圧倒的に男性の指導的な信徒が多かった。今回の188人中司祭は4人だけで、女性が3分の1を占める。

 いずれも1603〜1639年と江戸幕府成立から鎖国体制の確立に至る時期の信徒で、殉教の地もさまざまだ。

 最も多い山形県米沢市の53人と京都市の52人はそれぞれ同じ日にいっせいに処刑され、一家で殉教したケースがほとんど。

 リストには、天正遣欧使節の一人として法王グレゴリオ13世に謁見(えっけん)した中浦ジュリアン(1568ごろ〜1633)や、ローマへ渡ってイエズス会の司祭となった後に日本に帰国し、江戸で拷問死したペトロ岐部(1587〜1639)が含まれている。ペトロの生涯は遠藤周作が小説「銃と十字架」で取り上げた。

 福者には殉教者のほか、信仰生活の模範を示したとされる信者らも「奇跡を起こした証明」があれば選ばれる。インドのコルカタ(カルカッタ)で貧しい人の救済に尽くしたマザー・テレサも死後、列福された。

106やおよろず:2007/04/20(金) 06:33:13
「美しい日本の粋」募集 各地の伝統や自然

http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070419/ssk070419003.htm

 塩崎恭久官房長官は19日の記者会見で、安倍晋三首相が掲げる「美しい国づくり」の国民運動化の一環として、各地の伝統や自然などを「美しい日本の粋(すい)」として募集すると発表した。「日本らしさ」や「日本ならでは」のものを募り、結果を今後の施策に生かす。募集期間は20日から6月22日まで。美しい国づくりプロジェクト公式ホームページ(http://www.kantei.go.jp/be-nippon)などで受け付ける。


============

 粋(すい)かよ、粋(いき)かと思った。

107小説吉田学校読者:2007/04/20(金) 07:04:47
>>106
この動き、私は「総論賛成、各論反対」を取ります。
これ、ただの「名産品紹介」「名勝紹介」に堕ちる可能性大ですよ。国土交通省の「観光立国」と変わりないじゃないか。
とはいえ、こういうもの大好きの私としては、「神保町の古本街」とか「スパゲティナポリタン」とか「早川書房」とかを推したい。

108小説吉田学校読者:2007/04/20(金) 21:50:17
安倍総理、美しい国「へ」と、題した本を著すくらいなのだから、「この国は、今は美しくない」という現状認識を持っているんだと思っていました。
それに「美しくないが愛おしい」という感情を持っている人だって、たくさんいるでしょう。
なんかヤな感じ。小役人の得点稼ぎのニオイがぷんぷんする。

なお、この国の美しさは、ヘンリー・スレッサーもジェイムズ・ヤッフェもamazonで買えてしまう翻訳(和訳)文学の成熟度を、推奨する。名訳家とは、原文そのままではなく、「シミシュン(清水俊二)節」みたいのを言うのだ。と、キレのないまとめ方でいいでしょうか?>片言丸氏

美しい国:安倍政権、精神面の大合唱 HPで一般募集も
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070421k0000m010064000c.html

 保守主義を掲げる安倍政権が、国民の精神面に働きかける取り組みを強めている。首相直属の教育再生会議が道徳の教科化や「親学(おやがく)」の創設を提唱し、20日から首相官邸のホームページで「日本の何が美しいのか」を一般から募集するイベントも始めた。
 首相は就任以来、「美しい国、日本」を繰り返し、「美しい国づくり企画会議」も作った。募集はこの会議が行い、「普遍的な価値のあるものを見つけ伝えていく」(企画会議事務局)という。
 ただ、同会議で座長代理を務める山内昌之・東大大学院教授は、注意すべき点として19日付の内閣メールマガジンで「美しい国づくりが内向きの発信にならないこと」を挙げ、「自己中心的にならずに平和な国づくりとしても努力しなくてはならない」と自己陶酔に陥るのを戒めた。
 各省庁も「美しさ」のオンパレードだ。農水省は2月「美しい森林づくり推進国民運動」を提唱し、環境省は6月に策定する環境立国戦略の基本理念に「美しい国づくり」を盛り込む。
 一方、教育再生会議は今月17日、第2分科会(規範意識)が、親にあるべき姿を教える「親学」を提起。同会議は道徳を教科にすることでも一致しており、5月にまとめる2次報告に盛り込む方向だ。教科になれば、いずれ道徳面での評価が行われる可能性もある。
 「美しい国」の合唱に関して、首相に近い八木秀次・高崎経済大教授は「国民一人一人が日本をもっと良くするための精神的な運動をやろうということじゃないか」と指摘、「国家の根幹、国民意識の基本にかかわる問題について、政府として取り組み始めたということだろう」と話した。
 これに対し、近現代史に詳しい作家の保阪正康氏は「美しい国という抽象的な言葉を政治目標に据えるのは、皇国や臣民というあいまいな言葉を多用して政治を揺さぶった昭和初期の軍人を想起させる」と懸念を語った。

109美しい日本の「やおよろず」:2007/04/20(金) 22:13:17
>>107

 何十万人の来客でにぎわう「祭り」と、集落の連中が半ば強制参加の近所の神社の「祭り」の違いですかね?

 自給的と商品的とでもいうべきか・・・ちょっと、うまい話が出てきませんが

 やお的には、美しい日本の粋として「地蔵に手を合わせる老婆」を推しておきます

110片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/04/20(金) 22:27:50
>>108
やばいなー。そこの分野は吉田学校さんに叶わん。。。
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』第14章「太陽神の牛」を丸谷才一が古事記から荷風・谷崎・石川淳の文体を模して翻訳。中学生で読破は無理でしたー。

自民党のほうでも美しい国に関する作文を募集していて、応募したら入選する気がする。・・・って今日までかよ。
昔、ネットが普及してなかったころ、あるアンケートか何かに答えて自民党の象(エレファント)のマークが入ったポロシャツもろた。恥ずかしくて一度も着てないですけど。
中学生だか高校生だかに自民党から小包が来ていて親はやや驚いていた。

個人的には、道徳が高校入試の科目に入ってればよかったかもしれない。国語のマイナーチェンジ的な頭脳展開で答えられるからだ。
わりと小学生のころは素直に道徳受けてた気もするが、基本的に退屈だった気がする。採点がないとつまらない。

結論としては、「美しい国」を政治のキャッチフレーズにするのは言語感覚的にどうかと思うが・・・。
美しい国ってどんな国、ってアイデア大募集するんだからかわいくてまだいいのかもしれんが・・・。

小学生のころ、学校の庭のチューリップに墨を塗って怒られたのを思い出した。
赤白黄色、があるならば、黒いチューリップというのも美しいのではないかとそのときは思っていて、怒られたのが意外でショックだった。
花も生きてる云々かわいそう云々言われたが、私に言わせればそういう問題ではなかったのだ。
あれで、感性が伸びる芽を摘まれたと本当に思ってる。
そうやって美しさを自分なりに追及させてくれる、そんな教育なら美しいと言おう。

113とはずがたり:2008/06/04(水) 15:11:25
wikiに拠ると木斛(モッコク)は、ツバキ科の常緑喬木。江戸五木の一つ…だそうな。

約400年ぶり、「モッコク」が仙台へ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyagi/news/20080604-OYT8T00010.htm

政宗公ゆかりのモッコクの苗木が、野草園の職員の手で、丁寧に植樹された 桃山時代、伊達政宗公が豊臣秀吉から土地を与えられて住んだ、京都の伏見上屋敷には、政宗公自ら植えたとされるツバキ科の常緑樹モッコクの木が生えていた。屋敷がなくなってからも京都の地で大切に育てられてきたが、その苗木が仙台市に寄贈され、約400年ぶりに郷里の地に根を下ろした。

 苗木の贈り主は、政宗公の伏見上屋敷の跡地に1700年代に建てられた海寶寺(かいほうじ)(京都市伏見区)の前住職、荒木正啓さん(75)。現在の本堂前にそびえる高さ約6メートルのモッコクの木は、1626年から400年近く、青々と茂ってきた。荒木さんは大切に手入れしてきたが、時の移ろいとともに徐々に樹勢が衰えていった。5年ほど前には、ついに木の3分の2が枯れてしまった。

 「なんとかして保存したい」と、荒木さんは2005年、岡山県にある森林総合研究所関西育種場に、モッコクの木の再生を依頼した。研究所では、「挿し木」という手法を使った。新芽を土に挿し、モッコクの“クローン”を作り、芽吹いた苗木を育てた。今年3月、再生された20本の苗木が海寶寺に戻された。

 荒木さんは、「海寶寺だけでなく、政宗公ゆかりの仙台でも、育ててもらいたい」と、仙台市に話を持ちかけ、20本のうち8本を、寄贈することにした。

 仙台市は、贈られたモッコクの苗木を野草園(太白区)と農業園芸センター(若林区)で育てている。大きく育てて、3年後をめどに、瑞鳳殿(ずいほうでん)など政宗公ゆかりの地に植え替えることを計画している。

 野草園は、育てている4本のモッコクの苗木のうち1本を先月30日、園内に植樹し、一般公開を始めた。苗木は、まだ高さ20センチと小ぶりだが、順調に生育している。

 モッコクは、6月から7月に、小さな白い花を咲かせる。花からは、甘い香りが漂う。秋には、サクランボほどの大きさの実を付けるという。政宗公お手植えの木が咲かせる花の香りが、約400年の時を超えて楽しめるまでには、まだ数年かかるそうだ。

(2008年6月4日 読売新聞)

114とはずがたり:2008/07/29(火) 21:08:24
2年程前の記事だが。

古文書:遠野は10番目の領地 「拾戸」示す−−遠野城下町資料館で公開 /岩手
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060729-00000102-mailo-l03

 ◇遠野南部家が模写本を寄贈
 盛岡藩祖の南部利直(三戸)が1627(寛永4)年、八戸から遠野への所替えを命じた根城南部22代直義に交付した遠野領地の集落別穀物生産高目録の模写本が、遠野南部家から遠野市に寄贈された。「拾戸(とおのへ)遠野村」との記載があり、南部利直が遠野を10番目の「戸」(領地)と見ていたことなど興味深い事実がうかがわれる。同市立遠野城下町資料館(同市中央通り)が28日から公開を始めた。
 東京都府中市の東郷寺住職で、遠野南部家37代当主、南部光徹さんが「遠野市と宮守村の合併を記念して」と寄贈した。元東京大史料編纂(へんさん)所技官の宮本尚彦さんが手作業で和紙に本物そっくりに模写した。
 模写本は縦約35センチ、横約183センチ。「拾戸遠野村付之目録」と題し、遠野領内51集落と佐比内(紫波)など飛び地領11集落の米や雑穀の生産高を記している。領内で最も多いのが綾織村の1082石4合で、領内外で計1万2497石8升8合としている。
 「拾戸」については言われとしてあったが、文書で確認されたのは初めて。遠野の名称は室町時代までさかのぼれるため、南部利直はあえて「拾戸」と当て字することで10番目の領地を強調したかったと思われる。
 同博物館学芸員の前川さおりさん(36)は「直義が遠野に入った5日後に交付されており、家臣団の禄の配分用に使われたのではないか。遠野南部家統治の始まりを告げる貴重な史料だ」と注目している。【鬼山親芳】

(2006年)7月29日朝刊
(毎日新聞) - 7月29日13時4分更新

115石垣眞人:2008/07/30(水) 14:43:53
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

116とはずがたり:2008/10/12(日) 19:56:16

“篤姫日記”見つかる 薩摩藩士つづった嫁入り道中
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008092790134814.html?ref=rank
2008年9月27日 13時50分

 NHK大河ドラマ「篤姫」で話題を集める天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が徳川十三代将軍家定の正室となるために薩摩から江戸に向かった道中や、薩摩藩の姫たちの動静を詳細に記述した藩士の日記などが見つかった。

 江戸の薩摩藩邸にあった日記類は、幕末の焼き打ち事件でほとんどが焼失しており、記録として極めて貴重。当時は女性についての記録も少なく、幕末史と女性史の空白を埋める重要な史料といえる。読解が進めば、篤姫の実像に迫ることができそうだ。

 群馬県高崎市の古書店「名雲書店」の名雲純一さんが今年、東京都内で入手。山本博文東大史料編纂(へんさん)所教授が鑑定した。

 日記を残したのは、薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の側(そば)役として、篤姫らの護衛や世話などをしていたとみられる仙波市左衛門(せんばいちざえもん)。妹は斉彬の指示で篤姫の女中として仕え、娘も女中となった。

 発見されたのは、一八五〇(嘉永三)−六二(文久二)年の断続的な日記六冊と、仙波家の由緒、市左衛門の業績書類の計八冊。それぞれ縦約十五センチ、横約二十センチの和紙に毛筆で書かれ、計約二千ページあった。

 「浦の藻屑」と題された日記や薩摩と江戸との間の道中記には、篤姫が、生家の今和泉家から薩摩の鶴丸城に入り、江戸に出立した時期や様子、神社など立ち寄り先、日々の天気まで詳細に記されていた。さらに供物とみられる「鮮鯛」といった文言や、贈答品らしい「西洋肌着」などの記載もあった。

 山本教授は「藩政よりも、篤姫ら女性について書かれているのは幕末の文書としては珍しい。従来の史料と対照することで、さまざまなことが分かると思う。幕末の薩摩藩士から見た藩主の家族の歴史が新たに浮かび上がるだろう」と評価している。

 <天璋院篤姫(てんしょういん・あつひめ、1836−83年)> 薩摩の島津家の分家に生まれ、島津斉彬、後に島津家と関係の深い近衛家の養女となり、徳川13代将軍家定の正室となった。だが婚礼からわずか1年半で家定が病没。その後、天璋院と称し14代将軍家茂の後見役を務めながら、江戸城大奥の女性たちをまとめた。後に江戸城無血開城にも大きな役割を果たしたとされる。生年については35年説もある。

(東京新聞)

117名無しさん:2008/11/03(月) 10:51:28
郷土史詳しい方いませんか。
佐賀の神埼あたりだと思うのですが鍋島山城の家臣で
石丸家ってありますか。先祖をたどっているのですが。

118とはずがたり:2008/11/03(月) 21:39:17
ためされる大地 秋田

こんな因縁があるとはw
新屋と土崎の間には秋田の集落は昔はなかったんですかねぇ。
今では臨海工業地帯で仕切られているような気がしますが,当時は地続きというか浜続きだったんでしょうかね。

江戸時代からの恨み、綱引きで決着 秋田、不仲の2地区
2008年11月3日5時58分
http://www.asahi.com/national/update/1102/TKY200811020182.html?ref=goo

因縁に決着をつけようと、綱引きをする住民たち=2日、秋田市
 江戸時代から不仲が続くという秋田市の新屋、土崎、両地区の住民が2日、「因縁に決着をつけよう」と大綱引きの3本勝負に挑んだ。

 両地区はかつて漁業権や米蔵の位置で争い、野球の試合では乱闘騒ぎが起きたこともある犬猿の仲。今回、土崎からの果たし状を新屋が承諾。佐竹敬久市長を立会人に、力自慢の男性各30人が誇りをかけて100メートルの綱を引っ張り合った。

 結果は新屋の3勝。完敗した土崎は苦い表情で新屋と握手。「罰」として、JR新屋駅を清掃することになった。

119とはずがたり:2008/11/03(月) 21:41:47
>>117
済みません,残念ながら私は知らないですねぇ。。

120とはずがたり:2008/11/30(日) 02:59:33
自然真営道ですね

安藤昌益資料館をつくる会が設立総会(2008/11/29)
http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2008/11/29/new0811291401.htm

 八戸市の中心街に江戸時代の思想家・安藤昌益の資料館建設を目指す「安藤昌益資料館をつくる会」の設立総会が二十八日、同市の更上閣で行われ、来年十月の開館を目指してスタートを切った。
 総会には会員ら約四十人が出席。事業計画の中で、設立場所は市中心街の一角で検討を進め、来春には公表する。設立資金は企業からの寄付や募金箱を設置し、市民から募ることなどが盛り込まれた。
 会長に選出された発起人の根城秀峰さん(八戸市)は「昌益の研究家は全国におり、そういう人たちとの交流も広げていきたい。八戸からきちんと情報を発信できる資料館にしていきたい」とあいさつした。
 会員らは今後、資料・書籍の収集の呼び掛けや、ブログでの情報発信などで資料館建設をPRしていく。

121とはずがたり:2009/01/06(火) 17:07:18
写楽の謎を解く
http://www.nagaitosiya.com/a/sharaku.html

122とはずがたり:2009/03/25(水) 12:40:41

http://qa.mapion.co.jp/qa4821794.html
質問
質問者:tokiz105 豊臣秀吉が将軍でなく関白になった訳
困り度: 豊臣秀吉が征夷大将軍でなく関白になった理由として、将軍になるため足利義昭の猶子(又は養子)になろうとして断られたので、藤原家の猶子となり関白に任官したという説をよく聞きます。(林羅山の説が初出)
(1)本当に当時の秀吉の希望があったとして、足利義昭が断れたのか?
(2)日本統一後の1590年代になると、足利義昭はお伽衆として秀吉の
 近くに召し出されてます。1588年には将軍辞任してますし、
 その時に再度申し出があれば断れないのでは?
更に、将軍は源氏でなければならないとしても、源氏は足利家だけではありません。後年徳川氏は源氏の傍流を自称して将軍になってます。
(3)当時の秀吉の実力からすれば、適当な源氏の傍流の猶子(又は養子)と
 なれば 簡単に将軍になれたのでは?
そう考えると秀吉は将軍になれるけど、関白を選んだように思えます。
関白の方が臣下最高位ですしね。

当時秀吉の意向に逆らえる人っていないと思うのです。
誰も朝鮮出兵に反対できない。どの大名も領地の移封に逆らえない。

皆さんはいかが思われますか?
質問投稿日時:09/03/23 21:44
質問番号:4821794

回答者:pri_tama  個人的な考えですが、将軍が武家の棟梁と言うのは、江戸時代に豊臣家に地位で負けていた江戸幕府の後付理由な気がします。
 (秀吉にしてみれば、どの役職でも取得できるのにわざわざ格下の役職を選択する必要性に掛ける。)

 秀吉と家康の地位を比べると
   秀吉 太政大臣と関白を兼任
   家康 太政大臣(将軍を秀忠に譲った後に就任)のみ

 家康以降の歴代の将軍の内でも、秀忠や家斉が太政大臣まで上っていますが彼等も将軍を譲った後に太政大臣に昇進しています。
 (徳川家でも太政大臣は将軍より格上だと認識したいた。)

 まして神君家康公が生涯にわたって獲得できなかった関白の地位を、後の将軍達が要求する訳には行きません。
 (家康がもう少し早く天下統一していれば[長生き出来れば]、秀吉が関白相論のゴタゴタに乗じて関白に就任した様に、関白就任を目指したかもしれません。)
 
 仕方ないので、秀吉は生まれが卑しいので将軍に成れなかった何てマイナスイメージを作って、関白・太政大臣の兼任を目指せない徳川家の面子を守ろうとしたのではと愚考したりします。

123名無しさん:2009/03/25(水) 23:35:20
さてユージェニックスにしろ、学問方法(メソドロジー)としては、 social engineering ソシアル・エンジニアリングである。
このソシアル・エンジニアリングなるものの怖さを知らないで、「自分は日本の社会科学者だ」などと信じている土人学者たち
全員を、私は、激しく、蔑(さげす)んできた。この言葉の意味も重要性も知らずに生きてきた、馬鹿たちの群だ。
自分たち日本人(日本部族)白身が、『菊と刀』で真っ裸にされたのち、ロボトミーに等しい、文明化外科手術、すなわち、
ソシアル・エンジニアリングを敗戦後に受けたのだ、と自覚すべきである。

ソシアル・エンジニアリング(社会工学)は、アメリカのリベラル派の学者たちの秘技秘伝であって彼らはこれを肯定する。
しかし、シカゴ学派の本物の保守派やアイン・ランド女史のようなリバータリアンは、ソシアル・エンジニアリングの学問を唾棄
して否定する。未開の現住民たちに施してはならない文明化外科手術である。それをやられたら、原住民たちは、おかしく
なるのだ。 だから、敗戦後にこのロボトミーを施された日本部族の若者が金茶髪にして成人式でも暴れるのだ、とみんな
分かればいいのに。 どうしても、どうしても、敗戦後のアメリカ軍(占領軍、マッカーサー・ニューディーラー)による、
日本国民洗脳がその原因だと、認める訳には行かないのか。そうか、どうしてもいやか。

先生の小室直樹だけが、これが、日本人が敗戦期に天皇=神を否定されて起こした「急性アノミー」だと、はっきりと解明した。
今の私ほどは、あからさまには書かないが。

ソシアル・エンジニアリングというものは、これほどに恐いものなのだ。それが、ソシオ・バイオロジー(社会生物学)と
いう別の名前も持つのだ。ソシオ・バイオロジーについては、コンラッド・ローレンツについて本書の別のページ
でも書いた。だから、シカゴ学派で過激派フェミニストの元祖のひとりであるソニア・シャンクマンが、ウルトラ・
リベラルであるからこそユージェニックス(優生学)をやり、ソシアル・エンジニアリングを治療・方法・政策学
として実践したのだという事実を私たちは確認すべきだ。

副島隆彦『属国日本論を超えて』P120〜121

124とはずがたり:2009/03/30(月) 23:15:57
>奥山廻り役
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/83
ネーミングセンスが関東取締出役みたいでかっちょいいっすねぇ(;´Д`)ハアハア

奥山廻り役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥山廻り役は加賀藩三代目前田利常によって、黒部奥山の警備の為に組織されたものである。

概要

江戸時代初期の地図は、立山の背後は空白であった。黒部川も下流から中流にかけては描かれているが、上流域は山陰に吸い込まれるように消えている。藩政初期、黒部奥山は暗黒世界であった。加賀藩は、戦国時代の佐々成政のザラ峠〜針ノ木峠越で越中信州間の最短の間道として黒部奥山は重要な軍事要点だった。また「加賀白山」の領土争いから、幕府の調停によって越前藩の領山とされた渋い経験もあり、この未知の奥山への重要度を認識し、1648年以来いくたびも役人を派遣して実地調査をさせ、やがて「奥山廻り役」を常設し、毎年巡視させた。領民に対しては、「御縮り山」として、立山参りの正規ルート以外での黒部奥山への立ち入りを禁じた。

その後、この奥山廻り役は1870年9月の廃止まで続いた。

奥山の調査

奥山廻りの調査で最後まで空白だったのは、鷲羽岳周辺や水晶岳、雲ノ平、黒部五郎岳の周辺ではなく、後立山連峰の周辺であった。むしろ北アルプスの最奥地といわれる三俣蓮華岳周辺は三国境としての重要地点で、詳細に調査された。後立山連峰はその名前のごとく、立山の後にある山々で、越中側からすれば最奥地の山であり、しかもキレット等のやせ尾根が続いている山稜である。江戸時代初期の黒部奥山廻り役の記録には、「此辺後立山に至る迄ノ間至険岨ニ而通路相成不申候」とあり、初期の奥山絵図には空白地帯であった。

加賀藩初代藩主、前田利家が黒部渓谷口浦山村の百姓伝右衛門を大坂に召して、黒部奥山の秘境の様子をいろいろと訊いた。この伝右衛門は、元和年中、越後国の浪人数百名が黒部渓谷口内山村に立て篭もっているのを蜜訴して大事に至らしめなかった功者といわれる。そして三代前田利常はこの伝右衛門に松儀という姓を与え、抜擢して奥山取り締まりの内役として役儀に任命した。さらに鏡、扇子、硯等を松儀伝右衛門に与え、しかも武士にしか許されなかった乗馬も許可し、役儀の重要なること、その苦労に対する恩賞をも表明した。

松儀伝右衛門はその六年後に亡くなり、その後暫く奥山廻り役は空位が続いた。が、後年、佐伯十三郎がその位についた。しかしながら、調査につれて広大な奥山を一人で把握するのは実際として困難となり、次いで四郎右衛門という者を採用し、彼を北部、十三郎を南部の奥山廻り役に当てた。しかし、この初期の奥山廻り役は、後年の奥山廻り役のように厳重に毎年定期的に山廻りをすることもなく、彼らの肩書き自体も奥山廻り役といわれていなかった。さらに後には3名に増員されたが、大規模な盗伐が相次いで起こったり、材木の藩内への伐出で長期期間奥山に詰めるなどの雑役も多く人手不足は必至となった。そこで、通常の山廻り役や平廻り役などから、奥山廻り役加人として、臨時又は常勤的に奥山廻り役の仕事を兼ねるようになった。

125とはずがたり:2009/03/30(月) 23:16:16
>>124-125
事件の取り締まり

奥山廻り役の最初の一番の目的は軍事であったが、しだいに世の中が安定してくると、木材盗伐や密貿易の取り締まりに重点が変わっていった。この黒部奥山へしきりに出没したのは信州の杣であった。奥山廻り役らはこの取り締まりに難儀した。杣たちは奥山廻り役が近づくと、いち早く逃げてしまう。逃げ去った後の盗伐現場で奥山廻り役らは、盗伐小屋を焼き払い、伐採道具を没収し、木材を押収した。しかし木材を越中側へ運び出すのは困難で、仕方なく、信州の木材業者に呼びかけて払い下げたが、足元を見られて安く買いたたかれた。しかし、その木材業者こそ杣たちの元締めであったのだ。

記録に残る一番古い大規模な盗伐事件は、正徳2年7月に起こっている。それは針ノ木谷でその現場を発見し、取り押さえた。尋問するとこれらは尾張国の杣ども25名で、遠国から出稼ぎに来て、国境の境も分からず入山したと云い。また信州松本の佐平次と野口村の弥左衛門の二人が元締めであるのが分かった。奥山廻り役は彼らにここは加賀藩の領域であることを教え、国境を熟知しているはずの元締めこそ怪しい人物にあり、として元締めを連れてくるようにと使いを出した。しかし不正を行った元締めが来るはずもなく、四日経っても使いの者とも帰っては来なかった。仕方なく杣たちを信州方面に追放し、小屋を焼き払い伐採道具を没収した。これはあまりにも寛大な処置ではないか。この杣どもは尾張から来たと言うが、尾張領の信州安曇郡奈川村である。奈川村はすぐそこである。針ノ木国境を知らないはずがない。寛大な措置をとったにはいろいろ分けがあった。元締めは、御三家尾張領民という親藩の威光を笠にして、加賀藩奥山廻り役の強制執行を免れんとしてわざわざ奈川村民を雇っているのだ。奥山廻り役たちは、この御三家の百姓と紛争を起こすことを避けたのと、同行8人の杣人夫に比べ相手方は25人もいて、これらの者を盗伐者として強制的に加賀藩内まで引致することは困難と判断し、やむなくこのような寛大な処置とした。このことは加賀藩内で重大問題となり、その後は奥山廻りには奥山廻り役の他に、横目足軽2名。強健な人夫30名、多いときには40名も付けるようになった。そして針ノ木岳以南の上奥山を重点的に警戒するようになった。奥山廻り役は百姓ながら、とうぜん帯刃も許され、手錠縄も携行していた。

奥山廻り増員後も、盗伐は絶えず、発見しても杣たちはめったに捕まらなかった。しかし1775年、杣の三吉が逃げ遅れて捕まったことが信州側に衝撃を与えた。三吉が加賀に連れて行かれ、死罪に相当するほどの厳罰があったに違いない。そして盗伐の拠点の一つであった三吉小屋場跡(今の烏帽子小屋付近)の国境に、三吉の首を晒したぐらいのことをしたのか、その後しばらく大規模な盗伐は無くなり、三吉の名が、三吉谷、三吉道、三吉小屋場跡などの地名となって残ったほどの大事件となった。上高地の上條嘉門次も、黒部源流域の地理までは知らなかったが、三ツ岳、赤牛岳方面の山域を漠然と「赤牛三吉」といっていたようで、昭和の初めくらいまでは信州の古い杣や猟師達は、赤牛岳方面を赤牛三吉と呼ばれていた。

また、杣の小屋掛けした地に「野口山」と書いた石が立ててあったという事件もあった。信州野口村の山だという意味である。加賀の役人はそれを見て怒り、「砂磨きに消し候」、つまり砂を擦りつけて文字を消した。信州側では黒部川が国境だという観念を持っていた。 「野口山」の石標に対抗して加賀側では、針ノ木峠に毎年「金沢御領」と書いた札を立てて来た。山廻り役の名も書き連ね、そのうえ「杣頭弐十人、平杣弐百人、杣五百人召連」などと書き付けた。奥山廻り役は多くてせいぜい30人ぐらいであるが、二百とか五百とか、かなり誇張して書いている。これは「このような大勢で山中を隈無く見回っているぞ」、といったふうに信州側に脅しをつけるためだったのだろう。

立山の東下にある内蔵助平は、江戸時代に大規模な盗伐のあった場所だという。

126とはずがたり:2009/05/18(月) 12:17:03

松平定信はナポレオンの生みの親
1 :とら:2009/04/29(水) 22:59:32
松平定信はナポレオンの生みの親

ttp://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p032.html

文化元年は、近代日本の建国の年だった。

文化元年1月1日は、西暦1804年2月11日。

明治政府は、これを記念して、建国記念日を設定した。

日本の建国記念日は、ナポレオンの記念日
1 :名無しさん:2009/05/18(月) 02:53:51
日本の建国記念日は、ナポレオンの記念日

ttp://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/32/208.html

これは、ナポレオンが日本人であることを強く示唆する。

127とはずがたり:2009/06/08(月) 22:53:52

安土桃山時代もとは的には近世認定。メディカルレビュー向けか?

豊臣秀吉:死因はかっけ? 医師の作家が学会で発表へ
http://mainichi.jp/select/today/news/20090609k0000m040102000c.html
2009年6月8日 20時48分 更新:6月8日 22時2分

 肺炎や梅毒など諸説入り乱れる豊臣秀吉(1598年没)の死因について、脳神経外科医で作家の若林利光さん(56)=兵庫県姫路市御立東1=が、当時の症状などを基に「かっけだった」とする新説をまとめた。13日に名古屋市で開かれる日本病跡学会で発表する。

 かっけはビタミンB1不足で起きる。足のしびれ・むくみが典型的な症状だが、下痢や失禁、精神錯乱、心不全なども引き起こす。食事が白米中心だとかかりやすく、かつては富裕層に多かった。

 若林さんによると、当時の宣教師がイエズス会に送った報告書に、秀吉が死の直前の約2カ月間、下痢を患って狂乱状態に陥ったとある。別に失禁の記録もあり、いずれもかっけの症状と合うという。若林さんは「かっけで死亡したとされる徳川十四代将軍・家茂(いえもち)と症状が同じ。なぜ今まで『秀吉かっけ説』が提唱されなかったのか不思議なくらいだ」と新説に自信を見せている。【大久保昂】

128荷主研究者:2009/06/28(日) 19:40:16
戦国武将として人気があるという記事だが、伊達政宗はむしろ近世の武将か。

http://www.kahoku.co.jp/news/2009/05/20090527t13052.htm
2009年05月27日水曜日 河北新報
マサムネさまはアイドル 若い女性に戦国武将ブーム

政宗の「黒漆5枚胴具足」のレプリカを着用できるイベント。女性も甲冑(かっちゅう)を身にまとい「1度は着てみたかった」と感激=仙台市博物館

仙台・青葉まつりで披露された東北大演劇部の殺陣演武。若い女性らはカメラのファインダーを通し、「政宗」の勇姿に熱視線=勾当台公園

現代のモデルのようなルックスに生まれ変わった政宗のフィギュア。アニメグッズ店には戦国武将のコーナーが設けられ、売り切れが続出しているとか=青葉区の「アニメイト仙台」

「政宗様に会いに来ました」。歴史に興味を持つ女性は「歴女(れきじょ)」とも呼ばれ、彼女たちが奉納する絵馬はさながら“聖地巡礼”の証しのよう=宮城県護国神社

 テレビゲームのヒットなどで、若い女性を中心に戦国武将ブームが巻き起こっている。一番人気は仙台藩祖伊達政宗。仙台市内のゆかりの名所や関連商品を扱う店舗には多くのファンが訪れる。アイドルを追い掛けるような熱狂ぶりだ。

 火付け役となった家庭用ゲームソフトには、武将が現代風のいでたちで登場する。特に政宗は長身のイケメンに描かれ、「元祖だて男」のイメージが女性のハートをつかんだ。4月からはテレビアニメ化され、さらに注目度が高まった。

 仙台城跡や瑞鳳殿などでも年配の観光客に交じり、若い女性が目立つ。「政宗は統率力があり派手な印象。1度、仙台観光に来たかった」と東京から訪れた女性。関連グッズや政宗のキャラクターを使った地場産品の売り上げも好調だ。

 仙台市博物館主催の歴史イベントに参加した男性は「今は戦国時代にも似た不安定な世の中。武将へのあこがれも理解できる」と話す。「草食系男子」が急増中の現代、やはり女性が心ひかれるのは強い男なのか。
(写真部・伊深剛、川村公俊)

129とはずがたり:2009/09/26(土) 02:09:10

真言・浄土 共存願う?
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000000908150001
2009年08月15日

中将姫坐像の内部に記されていた墨書銘文=葛城市歴史博物館提供

初公開された当麻寺西南院蔵の中将姫坐像=葛城市歴史博物館提供


 ◆葛城・当麻寺の中将姫坐像に銘文

 葛城市の当麻寺西南院が秘仏扱いにしている木造中将姫坐像(ざぞう)(高さ46センチ)に、江戸時代前期の制作年代などを示す墨書銘文が記されていたと14日、同市歴史博物館が発表した。

 墨書は像内の背中側に、「為両宗也 法如 天和中作」と書かれていた。同博物館によると、「(真言、浄土)両宗のためなり。(中将)法如(の像を)、天和年中(1681〜1684)に作る」と解釈できるという。

 阿弥陀如来の極楽浄土を描いた国宝・当麻曼荼羅(まんだら)で知られる当麻寺は真言宗の寺院として営まれてきたが、浄土宗の子院もあり、両宗が時には対立したともいう。だが、1609年に江戸幕府が両宗が対等であることを認めた。「その70数年後、当麻寺一山での両宗の平穏な共存を願って、新たにこの像を作ったのではないか」と吉岡昌信・同博物館館長補佐はいう。

 同坐像は同博物館で開催中の「当麻曼荼羅縁起絵巻の世界」展で初めて一般公開されたのを機会に、調査された。曼荼羅を蓮糸(はすいと)で一夜で織ったとの伝承で知られる中将姫の出家した姿の像。江戸時代以前の中将姫像と比べ、女性的な印象を求めた新しい形式になっているという。

 同展は23日まで。18日は休館。一般200円、高校・大学生100円、小・中学生50円。

130荷主研究者:2009/11/22(日) 18:43:24

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091121101.htm
2009年11月21日03時46分 北國新聞
辰巳用水に石のアーチ 隧道内、石垣の技術応用

切石をアーチ状に巧みに積み上げた隧道内の修復個所=辰巳用水

 20日の文化審議会で国史跡となることが決まった辰巳用水の上流部の隧道(ずいどう)(トンネル)内で、アーチ状に築かれた切石積(きりいしづみ)の壁が確認された。調査した金沢市によると、石は多くが戸室石で、壁の刻銘などから天保(てんぽう)年間(1830〜43年)の施工とみられる。「石垣の博物館」と称される金沢城の高度な築造技術が辰巳用水にも生かされたことを示しており、「歴史都市」の重要な資産となる。

 市によると、切石積のアーチは隧道の中流から下流部分にかけて少なくとも9カ所、計170メートル以上にわたって確認された。土の中を掘り進む開削工事で天井や壁面が崩落するのを補強している。

 当初は開渠(かいきょ)だった辰巳用水の上流部で、現在の姿となる隧道化の工事が始まったのは18世紀末とされることや、石の一部に工事記念とみられる「天保十年」(1839年)の彫り込みが辰巳用水土地改良区の畦地実参事らによって確認されたことから、市は切石積をこの時期の施工と推測している。

 使われている石は縦30センチ、横1・5メートル、奥行き20センチほどで、高さ約2メートル、幅1・3〜2メートルある隧道の壁に沿って天井まですき間なく積み上げられていた。「どのようにして積み上げたのか分からず、再現も難しい高度な技法」(市文化財保護課)だという。

 市は2005(平成17)年以降、金沢経済同友会の提言を受けて辰巳用水の国史跡指定を目指した動きを本格化させた。今年度は来年度以降に予定する「平成の大修復」に向け、辰巳用水土地改良区の協力を得て隧道内部を調査しており、水で側壁が削られた部分や天井の剥落(はくらく)個所なども確認した。

 文化審議会の答申を受け、市は来年度、辰巳用水の保存管理計画を策定し、農業用水や兼六園の曲水として生活にとけ込んだ姿を末永く保全、継承する。

 園地が国名勝となる末浄水場を管理する市企業局は「創設当時の趣旨を守り、文化庁と協議しながら必要であれば整備を進めていきたい」としている。今年度は傷みが目立った東屋(あずまや)を修復した。

 浄水施設の国名勝指定は全国初であり、企業局は水道への理解の高まりも期待する。施設内は原則として公開していないが、申し出があれば積極的に要望に応じることにしており、21日から23日までの3日間は名勝指定の答申を記念し、特別に一般公開する。

131荷主研究者:2009/11/22(日) 21:54:47

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/6266.html
2009年11月16日 新潟日報
国内初、妻からの離縁状を確認

 十日町市に寄託されていた離縁状の写しが、国内で初めて江戸時代に妻から夫に出されたものと確認された。日本法制史・家族史を研究し離縁状に詳しい高木侃・専修大法学部教授(67)が鑑定して分かった。16日、同市が発表した。婿養子の夫あてで、差出人筆頭に妻の名が記されている。専門家は、家族史や女性史を研究する上で貴重な史料とみている。

 離縁状の写しは、1856(安政3)年、旧貝野村安養寺の妻「ふじ」が夫の「重右衛門」にあてた。縦30センチ、横40センチの和紙に墨で書かれ、冒頭に「離縁状之事」とあり、8行にわたり「夫が病気」との理由や、100両を慰謝料として払ったことが記されている。差出人は「ふじ」の後に、本家、親せきと続く。

132とはずがたり:2009/11/23(月) 16:47:47

県と沖縄奄美で交流拡大宣言
薩摩藩の琉球侵攻から400年
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagoshima/news/20091122-OYT8T00218.htm

宣言後、伊藤知事(右)が薩摩切子の皿を、仲井真知事が琉球漆器を、それぞれ相手に手渡した

 薩摩藩が琉球王国に侵攻してから400年の節目を迎えたことを受け、伊藤知事と沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事は21日、両県都との間に位置する奄美市で「今後、あらゆる分野・世代で一層の交流を推進し、相互の繁栄を目指して協力する」との交流拡大宣言をした。

 1609年(慶長14年)、薩摩藩は琉球貿易を独占するため、琉球出兵に踏み切った。占領後、与論島以北の奄美群島は藩の直轄地にした。

 県生活・文化課によると、今年秋、沖縄県側から「節目の年を交流を広げるきっかけにしないか」と提案があり、まず今月4日に両県議会の議長同士が共同声明を出し、今回の両知事の宣言の運びになった。

 宣言では、両県の立場に配慮して薩摩藩の行為を「出兵・侵攻」と表現し、「両県が真の隣人としての関係を新たに構築するとともに、未来に向けて交流を拡大、発展させることが重要」とした。具体的な交流は今後、協議するが、伊藤知事は「まず、人的交流から始めたい」、仲井真知事は「観光などで、共同のプロジェクトを手がけたい」と語った。

 今回の宣言に反対する複数の市民団体の約20人も式典に参加し、「400年間の歴史が検証されていない」「奄美の不幸な過去の歴史を繰り返さないように、過去の事実関係をはっきりしてほしい」などと訴え、来場者にチラシを配るなどした。現時点での宣言に怒りを感じるという「奄美を語る会」の仙田隆宜世話人(62)は「奄美は薩摩からも、琉球からも支配、収奪された地であり、そうした検証を踏まえず、奄美で今回の宣言が行われたことに憤りを感じる。こうした思いを草の根で訴え続けたい」と語った。
(2009年11月22日 読売新聞)

133とはずがたり:2009/12/06(日) 02:34:33

このスレかな??

「幻の金山」金あった
http://mytown.asahi.com/akita/news.php?k_id=05000000912020002
2009年12月02日

古絵図を見ながら、砂金が見つかった場所を指し示す高橋善之所長(右)と小林勉会長=北秋田市鷹巣

「幻の金山」と呼ばれる大館市の長慶金山跡地の沢から砂金が見つかった。古絵図をもとに、仲間と80粒近くを発見した県北教育事務所の高橋善之所長(56)が1日、会見して明らかにし、「長慶金山は本当の金山だった」と語った。地元の人たちは「さらに調査を進め、地域おこしにつなげたい」と盛り上がりを見せている。(江川慎太郎)

 長慶金山は同市田代地区の最奥部、青森県境にあって江戸時代の後期に閉山したとされる。古絵図発見を知らされた高橋所長は、自ら主宰する砂金研究会の仲間と3人で11月29日に現地入り。専用の道具を手に沢筋を約100メートルにわたって4時間近く探したところ、3人ともそれぞれ30粒近くを採取することができたという。高橋所長は2年前にも現地に入ったが、そのときは「4粒しか見つからなかった」と語った。

 長慶金山は江戸時代、秋田藩の隠し金山で、18世紀後半、天明年間のころに閉山したともいわれるが、はっきりしない。幕府からの追及を恐れ、200人近い坑夫たちを生き埋めにしたとの言い伝えが残る。資料が極端に少なく「幻の金山」と呼ばれ、ロマンをかき立てられた人や企業が現地に入り、何度も現地調査を試みてきた。しかし採算が取れるような有力な鉱床は見つかっていない。
 会見に同席した田代郷土史会の小林勉会長によると、長慶金山を描いた古絵図は今夏、市内にある民家の蔵で見つかった。縦86センチ、横60センチで長慶金山の別称「長間金山」の文字がある。金山や周辺の坑口や坑道、沢筋、山道が着色で描かれ、細部がわかる内容。保存状態は良好で、もともとは江戸時代後期に描かれた可能性がある。

 奥州藤原氏を中心とした日本史研究に力を入れている高橋所長は、東北地方を中心に450カ所以上、砂金採取に行っている。今回、高橋所長は、見つかった古絵図に「金場跡砂金多分(多く)アリ」と書いてある金山そばの沢で調査し、採取につなげた。

 小林会長ら田代郷土史会のメンバーたちも、古絵図発見を受けて11月26日に現地を訪ねて砂金採取も実施したが、砂金は見つからず、空振りに終わっている。

 高橋所長の採取成功に小林会長は「胸が高鳴る思いだ。現地調査や資料収集を進め、長慶金山をめぐる多くの謎を解明したい。金山に多くの人たちが関心を持てるようになれば、うれしい」と語った。

134とはずがたり:2010/01/07(木) 12:23:03

間部詮房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生涯

間部宮内は、猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の用人になり、宝永元年(1704年)の綱豊の江戸城西の丸城入と同時に甲府藩士から幕臣に編入され、従五位下越前守に叙任し、側衆になり、1500石加増。その後も累次加増され、宝永3年(1706年)には、相模国内で1万石の大名となった。のちに加増を重ね高崎藩5万石を得た。

詮房は江戸時代における幸運児の一人といえる。日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない(なお、猿楽師自身ではないが、猿楽師の子が徳川幕府内において強大な権勢を振るった例として大久保長安があげられる)。詮房は、側衆としての格が上がり、若年寄に次ぐ地位になり、ついで序列上、老中の次席を命じられた。

詮房は、将軍家宣・儒学者新井白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や将軍に対して強い影響力を有する大奥などの勢力をさばき、「正徳の治」を断行した。

しかしながら、詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革が中々進まなかったのが実情である。

そのため、家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。しかしながら大名としての地位を剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎から、遠方の村上藩に左遷されたにとどまり、形式の上では(実質的な収入は減ったが)5万石の大名であり続けた。

享保5年7月16日(1720年8月19日)、詮房は暑気あたりで村上の地に没した。後を養嗣子(実弟)の間部詮言が継いだ。享年55(満54歳没)。

間部氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

歴史 [編集]

江戸時代中期に6代将軍徳川家宣により、側用人の間部詮房(当初、宮内といった)が上野国(現群馬県)高崎藩5万石の大名にとりたてられたのを始まりとする。

間部家は7代将軍徳川家継の死去により、紀州藩から徳川吉宗が将軍家を継ぐと同時に、越後国村上に左遷され、次いで次の藩主間部詮言の代に、越前国西鯖江に転封され、鯖江支配で明治時代を迎えた。

幕政史においては詮房と、老中になった間部詮勝の二人が重要な役割を果たした。

1884年(明治17年)、間部詮信(間部詮道の長男)の時に華族に列せられ、子爵を賜った。

135荷主研究者:2010/01/12(火) 22:45:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20100109104.htm
2010年1月9日03時21分 北國新聞
現存最古の国絵図 石川県立図書館が入手

3国の国絵図を調査する職員=金沢市の県立図書館

 県立図書館は8日までに、1633(寛永10)年に江戸幕府の巡見使が調査した諸国国絵図の写本「日本六十余州図」のうち、加賀藩領であった加賀、能登、越中国を記した3枚を入手した。県内の公共施設が所蔵する最も古い時代の国絵図となる。当時の居城や古城、主要な町村、寺社、街道などが記されており、江戸初期の加賀藩領内の3国を比較できる貴重な史料となる。

 日本六十余州図は、3代将軍徳川家光が派遣した最初の巡見使による諸国国絵図をもとにした写本で、全68枚から成る。同様の写本は、東大総合図書館の南葵文庫や岡山大の池田文庫など有力大名家文庫の史料として所蔵されている。これまで県立図書館が所蔵していた国絵図では、1696(元禄(げんろく)9)年のものが最も古かった。

 今回入手した国絵図は、縦約0・8メートル、横約1・1メートル。1615(元和元)年の一国一城令後の居城と古城の存在や、1664(寛文4)年に江戸幕府が全国の大名に領知判物や領知朱印状・領知目録を交付する前の郡区分、江戸初期の交通路の状況が記されている。

 越中の国絵図には、「冨山町古城」と表記され、富山藩に分藩される前と推測される。能登の珠洲郡が「すみ郡」、越中の射水郡が「泉の郡」となっているなど、誤記または誤写とみられる表記も数カ所見つかっている。

 絵図は都内の古書店から購入したが、所蔵印が消されており、以前の所有者は分かっていない。

 同館では、国絵図を県民が閲覧できるようにするほか、書き写された時期や作成、伝来の背景などの研究に取り組む。全国の同様の写本との比較も進める。

 同館史料編さん室長の東四柳史明金沢学院大教授は「同時代の加賀藩領内を一望できる3カ国の国絵図がまとまって入手できたことは意義深い」と話した。

136建設的与党らいおんはーと ◆S3/.7DxKSg:2010/02/09(火) 22:00:31
渡部昇一「日本の歴史」〈7〉戦後篇―「戦後」混迷の時代に (単行本)

http://web-wac.co.jp/publish/index.html

「日本人のための日本の歴史」第一弾。国をおとしめ、歴史を歪めてきた者の正体を明らかにし、
彼らが形成してきたサヨク的「戦後常識」のベールをはがしてみれば、そこには父祖の世代が志した、
まっとうですこやかな歴史観がみえてくる。まるで、夕立のあとの、虹を仰ぐような清涼感を覚えることだろう――。
こんな歴史を待っていた!

ココが読みどころ!

● 戦後はポツダム宣言違反から始まった
● 儀式化された復讐「東京裁判」
● 占領政策が多くの「敗戦利得者」をつくった
● 日本の歴史を奪った占領軍の「教育改革」
● 「占領政策基本法」だった新憲法
● 昭和天皇の悲劇
● 保守本流を支えた日米安保条約
● 五五年体制と自民党
● 共産主義を崩壊させたメイド・イン・ジャパン
● 日本繁栄の障害「官僚天国」
● 日本文明の核、皇室こそ世界遺産
● 日米安保の効力がなくなる日    (本文目次より)

渡部昇一「日本の歴史」シリーズ 全7巻+別巻
隔月でぞくぞく発売予定!

1.古代篇 現代までつづく日本人の源流
2.中世篇 日本人のなかの武士と天皇
3.戦国篇 戦乱と文化の興隆
4.江戸篇 世界一の都市江戸の繁栄
5.明治篇 世界史に躍り出た日本
6.昭和篇 「昭和の大戦」への道
7.戦後篇 「戦後」混迷の時代に
8.資料篇 読む年表

137荷主研究者:2010/02/15(月) 01:56:18

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100213/CK2010021302000185.html
2010年2月13日 中日新聞
旧東海道に歴史の薫りを 浜松市が景観整備

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 浜松市は2010年度、東区内を横断する旧東海道を歴史街道として“変ぼう”させようと、景観の整備に乗り出す。4月に住民主体の実行委員会を立ち上げ、街道付近の民家や店舗の軒先に灯籠(とうろう)やのれんなどを掲げていく考え。来訪者に散策を楽しんでもらえる街づくりを進め、観光面のイメージアップを狙う。資材設置の助成費など300万円を予算案に計上した。

 東区振興課によると、区内の東海道は県道312号とほぼ重なり、一部に残る松並木が江戸期の雰囲気を伝える。江戸と京の都との中間的な位置にあることが町名の由来となった中野町などは、天竜川を渡る拠点として栄えた歴史がある。

店舗、民家に道しるべの灯籠を設置へ

 ただ、歴史やウオーキングの好きな人が東海道散策に訪れても、「歓迎できる受け皿がなかった」(区振興課)。このため民家やコンビニ店、企業などにのれんや道しるべの灯籠を掲げてもらい、案内板を設置するなどして、楽しみながら歩ける仕掛けを実行委で検討する。トイレを貸し出すなど、観光客を無償でもてなす「お休み処協力隊」(仮称)として商店などを位置づける構想もある。

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博物館として生まれ変わる金原明善翁の生家。旧東海道に面している=浜松市東区安間町で

 一方、安間町の東海道沿いでは、天竜川の治水や植林で知られる実業家・金原明善(1832〜1923年)の生家が、柱など約250年前の木材を再利用する形で博物館として生まれ変わる。改修に地元材を使うことから、市は2055万円の助成費を予算案に計上。所有者の「金原治山治水財団」が2011年度のオープンを見込み、東区の街道振興の核となる。

 生家向かいの「明善記念館」は老朽化のため取り壊し、跡地は駐車場などとして活用、博物館内には観光客らが休憩できるスペースを設ける。明善のひ孫の子に当たる財団の金原利幸理事長(60)は「この地域の東海道はこれまで、観光という側面が弱かった。歴史を学び歩く拠点にしたい」とにぎわいに期待する。

138荷主研究者:2010/03/14(日) 15:40:21

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100307t75011.htm
2010年03月07日日曜日 河北新報
悲運の戦国大名白鳥十郎長久 実在裏付ける書状発見

名将の書状に対面し、感激する戸沢地区住民

 山形県村山市から山形県河北町へと勢力を伸ばし、最期は山形城主最上義光に謀殺されたと伝えられる悲運の戦国大名、白鳥十郎長久の直筆とみられる書状が白石市内で発見された。2月23日には長久ゆかりの地である村山市戸沢地区の住民らが宮城県白石市を訪れ、謎も多い長久の貴重な史料と対面した。

 見つかったのは1581年5月9日、長久が仙台藩重臣で伊達家の外交を担当した遠藤基信にあてた書状。

 長久は書状の中で、大崎市を拠点としていた大崎義隆の上洛(じょうらく)に当たり、仙台藩の領内だった山形県置賜地方を通行できるよう願い出ていた。末尾には長久の直筆とみられる花押があった。

 白石市内では昨年、遠藤家の子孫が暮らす民家に約6000点に上る古文書が保存されているのが見つかった。このうち約50点は戦国時代に諸大名が遠藤家初代の基信にあてた書状。この中に長久の書状も含まれていたという。

 領民に慕われつつ悲運の最期を遂げたとされる長久は主に伝記や軍記物などで語り継がれているが、その存在を確実に裏付ける史料はほとんどなかったのが実情。

 山形県山辺町の専念寺には長久直筆とみられる書状が伝えられるが、これまで比較する史料がないことから真偽不明とされてきた。

 長久が基信に書状をしたためて大崎家と伊達家を取り持ったことは、仙台藩の正史である「伊達治家記録」の中にも記述が残っている。今回の書状発見で、長久研究が大きく前進する可能性がある。

 長久の書状を確認した村山市戸沢地区公民館の青柳フヂ子館長は「貴重な史料が白石で見つかったのは何かの縁。長久が村山、白石両市の交流のきっかけになるとうれしい」と話した。

[白鳥十郎長久]生年などは不詳だが、奥州安倍氏の流れをくむとも伝えられる。村山市戸沢地区に構えた白鳥城を足掛かりに、山形県河北町へと進出し谷地城を築いた。1584年、最上義光に山形城へおびき出され、謀殺されたとされる。白鳥城跡近くの戸沢小敷地内には、地元の住民らが長久の顕彰碑を建立。命日の6月7日に碑前祭を開いている。

139荷主研究者:2010/03/23(火) 22:35:53

http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1269049600
2010年03月20日10時46分 千葉日報
最上級の史料に昇格
忠敬記念館「特別展計画へ」香取

多くの観光客らが訪れる伊能忠敬記念館。数多くの関係資料が展示されており、今回収蔵する2345点が国宝に指定された=香取市佐原イ

 日本で初めて実測日本地図を作った伊能忠敬(1745〜1818)の関係資料が19日、県内で4件目となる国宝に指定された。香取市内では、1953年に工芸品として指定された香取神宮(同市香取、高橋昭二宮司)所蔵の「海獣葡萄(ぶどう)鏡」以来57年ぶり。歴史資料としては、慶長遣欧使節関係資料(仙台市)と琉球王国尚家関係資料(那覇市)に次いで3件目。

 昨年7月の国の重要文化財への1128点の追加指定からわずか約8カ月。忠敬の関係資料が、最上級の史料として“スピード昇格”した。宇井成一香取市長は「すごくわくわくした。市民として、素直に喜び、誇りに思うとともに、市長として関係資料の保存に対し、重い責任を感じる」とコメントした。

 現在2345点ある忠敬の関係資料。同資料は、47年10月に「伊能忠敬遺書」として215種が、国の重要美術品として認定。57年2月に「伊能忠敬遺書並遺品」(書跡)85点が、国の重要文化財に初めて指定された。このほか、忠敬の旧宅が30年4月に史跡に指定されている。

140荷主研究者:2010/05/21(金) 00:18:43

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/171487
2010年5月14日 00:55 西日本新聞
鍋島家の重臣 神代家文書目録を刊行 島原の乱など 未公開260点収録 財団法人「鍋島報效会」

 佐賀藩鍋島家の重臣・神代家(くましろけ)の未公開史料をまとめた「神代家文書目録」を、佐賀市の財団法人「鍋島報效会(ほうこうかい)」が刊行した。所蔵の関係文書全260点の目録を収め、同家や佐賀藩の歴史を知る上で特に貴重とされる121点を翻刻(ほんこく)。同家の歴史や文書の内容を分かりやすく説明した解説文もあり、同会は「調査・研究用としてだけでなく、佐賀の歴史を知る一助として、多くの人に活用してほしい」としている。

 福岡県筑後地方の一領主だった神代家は、戦国時代初期に肥前に移住。神代勝利(1511−65)が神埼、佐賀、小城の山間部に勢力を拡大した。平野部を拠点とした戦国大名・龍造寺隆信と敵対と和睦(わぼく)を繰り返した後、服属。江戸期に入り佐賀藩鍋島家に仕え、養子縁組などで鍋島家と関係を深めていった。

 佐賀藩で神代家は小城、蓮池、鹿島の3分家に次ぐ家格(かかく)「親類(しんるい)」に位置した。文書は中世から近世期の幅広い史料群で構成。「中世」「家」「島原の乱」「長崎警備」「由緒」「戦功」など10項目に分け、文書を紹介している。

 このうち、島原の乱(1637−38)では乱終結後、藩主鍋島勝茂が神代常親にあてた「覚」に、原城攻めで鍋島家が“抜け駆け”の軍律違反に問われ、江戸幕府方の総大将だった老中・松平信綱などに相談した様子が記された。また、長崎警備では1673年の英国船リターン号の長崎来航で、対処策や警備内容の他言禁止を命じた文書などがある。

 A4判、107ページ。佐賀市松原2丁目の鍋島報效会で千円で販売している。同会=0952(23)4200

=2010/05/14付 西日本新聞朝刊=

141荷主研究者:2010/05/27(木) 23:10:29

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20100520/325283
2010年5月21日 05:00 下野新聞
足利で江戸期の「石敢当」見つかる 魔よけとして建立、関東では希少

 【足利】沖縄や九州地方で多く見られる「石敢当」が県町で見つかり20日、研究者たちが現地調査を行った。悪霊や災害から地域を守る魔よけとして建立されたもので、見つかった石敢当は江戸末期の建立と推測される。県内では4基確認されているが、江戸期のものは関東地方では埼玉県内の2基だけで、歴史的価値は極めて高いとみられる。

 見つかった石敢当は高さ48センチ、幅30センチ。丁字路がぶつかった地点の塀沿いにあった。

 市文化財愛護協会の臼井好雄さん(68)が歴史研究仲間から聞き、2008年5月から調査を進めていた。建立者や年代の記入はないが、V字型に字の溝を彫る技法や他の石碑との比較などから、江戸末期の建立と推測される。この日の現地調査には、国立古文書館長などを務めた石敢当研究の第一人者である小玉正任さん(84)=横浜市=も参加した。

 石敢当は中国で誕生し、悪霊が家や村に進入して災害を起こすのを防ぐため、家の門や道の突き当たりに石碑や表札などの形で立てられた。日本には江戸初期に伝わり、沖縄や鹿児島を中心に31都道府県で確認されている。県内では、これまで「1896(明治29)年建之」と記された佐野市多田町のものが最古とされていた。

 江戸時代、足利学校に石敢当の関連書籍が多数そろえられていた記録があることや、当時石敢当を建立した一人である大窪詩仏らが足利学校で学んでいたことから、足利と石敢当のつながりは深い。

 発見された石敢当の近くに住む大月一能さん(82)は「『庚申様』として大切にしてきたが、貴重な文化財とは思ってなかった」と驚いた様子。臼井さんは「足利で初めて見つかった石敢当を地域ぐるみで大切にしたい」と話し、調査や保存活動を続けることにしている。

142荷主研究者:2010/05/30(日) 10:40:57

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201005220075.html
'10/5/22 中国新聞
下関戦争の砲台跡が国史跡に
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 下関市の長州藩下関前田台場跡の国史跡指定が21日、文化審議会から川端達夫文部科学相に答申された。長州藩が外国の連合艦隊に敗れた下関戦争で使った砲台の跡で、山口県や市が世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の1つでもある。

 前田台場は長州藩が幕末、関門海峡沿いの約20カ所に造った砲台の一つで、1863年に造った低台場(ひくだいば)、64年に急造した高台場(たかだいば)の計5634平方メートル。

 長州藩は台場と軍艦から、関門海峡を通過する外国艦船を攻撃したが、64年8月、英国、フランス、米国、オランダの4国の連合艦隊に攻撃され、連合軍に台場を占領された。長州藩はこの大敗を契機に攘夷(じょうい)から開国に主張を転換。その後の日本の近代化に大きな役割を果たした。

 県や市は近代化産業遺産群として長崎県の端島(軍艦島)や福岡、熊本両県の三池炭鉱などとともに世界遺産登録を目指している。市は、台場跡の大部分を所有する中国電力から買い上げて管理する方針。中尾友昭市長は「大変喜ばしく誇りに思う。教育、観光、まちづくりに活用できるよう整備したい」としている。

【写真説明】<左>4国連合軍に占拠された長州藩下関前田台場(1864年、下関市立長府博物館提供)<右>国史跡指定の答申があった下関市の長州藩下関前田台場跡

146荷主研究者:2011/02/20(日) 12:07:27

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9781524&newsMode=article
2011/01/31 09:58 福島民報
二本松藩の私鋳銭?発見 飯野の民家から困窮財政物語る資料

 二本松藩が政府に無断で造った私鋳銭の可能性がある貨幣が30日までに見つかった。明治初期のものとみられ、福島市飯野町出身の高野紀夫さん(63)=東京都練馬区在住=の実家に残されていた。私鋳銭は当時、政府によって回収されたほか、製造者が重い罪に問われたことなどから現存数が少ない。戊辰戦争の敗戦などで困窮していた藩の財政事情などをひもとく資料になりそうだ。

 私鋳銭は明治二分金(にぶきん)と呼ばれる種類で、重さ3グラム、大きさは縦約2センチ、横約1センチ。本物の二分金は金を含んだ銀が使われているが、高野さんが発見した私鋳銭は金が含まれておらず、金メッキが施されていたという。複数の専門家により私鋳銭と判断された。

 「シリーズ藩物語 二本松藩」の著者、糠沢章雄さん(郡山市在住)によると、二本松藩は戊辰戦争の敗戦で二本松城が焼かれるなどして多額の借財があり、財政難は深刻だった。それを解消するため、藩の要職に就いていた羽瀬兵衛らが廃藩置県の2年前の明治2(1869)年に貨幣を造ったが、程なく政府に発覚し、羽瀬は死罪に処せられたとされる。

 高野さんによると、私鋳銭は実家の仏壇の引き出しに保管されていた。祖母からは「悪い人たちが造った“偽金”だ。偽物で使えなかったから残っている」と聞いていた。

 旧飯野町は二本松藩と隣接しているなど関係が深く、糠沢さんは「二本松藩から流れ込んだ私鋳銭の可能性は十分にある」とみている。

 古銭に詳しい鈴木正敏さん(会津若松市在住)によると、私鋳銭は県内では会津藩、二本松藩で造られたという記録がある。会津藩は二分金などを含めて約八百万両分もの私鋳銭が造られたといわれるが、二本松藩の二分金は約千両分で、製造枚数は約2000枚という。

 二本松市教委文化課の根本豊徳課長は「私鋳銭の現物は見たことがない。本物ならば藩の窮状を裏付ける貴重な資料になる」と話す。県立博物館の佐藤洋一専門学芸員も「二本松藩の私鋳銭はおそらく収蔵品にない」とする。

 高野さんは「“偽金”の不思議な光は、幕末から明治へと続く時代の混乱、迷走を映し出しているようだ」と語り、収蔵展示施設への寄託なども検討している。

※私鋳銭 政府が造った貨幣でなく民間などで私的に鋳造されたもの。明治初期にかけて二本松藩をはじめ多くの藩で発行された歴史がある。私鋳銭の製造は極めて重い罪に処せられた。二分金は一両の2分の1の価値がある。

【写真】高野さんの実家から見つかった二分金の私鋳銭(上が表、下が裏とみられる)

147荷主研究者:2011/03/06(日) 13:05:12

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20110216/CK2011021502000191.html
2011年2月16日 中日新聞
浜松藩士の外交筆談録 朝鮮通信使の接待文書を茨城の旧家で発見

見つかった江戸時代の文書「朝鮮使筆談写」を広げる尾見又一さん=茨城県筑西市で

 江戸時代に朝鮮王から幕府に派遣されていた朝鮮通信使を浜松藩士が接待する様子を記録した文書が、茨城県の旧家で見つかった。使節団との筆談でのやりとりを藩士が残し、出身地に持ち帰っていた。解読した茨城県筑西市の県立高校教諭で郷土史家の桐原光明さん(63)は「当時の外交の一端をのぞかせる貴重な史料だ」と話す。(水戸支局・原田拓哉)

 文書は、現在の筑西市にあった下館藩出身の浜松藩士尾見与兵衛による「朝鮮使 筆談写」。徳川家宣が第六代将軍に就いた1711(正徳元)年に派遣された朝鮮通信使と、浜松藩との交流の一部を記した。与兵衛は医学などの知識があり、浜松藩に迎えられ、使節団の供応役を任されたとみられる。

 文書は横17センチ、縦24センチの紙5枚。与兵衛は「饗応のため、駅舎(宿)に至り、この筆談を写す」と書き出している。使節団の書記とのやりとりが始まり、書記から「この家の主人か」と問われ「家士にあらず、浜松太守の任官なり」と答える。駅舎の場所について「東海道遠州浜松」「江戸まで70余里」とも説明している。

 浜松産のミカンも登場する。書記がミカンを食べて「瞬(またた)きて、此(こ)の名は何なりと」と質問。与兵衛が「日本蜜柑(みかん)なり」と返答すると「朝鮮も亦(また)蜜柑なり」。

 贈り物の交換になり、与兵衛は銀製の石筆をプレゼントし、書記からは扇子が手渡される。お互いに好きな詩を紹介する場面も出てくる。

 最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是同じ」と残し、誠心外交に尽力したことがうかがえる。

 文書を所蔵していた与兵衛の子孫で、筑西市村田の尾見又一さん(80)は「今からちょうど300年前の出来事。尾見家のルーツを探る手掛かりの一つで、宝物として残していきたい」と話した。

浜松市博物館の久野正博学芸員「筆談やりとり貴重」

 言葉の違いを埋めるため、朝鮮通信使と筆談で意思疎通した記録は全国的には結構ある。浜松市史には1711年に朝鮮通信使が浜松を訪れた記録はあるが、筆談のやりとりや浜松藩の記録は今までの史料に無く、貴重だ。

朝鮮通信使 江戸時代、将軍の代替わりや慶事などに朝鮮王から派遣された使節団。1607年から計12回訪れた。豊臣秀吉の出兵で途絶えた交流の復活を目指した徳川家康が働きかけて実現し、日本の文化や学術に多大な影響を与えたとされる。総勢600人に及び、九州に上陸後、各藩の接待を受けながら江戸を目指した。

149荷主研究者:2011/04/24(日) 14:44:50

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110416/CK2011041602000099.html
2011年4月16日 中日新聞
重伝建は県内初 国文化審の「足助の町並み」答申

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011041602100034_size0.jpg
石垣が築かれ、川に張り出すような建物がつくり出す独特の景観=豊田市足助町で

 国の文化審議会は15日、江戸時代に建てられた町家が残る豊田市足助地区の古い町並みを、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定するよう答申した。6月に正式決定の見通し。選定は県内で初。

 対象は、塩の道として栄えた中馬街道沿いの全長1・4キロ、21ヘクタールで江戸末期−昭和初期の建物が残っている。足助川岸に石垣が築かれ、川に張り出すような建物が独特の景観をつくっている。

 選定により、増改築などが制約される一方、税制優遇や基準を満たす修理の費用補助が受けられる。価値が高いと認められた建造物の補助率は80%で、上限5000万円。残りも60%、上限500万円となる。

 住民が2008年、専門部会を設立。市も選定に向け、保存計画を策定し準備を進めていた。専門部会の岡本宏之会長(49)は「選定は出発点。全国の人に見てもらえるよう町づくりを進めたい」と話した。

 足助地区は、町並みをあんどんで照らす夏の「たんころりん」や、香嵐渓の紅葉といった観光資源を持つが、観光客が減少傾向にある。最近は年間150万人で推移し、最盛期より80万人ほど少ない。 

  (杉山直之)

150野蒜は台風で堤防が吹っ飛びました:2011/10/10(月) 23:19:38
設計が甘かったというか 設計者の専門が鉄道でしたから

151荷主研究者:2011/12/11(日) 13:54:11
すげぇ〜
>石見銀山ではマンガンを使った独自の製錬技法を駆使していた
>マンガンを使った銀製錬は世界的にも珍しい

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201111080007.html
'11/11/8 中国新聞
石見銀山にマンガン採掘跡

 島根県教委は、世界遺産の石見銀山遺跡(大田市)で進める間歩(まぶ)=坑道=の分布調査で、銀製錬に使われたマンガンの採掘跡を初めて確認した。石見銀山ではマンガンを使った独自の製錬技法を駆使していたことが文献資料に残る。県教委は文献を裏付け、銀山開発の実態解明につながる遺構とみている。

 同遺跡南東部の仙ノ山地区で、間歩の入り口3カ所と、マンガンを採取した露頭堀り跡(約1ヘクタール)を確認した。間歩は直径1メートル、長さ数メートル。露頭堀り跡にはマンガン鉱石を砕いた破片も残っていた。

 江戸時代に編さんされた「銀山旧記」は、マンガンを製錬に「不可欠な品」と表記。石見銀山の開発と生産拡大を独自技術で支えたとみられる。

 県教委文化財課の岩橋孝典専門研究員は「マンガンを使った銀製錬は世界的にも珍しい。石見銀山の開発状況を解明する上で貴重な発見。ロボットを使い、間歩の内部調査も検討する」と話している。

【写真説明】マンガンを採掘したとみられる間歩を確認する専門家(島根県教委提供)

152荷主研究者:2011/12/11(日) 14:48:44

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20111117102.htm
2011年11月17日03時07分 北國新聞
小堀遠州一族、野田山に墓 前田利常に影響与えた茶人大名

整備された小堀孫兵衛一族の墓所=金沢市の野田山墓地

 庭園や茶道などで3代加賀藩主前田利常に強い影響を与えた茶人大名・小堀遠州(こぼりえんしゅう)の一族の墓の在りかを、石川郷土史学会員の中山善壱さん(70)=金沢市末町=が同市の野田山墓地で突き止めた。長年放置されていた墓は荒れ放題で、見るに見かねた遠州流茶道の門人が整備に尽力。17日に法要を営み、加賀藩の「文化顧問」だった遠州にあらためて光を当てる。

 中山さんが確認したのは、遠州のおいの小堀孫兵衛と孫の小堀新十郎の墓で、いずれも野田山墓地東部に位置する。石川郷土史学会幹事の横山方子さんによると、両者とも利常につかえ、孫兵衛は足軽20人を預かる鉄砲組の頭、新十郎は利常の身辺警護などに従事する一員だった。

 両者の子孫の中には、建築を得意とした遠州の血筋にふさわしく金沢城の造営に携わった者も複数いた。だが、一族の墓がどこにあるかは研究者や遠州流関係者の間でも知られていなかったという。

 長年、野田山墓地の調査に取り組む中山さんは横山さんの依頼で今回の調査に着手し、5〜6万基の墓がある同墓地の地図計約80枚をくまなく調べ、探り当てた。現地を訪れると、いずれも長年にわたって放置された様子で、特に孫兵衛一族の墓所は樹木に覆い尽くされ、21基ある墓石のほとんどが倒れていた。

 遠州会金沢支部の竹内宗幸支部長が遠州流13世家元の小堀宗実氏(東京)に相談し、支部の教授会などの承認を経た上で墓の整備に乗り出した。竹内支部長の弟子で料理屋経営の鈴置善和さん(白山市)が造園業を営む中村満さん(同)らの協力を得て墓所を覆う木を切り、草を刈り、倒れた墓石を元に戻した。ほかの弟子も切った木を運び出す作業に汗を流した。鈴置さんは「遠州流の一員として何とかしたかった」と語る。

 整備された孫兵衛一族の墓所の広さは約80坪。中山さんは「孫兵衛の禄高は千石。千石でこれだけ広い墓所は破格だ。小堀一族が前田家から大事にされていたことがうかがえる」と指摘する。竹内支部長は「支部のみんなで墓をお守りしたい」と語った。

 横山さんは、県が発掘調査中の金沢城玉泉院丸庭園にも遠州の助言が生かされている可能性があると指摘。「利常は遠州の孫たちを召し抱えることで遠州との結び付きをより強めた。墓が見つかったことで利常と遠州の縁の深さを再認識した」と述べた。

 小堀遠州(1579〜1647) 安土桃山時代から江戸時代前期の大名。徳川将軍の茶道指南役を務めた茶人で、一流の建築家、作庭家。備中松山藩(岡山県)、近江小室藩(滋賀県)の藩主を務めた。前田利常と親交が深く、利常に庭づくりなどの助言をした。遠州の美意識は「綺麗さび」と呼ばれ、現在の遠州流茶道に続く。

153荷主研究者:2011/12/30(金) 22:52:02

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20111128/CK2011112802000061.html
2011年11月28日 東京新聞
「飯能戦争」の史実知って 幕末イケメン武士の刀も

展示されている渋沢平九郎の刀=飯能市郷土館で

 現在の飯能市などを舞台に旧幕府側と明治政府側が戦った飯能戦争のありさまを伝える特別展「飯能炎上」が、同市の飯能市郷土館で開かれている。当時交わされた書状や実戦で使用されたとみられる砲弾、幕末の“イケメン武士”として歴史好きの女性に人気がある渋沢平九郎の刀などが展示され、多くの客が訪れている。十二月十一日まで、入場無料。 (上田融)

 飯能戦争は、現在の東京・上野で政府軍と戦った旧幕府側の彰義隊から分かれた「振武軍」が、飯能に陣を構え、一八六八年五月二十三日(新暦七月十二日)に政府軍との間で交わした戦い。物量、兵力ともに劣る振武軍は敗走、戦いは一日で終了した。飯能の町では、民家二百戸超や六寺院が焼失する被害が出た

 振武軍は、維新後、実業家として名をはせた渋沢栄一のいとこ成一郎を頭取とし、幹部には栄一の養子の平九郎もいた。平九郎は、現在の越生町まで落ち延びたが、政府軍に見つかって負傷、自害したとされる。

 展示されている平九郎の刀は、自刃した際に持っていたもの。政府軍が持ち去り、行方知れずになっていたが、昭和に入り渋沢家に戻された。郷土館によると、一般公開は大変珍しいという。特別展では政府軍の主力だった大村藩(長崎)など九州諸藩の武将の写真、振武軍の兵士の羽織、実物大の大砲の模型なども並ぶ。

 企画した尾崎泰広学芸員は「太平洋戦争で大きな被害のない飯能にとって、ほぼ唯一の戦災。あまり知られていない地域史の一面を見てほしい」と話している。

154とはずがたり:2012/03/12(月) 09:06:42
SBI証券のメルマガより♪最近別の所で金次郎の話を聞いたばかりだが流行っているのか?掛川は大日本報徳社の本社がある街である。

< じぶん年金定期便 >
【 第4号 】
mail@sbisec.co.jp

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【二宮金次郎はどこへ行ったのか・・・?】       
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 古い小学校の校庭では、よく見ることが出来た二宮金次郎の銅像。最近ではすっかり姿を消してしまいました。
本当に懐かしいですよねぇ〜(えっ、年がわかてしまうって?)

 ところで二宮金次郎、薪を背負って本読むほどの勤勉な少年だったことは誰でも知っていますが、いったい何をした人物なのでしょうか?

 二宮尊徳(金次郎は幼名)は、1787年、小田原に生まれました。彼が生まれたのは、現在の日本のように人口が減少傾向にあり、経済停滞が持続する閉塞した時代だったようです。地方の農村では、飢饉が頻発し、娘の身売りや逃散(農民が自らの田畑を捨て、江戸などの都市部に逃げること)が絶えませんでした。国定忠治などの股旅物の多くは、まさにこの時代のイメージですね。

 農民の子として生まれた金次郎が、銅像のように勉学に励んだ結果、困窮に陥った大名家や村の財政を立て直す指南役として大活躍することになりました。金次郎をして、江戸の「名経営コンサルタント」と絶賛する人もいるくらいです。

また、金次郎の思想は、経済と道徳の融和を訴えます。
私利私欲に走るのではなく、社会に貢献することが結果的には自らに還元するという『報徳思想』を築いたことでも有名になりました。
その思想は、現代のビジネス界においても信奉者が多く、その勢いは海外にまで広がっているくらいです。
(報徳思想についての詳細は、『国際二宮尊徳思想学会』のホームページをご参照ください)

 金次郎は、このように“勤勉”、“藩や市町村の再建”、“報徳思想”で名を上げた人物として有名なのですが、今回は、金次郎の功績を別の角度から取り上げた猪瀬直樹氏(東京都副知事)の金次郎像をご紹介いたしましょう。

以下は、猪瀬氏の『二宮金次郎が薪を背負っている理由』(文春文庫)を参考にしています。

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【二宮金次郎ファンド(?)】
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 金次郎は、『五常講』と呼ばれるマイクロファイナンスのような融資制度を考案します。例えば、十両のお金を貸し付けたとします。相手は、町の金貸しが決して貸さないような農民です。毎年二両を返済してもらうことになるので、5年での完済となりますが、「5年間二両ずつ返済して生活ができたのだから、もう1年二両を支払っても大丈夫だろう」として、6年目にもう二両出させます。

ただし、この二両は自分の儲けではありません。『推譲』と呼び、五常講の新たな資金としてファンディングします。推譲されたお金は次の融資に使われ、次の推譲が生まれることで、次々と資金が膨らんでいきます。

次第に、二宮金次郎ファンドと呼んでも差し支えない規模に成長しました。金次郎ファンドは、最初は個人向けに融資していましたが、それが村単位の出資に拡大。さらに広がり、関東600カ村に融資するまでになりました。最終的には、関東平野の小大名や旗本にも融資をすることとなったのです。

155とはずがたり:2012/03/12(月) 09:07:02
>>154-155

あるとき、二宮金次郎は才を買われて、小田原藩家老である服部家の借金整理に知恵を貸すことになるのですが、金次郎が最初に行ったのは意外なことでした。金次郎は女中を全員集め「ススを1升持ってきたら2文やる」と指示します。女中は意味がわからなかったのですが、「二文もらえるなら」と一生懸命お釜を磨いて、そのススを金次郎のところに持っていきます。

当時は、お風呂の湯沸かしから飯炊きまで、すべてお釜で行います。そのお釜をピカピカに磨くことで、燃料効率のアップを目指したのでした。お風呂を沸かすのに、10本使っていた薪が7本ですむようになったら、3割のコスト削減につながるという意味です。

まずはコスト削減。そこで浮いたお金を運用して利益を出していくという考え方。このコスト削減の部分ばかりがクローズアップされて、「二宮金次郎=節約」といったイメージが定着していますが、金次郎の本質は浮いたお金を「運用」した点にあるのです。

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【キーワードは、『分度推譲』と『積小為大』】
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金次郎のこうした逸話は、低利融資、節約、運用といった彼の“利の悟さ”を想起させますが、その経済感覚の底辺にある思想を忘れてはいけません。

「人はお金だけで動かすことはできない」、「思想を農民の腹におとす」ことが何よりも重要であることを、農民出身の彼はよくよく理解していたのでしょう。

 金次郎の思想を端的に表している言葉を二つ、紹介することにしましょう。

『分度推譲』… 分度とは、自分の生活の「度」(レベル)を認識し、その範囲内で慎ましい生活をすること。推譲とは、今あるお金をすべて使い切ってしまうのではなく、一部を将来の生活のため、子孫のため、あるいは、公共の利益のために振り分けることが大切。それが、結果的には、自分の利益につながるという考え方。

『積小為大』… 小を積んで大を為す。節約の大切さを訴えるだけではなく、日頃の小さい積み重ねが出来ない人間に大事を為せるはずがないことを教える考え。

ところで今回の二宮金次郎のお話、「じぶん年金」と何の関係があったのでしょうか?実は、大ありでして、「じぶん年金」作りは、まさに『積小為大』、「分度推譲」の世界だったのです。

 なぜって、自分年金の積立投資は『小を積んで大を為す』ことで、毎月のお給料から積立金を捻出するのは『分度』、そのお金がやがては自分の将来の生活を豊かにし、子供や孫のためにもなる『推譲』につながるというわけです。

つまり、「じぶん年金」作りは、単に将来の経済的な豊かさを追求するためのものではなく、お金を積み立てることで自らの『徳』を築くことでもあったのですね。

【上地明徳のプロフィール】--------------------------------------------
株式会社SBI証券 特別顧問
信州大学経営大学院 客員教授
上地 明徳

学習院大学経済学部卒業、早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了。
モルガンスタンレー証券、明治学院大学経済学部非常勤講師、日本インベスターズ証券専務取締役等を経て現職。
来る人口減社会というパラダイムシフトに対応し、金融システム、年金、福祉、教育などの諸分野において、新たな社会システムをデザインする。
現在、特に、国の制度に頼らない自立した『じぶん年金』作りの普及活動、『人間を幸福にするファイナンシャルモデリング』の研究に注力している。

156荷主研究者:2012/05/09(水) 23:48:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/20120420t23017.htm
2012年04月20日金曜日 河北新報
弘前東照宮 国重文本殿売却へ 負債2億円、破産手続き開始

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売却される見通しとなった「東照宮本殿」=19日、弘前市笹森町

 国の重要文化財「東照宮本殿」(青森県弘前市笹森町)を所有する宗教法人「東照宮」(同市)が、青森地裁弘前支部から破産手続きの開始決定を受けたことが19日、明らかになった。工藤均代表役員によると、負債総額は2億円以上。本殿は競売などで売却される見通しだ。

 神社本庁(東京)によると、神社の破産は2003年の伊勢山皇大神宮(横浜市)に続き、全国で2例目。

 青森県神社庁によると、同宗教法人は「弘前東照宮」=?=を運営。1990年代に先々代の宮司が結婚式場建設などに過大投資をし、経営危機に陥った。2008年に競売にかけられ、本殿を除く拝殿や社務所と境内地は東京の不動産会社に売却。その後も債務の返済は滞り、先月30日、破産手続きの開始に踏み切った。

 県神社庁参事でもある工藤代表役員は「再建に向けて努力してきたが、資金面で行き詰まり万策尽きた」と話した。

 破産管財人の三上和秀弁護士は「文化価値の高い本殿を一般の方に売却した場合、管理に問題が生じる可能性がある」と話し、自治体など公的機関に売却を働き掛ける考えを示した。

[弘前東照宮]1617年、徳川家康の養女を妻に持つ弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)が、徳川家との縁を強化しようと弘前城内に創建。24年、現在の弘前市笹森町に移った。本殿は1628年建立。1953年、国の重要文化財に指定された。

157荷主研究者:2012/05/10(木) 00:11:01

http://www.at-s.com/news/detail/100116934.html
2012/4/19 09:20 静岡新聞
塩の道、往来はわずか? 定説覆す調査結果

 日本最長最古とされる「塩の道」で、旧相良町と長野県塩尻市を結ぶ信州(秋葉)街道の塩の往来は「わずかだった」という説が浮上している。塩は同町に面する駿河湾西側の釘ケ浦海岸で生産され、掛川、水窪などを経由して長野県側に運び込まれたというのが定説。ところが、調査に当たった沿道地域の研究家からは、定説を裏付ける証拠が「ほとんど見つからなかった」という声も上がる。

 「塩はデリケートな代物。雨水を受けると重量が増え、乾燥すると減少する」と話すのは、「秋葉街道信遠ネットワーク」の加藤定義さん(69)=浜松市天竜区水窪町=。荷主や荷受人、塩問屋などの間で度々トラブルが生じ、奉行所や代官所が調停に入ったが、その記録が残っていない点を指摘。「三河湾から足助(愛知県)を経由するルートなど、信州に塩が運ばれた道は他にも多くある」と説明する。

 新潟県糸魚川市からの千国街道には、急激な天候の変化に対応するため設けられた塩蔵が今も形を残している。ガイドブック「信仰の道 秋葉街道」著者の田中元二氏(47)=長野県=は当初、タイトルを「塩の道 秋葉街道」として秋葉街道の調査に当たったが、塩蔵など塩の往来を裏付ける資料が見つからず、変更したという。

 郷土史家の河原崎陸雄さん(63)=御前崎市=は、相良からの運搬はあったとする一方、「大量ではない」と話す。江戸や大坂などの消費地に比べ信州の人口は少なく、道も険しい事から、運搬量は「全体の生産量からすれば微々たるものでは」と推測する。

 日本最長最古の塩の道 太平洋と日本海の両側から塩尻市につながる全長350キロの道。旧相良町が起点の信州(秋葉)街道が南塩ルート(約230キロ)、糸魚川市からの千国街道が北塩ルート(約120キロ)とされている。

158荷主研究者:2012/07/01(日) 10:52:12

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/302421
2012年5月16日 00:46 西日本新聞
「女男石」存続ピンチ 朝倉市・小石原川 県道拡幅へ進む埋め立て計画

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20120516np302421.jpg
江戸時代初期に築造された「女男石護岸」。手前の二つに割れた巨石が「女男石」

 現在の朝倉地域一帯を治めた秋月藩初代藩主・黒田長興(ながおき)(1610〜65)が、江戸時代初期に小石原川に築いた「女男石(めおといし)護岸」を、県道拡幅工事で埋め立てる計画が進んでいる。同護岸は川の水流を緩める土木遺構で、地名にも名を残す地域の象徴。県道拡幅は通学路の安全確保を求める住民の要望がきっかけだっただけに地元に困惑が広がる一方、識者からは保存を求める声が上がっている。

 女男石護岸は、小石原川の流れがほぼ直角に曲がる朝倉市長谷山(はせやま)、千手(せんず)両地区付近の旧秋月街道沿いに位置。一対の巨石「女男石」と周辺の石積み護岸のほか、川底にも「捨て石」と呼ばれる巨石を配置し、今も現役で水流を受け流す働きをしているという。

 同市文化課によると、女男石護岸は初代藩主の長興が家老の堀平右衛門に命じた治水・利水事業とされ、1620年代の築造と考えられるという。福岡藩の儒学者、貝原益軒がまとめた「筑前国続風土記」に「婦夫(めおと)石」として記述されるなど江戸期から名所として知られ、地元の小字名「女男石」の由来にもなった。文化財指定はされていないが、同課は「400年近くも水流を制御し続けてきた極めて貴重な水利土木遺構」としている。

 一方で、女男石の脇を通る県道594号は道幅が狭く、5年前には登校中の児童が車にはねられる重傷事故が発生。住民の間で県道拡幅を求める機運が高まったという。

 県朝倉県土整備事務所によると、工事区間は全長440メートル。女男石付近の数十メートルの区間では、道路沿いに建物がある側ではなく、川側に向かって拡幅することとし、女男石護岸や川の一部を埋め立てるという。同整備事務所は「拡幅は住民の要望に基づくもの。工事区間に指定された文化財はない」とし、昨年度から用地買収を進めている。着工時期は未定という。

 近くの40代女性は「子どもたちの安全か、史跡かと問われたら、安全が大事だが、女男石も大切なふるさとの歴史遺産。工事のルートを変更して、どちらも守ってほしいというのはぜいたくな望みなのか」と戸惑う。

 事態を把握した県文化財保護課と同市文化課は、遺構の保存を求めて同整備事務所と協議中。同整備事務所は「有識者の現地調査が行われており、女男石の文化財的価値が整理された段階で(ルート変更などの)具体的な提案があれば、無視はできない」としている。

 女男石護岸を現地調査した九州大大学院の島谷幸宏教授(河川工学)は「女男石は治水の要。護岸、捨て石、対岸の形状などと一体で水流をうまく制御している」と評価。林重徳・佐賀大名誉教授(土木工学)は「土木構造物として価値が高く、自然と調和した景観も素晴らしい。壊さず、生かす方策を探れないか」と話している。

=2012/05/16付 西日本新聞朝刊=

161荷主研究者:2013/03/31(日) 22:14:24

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/346626
2013年2月4日 13:39 西日本新聞
「博多町家」8割消える 高齢化や地震響き保存が負担

旧唐津街道沿いの福岡市西区姪浜地区に残る町家

 商都・博多の往時をしのばせ、福岡市が特に保存状態が優れていると認定した伝統的な町家の約8割が、この20年余りで姿を消したことが市の文化財調査で分かった。市が1990年、旧街道沿いを中心に実施した調査では29軒の町家が確認されたが、このほど2010、11年度の追跡調査結果をまとめたところ、6軒にまで減少していた。05年の福岡沖地震の被害や所有者の高齢化で建て替えや解体が急速に進んだ影響とみられ、市文化財保護課は「福岡の町家は危機的な状況にある」と分析している。

 町家は江戸時代から戦前ごろまでの、日本人の生活や風土に根差した伝統的な木造家屋。間口は狭く、奥行きが深いのが特長。市内では旧唐津街道沿いを中心に残り、吉住家住宅(博多区上呉服町)、箱嶋家住宅(東区馬出)など4軒が国登録有形文化財に指定されている。国から指定されると、保存費は一部公的補助を受けられるが、市に登録されるだけでは公的支援を受けられない。

 市文化財保護課によると、1990年の調査では昭和初期までに建てられた町家が約400軒あり、年代が古く、保存状態も優れているとして29軒が最高のAランクに指定された。今回の29軒の追跡調査結果では、18軒(中央区9軒、博多区5軒、西区3軒、南区1軒)が建て替えなどで消失。4軒は「改造などで保存状態が思わしくない」としてBランクに格下げされた。1軒は不明だった。

 市が把握していない町家が残っている可能性もあるものの、福岡の町家が滅亡の危機にあるのは間違いない。

 市は町家などの伝統的な文化を後世に引き継ごうと、12年度に保存について市が助言する文化財登録制度を創設。所有者に活用を呼び掛けている。ただ、老朽化が進む町家の維持や修復には多額の費用がかかるとされ、財政支援がない登録制度の効果は未知数だ。

 90年の調査を担当した土田充義・鹿児島大名誉教授(建築史)は「伝統的な町家があれば街に個性が生まれ、人を癒やす効果もある。行政がまちづくりの観点で町家の果たす役割を位置付け、財政支援を含め、保存に向けた対策を講じる必要がある」と指摘している。

=2013/02/04付 西日本新聞夕刊=

162とはずがたり:2013/05/14(火) 00:20:24

「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代
2013年5月13日(月)14:44
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/life/20130513-567-OYT1T00675.html
(読売新聞)
 安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。

 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料 編纂 へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。

 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。

 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。

 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。

163とはずがたり:2013/08/01(木) 20:38:20

「竹島」領有示す最古地図 島根で2点確認 江戸中期に作製
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/snk20130801105.html
産経新聞2013年8月1日(木)14:42
 ■日本政府の主張補強

 江戸時代中期(1760年代)に作製された、竹島を最初に記したとみられる日本地図2点が確認されたことが1日、分かった。調査した島根県が特定した。2点は、竹島が記された最も古いとされる日本地図「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)の約10年前に作られ、同全図のもとになったとみられる。文献資料などをもとに「遅くとも17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」とする日本政府の主張を補強する材料となりそうだ。

 新たに確認された2点は、1760年代に作られた「日本図」と、明和5(1768)年の「改製日本扶桑分里図(ふそうぶんりず)」。水戸藩の地理学者、長久保赤水(せきすい)(1717〜1801年)が手掛けた。

 改正日本輿地路程全図も長久保の作製で、江戸時代に日本が竹島の領有権を確立していたことを示す証拠の一つとされる。2点は同全図の下図と原図とみられ、長久保が早くから竹島の存在をはっきり認識していたことを裏付ける貴重な資料となる。

 長久保の子孫で、茨城県高萩市の元教員、長久保甫(はしむ)さん(73)が高萩市教委に寄託したものを、島根県の竹島問題研究会が調査、作製年代を特定した。

 2点とも隠岐諸島の北西に、「松島」と表記されている現在の竹島、「竹島」と表記されている鬱陵島の島名が記されている。

 また、改製日本扶桑分里図には、地図上に縦と横の線が引かれていた。隠岐諸島から見た竹島と鬱陵島の位置が北北西から、より正確な北西方向に書き直された跡も残る。

 鬱陵島の横には「見高麗猶雲州望隠州」の表記も。「ここ(鬱陵島)から朝鮮(高麗)が見えるのは、ちょうど出雲国(雲州)から隠岐国(隠州)を望み見るようなものだ」との内容で、鬱陵島を朝鮮領と認識していないことが推認できる。

 県によると、韓国では竹島を正確に記した同年代の地図は一枚も確認されていないという。

 県は「長久保が竹島を日本領という認識で日本地図を作製していたことがはっきり確認できた。江戸時代から竹島を含む日本の正確な地図があった」と、日本の主張の正当性を改めて強調している。

 2枚の地図は、松江市の県竹島資料室で複製版を展示する予定。

 竹島問題に詳しい拓殖大国際学部の下條正男教授(日本史)の話「竹島の日本領を示す改正日本輿地路程全図の作製過程を知ることができる資料だ。日本政府の主張を裏付けることにつながり、今回の発見は大変評価できる」

164ロスチャイルド以上に注意!!:2013/08/02(金) 21:14:32
ロスチャイルドの密謀
ロックフェラー帝国の陰謀-見えざる世界政府(原著1976年)

国民は騙されるな!!
官僚・政治家・新興宗教・NHK・大マスコミ・東京地検特捜部・CIAは昔から結託している!!
■■ロックフェラー、ロスチャイルドが死んでも、謀略の全ては無くなったと思い違いしないように!!その上がいる。
■■工作員による、撹乱文・撹乱サイトに注意!!

165とはずがたり:2013/08/14(水) 18:05:07
そうだったんか。
>武士道という言葉は、明治時代になってから作られたという。しかも語源は西欧の騎士道だから、江戸オリジナルとはとても言い難い。

扇子で切腹?江戸時代は変な時代だって、知ってた?
http://woman.mynavi.jp/article/130531-057/
Update : 2013.05.31

時代劇でおなじみの江戸時代は、武家社会と庶民文化が並行し、独自の世界を織りなしている。

人情味あふれる印象とは裏腹に刑場見物が庶民の娯楽で、子供も大勢が集まったという。潔いイメージの武家では年金詐欺や偽装切腹が当たり前というから、とてもじゃないが楽しく暮らせる時代ではなさそうだ。


■役者気取りの犯罪者

当時、犯罪者に対する処罰は、庶民の目にとまるように公開式が多かった。これは戒めの意味で「悪いことをするとこんな目に遭うぞ!」という警告だ。時代劇の判決シーンでは「市中引き回しのうえ〜」が定番だが、これは犯罪者を移送する際に、罪状が書かれた札を掲げながら「さらし者」にする儀式で、義賊として知られる鼠(ねずみ)小僧治郎吉も受けたという。

人間は、恐怖を感じるものが視野に入ると、それを凝視する傾向がある。身の安全を確保するなら、脅威を見張っておく必要があるからで、対向車のライトがまぶしいと思った時、目をそらせば良いのに無意識に見つめてしまうのは代表例だ。同様に、世間を騒がせた悪党がどんなやつだか知りたいのも当然で、スリルではなく安全を求める行動と言えよう。ただし江戸時代ではこれが当てはまらない。退屈しのぎのアミューズメントと化していたのだ。

市中引き回しがおこなわれると、多くのやじ馬で町はごった返す。罪人も注目が集まるのが快感のようで、化粧をした役者気取りや、辞世の句と言わんばかりに和歌を詠む者まで登場したというから、刑罰なのかパレードなのか分からない。

刑場に着くと罪人は処刑され、これにも多くの見物人が集まったというから困ったものだ。現代風に言えば公開処刑だからできれば見たくないはずなのに、江戸時代では子供まで見物に来たと言う。さらに、人が大勢集まるといさかいが起きるのが世の常で、刑場の外ではやじ馬同士のケンカが多々あったという。混雑するなかで「見えない」「邪魔だ」的な話が想像できるが、役人の制止を振り切ってケガ人が出る大ゲンカもあったというから、あきれてものが言えない。

観衆の暴徒化はフーリガンにほかならない。時代劇ファンのお年寄りが知ったら、きっと嘆き悲しむだろう。

■扇子で切腹?
長らく続いた平和は武士にも影響し、「潔い」「武士の精神」は薄れ、インチキな文化が発達した。年金詐欺や偽装切腹である。

武家の収入は関ヶ原の戦いにまでさかのぼり、自分の祖先が挙げた功績によって大まかに決められた。また、個人ではなく家に与えられる仕組みで、そのため何年たっても戦がなくてももらえる制度だからうらやましい。

武家にとっても大変有り難い制度だが、「当主がいる=家が存在する」が支給条件だから、ケガや病気で急死すると隠ぺい工作がおこなわれる。子が大きくなるか養子をもらって準備が整うまで、当主は「自宅療養中」ということにし、もらい続ける詐欺が多発したのだ。

潔いイメージが強い武士も残念ながらほど遠く、他力本願な「なんちゃって切腹」も登場した。

武士の自決は切腹が定番だが、腹に刃物を突き立ててもすぐにはこと切れず、強烈な痛みを味わうことになる。そこで、長く苦しまないように介錯(かいしゃく)人がとどめを刺すのだ。

ところが長らく平和の続いた江戸時代では自刃できない人も登場し、刃の代わりに扇子を使う「扇子腹(せんすばら)」が登場した。要するに、自分は扇子で切るマネをするだけで、あとはお任せの構図である。なかには泣き叫び逃げ出そうとする者もいて、介錯(かいしゃく)人が押さえつけて無理やりおこなう他力切腹もあったというから、介錯(かいしゃく)人はつらいよ。

■まとめ

武士道という言葉は、明治時代になってから作られたという。しかも語源は西欧の騎士道だから、江戸オリジナルとはとても言い難い。

事実は小説よりも奇なり。時代劇や小説だけでなく、歴史書を読んでみるのが良さそうだ。
(関口 寿/ガリレオワークス)

166とはずがたり:2013/10/23(水) 08:43:13
ここ?

【画像】封印された日本のタブー...人権を無視した某集落の奇習「おじろく・おばさ」
http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000589.html
2013年10月20日

 長男以外の人間は、結婚もできず、世間との交流すら許されず、死ぬまで家のために奴隷のごとく働かされる......。いったい、いつの時代の、どこの国の話だと思われるかもしれない。しかしこれは、日本に20世紀まで実在した「おじろく・おばさ」という風習なのである。

 国土の7割が山である日本。山林によって隔絶された村では、独自の文化が発生する場合が多い。昔の長野県神原村(現・下伊那郡天龍村神原)もその一つだ。

 耕地面積が少ないこの村では、家長となる長男より下の子供を養う余裕がない。そのため、家に残った下の子供は「おじろく(男)・おばさ(女)」と呼ばれ、長男のために死ぬまで無償で働かされた。

 家庭内での地位は家主の妻子よりも下で、自分の甥っ子や姪っ子からも下男として扱われる。戸籍には「厄介」とだけ記され、他家に嫁ぐか婿養子に出ない限り結婚も禁じられた。村祭りにも参加できず、他の村人と交際することも無かったため、そのほとんどが一生童貞・処女のままだったと推測される。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。

 そんな奴隷的な状況が、ある種の精神障害をもたらすのだろう。おじろく・おばさは無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の行動は出来なくなってしまう。いつも無表情で、他人が話しかけても挨拶すら出来ない。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。

 16〜17世紀頃から始まったとされる「おじろく・おばさ」制度だが、もちろん現在の神原では、このような制度は存在しない。ただ明治5年でも190人、昭和40年代に入っても3人のおじろく・おばさが生きていたというから驚きだ。

 この辺りの状況を報告しているのが、『精神医学』1964年6月号に掲載された近藤廉治のレポートである。近藤は現存していた男2人、女1人のおじろく・おばさを取材し、彼らの精神状態を診断している。普段の彼らにいくら話しかけても無視されるため、催眠鎮静剤であるアミタールを投与して面接を行ったそうだ。すると固く無表情だった顔が徐々に柔らかくなり、ぽつりぽつりと質問に答えるようになったという。以下、その答えを抜粋してみよう。

「他家へ行くのは嫌いであった。親しくもならなかった。話も別にしなかった。面白いこと、楽しい思い出もなかった」

「人に会うのは嫌だ、話しかけられるのも嫌だ、私はばかだから」

「自分の家が一番よい、よそへ行っても何もできない、働いてばかりいてばからしいとは思わないし不平もない」

(『精神医学』1964年6月号・近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」)

 なにごとにも無関心で感情が鈍く、自発性が無くなった様子がうかがえる。

 この「おじろく・おばさ」の取材に先立ち、近藤は二つの推論を持っていたようだ。一つは、もともと遺伝による精神障害が多い集落であり、そのような人々がおじろく・おばさになるのではという説。もう一つは、気概のある若者は村の外に出てしまい、結果、無気力な者だけが残ったという説。しかしこの二つともが間違いであり、長年の慣習に縛られた環境要因によって、人格が変化してしまったのではというのが近藤の結論だ。彼らの多くが子供時代には普通で、20代に入ってから性格が変わってしまうというのも、その裏づけとなるだろう。

 今の我々からすれば非人間的にも思える「おじろく・おばさ」だが、一つの村社会を継続するためにやむをえない部分もあったのだろう。現在の地点から善悪を断罪することは、ここでは差し控えよう。

 ただもう一つ、この因習から読み取れるのは、疎外された環境が人格に影響を与えてしまうという点だ。これについては、劣悪な労働状況によって精神を病んだり、ひきこもりによるコミュニケーション障害など、現在の日本社会につながる部分もあるのではないだろうか。

 疎外された状況に置かれれば、それにやむなく適応するために人格も変化する。例えばブラック企業の言うような「本人が納得して働いているのだから問題はない」というのは、視点がズレた言い訳にすぎない。

 今は廃絶された「おじろく・おばさ」制度だが、社会が個人に影響を与える一つ例として着目してみれば、さまざまな示唆を与えてくれるだろう。

Written by 吉田悠軌

おじろく、おばさ Ojiroku, Obasa
http://psychodoc.eek.jp/abare/ojiroku.html

179とはずがたり:2014/01/04(土) 17:14:22

官兵衛生誕地つばぜり合い 姫路市、西脇市 大河ブーム見越し譲らず
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20140104067.html
産経新聞2014年1月4日(土)15:25

 5日から放映が始まるNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる戦国武将、黒田官兵衛(1546〜1604年)の生誕地をめぐり、兵庫県の姫路市と西脇市がアピール合戦を繰り広げている。姫路市が、黒田家の正史に官兵衛が姫路城生まれとの記述があるのに基づき、「ひめじの官兵衛」を打ち出すのに対し、西脇市の住民らは地元の寺に伝わる古文書に官兵衛が姫路城主の養子となったと記されていることから「こちらが生誕地」と主張。互いに官兵衛ブームを観光客誘致やまちおこしにつなげようと意気込む。

 ◆「姫路城生まれ」

 「ひめじ官兵衛」。姫路市ではメーンストリートの大手前通りや繁華街のみゆき通り商店街など至る所にこうした文言の旗やのぼりが掲げられ、官兵衛が姫路生まれだとPRする。

 その根拠は江戸時代の儒学者、貝原益軒が編纂(へんさん)を始めた「黒田家譜(かふ)」で、官兵衛が「姫路城で生まれた」と記されていることだ。同市教委文化財課の担当者は「学会では家譜が黒田家の正史と考えられ、それに基づいた理解をしている」と話す。

 市観光交流推進室の担当者は「大河ドラマを観光客誘致につなげるためにも『ひめじの官兵衛』というイメージは大切」と明かす。姫路観光の目玉である姫路城は「平成の大修理」の真っ最中。修理用建屋を解体するために併設の修理見学施設「天空の白鷺(しらさぎ)」が15日で閉館した後は、大天守に再び登れるようになる平成27年春まで観光客の減少が懸念される。その間の観光資源として、官兵衛ブームを活用したい思惑がにじむ。

 ◆「城主の養子に」

 姫路市に対し、「こちらが生誕地」と主張するのが西脇市黒田庄町。

 25年4月、住民ら約30人で結成した「北播磨黒田官兵衛生誕地の会」(森脇昇太郎会長)は、地元のJR本黒田駅に「黒田官兵衛生誕地」と記した看板を設置した。「黒田の里 官兵衛まつり」などのまちおこしを行っており、森脇会長は「地域をあげて全国に発信していければ」と意気込む。

 同会や市が根拠に掲げるのが、地元の寺で保管される古文書「荘厳(しょうごん)寺本黒田家略系図」だ。播磨黒田家の関係者の名前や役職、死亡年月日、法名などが記され、当時「小寺」姓を名乗った姫路城主、黒田職隆(もとたか)の養子になったという「孝隆(よしたか)」の記述があり、これが官兵衛だとしている。

 略系図は播磨黒田家の家系を抜粋したもので、「巳之二月」の記述から文化6(1809)年2月の作成とみられる。平成23年に姫路市で行われた官兵衛関連のイベントに出展され、研究者の目に留まったことがきっかけで脚光を浴びた。

 ◆議論が相乗効果?

 さらに25年7月、西脇市に近い小野市立好古館が黒田庄生誕説を後押しする古文書の記述を発見。小野藩主の先祖である一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)について書かれた「一柳家文書」の一つ「丙午録(へいごろく)」に、官兵衛が小寺職隆の娘を妻とし、養子となった−と記されていたという。

 職隆の養子となったくだりは黒田家略系図の記述とも一致し、一柳家文書は史料的価値や信憑(しんぴょう)性も高いとされる。

 略系図を保管する荘厳寺の堀井隆海住職(67)は「西脇生誕説はかなり信用度がある」と話す一方で、「姫路市と西脇市がアピールを繰り広げながら官兵衛ブームを盛り上げていってほしい」と期待を寄せる。姫路市側も「生誕地をめぐる議論が盛り上がって、結果的に官兵衛ブームが起こればいい」と話しており、両市の生誕地争いはさらに白熱しそうだ。

180とはずがたり:2014/01/20(月) 17:11:51
歴史を誇るなら佐竹なんだから水戸で政権取ってから威張れw
出羽の顕官は秋田城介と昔から決まってんだ♪

「細川氏には悪代官が付いてる」“秋田の殿”が苦言
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140120/elc14012015300008-n1.htm
2014.1.20 15:30 [東京都知事選]

 秋田県の佐竹敬久知事は20日の定例記者会見で、東京都知事選に出馬表明している細川護煕元首相について、小沢一郎生活の党代表らが支援している事実を挙げ、「細川さんは殿様でしょうけど、悪代官をいっぱい付ける」と語った。

 肥後細川家の18代当主である細川氏に対して、佐竹北家21代当主の佐竹知事が苦言を呈した形だ。

 佐竹知事は「小泉(純一郎)さん(元首相)はいいが、小沢さんだとか、いろんな人が付いてきた。付録がね。勝ち馬に乗って国政にまたと…。悪代官を切り離して孤高の戦いをするならいいが、変なのがゴジョゴジョ寄ってきて曖昧になる」と述べた。

 佐竹知事は会見場を出る際も「細川さんはそんなに古い大名じゃないんだ。700年くらい。400年くらいうちの方が先輩だ」と、“殿”同士の対抗意識を見せた。

181とはずがたり:2014/03/05(水) 13:30:59

2013/12/2 21:21
官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml

 兵庫県伊丹市は2日、来年のNHK大河ドラマで描かれる戦国武将・黒田官兵衛が伊丹の武将・荒木村重に宛てた書状を確認した、と発表した。ともに織田信長の家臣だったが、村重は信長に反旗を翻し、説得に訪れた官兵衛を有岡城に幽閉。“敵同士”のイメージが強いが、有岡城落城4年後の書状からは、豊臣秀吉の下で協力する2人の姿が浮かび上がる。

 同市によると、書状は京都市の光源院所蔵で、1583(天正11)年11月12日付。光源院は当時、現在の鳥取県にあった領地を地元豪族に奪われたため、秀吉に茶人として仕えていた村重に調停を願い出ていた。

 村重は、中国地方の領地問題を担当していた官兵衛に意見を求めたとみられ、この書状は官兵衛からの返事。解決への協力を約束した上で、「(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている」などと記されている。

 書状の存在は昭和初期の歴史書に記載されていたが、検証されたことはなかった。神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)によると、所蔵の書状は原本の写しで、村重が光源院へ送った可能性があるという。

 今井教授は「幽閉後の2人の交流を示す唯一の史料。官兵衛は非道な扱いをされた印象があるが、両者には一定の信頼関係があったことが分かる」と分析している。(太中麻美)

2013/12/2 20:13
黒田官兵衛、幽閉後も親しく 村重への手紙写し発見
http://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201312/0006542026.shtml

 兵庫県伊丹市にあった有岡城に約1年間閉じ込められた戦国武将黒田官兵衛が、幽閉した武将荒木村重に宛てた手紙の写しが見つかり、伊丹市が2日発表した。幽閉後の手紙が見つかるのは初めてで、調査した神戸女子大の今井修平教授は「2人は手紙をやりとりしていたようだ。幽閉があっても、親しい間柄だったのがよく分かる」と話している。

 手紙は天正11(1583)年11月12日に書かれたとみられる。。

182とはずがたり:2014/03/20(木) 15:18:26

秀吉の朱印状:朝鮮出兵の武器配分方法も指示…唐津で発見
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/20140319k0000m040059000c.html
毎日新聞2014年3月18日(火)20:05

 佐賀県唐津市教委は18日、豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592〜98年)の際、唐津藩主の寺沢広高に送った朱印状が見つかったと発表した。秀吉の命令を書記が書き記したもので、同様の朱印状は鹿児島県の「島津家文書」でも見つかっているが、市教委は「唐津の名護屋城だけでなく博多(福岡市)も、朝鮮半島に渡った将兵への食料輸送の拠点としていたことが記され、貴重な資料」としている。

 市教委によると、書状は縦45センチ、横65センチ。1598(慶長3)年3月18日作成とみられる。昨年9月、唐津藩家老の子孫で長野県在住の女性から寄贈され、矢部健太郎・国学院大准教授が鑑定。本物と確認された。

 寺沢は出兵時、名護屋城と釜山(韓国)の間を行き来し、将兵輸送のための造船のほか、釜山への武器・弾薬や兵糧の運搬、現地での配分を担当した。

 書状では、2万4000石の兵糧米について、出兵した各大名に博多で引き渡すので取りに行くよう命じたほか、朝鮮半島に送った武器・弾薬の配分方法なども指示していた。

 市教委の黒田裕一主査は「秀吉の考えが、戦場の大名にどう伝えられたかが分かる」と評価した。5月5日まで唐津市近代図書館で展示する。観覧無料。【原田哲郎】

183とはずがたり:2014/04/08(火) 22:48:00
坂本龍馬:暗殺直前の草稿…後藤象二郎に福井藩士を推薦
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/20140409k0000m040088000c.html
毎日新聞2014年4月8日(火)22:19

 坂本龍馬が暗殺される直前、土佐藩参政の後藤象二郎に宛てた書簡の草稿とみられる文書が東京都内で発見された。高知県立坂本龍馬記念館(高知市)が8日発表した。今月中にも同館で公開される。大政奉還後の新政府の財政担当者として福井藩士の三岡八郎(後の由利公正)を推す内容で、同館は「一級品の史料」としている。

 縦19.5センチ、横104センチの和紙に書かれ、日付がないことなどから草稿とみられる。東京都内の男性が20〜30年前に古物店で購入し、家族が保管していた。今年2月、個人の「お宝」を探すNHKの番組の取材過程で存在が判明。同館や京都国立博物館が筆跡などから直筆と断定した。

 記述は「越行(えつゆき)の記」で始まり、1867(慶応3)年10月15日の大政奉還直後に福井(越前)藩を訪ねた龍馬が同30日、三岡と面会したことを報告する内容。11月5日に京都へ帰り、同15日に暗殺されるまでに書いたとみられる。幕府の財政を調査した三岡が「(機能しておらず)気の毒」がっていたことに触れ、新政府の財政担当者には「三八(三岡)を置かバ他ニ人なかるべし」と評価している。

 三岡は後に明治新政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画。龍馬の推薦通り、新政府の財政政策に携わった。2人の会談は三岡の回顧録で明らかになっているが、龍馬側の記録は未発見だった。記念館の森健志郎館長は「経済で国を動かすという龍馬の政治理念や思想を感じさせる」と話している。【上野宏人】

184とはずがたり:2014/06/26(木) 14:21:04

2351 名前:名無しさん 投稿日: 2014/06/24(火) 12:14:54
林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)は23日、明智光秀の謀反で織田信長が自害した
「本能寺の変」の動機について、土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が関わっていた可能性を
示す手紙が見つかったと発表した。四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を
伝える書状。光秀は重臣が長宗我部家と婚姻関係にあったこともあり、専門家からは「信長の四国
討伐から元親を守る狙いがあったのでは」という見方が出ている。

手紙は、林原美術館が所蔵する、足利十三代将軍・足利義輝の側近「石谷(いしがい)家」の文書
全3巻47点の中から見つかった。信長は1581年、元親に「土佐と阿波半国しか領有を認めない」
と通達したが、翌年1月11日付で、明智の重臣・斎藤利三が実兄の義父で、元親の義父にもあたる
石谷光政(空然)に宛てた手紙では、反発する元親をいさめるために使者を派遣することや、空然
にも元親が御朱印(信長の指示)に従うように依頼する内容が記されていた。

 また、本能寺の変の直前に、元親が利三に宛てた5月21日付の手紙は「阿波国の一部から撤退
した。(信長が甲州征伐から)帰陣したら指示に従いたい」と伝え、元親が信長に対して態度を軟化
させたことを示していた。元親が信長に「従う」と示した史料が見つかったのは初めてという。

 ただ、5月7日には、信長は三男の神戸信孝を総大将に任命し、四国討伐に備えていたことが既に
分かっている。本能寺の変は、信長と元親の仲介役だった光秀が、四国討伐の方針に納得していな
かったのが原因の一つという「四国説」がある。内池英樹・県立博物館学芸課主幹は「光秀は態度を
軟化させた元親をはじめ、重臣の利三らと婚姻関係があった長宗我部家を守るために、信長の四国
討伐を止めようとしたのでは」と話している。見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から
公開される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140623-00000118-mai-soci

187とはずがたり:2015/01/19(月) 01:48:08
家康はなぜ日光で“神”になったか…「江戸の真北」に意味がある
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/snk20150117510.html
産経新聞2015年1月17日(土)10:08

 「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌(いはい)は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請(かんじょう)せよ」

 江戸幕府を開いた徳川家康は元和2(1616)年、75歳で亡くなる間際に側近を集めてこう遺言したとされる。

 久能山は家康が少年期と晩年を過ごした駿河にあり、江戸の増上寺は徳川氏、三河国の大樹寺は父祖・松平氏の菩提(ぼだい)寺。下野・日光山だけが生前の家康や徳川氏に特別なゆかりがない。「東照大権現」として今も人々の信仰を集める家康。なぜ、日光で「神」として祭られることを望んだのだろうか。

 奈良時代後期に勝道上人が開いたとされる日光山は、関東武士の尊崇を集めた山岳信仰の霊場だった。鎌倉幕府を開いた源頼朝も寄進をしていたが、戦国末期には衰退していた。

 源氏の末裔(まつえい)を名乗って東国をまとめ上げ、天下を統一した家康は、頼朝を尊敬していた。慶長18(1613)年には側近だった天台宗の僧・天海が日光山の貫主に就任。頼朝を意識し、「日光再興」を図ろうとした意図がうかがえる。

 日光は地理的条件にも恵まれていた。自然の要害で幕府防衛の拠点となる可能性を備えてもいたが、日光東照宮で長年神職を務め、「日光東照宮の謎」などの著作がある高藤晴俊さん(66)=日光市=は「日光が江戸から見て、北極星の輝くほぼ真北の方向にあったことに大きな意味があったのでは」と指摘する。

 北極星は、古代中国で宇宙を主宰する神と認識されていた。「天子南面す」の言葉通り、君主は北極星を背にして南向きに座し、神と一体となって国をつかさどるとされてきた。

 日光東照宮陽明門の真上には、夜になると常に北極星が輝いているのが確認できる。「北極星を背に江戸を守る」という宗教的意義を持った場所として、日光は最適だった。

 「日光市史」によると、家康の御霊を乗せたみこしは元和3年3月15日に久能山を出発。4月4日に日光山の座禅院に到着、儀式を経て正式に鎮座した。改葬は、よろいかぶとに身を包んだ騎馬武者や、やりを抱えた兵ら総勢1千人に及ぶ大行列だったとされる。日光東照宮で今も春秋の例大祭で行われている「百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列」は、この様子を再現したものだ。

 天下人となった家康が、恒久平和を願う神となるための重要な儀式だった日光改葬。大きな役割を果たしたのが、「黒衣の宰相」として辣腕(らつわん)を振るった天海と臨済宗の僧・崇伝、それに家康の葬儀を取り仕切った吉田神道の権威・梵舜という3人の聖職者だった。

 梵舜は、豊臣秀吉が死後に自らを「豊国大明神」として祭らせた豊国神社の創建に関わった。高藤さんは「秀吉を神格化した際の宗教的な奥義を知る梵舜に葬儀を任せたのだろう」と推測する。

 また、家康の神号をめぐり「明神」か「権現」かで論争が起き、秀吉と同じ「明神」を推した梵舜と崇伝に対して天海が「権現」を主張。論争に勝った天海が、その後の宗教的主導権を握ったといわれる。

 ただ、高藤さんは「日光への改葬には崇伝が大きな役割を果たした」との見方を示す。神号論争に敗れた「引き立て役」として語られることが多いが、高藤さんによると、慶長19年、家康が京の五山の僧侶に「論語」にある北辰(北極星)についての文章を書かせた際、崇伝が序文と跋文(ばつぶん)を加えている。

 家康を北極星に見立てる神格化の萌芽(ほうが)が垣間見える出来事で、「梵舜が神道の伝統にのっとり神格化への道筋をつけ、崇伝が日光遷座の設計図を描き、天海がそれを仕上げたという流れだったのでは」(高藤さん)。いずれにしても、綿密に計算された神格化であったことは間違いない。

 戦国時代の研究で知られる静岡大名誉教授の小和田哲男さん(70)は「家康は260年を超える太平の世を実現しただけでなく、いわば右肩上がりの拡張主義だった戦国時代から低成長・安定の時代へと舵を切った。現代にも通じる部分がある」と話す。

 冒頭に紹介した遺言は、「そして八州の鎮守となろう」と続く。家康の御霊は今も日光から江戸(東京)や関東、日本全体を見守っている。(宇都宮支局 原川真太郎)


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