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Japanese Medieval History and Literature
快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
山梨県史通史編 中世刊行のお知らせ
皆さんこんばんは、先日ご案内いたしました。
『山梨県史』通史編2 中世が刊行されました。
鎌倉時代から戦国時代の山梨の通史を紹介しています。武田信玄・勝頼はもとより、信玄以前の武田氏の研究は注目です。
定価は6500円です。申し込みは下記まで申し込んでください。
山梨日日新聞社 出版局
〒400−8515 山梨県甲府市北口2−6−10
電話 055−231−3105。
歴史の話からそれますが、古河公方の文書を所蔵しています。『鷲宮神社』が今ちょっとしたブームになっているのだそうです。アニメ『らき☆すた』の鷹宮神社のモデルが鷲宮神社なのだそうです。詳しいニュースは下記を見てください。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/comics_and_animation/?1185364256
>鈴木小太郎さん
ありがとうございます。これからもどんどんお知らせします。
農業というもの。
筆綾丸さま。
ご無沙汰しております。
山村研究をしている知人は、大学院時代に網野善彦氏に師事したのですが、師匠と酒席で「漆掻きは農業か?」「桑は?」「柿は?」「栗は?」しまいに「楮は?」という話になり、網野氏が「いや、それは農業じゃない」と力説するもので、ほとんど喧嘩腰になってしまったそうです。知人の言うには、「網野さん自身が、裏側から(排他律的に)農業という定義にこだわり過ぎなのではないか」ということでした。
したがって、「農本主義」なることばも、実は網野氏の内面に、深く刻印されており、それに対する近親嫌悪的な情があるのではないか、との疑念が浮かびます。
性格上、「定義」というものには、あまり近づかないようにしていますが、それでなくとも「農業」の定義は難しいだろうと思います。ある先史人類学者のいわく、「農業とは、ある生物がある生物に栄養摂取を目的として依存し、かつその生物を消費し尽くさないことである」。実は、ある種の淡水魚も菌類を「栽培」して消費し、かつ消費し尽くさないで「増殖を待つ」のだそうです。
で、栗なんですが、「地子」という徴収方法をとっているのは、栗がまさに「地面に落ちる」からで、「どの木になっていたかを問わない」からかも知れません。また、当時は「菓子(果子)」そのものに稀少価値があり、例えば金・銀と対比可能であって、その点で貨幣的な性格をもつ、とも言えそうです。
ただですね。一種の指数として扱われていたのは事実としても、最終的に人の口に入るものなんだから、栗の木を栽培するのもやっぱり農業なんじゃないの(前掲の「定義」)、という根本的な疑問があります。桑だって「農業」と思われていた節はあって、例えば伊予国弓削島は塩を年貢に出すので著名ですが、平安末期における塩はどういうわけか「桑」の本別にかかります。ちょっと事情があって、実はこの島には水田がほとんど無いんですね。畠はあるにも関わらず、それを飛び越えて「桑」を指数として、つまり一種の公田として塩年貢を賦課してしまう。要するに、桑と田の互通性みたいなものが見えてきます。
税の賦課方法という点で、別に考察は必要かと思いますが、農業・非農業という「網野史学」の分類法は、それだけではちょっと危ないかな、と考えています。
♪ 直前に勝手に宣伝 ♪
♪ 地方史研究協議会第6回研究例会 ♪
日時 2007年7月27日(金) 18:30〜20:30
会場 立正大学(大崎キャンパス)11号館第5会議室A(学術情報センター5階)
※JR大崎駅・五反田駅より徒歩5分
論題 伊予国弓削島荘の悪党(仮題)
報告者 渡邊浩史氏
???? 第58回(高松)大会の関連例会だそーです。
塩
kariさま
こちらこそ。ちょっと旅に出てました。
http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/insect/insect1.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A9%E6%AD%A9%E5%8B%95%E7%89%A9
ハキリアリは大変高度な技術者で、まさに agriculture という感じがしますね。むしろ、
horticulture(園芸)と言うべきかもしれませんが。ホモ・サピエンスがアグリカル
チャーを発見するのは新石器時代くらいからでしょうか。ハキリアリが農業に関する議論
を聞いたら、いまさら何を、と言うかもしれませんね。
最近よく、5、7、17、23 ・・・というように、素数年毎に孵化発生する蝉の戦略が話題
になりますね。この蝉は人類より早く素数を知った、と。素数なる高度な数学概念に太古
の昔から精通していたのだから、根っからの農業家ハキリアリより凄いかもしれませんね。
最近人気沸騰中のクマムシ君などは、数万気圧下でも、断じて死なぬそうです。人類で
あれ昆虫であれ、結句、種の保存が至上命題でしょうから、この虫などは、ほんとに偉い。
ただ、そんなに種を保存せんとしてどうすんだ、という気もしますが。良寛さんの言を
敷衍すれば、人類は滅ぶべきときに滅べばいいのですよね(笑)。
与太話はさておき、語弊があるかも知れませぬが、網野氏における一種精神病理学的な現象、
なんとなくわかるような気がします。弓削島の塩の数量単位といいますか、カウントの方法
といいますか、非常に興味深いお話ですね。
フランスのアンシャン・レジームでは、grande gabelle(大塩税:大西洋の塩田から取れ
る塩への税)と petite gabelle(小塩税:地中海の塩田から取れる塩への税)が有名で
すが、塩税の問題はどこの国でも難しいですね。
塩商人は saunier(女性形 sauniere)といいますが、機内で『ダヴィンチ・コード』
の仏訳を読んでいますと、ヒロインの祖父で殺されるルーヴル美術館長 Jacques Sauniere
のソニエールが気になりました。なぜ塩商人などという姓を撰んだのか、なにか神話的な
意味を込めたのでしょうが、筆者の意図がわかりませんでした。
釈由美子が好きさん
弓削島を根城にした塩ドロボーの話ですね。
>農業というもの
網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』の第5章で、
石井氏が「牧畜は農業でしょ」「養蚕は農業でしょ」と一々挙げていくのに対して、網野氏が「いや、それは農業じゃないですよ」と一々否定していたのを思い出しました。
てーぎ。
おはよーございます。
釈さん、復活いたしますです。
んで、定義ですが、kariさんと同じで、あたくしも、あんま近付きたくはないのですが、話の都合上、近付かざるをえぬ時ゃありまさね。
定義の定義は「概念の内容を限定すること」・「或る概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること」(『広辞苑』)でして、つまり「これは、こーゆーモンである」と決めちゃうことですわい。
あること(言葉)を「こーゆー意味です」と決めとかないと、議論が混乱しちゃうので、きっちり定義しとく必要があるわけですな。
何をどー定義しようが、その人の勝手ちゃ勝手なンでしょーが、議論の前提である定義が間違ってると、議論が全部、わやになりますわな。
理路整然と妙ちきりんなことをほざくことになるわけっす。
たとえば、泥棒を「泥で出来た棒」と定義しますと、これは、もう、わけのわからんことになる。
「泥で出来た棒」的なことを口走ってる研究て、けっこーあります。
[参考文献]安本美典氏『虚妄の九州王朝』(梓書院、1995年。13・14頁参照)
勝手に宣伝
皆さんこんばんは、私の所属しています『栃木県歴史文化研究会』で下記の研究発表会を予定していますのでふるってご参加ください。
第17回栃木県歴史文化研究会研究発表会
大会テーマ
??????????「武者たちの時代ー中世成立期の下野ー」
記念講演 10:50〜12:20
演題 「武者たちの時代と平泉政権」
講師 入間田宣夫氏 (東北工科大学教授)
研究報告 13:20〜15:20(各40分)
?「下野武士団の成立」
須藤 聡氏(群馬県立太田女子高等学校)
?「下野における中世寺院の様相」
大澤 伸容氏(足利市教育委員会)
?「大谷磨崖仏の歴史的評価について」
橋本 澄朗氏(しもつけ風土記の丘資料館)
質疑・討論 15:30〜16:30
開催日 8月25日(土)
場 所 栃木県立博物館講堂
????問合せ 栃木県立博物館 028‐634−1313
会員以外の方は参加費として500円いただきます。
皆様奮ってご参加ください。
もう一つ栃木県立文書館の研究紀要が発刊されましたので併せてお知らせいたします。
栃木県立文書館研究紀要第11号(開館20周年記念特別号)
中世史のみ掲出いたします。
論文
中世東国の大道について 江田郁夫氏
戦国時代常陸東林寺の動向について 荒川善夫氏
研究ノート
勧進聖頭白上人の探索 峰岸純夫氏
研究動向
下野中世史研究の回顧と展望ー『栃木県史』以降ー
松本一夫氏
価格は280円です。
問合せ、栃木県文書学事課情報公開推進室
電話 028−623−2073(月〜金、ただし土・日・祝日は休室)にお問合せください。
以上お知らせいたします。
今日は、
日本史アーカイブズ主催第2回「史料講読講座」でございます。
http://jparchives.sakura.ne.jp/kouza/siryohkohdokukohza.html
>参加者の方々
よろしくお願い申し上げまする♪♪♪
『茨城県立歴史館叢書11 鹿島神宮文書1』の予約申し込み
茨城県立歴史館の宮内教男氏からのメールを転送します。
茨城県側が、なかなか増刷を認めてくれない状況ということなので、
多くの方々が予約されるよう、お願い申し上げます。
<ご案内>
当館には鹿島神宮が所蔵する「鹿島神宮文書」(巻子本)が寄託されています。今回、
鹿島神宮のご協力により、「鹿島神宮文書」(巻子本)が、「茨城県立歴史館叢書11
鹿島神宮文書?」として刊行されることになりました。発行部数が少ないため(販売分
は100部+α?)、入手ご希望の方は予約していただければ幸甚です。予約は、メー
ルでお願いいたします。
│刊行予定 平成19年3月末????????????????????????│
│判型・頁数 B5判・300ページ(予定)上製・箱入│
│販売価格 ????3,000円〜3,500円(見込み)??│
│ (郵送をご希望の方は別途送料が必要となります) │
│予約期限 10月末日????????????????????????????│
│ 茨城県立歴史館 史料部歴史資料室 宮内宛????│
│??????住所 〒310-0034 水戸市緑町2−1−15│
│??????FAX??029−228−4277??????????│
│??????Eメール miyauti.norio@mail.ibk.ed.jp??????│
*次年度は、鹿島大禰宜家文書ほかを「茨城県立歴史館叢書 鹿島神宮文書?」として
刊行する予定です。
日付。
昨日の日本史アーカイブズ主催第2回「史料講読講座」、参加者13名♪
あのクソ暑い中で、お出で戴けたのじゃから、成功と言えよう♪
>ご参加戴いた方々
ありがとうごじゃいますた♪
>関さん
>『茨城県立歴史館叢書11 鹿島神宮文書1』
素晴らしい♪
お知らせ、ありがとうございますです♪
>相国入道さん
>第17回栃木県歴史文化研究会研究発表会
お知らせ、ありがとうございます。
あの、でも、日付が書いてないンですけんど・・・・・。
第3回「史料講読講座」のお知らせ。
日本史アーカイブズ主催第3回「史料講読講座」のお知らせでございます。
誰でも御参加戴けますので、お気軽にお出でください。
日時は、8月25日(土)でございます。
詳細は、 ↓ の通りです。
>>>>>>>>>>>>>>>
日本史アーカイブズ主催「史料講読講座」
○講師:細川重男(東洋大学文学部史学科非常勤講師)
○日時:2007年8月25日(土)
受付:午後1時〜1時30分
講義:午後1時30分〜4時30分(3時間)
○場所:江戸川区立小岩区民館3F講座講習室
http://www.city.edogawa.tokyo.jp/institution/01kuyakusyo/kuyakusyo03_03.html
JR総武線小岩駅の南口(イトーヨーカドーが無い方)を降りると、大きな通りが3本出てます。そのうち、向かって左手のサンロードという通りを、ひたすらまっすぐ行くとあります。
↑ のホーム・ページだと、駅から徒歩10分とありますが、私が歩いてみたら、ちんたら歩いても7分でした。
※バス:京成バス(小72)小岩警察・区民館前下車
○定 員:30名
○参加費:3000円(会場費・資料代込み)
○参加方法
前日までに「お問い合わせ」欄
(http://jparchives.sakura.ne.jp/cgi-bin/wmail/wwwmail.htm )
にメールで、お申し込みください。
★例によって古文書を読みます。いわゆる大学の講義でいう「古文書学」です。
今回は、書状(書状 お手紙)を読もうと思います。
前回、偽文書の話になったので、偽文書関連の話にしようと思ってます。
おもしろいはずです。
つっても、例によって全く独立した形でやりますので、前回出席されてなくても、ぜんぜん平気でございます。
★時間がたっぷりあるので、大学の講義より、じっくりやるつもりです。
ふるって御参加くだされ。
★あと、予習は、いりませぬ(やりようないし)。
社会人の人々が大半になるはずなので、その場で、すべてなんとかなるよーにやります。
復習は、各人の自由です。
★なお、「史料講読講座のお知らせ」
(http://jparchives.sakura.ne.jp/kouza/siryohkohdokukohza.html )
にも、同じ掲示を出します。
★ちなみに、次々回は、9月29日(土) です(場所未定)。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003515M.png
勝手に宣伝
ここでたびたび話題になる中前勉の例会です。
今週の土曜日になりますが、興味をお持ちの方、ぜひお越し下さい。
日時:8月4日(土) 14:00〜
場所:明石町区民館 8号室
東京都中央区明石町14番2号
03-3546-9125
http://www.city.chuo.lg.jp/sisetugaido/syukaisisetu/syukaisisetu05/index.html
交通:東京メトロ日比谷線築地駅下車3番出口 徒歩7分
東京メトロ有楽町線新富町駅下車4番出口 徒歩10分
都バス「東15甲・乙 東京駅八重洲口−深川車庫」聖路加病院前下車徒歩1分
報 告 者:前川辰徳 氏
タイトル:中世武士団(在地領主)と信仰、宗教施設―常陸平氏と鹿島社の場合―
コメント:近年、中世武士団(在地領主)を見直す研究が盛んになってきている。本報告では、中世武士団と信仰、宗教施設という側面から、武士団が地域社会の中でどのように成立、展開してきたのかを考えてみたい。素材としては、常陸国の有力な武士団であった常陸平氏と、一宮鹿島社を取り上げる。
参考文献:
野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館、2007年)
清水亮「養和元年の常陸国鹿島社惣追捕使職補任について」(『関東地域史研究』2、2000年)
石井進『中世武士団』(小学館『日本の歴史』13、1974年)
釈様すみません。
>釈由美子さんが好き様
申しわけありません。日付入れておきました。ただこの日は、第三回「史料購読講座」と同じ日なのでその点が残念なのですが。
>関周一様
ご無沙汰しています。「茨城県立歴史館叢書11 鹿島神宮文書?」私も購入します。早速申し込みますのでよろしくお願いいたします。
もう一つ、お知らせがあります。
昨日偶然知ったのですが、栃木県の佐野市郷土博物館におきまして、下記の講演会が開催されます。
開催日 8月19日(日)午後2時から午後4時まで
演題 「佐野周辺における武士団の成立」
報告者 須藤 聡氏(群馬県立太田女子高校)
問合せは、佐野市郷土博物館 電話0283‐22−5111
http://www.city.sano.tochigi.jp/city-museum/
以上お知らせいたしますとともに、釈さま日付を入れるのを忘れてしまい本当に申しわけございませんでした。
8月の中前勉
>かどたの法眼さん
>勝手に宣伝
ありがとうございます!
>みなさま
はじめまして。
8月の中前勉の報告者、前川でございます。
現在、常陸平氏などの中世武士団について勉強しております。
ところで、中世武士がどのように成立してきたのか、ということは、実のところ、まだまだよくわかっていないのではないかと思います。そこで今回は、武士団と信仰の問題、特に地域社会との関わりについて取り上げます。ぜひとも、みなさまには、忌憚なき、ご教示・ご指摘を下さいますようお願い申し上げます!
何人来てくれるかな?
>前川さん
がんばってね〜〜〜♪
ブログでも告知しちゃいましたンで。ひっひっひ。
>相国入道さん
>申しわけありません。
いえ、あたしゃ、別に困りませんのでして。
>同じ日
それは、それ。これは、これ。
ふう、やっと終わった。
ようやく夏休みになりました。
昨夜はついつい沖縄料理の店で、泡盛ストレートで5杯とか呑んじゃいました。
前川さんの発表は非常に興味ありますが、参加はさすがに無理でしょうねえ。まあ、京都にはいるんですが、それでも全然遠い・・・。
ところで、以前に投稿した史料と現代語訳に対する解説です。
<解説>
永徳2年(1382)正月、将軍足利義満が左大臣に昇進した。4月には後小松天皇が践祚し、後円融の院政が開始された。ちなみに、義満と後円融院の母親(紀良子と崇賢門院広橋仲子)は姉妹どうしで、彼らは「従兄弟」の関係にある。
9月、摂政二条良基と義満が後小松天皇の即位大礼の日程を後円融院に無断で決定する気配を見せたため、院はへそを曲げて義満の奏聞に取り合わず、結局、良基と義満は10月に正式決定を強行してしまう。明けて3年(1383)の正月29日、先帝・後光厳院の聖忌仏事が催されたが、院への強硬姿勢を示す義満の意志をはばかって、公卿・殿上人が一人も参加しないという事態が出来した。問題の事件は、その翌日に起こったものであり、明らかに義満に対する鬱憤が爆発したと解釈することができる。
『後愚昧記』の筆者は、被害者である三条厳子の父・公忠であるが、彼はこの二年前、家領の困窮を朝廷ではなく、義満に訴えるという「前科」を持っていた。この時、義満は四条坊門新町の土地を安堵するように後円融(当時は天皇)に奏聞したが、後円融はここでもへそを曲げ、娘の厳子(後小松天皇の生母でもある)に対して「出入り差し止め」の処分を下した。結局、公忠がこの土地を手放して事態は決着し、厳子との間には無事に次の子供も生まれるのであるが、「讒言」する人があった云々という記述から、どうやら院が「厳子が按察局と同様に義満と密通し、かつ子供も義満の子供ではないか」と疑っていたらしいことが推測される。日野業子を初めとして、側室に加賀局・新中納言局・一条局・三位局など、宮中・仙洞の女官を侍らせた義満のことであるから、院の疑念も故なきことではなく、義満の側にも言い訳できない弱みはあった。義満は2月の末になって「按察局との密通の事実はない」という内容の起請文(!)を院に奉り、和睦へと事態は進んでいく。これらをすべて取り仕切ったのも実は、院の生母にして義満の叔母、崇賢門院広橋仲子であった。
3月3日、「籠城」していた梅町殿から小川殿へ還御する院の牛車に義満が同乗(!)し、内外に公武の和睦が印象づけられたが、院にとってこの事件は最後の抵抗となった。今谷明氏が院を「最後の治天」と称する所以である。すでに院庁の構成員は、確認される限り、すべてが義満に臣下の礼をとっており、事件は治天の権力の崩壊を決定的にした。
三ヵ月後の6月、義満は左大臣のまま、准三后宣下を受ける。
参考文献:今谷明『室町の王権』中公新書、1990年
富田正弘「室町殿と天皇」『日本史研究』319、1989年
桃栗三年
収穫まで稲よりもずっとのんびり育つ栗の栽培が農業でないのであれば、稲作も農業ではないと言った方が一貫性がありそうですね。
最近、網野善彦氏が過言ではないと言っている殆どの見解は過言だと言っても過言ではないのではないかと思っております。
http://www.proto-ex.com/gentaiken/qa16momokuri.html
>皆様
先月26日の鎌倉遺文研究会例会では守田逸人氏が「常陸国府中の中世的展開と大掾氏」という発表を行いました。
このとき、常陸に詳しい前川さんが鋭い質問を連発し、面白い議論となったのを私が横で見ていまして、今回の前川さんの発表も武士団や宗教関係に詳しい人に広く来てもらった方がよい、必ずやそれだけの意義のある発表になるはずだと思って法眼さんに公開を提案した次第です。
是非、大勢の方にお越しいただきたいと思います。
という具合に、まだ若い前川さんにたっぷりプレッシャーをかけてみました。
わはは・・・。
>筆彩丸さん
>なぜ塩商人などという姓を撰んだのか
亀レスですみませぬ。
これは「レンヌ・ル・シャトーの謎」の主人公である司祭の名を借りたものであることを著者自身がどこかで書いているはずですね。
http://www.voynich.com/seminar.htm
ハリポタ
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/118103.html
『吾妻鏡』治承5年(1181)3月12日条に、「常陸の国塩浜・大窪・世谷等の所々を以て
鹿島社に奉寄せらる」とありますが、ここでいう塩浜は塩田で、塩(年貢)を鹿島社に納
めた、と理解してよろしいのでしょうか。
小太郎さん
そういうことだったのですね。ありがとうございます。
http://www.voynich.com/rennes/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9
レンヌはブルターニュのレンヌだろうと錯覚しておりまして、今回の旅行では、この伝説
の地を通り過ぎてしまいました。カルカッソンヌから少し南下すればよかったのですね。
お莫迦な話です。地図をみますと、カタリ派の廃墟群のいわば中心にあって、車で走って
みますと、あのあたりは、独特な印象を受けました。
今回、アンドーラ公国に行きましたが、バブル期の日本のような建設ラッシュでした。
『ダヴィンチ・コード』において、マルセイユで父親を殺したシラスはアンドーラの刑務所
に収監されますが、なぜフランス国内の刑務所ではないのか、刑事訴訟法上、おかしくない
か、というような疑問があります。
上のサイトに、ナポレオンの戴冠衣の黄金の蜂への言及がありますが、フォンテーヌブロー
城のナポレオンの間にビロードの幕があって、蜜蜂(abeille)の刺繍がありました。ナポ
レオンは、カペー(ヴァロワ・ブルボン)やカロリングを一気に飛び越えて、メロヴィング
朝の後継者をも自ら任じたようですね。
また、エジプト遠征の途次、ナポレオンはマルタ島に立ち寄ったとありますが、ふとニコラ・
サルコジを思い浮かべました。ハンガリー移民の新大統領は、コルシカ生まれのナポレオン
を意識している節があり、当選後、ジェット機でマルタ島に飛んでクルーザーで遊んでまし
た。これは、ナポレオンのマルタ島上陸を踏まえたもので、「歴史」を強烈に意識している
のかもしれないな、と思いました。そんなこと、フランスのメディアは何も言ってませんが。
フォンテーヌブローの城からSNCFの駅へ行くバスの中に、キッズの面倒を女房に任せた
スペイン人らしき父ちゃんがいて、黙々と英書を読んでました。何だろうとみてみると、
発売されたばかりのハリー・ポッターでした。畏るべし、ハリポタ!
>『後愚昧記』永徳3年2月条
御礼とお伺いと宣伝に参上いたしました。
>kariさま
投稿して下さった『後愚昧記』永徳3年2月条をUPさせていただきました。
興味深い記事をありがとうございました。
そしてUPするのが遅れてしまって申し訳ありません。
史料と現代語訳と解説と、全部のセットで組ませていただきました。
組んだのが私なもので、不備もあろうかと思います。
ご覧いただいて、問題点がありましたら御指摘下さい。直させていただきますので。
http://jparchives.sakura.ne.jp/document/medieval/db/gogumai1383_02.html
これとは別に、以前にUPしました、『園太暦』文和2年(1353)3月26日条について、柳田国男が「山の人生」で言及している部分も引用しましたので、よろしかったらご覧下さいませ<皆様方。
http://jparchives.sakura.ne.jp/document/medieval/db/entairyaku1353_03_26.html
塩浜。
高遠彩華さま。
ありがとうございました。割書きも、きちんと小文字にしてくださったのですね。
積み上げてみると、中々に壮観であります。
筆綾丸さま。
常陸国塩浜は固有名詞としての地名でしょうね。現在の日立市河原子にあたるそうです。
おそらくかつては本当に「塩浜」であって、それが固有名詞化したのでしょう。
ところで、朝日の『吾妻鏡』訓読文ですが、色々と無茶な訓みが多いように感じます。
「奉寄せらる」は「寄せ奉る」じゃないのかなあ、とか、(他日条で)何で古文なのに主格を示す「が」が使用されてるんだろう、とか、結構チクチク考えています。
アップ情報♪
↓ で高遠さんが書いてくだすったように、kariさんの力作、『後愚昧記』永徳3年2月条をUPしますた。
>kariさん
誠に有り難う御座りまする♪
>筆綾丸さん
すんません。また、ちょと忙しく、お話に参加できませぬ。
鎌倉観光文化検定
鎌倉観光文化検定、合格いたしました!
本日バッチと認定証と合格証書をいただきました。
自己採点で「大丈夫だろう」と思っていたのですが、やっぱり嬉しい。
…合格者のほうが落ちた人より多いらしいです。
満点の方も何人かいたと聞きました。すごいなあ。
父が某市の検定に合格しているのですが、そこでは、合格者を市役所に招いて、ひとりひとりに認定証を渡してくれたそうです。
んで、合格した人は、「町角にたってやってきた観光客のガイドをしてもいい」のだとか。
それって、一人で博物館に行ったときに、呼んでもいないのにそばに近寄ってきて勝手に解説を始めるおじさんみたいじゃないですか。(あれ、展示に集中できなくていらいらするんですよね〜。解説が聞きたければしかるべき機会にくるから、ほっておいてくれ〜と思います)
幸い父はそんなことをする気はなさそうですが、鎌倉検定も、町角で客引きができるのかどうかは、定かではございません(笑)。
話が変わりますが、下でも話に出ているこのHPの「史料」コーナーなんですけど、私のパソコンで開くと縦書きの文章と横書きの文章が重なって出てきて、読めないんです。
パソコンは買い換えたばっかりなんですけど…何でだろう?
どなたか心当たりがありましたらお教えください。なんかのソフトをインストールとかしなきゃいけないのかな?
全部横書きの史料はちゃんと表示されます。
史料購読講座
みなさま精力的にご活躍のようで頼もしいです。
史料購読講座、私も参加したいですが諸々の事情でかなわないでいます。
願わくば講座の内容、レジュメやレポートなどをネットで読ませてもらえるなら
とってもよいことではないかと思います。主に私にとって。
ご考慮いただければ幸いです。
>町角にたってやってきた観光客のガイドをしてもいい
沖縄に行ったとき史跡でガイドのボランティアを頼めるサービスがあったことを思い出しました。
鎌倉ではガイドのほうからやってくるんですか(笑)
仕事が山積みでござります。
>はぎつきさん
>鎌倉観光文化検定、合格いたしました!
おめでとーござります♪
>信楽さん
>ネットで読ませてもらえるなら
そのうちアップする予定ですので、少々お待ちくだされ。
もっと速やかに対応したいのですが、なかなか思うに任せず。
すんまへん。
鎌倉ホスピタリティ推進運動
>釈由美子が好きさま
お祝いのお言葉、ありがとうございます☆。
>信楽さま
直接お話させていただくのは初めてでしょうか?
はぎつきみたえです。よろしくお願いいたします。
(そうでなければすみません。このところ物忘れがいっそう激しくなっておりまして)
>鎌倉ではガイドのほうからやってくるんですか
やってきたら怖いですね〜。
鎌倉検定は、鎌倉商工会議所主催で、「鎌倉ホスピタリティ推進運動」=心のこもったおもてなし運動、の一環なのだそうです。
合格証書と一緒に来た「お願い」のなかでは
「もし街中で市民や来訪者の皆様から鎌倉についてお尋ねやご質問があった場合には、そのことについてご教示していただきますよう〜」
なんて書いてありますが、私のように鎌倉市民でない人もたくさん受験されているはずなので、町の角々に自称ガイドが立つなどといううっとうしい事態はないでしょう(笑)。
好きな町はマイペースでひとりふらふら散歩したいものです。私は。
>沖縄に行ったとき史跡でガイドのボランティアを頼めるサービス
鎌倉だと、シルバーボランティアガイド協会という団体さんがあるそうです。
http://www.kcn-net.org/npo/211.html
いやぁ〜
>町の角々に自称ガイドが立つなどといううっとうしい事態はないでしょう(笑)。
鎌倉の街中でもうじょうじょいますよ〜。
こっちでお願いしていないのに説明に入ってくる人は。
あぁ〜、話したいんだろうナァ、この人は。と思って流してますが・・・。
まぁ、そういう人がどういう立場なのかは知りませんけど・・・。
これがほんとの
>かどたの法眼さま
うじょうじょ!ですか?!
何回も被害にあってらっしゃるみたいですね。
かどたの法眼様に鎌倉で解説するなんて、これがほんとの釈迦に説法!ですね。
私は博物館とか資料館とか屋内でつかまるので、鎌倉では被害ゼロです。
>信楽さま
そういうわけで、鎌倉も油断ならないようです(笑)。
亀ですみませぬ。
>はぎつきさま
>鎌倉観光文化検定
合格、おめでとうございます(^o^)。
私も外はさほどではありませんが(中学生を捕まえたことはあります)博物館・資料館ではよく捕まります(笑)。
>史料
御指摘、ありがとうございます。
縦書きと横書きが重なってしまっているのは、
ブラウザがインターネットエクスプローラ7の場合のようです。
ブラウザの不具合とかの問題ではないと思いますので、ご安心下さい。
何らかの対応策を協議しますのでしばしお待ち下さい。すみませぬ。
忘れてましたが。
高遠彩華さま。
先の史料の現代語訳なのですが、実は一度書き直しているのです。左大臣から書状が届き、その邸宅に訪れて実情を報告したのは、公忠でなくてその息子の実冬なのでした。「編集済」の後の投稿を参照して頂ければ幸いです。
はぎつきみたえさま。
合格おめでとうございます。
どんな感じの問題が出たのでしょうか。
北畠親房の墓
四方田犬彦氏の『先生とわたし』(新潮社2007年6月)
明治の文豪の小説の中の題名のようだな、と思いながら買って、由良君美とは何者だろう、
と繰ってみると・・・。
「由良家は奈良市丹生町にある丹生神社の神官の家系である。丹生神社は他にも松阪を
はじめ近畿の各地にあるので、これは大柳生の丹生と最初に断っておきたい。(中略)
由良家はもとより南朝の遺臣の血を引く家柄で、漢文で記された『南朝編年記略』が
家伝として伝えられてあった」(100頁〜)
「(神宮皇學館学長の山田孝雄と由良君美の父哲次は)南朝の歴史思想家であった北畠
親房の事跡を探求することに、強い情熱を抱いていたのである。南朝崩壊の混乱のなかで、
この人物の墳墓は行方が定かでなくなり、数百年の歳月が流れていた。国体の尊厳と価値
を顕彰するためには、ぜひともこの始原の地を見定めなければならない。古神道に明るか
った哲次は講義の合間を縫って神宮文庫に希書を探索し、夜ともなれば山田と古文の輪講
を続けた。歴史哲学者と国文法学者は大和川の周辺をくまなく調べあげ、その努力のかい
もあって大和宇陀郡福西荘址に親房の墓所を発掘することに成功したという」(114頁)
橿原考古学研究所由良大和古代文化研究所基金は、由良哲次が設立したものなのですね
(133頁)
kariさま
塩浜のこと、ありがとうございます。
朝日の『吾妻鏡』訓読文、私も常々、変だなと思うところがありました。
釈由美子が好きさん
ご自愛くださいませ。
女ははかなき?かひなき?
>高遠彩華さま
お祝いありがとうございます。
…解説おじさんに捕まらないためには、年を重ねておばさんになるのが一番ではないかと。おじさんの苦手はおばさんだと思うのです(笑)。
せっかくこちらでお目にかかったので、時行に関係ある?お話をすこし。
今『曽我物語』を読んでいるのですが、十郎と虎御前の最後の逢瀬の時に「女に大切なことを打ち明けると、口が軽くてぺらぺらしゃべってしまうので、よくない」(←私の意訳)という部分があって。
これ、北条滅亡のときに、諏訪盛高が、ほんとは時行を諏訪へつれて逃げるつもりなんだけど、それをいうと、女は口が軽いから、ばれて追っ手がかかるかもしれない、と思ってうそを言って乳母を引き離した。って部分と似てる!と思いまして。
言葉は「女はかひなきもの」(『曽我物語』)「女性ははかなきもの」(『太平記』)と、ちょっと違うんですけども。
当時の常識としての女性観なのかな〜。仏教の影響とかあるのかな〜、とつらつら思っています。
>kariさま
>問題
4割が歴史や寺社の問題、あとが自然や景観、祭り・行事・産業についてなどなどです。
・鎌倉大仏の正式名称は。
・鈴木大拙が東慶寺に創設した文庫は何か。
・現在鎌倉で行われているカツオ漁の漁法は何か
・初代の鎌倉公方は誰か
・宝治合戦で滅びたのは何氏か
というような感じです。マークシートなんで、うろ覚えとか、漢字では書けないとかでも何とかなりました(笑)。
「女性ははかなき者なれば」
>kariさま
>現代語訳
すみませぬ、気付きませんで失礼いたしましたm(_ _)m。
修正させていただきましたので、ご確認下さい。
>はぎつきさま
>解説おじさん
おばさんになっても、解説おじいさんには捕まるかもですが(笑)。
>『太平記』
以前こちらで釈由美子が好きさまに御指摘いただいたのですが、
『太平記』の本によって北条時行の母親の名前が違う(「新殿」と「二位殿」)ことを知って以来、『太平記』という単語を見ると、「どの『太平記』?」と真っ先に思ってしまう自分がいます(^^;)。
『神田本太平記』も『西源院本太平記』にも、「はかなきもの」とありますね(「墓ナキ」とか漢字だったりはしますが)。
「はかなきもの」というのが当時(『曽我物語』や『太平記』が書かれた頃?)の女性観なのかは不勉強で存じませんが…。
現地説明会のお知らせ
皆様連日暑い日が続いていますね。くれぐれも体調崩さないようにしてください。
さて、本日は栃木県小山市にて中世遺跡の現地説明会が開催されますのでお知らせいたします。
日時 8月11日(土)午前10時と11時の2回。
場所 小山市の神鳥谷(ひととのや・しととのや)曲輪。
場所については、小山市文化振興課 0285−22−9668にお問合せください。
この遺跡は、先日『史料購読セミナー』でも取り上げてくださいました。寛喜2年小山朝政譲状の中にも記載されています。「重代屋敷也」の地と比定されている方形館遺跡であります。
この遺跡から、時期は13世紀末から14世紀末の、大量のカワラケと井戸跡が出土し、井戸跡からは、この時期の木枠が完形のまま出土しています。また宝篋印塔・火鉢の破片も出土しています。
まだ小山政光・朝政段階の遺物は出土していませんが、少なくとも小山義政の時期のものは出土しています。是非いらしてください。
>はぎづきさま
遅ればせながら、合格おめでとうございます。結構迷う問題が多そうですね。
>筆綾丸様
由良哲次氏は、『南北朝編年史』上・下巻(吉川弘文館 昭和39年刊)も出していますね。この時期の出来事がこの史料に所収されているということが紹介されていますので、図書館などで一読してみてください。
これはあまり知られていないことなのですが、由良氏は『南北朝編年史』の続編として、『後南朝編年史』(私家版)も出しています。こちらは南朝の事象がなくなる応仁の乱直前までの記録を紹介していますので併せてお知らせいたします。
>釈由美子さんが好きさん
暑い日が続いています。くれぐれもお体大切にしてください。
曽我物語
>相国入道さま
わざわざお祝いのお言葉、どうもありがとうございます。
>高遠彩華さま
>『太平記』という単語を見ると、「どの『太平記』?」。
いえ、ほんとそれは、必要不可欠な情報でございました。
曽我も太平記も、私が読んでいるのは岩波の『日本古典文学大系』です。
『曽我〜』は青洲文庫の十行本が底本です。
『太平記』は、本文のコピーしか手元にないのですが、流布本(慶長古活字本)だったのではないかと…これは確認してまたカキコします。(他にも気になっている方がいらっしゃるかもしれないので)。
『太平記』も『曽我物語』も、文学史年表で見たら両方とも14世紀後半だったので、「当時」とくくってしまいましたが、どれが底本になっているかで違ってきますよね〜。
アバウトですみません。
ところで。
『曽我物語』が意外に面白くてびっくりしています。
全部読み通すのは時間がかかりそうだな〜と思っていたのですが、なんのなんの。文章がリズミカルで、読んでてとても気持ちがよいのです。語り物だからかな?
読む前の曽我さんちの兄弟のイメージも、
五郎「兄上、五郎は悔しくてなりませぬ!」
十郎「耐えるのだ五郎。敵を討つその日まで、涙は胸にしまおうぞ!」
五郎「兄上〜!」
みたいな、けなげな兄弟の仇討ちまでの苦難と若くして散る運命に涙する悲劇的物語、だと思っていたのですが、実際に読んでみますと。
↓
十郎「五郎!お前は血の気が多すぎるっ!!ちったあ自重しろ!」
五郎「何だと!!ひとのこといえるのか兄貴っ!」
…という、まこと単純素朴で血気盛んなキャライメージに変わってしまいました(笑)。
そして、兄弟の運命より、あっちこっちで彼らがトラブルを起こすたび、無理無理事態を収めてくれる鎌倉武士の皆さんの苦労に涙してしまうのでした。
といっても、これからようやくクライマックスの仇討ちですので、読み終わったらまたまた印象が変わるかもしれませんし。
「祐成は、虎を具して、曽我に帰り、つねにすみける所にかくしおき、」という部分を読んで、「なんでこの時代の日本に(猛獣の)虎がいるのだ?」と、何秒か真剣に勘違いしていた私ですから、ちゃんと読解できるかはどうか微妙です(笑)。
勝手に(でもないか)宣伝
すみません、ちょっと横入りさせていただきます。
こちらや編集長ブログでたびたび話題に挙がっています再興中世前期勉強会(略称:中前勉)で持っていましたサイト“再興中世前期勉強会公式web。”を整理して、一般に公開しちゃおう!と相成りまして、本日、公開させていただくことにしました。
すでにこちらアーカイブズのリンクに貼っていただきまして、新着トピックスにも記していただきました。
公式サイトの方には、“次回月例報告”“月例報告記録”“『段かづら』”(目次のみ)“LINK集”を用意しています。
これからも必要なものがあれば充実していこうと思っています。
次回月例報告を見て興味を持たれた方は、一度参加してみて下さいまし。
ということで、宣伝というか紹介でした。
再興中世前期勉強会公式web。
http://www.toride.com/~czb/
姑獲鳥の夏
相国入道さま
ご丁寧にありがとうございます。
http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/3400889/s/
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070808k0000m040029000c.html
この本を読み終えて、新聞をみると、瓦の話がありました。本能寺の変の遺物としては、
はじめてですか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E9%A0%BC%E7%85%A7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E6%B0%8F
前から気になっていた本願寺の長袖者流武将(?)下間頼照をググってみると、常陸下妻
と関係が有るような無いような、親鸞流謫と関係が有るような無いような。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4642056378.html
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/120809.html
この本に、後鳥羽院の怨霊関係で、『明月記』嘉禄元年(1225年)の記載として、隠岐掾
という名の怪鳥の話があります。大きさは唐鳩くらいとのことなので、『明月記』承元2年
9月28日の鳩と何か関係がありそうな気がしますが、この鳩の化身が隠岐掾なのかしらん。
怨霊と鳥をめぐる民俗として、ほかにどのようなものがあるのか、どなたかご存じでしたら、
お教えください。
鳥も怪異のタネでした。
筆綾丸さま。
ずいぶん時代は下るのですが、『看聞日記』応永23年4月25日条によると、北野社に、頭は猫、身は鶏、尾は蛇の怪鳥が現れたそうです。他にも、同記にはいくつか怪鳥や鳥の異変の記事があります。将軍義持の時期には、室町殿や北山など将軍関係の場所で奇妙な現象が起こっており、権力の不安定さを象徴すると言われています。北野社もその一つで、尊氏以来、同社の松梅院は将軍の「御師」を務める僧侶が住したのですね。
http://kaiigakkai.hp.infoseek.co.jp/db_room/db-kanmon1.htm
西山克「怪異学研究序説」『関西学院史学』29、2002年
ところで、山田雄司氏と同じく上記HPの学会には、姑獲鳥(ウブメ)の研究を専門とする方(!)も所属されています。恐るべき学会であります。
なお、姑獲鳥については、
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB/
でも検索できたような気が・・・。
『吾妻鏡』にも。
最近、こちらは不参加気味の釈です。
鳥の怪ですが、『吾妻鏡』にもありますね。
弘長元年(1261)6月3日に、「海黒鳥」というのが将軍御所に落ちて来たンで、御所奉行の二階堂行方の郎従が捕まえて、海岸に放してあげたそーで、ただそれだけのことなンですが、幕府では「鳥怪」だと言うて、6日に陰陽師に占させてます。
牛と同じく、鳥にも分別はありませんから、どこにでも着陸するじゃろ? と思いますが。
鳥占
kariさま
いつもありがとうございます。おどろおどろしい名の学会ですね。
『看聞日記』に占める怪異譚の比率がわからぬので、なんとも言えませぬが、貞成親王は
怪異現象にビビッと感応しやすい体質だったのでしょうか。まるで鏡花の幻想世界のよう
で、なんだか嬉しくなってきました。尋常なことしかないこの世の中、こうでなくっちゃ
いけませんね(笑)。
「やもめ烏月夜鳴事雖常事」でいう「やもめ」は、寡婦か鰥夫か不分明ですが、ちょいと
艶っぽい烏ですね。やもめか否かの判断基準が神秘的ですけれども(笑)。
「蟻百度詣雖常事」には吹き出しました。
仲夏の炎天下、ゾロゾロお百度を踏む数万の蟻の、已むに已まれぬ願懸けの、涙ぐましく
匍匐前進する目も眩むような全総量(数万×百度×幾日=数千万?)に、そぞろ惻隠の情
をおぼえるともに、太筋如引という表現は、陽炎の南庭に、G線上のアリアのような、
善悪の彼岸のような、アリアドネの糸のような、在らねばならぬ極楽浄土への、ただ一条
の黄金の道標(みちしるべ・みおつくし)のような、ウエルギリウス的かくも不吉な欲望
とは何なのか、とうたた心がふるえました(笑)。
釈由美子が好きさん
いつもありがとうございます。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/others/ubune.htm
おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな 芭蕉
昔、長良川の鵜舟を見学したとき、ここの鵜は、茨城は五浦の海岸でとっつかまえた
海鵜を調練したものだ、と聞きましたが、『吾妻鏡』の「黒海鳥」とは、海鵜のような
感じがしますね。貞応元年四月にもこの鳥の死骸が漂着した、とありますが、貞応元年
と云えば、承久の変の翌年ですか。四十年も前への言及が気になりますね。
その後、実朝もよく主催した百恠祭が執り行われていますが、この行事、具体的にはどの
ようなものだったのでしょうね。鎌倉市も、世界遺産などはやめて、これを復元し、とき
どき実演してもらいたいな(笑)。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/5161/Hitoto.htm
相国入道さまの書き込みにある「神鳥谷」は、女性シンガーの名字と起源は同じよう
ですね。離宮の鳥羽という地名は、韓半島あたりから伝来したにちがいない鳥占と何か
関係があるのかしら。もしあるとすると、顕徳をやめて後鳥羽とした背景には、たんに
鳥羽院の後という意味だけでなく、言語文化的な怨霊対策として、何か深い意味がこめ
られているのかもしれませんね。
フランス語で、鳥占師を augure(オギュール)と云って、古代ローマに由来するらしい
のですが、oiseau de mauvais augure(悪い鳥占師の鳥)とすると、不吉な人、という
意味になるようです。後鳥羽(の怨霊)が、1240年代初頭の鎌倉幕府に、オワゾー・ド・
モヴェー・ゾギュールとして畏れられたのは、間違いないでしょうね。これからは、後鳥羽
さんのことを、oiseau de mauvais augure と呼ぼうかな。ピッタシではあるまいか。
二行報告
先日私のカキコの岩波古典文学大系『太平記』ですが、慶長八年古活字本(流布版本)が底本です。気になっていた方がいらしたらいけませんのでご報告まで。
貞応元=承久4年(1222)。
>筆綾丸さん
>貞応元年四月にもこの鳥の死骸が漂着した、とありますが、
対応する記事が貞応元年4月26日条にありまして、ここでは、ただ「鴨」と書いてあります。弘長元年(1261)6月3日の「海黒鳥」の割書には「海鴨と云々。名、一つにあらず」とありまして、『吾妻鏡』の編者の人は、なんか鴨の一種と思ってるみたいですな。
おっしゃる通り、私も海鵜じゃろうと思いますです。
http://www.geocities.jp/kamosuzu/umiu.html
ちなみに、貞応の時は、幕府は「七座百怪祭」をやってますが、この時は前浜・腰越なんかの海岸に大量に打ち寄せられた御様子なので、怪異と思ってもしょーがないですねェ〜。
この年は、8月に彗星飛びまくりで、幕府は、あわて狂い、拝みまくりで、そのオタオタぶりが、おもしろいです。
承久の乱やらかしたばっかですから、神経過敏だったのかもしれませぬ。
>はぎつきさん
>『太平記』
ふだん見る分には、古典文学大系本で全然かまわんのじゃが、一語一句にこだわる時は、古本(神田本とか西源院本とか)見たが良いですぜ。
笑ろてまうほど、文章が違うンですもの。
あのカッコ良い長崎高重も、高重じゃねェ〜し。
みなさまは他山の石としていただきたく
>釈由美子が好きさま
>文章が違うンですもの。
自戒いたします。
実は私もつい最近、「あれ、こっちの本だと肝心かなめの言葉がそっくり消えている!」という事例にぶち当たりまして、「何で?どーして?どーなってんの?誤植じゃないよねえ?!」
と、血の気の引くような思いをしたばかりでした。
曽我さんちの兄弟に気をとられていたとはいえ、基本は忘れずしっかりしたいと思います。
縦書きのことにつき。
>はぎつきさま
以前御指摘いただいた「史料」の縦書きのものが重なって読めなくなっている件ですが、
インターネットエクスプローラ7で読めるように修正していただいて、UPしたものが↓です。
現時点では『後愚昧記』永徳3年条など、いくつかは直っています。縦書きの史料の全部は修正できていないのですが、おいおい直していく予定です。
御指摘、ありがとうございました&ご迷惑をおかけしてすみませぬ。
>岩波古典文学大系『太平記』
了解しました、ありがとうございます。
ちなみに、「女性ははかなきもの…」という文言は、私が見た限りでは、どの本でもその表現になっていました。
見たのは神田本・西源院本・玄玖本・義輝本などです。
そう言えば我らが北条時行も、本によって幼名が違う(亀寿・兆寿・桃寿)ことを思い出しました。
http://jparchives.sakura.ne.jp/document/medieval/db/gogumai1383_02.html
読めるー!
>高遠彩華さま
>「史料」の縦書きのもの
わ〜い!本当だ!きれいに読める〜!
というわけでお手数おかけしました。
機械のことはわからないのですが、ありがとうございます。
私と同じように「読めん…」と思っていました皆様、これで存分に読めますね。
>おいおい直していく予定
お忙しいでしょうから、ほんとに「おいおい」ペースで大丈夫ですよ。
>我らが北条時行
うふふ、こんな風に言えるのは、今んとこ世界で高遠さまと私だけですね☆。
♪ コミケ情報 ♪
今年の夏コミ(コミックマーケット72)は、
期間:8月17日(金)〜19日(日)(http://www.comiket.co.jp/ )
会場:東京ビッグサイト(http://www.bigsight.jp/ )
である!
中前勉(再興中世前期勉強会)・日本史アーカイブズ関係の出店サークルは、↓ の2組織。
○「坂東御霊社」
8月19日(日) 西地区 ねブロック−11a
新刊:『曲解吾妻鏡』第三 ページ数、頒価未定
既刊:『曲解吾妻鏡』普及版 A5、28P、200円
○「北斗公館」
8月19日(日) 西地区 ねブロック−12a
新刊:中先代の乱の本を無料配布予定。
既刊:北条時行本3種、『一天両帝 参』
んで、この2サークルに委託して、
・中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会)
・『段かづら』2号、3・4合併号、5号(再興中世前期勉強会)
を販売予定(ちなみに、わしは売り子をやってるはず)。
「坂東御霊社」の『曲解吾妻鏡』は『吾妻鏡』ネタの4コママンガ、「北斗公館」の『一天両帝』は『太平記』ネタの4コママンガ。
『曲解吾妻鏡』には御内人(得宗被官)の実態を1コマで描ききった名作があり、『一天両帝』には結城上野入道と護良親王というスターが存在する。
激烈におもしろいから、買え!
三遊亭円朝『真景累ヶ淵』
釈由美子が好きさん
貞応元年4月26日条は、去年の兵乱以後の守護地頭の條々を定めた評議のあととして、
死鴨の話がきますので、承久の変と鳥の怪との関係に神経質になっている感じがしますね。
没官領の処分について、隠岐島の oiseau de mauvais augure はひどく不満らしく、
大量の死鴨を送りつけてきたが、なあにビビるには及ばぬ、百怪祭があるさ、というような。
ところで、百怪祭ですが、これはどう読むのでしょうね。
ひゃっかいさい、ひゃっけさい、ひゃけさい、はっかいさい、はっけさい、はけさい、
あるいは怪=鬼として、ひゃっきさい、ひゃきさい・・・、あるいは百目鬼のように「ど」
と読んで、どかいさい、どけさい、どきさい、あるいは大和言葉風に、ももけのまつり・・・。
http://www.kaidan-movie.jp/home.html
昨夜、この映画を見ました。円朝の代表作ですが、脚本家(奥寺佐渡子)は熱烈な鏡花
ファンらしく、さながら鏡花の世界で、ラストシーンの累ヶ淵は夜叉ヶ池でした。
ヒロインの豊志賀は夜叉ヶ池のサロメで、ヒーローの深見新五郎は洗礼者ヨハネです。
歌舞伎界の御曹司尾上菊之助は、たいへん色気のある役者さんで、将来が楽しみです。
宿命の男女が初めて言葉を交わす場所が、紀伊国屋なる紙問屋の店先で、美濃紙越前紙
という看板があり、この意味するところは、怪異譚は紙の上にしかない(言語表現にす
ぎない)という哲学の表明かな、と面白く感じました。
話が複雑。
>筆綾丸さん
>『怪談』
今、やたらにCMが流れてるあの映画は、『真景累ヶ淵』 が元ネタなんですか?
わたし、落語は聞いたことなくて、ストーリーだけ知ってるクチなんですが、あの長くて複雑(メチャクチャとも言える)を映画にするとなると、刈り込みが大変でしょーねェ〜。
恐かったですか?
>百怪祭
私、陰陽道は全然わからんのですが、『日本国語大辞典』だと「ひゃっかいさい」で良いみたいですねェ。
ちなみに、 ↓ な本があるのですね。
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/2390014.shtml
残暑お見舞い申し上げます。
日傘を買おう買おうと思いつつ、すでにお盆です。
下で釈由美子が好き様が紹介しておられるここ↓
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/2390014.shtml
とっても面白いですね!調べだしたらとまらなくなってしまった。
幽霊画
釈由美子が好きさん
http://www.dentan.jp/nezu/yanaka9.html
全生庵は一度訪ねましたが、まだ円朝の幽霊画コレクションは見ておらず、いつか行こう
と思っています。
『怪談』は、一箇所だけ、ギクッとしたところがありました。
映画を見ながら、ヒロイン豊志賀の怨みと崇徳院の怨みと、どっちが怖いかな、などと考
えているうちに、ふと、なぜ実朝は怨霊にならなかったのか、不思議だな、と思いました。
怨霊となって鎌倉で大暴れしてよい条件はすべて整っているのに。
怨霊の必要条件は、不条理な死因に誰もが同情するという共同幻想の存在かと思いますが、
実朝の怨霊が話題にならないのは、こういう共同幻想が欠落していたのかもしれませんね。
このあたりが、実朝没後の鎌倉の世情のよくわからぬところなんです。後鳥羽より実朝の
怨念の方がずっと怖いような気がするんですが。
実証は出来ないでしょーが。
>筆綾丸さん
実朝は『吾妻鏡』では、大変立派な青年将軍として描かれてますわな。
源家3代つーのは、鎌倉中・後期の武士達にとって「神様」になってたんでないでしょか?
頼朝と実朝は「立派な神様」、頼家は「荒ぶるメーワクな神様」。
神様だから、怨霊になンてならない、と。
>はぎつきさん
>とっても面白いですね!
でしょ?
怪異とか
繁田信一「陰陽師」(中公新書)、
動物が入り込んで怪異とみなされ、陰陽師に占わせて……というくだりを読んでいて、
平安貴族てのはよっぽど生活観なかったんだなーと思っていましたが、
覇府鎌倉でもやってたのですか。
ばかばかしいと思うのはわれわれには一般常識として自然科学の知識があるからですが、
その範疇から出たことに対しては、その対応は中世人とあまりかわらないのでは、とも思います。TVでは毎日、陰陽師の占のかわりに学者先生や解説委員の話をうかがっていますし。
……なに判ったようなこと書いてるんでしょうね、自分。
こん、こん。
>信楽さん
>動物が入り込んで怪異
『吾妻鏡』文治2年(1186)2月4日条ですな。
子ギツネが頼朝のベッド・ルーム(御帳台 みちょうだい)に入って来ちゃって、占いやったらよろしくなかったので。「荒神供」(こうじんぐ)をやりました、と。
今なら、
「あら、かわいい♪」
で済むんでしょーが。
もっとも、
「警備は、ど〜なってるンじゃ?!」
つー話にゃなりますか?
>陰陽師の占のかわりに学者先生や解説委員の話を
まったくで。
続、こん、こん。
釈由美子が好きさん
そうか、神様なんですね。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/baahy704/stratford2.htm
昔の受験英語の神様の本に、こん、こん、とドアをノックされたら、Someone in と
いうのだ、とありました。
叡尊と葉室定嗣の関係が面白そうだなと思い、追塩千尋氏の『中世寺院の僧侶と寺院』
(吉川弘文館2006年6月)を入手しましたが、追塩という珍しい名は、料理で云う「追鰹」
と同じ系列の言葉なのかしらん。
中世神話の成立と政治史。
>筆綾丸さん
>そうか、神様なんですね。
あたくし、マジな話で、頼朝挙兵から承久の乱までを「鎌倉幕府の神話時代」と考えておりまして、特に頼朝と義時は神格化していたのではないか? と思っとります。
んで、この「鎌倉草創神話」が、後の幕府政治史に与えた影響を重視したいのですが、どーやったら、実証的で説得力のある論述ができるか?、なかなかむつかしく。
やれやれな今日この頃でありまつ。
ゴーフキャキューサ
ご無沙汰しております。
メタボリックな私は健康維持のために運動しなければならないのですが、ここ数日は、熱中症で死ぬよりはマシだよね、という口実のもとにサボり気味です。
ま、昨日の最高気温40.9度っていうのはさすがに尋常ではないので、健康に自信のある人も暫くは無理しない方がよいみたいですね。
筆綾丸さんがリンクされているページの岩田一男氏の名前はなんだか懐かしいですね。
自分が受験生だった頃に比べれば今は本当に英語学習のための教材が豊富ですが、私が今どきの受験生にお奨めしたいのは英文読み上げソフトです。
いくつかのサイトで好意的に紹介されていた「ReadPlease」というソフトを半信半疑で試してみたところ、予想していたより遥かに自然に読み上げるので、ちょっとびっくりしました。
後深草院二条に関する英文サイトを読ませたら、Towazugatari が「トゥワズギャタリ」、GoFukakusa が「ゴーフキャキューサ」になったりするのはご愛嬌ですね。
ああ、素晴らしきキャマキュラ時代・・・。
http://www.readplease.com/
http://home.infionline.net/~ddisse/nijo.html #anchor258249
Lady Genki
お盆休みもそろそろ終わり・・・なのでしょうか。
小太郎さんの投稿にあったリンク先でちょっと吹き出してしまったのですが。
>Lady Genki
って、玄輝門院のことですよね?
最初は誰だろうって思いました。「げんき(元気!(^^)/)」という名まえの女性。
Ladyですか・・・
たしかに英語に直しちゃうと、そうとでしか表現のしようがないのでしょうね。
「女院」に類する制度、ヨーロッパ史を見渡してもちょっと思いつかないので。
女院自体が天皇の后妃にも未婚の皇女にも適用されるというような不思議な称号で、
すべての事例を包括できるようなぴったりくる説明がしにくいものがありますね。
註:玄輝門院 藤原[小音]子。洞院実雄の女。後深草后。伏見の母。
>玄輝門院
>藤原[小音]子
「こねこ」て読むンですかね。
だったら、かわいいですね。
The Confessions of Lady Nijo
>むらじさん
Karen Brazell氏の翻訳( The Confessions of Lady Nijo)を確認したところ、玄輝門院が「東の御方」として登場していた時期から、すでに「Lady Genki」にしてますね。
欧米で『とはずがたり』に言及する人の大半は Karen Brazell氏の翻訳一冊だけしか読んでいないのですが、1973年の時点で彼女が全訳を出したことは確かに偉業ではあるものの、荒っぽさ・強引さは否めないですね。
参考までに粥杖事件の部分を引用してみます。
--------------------
On the day of the Full-moon Gruel Ceremony,events occurred that were almost more than we women could bear: Not only did His Majesty beat us severely, but he then summoned his attendants and had them strike us too. This annoyed me, and so I connived with Lady Genki to retaliate on the eighteenth by beating His Majesty in return. On that morning, while GoFukakusa was finishing his breakfast, we assembled the ladies in the tray room and assigned each of them to a station. The ladies Shindainagon and Gonchunagon were placed at the door to the imperial bathing room; Betto and Kugo remained outside; Chunagon went to His Majesty's living room; and Mashimizu was stationed in the corridor. Lady Genki and I stood chatting in one of the end rooms.
“His Majesty is certain to come in here,isn't he?" she asked nervously. Then,just as we had expected, he entered the room, dressed informally in wide-legged trousers. His Majesty was blissfully unaware of what was about to happen.
“What's this? There doesn't seem to be anyone in my room. Is anybody here? "??At this moment Lady Genki seized him. “Oh, that hurts. Is nobody here? Someone help !” he called, but no one came.
Morotada was immediately outside the room and made an effort to come to GoFukakusa's aid, but Mashimizu, who was standing guard in the corridor, told him that we were busy and that he would not be allowd in. Seeing that she was armed with a stick, he turned and fled.
While this was going on I beat His Majesty so soundly that he apologized profusely and made a solemn vow: “Never again will I order others to strike you.”
--------------------------------
原文と読み比べると、けっこう面白いですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm
Karen Brazell氏の略歴(コーネル大学のサイトより)
http://lrc.cornell.edu/asian/graduate/EAL/faculty
>釈さん
>こねこ
海外で日本文学研究を始めたばかりの人が読んだら、本気にすると思われまする。
大女と小男
釈由美子が好きさん
玄輝門院の名を漢和辞典でみますと、左伝や文選や後漢書に用例があり、奥深く静かで
安らかな様とあり、音としては、イン・アン・オン、訓としては、よし、などとあり
ます。女院の御名は、父ちゃんの実雄を、さねお、と訓むとするならば、さねこ、と訓
じたのではあるまいか、そうなれば、こねこ、の友達になれる、などと妄想しました。
小太郎さん
His Majesty の「Is anybody here?」という御下問には、「Someone in.」と答える
のがエチケットかと思いますが、 Lady Genki はいきなり羽交い締めにしたわけですね。
この描写から推量できることは、Lady Genki は大女で、His Majesty は小男であった
可能性がなきにしもあらず、ということでしょうか。
http://www.nikkei-bookdirect.com/bookdirect/item.php?did=17077
さきほど、高橋昌男『中世しぐれ草紙』(日経出版2007年6月)という歴史小説を読み
ました。
14世紀初頭の洛中洛外が舞台で、大覚寺党と持明院党の対立抗争を描いたものです。前者
は権中納言洞院宗秀を首領とした秘密結社(暗殺団)を組織し、後者は検非違使別当坊門
道平を首領とした秘密結社(暗殺団)を組織し、相互に暗殺を繰り返す中に、権大納言
正親町公継の娘(しぐれ姫)と前近衛大将菊亭季治の忘れ形見(瓜生丸)の悲恋を配し
・・・というような話で、随所に?という感じでしたが、最後には驚きました。
持明院党の松尾帝が譲位し、大覚寺党の笠置帝が即位したが、この笠置帝とは幕府の将軍職
にあった守顕親王で・・・ときます。あの時代の政治史として、将軍から天皇へという栄達
の道(?)は可能性としてゼロであって、こういう設定は夢物語としても不可能だろう、と
思いました。
小男について。
>筆綾丸さん
>玄輝
左伝に出ているとは知りませんでした。どのくだりだか・・・って御存知ですか?
>小男
『増鏡』第五 内野の雪のさいごのほうに、
正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、余りささやかにて、また御腰などのあやしくわたらせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけるを、閑院内裏やけけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内裏の焼けたるあさましさは何ならず、この御腰のなほりたる喜びをのみぞ、上下思しける。
とあるように、「小柄で腰が悪く、閑院内裏が焼けたとき立てたので上下皆喜んだ」というくらい、身体にはハンデがあったみたいですね。
亀山はたしか美丈夫だったでしょうか。
父帝の後嵯峨も、私の中では美丈夫の部類に入るのですが。
そうすると、小柄というのは生母の大宮院から由来したものでしょうか。
おなじ西園寺腹の玄輝門院は大女だとすると・・・
いやいやきっと。レディ・元気ですから、体格のいかんにかかわらず、勢いで抱きついたのかもしれないですね。
・・・と、こういうつまらない当て推量には、ヒントの少ないクロスワード・パズルのような楽しさがありますね。
・・・あ。ぜんぶヨタ話ですよ(笑)。
『増鏡』の本文をのぞいては・・・
>中世しぐれ草紙
これは面白そうですねぇ。
公卿たちのなまえがいまいちウソくさいのが惜しいですが・・・
琴の空音
むらじさん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
脚萎え(?)の話で思い出すのは、池で舟遊中、白鳥の鳴き声を聞いてはじめて言葉を
発した、という誉津別王の啞の話ですね。ホムツワケは垂仁の長男ですが、皇位は
異腹の三男(景行)に行くのですね。ホムツワケの母(狭穂姫)は、兄(狭穂彦)に殉じて
焼死します。
後深草の脚萎えが治る理由は、嘘のような話と云うか(たぶん嘘だと思いますが)、
きわめて異常で、記紀との類似性が有るような気もしますね。『増鏡』の作者ともなれば、
記紀など大略暗記してるはずで、後深草の身体描写に何かを暗示したのかもしれぬ、と
いう感じもしてきますね。肉体的コンプレックスが政治や恋愛に及ぼした影響如何?
閑院内裏の焼亡がなければ、つまり、脚萎えのままであれば、践も登もできぬから、
践祚登極はなかったろう、というような意趣含みの表現といいますか・・・。
以上のような言い方は、今日、憚りがありますが、あえて書いてみました。
畏るべき諸橋大漢和に拠りますと(巻四の1118頁)。
? 安んじ和らぐさま。
(左氏、昭公、十二年)祈招之○○、式昭徳音。
祈招の○○として、式、徳音をあきらかにす(私訓)
? 和らぎ悦ぶさま。
(文選、琴賦) ○○琴徳、不可測兮。
○○の琴徳たるや、測るべからず、ああ(私訓)
? 奥深く静かなさま。
(胡茄) 空断腸兮思○○。
空しく腸を断つ、ああ、思い○○(私訓)
? 沈黙のさま。
(唐書、杜譲能傳) 朕不能○○度日。
朕、○○として日を度るあたわず(私訓)
玄輝門院は、不吉な?と?ではなく、?か?の佳例に拠るのでしょうね。
西園寺家は音楽の家だから、琴の徳の音は、平仄があっていますね。
『中世しぐれ草紙』には、久我内大臣頼忠とか、執権北条高敏とか、西園寺入道相国実道
とか、小倉山帝とか、音羽上皇とか・・・面妖な貴顕が色々登場します。
日出処の関白。
>筆綾丸さん
>高橋昌男氏『中世しぐれ草紙』(日経出版2007年6月)
ご紹介の ↑ これ、むらじさんもおっしゃる通り、おもしろそーですね。
小説は、荒唐無稽でも、おもしろけりゃ良いわけで。
「暗殺団が相互に暗殺を繰り返す」というのが、そそります。
今度、読みます。
>執権北条高敏
↑ この人は、得宗なんでしょか?
だったら、時政以来、初めて「時」の通字が付かない得宗になりますなァ。
>将軍から天皇へという栄達の道(?)は可能性としてゼロ
元が日本侵攻に成功して、西日本を占領してたら、惟康親王が即位してたかも、であります。
西国から大挙して逃げて来た長袖貴族達が、武力もないのにエバって、がちゃがちゃ口出しするので、キレた時宗が貴族達を大量虐殺して独裁政権を樹立、執権から関白に就任。
元の傀儡政権である西国王朝と時宗率いる東国王朝(つまりは鎌倉幕府)の間で、第2次承久の乱勃発! ・・・・・というよーな小説描いたら、おもしろくないですかね?
歴史小説
釈由美子が好きさん
久我内大臣の次男が執権高敏の一の腹心である長崎正則の娘を娶った、という記述も
ありますが、得宗のような得宗でないような・・・。
久我内大臣は、中納言の頃、宜秋門院との情事で宮廷を騒がせた、という記述もあり
ますが、時代が違うとは云え、宜秋門院は実在の人ですから、後鳥羽さんの逆鱗に触
れるかな、と思いました。
持明院派と大覚寺派の抗争を描いた歴史小説を、私は他に知らないのですが、我が国
で初めての試みでしょうか。
東西両王朝の戦争という小説、いつかお書きになってください。真っ先に読ませてい
ただきますね。
内ゲバ。
↑ こんな言葉、今の大学生くらいの年代の人々の大半は、きっと知らンのでしょーなァ。
>むらじさん
>閑院内裏が焼けたとき立てた
「クララが立ってる」というヤツですな。
>筆綾丸さん
>持明院派と大覚寺派の抗争を描いた歴史小説
「暗殺団が相互に暗殺を繰り返す」というのは、江戸幕末の京都における各セクトの殺し合い、暗殺合戦からの着想なんでしょーかねェ?
14世紀初頭も、幕末にゃ違いありませんからして。
忙しいのに、どん! どん! 読みたくなって来てしまった。
綿の脚
釈由美子が好きさん
新撰組の追跡をかわす桂小五郎幾松御両人の姿を、私は思い浮かべました。
後深草は、後鳥羽や土御門とほぼ同じく、四歳で即位したのですね(1246年1月)。
閑院内裏の焼亡は、宝治3年(1249)の2月だから、脚萎えが癒えるのは七歳ですね
(蛇足ながら、この一連の火災は、佐渡院の怨霊に起因するようですね)。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124900.html
『葉黄記』で、即位後の大甞會御禊の模様などを読むと、後深草の体は不自由では
なかったような感じがします。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124610.html
脚萎え(les jambes en coton =綿の脚)であれば、後深草は、即位の時、独りで
高御座に登れなかったろう。身体にまつわる制度的なものの存在はわからぬながら、
不自由な体に、四歳の即位はありえたろうか、忌避されたのではあるまいか。身体の
異常性に対する制度的な圧力のようなものは、中世という時代、非常に強く働いたの
ではないか。不自由な体は何かの祟りであり、そのような人が皇位を継承するのは、
あの時代の政治哲学としてありえないのではないか。
『増鏡』には、何か作意があるような気がします。後深草の身体描写は虚構ではな
いか。なぜかはわからぬのですが。
抗争。
>筆綾丸さん
>持明院派と大覚寺派の抗争
実際は、抗争つーても、やってることは「幕府へのおねだり競争」ですから、平和つーか、かわいいモンですよね。
物騒なのは、正応三年(一二九〇)三月に伏見天皇が暗殺されかかった浅原為頼事件(http://jparchives.sakura.ne.jp/incident/medieval/db/1290_fusimiansatsu.html )くらいでせう。
その点、鎌倉幕府の政治抗争は、ホントに殺しますからねェ。
しかも、江戸幕末のテロ合戦みたいに動乱期の熱に浮かされてのものと違って、恒常的に殺し合ってますから、マジ、ヤバイですわな。
さすがは、東夷。
もっとも、朝廷だって、奈良時代の貴族・皇族間抗争は、まさに血で血を洗うモノでしたが。
[参考文献]中川収氏『奈良朝政争史―天平文化の光と影―』(教育社、1979年)
むか〜〜〜し、紹介しましたが、↑ これ、ちょー! おもしろいっす。
幕府へのおねだり競争?
持明院派と大覚寺派の抗争って
これ、南北朝の争いですよね。
なんで、これが、平和でかわいいんだ。
それに、南北朝の合一は、交互に皇位を継ぐという話だったのに、
北朝がこれを破り、南朝側は、後南朝を建てる。
そして、後南朝の二人を暗殺して、本当の意味で南北朝は終わるのである。
『恋時雨稚児絵姿』
>筆綾丸さん
>むらじさん
カメ気味レス、すみませぬ。
似せ絵の一例である『天子摂関御影』という作品が残されているのですが、それを見ると後嵯峨院・亀山院・後宇多院・伏見院がほぼ同じくらいの体格なのに対し、後深草院は明らかに小さく描かれていて、後深草院が小柄な人物であったのは確かみたいですね。
『増鏡』の閑院炎上の場面、話が面白すぎるので私も事実とは思えないのですが、微妙な記事ではありますね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu5-gofukakusatenno-genpuku.htm
『徒然草』第33段を見ると、玄輝門院は聡明で思慮深い女性だったようです。
『とはずがたり』の粥杖事件での活躍ぶりは、監督二条による演出だと思いますね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-33-imanodairi.htm
>『中世しぐれ草紙』
私は高橋昌男氏の名前を知らなかったのですが、1935年生まれで、『三田文学』の編集長を務め、何度も芥川賞候補となっている練達の小説家なんですね。
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun78TM.htm
『中世しぐれ草紙』は「鎌倉末期の京。公卿邸で出会った美しい姫君と吉野山の稚児の恋が、宮中の陰謀に火をつける−。上方で出版された読本のひとつ、『恋時雨稚児絵姿』なる中世譚の現代語訳。作者未詳の戯作を恋愛心理小説として自在に訳出」した小説だそうで、この『恋時雨稚児絵姿』というのが気になりますね。
http://www.maruzen.co.jp/shop/item_detail.html?item_cd=MJ07061190&category_cd=30100160130
>松本さん
はじめまして。
>なんで、これが、平和でかわいいんだ。
『中世しぐれ草紙』が出発点で、鎌倉末期の話をしている訳でしょ。
京都の鎌倉への陳情合戦など「平和つーか、かわいいモンですよね」という釈さんの評価は別におかしくないと思いますが。
話が転がってきたな。
>小太郎さん
ども。やっぱ、読みたいですな。でも、読むより、書くのが忙しいっす。
>松本さん
らっしゃい。
分かり難い書き方で、すんません。
↓ で、小太郎さんも書いてくれてる如く、私が言うてるのは、鎌倉末期の話です。
南北朝は、おっしゃるよーに「歌書よりも軍書に悲し」で、抗争つーよりも、戦争そのものでさね。後村上天皇なんか、御自ら鎧着てますし。
後南朝は、悲惨過ぎです。
鯰尾
釈由美子が好きさん
http://www.asahi-net.or.jp/~HD1T-SITU/nendai/128900.html
http://www.asahi-net.or.jp/~HD1T-SITU/nendai/129000.html
??4月 胤仁親王、物心つかぬまま、立太子
??(この間、異賊警固の執達、火箭の如し)
9月 亀山院出家
(緻密な布石か、将又、定石破りの奇手か)
同月 惟康親王、都へ配流、嵯峨で出家
(落飾後、逍遥、徐に大覚寺の門を蹴飛ばし、秉燭之頃、帰庵)
10月 久明親王、仏頂面で、鎌倉へ下向
(この間、飯沼助宗、玉響の我が世の春を謳歌)
12月 何故か、円覚寺焼亡
??3月 浅原為頼、蹶起・割腹、叛意は春の朧夜の如し
(この間、宰相中将折檻、濡衣か)
10月 一遍、笑うが如く、示寂、釈尊、嘉し給い、風花舞う
こう、恣意的な時系列を作ってみますと、非常に象徴的な事件と思われるのは、円覚寺
の焼亡ですね。これは放火で、浅原の蹶起を促す狼煙なのではあるまいか。北鎌倉の空
を掩う黒煙は、反得宗の黒幕(って、誰?)のようだ。狼煙から蹶起までうかうか間延
びしてしまい、これが事件の背景を不分明にした、というところが、怪我の功名(?)。
三条家伝来の名刀「鯰尾」ですが、瓢鮎図のように、つるつるすべって、これでは腹が
切れまい、と思いましたが、杞憂のようですね。
浅原の次男は腸を全部ぶちまけていますが、割腹時の武士の嗜み(?)を示すこの表現
は、文献上、かなり早いものでしょうか。
久明親王下向の時に、女騎狩装束とあり、騎馬の女性がいたのですね。親王将軍の行列
とは云え、女性の乗尻とは珍しいですね。
小太郎さん
小松茂美氏の『天皇の書』(文春新書)所載の法皇晩年の書と、『増鏡』の幼少時
の身体描写を比べますと、落差がありすぎるんですね。書と身体に相関関係などな
いだろうとは思うものの。
高橋昌男氏は、あの複雑怪奇な時代をよく小説にしたものだと、まずそのことに驚き
ました。
というところで。
折しも、播磨・美作の国境である杉坂峠に行ってきました。
周知のように、後醍醐天皇が隠岐への配流の途次、ここの関を通り、児島高徳が帝を奪還しようとして失敗した、という場所です。現代では、ほとんど人跡未踏のような土地になっていますが、かつては山陰方面との重要な交通路として栄えたようです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003579.jpg
天莫空勾践、時非無范蠡。
てんこーせんをむなしゅーすることなかれ。ときにはんれーなきにしもあらず。
>kariさん
>児島高徳が帝を奪還しようとして失敗した、という場所
つまり、高徳が ↑ の詩を書くために自然破壊をおこなった場所ですな。
後醍醐には、この手の「忠臣」が多いのに、人材の使い捨てが目立ちますよねェ。
旧日本軍みたい。
>筆綾丸さん
年表を改めて見させて戴くと、持明院統の久明の鎌倉下向に、大覚寺統があせり、結果、引き起こされたのが、浅原事件・・・・・みたいな発想に、私はなります。
無粋な上に、単純なんですな。あたくし。
アップ情報♪
むらじさんが、今話題の、
高橋昌男氏『中世しぐれ草紙』(日本経済新聞出版社、2007年6月)
の書評を書いてくださいますた。
是非、ご覧下さいませ。
http://jparchives.sakura.ne.jp/column/db/shosekishoukaishigure.html
この即応性がネットの利点♪
感服
むらじさんの、いつもながらの見事な書評、感服致しました。
随所に、むらじさんの慧眼が感ぜられますが、
「わたしのなかで久我頼忠の姦計はイアーゴウのそれなのであり、瓜生丸と公幸との剣を
交えての対決はハムレットとレアティーズのそれであり、かみ合わない男女の感情のもつ
れは『夏の世の夢』や『十二夜』等々のそれと同種のものなのである」
というところは、さすがですね。私などはぼんやりしていて、全く見抜けませんでした。
kariさま
http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200702250016.html
今年の冬、隠岐国分寺が焼け、蘭陵王の伎楽面も焼失したようですね。
公爵近衛文麿揮毫の石碑と、跡地に近接する闘牛場が、とても印象深かったですね。
http://www.renkeijiku.net/roman/html/roman/shimane/shi_s04.html
黒木御所の碑は、誰の書か、忘れましたが、背後の崖は鳶が営巣しやすそうでした。
御写真の中で、斜行的な石積みの壇が、私には珍しく思われるのですが、これはこの
地方独特のものですか?
話の続き。
編集長さま。
さすがに詩を刻んだという桜の木は残っていないようでした。
むしろ刻んだからこそ、枯れちゃったのかも・・・。
筆綾丸さま。
この石積みには私もぎょっとしたのですが、ちょっと謂れがあるようです。
実はこの石碑の右隣に顕彰碑が建っており、発願者は津山出身で三代目の早稲田大学学長・平沼淑郎、連名には兄の平沼騏一郎(時に枢密院議長)、他に宇垣一成、犬養毅が見えます。碑は昭和6年(遷幸600年記念)のものですから、犬養にとっては暗殺される一年前にあたります。こうした錚々たる人々の肝煎りで、何らかの意匠が凝らされたということでしょうか。ただ、この手のものは私も見たことはありません。むしろ、古代寺院の基壇などを思わせるところがありますね。
御礼とお知らせ。
本日は、栃木県歴史文化研究会大会にご参加くださいまして本当にありがとうございました。
この掲示板を見て参加された方々もいらして本当に盛況でした。
講師の入間田先生もとても喜んでくださいました。また来年も開催いたしますので、
皆様お待ち申し上げます。
さて本日は講演会のお知らせがございます。
?栃木県中世考古学研究会第9回研究会
日時 平成19(2007)年10月27日(土)午前10時から午後4時
場所 上大羽交遊館(栃木県益子町大羽・地蔵院前)
参加費 2,000円(資料代・昼食代等)
内容
午前10時開会
10:10〜11:20 地蔵院の勢至・観音菩薩像について大澤慶子氏
11:20〜12:00 益子氏について 鴨志田智啓
12:00〜1:00 昼食(お弁当を用意いたします)
1:00〜1:30 地蔵院出土の中世瓦について 大澤伸啓氏
1:30〜2:00 茨城県の中世瓦との比較 比毛君男氏
2:10〜3:00 討論
3:00〜4:00 地蔵院の見学
午後4時解散
参加申し込み 斉藤 弘氏にメールまたは葉書にて、下記までお申し込みください。
メール bxf04042@watv.ne.jp
??葉 書 〒326−0338 栃木県足利市福居町602
にお申し込みください。
その他 翌10月28日(日)には、益子の史跡や寺院の見学会も行います。宿泊を希望
する方は一緒にお申し込みください。(宿泊代は、約1万円)
? 茨城大学人文学部・地域史シンポジュウム
北関東の武士(もののふ)たち
ー新しい中世武士団のイメージー
日時 平成19(2007)12月9日(日)
午前11時から午後5時まで
場所 茨城大学水戸キャンパス理学部インタビュー・スタジオ
アクセス JR水戸駅より茨交バス(7番乗り場から)約15分 「茨大前」バス停下車
基調講演
『坂東武士』の実像 野口 実氏
報告
「関東武士団の研究の軌跡」 伊藤瑠美氏
「常陸平氏 再考」 高橋 修氏
「東国武士団と都鄙間の文化交流 内山俊身氏
ー下総下河辺氏と関戸の宝塔ー」
「武士団と町場ー下野小山氏ー」 松本一夫氏
「武士団と寺院、門前町 田中大喜氏
ー上野新田氏と世良田長楽寺ー」
コメント 糸賀茂男氏
パネルデティスカッション 酒井紀美氏
高橋 修氏
問合せ 茨城大学人文学部 高橋修研究室 029−228−8120に
入場無料です。申し込みも不要です。
皆さんふるってご参加ください。特に2番めのシンポジュウムは、このアーカイブスでも話題なっていることがディアルタイムで聞けますね。このシンポジュウムでさらに深まればよいと考えています。
皆様にお知らせ申し上げます。
問答無用! 撃て!
>kariさん
>むしろ刻んだからこそ、枯れちゃったのかも・・・。
ははは。きっと、そーですよ。高徳、なんて罪深い。
>犬養にとっては暗殺される一年前にあたります。
う〜む。なんと言ってよいものか・・・・・?
テロルの時代でしたねェ。
>筆綾丸さん
>斜行的な石積みの壇が、私には珍しく思われるのですが、
さすが、目の付け所が違いますね。
あたくし、上ばっか見てて、石段に目が行きませんでした。
観察力が無いなァ。いかん、いかん。
>相国入道さん
ども。
>この掲示板を見て参加された方々もいらして本当に盛況でした。
お役に立てたなら、ひじょーに嬉しゅうござりまする♪
追福
kariさま
なるほど、そういう事情があったのですか。
積石が南朝の廷臣を象徴する骨(肋骨か何か)のように見えてきますね。
釈由美子が好きさん
『吾妻鏡』元久2年(1205)5月12日に、美作国神林寺に、故幕下将軍家追福の為、三重の
塔婆を建立せんとした、という記述があって、主語は誰か、なぜ美作国か、神林寺の所在
は何処か、なぜ三重なのか、神林寺と頼家との関係如何、などと考えますと、なぜこの
記述があるのか、さっぱりわからないですね。
クイズ再開しました。
お話しに割り込んですみません。日本中世史アーカイブズにあるコミュニティのクイズ、本日第2回目をはじめました。よろしくお願いします。
平沼兄弟
>筆綾丸さん
確かに後深草院の書は決して弱々しくはないですね。
リンク先の解説では、「後深草天皇の遺墨の多くに見られるごとく淡墨で、また筆力もたくましい。持明院統と大覚寺統という皇統を巡る争いのなか、自らの皇統を守ろうとした天皇の気性の強さがあらわれている」などと言われているのですが、「気性の強さ」まで読み取るのは若干無理がありますかね。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/fujii/051201/HomePage/kaisetsu18.htm
>kariさん
kariさんの写真を見ると塔身に何か書かれているのかと思ったのですが、窓の形に彫ってあるだけでしょうか。
私は何となく九段会館(旧・軍人会館)のような帝冠様式の建物を連想しました。
建立が昭和6年だとすると、設計者の美意識への影響という点で、まんざら的外れな感想でもないのかなと思います。
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/tsuyama/mimasaka.htm
http://www.town.sayo.lg.jp/kanko/kanko/mokuteki/sightseeing.html
>平沼淑郎
ウィキペディアと平沼赳夫代議士のホームページを見たところ、淑郎が兄で、騏一郎は弟ですね。
--------------------------
ここで祖父と普段、呼び慣れている呼称で書いたが騏一郎は終生、独身であった。私の母は、騏一郎の実兄で、早稲田大学の学長をした平沼淑郎の孫に当たり、小さい頃より騏一郎に可愛がられて、実の子の如く育てられた。その関係で私が現在騏一郎の跡を継いでいる。
http://www.hiranuma.org/japan/talk/fire_01.html
--------------------------
同ホームページによると、淑郎は
--------------------------
津山市の生まれ。1923年より約15年にわたり早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献した。商学部校舎の1階に、朝倉文夫作の胸像がある。平沼の学徳を慕う商学部卒業生により寄贈されたもので、その逝去にあたり会津八一が追慕した「言念君子、温其如玉( ここに君子をおもえば温としてそれ玉のごとし )」の風貌を漂われている。また、第3代学長として、早稲田騒動直後の対立・抗争の収拾にあたった。学外では、社会経済史学の全国的組織「社合経済史学会」の創設にあたり初代代表理事となって活躍した。
http://www.hiranuma.org/japan/gallery/family02.html
--------------------------
とのことですが、「社合経済史学会」は多分モトにした資料をOCRで読み取った際のミスで、正しくは「社会経済史学会」でしょうね。
>相国入道さん
できれば行を詰めてもらえるとありがたいです。
携帯で読むときはちょっとつらいので。
>I さん
リンクを張っておきますね。
コメントの「くれぐれもこのヒントで当てないでください。回転がはやくなると苦しいです」には笑いました。
実際、かなり切実な問題ですね。
http://blog.goo.ne.jp/historical-mania/
ええと。
小太郎さま。
塔身の文字は「杉坂史蹟」の四字です。
また、ご訂正ありがとうございました。津山は、医師や学者など、近代日本に貢献した人々を多く輩出していますね。
筆綾丸さま。
美作国の神林寺は現在の真庭市にあります。ですが、美作の中世史料は極端に少ないので、周辺の事情はよく分かりません。現地では「美作守護の梶原景時が三重塔を建立した」という伝承があるようです。もっとも、その時の守護は和田義盛ですが。
http://www1.harenet.ne.jp/~yutaka3/jinnrinnji/index.htm
「クイズ・ココはどこ―king of 歴史マニアへの道―」再開♪
生き仏研究者I氏が、ラーメン屋さんの「冷やし中華、はじめました」みたいな感じで、書いてくれておりますよーに、「クイズ・ココはどこ―king of 歴史マニアへの道―」第2戦を開始いたしますた。
ふるって御参加くださいませ♪
でも、マニアックでっせ。ひっひっひ。
すでに小太郎さんが書いてくだすってますが、あたくしもリンクしときますね。
http://blog.goo.ne.jp/historical-mania/
>筆綾丸さん
神林寺なんですが、『吾妻鏡』には、元久2年(1205)5月12日条にしか出て来なくて、私も知らなかったンですが、kariさんもお書きくだすってるよーに、ネット情報ですと、
「源頼朝が梶原景時を奉行として堂塔を建立した」
とあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-maniwa-kuse-zinrinzi.htm
この辺が関係するンでしょーか?
たいしたことがわかんなくて、すいません。
あと、元久2年(1205)5月12日条の原文は、
美作国神林寺内、奉爲故幕下将軍家追福欲建三重塔婆、
仍寺僧等申材木事等、仍今日可採用當国杣山之由、所被仰下也、
ですが、現代語訳すると、
「美作国の神林寺の中に、故幕下将軍家(源頼朝)の追福のために三重の塔婆を建てることを思い立たれた。そこで(神林寺の)寺僧たちが材木の事などを申し上げた。そこで今日当(美作)国の杣山(の材木)を用いるようにということを、御命令になったところである」
となるはずですので、「奉爲奉爲故幕下将軍家追福欲建三重塔婆」の主語は、当時の将軍である実朝で良いと思います。
>kariさん
どもです♪
断腸亭日乗
kariさま
ご丁寧にありがとうございます。
釈由美子が好きさん
ご丁寧にありがとうございます。
頼家は変だな、と思いましたが、故幕下将軍家=故右大将家=頼朝ということなの
ですね。実朝、そして、源家にとって重要なお寺だったようですね。
小太郎さん
後深草は、譲位から出家までの三十三年間、日記を書き継いだそうですが、ふと、断腸亭
日乗を思い出し、偏奇館主の面影が法皇と重なってしまいました。
世は棄てた、だからもう、日記など無意味だ、という法皇のお言葉は、荷風散人の言草の
ようで、面白いですね。
洛北の旧家の土蔵から、『水草宸記』の一部が発見され、13世紀後半の京鎌倉をめぐる奇妙
な事件の数々が次第に明らかになる、というようなサスペンスを、有能な作家が書いてくれ
ないかな、などと思っています。
後嵯峨の書は帝王らしく豪奢なもので、この書風は持明院派に流れて大覚寺派に伝わらず、
すくなくとも書においては、持明院派のほうが優れている、という感じがしますね。他の
分野、たとえば、恋愛、政治、音楽、学問、宗教、体育等は、わかりませぬが(笑)。
重代の物の具
いろいろ話題が転がってきて、目が離せなくなってきましたね。^^
>筆綾丸さん
過分のおほめ、ありがとうございます。
>シェイクスピア
きっとだれが読み流しても、きっと筆綾丸さんだけは目に留めてくれるだろうと思っていました(笑)。
>小太郎さん
後深草院の筆跡
たしかにイメージとかけ離れていますね。
ただそもそも、筆跡と人格とはどこまでリンクするものなのか、そのへんのところはどうなんでしょうか?
筆跡でいままでいちばん笑えたのは、
公家の総本山のはずの後醍醐の豪放な筆跡と、もともと鎌倉武士であるはずの足利尊氏の女性的ともいえる流麗な筆跡とのコントラストでした。
ちなみに、大人しくて控えめな私は実に粗暴きわまる自体の持ち主です(結局そこかい)。
>釈さん
>「冷やし中華、はじめました」
このノリには、大爆笑!
レスだけではつまらないので、今朝起き抜けにふと思ったことなどを。
家重代の物の具、って、ありますよね?
いうまでもなく、先祖代々伝えてきたヨロイカブトなんですが。
江戸時代はともかくとして、鎌倉武士のあいだではどれほど珍重されていたのでしょうか?
こちら方面は疎いので、平安末期の「源太の産着」とか、武田家に伝えられた新羅三郎義光の「盾無の鎧」くらいしか思いつかないのですが。
もしも鎌倉時代に「重代の物の具」を保有している武士がいたとしたら、二通りだと思うのです。
ひとつは、鎌倉将軍家とか、北条得宗とかいった、超一流の家の嫡々の家。
もうひとつは、熊谷次郎直実や佐野源左衛門常世みたいな、「三ちゃん」御家人。
(パパとボク。それだけ とも言う)。
初代の人とかが着ていた鎧は、その後子孫がどんなに繁栄したとしても、子孫どうよう増えることはありませんから、庶流に伝えられる機会は少なくなります。
北条家なんかは「私の家は評定衆になれるんです!」という家だけでもごろごろしているわけですが、義時や泰時が着用した鎧兜には数に限りがありますから、そうそうどの家にもいきわたる・・・というわけにはいかないですよね?
そうすると、なまなかな北条諸流では持っていない「重代の鎧」を、その他大勢の痩せ御家人は持っている・・・という珍?現象がごくふつうにあり得たのかな・・・と思ったのです。
評定衆北条某が持っていないものを、そこらへんの痩せ御家人がふつーに持っている。
それが「重代の物の具」の姿だとすると、物の具じたいによほどの由緒がないかぎり、
単に古いというだけでは必ずしも重視されたり珍重されたりしなかったのだろうか?
え?よた話もほどほどにしなさい・・・って?^^;
ええ、たぶんよた話だとは思いながら、書いているんですが。(^^ゞ
起き抜けって、しょうもないことをマジになって考え込んだりしますからねぇ。
そう、仕事モードがさめやらないいま時分とおなじくらい(苦笑)。
しょぼい御家人は、
>むらじさん
ビンボーで新製品はなかなか買えないので、ボロくなっても簡単に捨てたりできず、代々、だいじにだいじに武具を使い、結果、重代の物の具になってしまうつーことはなかったンでしょかね?
つーか、武具って、いくらぐらいしたんでしょーかねェ?
太刀(たち)や長刀(なぎなた)なんて、消耗品ですから、お手頃価格でないと困りますよねェ〜〜〜。
馬じゃって、「ヒヒン」と鳴いてメシ喰ってウンコしますが、今で言えば、チャリンコや原チャリみたいなモンですから、そーバカ高くはないと思うンですが。
>筆綾丸さん
>源家にとって重要なお寺だったようですね。
この辺が、もちょっと具体的にわかると良いのですが、隔靴掻痒な感じでございまする。
ごぶさたです
釈由美子が好きさん、どうもこんにちは。あ、いや、こんばんは、ですね。
先日は早とちりしてスミマセンでした。
そのー、ちょっと聞いてみたいんですが。
あ、いや、無理にと言いませんよ、勿論。
もしも、知っていれば・・・です。
刀と槍だと槍の方が強く。
それでも武士が刀を持っていった理由は、
刀は敵と戦うものではなく、首を胴体と切り離すためだった。
敵を倒した後、首を刎ねて、その首を見せて褒美をもらうため、
というのは、本当でしょうか。
ごっさまあ
久明親王鎌倉下向時の「女騎」が気になり、『吾妻鏡』をみると、建仁3年(1203)
9月29日、頼家修善寺下向時に、女騎十五騎、とあるのですね。
久明親王にとって、「女騎」は佳例にならないと思いますが、そもそも、将軍の下向
(遠出)には、女騎が必ず随行するものだったのかしら。
儀式上の意味は? 女騎の馬の毛色は?・・・などと考えると、気になって寝られませぬ。
むらじさん
後醍醐の書は、単刀直入、下手ですよね(笑)。もう少しなんとかならなかったのか
・・・というような。
サイデンステッカー氏が亡くなったのですね。
高校生の頃、受験英語にうんざりして、川端の『雪国』の英訳を読み、よくわからぬ
ながら、綺麗な英語だなあ、と感じたことを思い出しました。
『蜻蛉日記』に、gossamer という訳語を与えたのも、氏でしたか。
ゴッサマーは東北地方などで時々見られるそうですが、いちど見てみたいな。
・・・サイデンさん、お好きな落語を聴きながら、日本の地でゆっくりおやすみください。
>刀と槍だと
>松本さん
あたくし、鎌倉幕府政治史が専門でして、知識の範囲が狭いのは、自他共に認めるところでございます。
↑ の件は、戦国くらいの話と拝察しますので、いい加減なことは言えませぬ。
つーか、良く知らないし。
なにしろ、鎌倉時代にゃ、槍がありませんので。
一般的な話として、槍のが長いので、刀よりゃ強いでしょね。
もっとも、いわゆる斬馬刀みたいなチョー長い刀もありますし、使う人の技術もありますからねェ。
斬馬刀、その道の第一人者の方に聞いたところによると、実戦で使ったみたいです。
>筆綾丸さん
女騎て、具体的に、どんなのか、全然わかりせぬ。
刀と首取り
横レスですいません。
>松本さま はじめまして
>武士が刀を持っていった理由は、
>刀は敵と戦うものではなく、首を胴体と切り離すためだった。
この話、鈴木眞哉さん(注1)の著作「刀と首取り」(平凡社新書)で読んだことがあります。鈴木さんは軍忠状等を解析して、鉄砲伝来前の合戦での死因は弓矢によるものが殆ど、鉄砲伝来後は鉄砲によるものが殆どで、刀傷が致命傷になった場合は殆ど無いと書かれておられました。
槍ではありませんが、飛道具が主な武器だったということです。
刀が唯一武器として使われたのは、(江戸の)幕末、新選組とかの尊王攘夷運動においてですね。
(注1)鈴木眞哉さんは、第3回史料講読講座で釈さまが紹介くださった、「偽書『武功夜話』の研究(洋泉社新書y)」で藤本正行さんと伴に著者になっている方です。
なるほど。
>NAO4@吟遊詩人さん
レス、ありがとございます。
>刀傷が致命傷になった場合は殆ど無い
>飛道具が主な武器だった
なるほど。そーゆー話でしたか。
>鈴木眞哉さん(注1)の著作「刀と首取り」(平凡社新書)
存在は知ってましたが、未読であります。ありがとございます。
骨のある風景
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/118008.html
吾妻鏡治承4年(1180)8月25日条の前段、俣野景久と甲斐源氏の一戦に尽きますか。
俣野党は、百余張の弓弦を鼠に食われ、太刀で応戦するも矢石に負けて逐電した、と。
この鼠は、調略か何かで内通した裏切者に弦を切られた、ということかと思いますが、
安田党の「剱刃を免れず」とは、矢数が尽きて敵が突撃を敢行すれば、おっとり刀(?)
で白兵戦とならざるをえない・・・。
http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=STXKC0479%2021082007&g=K1&d=20070821
以前話題の九戸城ですが、頭骨のない人体はともかく、手足の刀傷は太刀によるものか
どうか、この記事だけではわからないですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%B0%9A
森林太郎の義弟の弟子が、鎌倉の材木座から発掘した人骨群には、相当の刀傷があった
そうですが、刀の種類と傷の部位が気になりますね。
骨のある怖い地名
それは中尊寺の荘園、骨寺村。
http://ww21.tiki.ne.jp/~honedera/
>kariさん
>「杉坂史蹟」
ありがとうございます。
自分で検索してリンクしておいた写真を見ると、一番上は明らかに「杉」ですね。
何故か人名が彫ってあるものと思い込んでいた自分が恥ずかしい。
「日本のいちばん長い日」に、平沼騏一郎は約二十万冊の蔵書を誇る私設図書館(無窮会)に逃げ込んで叛乱部隊の襲撃を逃れた訳ですから、書物に命を救われたようなものですね。
http://www.hiranuma.org/japan/talk/fire_04.html
財団法人無窮会
http://www.mukyukai.jp/
>むらじさん
>足利尊氏の女性的ともいえる流麗な筆跡
一般論としては筆跡と人格は必ずしも結びつかないとしても、尊氏の書と例の有名な伝足利尊氏像(騎馬武者像)はおよそ接点がありえない感じがします。
>筆綾丸さん
>女騎
国文学研究資料館の「国文学論文目録データベース」で検索すると、「『女騎あまた』の記事」(安井久善、「季刊ぐんしょ」10号、1990 /10)という論文がひとつだけひっかかりました。
わずか5ページ、しかも 「ぐんしょ」だから本当に短いものでしょうが。
真景累ケ淵と水運
筆綾丸様 釈由美子が好き様
「怪談」御覧になりましたようで。
私も地元がらみでしたので、ホラーは大嫌いの女房を引っ張って、シネコンへ。三遊亭圓朝によって下総羽生(常総市羽生)の伝説が怪談話となる、さすがはシェークスピア、と単純に圓朝を褒めるだけでなく、圓朝がいかにあの話を仕入れたかに興味がもたれました。鬼怒川水運は物資・年貢だけでなく面白話も送ったのでしょう。千姫ゆかりの弘経寺、真宗横曽根門徒の報恩寺もあり、その当時は独特の雰囲気があったのでしょう。新五郎やお園が働いた河岸のロケ地は、実際の鬼怒川とほぼ平行してながれる小貝川の河川敷のようです。また、豊志賀のお墓のロケ地(新五郎とお久の再会した場所)は天台宗関東檀林の逢善寺(稲敷市)です。
感謝です
NAO4@吟遊詩人ありがとうございます。
そうか、やっぱり本当だったのか。
「刀と首取り」(平凡社新書)ぜひ読んでみます。
「相撲は葬送儀礼として始まった」(by 松浪健四郎文部科学副大臣)
朝日新聞によると朝青龍問題にからめて松浪文科副大臣が、
----------------
「協会は、伝統、歴史、文化を言う資格はない。相撲は葬送儀礼として始まったのに、元横綱の琴桜(先代佐渡ケ嶽親方)が亡くなった時も、相撲も土俵入りもしなかった」と批判。
http://www.asahi.com/sports/update/0829/TKY200708290261.html
----------------
したそうですが、何じゃこれ、と思って新田一郎氏(東大相撲部監督)の『相撲の歴史』(山川出版社)を引っ張り出し、最初からずっと読み直したところ、同書29頁以下に、
----------------
(前略)『日本書紀』の皇極玉天皇元(六四二)年七月、百済より来朝した使者智積(ちせき)を迎えた際に、健児(宮廷の衛士)らに相撲をとらせた、という。この相撲については、従来ともすれば、百済の使者の饗応のための宮廷でのもよおしと理解されがちであったが、この記事には「百済使人大佐平智積等を朝(=宮廷)に饗す」とある一方、「健児に命じて、翹岐(ぎょうき)の前において相撲をとらしむ。智積等、宴おわりて退き、翹岐の門を拝す」とあることに注意すべきである。翹岐は、当時在日して河内にあった百済の王族であり、相撲は翹岐の前でおこなわれ、一方、宮廷でおこなわれた饗宴の後に智積が翹岐の門前におもむいて拝礼したというのであるから、この相撲は宮廷における饗宴とは別のものであり、使者の饗応のためでなく、翹岐のためにおこなわれたものと考えた方がよいだろう。じつは翹岐はこれよりさき、五月下旬に子を亡くしており、翹岐の門前における智積の拝礼が、このことに関わるものであるとすれば、この相撲もまた、翹岐の子の葬送に関わる百済の習俗に関連するものかもしれない。
この点について、考古学者の森浩一などは、高句麗の古墳壁画にみられる相撲図像や、日本における力士埴輪の広汎な分布ともあわせて、相撲と葬送儀礼とのあいだに密接な関係があり、それは東北アジアから朝鮮半島を経て、日本にいたる文化の流れに沿うものだったのではないか、と推測している。「相撲の祖」であるスクネ(野見宿禰)がまた埴輪製作にたずさわる土師臣の祖とされていることを、この点とむすびつける論者もある。もっとも、相撲節と葬送儀礼とのあいだには、直接の関連をみいだすことはできず、スクネと埴輪製作との関係も、『日本書紀』ではクェハヤとの「力くらべ」とは別の箇所で語られており、相撲との関連で考えるべきではない、とする指摘もあるのだが。
----------------
とあって、松浪氏もそれなりに勉強しているのだなあと感心はしましたが、まあ、古代まで遡ればそれに類する学説もあることはある程度の話なのに、「相撲は葬送儀礼として始まった」と断定するのは若干変な感じがしますねー。
美作の寺院一題。
先に美作国神林寺が話題になっていましたが、実は似たような例が鎌倉後期にもあります。
美作国の万福寺(津山市東田辺)というところに、以下のような文書が残っています(詳細は、湊哲夫「正応四年寺領寄進状について」『津山郷土博物館 博物館だより』52、2006年)。
黒澤山万福寺
寄進寺領事、
四至<限東小□□(松原カ) 限南笛田 限西土□(無カ) 限北横手>
右、寄進志者、依虚空蔵菩薩厳重殊勝座、奉為関東御祈祷、四至之内、除諸御公事、任先例、奉為寄進之上者、於以後彼寺領等、致違乱煩之輩、堅可処罪科者也、仍寄進状之趣、如件、
正応<二二>年<大歳辛卯>六月日 (花押)
従来、『鎌倉遺文』には近世の『作陽誌』所載の文書写が掲載されていましたが、昨年に新出の原本として紹介されたものです。料紙や字句の不整合さから、鎌倉期のものとするには難しいようですが、異体字を正確に記していることなどから、およそ室町期のものとして良いように思われます。偽作したのか、写なのかは断定できませんが・・・。
で、不思議なことに『美作古簡集註解』巻14にはこれが北条貞時寄進状とされているのですが、花押がかなり違うのですね。貞時のものと判断される根拠は、彼がこの時期の美作国守護だから、ということで、先の神林寺の場合と同様な推定がされているわけです。
でも、ですね。単純に読むと、寺の檀越である在地領主(地頭御家人)による寄進状と考えた方が、はるかに一般的ではないかと思います。神林寺の場合も、地元の御家人が建立したものを、時の守護によるものと読み替えて伝承しているようですが・・・。
つまり、在地の武士による建立 → 関東祈祷寺化の申請、という順序で、神林寺が『吾妻鏡』に記された、その手続き上に守護が介在する、ということなら理解可能です。
ちなみに、上記の史料は美作では最古の中世文書ということになります。
従四位下黄昏少将
kariさま
寄進状に関する御高察、興味深く拝読いたしました。
なるほど、そうか、と時代背景がすこし見えてきたような気がします。
小太郎さん
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/nanntaiheiki.html
難太平記14の赤鳥に、女騎あまた、とあるのですね。神託にからめてありますが、鎮西の
女騎の夢は、神功皇后を暗示してる感じですね。頼家追放時の女騎や久明親王下向時の
女騎との関係はわかりませんが。
怪談じみた名の骨寺村は、いちど行ってみたいところですね。
吾妻鏡の相撲の記述には、葬送儀礼の名残りは感じないですね。和気藹々の八百長じゃ
ねえか、というようなのはありますが。
水戸御史太夫さま
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0611/sin_k330.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
お墓のロケ地が気になりましたが、「天台宗関東檀林の逢善寺」でしたか。映画では、
没年が寛政七年とあり、おや、と思いました。
白河楽翁の改革のあおりを喰らい、筆綾丸(喜多川歌麿)や蔦絡丸(蔦屋重三郎)など
の遊び人は、お奉行様からきついお咎めを受けました。だから、従四位下黄昏少将を死
してもなお恨む、というのではなく、化政の爛熟期のほうが、あの怪談の時代背景に
相応しい、と感じたのです。
岩波新書の、奈良県内の数千基の墓石分類表をみて、角柱型石塔は18世紀初頭に誕生した、
と知りました。東国でも、寛政期であれば、あの形でいいようですね。
なお、源氏の夕顔を踏まえた松平定信の歌ですが、この花は凋むだけで散らぬので、間違
いですね。ただ、散らぬ夕顔をあえて散らせたところに、虚仮皮膜の此の世の不思議を示
す妖しい芸があるかもしれませぬ。
再興中世前期勉強会月例会のご案内
直前の掲示で恐縮ですが、明日、再興中世前期勉強会月例会で田井秀氏が「将軍九條頼経と北条泰時との確執―五大堂明王院の建立に見る―」という発表をされますので、摂家将軍に興味のある方は是非ご参集ください。
日時:9月1日(土) 14:00〜
場所:滝野川会館 303集会室
東京都北区西ヶ原1−23−3
http://www.kitaku-town.com/map/ki007302
交通:JR上中里駅(京浜東北線)東口 徒歩7分
JR駒込駅(山手線)北口 徒歩10分
地下鉄南北線西ヶ原駅 徒歩7分
報告者:田井 秀 氏
タイトル:将軍九條頼経と北条泰時との確執―五大堂明王院の建立に見る―
コメント:摂家将軍の九條頼経は、北条氏との対立の末に京都に戻されてしまう。それは、宮騒動(寛元の政変)として有名であるが、そこに至るまでの対立は、具体的には、どのようなものであったのか、定かではない。そこで、本報告では、その両者の具体的な対立の様子を、五大堂明王院の建立経過に見出し、以後の幕府政治への影響を考えていこうとするものである。
参考文献:
工藤勝彦「九條頼経・頼嗣将軍期の将軍権力と得宗権力」(『日本歴史』513号、1991年2月)
野口実「執権体制下の三浦氏」(同『中世東国武士団の研究』第?部第二章、高科書店、1994年 ※初出『三浦古文化』34号、1983年11月)
秋山哲雄『北条氏権力と都市鎌倉』(吉川弘文館、2006年)
http://www.toride.com/~czb/
なお、発表者の田井秀氏についてはこちら。↓
http://blog.goo.ne.jp/shaku-henshucho/e/d6a8ab63c9cffc01c665cf4e0cea9194
>筆綾丸さん
すみませぬ。
レスはのちほど。
川場村・吉祥寺
再開された「クイズ・ココはどこ」第1問目は、「回転がはやくなると苦しいです」という I さんの心の叫びも空しく、はぎつきさんがあっさりと正解を出されてしまいましたね。
http://blog.goo.ne.jp/historical-mania/
正解の群馬県利根郡川場村にある吉祥寺は、上州武尊(ほたか)という険しい山の麓にあるお寺さんで、地元では「花の寺」として有名ですね。
ちなみに、最近有名になった自動販売機からもそれほど離れていない場所です。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/dahkhome/NewFiles/degikesiki9.html
http://i329805.town-web.net/04point_03/65kiti/00.html
>筆綾丸さん
リンク先から引用させていただくと、
-----------------
駿河国并びに数十ヶ所の所領は、この後詰(ごづめ)の時の恩賞なり。国々入部(=領地に入ること)し給ひし時、我等少年の初めに供して、富士浅間宮に神拝し時、神女詫して云ふ、「遠江国近くして吾氏子にほしかりしかば、赤坂の軍の時、我告げしことは知れりや知れりや」と云へり。入道殿座を退て「何事にか候けむ、覚悟せず」と申し給ひしかば「笠じるしのことを案ぜし時、我赤鳥を給(た)びし故に勝つことも得、この国を給ひき」と詫宣せしかば、故殿その時思ひ合はせて、「女の具(とも)は軍には忌まふことぞかし、いかで思ひよりせむ。誠に神の御謀」と信を取り給ひしより以来、「我等も子孫も必ずこの赤鳥を用ふべし」と仰せられき。さるは鎮西(=九州)にても大事な陣にては毎度女騎あまた我等(=私)が夢にも見、人の夢にも見えしなり。必ず此の如くの勝利有りしなり。そははや我家の武具の随一になりき。
-----------------
とのことですが、赤鳥って何かなと思ったら、女性用化粧道具のひとつなんですね。
この話の流れからは、鎮西で出てくるのも富士浅間宮のお使いということじゃないですかね。
神功皇后のような地元の女を夢見たら、富士浅間宮側から嫉妬されるのでは。
http://aal.msis-net.com/kamon/kaisetsu/bunrui/kizai/akatori.html
(「家紋百景」というサイトの一部)
お礼
小太郎さん
富士浅間宮のお使い・・・そうか、そういうことなんですね。
化粧道具を図案化した家紋というのは、珍しいですね。
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