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Japanese Medieval History and Literature

142kari:2007/08/01(水) 18:33:15
ふう、やっと終わった。
ようやく夏休みになりました。
昨夜はついつい沖縄料理の店で、泡盛ストレートで5杯とか呑んじゃいました。

前川さんの発表は非常に興味ありますが、参加はさすがに無理でしょうねえ。まあ、京都にはいるんですが、それでも全然遠い・・・。

ところで、以前に投稿した史料と現代語訳に対する解説です。

<解説>
 永徳2年(1382)正月、将軍足利義満が左大臣に昇進した。4月には後小松天皇が践祚し、後円融の院政が開始された。ちなみに、義満と後円融院の母親(紀良子と崇賢門院広橋仲子)は姉妹どうしで、彼らは「従兄弟」の関係にある。
 9月、摂政二条良基と義満が後小松天皇の即位大礼の日程を後円融院に無断で決定する気配を見せたため、院はへそを曲げて義満の奏聞に取り合わず、結局、良基と義満は10月に正式決定を強行してしまう。明けて3年(1383)の正月29日、先帝・後光厳院の聖忌仏事が催されたが、院への強硬姿勢を示す義満の意志をはばかって、公卿・殿上人が一人も参加しないという事態が出来した。問題の事件は、その翌日に起こったものであり、明らかに義満に対する鬱憤が爆発したと解釈することができる。
 『後愚昧記』の筆者は、被害者である三条厳子の父・公忠であるが、彼はこの二年前、家領の困窮を朝廷ではなく、義満に訴えるという「前科」を持っていた。この時、義満は四条坊門新町の土地を安堵するように後円融(当時は天皇)に奏聞したが、後円融はここでもへそを曲げ、娘の厳子(後小松天皇の生母でもある)に対して「出入り差し止め」の処分を下した。結局、公忠がこの土地を手放して事態は決着し、厳子との間には無事に次の子供も生まれるのであるが、「讒言」する人があった云々という記述から、どうやら院が「厳子が按察局と同様に義満と密通し、かつ子供も義満の子供ではないか」と疑っていたらしいことが推測される。日野業子を初めとして、側室に加賀局・新中納言局・一条局・三位局など、宮中・仙洞の女官を侍らせた義満のことであるから、院の疑念も故なきことではなく、義満の側にも言い訳できない弱みはあった。義満は2月の末になって「按察局との密通の事実はない」という内容の起請文(!)を院に奉り、和睦へと事態は進んでいく。これらをすべて取り仕切ったのも実は、院の生母にして義満の叔母、崇賢門院広橋仲子であった。
 3月3日、「籠城」していた梅町殿から小川殿へ還御する院の牛車に義満が同乗(!)し、内外に公武の和睦が印象づけられたが、院にとってこの事件は最後の抵抗となった。今谷明氏が院を「最後の治天」と称する所以である。すでに院庁の構成員は、確認される限り、すべてが義満に臣下の礼をとっており、事件は治天の権力の崩壊を決定的にした。
 三ヵ月後の6月、義満は左大臣のまま、准三后宣下を受ける。

 参考文献:今谷明『室町の王権』中公新書、1990年
      富田正弘「室町殿と天皇」『日本史研究』319、1989年




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