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「まじめな話」の板

1トキ:2012/08/26(日) 17:28:59
 本島で真面目な話を書きたいが、IDが出るので書きにくい、という方のための板です。

 IDが出ないので、より身元の秘匿性が高まります。絶対に身元が知られたくない人には最適です。
なお、本島へ転載希望の方はその旨も書いて下さい。誰かが、本板へ転載をしてくれるかも!?

(管理人が気がついたら、転載します。)

353wwwww:2013/01/30(水) 10:26:53
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1331290102/501-600

450. うのはな 2012年04月04日 16:22

 訊けさん、こんにちわ。

 4月10日 の日に、わたしと浮気しませんか?
 道路は混むかもしれないけど、トキさん掲示板でお待ちしています。
 健康レシピの中から、アサオ、さつま揚げなど使った九州編を用意して
 待ってますよ。



532 :うのはな:2012/04/04(水) 16:47:33 ID:El6gIMAw

女神の部屋で訊け氏にデートを申し込みましたよ。
九州男キラーになろうと思ってww

 でも肥後モッコスみたいにすっぽかされたらどうしましょう。
 みなさん、、デートが成功するように祈っててください。


538 :「訊け」管理人:2012/04/04(水) 17:56:47 ID:???

<デートの件>


 ノーチェスト・・・・

539 :春らんまん:2012/04/04(水) 18:03:18 ID:UoSCEb1I
訊けさん、デートすべきですっ♪

貴殿は、もう現実の行動に出る段階になったのですよ。


素晴らしいですねっ。


541 :「訊け」管理人:2012/04/04(水) 18:05:48 ID:???


>ユニット・うのらんまんさま江


 それは、なんの罰ゲームでしょうか・・・・・

354神の子様:2013/01/30(水) 10:36:36
>>353、訊けさん、つまらないことを書き込むのはよしましょう

355「訊け」管理人:2013/01/30(水) 10:46:49

 すみません。それ、「うのさん」の間違いでは?





356初心者:2013/01/30(水) 11:01:37
直観把握で正しいことをいう人と、理屈で間違ったことをいう人の議論って、
なんなのでしょう。議論するまえから、すでにどちらが正しいかがきまっている
ということですか?

たとえば「言葉には意味がない」と理屈好みのわたしがいえば、はじめから「間違っ
ている」ということになるのでしょうね。

以下は負けを覚悟のその理屈です。

もともと世界は、主観も客観もない一元論の世界でした。この世界がふたつに
割れて、二元論の世界があらわれます。二元論の世界とは主観と客観の世界です。

ひとつの世界をふたつに割るのに重要な役割を果たしているのが言葉なのです。
もともと一元論の世界に「川」はありませんでした。「カワ」という言葉がこの
世界をまっぷたつに割ります。すると、それまでどこにもなかった「川」があらわれ
てきたのです。

言葉に意味があるとはどういうことでしょう。それは、「川」ははじめからそこに
あったと考えることなのです。言葉があらわれるまえに、すでにそこにあった「川」
にあとから「カワ」と名前をつけた、と考えることなのです。

「川」は、はじめからそこにあったのでしょうか。ちがいますね。言葉がひとつの世界
をふたつに割ります。すると、それまでどこにもなかったはずの「川」があらわれて
きたのです。

言葉には意味がない。以上がその理屈です。直観把握だと、どうなるのでしょうね。

ところで、ここで述べましたことは、どこかの偉い人がいっていたというものでは
ありません。わたしが勝手に考えたことですので、いたらぬところもあるでしょう。
訂正にはいつでも応じます。

357初心者:2013/01/30(水) 11:58:54
ところで、一元論の世界は分割不可能な世界ですから、割ることはできません。
じっさいに割るのではなく、割ったらどうなるかということを、仮想の世界を
つくって実験しているようなものなのです。

問題は、どう割るかということですね。どうやるのが正しい割り方なのか、という
ことですが、これはわかりません。ですから、デタラメに割ってみるしかない。そこ
で、エイヤー、エイヤーと、つぎつぎに色々な仕方で割っていくわけです。すると
大変な数の二元論の世界があらわれてまいります。これがマルチバースといわれ
る宇宙です。

ここで面白いのは、ひとつの宇宙を、これまたエイヤーと割ることもできるという
ことですね。そうするとひとつの宇宙がふたつに割れます。これがあの悪名高き
多世界解釈です。わたしは、多世界解釈は嫌いですから、こういうことは考えたく
ありません。

358初心者:2013/01/30(水) 12:48:07
話をつづけます。ばかなガキがアホなことをわめいているとおもってやって
ください。

ところで「人間神の子」ですが、これは雅春先生が、この言葉によって世界を
ふたつに割ってみせられたということです。ということは、雅春先生は、すでに
ある世界を言い当てられたのではなく、ふたつに割ることで新しい世界を創造
なさった、ということになるはずです(これが「言葉には意味がない」という
ことです)。

雅春先生によって創造された世界を多くの人が「よい世界だ」と考えました。
多くの人々によって受け入れられた、雅春先生のこの割り方が正しい割り方で
あったとすれば、それは雅春先生の功績です。

しかしたとえ雅春先生の割り方が正しいものであったにしても、「永遠不滅の絶対
的真理」、「真の生長の家」、「虚説」といった言葉で、雅春先生が創造された世界を
さらに割ってみせるというやり方は、わたしには正しい割り方とはおもえないので
反発を感じざるをえないということです。

なお、以上でもちいました「割る」という表現は、多世界解釈とは無関係であると
考えております。

359トキ:2013/01/30(水) 14:36:46
初心者様

 今、バタバタしているので、後ほど、感想を申しあげます。

360役行者:2013/01/30(水) 16:17:29
初心者さま

言葉に意味がない!という段階で、躓いております。
「川」と云うすでにある「存在」に「カワ」と名前をつけたわけですよね。

 それは現象世界は、千変万化し、流動的なので、同じ川はなく、大氾濫によってはなくなることもあります。ですから、一元論の世界には確かにありません。
ということから考察すると、「川」とネイミングした時点で、人間の意識の世界に「川」という固定概念が誕生した!ということでしょうか?
現象という常に流転している世界に、「川」という固定概念をネイミングしたからそれは現象世界には、実際に存在しない!ということでしょうか..難しいです。

次に、雅春先生が「人間は神の子」という言葉で割った!と云われますが、この「人間は神の子」という世界は、一元世界に存在するのではないですか..それならば割ったことになりません。

ただ、後の世の方が、イエスの言葉、釈迦の言葉、雅春先生の言葉を、割ることはあると思います。
 現象化された「神の子」と云う概念を割ることにより、対立が生じてくるのであると思います。
 宗教全般に云えることと存じます。

 我々、たいしたおつむをもっておりませんので、ゆっくりとお願いします(^_^;)

361初心者:2013/01/30(水) 21:29:24
役行者様

>言葉に意味がない!という段階で、躓いております。
「川」と云うすでにある「存在」に「カワ」と名前をつけたわけですよね。

「川」というすでにある存在に「カワ」と名前をつけたのではなく、それがなんで
あるかはっきりしないものを「カワ」と呼んだために「川」という存在があらわれ
た、というのがソシュールの考え方であるようです。

>それは現象世界は、千変万化し、流動的なので、同じ川はなく、大氾濫によってはなくなることもあります。ですから、一元論の世界には確かにありません。
ということから考察すると、「川」とネイミングした時点で、人間の意識の世界に「川」という固定概念が誕生した!ということでしょうか?

言葉以前の世界は、茫漠とした流動的世界であるのかもしれません。「川」といって
も、名づけ以前のそれは「川ではない、茫漠としたなにか」であったと考えられま
す。その「なにか」が「カワ」と名づけられたことでそれは「川」のごとく見えはじめ
たのではないかとわたしは考えています。

>現象という常に流転している世界に、「川」という固定概念をネイミングしたからそれは現象世界には、実際に存在しない!ということでしょうか..難しいです。

ソシュールの言語学はおそらく、名づけで「川」があらわれる現象を脳内の出来事
ととらえているはずです。名づけ以前に脳内に川のイメージはない。名づけること
で脳内に川の鮮明なイメージができた。こういうことをソシュールは言っている
という気がいたします。

たしかに、このように考えるのは合理的な説明になりますが、言葉で世界がふたつ
に割れることとの関係がいまひとつはっきりしません。脳内でそうした出来事が
起きているにしても、じっさいに起きているのは、もっとべつのことであるはずです。

言葉による名づけ以前までは、世界はまだ完全には割れていないはずです
(そのために像が流動して不鮮明なのです)。中途半端に割れた世界を言葉が、
最後の仕上げとしてまっぷたつに割ります。じっさいに起きている出来事とは、こう
いう出来事なのではないかと考えます。

「カワ」という言葉が、中途半端に割れている世界を完全に引き離します。そうする
ことで、それまでは不鮮明であった「川」が鮮明な映像としてあらわれてくるのです。

注)「カワ」という言葉で世界を割ったら「川」の映像があらわれてきたために、
人は、「カワ」という言葉が「川」を意味していると、ついつい思いこんでしまうと
いうことです。

>次に、雅春先生が「人間は神の子」という言葉で割った!と云われますが、この「人間は神の子」という世界は、一元世界に存在するのではないですか..それならば割ったことになりません。

「人間神の子」の世界に主観と客観が存在しなければ、それは一元論の世界です。
主観と客観が存在するのであれば、「人間神の子」の世界といえども二元論の世界
ということになります。「人間神の子」の世界、これはわたしには主観と客観が存在
する世界であるように感じられます。

まとまりがよくありませんが、とりあえず投稿いたします。あやしい点があれば、
いつでも訂正に応じます。

362トキ:2013/01/31(木) 10:15:36
 「直観把握」は、あくまでも自分の認識、あるいは宗教的な感性の向上という観点からのみ正当化できるもので、
これをもって他人様の言動を批判する基準にできないと感じます。生長の家では、自己内在の神様という発想をしま
す。その神様が「責任」があるのは、その人に関する事のみです。それ以外の人の場合、あくまでも、その人に
内在する「神様」の「責任」という事になります。

 例えば、自分の事を決めるのに、直観把握で決めるのはいいですが、他人様の事を、自分の直観把握
で批評するのは、危険です。秋葉原あたりにいる電波系の人と差がなくなてしまいます。また、批判される人にしたら
かなり失礼に感じる点はあると思います。

 例えば、生長の家についても、自分がどう動くべきか、という点については、直観把握は大事ですが、他人との
関係、特に組織関係については、もっと客観的なものを提示する必要はあるかもしれませんね。

 とりとめもない感想でした。お許し下さい。

合掌 ありがとうございます

363初心者:2013/01/31(木) 11:20:24
役行者様

わたしは、ほんらいの世界というのは形のない世界だと考えています。それは
波動の世界であり、形のない流体的世界であると考えています。

その形のない世界が、なぜいま見えているがごとき、形のある世界として見えて
くるのか、これを問題にしております。

ほんらいの川」があるとすれば、それは波動でありますから、形のないものである
はずです。その形のないはずの川が、形のある「川」として見えております。いった
いどのような過程をへて川が「川」に見えてくるのか、これを問題にしております。

川が「川」として見えてくる過程でなにが起きているのでしょう。「カワ」という言葉
が、「川」を形あるものとして見せるのに重要な役割を果たしていると考えています。

364初心者:2013/01/31(木) 13:02:21
トキ様

「言葉には意味がない」ということは、理論理屈でそれなりのところまで話せます
けども、究極的には理論理屈を超えた世界ですので、自分で悟るよりほかはない
世界であるともいえます。

ソシュールにしても、「言葉に意味はない」というのは直観把握であったはずです。
しかしですね、「言葉には意味がない」というのは、理論理屈を超えた直観把握で
あるから自分で悟るよりほかはない、これがわからないのは迷いだと、「言葉には
意味がある」と思い込んでいる人々を批判するというやり方は、やはりトキ様が
いっておられるように、正しいことではないという気がいたしますね。

※)もちろんですから、言葉に意味があるとするのは単なる思い込みであり、迷い
であるから「意味はない」といい加減に悟るべし、と大上段に切り込むことはでき
るでしょうけども、これをやってしまったら、これ以上さきに進むことはできなくなり
ますよね。

理論理屈は、人間どうしの共通の土俵ですよね。理論理屈を超えてわかりあえる
ものどうしであるならいざしらず、そうでないものどうしの対話ということになれ
ば、直観把握をいたずらに持ち出すのではなく、理論理屈でいけるところまでいく
しかない、というのが人間世界のありようではないかと考えます。

365さくら:2013/01/31(木) 16:00:38
初心者さま

ソシュールの言語学は、仏教的な、真理の世界に通じるところがあるそうですね、
言葉を考えることは、哲学的で、宗教的な悟りのせかいのようで、きっと奥がふかいのですね…

「弘法大師は『大日經』にもとづいて、「聲字即實相」と喝破したのである。
事物の本質即ち實相はコトバであり文字である。コトバに表現し、文字に表現すれば、それは具体的事物になるから、具体的事物の本質即ち實相は結局「コトバ」であり、「文字」であるということを弘法大師は指摘した」
『古事記と現代の予言』より

このコトバというのは、「主体客体」の分かれる以前の本質、うちゅうに成りませる、「聲」、
つまり母音世界の、産む側の世界、主体側、見る側、動く側の世界といわれる…まだ事物として現れる前段階の、いわば、まだ混沌の海のような状態…
それが、實相せかいになりひびいている、コトバの本質になるところではないかとおもうのです。

それで、初心者さまがいう
>割れて、二元論の世界があらわれます。二元論の世界とは主観と客観の世界です。

というのは、せかいに発音されることばとして、子音と母音に「割れる」ことば…
子音は、そのまま産まれる側、客体側、見られる側、といわれる世界をつくり、そこに事物が現れる…
そういうイメージを持ちます。

陰陽の原理が事物を生み出す仕組みも、そうした子音も母音のことばとの関係に、ありそうな気がします。

日本語は、なぜ、言霊の成る言語かといえば、
すべての音が、母音(ことばの本質にあたる)に繋がることばであり、
ほんらいは、そこに宇宙の「聲」が常に鳴り響く言語であったからなのかなとおもいますが。

はじめにことばあり、ことばはかみなりき。

…という、ことばが万物をうみだす仕組みを、初心者さまは理論で考えようとされているのですか?

366初心者:2013/01/31(木) 17:10:54
さくらちゃん、ももどってきてくれたんだね、うれぴー。

にしても、いきなり「聲字即實相」ですか、いやー、むつかしいですね。ただですね、
わたしがいっている「波動としての川」ですが、これが実相と関係があるのかと
いうと、「それはわたしたち次第」ということになりそうですね。

まずですね、言霊とはなにか、これがわたしにはよくわかりません。雅春先生の
解釈は、たとえば古代の日本人が川の流れを鮮明な映像として見ているうちに、
その本質を直感して「カ」と言ってみたくなり、つぎに「ワ」と言ってみたくなって、
それでその鮮明な映像を「カワ」と名づけたと、こういうことになるかと考えています。

わたしのいっていることは、これとはちがっていて、もともとあったのは不鮮明な
映像だけであって、この不鮮明な映像を見ているうちに、古代の日本人が内なる
欲求にもよおされて「カ」と言いたくなり、つぎに「ワ」と言いたくなって、言って
いるうちに、なぜかはわからないけれども鮮明な映像が見えてきた、というような
筋書きです。

ですから、もともとあったのは波動としての川だけです。それがまだ波動としての
要素をのこしていたために不鮮明であったということです。

では、「波動としての川」は実相なのかというと、これはそれほど簡単な問題とは
おもいません。

「波動としての川」をつくっているのは「ひも」であるとわたしは考えています。
ひも理論の「ひも」ですね。この「ひも」が振動することで「波動としての川」が
つくられるのではないかとわたしは考えています。

問題は、「ひも」の振動が神の波長とうまく共鳴しているかということです。うまく
共鳴できていれば、「波動としての川」は実相である資格を持つといえますが、
共鳴できていなければ、「実相とはいいがた」ということになります。

原理上、神が「ひも」の振動を、みずからの波長にあわせて調整するということは
禁じられているはずです。では「ひも」はどのような仕方で振動するのかといえ
ば、その調整はわたしたちにゆだねられていると考えます。

雅春先生がおっしゃっておられるように、感謝や調和のこころで生きていれば、
「ひも」は神の波長と共鳴するような仕方で振動しはじめるのではないかと、
どのような理屈でそうなるのかはわからないにしても、いまのところこのように
考えています。

367トキ:2013/01/31(木) 17:59:53
>>364

初心者様

 ご丁寧なお返事、ありがとうございます。

 少し前に体験をした事を書きます。

 生長の家以外の宗教家の人とトラブルになった事がありました。詳細は省きますが、仕事の上ですが、ある言葉の理解が
こちらと先方とで異なっており、それがトラブルに発展したのです。この時に、驚いたのが、相手が、たいへんな勢いで
こちらを罵倒し始めた点でした。正直、こういう場面では、一般の人(?)なら、まあトラブルにもならないようなケースだ
ったので、実際、過去、トラブルになったケースはありませんでした。

 人間の出来ていない私は、正直、激怒しそうになりましたが、まあ仕事の上なので、大人しく頭を下げておきました。

 余談ですが、一時期、話題になった「社長を出せ!」という本には、クレーマーの坊さんの話が出てきましたが、本当に
宗教をしている人の中には、恐い人がいる、と感じました。(これも自戒ですが)。つまり、グレーゾーンがないので、
対立が生じた場合、自分=正義、相手=悪、となるのです。

 ところで、言葉が話題になっていますが、例えば、お互いに使っている言葉ですが、言葉の意味をお互いに誤解して使って
いたら、どうでしょうか?

 例えば、中心帰一という言葉を、教団側と本流復活派は、おそらくは違う意味で解釈をしています。こういう例は多いと
思います。これが、相手の発言の意味が理解できないのなら、真意を確認する作業をどちらかが開始するのですが、なまじ
「自分は理解している」と思うから、誤解から対立が生じるのですね。

 これが全ての原因だとは思いませんが、言葉の意味というのが、個人により程度の差はあれ、違いがある。この事も
考えてみる必要はあると感じます。

合掌 ありがとうございます

368初心者:2013/01/31(木) 18:02:40
さくらちゃんへ

>このコトバというのは、「主体客体」の分かれる以前の本質、うちゅうに成りませる、「聲」、
つまり母音世界の、産む側の世界、主体側、見る側、動く側の世界といわれる…まだ事物として現れる前段階の、いわば、まだ混沌の海のような状態…
それが、實相せかいになりひびいている、コトバの本質になるところではないかとおもうのです。

コトバとはたしかに、主体と客体が分かれる以前の世界で鳴り響いている波動で
あるはずです。わたしは、ロゴスとは分ける働きであると定義しておりますので、
コトバがロゴスであるはずがありません。

ロゴスはもしかしたら、仮想の世界で、実相の世界で鳴り響いていたコトバの母音と
子音とをふたつにわけたのかもしれません。その結果として、主体と客体の二元論
の世界があらわれたと考えることができるのかもしれませんね。

二元論の世界でもちいられている言葉はロゴスであるはずですから、まだかろう
じて結びついていた主体と客体を最終的に分け隔てる働きを、言葉は持つといえ
るはずです。

ただ、分け隔てることでなぜ鮮明な映像が得られるのか、これはまだよくはわかり
ません。もしかしたら、分け隔てたとみせかけておいて、裏では母音と子音が
こっそりと手をつなぎあっているのかもしれませんね。

369トキ:2013/01/31(木) 18:06:55
訂正です。

X まあトラブルにもならないようなケースだったので、
○ まあトラブルにもならないようなケースだったし、

370初心者:2013/01/31(木) 18:41:35
トキ様

>ところで、言葉が話題になっていますが、例えば、お互いに使っている言葉ですが、言葉の意味をお互いに誤解して使って
いたら、どうでしょうか?

誤解というのは、単語の問題というよりも文意の問題だという気がいたします。
ここは掲示板ですので、話し言葉ではなく書き言葉を問題にします。

書き言葉の特徴というのは、一部の文字だけを切り取って、それを引用、反復、再利
用することが、誰にでもできるということです。

誰にでもできる、というのは、それが反復可能であるということです。書き言葉は、
元の文章さえあれば、その一部を何度でも反復して引用、再利用することができます。

文章の一部が何度も反復使用されながら、それでも書き手が意図した文意が保た
れるというのはまずあり得ないことです。書き手によって意図された文意は切り
崩され、勝手な解釈が横行するのは当然の成り行きです。しかも元の文章の書き手
は、反復してなされる勝手な解釈にたいしてほとんど無力であるということです。

「誤解」というのは、たいていは、書き手が意図した文意が、反復使用によって切り
崩されることで起きるのではないでしょうか。これは、書き言葉にとっては避ける
ことのできない宿命であると考えます。

書き言葉のこうした宿命をきちんとわきまえてさえいれば、いたずらな誤解を
しなくてもすむとはおもうのですが、誤解というよりも曲解が横行する現状では、
反復使用の問題はいかんともしがたい問題であるという気がいたしております。

ひと言つけくわえれば、書き言葉の引用、反復、再利用をふせぐには、難解な
専門用語を多用するにかぎると考えております。あるいは、なにも書かないと
いうのが、もっとも確実な方法であるといえます。

371トキ:2013/01/31(木) 22:22:28
初心者様

 なるほど、それで初心者様は、難しい言葉を使われるのですね。(笑)

 今回は言葉という点ですが、信仰を考えても、どこまでが信仰の核心部分かで
議論になりかねないと感じます。

 この点、少し考えてから、また、投稿をさせていただきます。

合掌 ありがとうございます

372初心者:2013/02/01(金) 11:19:38
たとえばわたしが、「感謝の思いがひもの振動を調整する」と書くと、初心者の
理解はやっぱりこの程度のものかとおもわれてしまうでありましょう。

ええ、この程度なのですよ。では、皆様の理解は?このあわれな初心者のために、
ぜひその高度な理解を語っていただきたいものです。

「感謝の思いがひもの振動を調整する」というのと「感謝の思いが病を癒す」と
いうのと、いったいどこに本質的なちがいがあるのでしょう。「ひもの振動を調整
する」というのは幼稚で「病を癒す」といえばこれは霊的に高度な発言であると
いうことになるのでしょうか。

たしかに「感謝の思いが病を癒す」といえば、じっさいに病が癒されるという現象
が起きてくるでありましょう。これを「感謝の思いがひもの振動を調整して、その
結果、ひもの振動と神の波長が共鳴して病気が治る」といってみたところで、じっ
さいに病気が治るという現象はたぶん起きません。

こうした結果のちがいから、「感謝の思いが病を癒す」というほうが霊的に高度な
発言であるとされるのは当然すぎるぐらい当然のことでありましょう。

救済ということでいえば、たしかにこのような結論がみちびかれますが、では真理
ということでいえば、どうなるでしょう。「感謝の思いが病を癒す」。これを真理と
してよいのでしょうか。

わたしにとっての真理とは、そこで起きていることではなく、それを起こしている
仕組みをいいます。真理とは仕組みです。感謝の思いを起こすことで病気が治る
とすれば、治ることが真理ではなく、治している仕組みこそが、わたしにとっての
真理なのです(おそらく生長の家もそうだとおもいますが)。

「神の理念が天下る」といっても、これはわたしにとっての真理ではありません。
神の理念が天下るその仕組みこそが真理なのです。「実相があらわれる」といった
ところで、これもわたしにとっての真理ではありません。実相があらわれる仕組み。
これこそがわたしにとっての真理なのです。

感謝の思いを起こすことで病が癒されるとすれば、それがどのような仕組みで
起こるのかということがわたしにとっての問題となります。治ればいいという、
そんな問題ではないのです。

その仕組みを語ろうとすればどうなるか。「人間知」と揶揄され、「この程度の
理解」とさげすまれるということです。だからといって、その人たちが高度な仕組
みを語っているわけではありません。「神の理念が天下る」とか「実相があらわれ
る」とかといい、これをもって真理といい霊的直観といっているだけなのです。

「神の理念が天下る」というのはすでにわかっていることなのです。「感謝の思い
で実相があらわれる」ということもすでにわかっていることなのです。わかって
いないのはその仕組みです。

もちろん、理念の内容を霊的直観で語る必要はあるでありましょう。しかしわたしが
知りたいのは、理念の内容ではなく、それが天下ってくる仕組みなのです。理念の
内容について言い争うような真似だけは、いたしたくありません。

373トキ:2013/02/01(金) 11:50:34
 病気が治る、という点を考えると、生長の家の信仰で、病気が治った事実は何度も経験してい
ます。

 しかし、病気が全部、治るか、というと、私はそれも否定します。
私の縁者の「一白鳩会員」によれば、戦前ですが、ある人が危篤になった時に、白鳩会の幹部
が谷口雅春先生に祈ってもらいましたが、残念な事に、亡くなりました。が、その時に、先生は
「この方の寿命はもうきています」とおっしゃられたと言います。

 このあたりの仕組みは難しいですが、法律に詳しい友人は、「それは、部分社会ではないの?」
という発想をします。

 例えば、憲法14条では、平等をうたいます。でも、学校や職場に行くと、上司と部下、先生
と生徒では、支配と被支配の関係にあります。法律では、それを「部分社会」という言葉で説明
をするそうです。つまり、社会全体としては、憲法という大前提はあるが、ある特殊な部分的な
社会では、それでは目的を達しないので、ある部分だけを修正する、という事があるようです。

 生長の家の真理は宇宙を貫く存在ですから、人間界でもその真理は通用します。が、人間界の
場合、修行という目的があるので、それではかえって魂の向上にならないから、ある部分では
それがそのまま表れないようになっている、という発想をするのです。

 で、それを修正するのが、誰か?というと、ある種の高級霊がそれをする、というのですね。

 丁度、役所にある程度、裁量があって、事案によって法律を発動しなかったり、したりするよう
なものだと言います。

 が、このような人間界特有の仕組みが、こういう真理や霊的な事物の理解を困難にしていると
言います。

 うーん、この当たりは、私も自信はないですので、もう少し思案をして、書くかもしれません。

合掌 ありがとうございます

374初心者:2013/02/01(金) 12:35:32
ひと言で真理といっても、その取り組み方には、たとえば理念の内容を問題に
する立場と、理念が天下るその仕組みを問題にする立場といった、ふたつの
取り組み方のちがいがあるという気がいたします。

理念の内容を問題にする場合、理論理屈はほとんど役立たないと言っていい
はずです。霊的把握、直観把握だけが役立つ世界ということがいえるはずです。

では、天下る仕組みについてはどうかといえば、霊的把握や直観把握はほとん
ど役だっていないというのが現状ではないかという気がいたします。仕組みに
ついては、明確にはなにも語られていないというのが、役だっていないことの証拠
であると考えます(なんらかの仕組みがあるにはちがいないが、それを語ることは
できないといったところでしょう)。

理念の内容が霊的直観で語られたとすれば、それはふつうの人々にとって、信じる
か信じないかの世界であるはずです。理論理屈で説明しえない以上、それは信じる
か信じないかの世界にしかなりえないからです。

「信が第一」というのはこういうことでしょう。信じるしかないのであれば、信が
第一であるのはわかりきったことです。

では仕組みについてはどうでしょう。「信が第一」でしょうか。「仕組みを信じる」。
このような言いまわしが、はたして成り立つものなのでしょうか。仕組みは解明
するものであって、けっして信じるものではありません。誰にたいしても「信が
第一」といっている人は、内容と仕組みを混同して区別できていない人、という
気がいたします。

仕組みを解明するには、どうしても哲学、心理学、言語学、現代物理学などといった
学問分野の助けを借りる必要があると考えます。そうした助けなしに語れるという
のであれば、ぜひとも語っていただきたいものです。

片方は真理の内容を語っているのに、もう片方は真理を仕組みとして語っている。
こうしたことが区別できずに混同されるとき、自分とちがう相手を「人間知」と
罵倒し、「虚説」として排除しようとする欲求が生じるものと理解いたします。

375さくら:2013/02/01(金) 17:11:16
初心者さま

初心者さまが言わんとする、全体像を捉えていませんので…
思いつくまま勝手に書かせて頂いてます、すみません。
…また、いろんな詮索などで、初心者さまの探索のご迷惑になったり、ほかの方とのやり取りをじゃまになってれば引きますから。

…ところで、あまりここでの会話が厳しくなれば、初心者さまもこんど、Skypeしませんか?
(あまり難しいこと抜きで、笑。大丈夫なら、訊けさまにご連絡ください!)

…ただ、わたしが、「おっさん」だった時は、ごめんなさい、笑。

376さくら:2013/02/01(金) 17:11:49
初心者様

ひも理論の波動のことは、まだよくわからないのですが…

ひとつ、意味をさすことばと、まだ事物が現れる前の「ものそのもの」…つまり初心者さまがおっしゃる流動的波動のせかいの関係は、
仏教でいう、「月と月を指す指」の関係を思い出しました。

この場合、月は真理や悟りの象徴で、
それを差す指は、経典や真理を書いた本や、いわゆる言葉になりますが、
実は…すこし前まで、禅の不立文字ということを、その指が真理をさしているとわかれば、もう指は必要ないという意味かな…、というようにおもってました。
でも、これは、当然、真理を悟れば経典をないがしろにしてよい、ということではないのですね。
文字に囚われた一律的な解釈や、ほんらいの「月そのもの」を忘れてしまうことへの、戒めということなのですね。

ただ、「自覚」をもって、言葉を使う、ということがとても重要とおもいます。
とくに宗教では、自覚がたいせつだということでないでしょうか。

たとえば、その差す指だけをみて、「これこそ真の教えです、ほかの指は、虚説です!」というような宗教的な偏見に陥りやすいことがあるとおもうのです。
これが絶対だとか真の教えなど、あえていうのは、他のものを排斥するあるいは、差別化するということを潜在させていることばだとかんじます。


自覚をもって使うことばがたいせつなのは、
真理そのものに触れることは、一般人には、危険だからではないでしょうか。
それこそ、初心者さまを通して学んだ、ラカンの、象徴界の中で生きる人は、言葉をなくし現実界に直面することは困難です。
真理を正しくしめす言葉というのは、いわば、「宇宙服」のようなもので、守られることではないかなと…。

宗教では、行とおなじくらいに、正しい言葉や経典を学ぶことが大切な理由であるとおもいます、

霊的直感に頼る危険性ということもありますね。

逆に、無自覚なことばの乱用で、暴走させることの危険性もあるのだとおもわれます。

377初心者:2013/02/01(金) 18:24:00
さくらちゃんへ

指と月のたとえで話します。言葉が指だとします。真理は月です。さて、この指は
月をゆびさすことができるのか、ということです。ゆびさすことができるとする
のがロゴス中心主義です。

わたしのいう「言葉に意味はない」とはこういうことです。言葉という指は、魔法使
いの指なのです。なにもないところをゆびさして、エイッと魔法をかけると、そこに
月があらわれる。これをやってしまうのが、言葉という魔法の指だというのが、
「言葉には意味がない」ということなのです(つまり、言葉はそこにある意味を
ゆびさすものではなく、ゆびをさした場所に、それまでどこにもなかった意味を
つくりだすものだ、ということをいっているのです)。

あの月をみなさい、といいながら魔法をかけるとそこに月があらわれます。この月
をみて「これは本物の月だ」とおもってしまうのがロゴス中心主義です(じっさい
人々は、指先をみているのではなく、月をみているのです)。

いろいろな人がほうぼうで魔法をかけて、いろいろな月を人々にみせます。それは
言葉という魔法によってつくられたマボロシにちがいないのですが、それを本物の
月だと思いこんだ人々が、「この月こそが本当の月だ」、「いやこの月こそが真の
月なのだ」と言い争いをはじめます。

本物の月など、どこにもないではないか。これが「言葉には意味がない」という
ことです。

378初心者:2013/02/01(金) 20:11:17
雅春先生が、月をゆびさして「あれをみよ」といわれる。

月をみた人びとが、「おお、あれこそは永遠不滅の絶対的真理だ」とたたえる。

なかにひとりだけ、雅春先生の指先をみてニヤリとしている男がいる。

男をみながら雅春先生がニヤリとされる。

こういうのがいいなー。なんとなくだけど。

379トキ:2013/02/01(金) 20:17:28
>>378

 その話、いいですね。

380役行者:2013/02/02(土) 09:37:58
初心者さま
面白い話になってきました。ただ、ちょっとせわしいので後ほど、コメントします。

381初心者:2013/02/02(土) 10:17:32
月の話をつづけます。ひとついえるのは、本物の月はない、ということです。
本物の月があるとおもうから、どの月が本物かで争わなくてはならなくなる
ということです。

ほんらい争うべきは、「どの月が本物らしくみえるか」という点にかんしてです。
「どの月が本物か」となると、ひとつの月だけが本物であとはすべてニセモノ
の月ということになります。ひとつの月だけに価値があって、あとの残りの月には
ぜんぜん価値がない、ということになります。

それだからこそ人々は、自分の月だけが本物であとの月はぜんぶニセモノだと、
声高に主張しなければならなくなるのです。自分の月がニセモノだということに
なれば、その月はまったくの無価値とされてしまうわけですから、一歩もひけなく
なるのは当然のことです。一歩もひけないものどうしが言い争えば、戦争になる
ことだってあります。

誰もが崖っぷちに立たされているようなものです。オール・オア・ナッシング、すべて
かゼロか、この二者択一をせまられているわけですから、絶対に負けることのでき
ない戦いなのです。

「どの月が本物らしくみえるか」というのであれば、ほかの月をみて、自分の月と
比較しなければならなくなります。自分の月だけをみて、これが絶対だとはいって
られなくなるわけですから、どうしてもほかの月をみなければならなくなります。

かりにほかの月のほうが本物らしくみえるにしても、自分の月の価値が否定された
ことにはなりません。相手の月のほうが本物らしくみえたなら、自分の月をより
本物らしくみえるようにすればよいという話です。自分の月のほうが本物らしく
みえたとしても、だからといって相手の月を全否定するような愚かな真似をしなく
てすむようになります。少なくともこれはオール・オア・ナッシングの戦いではない
のですから、戦争までして「どっちが本物らしいか」と争う必要はなくなります。

人々は勘違いしています。「わたし」がまず存在していて、その「わたし」が言葉を
あやつっていると勘違いしています。でもよくよく考えてみれば、そもそも言葉が
なければ「わたし」は存在しないのではないでしょうか。「わたし」は言葉によって
存在させられているのではないでしょうか。言葉がなくても「わたし」は存在すると
みなさまはお考えでしょうか。

月もおなじはずです。言葉によって存在させられているのです。言葉がなければ、
月はどこにも存在することができないはずです。月は言葉によってつくられたイミ
テーションであるはずなのです。本物はどこにもありません。どれがより本物らしく
みえるか、問題はこれだけであるはずです。

382さくら:2013/02/02(土) 11:53:31
初心者様

「月」のはなしも、ひろがりがありますね、
たしかに、何重にも、真理の世界は奥深いですね。

いま、手元に本がないのですが…以前、簡単なものですが量子力学やひも理論について読んだ時、
初心者様がいま書いて下さってるような、仕組みが説明されていたようにおもいます。

簡単にいえば、私たちの脳で認識されることが現実をつくる…という仕組みが、科学の世界で、かなり厳密に分かってきていることをしり、面白いな、と思いました。

ひも理論の「ひも」が、どのような働きをして、波動に反応するのか…とか…よく理解しきれませんでしたけど…。

これは村上和雄教授の「遺伝子が目覚めるとき」というドキュメント映画でも、同じようなことが説明されていました。

空間には、「量子のスープ(流動的な波動)」のような世界がまずあり、それが人間の脳の認識を通して、物質化されていく仕組みについてです。

初心者様が、「絶対的に固定された月」がまずあるのではなく、指を差したとき、「月らしきもの」が現われる…とは、こういうことでしょうか…?

383初心者:2013/02/02(土) 12:32:19
さくらちゃんへ

>空間には、「量子のスープ(流動的な波動)」のような世界がまずあり、それが人間の脳の認識を通して、物質化されていく仕組みについてです。

人間の脳を介して現象世界が物質化されるのは、たしかだとおもいます。ただこの
脳は、物質化した脳ではない、というのがわたしの考えです。

わたしの考えは、本物の宇宙に本物の脳があるということです。本物の宇宙は、
「量子スープ」ともいえる波動的世界ですから、本物の脳も波動的存在です。この
本物の脳が、量子スープにふくまれる波動情報を立体映像へと変換することで、
この物質化された現象世界があらわれるのでないか、というのがわたしの考えです。

ですから、ここでいわれている「空間」とはどの空間なのか、ということが問題に
なります。この「空間」は現象世界の空間ではなく、本物の宇宙における空間で
あるというのがわたしの考えです(じっさいは空間ではなく平面であるはずなの
ですが)。

>初心者様が、「絶対的に固定された月」がまずあるのではなく、指を差したとき、「月らしきもの」が現われる…とは、こういうことでしょうか…?

言葉が現象をつくりだすという意味では、言葉が真理という現象をつくりだして
いるともいえます。

384初心者:2013/02/02(土) 12:36:54
「わたし」とは言葉によってつくりだされた存在であるということを述べましたが、
雅春先生が説かれた「人間」が、言葉なしでは存在しえない「わたし」であるはず
がありません。雅春先生が説かれた「人間」とは、「わたし」ではないなにか、つまり
それは「ラージX(大文字のX)」であるはずなのです。

おそらくは言葉をもたない動物は「ラージX」として生きているはずです。これに
たいして人間は、言葉を手に入れたことで、「ラージX」としてではなく、「わたし」
としてしか生きられなくなったと考えられます。

そのために人間は、「ラージX」としてではなく、「わたし」としてしかものを考え
られず、「わたし」としてしか言葉を話せず、「わたし」としてしか真理と向きあえ
ないといった状況に追い込まれている、ということがいえるはずなのです。

「ラージX」をつくりだしているのは「命そのもの」ということがいえます。しかし
「わたし」をつくりだしているのが、命ではなく言葉であるとすれば、以上の
ような状況はとても困ったことだといえます(言葉は神なり、と完全に信じきる
ことができればこの状況に立ち向かうことはできるかもしれません。しかし、
それを信じているのが「わたし」であったとすればどうでしょう)。

みなさま方は、自分はこんな困った状況におちいってはいないといえますか。自分
は「わたし」ではなく「ラージX」として生きていると自信をもっていえますか。「わ
たし」ではなく「ラージX」として真理と向き合い、「わたし」としてではなく「ラージ
X」として総裁と向き合っていると、自信をもって答えることができますでしょうか。

「わたし」として真理に向き合っているかぎり、その真理はイミテーションです。
「わたし」が向き合っている総裁もイミテーションです。「わたし」が神の子である
にしても、その神の子はイミテーションです。

現状はどうかというと、自分だけは言葉を超越し、あるいは言葉は神なりを体現し
た「ラージX」として生きているかのごとく思い込んでいる人たちが、自分が向き
合っている真理を「絶対的真理」とみなし、絶対的真理の言葉を聞くことを「真の
生長の家」とみなし、「ラージX」さえ知らない総裁を「迷い人」とみなしている、
こんな構図が横たわっているといったところでしょうか。

なんにしても、「言葉に意味がある」と思い込んでいる人たちが、言葉を超越した
「ラージX」として生きていられるというのは、なんとも不思議なことにおもわれて
仕方がありません。いやむしろ、「言葉には意味がある」と思い込めるからこそ、
たとえ言葉によってつくられた「わたし」であったにしても、それなりの意味がある
と思い込めているのかもしれません。

このあたり、まだまだツッコミが必要かとは存じます。

385初心者:2013/02/02(土) 19:31:06
このところしきりに「世界をふたつに割る」ということをいっておりますけども、
これはじつはわたしのオリジナルの思いつきではないのですね。

たとえば、世界をふたつに割る、ということについて、鈴木大拙は以下のごとく
述べています。

○初めに、実は初めなどないのだが、・・・・・・意志が己を知ることを欲し、意識が
目覚める。そして、意識の目覚めとともに、意志は二つに分断される。本来、自己
完結的であるはずの一つの意志が、いまや俳優であると同時に観客となる。そこ
で否応なく矛盾に陥る。なぜなら、その俳優は、意識を欲したために自らをその下
に置かざるをえなかったさまざまな制約から、いまや自由になることを望むからだ。

「否応なく矛盾に陥る」と鈴木大拙は述べていますね。「矛盾」の意味がわかります
か。いや、意味などどうでもいいのです。問題は、矛盾を解消しようとするか、矛盾
のなかにとどまろうとするか、のふたつの態度があるということなのです。

雅春先生は矛盾を解消する方向を示されました。みなさま方もこれに同意なさい
ました。

しかし一方で、観客として、矛盾にとどまろうとする人々がいるというのも事実で
す。なぜかといえば、観客になりたくて、矛盾を承知で世界をふたつに割ってみせ
たのですから、生老病死という悲劇が演じられる劇場に観客としてとどまるのは
しごくもっともなことだと考える人々もいるということです。

ところで神想観は、一時的にせよ、悲劇が演じられる劇場からでていくための、
ひとつの方法と考えよいのでしょうか。生長の家の方々は、せっかく入った劇場
から、一時的にではなく、できれば永遠に消え去ろうとしておられると考えてよい
というとこなのでしょうか。

観客になりたくて世界をふたつに割ったにもかかわらず、生長の家の方々は、その
ことを忘れて劇場からでていこうとしておられる、と考えてよいということなので
しょうか。これからいったいどのような劇が上演されるのか、それをみとどけること
なく、劇の途中で出ていかれようとしておられる、と考えてよいということなの
でしょうか。

みなさま方は、いったいなにをしようとしておられるのでしょう。でていくのでは
なく、もっとマシな劇を演じるようにと俳優に注文をつけようとしておられるだけ
なのでしょうか。

みなさま方がなにをなさろうとしておられるのか、それが判然とはしません。
「日本国実相顕現」とは、俳優にもっとマシな演技をみせろと要求しておられる
ということなのでしょうか。それとも、それをもって劇の幕切れにしたいという
ことなのでしょうか。

「これは劇だ、つくり話だ、悲劇はない」といって、すべての観客を劇場からでて
いくように仕向けようとしておられるのでしょうか。それは、矛盾にとどまろうと
する人々にとっては余計なお世話だとおもうのですが、それが人類光明化だと
考えておられるということなのでしょうか。

それとも、人類光明化とは、悲劇をゆったりと楽しめるように、劇場の居心地を
もっとよいものにしたいということなのでしょうか。あるいはそれとも、悲劇の
上演を禁止して、ハッピーエンドの気楽な演劇や、笑いに満ちた喜劇たけを上演
するようにと俳優に要求するということなのでしょうか。

あるいはそれとも、劇場そのものを取り壊そうとしておられるのでしょうか。「悟り」
や「直観把握」といった言葉が大仰に語られる背景には、いったいどのような意図
があるというのでしょう。けっきょくみなさま方は、悟りをえることで、いったいなに
を実現しようとしておられるのですか。

386初心者:2013/02/02(土) 19:43:40
ところで、俳優とはなにか、観客とはなにか、といえば、俳優とは自分自身を
ふくめた現象世界ぜんたいであり、観客とは宇宙意識であると、いまのところ
このように考えています。

たとえば神想観はいったい誰がこれをおこなっているといえるのでしょうか。
俳優である自分でしょうか、それとも、悲劇をみることに疲れ果てた宇宙意識で
しょうか、それとも、劇場の外からなにものかが侵入しているということなので
しょうか。

387初心者:2013/02/02(土) 20:20:28
どうもよくわかりません。生長の家は、いったいなにをなそうとしているのですか。
まずはこれをはっきりさせましょう。

俳優としての自分に、悲劇ではなく、気楽な演劇を演じさせたいということなので
すか。それとも劇そのものをやめさせたいのですか。「すべては劇にすぎない」と
悟りをひらいて、観客であることじたいをやめようとしている、ということなので
すか。実相をあらわすということは、もとのひとつの世界にもどるということ以外
に考えられませんから、そうすることで、せっかくこしらえた劇場を取り壊そうと
いうのですか。世界を割ったのではなく、世界はたんに割れてしまっただけなのだ
から、もとにもどすのがよいことだと考えておられるということなのですか。

いったいなにをなさろうとしておられるのですか。とにかくこれをはっきりさせて
ください。

388役行者:2013/02/02(土) 20:51:07

 初心者さま
 
 いまちょっとまだせわしいので、斜め読みになっております。

 初心者さまが求道者であることはよくわかります。

 まず、神想観のことなのですが、本来宇宙意識が行うべきですね。
 まあ、実際は、私自身が行ってますよね。

 次に簡単に言葉について触れます。
 波動って、流れているものが存在している。
 その存在に私が言葉を与えた、その途端、固定化されます。
 その言葉を与えたのは私たち人間です。存在はただ流れているだけです。
 これはたぶん、義春さんとずっと話してきたローマのロゴスの業罪の話ですね??

 しかし、必然だったのではと思います。

 今後は、未来にとってロゴスは何のために必要なのか??

 また、このロゴスから人間はどのように克服してゆくのか?

 が課題だと思います。

 と同時に、神の地球計画を明らかにしてゆくことも大切かと。。

 ゆっくりと参加させていただきます(^^;)

389トキ:2013/02/02(土) 21:19:21
 初心者様の投稿から少し話しがずれますが・・・・。

 私の縁者の「一白鳩会員」が、たまに、不思議な掲示などを受けるそうです。

 もともと、そういう傾向が強い人でしたが、人生の岐路に立たされた時等、神想観などをした後に
そういう事があるそうです。過去、守護霊などから、指導を受けた事はあったみたいですが、その時
は「声」が聞こえるそうです。しかし、掲示が来る場合は、一瞬に電波のようなものが来て、それが
自分の頭の中で、リアルに具体化するみたいです。

 口外すると、問題になるので、あまり組織の人には話さないのですが、いわゆる「霊の言葉」とは
異なる信号のようなものらしいです。また、欲しいと思って来るのではなくて、祈っていたら、来る
という感じみたいです。

 昨年、来たものでは、「全て神」というものがあったそうです。
自分が何かしているように見えても、自分はない、全ては神である、という意味らしいです。

 すみません、つまらない話をしました。

390初心者:2013/02/02(土) 21:37:34
役行者様

>次に簡単に言葉について触れます。
 波動って、流れているものが存在している。
 その存在に私が言葉を与えた、その途端、固定化されます。
 その言葉を与えたのは私たち人間です。存在はただ流れているだけです。
 これはたぶん、義春さんとずっと話してきたローマのロゴスの業罪の話ですね??
 しかし、必然だったのではと思います。

たしかに、「固定される」といっても、言葉の力で流体が固定されるということでは
ないとおもいます。流体がもつ情報から立体映像をつくれば、あたかも流体が固体
に変わったかのようにみえる、ということではないかとおもいます。

それと、わたしも「必然」ということを考えたいです。実相世界をつくることには
必然を感じないけれども、人間に自由をあたえて迷うように仕向けることには
必然を感じるということを書きました。「必然」ということをどうしても問題に
したくなります。

>今後は、未来にとってロゴスは何のために必要なのか??
 また、このロゴスから人間はどのように克服してゆくのか?
 が課題だと思います。
 と同時に、神の地球計画を明らかにしてゆくことも大切かと。。

ロゴスは必然でしょうね。だから、これについて考える必要があるとおもいます。
必然を追っていけば「地球計画」があきらかになるはずです。

391さくら:2013/02/02(土) 21:48:47
初心者様

ほんじつ、訊けブログに投稿されてある、雅春先生のおことばです。

「○ 言葉と云うものは人を導き、人を迷わす。
言葉で『絶対』と云うものを説くことは、言葉は有限の意義を蔵しているから、『絶対』は有限ではないが故に、それは至難のことである。
それでは『無限』と云う言葉を使えば、それで好いかというと、『無限』は『有限』に相対する言葉であるが故に、やはり『絶対』を証明することが出来ない。
『有限』も『無限』も、倶(とも)に否定しなければならない。そこで一切否定の『無』と云う言葉が利用せられる。
しかし、否定が否定で終っている限りは、それはやはり『有』を否定するところの相対語であるが故に、絶対を表現することが出来ない。そこで、有無を超えた『無』などと言う。随分まわりくどいことではある。・・・・」

これを読んでも、雅春先生も、ご自分のお悟りを「ことば」にされることを、試行錯誤されたことをおもわされますが、
悟りをひかいた雅春先生だからこそ、言葉をつくし、ことば自体に真理のひびきをあたえられたこととおもいます。

これは、悟りを開かれた雅春先生だからこそ言えることであり…
それを…「絶対真」など、軽々しくいえないせかいのように、かんじます、
雅春先生のおことばは、「御中」「常今」「中庸」と言われていますが、…ここからの第一声であるので、ほんらい、どこにも偏りがないもののはずですね。

初心者様が仰ったように、雅春先生が「實相」世界…を、スパっとこの世に、言及されるのに成功されましたが、
それを「ロゴス」を濫用し、分割することは、ほんらいの教えから乖離させることを意味するとおもいます。

…ことばとは、難しいもんだいですね、

わたしたちは、ラカンのいう象徴界という、「ことば」で作られた世界にしか住めないわけです、
…ことばで理解し、ことばでこそ、「わたし」でいるしかありません。しかし、それは、ほんとうの世界でない。
初心者様がいう「ラージX」というのは、命そのものと仰いましたが…
それを知ったうえで、ことばの世界で演じているのが、神の子の自覚…なのでしょうか…

392初心者:2013/02/02(土) 22:51:43
トキ様

それはもしかして、宇宙生命体からのチャネリングではないですか。ただチャネリン
グはチャネラーの主観に左右されるということがあるみたいですね。

>昨年、来たものでは、「全て神」というものがあったそうです。
自分が何かしているように見えても、自分はない、全ては神である、という意味らしいです。

根源的世界は「分割不可能な全体性」の世界であるはずですから、すべて神で
ある以外にない、というのは間違いないと考えます。ただそれではなにも体験でき
ないので、世界をふたつに割って、たとえ仮のものではあっても主観、客観の二元
論の世界をつくりだす必然性があったと考えます。

393役行者:2013/02/02(土) 22:54:31

 初心者さま

 >>ロゴスは必然でしょうね。だから、これについて考える必要があるとおもいます。
必然を追っていけば「地球計画」があきらかになるはずです。 <<


 私もそう思います。

394初心者:2013/02/02(土) 22:54:54
さくらちゃんへ

言葉は意味か差異か、これが問題です。わたしは差異派です。大きいと小さい、
新しいと古い、近いと遠い、善と悪。すべてが、意味ではなく差異をあらわしていま
す。もちろん「ある」と「ない」も差異です。差異をいくら積み重ねっていっても、
そこにあるのは差異だけです。人はしかし、この差異をもって「絶対的真理」といい
ます。雅春先生は、この問題を深く考察されたのだとおもいます。

>初心者様がいう「ラージX」というのは、命そのものと仰いましたが…
それを知ったうえで、ことばの世界で演じているのが、神の子の自覚…なのでしょうか…

「命そのもの」と聞くと、ついついわかったような気になりますが、これはどういう
ことをいっているのでしょう。簡単にいえば「なにも考えない」ということですね。
動物はなにも考えないから、「ラージX」でいられるということですね。

この「ラージX」と神の子の自覚を結びつけるというのは、今のところ困難では
ないかと考えます。神の子の自覚とはなにも考えないことだ、といった考え方は、
おそらく生長の家ではなされていないはずです。

言葉をもった人間が、ふつうに生きていながらなにも考えないでいられるという
のは至難のわざです。悟りの境地といってよいのかもしれません。

395役行者:2013/02/03(日) 01:01:34
初心者さま


>>根源的世界は「分割不可能な全体性」の世界であるはずですから、すべて神で
ある以外にない、というのは間違いないと考えます。ただそれではなにも体験でき
ないので、世界をふたつに割って、たとえ仮のものではあっても主観、客観の二元
論の世界をつくりだす必然性があったと考えます。<<

 私もそう考えます。

396志恩:2013/02/03(日) 06:29:32
初心者様は、【仕組み】については、以前から試行錯誤されていらした。
以下の投稿文がありました。私には難し過ぎて 会話に入れませんが。


本流対策室/3 板

397 :初心者:2012/08/18(土) 11:30:52 ID:TfQ0e6RA
「仕組み」について書きます。

現代人がかかえる心の問題は、近代的自我の問題であるとの認識がまずあります。

この「仕組み」が有効に機能しているとされる「未開」と呼ばれる地域には、
エディプスコンプレックスやアイデンティティーの喪失などといった、現代人が
かかえる近代的自我の問題はない。

よってこの「仕組み」を現代社会に持ち込めば、現代人がかかえる心の
問題はあらかた解決する、との論法です。

じっさいのところは、「仕組み」を持ち込むにしても、きわめて入り組んだ複雑な
問題をいちいち解決しなければならないという大きな問題をかかえ込むことに
なります。

あまりに複雑すぎて、20年たった今でも、なにも実現されていません。どういたし
ましょう。

ただミンデルが取り組んでいることのひとつは、この「仕組み」でありますね。
ただしユング派のミンデルは、あまり複雑なことは考えていないようです。
問題を複雑にするには、ラカンの理論が必要になるので、ユング派のミンデル
は問題を複雑化しないですんでいるともいえます。

机上の空論を現実社会で応用できる理論へと変換しようとしているのがミンデル
であるともいえます。ミンデルから学ぶことはけっして少なくはないと考えます
が、そのミンデルでさえわたしには複雑すぎます。

397さくら:2013/02/03(日) 07:33:48
>>394
初心者様

「差異」ということについてですが、
人間のあらゆる感覚的は、「差異」をかんじることにより、その存在を認めることができるということを、学んだことがありました。

たとえば、音楽の分野でいうと、音符のミの音は、なぜ、ミとして感じられるかといえば、それは、レより高い音であり、ファより低い音である、という…その「差異」でミである「意味」が認識できるということです。
極端にいえば、ミは、単独でミでいられない、ということが言えます。
触覚に関してもそうで、強く刺激を感じられるのは、弱い刺激を知っているからこそである、と言えます。

人間は、この世の現象を「差異」として、感覚しているということだそうですね。
またこの世が、「ドラマ」として感動を持つことができるのは、すべて、この「差異」が存在するからということもありますね、
春の暖かさのよろこびは、冬の寒さを知っているから、より深く感じられ、再会のよろこびも、別れていたからこそ、より深く感動できる、といったような…。

言葉もおなじでしょう。
単語そのものは、前後の「差異」によって、はじめて「意味」をもちます。
音符と同じように、それ自体、意味を持つとはいえない、ということになるのではないかとおもいます。

(たとえば、「真の生長の家」と云うとき、そこには、「偽の生長の家」の差別化が潜在しています。
つまり、自分の認識に「真の生長の家」を存在させるには、「偽の生長の家」を必要とさせる、という、そういうことになるのだとおもいます。

…雅春先生が、説かれた教えの中心には、このような意味はないとかんじてますので、…違和感があります。
初心者様が言ったように、ロゴスで教えを分割する…というようなことにもかんじます。)

言葉は、「意味」ではなく、差異である、とは、こういうことではないかとおもいますが…。

398さくら:2013/02/03(日) 07:34:19
「ラージX」は、命そのもの、ということばで、ごまかされてはいけないということですね、
ことばによる思考がされない状態…ということでしょうか。

たしかに、動物は、ことばによる思考をおこなわない。だからといって、それは悟りの状態ではないが、「命そのもの」を生きているとはいえます。
でも、それは、本能やほんらい内臓された機能に従っているにすぎませんね。

>言葉をもった人間が、ふつうに生きていながらなにも考えないでいられるという
のは至難のわざです。悟りの境地といってよいのかもしれません。

そうですね…、たとえば、禅の修行の、いわゆる…禅問答は、意図して徹底した「ダブルバインド」状態に追い詰め、行も戻りもできない絶体絶命の状態に思考を追い詰めますね、
そのとき垣間見るような世界はどうなのでしょうか。

また、神道では、「随神(かんながら)」という状態がありますが、
これはなると思わずして、なる状態…思考を超えた状態といえるとおもいます。
これは、命が顕現した状態、命そのものとはいえませんか。
…宗教でいう、覚醒した状態は、思考を超える、ということだとおもわれます。

初心者様は、観察者と俳優の関係をもってこられましたが、
俳優に「なり切る」ことに徹する行が、宗教では大切にされているようにおもいます。
そこには、ことばが入る余地がなく、そのままに、なる、というような状態がおこるのではないかとおもいます。

399初心者:2013/02/03(日) 09:44:09
さくらちゃんへ

>言葉もおなじでしょう。
単語そのものは、前後の「差異」によって、はじめて「意味」をもちます。
音符と同じように、それ自体、意味を持つとはいえない、ということになるのではないかとおもいます。

そのとおりです。言葉はもちろん、音にしても単独で意味を持つことはありません。
人は、他の言葉や他の音との差異を認識することで、言葉や音に意味を見い
だしているということになります。

これは驚くべきことですが、物質もまた差異であるとわたしは考えているのです
よ。物質も差異であるとする考え方は、物質のあるなしを問題にしている生長の家
では、おそらくなされていないとおもいます。

物質は単独では存在しえないということです。物質が存在するには、観測者が
必要なのですね。観測者がいないところに物質は存在しないと考えます。

つまり物質とは、観測者との差異なのですね。なにかわからないものがそこに
ある。「ある」といったところで、本当にあるのかさえわからない。その「なにか
わからないもの」と観測者とのあいだにあるのは差異だけなのですね。この
差異を観測者は物質として認識しているはずなのですよ。この差異を認識しない
かぎり、物質はどこにも存在しないということかいえるとおもいます。

ロゴスとしての言葉は、「この差異」を明確化しますね。言葉によって差異が明確化
されたことで、人ははっきりとした物質の像を得られるのではないかと考えます。

意味が差異であるように、物質も差異であるということです。物質はない、という
のであれば、意味もない、ということになります。

>(たとえば、「真の生長の家」と云うとき、そこには、「偽の生長の家」の差別化が潜在しています。
つまり、自分の認識に「真の生長の家」を存在させるには、「偽の生長の家」を必要とさせる、という、そういうことになるのだとおもいます。

「真の生長の家」といっている人にしても、自分の考え方と他者の考え方のあい
だに差異をみいだして、その差異を「真の生長の家」と名づけたわけですね。問題
は、この差異がなんであったかということですね。

400初心者:2013/02/03(日) 10:40:43
ひとつの世界をふたつに割る、とはどういうことをいうのでしょう。それは差異を
つくりだしたということなのですね。ひとつの世界にはおそらく差異はなかったで
ありましょう。差異がないということは、意味も物質もないということです。見る
ものと見られるものとの関係もないということです。もちろん自分もない、という
ことになります。自分とは他者との差異にほかならないからです。

差異がすべてだとおもいます。差異こそがロゴスだとおもいます。しかし人間は
この差異に苦しみます。善と悪との差異、健康と病気との差異、平穏と不穏との
差異、そしていうまでもなく、自分と他者との差異に苦しみます。

苦しみを取り除くには、差異を取り除くしかありません。これを生長の家では、「差を
とる」すなわち「悟ること」だと説いていますね。しかし差をとってしまえば、そこに
は意味も物質も体験も、なにもかもない世界があらわれるだけです。

人々がのぞむ、光のみ、善のみ、幸福のみの世界とは、差異のない世界、すなわち
意味も物質も体験もない世界以外にはありえないと考えます。つまり、光のみ、
善のみ、幸福のみの世界の体験は、ほんらい的に不可能なのではないかという
ことです。もしかりに、善のみの世界を体験できるとすれば、そもそも世界をふたつ
に割って差異をつくりだす必要はなかったと考えます。

401役行者:2013/02/04(月) 17:55:50
>初心者さま

 
>>ひとつの世界をふたつに割る、とはどういうことをいうのでしょう。それは差異を
つくりだしたということなのですね。ひとつの世界にはおそらく差異はなかったで
ありましょう。差異がないということは、意味も物質もないということです。見る
ものと見られるものとの関係もないということです。もちろん自分もない、という
ことになります。自分とは他者との差異にほかならないからです。<<

 そのような一元の世界からこの差異のある現象世界が生じた!そのこと自体が
わからないのですが、神の悪戯としましょう(笑)
 といえども、神の地球計画があったはずです。
 

>>人々がのぞむ、光のみ、善のみ、幸福のみの世界とは、差異のない世界、すなわち
意味も物質も体験もない世界以外にはありえないと考えます。つまり、光のみ、
善のみ、幸福のみの世界の体験は、ほんらい的に不可能なのではないかという
ことです。もしかりに、善のみの世界を体験できるとすれば、そもそも世界をふたつ
に割って差異をつくりだす必要はなかったと考えます。<<

 となると、その一元の世界から今が誕生し、そして未来へと繋がるわけですが。
その未来は如何なる世界なのか?それが課題です。
 ふたつに割り差異を作り出すことにより、固定化されたように見える存在から
言葉が生じてしまった。その挙げ句の果て、今現在の地球の現状である。
 いまはあまりにも、地球環境が悪くなりすぎ状態です。戦争とか、温暖化現象とか
いろいろと・・・せめてもう少し、和気藹々と、楽しくワクワクした状態で暮らせる
ような環境を創ってゆきたいものです。
 そんな状況に持って行くことのできるのも人間です。
 元の一元世界に戻ることは私もできないと思います。
 ただ、弁証法的に限りなく、絶対善に近づくことは出来ると思うのです。
 そんな人間の歴史を神は、我がことのように歓び、悲しみながら見たかったのかなあ..
と最近思っております。神は絶対であるが故に、体験を望んだのでは!

 これは本当、フェイクションです(^^;)

402初心者:2013/02/04(月) 22:18:17
役行者様

>そのような一元の世界からこの差異のある現象世界が生じた!そのこと自体が
わからないのですが、神の悪戯としましょう(笑)
 といえども、神の地球計画があったはずです。

ホーキングは、宇宙はみずからをくすぐって存在させたといっているようですね。
かつてこちらで、、神のちょっとした違和感が原因で世界が生じた、ということを
書いたことがありますが、違和感があったのは、神がみずからをくすぐったためで
あったのかもしれません(このあたりはよくわかりません)。

割れたといっても、ほんとうに割れたわけではないのはたしかです。神の世界は
ただひとつの分割不可能な全体性ですから、いかなる方法をもってしても分割
することはできないはずなのですから。

だとすれば、仮想の世界をつくって、割ったとしたらどうなるかということを思考
実験していると考えればよいのではないでしょうか。

実験であるとすれば、計画があるのかないのかということが問題になりますが、
マルチバースの考え方だと、無数の実験室があるようなものですから、でたとこ
勝負のゆきあたりばったりの実験である可能性もあります。

ところでヒンドゥー教では、割れてできた世界をマーヤと呼んでいるようですね。
マーヤとは幻想を意味するそうですが、物質や測定を意味する言葉でもあるそうです。

そこで、物質とはなにかということですが、その正体は自分なのですね。もともと
ひとつであったものをふたつに割ったわけですから、もとはおなじひとつのもので
あったということになります。

物質をみているということは、自分で自分をみているということです。あちら側
にいる自分をこちら側にいる自分がみているということです。

さて、これはどういうことなのでしょう。あちら側にいる自分とこちら側にいる自分
は、おなじ自分であるはずなのに、どうみてもおなじ自分にはみえません。なぜ
なのでしょう。

それはですね、あちら側にいる自分には、こちら側にいる自分が欠けているという
ことなのです。あちら側の自分はぜんぶの自分ではないということです。

これはいったいなにを意味するのでしょう。これが意味するのは、物質である自分
をいくら調べても、なにも欠けていない本来の自分はけっしてみえてこないと
いうことです。

ここで測定の問題がでてきます。こちら側の自分が、つねになにかが欠けたあちら
側の自分を調べて、いったいなにがわかるのかということです。わかるのはちがい
だけなのではないでしょうか。あちらの自分とこちらの自分はどこがちがうのか、
わかるのはこれだけではないでしょうか(似てる!けどちがう)。

物質とみえているものはこのちがい、つまり差異ではないかと考えます。測定と
は、こちらの自分とあちらの自分のちがいを調べる行為であり、それゆえに、測定
とは、こちらが変わればあちらも変わる行為でもあるはずなのです。

光は、こちらが測定の仕方を変えれば、波ともなり粒子ともなるといいます。本当
の姿はわからないといいます。光がどのような姿をみせようとも、それはかならず
なにかが欠けた姿でしかないのです。

なにも欠けていない全部の姿を実相というのでしょう。しかし、みせるのは、つね
になにかが欠けた姿だけです。光にはなにかが欠けている!どんなに測定の仕方
を変えたとしても、光はその見せ方を変えるだけで、全部の姿をみせることはあり
ません。

403初心者:2013/02/05(火) 10:33:13
役行者様

さくじつは、「測定」ということで謎めいた話をしてしまいました。なぜ測定に
あれほどまでにこだわるのかといえば、まず測定ありきだからです。「世界を
ふたつに割る」というのは、そのあとの話だからです。

物理学の世界に「不確定性原理」と呼ばれる現象があります。不確定性原理とは
粒子の測定の問題です。

ニュートンの時代には、粒子は測定できると考えられていました。ところがじっさい
に測定してみると、それは無理だということがわかってしまったのですね。

粒子の位置を調べると速さがわからなくなる。速さを調べると位置がわからなく
なる。位置と速さを同時に知ることはできない。こうした現象があるということが
わかってきて、不確定性原理と名づけられました。

不確定性原理を、生長の家でいえば「粒子は心の影」ということになるでしょう。
しかし、粒子が心の影であるにしても、粒子はなぜ位置だけをみせたり、速さだけ
をみせたりして、すべてをみせようとしないのか、ということの説明にはなって
いません。「心の影だからそのような見せ方をするのだ」といってみたところで、
なにも説明したことにはならないということです。

なぜそのような見せ方をするのか、真理にとってこれは重要な問題です。原理に
さかのぼって説明しなければならない重要な問題です。説明のために出てきたの
が「世界を割る」の考え方であったのです。「世界をふたつに割る」と考えれば、
不確定性原理のナゾが不十分ながらも説明できる、といったところです。

マーやはなぜ測定なのでしょうか。それは、測定という行為じたいに真理が
すでに大きくかかわっている、ということを示しているような気がいたします。

404神の子様:2013/02/05(火) 18:19:09
雅宣総裁の本音・・・「私は病脳苦から人々を救済することには関心がなく、“真理”の仕組みを知りたいだけなのです。」 (6158)
日時:2013年02月01日 (金) 12時17分
名前:画龍点睛




合掌、ありがとうございます。
またもや、「初心者=雅宣総裁」はケシカラヌことを「トキ掲示版」に投稿して“本音”の思想を語っています。


雅宣総裁の本音・・・「私は病脳苦から人々を救済することには関心がなく、“真理”の仕組みを知りたいだけなのです。だから私は、宗教家ではなく本当は心理学者が適職なのであります。」



/////////////////////////////////////////////////////



「トキ掲示版」まじめな話の板
372 :初心者:2013/02/01(金) 11:19:38

<< ・・・「感謝の思いが病を癒す」。これを真理としてよいのでしょうか。わたしにとっての真理とは、そこで起きていることではなく、それを起こしている仕組みをいいます。真理とは仕組みです。感謝の思いを起こすことで病気が治るとすれば、治ることが真理ではなく、治している仕組みこそが、わたしにとっての真理なのです(おそらく生長の家もそうだとおもいますが)。・・・理念の内容を霊的直観で語る必要はあるでありましょう。・・・しかしわたしが知りたいのは、理念の内容ではなく、それが天下ってくる仕組みなのです。・・・>>
http://jbbs.livedoor.jp/study/11788/



////////////////////////////////////////////////////////



雅宣総裁が、この「初心者」の発言が、自分自身の“本音”ではないと主張するならば、


① 「唐松模様」でハッキリと、「初心者=雅宣総裁」ではないと打ち消し、開祖・谷口雅春先生の『御教え』から観て、「初心者」なるものの上記思想は間違いであるとの詳しい説明をすること。


② 「トキ掲示版」の管理人「トキ」氏に、雅宣総裁と間違えられる「初心者」は、明らかに開祖・谷口雅春先生の『御教え』を否定する投稿を行なっており、「トキ掲示版」規約に反しているのであるから“投稿禁止”にすること。


以上の二点を即座に実行すべきであります。


これが出来ずに、「初心者=雅宣総裁」が投稿を続けるならば、雅宣総裁は、人々を救済できないのであるから宗教家をやめて、宗教学者あるいは宗教評論家、あるいは心理学者として独立して“真理が成り立つ仕組み”とやらに没頭して考え続けるべきであります。 再合掌

405神の子様:2013/02/05(火) 18:31:22
ますます、“迷う”雅宣総裁! (6178) 日時:2013年02月02日 (土) 10時32分
名前:画龍点睛

合掌、ありがとうございます。
「初心者=雅宣総裁」は、難解な哲学論争?には長けているように見えますが、宗教的な事柄や霊的な事柄に関しては、全く理解できていないのであります。またもや、大閑な彼は、下記の如き書き込みを性懲りもなく、し続けているのであります。

///////////////////////////////////////////////////////////

「トキ掲示版」<ひとり言版>
2246 :初心者:2013/02/01(金) 13:13:31 >>2234
「迷いは自由からくる」。雅春先生もこのように説いておられたのでは?神は完全なる人間を創った。しかし人間に自由をあたえた。それは迷うこともできる自由だった。神は、人間に自由をあたえれば迷うということもご存じであった。こういうことを雅春先生はいっておられたとおもいますが、わたしの思い違いでしょうか。実相哲学の本質とは、神がいったんは完全な人間を創っておきながら、なぜ迷う方向に人間を仕向けたか、ということにあるとわたしは考えますが、いかがお考えですか? 完全なる実相世界を創っておきながら、神はなぜそれで終わりにされなかったのか、この謎を解くのが実相哲学の本質であるとわたしは考えます。

2247 :初心者:2013/02/01(金) 13:29:37
神が完全なる実相世界を創られたにしても、そのことに必然性は感じられないので、それはわたしにとってどうでもいい問題なのです。神が人間を迷うようにと仕向けられたことには必然性があるとおもわれるので、このことがわたしにとってのただひとつの問題となっています。

///////////////////////////////////////////////////////////

「初心者=雅宣総裁」は上記のように「神がいったんは完全な人間を創っておきながら、なぜ迷う方向に人間を仕向けたか、神が人間を迷うようにと仕向けられたことには必然性がある」と論じているのであります。しかし、このような論理展開を雅宣総裁がなしていること自体が『生命の實相』を熟読していない事を暴露しているのであります。この様な論理展開は完全に間違っているのであります。

實相哲学の本質では、神は完全であり、<迷う方向へ仕向けた神>などは決して実在ではないのであります。また、迷う方向へ仕向けられた人間などは本来ないのであります。<神が人間を迷うようにと仕向けられたことには必然性がある>なんて言うこと自体、雅宣総裁自体が迷いの穴に落ち込んでいることの証明であり、足が地に着いていない完全なセレブ学者の迷言であるのであります。
(つづく)

406神の子様:2013/02/05(火) 18:32:04
(つづき)
『生命の實相』を読めば、「迷いは、何処から?」と考える人は、迷いが実在であるということを前提にしているからこの様な疑問が生じてくるのである。迷いは何処からも来ません。本来、無いからである。無いものの出所を幾ら追及しても永遠にその出所はわからないのであるとハッキリと書かれているではありませんか! 

比喩的にいうならば、楽屋(實相世界)にいる名優が、色々な衣裳を身につけて舞台(現象世界)に出て、時には迷ったようなセリフを述べ、迷い人のような役を演じているようなもので、再び楽屋(實相世界)に戻れば、決して迷ったことのない、これからも迷うことも無い完全円満な名優(實相人間)に戻る、この實相人間こそが本当に実在する「神の子人間」であるということなのであります。

故に、雅宣総裁の<神が完全なる実相世界を創られたにしても、そのことに必然性は感じられないので、それはわたしにとってどうでもいい問題なのです。神が人間を迷うようにと仕向けられたことには必然性があるとおもわれるので、このことがわたしにとってのただひとつの問題となっています。> という事などは、信仰する者、道を求める求道者にとっては、単なるセレブ族の夢、幻の世界での言葉の遊び、大閑人の“世迷い言”にしか過ぎないのであります。

私たち、信仰する者、道を求める求道者にとって大切な事柄は、聖経『甘露の法雨』にある如く、
< 物質の奥に、肉体の奥に、霊妙極まりなく完全なる存在あり。これこそ神によって造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、常住健康永遠不滅成る『生命』なり。汝ら今こそ物質を超越して、汝自身の『生命』の實相を把握せよ。> 
という言葉にしたがって、神想観の中に於いて、このコトバ通りの自己の實相を感情的にありありとジィーッと“観じ感じ”続けることなのであります。

どう考えても、雅宣総裁は、宗教家でもなければ、真剣なる求道者ではありません。彼の適職はやはり小理屈専門の小学者であります。宗教界に在籍していることは彼にとって苦痛そのものであります。(ホントにお可哀相!) 10億円ともいわれる個人蓄財もスイス銀行にある様子、宗教界を去り、早く自由の身になるのが余生を健康に生きて行くためにも一番よいのであります。

407初心者:2013/02/05(火) 19:54:33
>>405 >>406

「いったんは完全な人間を創っておきながら」というのは、わたしの考えではなく、
「生長の家的にはこのよう考えるだろう」ということですよ。このことがおわかりで
はなかったようです。生長家の教えのなかの、神が完全な人間を創ったとされる
部分にかぎって、わたしはこれを批判し、異論をとなえているのはあきらかであり
ましょうに。

もういちどいいますが、生長の家的にはこのように考えなければならないだろう、
ということを述べただけであって、わたしの考えとはまったく無関係のことがらを
述べたにすぎません。わたしは「神が完全な人間を創った」とは考えておりません。

しかもわたしは、おりにふれて、すべては仮想の世界の出来事だと述べております
よ。「迷いが実在だ」とする考えが、いったいどこから出てくるというのでしょう。
生長の家の人の考えることはわかりませんねえ。じつに不思議です。

それに、わたしの考えのなかで「迷い」という概念を用いる必要はありませんので、
とうぜんのことながら、「迷いは何処から?」と問う必要もありません。初心者が
あたかも「迷いは何処から?」と問うているかのごとき表現をもちいてわたしを
批判しておられるようでありますが、自分の尺度だけでものを考えようとする
人は、どうしても使いなれた表現を用いたがるということでありましょうね。
他山の石とするしかありませんでしょう。

なんにしても、なぜかこういうことにだけは食いついてきますね。書き込みの長さ
から察するに、無意味で的外れな批判にずいぶんと多くの時間と労力をおかけに
なられたようです。

わたしが総裁でなかったら、この壮大な無駄遣いを、いったいどうやって納得なさ
るおつもりなのでしょう。

408神の子様:2013/02/05(火) 20:59:43
初心者様が逃げました!!

初心者様が逃げの見本をお示し下さいました。

409神の子様:2013/02/05(火) 21:19:51
>>10億円ともいわれる個人蓄財もスイス銀行にある様子、宗教界を去り、早く自由の身になるのが余生を健康に生きて行くためにも一番よいのであります。
<<

ヘ〜〜  10億円も? 個人蓄財が?

410初心者:2013/02/05(火) 21:31:04
「生長の家的に」ということでおたずねいたします。

まず確認ですが、実相人間はたとえ自由をあたえられたとしても迷わないという
ことですね。

すると現象世界というのはなんなのですか。これをどのように理解すればよいの
でしょうか。実相人間が迷ったフリをして夢見ている世界ということなのでしょう
か。

ここではとりあえず、迷ったフリをして夢見ているということにします。するとです
ね、ちょっとした疑問が出てまいりますね。実相人間が迷ったフリをしているとした
場合、最低でも数十億人はいるであろう実相人間が、いっせいに迷ったフリをして
おなじ夢をみているということになるのですか。それとも、ひとりだけが迷ったフリ
をしてこの現象世界を夢見ているということなのですか。どのように考えれば
よいのでしょう。

現象世界は、実相人間の共同幻想なのですか、それともただひとりの実相人間の
自己幻想なのですか。

とりあえず、訊け様、トキ様におうかがいいたします。

411神の子様:2013/02/05(火) 21:57:03
179 名前:トンチンカン 投稿日: 2013/02/05(火) 11:47:31 ID:nFgY2khg
マサノブ氏お得意の「観念の遊戯」

「実相人間が迷ったフリをして夢見ている世界ということなのでしょう
か。」〜〜これもお遊戯ネ?

412神の子様:2013/02/05(火) 22:06:57
<特報> 「初心者=雅宣総裁」は、遂に完全に開祖・谷口雅春先生の『御教え』を否定した!NEW (6279)
日時:2013年02月05日 (火) 22時01分
名前:画龍点睛



合掌、ありがとうございます。
遂に、雅宣総裁はとうとう“本音”を暴露しました。下記の引用投稿文の如く、「生長の家」の『御教え』の根本を否定したのであります。自身のブログ「唐松模様」ではこんな事は書けないので、「初心者」という名前で、お抱え掲示板で、開祖・谷口雅春先生に猛烈に反旗を翻したのであります。ここに於いて、雅宣総裁は、「人間神の子、完全円満」を否定し、「實相円満完全」誦行をも否定したのであります。速やかに“総裁”を辞任すべきであります!



////////////////////////////////////////////



「トキ掲示版」傍流・まじめな話板より


407 名前:初心者 投稿日: 2013/02/05(火) 19:54:33
>>405 >>406

わたしは「神が完全な人間を創った」とは考えておりません。

http://jbbs.livedoor.jp/study/11788/



//////////////////////////////////////////////



( 注 )

①  「初心者」氏は、「トキ掲示版」さんの中では,“自分は雅宣総裁ではない”と否定しておりますが、肝心の雅宣総裁は「唐松模様」では、「初心者=雅宣総裁」を否定しておりません。

②  「初心者」氏の投稿内容は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を否定するものである故に、完全なる「トキ掲示版」さんの投稿規約(生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい)違反であります。然るに、「トキ管理人」氏は、「初心者」氏に対し、注意も投稿禁止措置も行われてはおりません。という事は、「トキ掲示板」さんは、やはり雅宣総裁そして原宿本部の“お抱え掲示板”であることの証明であり、さらに「初心者=雅宣総裁」である事の証明であります。

③ 今回の「初心者=雅宣総裁」の開祖・谷口雅春先生の『御教え』の完全否定投稿に対して、「トキ管理人」氏がどのような動きを示されるかに注目して行きたいと考えます。 再合掌

413初心者:2013/02/05(火) 23:14:24
>>412

「初心者は総裁である」といいながら追放せよとは、画龍点睛氏は、なんとも
もったいないことを考えるお人でありますね。総裁が出てきておられるとすれば、
総裁をじかにやりこめるよい機会ではありませぬか。やりこめようともせずに追放
せよとは、いったいなにを考えておられるのですか。

414初心者:2013/02/05(火) 23:20:14
現象世界は実相人間の共同幻想なのか自己幻想なのか。どうですかみなさま、
なかなかに観念的なよい問いかけではありませぬか。

観念の遊戯?けっこうではないですか。揚げ足取りと人格批判にあけくれるだけが
人生ではありますまい。

415神の子様:2013/02/05(火) 23:44:07
初心者のおじちゃんって、なんかわからないけどすごいなぁ。
生長の家の先生なのかな。
友達が、生長の家のすごい偉い初心者というおじちゃんが、この掲示板で生長の家の講話をしてるって聞いたから、教えてもらって見に来たけど、難しくてよくわからないや。
生長の家の話って難しいね。

416神の子様:2013/02/06(水) 00:16:50
初心者のおっちゃんって、親友がいるのかね?

マサノブさんは純子奥様だけのようですが?

417神の子様:2013/02/06(水) 00:25:22
いま、初心者って人の書き込み読んできたけど、この初心者って人は、生長の家じゃないね。
友達が生長の家青年会にいるんだけど、初心者っておじちゃんの書き込みをめちゃくちゃ絶賛してて、生長の家のすごい偉い先生とか言うんだけど、アイツ見る目ないや。
生長の家じゃない俺でも、初心者って人は生長の家じゃないってわかった。ネットで調べたけど、谷口雅春という人の本を読んでみることにきめた。
哲学は興味あるから、谷口雅春という人の本をまずは読んでみよう。

418神の子様:2013/02/06(水) 00:45:32
谷口雅春という人の本を読むのだったら早くしなよ!!

絶版が多いし、聖典も聖経もアブナイからね??

419「訊け」管理人:2013/02/06(水) 08:01:35


>>初心者さま

 今朝の「プラウダ」から、社説です。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1186

 味わい深い名文ですので、ご一緒に堪能できれば幸いであります。








(笑)

420訊けくん担任教諭:2013/02/06(水) 09:45:10
訊けくん、先生もね、この社説もっともだなって思いました。

421トキ:2013/02/06(水) 09:55:22
本流掲示板に以下の投稿が管理人様よりありました。

「あの人は総裁だ」論について、管理人からお願いです。NEW (6288)
日時:2013年02月06日 (水) 05時18分
名前:管理人

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1186

 要するに、根拠もなく、誰かを総裁の投稿だと言わないで下さい、という至極当然の投稿です。

「今後、このような「A氏=総裁」を当然の前提とした言葉を掲示することは止めてください。「本流」の周辺にいて迷っている人たちをかえって遠ざける事にもなります。今後掲示された場合は、管理人がその部分を削除あるいは訂正いたします。」

 実は、昨日は、個人指導で3時間ほど拘束されていたので、こちらの掲示板に対応ができませんでした。
何か書かないといけない、と思っていたので、この文章を転載させていただきます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

422初心者:2013/02/06(水) 10:00:48
>>415
神の子様

「オレはすごい人間なのだ」といった風体で出てくるものにかぎってたいしたこと
はないけれど、「オレってたいしたことない」といった風体で出てくる人物は、相当
なやり手であると考えることにしております。

雅春先生のご本も読まれたことがなく、それでいてわたしが生長の家ではない
ことを一瞬にしてみぬかれるというのは、やはりタダものではないことの証であり
ましょう。

哲学には相当にお強いようですね。わたしが哲学をかじりはじめたのは、2年ばかし
まえのことです。それまでは、「哲学などなんの役にもたたん」と思い込んでおりました。

ひとつはっきりいえますのは、わたしが書いておりますことは、「形而上学」という
陳腐な哲学でしかない、ということです。

手赤にまみれた手法で真理を追究する。生長の家もわたしも、やってることはおな
じですよ。

423初心者:2013/02/06(水) 10:02:36
手赤は手垢でした。

424「訊け」管理人:2013/02/06(水) 10:24:42

>>420先生


 ・・・・そうですか。いやそれ、洗脳されちゃってませんか。まあ、真っ当な部分もありますが、案外トンデモナイ・・・(中略)・・・まあ、いいんですが。ところで先生、宿題を提出します。そういえば「天声人語を要約しなさい」てな宿題が、中高生時代の私を悩ませました・・・(中略)・・・あんなもの要約していると、ホントに国語力が、オカシくなるんです。で、もう今回の私、天声人語を、「書いてきました」これ、宿題の代わりってことで、どうぞヨロシク。




<「転声人誤」>

 ・・・・昨日天声人語をパクッた小欄だが、今回は、名文からパクった。なんとあの、聖徳太子をパクッた。そうだ。パクったのは、あの名文だ。あの名文をパクルことでこの、「出だし一行」の辛酸労苦からの解放を、計りたい。・・・・それでは参ろう。 ―― 「日出づる処のブログ管理人、書を、批溢るる処の掲示板管理人へ致す。」▼・・・・・・・・決まった。▼いや、「避溢るるところの掲示板」の方が、文字としてはふさわしいか。▼恙(つつが)無きや云々・・・・・いや、ところで。「ところで」な話を一点。今朝のプラウダ、その社説に注目して頂きたい。▼トキ氏述べられた如く至極、当然の内容である。要するに「根拠を示せ」と申されて、おられるワケだ。たとえば総裁が、「侵略戦争と云った!」というならば、その発言をコピペせよ、まあ、そう云っていられるにヒトシイ(等しい)▼ところがこの、社説氏に一言、申上げたい。いやこの、社説だが実は、たったの二行で終る内容なのだ。この趣旨を伝えようとするなら小欄、二行で終らせる自信がある。それで今回、この作業を手伝わせて頂いた。▼案:「光明掲示板を御覧の皆さんへ」▼「もう頼むから、トキ掲示板のコトは、トキ掲示板に書いてよ」「お願いだから」「正々堂々と、アッチに書いてみなさいよ。」

<了>

425さくら:2013/02/06(水) 11:34:33
>>422
初心者さま

…初心者は、ここでは孤独な哲学者みたいですね、
身分詮索や、内容についても何も反論もないのに生長の家を否定していると取られるばかりで、
…生長の家って、こんな話せない宗教だったかな〜という…。
こうなれば、本部か道場いって、「生長の家道場破り」してみたらいかがですか?笑。

…まあ、いまの講師の方がお相手になるかは知りませんけど、、。

…ちょっとだけ、雑談してもよいですか?
わたし、生長の家に触れてまだ間もない頃、青年会の方に誘われて、総本山へ行ったんです。

その頃は、神想観しても、実相とかわからないし、人間には罪がないなんてわからない…というあせりみたいなものがまだあって、引っかかってたんですね、

総本山の練成中には、奥津城で神想観があるですが、その前にある職員の方が、奥津城へ連れていってくれたんです。
初心者さまは、奥津城に行かれた
ことはありますか?
山頂から、眼前に、大村湾を望むんです。絶景ですね。
わたしは、どちらかというと、山で育ったので、海を見るときの開放感が大好きなのですが、
そのときも、一面に広がる海を見て、こわいくらい開放感を感じて、思わず、
「わ〜、何もない!」って言ったんです。
そしたらその職員の方が、
「そうなんだよ。ここには、何もないけど、すべてがあるんだよ」って言ったんですね。

その言葉で、最後の積み木がスコンと飛んだみたいに…わたしの中で、なにかが開放された、というか、そんなことがありました。

たぶん、それから、「実相」があるのかないのか、など、考えなくなった気がします、
それまで分からないということが、ものすごく苦痛であったのに、。
なにかを掴もうとしてたのに、。

わたしがわかろうとわかるまいと、わたしが説明できようとできまいと、「それ」がある、というか…、
「それ」とは、なんでしょうか、
流体でしょうか、絶対信でしょうか…。
なぜ、わたしが、それを知る必要があるのでしょうか。
…そのことも意味がなくなった感じがしたんです。

アインシュタインが
「神はサイコロを振らない。」
と言ったことに対して、
ニールスボアは、
「何をすべきかを神に指示をするな」
といった、その難しい経緯や真意は全くわかりません。
(初心者さまならご存知でしょうね、)

ただ、「神に指示をするな」という言葉だけは、なんとなく、わたしの実相の信仰にも、当てはまるような感じがしてます。
人の実相を、こう現れるべきだと、祈る人がいれば、
それは神に指示をするようなことだと感じるからです。
あとは、想像でしかないし、それに縛られることは、信仰でない気がしてます。

ただ、人間にできることといえば、「それ」を畏敬し、あらわれるままに感謝することだけなのかと、そんなかんじです。

…個人の信仰の世界ですから、この感覚、伝わらないかとおもいますが…
なにもないのに、すべてがある、という…。



…わたしは、初心者さまは、仕組みを知りたいだけだとおもっています。
わたしもその仕組みについてなら、興味はあります。

生長の家を否定するという人がいるみたいですけど、
いくら否定しても否定しても、否定できないものがあるのですから、

ただ、初心者さまは、真理の仕組みの探求をしたいだけだとおもっています。

426初心者:2013/02/06(水) 12:02:47
>>419
訊け様

あちらの管理人様の思考回路は大丈夫なのですか。

初心者がトンデモナイことをいっている。総裁もトンデモナイことをいっている。
よってふたりは同一人物、あるいはふたりともトンデモナイ人物だ、という論法で
あれば投稿してもよいということを、あちらの管理人様はいっておられるわけですよね。

なんのためにこんなまわりくどい論法を展開する必要があるのでしょう。「総裁は
トンデモナイことをいっている」ということを説得力をもって説明できるのであれ
ば、これだけでよいではないですか。まわりくどい論法など必要ないではないです
か。総裁の悪事をあばきたてることができるのであれば、わざわざ得体の知れぬ
初心者と総裁とを結びつける必要など、どこにもないわけですよ。

「総裁はこのようにトンデモナイことをいっている」と天下に公言すればよいだけ
の話です。初心者は関係ありません。その説得力ある説明に「たしかに総裁は
トンデモナイことをいっている」と誰もが納得すれば、総裁はたちまち窮地におち
いること必定です。

しかしそれができないから、初心者はトンデモナイことをいっている。初心者と
総裁は同一人物だ。よって総裁はトンデモナイことをいっている、というのが
あちらの論法なわけでしょ。

あちらの管理人様の論理展開は、いつも真実の逆をつこうとしておられるような
気がいたします。初心者を総裁にまつりあげないかぎり一歩もまえに進めない、と
いう現状がわかっておられないということですね。

なんにしても、わたしの書き込みの一部分だけを取り上げて「初心者はこのように
トンデモナイことをいっている」といった手口に終始しているかぎり、そのトンデモ
ナサを説明することなど永久にできないでありましょう。かりにそのトンデモナサを
説明し得たにしても、それは理論や論理の問題であって、思想の問題ではないわけ
ですから、修正や撤回はいくらでもできてしまうということですね。初心者が自分の
考えを撤回、修正したからといって、総裁のトンデモナサに結びつけることは不可
能ということです。

427初心者:2013/02/06(水) 12:17:22
さくらちゃんへ

>ただ、「神に指示をするな」という言葉だけは、なんとなく、わたしの実相の信仰にも、当てはまるような感じがしてます。
人の実相を、こう現れるべきだと、祈る人がいれば、
それは神に指示をするようなことだと感じるからです。
あとは、想像でしかないし、それに縛られることは、信仰でない気がしてます。

「なにをすべきかを神に指図するな」というのは、たしかに名言ですよね。「相手の
実相をこのようなものとしてみる」という言い方は、なにをすべきかを神に指図し
ているようでもあり、どうあるべきかを神に指図しているようでもあるので、個人
的には、昔からなじめない言い方であります。

>ただ、人間にできることといえば、「それ」を畏敬し、あらわれるままに感謝することだけなのかと、そんなかんじです。

そうですね、あえて神に向き合おうというのであれば、こうした向き合い方しか
ないはずですよね。

428訊けくん担任教諭:2013/02/06(水) 14:15:16
「本能寺の恋」にマルをつけた先生の採点方法で今回国語の作文を採点しても、不合格なので再試験をうけてください。

国語科要再試験者名簿(極秘内部資料につき、閲覧者に守秘義務があります)

「ローマ字SAKURA」

「朝日天声人語」

「訊け転声人誤」

429「訊け」管理人:2013/02/06(水) 16:01:06
>>426初心者さま


――――――――――――――――――――――
あちらの管理人様の思考回路は大丈夫なのですか。
――――――――――――――――――――――

 ・・・・・か、可能性として考えられるのは、「大丈夫デアル」というものです。ただし、「○思考が豪気(100万石)過ぎて、我々如きでは把握できない」というものと、ずばり、「○ギャグである(ユーモア管理人)」という可能性、まあ、このふたつが候補として残りました。少なくとも現時点では、私の思考ではこんな仮説が精一杯です。


――――――――――――――――――――――
初心者がトンデモナイことをいっている。総裁もトンデモナイことをいっている。
よってふたりは同一人物、あるいはふたりともトンデモナイ人物だ、という論法で
あれば投稿してもよいということを、あちらの管理人様はいっておられるわけですよね。
――――――――――――――――――――――

 プッ・・・・・・・・・いや、嘲笑しているんじゃ、ありません。「ユーモア」として、評価しているダケです。

――――――――――――――――――――――
なんのためにこんなまわりくどい論法を展開する必要があるのでしょう。
――――――――――――――――――――――

プッ・・・・・・・す、進みましょう。

――――――――――――――――――――――
「総裁はトンデモナイことをいっている」ということを説得力をもって説明できるのであれ
ば、これだけでよいではないですか。まわりくどい論法など必要ないではないです
か。総裁の悪事をあばきたてることができるのであれば、わざわざ得体の知れぬ
初心者と総裁とを結びつける必要など、どこにもないわけですよ。
――――――――――――――――――――――

 ・・・・・そうなんですよねえ、ええ。
 でも貴殿の文を拝読し、「そうだよなあ」とか考えているヤツ(=私)は、まあ、頭がオカシイのかもしれません。・・・・・さらに、進みましょう。


――――――――――――――――――――――
「総裁はこのようにトンデモナイことをいっている」と天下に公言すればよいだけ
の話です。初心者は関係ありません。その説得力ある説明に「たしかに総裁は
トンデモナイことをいっている」と誰もが納得すれば、総裁はたちまち窮地におち
いること必定です。
――――――――――――――――――――――

 あっ、また、こう思ってしまった・・・・まーたこの文を読んで、「そうだよなあ」とか、考えて仕舞った・・・・やっぱ私は、所詮は野球部出身の筋肉脳。まあ、頭がオカシイのかもしれません。


――――――――――――――――――――――
しかしそれができないから、初心者はトンデモナイことをいっている。初心者と
総裁は同一人物だ。よって総裁はトンデモナイことをいっている、というのが
あちらの論法なわけでしょ。
――――――――――――――――――――――

 ・・・・・・・しかし、薩摩DNAの私と、長州DNAの貴殿からはやはり、かの、百万石な思考 ―― その豪気さ ――は、把握不能なのかもしれません。なにせ、あの論法を利用すれば、こんなことが云えちゃいます。あくまでも、一例ですケド(表記法も百万石風に)、

。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。
①雅春先生は、大東亜戦争を「侵略だ」と発言したことがある。(※1)
②福島瑞穂も、大東亜戦争を「侵略だ」と発言したことがある。
③「なんとまあ、雅春先生と福島瑞穂は同じトンデモナイ事を述べている。だから、雅春先生=福島瑞穂にちがいない。かりに雅春先生が福島瑞穂と別人であっても、二人ともトンデモナイ人達だ。」
。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。♪。+゚☆゚+。

 ええと、・・・・・・・(約15分)・・・・・いややはり、なんか、こう、彼は別格なんだと、思います。まあ、「豪気なのか」「ギャグなのか」はたまた・・・(中略)・・・なのか、もう私では、把握不能です。やはりいずれにしても、魅力溢れる同管理人殿(※2)です。

430「訊け」管理人:2013/02/06(水) 16:02:37


<註>

※1 雅春先生は、大東亜戦争を「侵略だ」と発言したことがある。

 「ウソつけー!!!」な方がおられれば、ご登場ください。いや、雅春先生だって文の趣旨によってはかの戦争を、まあ、「侵略だ」と仰っておられます。証拠は、http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65713586.html

※2 魅力溢れる同管理人殿

 以前、さくらを追放した際の対処法も、スバラシかったですよね、ええ・・・(中略)・・・なにか、こう、小学生のような「純粋」さが溢れる・・・(中略)・・・「さくら」様。ご苦労様ですが、両者に「和解してください。」と御自分の体と言葉で訴えてください。そして、その結果どうなったかを、「何月何日。どこで誰を捕まえて説得したのか。また和解案がどういう内容だったのか。そして結局どうなったのか。」という形式で具体的に報告してください。それ以外の書き込みは、今後削除させていただきます。(以上、百万石な管理人殿コメント)

「さくら」様。早速ですが、ご自分のお言葉を実行してください。 (1917)

日時:2012年09月27日 (木) 15時17分
名前:管理人

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=406


(※追加補足しますとこの、呼び捨てブログ管理人ですが、その「追放の際の論法」は既に、削除されてます。これも、
たいへん豪気な名文でありました。削除は残念であります。「もう一度読ませてくれないかな?」と問いかけますから、
「いいとも!」な返事を、お待ちしております)

431「訊け」管理人:2013/02/06(水) 16:21:09

(豪気な百万石思考を解しえない、WEB管理人二名のコメント)


○同管理人殿による「さくら追放のコメント」を読んでの感想(ふたつ)。


●ひとり目の「おバカさん」
――――――――――――――――――――――――――――
1415 :「訊け」管理人:2012/09/27(木) 16:00:41 ID:???

 これは真顔で反応すべきなんでしょうか?それとも、ギャグで反応すべきなの
でしょうか?実に悩ましいですね。9月27日にこんな投稿、読めるとは思って
もおりませんでしたが・・・・

 いやだって一見するとこの理屈、小学生と変わらない(※)わけです。

 私の読解力では、読み取り不能です。どなた様かのご解説を、お願いする
次第です。





<註>

※ 一見すると小学生の理屈と変わらない


(小学生の会話)


「ボク、強いよ」

「ええ!?ホントだな!?」

「うん、強いよ」

「本当だな!?本当に強いんだな!?(ニヤリ)」

「・・・うん」

「じゃあ、そんなに強いなら、プロレスラーとケンカしてみて。そしてその様子を報告して。それが出来なかったら強くないよ。それ出来なかったら、オマエはウソつきだよ」






(「光明管理人殿の理屈は、この程度」とか、言っているわけではありません。ましてや「大の大人がこんなこと、普通、言うものなの?」とか、言っているわけでもありません。・・・(中略)・・・これはたぶん、私の読解力が著しく低いのでありましょう。ですのでどなた様かのご解説を、お待ち致します。)
――――――――――――――――――――――――――――


●ふたり目の「おバカさん」
――――――――――――――――――――――――――――
1416 :トキ:2012/09/27(木) 16:03:16 ID:c9e7zpFY >>1414

 昔、一休禅師が足利義満より、屏風のトラを退治しろ、と言われた時に、こう言い返しました。

「では、誰か、トラを屏風から追い出して下さい。」

と。

 ここまで言われるのなら、先ず、生長の家光明掲示板の管理人様が、当事者全員をさくら様に
会わせるのが筋だと思いますね。
――――――――――――――――――――――――――――

432「訊け」管理人:2013/02/06(水) 16:45:34


>>428訊けくん担任教諭


___      ___
\ ・ \   / ・/   「今回国語の作文を採点しても、不合格なので再試験をうけてください。」
   ̄ ̄ ̄     ̄ ̄ ̄


 わちゃー・・・・追試かよ。しかし、もう、国語って先生、なにか、こう、「最果てが見えない」科目ですね。自信あったのに、追試かあ・・・・実に深遠な科目です、ええ。
 ええっと・・・(中略)・・・ちなみに先生、今回のテストの順位ですが、もう、すごかったですね。もう上位は、「とくべつしんがくクラス」が、独占です。・・・・・体育専攻科も、頑張りますね。


<順位「国語」>

※ 採点者は>>428教諭

1位 志恩 う●はな 光明管理人
2位 山ちゃん トンチンカン








734位 朝日「天声人語」
735位 「訊け」管理人

<了>

433初心者:2013/02/06(水) 16:49:55
訊け様

こういうのがありますね。

ナポレオンは背が低かった。オレさまも背が低い。よってオレさまはナポレオンである。

これは一種の「述語の論理」ですね。述語の共通性によって主語を結びつけようっ
て算段です。生長の家では、あんがいこうした発想がポピュラーなのかもしれま
せん。百万石は関係ないでしょう。これは生長の家が伝統的に得意としてきた手法
であるやもしれませんよ。

434初心者:2013/02/06(水) 16:51:37
さくらちゃんへ

>…初心者は、ここでは孤独な哲学者みたいですね、
身分詮索や、内容についても何も反論もないのに生長の家を否定していると取られるばかりで、
…生長の家って、こんな話せない宗教だったかな〜という…。
こうなれば、本部か道場いって、「生長の家道場破り」してみたらいかがですか?笑。

哲学なとどいう大層なことをやっているつもりはありません。ただすぐれた哲学者
は、かならずなにかを直観把握しているわけですね。直観把握でなにかがわかって
いるはずなのです。

しかし哲学の世界は、このわかったことを「言葉や論理を超えている」といって
すませられる世界ではないのですね。わかったことを、なにがなんでも言葉で
伝えなければならない世界なのです。

それで哲学者は言葉と格闘するわけですが、それを見たなにも知らない人たちが
「人間知でしかものを考えられない人」と勘違いするわけです。こうしたことが
起きているということです。

ものを考えている人物をみたら、「人間知だけでしか考えられない人」とみなすと
いう習性が身についている人がいますね。いくらなんでも「人間知だけ」というの
はありえない話なのですが、こういうことしか考えられない人たちがいるという
のは事実です。

「人間知」だけでものを考えられる人物がいるとすれば、その人物はまさしく特筆
すべき人物ですね。人間には「暗黙知」というものがあるといわれていますね。
「暗黙知」がなんであるかを確実に言い当てることはできませんけども、「暗黙知」
の助けなしにものを考えられる人など皆無なはずなのですね。もしいるとすれば、
その人物は世界のあらゆることを知り尽くした人物であるということがいえるの
かもしれません。大変にすぐれた特筆すべき人物ということになるはずです。

それにしても、生長の家は、一部の人をのぞけば、本当に話せない人たちばかりで
すねえ。考えられることの幅がせますぎてコミュニケーションがまったく成り立た
ない人がいます。本当にせまい範囲のことしか考えられない人が少なくありま
せん。ちょっとでもその範囲からはずれると「虚説」のレッテルが貼られて思考の
対象外ということにされてしまいます(そうした人たちに思考というものがあれば
の話ですが)。

昔はこのようなことはなかったばすなのですが、いまは、言葉がまったく通じなく
て、本当に話せない宗教になってしまいましたね。

435初心者:2013/02/06(水) 16:53:42
さくらちゃんへ

アインシュタインは、天才的な物理学者ではあったのだけれども、古典物理学の
住人であったのですね。相対性理論でさえもが古典物理学であるといわれて
いるようですから、間違いないでしょう。

古典物理学とはなにかというと「未来は計算できる」とする思想なのですね。たと
えば天体の運行ですが、何月何日の何時何分にどこそこで、どのような日食や月
食がおこるということは、まえもってわかりますね。

なぜわかるかといえば、データがあるからです。データをもとに計算すれば、未来
でなにがおこるかがわかるわけです。

天体現象のような、大きくてシンプルな出来事であれば、若干の複雑ささえ乗り越
えられれば、計算で未来を知ることができるということです。身近な出来事はそう
はいきません。それはなぜかといえば、相手が小さな粒子で数も膨大だからです。
それでも天体現象とどうよう、データさえそろえば未来は計算できる、というのが
古典物理学の考え方であるはずなのですね。

アインシュタインももちろんそのように考えていました。「神はサイコロをふらない」
というのは、未来はすべて、物理的な法則としてきまっているということなので
す。計算さえできれば、すでにきまっている未来をすべて知ることができるという
ことなのです。

ところが量子力学的な現象が発見されたことで、未来は確率的に予測できても、
確実な未来としては計算できないということがわかってしまったのですね。未来を
計算するどころか、そもそも今現在のデータをそろえることじたいが原理的に不可
能であるということもわかってしまったのです。

これに納得できないアインシュタインは、未来が計算不可能で確率でしかきまって
いないとすれば、それは神がサイコロをふって未来をきめているのもどうぜんで
はないかと、量子力学を批判したのですね。「神はサイコロをふらない」と、アイン
シュタインが神に指図したという話です。

436「訊け」管理人:2013/02/06(水) 16:58:07

>>こういうのがありますね。

ナポレオンは背が低かった。オレさまも背が低い。よってオレさまはナポレオンである。<<



 もう少しで「壮健美茶」、PCにぶちまけるトコでした。危ないじゃないですかッ!(笑)



拜(笑)

437初心者:2013/02/06(水) 16:58:44
現象世界は実相人間の共同幻想?それとも自己幻想?の問いかけへの回答は
まったくありませんね。

実相人間は迷わない。これはわかりました。きのう貼りつけられた書き込みに、

>比喩的にいうならば、楽屋(實相世界)にいる名優が、色々な衣裳を身につけて舞台(現象世界)に出て、時には迷ったようなセリフを述べ、迷い人のような役を演じているようなもので、再び楽屋(實相世界)に戻れば、決して迷ったことのない、これからも迷うことも無い完全円満な名優(實相人間)に戻る、この實相人間こそが本当に実在する「神の子人間」であるということなのであります。

ということが書かれていたので、「迷ったフリをしているのか」と考えましたが、
これは観念の遊戯にすぎないということですから、どうやらこれもちがうようです。

だとすれば、上記の比喩はどのように解すればよいのでしょうか。フリでもないと
すれば、この比喩をどのように解すればよいのでしょうか。

実相人間でも幻想をみることはできるでありましょうから、共同幻想、自己幻想
のどちらかということでよいのでしょうか。

ところで、共同幻想ですが、以前の訊け様の貼り付けでは、共同幻想では「認識の
一致が説明できない」ということで、雅春先生はこれを否定しておられたはずで
す。だとすると、現象世界は自己幻想ということでよいのでありましょうか。

現象世界とはなんぞや。問いかけにどうか答えてください。

438初心者:2013/02/07(木) 09:18:27
訊け様、トキ様、あくまでも無回答をとおされるおつもりなのですか。回答をいただ
き、対話を続行すれば、それなりに面白い展開になるような気がするんですけどね。

ところであちらの管理人様の「トンデモナイ」発言ですけども、あの発言のなにが
問題かというと、「総裁がいかにトンデモナイことをいっているか」ということを
「言い尽くした」、あるいは「言い尽くせる」と思い込んでいるということですね。
これを前提に「トンデモナイ」発言が出てきたということですね。

これは初心者についてもどうようであり、「言い尽くした」、「言い尽くせる」との
思い込みが前提になっているということです。

ところが、これまでの手口からもわかるように、あの人たちは、言い尽くそうとは
ぜんぜん考えてないですね。不思議なことに、管理人様をふくめたあちらの方々
は、言い尽くそうともしていないのに、「言い尽くせた」、「言い尽くせる」とおもえ
るのです。

このあたり、心頭滅却すればなにごとも言い尽くせる、といった信念が垣間見える
ようであります。

439トキ:2013/02/07(木) 09:31:11
>>438

初心者様

 回答が遅れてごめんなさい。無視した訳ではなくて、長時間の個人指導プラス
少し体調を崩しておりお返事が出来なかったのです。
今、バタバタしているのでお返事を後ほどさせていただきます。申し訳ありません。

合掌 ありがとうございます

440神の子様:2013/02/07(木) 11:55:18
あちらの掲示板ではトクダネ?様がアク禁になったみたいですよ。

初心者さん、裏口から圧力を掛けたからでしょ? お人が悪い…

441トキ:2013/02/07(木) 12:29:02
>>440

 そうでしたか。それは御気の毒です。トクダネ?様、ぜひ、傍流掲示板にお越し下さい。
この掲示板は、和解派、教団側、本流復活派も歓迎する、実にいいかげん・・・・もとい、
自由な掲示板です。

 管理人は、無責任で・・・・・じゃなかった、多様な意見を歓迎しています。

 ご投稿をお待ち申し上げます。

合掌 ありがとうございます

442「訊け」管理人:2013/02/07(木) 14:40:36


>>438初心者 さま
――――――――――――――――――――――――――――――――
訊け様、トキ様、あくまでも無回答をとおされるおつもりなのですか。回答をいただ
き、対話を続行すれば、それなりに面白い展開になるような気がするんですけどね。
――――――――――――――――――――――――――――――――


 ・・・・いやーすみません。完全に見落として、おりました。申し訳、ございません。いやー昨今、他のことに時間を取られて、おりました。たとえば、「プラウダの社説」や「(さくらの)総裁侵略発言」、はたまた、「決算書作成」「キャバ嬢営業メール対処」等々・・・(中略)・・・もうしわけ、ございませんでした。さて、今、拝読してのご返信を致します。まあ、一瞥読解のためやや、ポイントがズレテいるかもしれませんが・・・・・まあ、こういった、テーマになるのでしょうかね。深読みのし過ぎかもしれません。ですがいったん、掲載してみます。

◇実相は具体的なもの
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1350
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1351

<上記内容ダイジェスト>
※ 雅春先生とお弟子さまの会話です。


谷口雅春:実相の中には、個生命がないという意味ですか。


柴山実:ええ、今まで私が知ったところによりますと、実相は――


谷口雅春:実相の中には、個性あるところの個々の生命はないという前提で言っているのですか。


柴山実:実相の中には〝個生命〟はある。あるけれども実相そのものは〝個〟はない、いわゆる一つの・・・・


谷口雅春:そんなことない、そんなことないですよ。実相の中に〝個生命〟があるんだ、だからあんたの考えは前提が違うんだ。

(了)

443「訊け」管理人:2013/02/07(木) 14:51:19



―――――――――――――――――――――――――――――
>>440 名前:神の子様 投稿日: 2013/02/07(木) 11:55:18
あちらの掲示板ではトクダネ?様がアク禁になったみたいですよ。

初心者さん、裏口から圧力を掛けたからでしょ? お人が悪い…
―――――――――――――――――――――――――――――

 まあしかし・・・・・・「もしも」、ですよ。「もしも」批判されるベキ人物が、あるとするならばそれは、少なくとも「初心者さま」では〝ない〟のでは?

 (それともこれは、なにかの冗談なんでしょうかね・・・・)貴殿はなにか、クレームをつけたいのかもしれません。ええそれは、自由だと思います。ですが、なんか・・・・・いやそれ、クレームをつけるべき人物が、間違っておりませんかね。どうなんでしょう・・・・・

 いや、「もしも」、ですよ。「もしも」批判されるベキ人物が、あるとするならばそれは「初心者さま」では〝ない〟のでは?批判されてしかるべきは、たとえば「著作権者と同一行動を!」と呼びかける、その、掲示板管理人殿では、ないでしょうか。



追伸

 「著作権者と行動を一にする」ならば ―― さてその、『生命の實相』第一巻ですが、巻頭にはどんな御文章が掲載されてあるでしょうか。「著作権者と行動を一にするものノミ」を、生長の家と呼べる世界、これを目指して日々運営されておられるとのこと、了解しました。ですが、まあ・・・・・第一巻巻頭の神示はこれ、整合性は大丈夫でしょうか。いったい、どんな論法を以て今回、「トクダネ?」様を追放になさったので?

444初心者:2013/02/07(木) 14:54:18
訊け様

臨場感があっておもしろい対話ですが、

ポイントが大ズレです。

「深読み」ではなく「浅読み」です。

445初心者:2013/02/07(木) 15:06:16
訊け様

思いだしましたぜ。

はじめにロゴスあり。ロゴスは神なり。なりたるもの、これによらでなりたるはなし。

たしかこんな一節がありましたね。でもじっさいは、こんなにカッコよくは話されていなかった。

はじめにロゴスがあったんしー、ロゴスは神だったんしー、あるものぜんぶ神だっ
たんしー。

じっさいはこんな感じで話されていたという。これが臨場感というものでしょう。
それにしても、雅春先生、おもしろい人ですねえ。

446「訊け」管理人:2013/02/07(木) 17:17:33

BGM
http://www.youtube.com/watch?v=HrzjwZzKooM

>>初心者さま

 いやー返信ですが、「ちょっと、待っておくれなし」(会津若松弁:大河ドラマ・綾瀬はるかチャン風に発音)


 ・・・・いやーホント。難しいです。容量を超えてます。ですんでちょっと、「待っておくれなし」(会津若松弁:大河ドラマ・綾瀬はるかチャン風に発音)




447訊けくん担任教諭:2013/02/07(木) 17:24:13
>>442感想

訊けくん、初心者さんは浅読みだなんて反発しているけど、この柴山実くんと初心者はそっくりです。

いつの時代にも似たような人がいますねえ。

初心者くんはよそのクラスなので、担任しなくてよかったわ。こんな子うちのクラスにいたら先生ノイローゼになりそう・・・

448役行者:2013/02/07(木) 19:16:41
 しぱらく見ないうちに遙か彼方上に私の投稿文が…(>。<)

449初心者:2013/02/07(木) 19:31:50
訊け様

問いかけの意味をかいつまんで説明いたしやす。

じつはアッシは、ほんらい完全であった実相人間が神から自由をあたえられたため
に迷いが生じて、それで現象世界をさまよい歩いている、と雅春先生は説いておら
れるとおもっておって、このことをこちらの掲示板で書いたのだけれど、光明掲示
板のほうから、「実相人間は、なにがおろうと迷わんのだ。いってみれば役者が迷っ
たような演技しているだけだ。おまえ、真理わかっとらんな」とクレームがきた。

「そうか、迷ったフリをしてるのか!」と書いたところが、「観念の遊戯」と一蹴され
た。つまり、ほんらい完全な実相人間であるアッシは、迷うこともなければ、迷った
フリもしないということだ。それなら、いったいなんの因果でアッシは、こんなとこ
ろでこんなことをしてなきゃならんのかと、これが疑問におもえてきたってわけ。

これはひょっとして共同幻想なのか、それとも自己幻想なのか。真理を知っている
と自負しておられるみなみなさま、さあさあ答えていただきましょう、という話です。

役行者様も、せっかくいらしのだから、答えてくだされ。

450トキ:2013/02/07(木) 19:51:08
初心者様

 どうも、失礼をしました。お返事が遅れてごめんなさい。


 連日個人指導が入り、失礼をしました。余談ですが、個人指導、これは指導をするのではなくて、
ひたすら「聞き役」に徹するのが原則です。あと、説教はしてはいけません。この点が講師にしろ、
本流復活派にしろ、ちょっとずれていると思います。説教するから、みんな怒るのですね。
 あくまでも、相談を受ける側はアドバイザーの立場以上であってはならないと思います。

 閑話休題。

 今、モーリス メーテルリンクの「死後の存続」という本を読んでいます。(あ、生命の実相は
毎日、読んでいますよ。念のため。)。メーテルリンクの名前は、確か、生命の実相にも登場し
ていましたし、この本の内容も生命の実相の霊界編などとかぶる部分はあります。ただ、この本
はキリスト教を批判しているので、出版当時は、キリスト教からかなり批判を受けたみたいです。

 メーテルリンクなんかは、人間は死後も意識は持つが、同時に人間は宇宙意思の小さな一つに
過ぎないと論じているのは、面白いと思います。しかし、同時に、彼自身も理性では神様は
分からない、と言っているのも正直だと思います。

 初心者様から宿題を頂戴したときに、この本を読んでいたのは、偶然ですが、面白いと思いました。

 そういう難題を抱えたときに、どうすれば良いか、というと、私は、問題を神様に任せる事に
しております。

 学生時代、量子力学という難しい科目を勉強していた時に、分からない事が沢山あったので、
担当する助教授に勉強の相談に行った事があります。その時に、助教授から言われたのが、

「わからない部分があるからと言って、そこに留まる必要はないよ。」という助言でした。

 「わからない部分はわからないまま、勉強がすすむと、ある程度、勉強が進んでいるうちに
気がついたら、わかるようになっているから。」と言う事です。

 で、それは確かにそうだった、という事も、言えると思います。

 もちろん、理論としては、実相と現象の関係は知っていますが、実際には、まだまだ体得した
とは言えません。が、それを気にしていないのも事実です。

 「死ぬまでにはわかるだろう」

と居直っているのです。実際、先達が亡くなる前にお見舞いに行くと、

 「ようやく、谷口雅春先生の真意がわかるようになりました」

とも言われていた先達もしました。

 まあ、実際には、個人指導とか相談とかで、バタバタしていて、そんな高級な事まで手が回らない
のも実情なのかな?

 でも、大事な事なので、少し思案してみます。

合掌 ありがとうございます

451トキ:2013/02/07(木) 19:59:02
>>449

 初心者様の意味するところを完全に把握しているとは思えないですが、どちらかと
言えば、「共同幻想」に近いのではないですか?

 よく言われるのが、人間が消防車を見て、「赤い色」だと言っても、その「赤」の色
は、人ごとに違うのではないか、という議論がなされます。しかし、人間の可視光線の
中で、赤色の領域の光線を見ると、人間は「赤い」と反応するところから、人間は赤色
を共通で見ているのではないか、という事が言われています。

 少し前に、「個人幻想」説を支持する人が、自分が死んだら世界が消滅するのでは
ないか、という疑問を持ち、葬式の代わりに、自分が死んだら世界が消滅するのでは
ないか、という疑問を綴った文章を遺族に頼んで新聞広告に掲載させた事がありまし
た。この件は中外新報にも記事になりましたが、もちろん、その人が亡くなっても、
世界は消滅をしていません。

 まあ、これも、証明はできませんが、少なくても、個人幻想である、という考え
には、不利な材料だと思っています。

 実は、普段は、もっと俗世間にまみれた内容の相談ばかり受けているので、こんな
大きな話は考えた事はあまりないのです、穴だらけかもしれませんね。

452初心者:2013/02/07(木) 20:06:20
どうそっくりなんだ、いってみな。

訊け様は「容量を超えている」とお嘆きだ。これはひょっしてレベルがちがう話で
あるやもしれやせんぜ。

雅春先生は、「認識の一致が説明できないので共同幻想はない」といっておられ
た。だとすれば現象世界は自己幻想ということでいいのか。いや、正確には個人
幻想というべきだが、これでいいってことなのかい。

個人幻想だとすれば、現象世界は、たったひとりの実相人間によって幻想された
世界ってことだ。だとすれば、Aさん、Bさん、Cさんの実相とはなんだって話だ。
日本国の実相とはなんだって話だ。しかしこんなことはなんの問題にもならない。
実相人間はひとりだけいればいいってことが問題なのだ。

トキ様。「個人幻想」の用語、さきを越されやした。「個人幻想」といってもこれは
実相人間の個人幻想でやす。現象人間の個人幻想ではありやせん。

量子力学でわからないことがあれば、問いかけやすので答えておくれやす。


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