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「まじめな話」の板

384初心者:2013/02/02(土) 12:36:54
「わたし」とは言葉によってつくりだされた存在であるということを述べましたが、
雅春先生が説かれた「人間」が、言葉なしでは存在しえない「わたし」であるはず
がありません。雅春先生が説かれた「人間」とは、「わたし」ではないなにか、つまり
それは「ラージX(大文字のX)」であるはずなのです。

おそらくは言葉をもたない動物は「ラージX」として生きているはずです。これに
たいして人間は、言葉を手に入れたことで、「ラージX」としてではなく、「わたし」
としてしか生きられなくなったと考えられます。

そのために人間は、「ラージX」としてではなく、「わたし」としてしかものを考え
られず、「わたし」としてしか言葉を話せず、「わたし」としてしか真理と向きあえ
ないといった状況に追い込まれている、ということがいえるはずなのです。

「ラージX」をつくりだしているのは「命そのもの」ということがいえます。しかし
「わたし」をつくりだしているのが、命ではなく言葉であるとすれば、以上の
ような状況はとても困ったことだといえます(言葉は神なり、と完全に信じきる
ことができればこの状況に立ち向かうことはできるかもしれません。しかし、
それを信じているのが「わたし」であったとすればどうでしょう)。

みなさま方は、自分はこんな困った状況におちいってはいないといえますか。自分
は「わたし」ではなく「ラージX」として生きていると自信をもっていえますか。「わ
たし」ではなく「ラージX」として真理と向き合い、「わたし」としてではなく「ラージ
X」として総裁と向き合っていると、自信をもって答えることができますでしょうか。

「わたし」として真理に向き合っているかぎり、その真理はイミテーションです。
「わたし」が向き合っている総裁もイミテーションです。「わたし」が神の子である
にしても、その神の子はイミテーションです。

現状はどうかというと、自分だけは言葉を超越し、あるいは言葉は神なりを体現し
た「ラージX」として生きているかのごとく思い込んでいる人たちが、自分が向き
合っている真理を「絶対的真理」とみなし、絶対的真理の言葉を聞くことを「真の
生長の家」とみなし、「ラージX」さえ知らない総裁を「迷い人」とみなしている、
こんな構図が横たわっているといったところでしょうか。

なんにしても、「言葉に意味がある」と思い込んでいる人たちが、言葉を超越した
「ラージX」として生きていられるというのは、なんとも不思議なことにおもわれて
仕方がありません。いやむしろ、「言葉には意味がある」と思い込めるからこそ、
たとえ言葉によってつくられた「わたし」であったにしても、それなりの意味がある
と思い込めているのかもしれません。

このあたり、まだまだツッコミが必要かとは存じます。


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