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賎のおだまき・武家の時代の男色

1名無しさん:2008/05/20(火) 20:40:22
森鴎外「イタセクスアリス」に出てくる、明治時代、薩摩の寮で硬派の学生が毎年、正月には
第一に読むという男色読み物です。「男色」とは美童愛のこと。

15名無しさん:2008/05/24(土) 11:17:19
この時代の「男色」を描いた「五代将軍」の南條範夫によると、五代将軍吉宗は、何十人も抱えていた12,3〜4の小姓たちのために専用の御殿・桐御殿というのを
造ってそこに集めて夜の勤め・「夜伽」の待機をさせた。

「桐御殿」にはいることを「お座直し」といった。「小姓」が「夜伽」の命をおし使って「寵童」となる、つまり殿様の「閨房」に侍し肉体を捧げること、寵童となることを
「お座直し」というようになった。

16名無しさん:2008/05/27(火) 20:04:24
>>14
平田三五郎の墓(財部町史跡28)
鹿児島県曽於郡財部町古井(曽於市財部)にある。
 (古井(こい)は、JR日豊本線北俣駅より「中間トンネル」を抜けて大峰川を越えて「馬立」バス停、南郵便局に行く途中の十字路あたり。
  ただし交通は観光課に確認のこと。)

  
  実在の人物で、それぞれ子孫が墓参りしているという。

  財部郷土館には、平田三五郎の掛軸(絵)が展示されている。

17名無しさん:2008/05/27(火) 20:05:32
鹿児島県人でない人が薩摩を見た記録に「薩摩見聞記」がある。明治22(1889)年から3年間、宮之城に教員として赴任した旧長岡藩士・本富(ほんぶ)安四郎が書いたもの。
そのなかで、明治中期の薩摩人の風俗として「美少年の事」が書かれている。いわゆる男色、衆道のことである。
 「美少年の事は是れ封建時代の蛮風」としながら、美少年の稚児が振り袖を着せられて二才(にせ)たちに護衛され、彼のために二才たちが日中は日傘を差し、夜は寝ずの番をするさまが描かれている。これが明治中期の出来事だというから驚きである。薩摩武士の間で衆道がいかに根強かったかがうかがわれる。
 また同書には、二才たちの間で「賤(しず)のおだまき」が愛読されていることも書かれている。琵琶法師のつま弾きが平田三五郎の名を呼ぶくだりでは、聴く者みな一斉に「チェストー」と叫んだとある。
 それほど二才たちを興奮させる平田三五郎とは何者か。年配の方はご存じかもしれない。
 「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と、文武両道に秀でた吉田大蔵(おおくら)清家(清盛ともいう)の男同士の愛の契りの物語
 
 ttp://373news.com/_bunka/jikokushi/17.php
 ttp://www.hayato.com/jisya/yakushi.html
 ttp://www.shiki-net.com/shirilyou/kadokurayakushi-nisilyuukaidou.pdf#search

18名無しさん:2008/05/27(火) 20:06:56
平田三五郎の掛軸(財部郷土館)
 ttp://www.ker.co.jp/bijutu/200708.html

19名無しさん:2008/05/27(火) 20:12:45
>>18
財部郷土館HPより

 平田三五郎は、庄内の乱(慶長4年:1599年)において戦死した人で、相当の美少年であったらしい。庄内の乱は、関ヶ原の戦い(1600年)の前年に、都城を中心に戦乱が繰り広げられた事件である。庄内地方を領有していた北郷時久は、宮之城へ移封となり、代わりに肝属地方を領有していた伊集院幸侃(こうかん)が入庄して来た。伊集院方の勢力拡張に危機感を持った島津と伊集院の戦いは結局、島津方が鎮圧した。
 財部では、大抵の者が伊集院方で戦っているが、平田三五郎は島津方に属しており、弱冠15歳で戦死している。三五郎は「赤き鉢巻きに女郎花(おみなえし)を折て笄(こうがい:かんざしの意)にした」とあり、目立つ出で立ちであった。三五郎と兄貴分の吉田清家のことを記した「賎(しず)之麻玉記」という本がある。その本のことが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の中に「平田三五郎と云う少年の事を書いた写本があって、それを引っ張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これを毎年元旦に第一に読む本になっていると云うことである。」と書いてある。

 桜の木に腰を下ろし、笛を吹いている平田三五郎の掛軸が財部郷土館に展示してある。


 (15歳・・数えだから満では13歳か)

20名無しさん:2008/05/28(水) 20:47:20
>>16
平田三五郎の墓(三五郎塚)
 鹿児島県曾於市財部町古井

JR日豊本線財部駅下車 10号線で財部南郵便局がある馬立を目指す。

馬立の理髪店の角から古井へ向かって1.5キロ、橋を渡って、次の小川を渡った
左前方、先の古井十字路まで行かない手前で左にはいる。

(東九州自動車道では 末吉財部IC)

21名無しさん:2008/05/28(水) 20:54:49
>>20

地図: 適当に拡大すると「古井」の下あたりに「三五郎塚」がでてくる。
(馬立ー古井線の古井の地図で左下あたり)

 JR財部駅ー馬立(財部南郵便局)−・・古井

ttp://map.yahoo.co.jp/pl?lat=31.73893889&lon=130.93874778&sc=5

22名無しさん:2008/05/28(水) 22:52:57
男色の盛んな薩摩は、明治に入ってから新政府軍と戦った、これを「西南の役」という。明治10年に起こった、日本最大最後の内戦だ。熊本の激戦地田原坂に「田原坂の美少年」の像があるが、薩摩は今の中学生くらいのたくさんの少年が参戦した。当然、「男色の契り」があったのだろう。
また、これら少年が捕虜にされたりした場合、美童がどういう目に合うか想像に難くない。上記会員制ホモ雑誌「緑園」にはそうした三五郎の危難みたいな物語が載っていて興奮させられた。

23名無しさん:2008/05/29(木) 19:48:18
>>20  (訂正;10号線ではない。10号線の一つ上の道路。)
>>21  

庄内の乱(慶長4年:1599年)での「古井原の戦い」というのがあったのだそうだ。このあたりで実際に戦って二人とも死んだ。このあたりで戦があったのだろうが、現在でも交通が不便で、思いやりタクシーなどというのが活躍している鄙びたところのようだ。薩摩は現在の鹿児島と宮崎にまたがった地域。

「賎のおだまき」で、13歳(満11,2歳)、今で言えばほんの小6あるいは中1位かの美童の誉れの高い三五郎、今で言えばJr.あたり。野に小鳥だかを取りに一人で行った。一度でもかの美童と契ることができれば死んでもよい。そう想い焦れてきた二人の暴漢。それとも知らず襲われ女の子が襲われるように無理無体に襲われる。そしていよいよ着物の帯に手がかかる、
その頃は少年武士は誰かの稚児・若衆となって肉体を捧げ契りをする。したがって処女(生童)を守らねばならない。

三五郎は脇差を抜いて抵抗しようとするのだが、13歳の美童の細腕では、藩の荒くれ男二人に適うはずもない。すぐその細腕を押さえられ、いよいよ帯を解かれ押し倒されいよいよ強姦の辱め・・というときに馬に打ち乗った大蔵さんに助けられる。危うく強姦されるところきわどいところを助けられる場面がある。その後三五郎は、互いに想い焦がれ、自宅に訪ねてきた大蔵さんに春雨の音だけが聞こえる寝静まった夜中、生童のすべてを捧げ、硬く抱きしめられ、刀を抜いて守ろうとした帯に手がかかるのを受け容れ、
・・花嫁のように愛撫に身を任せ、すべてを捧げ肉体を一つにして、硬い「男色の契り・義兄弟の契り」を交わした。
その後の藩の二才たちは競ってまわし読みし、その後明治になってからも、薩摩出身の塾の書生たちも元旦には必ず読むことが日課と成っていたとある。400年前のどこかこのあたりの広大な一部で実際起こったと思えばいいだろう。「賎のおだまき」を読みながら、財部郷土館に展示されている三五郎の掛け軸を見て、そう思いながら一度見ておくのもいいだろう。

・「賎のおだまき」
ttp://homepage2.nifty.com/papaskitchen/NewFiles/NT60.html
・ぱぱずきっちん 男色文学の世界・    男色文学多数あり
    ttp://homepage2.nifty.com/papaskitchen/Top.html


《平田三五郎の墓(三五郎塚)》の場所と行き方
    鹿児島県曽於市財部町古井8164地先
  財部町地図
   ttp://map.yahoo.co.jp/ploc?nl=31.43.21.5&el=130.59.44.6&sc=5
・上の地図で、財部駅から馬立又は直接古井をめざす。古井の左下の、道に挟まれたあたり。
・下の地図で黄色の道路右側が財部駅へ。交差する上に行く白い道との交差地点が馬立で、南郵便局、理髪店がある。三五郎塚の右上が古井交差路。
・交通が不便のようで、思いやりタクシーというのがあるが、本数が少ないので、自家用車・レンタカーがあるといいだろう。(東九州自動車道 末吉財部IC)
    ttp://map.yahoo.co.jp/pl?lat=31%2F43%2F12.312&lon=130%2F57%2F32.111&layer=0&sc=4&mode=map&size=s&pointer=on&p=&type=static&CE.x=277&CE.y=471
ttp://www.0986.jp/takarabe/map/lmatimap.htm
     
   交通:曾於市思いやりタクシー
     ttp://www.0986.jp/sooshi/pdf/bas_taxi/02.pdf
ttp://www.0986.jp/takarabe/index.htm

24名無しさん:2008/05/29(木) 20:17:01
江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。

25名無しさん:2008/05/29(木) 20:23:42
昭和24年まで、年齢は「かぞえ」だった。生まれるとすぐ一歳で、正月でプラス一歳、つまり12月31日生まれは、正月には二歳。したがって少なくとも一歳何ヶ月か多い。3chで、沖縄のドラマに神木くんがでてて、かなり年長になってたがまだ中学生くらいか?。せいぜいそのくらいの少年たちが主体で、アノドラマは顔もきつすぎ、少年ではない。私は途中で見るのをやめた。
15-17歳とは、満でいえば13歳何ヶ月から、15歳何ヶ月、中学から高校生くらい。実際は、13,4歳(数え)もいたというからずっと低いはず。

26名無しさん:2008/05/29(木) 21:25:33
礫川 全次「歴史民俗学叢書 男色の民俗学」批評社2003
  ttp://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-8265-0383-0.html

27名無しさん:2008/05/30(金) 19:42:47
>>23

財部駅はなにもないので、都城駅よりタクシーかレンタカーがよい。

28名無しさん:2008/05/31(土) 15:34:52
>>23
まず拠点は馬立・南財部郵便局へ
 そこから図で上(白い道)・・古井方向へ

  南財部郵便局  (財部町南俣5058−5)
   ttp://www.jp-network.japanpost.jp/storesearch/detail/index.php?id=300101784140

29名無しさん:2008/05/31(土) 17:36:00
三五郎塚

 ttp://www.mapion.co.jp/c/f?nl=31.711018&el=130.9458861&uc=1&grp=all&coco=31.711018,130.9458861&icon=home,,,,,
 (前にhを付けること)

30名無しさん:2008/05/31(土) 19:24:34
>>29
三五郎塚写真

 ttp://blog-imgs-14.fc2.com/k/e/n/kenvfr/DSC01600.jpg

31名無しさん:2008/06/01(日) 09:49:40
郷中制度(ごちゅう制度)は、明治以後、昭和もあったというが、一番すごく最後まであったのは国分
地方だという。・

32名無しさん:2008/06/01(日) 09:55:19
薩摩はホモ王国だった??


 ttp://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscover_satsuma_homesexual.htm

33名無しさん:2008/06/03(火) 20:28:08
薩摩の男色の一番強固なところとして、出水(いずみ)地方があげられる。現在の出水市のあたりである。そして、強いものとして天下に知れ渡った「出水兵児」(いずみへこ)がある。
出水を中心とした薩摩の「兵児二才(へこにせ)」という青年団組織で、兵児二才とは士族の若者の集会で、薄化粧した少年を「稚児様」と呼び、それを中心に青年たちが毎夕集会して学習や武技を練り、またいろいろの年中行事を行なった。この兵児二才は西南戦争頃まで存続していたが、その後は新しい青年団に改められた。
  ttp://www.hpmix.com/home/eishin7dan/index.htm

 「稚児様は…… 郷中の名門の嫡男で12〜13歳の特に美貌の少年2名を選んで美服を着せ薄化粧させ、この稚児様を集会の中心として尊敬し、それに奉仕することをもって各種行事の中心とした。」戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。

「出水兵児」の「兵児(へこ)」とは青少年のことで、数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び、それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」、30歳までを「中老」と、3つに区分していました。兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。

ttp://www.amazon.co.jp/%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5%E6%98%A5%E7%94%BB%E3%81%A8%E7%94%B7%E8%89%B2-%E6%97%A9%E5%B7%9D-%E8%81%9E%E5%A4%9A/dp/4309902855/ref=pd_sim_b_img_2
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/10/post_bd73.html

34名無しさん:2008/06/03(火) 21:48:31
賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8

35名無しさん:2008/06/03(火) 22:05:55
・薩摩藩
薩摩の人口25〜30パーセントが武士。維新の中心的な担い手。薩摩藩のみ江戸時代末期まで郷中学校という武士の息子たちのための学校教育が実施されていた。漢文と武道(と男色!)をそこで学ぶ。
  ttp://flower.seesaa.net/article/1856846.html

36名無しさん:2008/06/06(金) 20:27:28
郷中では、「うそを言うな」、「負けるな」、「弱い者をいじめるな」の3原則があったといわれています。郷中制度のような優れた組織には、優良企業にすばらしい経営理念があるように、すぐれた教育理念があったのでしょうね。それが上記の3原則を包括した、島津日新公「いろは歌」であるといわれています。「いろは歌」は、稚児の頃から全員合唱して暗誦させられ、薩摩武士の魂の奥底まで深くしみこんだものとなっていたようです。・・
  ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~jms/page003.html

このように、たまにテレビでも紹介されますが、「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士の制度といえるでしょう。今で言えばJr.に於ける《児童虐待》と同じなのです。

37名無しさん:2008/06/08(日) 07:55:34
>>21

ttp://www.mapion.co.jp/c/f?nl=31.711018&el=130.9458861&uc=1&grp=all&coco=31.711018,130.9458861&icon=home,,,,,

38名無しさん:2008/06/09(月) 20:38:04
三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
ttp://tdl.libra.titech.ac.jp/z3950/gakuipdf/1706514/170651403.pdf#search='

39名無しさん:2008/06/09(月) 21:55:35
◎ 『甲子夜話』その三 (「へこ組」&小咄)

<正編十八巻の(二十七)>
 以前は薩摩にへこ組といって、党を結び男伊達をする士がいた。その大略を言えば、この組に入る者は、行状を守ること僧のごとく、まず夙に(早朝に)起きて書を会読し、夜は寝るまで弓矢を射て、婦女に近づくことを禁じている。もし途中で女に会っても、諦視(じっと見つめる)すれば大いに咎めて自害させる。さらにこれを難ずる者がいれば、泡盛酒を多く飲ませ、酔いつぶれたところで枕を払えば、頭が下がって即死する。このようにして先約を罰し、幾年という期限が過ぎれば、組を出て平常の士行に還るという。
 婦女を禁ずるのはかくのごとしと言えども、男色を求め、美少年に随従し、ほとんど主人のようだ、とある人が話していた。

40名無しさん:2008/06/10(火) 21:17:39
ttp://www.androphile.org/preview/Museum/Japan/shudo_b.htm
ttp://www.androphile.org/preview/Museum/Japan/Toyonobu/B09.html
ttp://www.androphile.org/preview/Museum/Japan/katanas.htm

41名無しさん:2008/06/12(木) 20:12:22
よか稚児

ttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/3578/R-chigo.htm

           (編集ーすべて選択)

ご【稚児】
(一) 略
(ニ)男色の相手役としての少年。
  「よか稚児」 (第2版〜第5版)

 稚児とは、男色の相手役としての少年ですが、問題は、その用例です。
 よりによって、「よか稚児」です。

 「よか」というのは、九州方言で「よい」という意味。 新明解は稚児の用例に、わざわざ「すばらしい男色相手」などといった意味の言葉を載せています。
 念のため、新明解で「よか」を引いてみます。


よか 〔九州西部の方言〕
 よい。 「よか稚児/泣かんでよか」  (第4版・第5版)

  寄宿舎で上級生に無理矢理やられてしまった少年が泣いているのでしょう。九州西部出身の上級生は少年の肩をたたき、そして言います。

  「泣かんでよか」

 明治時代に生まれなくてよかった。(・・・どっちにしろ私は美少年でないので、関係無いですが。)

42名無しさん:2008/06/17(火) 21:47:49
慶長四年(1599年)の庄内地方(現在の財部(たからべ)周辺)の合戦で島津軍が庄内へ出陣の途中に門倉薬師堂に立ち寄り兵士たちがお堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。そこへ遅れて平田三五郎宗次(容姿秀麗で美少年の名も高く、16歳にして庄内合戦に従軍)と友人の吉田大蔵が通り、二人もお堂へ筆を入れた。しかしすでにお堂には平田三五郎が筆を入れる隙も無く吉田泰造に抱えられ、お堂の高い所に辞世の句を残した。「書置くも 形見ともなる筆の跡 我は何処の土となるらん(平田)」「命あらば 又も来て見ん門倉の 薬師の堂の軒の下露(吉田)」 かくして庄内に出発し、慶長四年十一月二十八日に激戦奮闘の末、先に吉田大蔵が討ち死にしその遺体を家臣が背負って退く姿を見た平田三五郎は号泣し「我、大蔵と生死を共にすると約束せり」と敵陣に切り込み遂には討ち死にした。かくして薬師堂の壁書きは長く残り、遠方より見に来る人も多く平田三五郎・吉田大蔵の辞世を見、感涙したと云う。しかし、後年薬師堂を管理していた寿永山瑞慶寺がお堂の内外壁を黒く塗りつぶし見えなくなり、後に焼失し無くなった。平田三五郎の墓が鹿児島県曽於市財部町北俣の古井荷込坂の上に在って、[三五郎塚]と云う

43名無しさん:2008/06/18(水) 22:27:52
平田三五郎の墓が鹿児島県曽於市財部町北俣の古井荷込坂の上に在って、[三五郎塚]と云う。


財部町の観光課によると、財部駅からタクシーで10分だそうです。(古井・こい)

44名無しさん:2008/06/23(月) 20:20:58
>>43 
マップ
ttp://www.mapion.co.jp/phonebook/M16006/46217/L0804350/

45名無しさん:2009/10/27(火) 21:15:45
薩摩の男色(美童愛)の中心的なものは、郷中(ごちゅう)制度にあるが、明治に入って
西郷隆盛が明治7年に作った私学校に移った。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人
いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったという。
これが、西南の役(明治10年)の主な薩摩軍の戦士となった。

まだ少年の兵士がたくさんいて「田原坂の美少年」の像があるように
今の中学生くらいの少年がたくさんいたようだ。

なお、明治5年には、鶏姦律条例ができた、鶏姦とは少年相手の肛交のことだがかなり行われていたそうだ。
これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんたいして15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、可愛がって
いたのだろう。

男色の二大秘儀は肛交と「一節切」(ひとよぎり)である。「一節切」とは、一回り小さい稚児のものを吹くこと。つまり今流にいえばフェラ。
こういうことが、学校の寄宿舎などでもおこなわれていたようだ。
森鴎外の「イタセクスアリス」にもでてくる。

46名無しさん:2009/10/27(火) 21:19:47


尾崎士郎「私学校蜂起」[河出文庫)

池辺正太郎「西郷隆盛」(角川文庫)

が参考になる

47名無しさん:2009/10/28(水) 20:20:07
薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは男同士の契りを結ぶことでもあった。」

と語っています。

西日本には、昔から若者宿あるいは若衆宿と呼ばれる結婚前の若者だけで構成される組織があり、地域の少年は一定の年齢に達すると若衆宿のメンバーとなり、先輩の若者たちから一人前の男になるための訓練を受ける風習がありました。

薩摩士族の若衆宿は郷中と呼ばれ、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で結ばれていたといいます。

薩摩の甲突川の貧乏士族が作っていた郷中の長は西郷隆盛で、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎たち日露戦争を戦った男たちは、その郷中で西郷の薫陶を受け、人格的な影響を受けたといわれています。

大久保利通は明治の元勲で、西郷隆盛の弟の西郷従道は海軍大臣、大山巌は陸軍大臣を務め、東郷平八郎は日本海海戦でロシアのバルティック艦隊を破った日露戦争の英雄、東郷元帥です。

この人達は全員、男色の経験者だったのです!
 ttp://mblog.excite.co.jp/user/jack4afric/entry/detail/?id=9082213

48名無しさん:2009/10/28(水) 20:22:01
郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。 つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。

「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。

なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる【鶏姦」が広まっていたという。

明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。

今は変わったようだが、かって鹿児島には東大合格全国一として当時有名だったラ・○ールという「全寮制男子中高一貫教育校」のミッションスクールが在りました。

昭和40年代の朝日新聞連載【今、学校で・・高校生】によると、そこで「郷中制度」に倣って、【御中制度】というのをスタートさせたという。上級生が、下級生と一緒になって指導する制度だという。

全国から「東大合格」を目指して秀才の、「中学生」になったばかりの一年生が親元を離れてくる。でもまだ12,3、夜消灯するとホームシックに布団の中からはあちこちで啜り泣きの声が漏れ、枕を濡らすという。

寮には寮生が通称『小姓制度』と呼ぶ風習があると言う。 夜,消灯すると、中学生と、高校生との交流がはじまるという。 .記事によると、高校生はそんなひげも生え揃わない中学生の傍らに寝るとそっと抱きしめ、涙を拭いてやさしく慰めてあげるのだそうだ。

そして、可愛い中学生の「稚児」さんの写真をいつも大切にしまってみていると言う高校生の生徒のことを紹介している・・。昔の旧制中学(5年制)では、こんなことがあたりまえだったのだろう。

(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002

49名無しさん:2009/10/29(木) 21:02:53
薩摩(今の鹿児島県と宮崎県)の「郷中制度」は、「男色」によって稚児と二才(にせ)ががったいしたものだが、
西郷隆盛の明治7年に私学校に引き継がれたが、明治10年の西南の役に
破れて後、明治10年以降は、戦前を含め「学舎」と呼ばれるところに移った。
現在でも鹿児島、宮崎県に「学舎」は10位あるようだ。現在は男色は無いのではないかと思うが。

50名無しさん:2009/10/31(土) 08:23:19
戦前の鹿児島では、曽我どんの傘焼きの日が近づくと健児の舎を中心に稚児(ちご)たちは大人の力を借りることなく、長稚児(おせちご)や二才(にせ)たちの指導の下に傘焼きの準備に立ち働く。
この間に若者たちは、社会生活のしきたりや事に当たるときの礼儀作法、集団生活や共同作業のルールなどを身をもって体験する。
そして「議を言うな」という不言実行の郷中教育の伝統精神が涵養(かんよう)されていくのである。
『曽我どんの傘焼き』行事で、今日まで受け継がれるものがここにある。今、郷中教育が見直されつつある所以であろう。

51名無しさん:2009/10/31(土) 09:08:08
男色とは「少年愛」(美童愛)のことです。同性愛・男と男・ではありません。

男(20代位)がまだ男になり切らない美童・若衆(12,3〜4)を性的に愛することです。
昔は、数え15(現在の13歳何カ月)で成人になるつまり男になる、これを「元服」といった。

つまり、元服前の美童(若衆・わかしゅ)を愛でることです。

今の小学上級生から、中学1,2年生位のまだ男になり切らない、声変りもしない、発毛の兆しさえ
あるかなきかの美童を肉体的に愛する、というより肉体的に契ることです。
これを「義兄弟の契り」という。

その主な秘儀といえば、契り[肛交・鶏姦]と「一節切(ひとよぎり)」・・尺八より一回り小さい笛・つまり美童のものをしゃぶることです。
その女より綺麗で艶めかしい禁断の肌を愛撫し、抱きしめ、美童も愛撫に身を委ね、それでもせいいっぱいふ膨らみ 
笛のようになったものをしゃぶり尽くされます。そして一体になりつがい会う、「義兄弟」になるという激しい行為だったでしょう・。

52名無しさん:2009/10/31(土) 09:33:13
薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[4]。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる[5])。

司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社、1979年

53名無しさん:2009/10/31(土) 09:35:04
【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです

54名無しさん:2009/10/31(土) 09:37:51
薩摩藩家臣

薩摩藩の郷中制度
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[3]。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女や女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる)。後代まで鹿児島で男尊女卑の伝統が守られ続いているのはその影響であると考えられている。

55名無しさん:2009/11/04(水) 21:24:33
明治6年(1873年)6月13日に制定された「改定律例」第266条において「鶏姦罪」の規定が設けられ、「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス 其鶏姦セラルルノ幼童 一五歳以下ノ者ハ坐(連座)セス モシ強姦スル者ハ懲役十年 未ダ成ラサル者ハ一等を減ス」とされ、男性同士の性行為が法的に禁止されるに至った。この規定は明治13年制定の旧刑法からは削除されたが、日本で同性愛行為が刑事罰の対象とされた唯一の時期である。

56名無しさん:2009/11/04(水) 21:28:11
明治5年(1872年)に「鶏姦条例」が制定され、ホモ行為は違法になっていた。
明治の鶏姦罪規定の経緯は、次のような経緯だ。
明治5(1872年)年白川県(現熊本県)より司法省に「県内の学生が男色をするがどのように処罰すればよいか」と問い合わせがあった。
その答えとしての指令が、明治5年11月に「鶏姦条例」となり、明治6年(1873年)7月の新刑法中に追加挿入される。
実際に「鶏姦条例」により記録に残る処罰総数は約40件。
しかしながら、明治9年(1876年)フランス法律学者ボアソナアドが来日し「フランスでは、鶏姦であっても、双方の承諾があれば、罰したりはしない」とし、鶏姦罪は廃止に向かい、現在では述べるまでもなく、全くの個人の自由である。

57名無しさん:2009/11/04(水) 21:30:06
「鶏姦」規定とは何か
「鶏姦」規定とは何か - TODO
[Good Job!]
Ry0TA 『1873年(明治6)6月13日「改定律例」第266条「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス。其鶏姦セラルルノ幼童一五歳以下ノ者ハ坐セス。モシ強姦スル者ハ懲役十年。未ダ成ラサル者ハ一等を減ス。」(三橋順子『女装と日本人』pp.136-137.)』
Ry0TA 『「鶏姦」の「鶏」は本来「男をもって女となす」という意味の「(田かんむりに女)」という字だったが、同音の「鶏」に置き換えられた(瀧川1943)。明治日本は清律の「ケイ姦」条を継受して肛門性交を法的に禁じる鶏姦罪を規定したのだが、そのきっかけは、当時南九州(熊本・鹿児島県など)の学校や私塾で盛んに行われ,問題化していた学生間の男色行為を抑えるためだった(古川1997)。(三橋順子『女装と日本人』p.137.)』
Ry0TA 『参考資料:瀧川政次郎「男姦」「鶏姦事例」『法史零篇』五星書林、1943』
Ry0TA 『瀧川政次郎:ttp://ja.wikipedia.org/wiki/瀧川政次郎「1897年5月26日 - 1992年1月29日、日本の法学者。専門は法制史。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。」』
Ry0TA 『参考資料:古川誠「近代日本の同性愛認識の変遷:男色文化から「変態性欲」への転落まで」『季刊女子教育もんだい(多様なセクシュアリティ)』70(1997), pp.31-36.』
Ry0TA 『ttp://www.harikatsu.com/nikka2/calen.cgi?mode=view&YMD=20040421&w=3杏野丈(針間克己)サイト掲示板『独語徘徊記録』「鶏姦罪-施行八年半の軌跡」:「明治の鶏姦罪規定の経緯/・ 明治5年某県より司法省に「県内の学生が男色をするがどのように処罰すればよいか」と問い合わせる。/・ その答えとしての指令が、明治5年11月に鶏姦条例となり、明治6年7月の新刑法中に追加挿入されることとなる。」』
 ttp://queeringme.g.hatena.ne.jp/task/3/4

58名無しさん:2009/11/04(水) 21:34:32
出水兵児の「兵児(へこ)」とは青少年のことで,数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び,それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」,30歳までを「中老」と,三つに区分していました。
 兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/umagami55163/28217859.html
 ttp://www1.bbiq.jp/hukobekki/okite/okite.html


実際にありましたよ。「菊華の契り」と称します。
特に薩摩藩で男色が盛んであったのは民俗学的分野からも朗かになっております。
中沢新一の著書にもあったのですが、武士集団を「兵児(へこ)」と呼び、幼少の者は「兵児山」少年期は「兵児二才」そして二十歳を過ぎると「中老」と言う風に組織だっていて、中老は少年達に、武芸や勉学、そして作法を伝授していました。その中で「菊華の契り」は行われ、契りを結べぬ者は一人前の「男」として扱われなかったそうです。

<(菊の契り)という言葉は、少年の***の形から出ており、「菊華の契り」とか「菊契」といえば、同性愛のことを意味した。その一方では、菊の華の穢れを知らぬ美しさと清冽な芳香と、寒さにもめげず咲くけなげさに、少年に純粋な心を見たからで、何事につけ光と影の両面がなくては面白くない。自然に発生した同性愛を、両性具有の思想に高めるか、ただ一過性の経験に終わるかは、それぞれに人間の器量による。
> ttp://www001.upp.so-net.ne.jp/rena/new_page_4.htm

59名無しさん:2009/11/04(水) 21:37:00
西日本には、昔から若者宿あるいは若衆宿と呼ばれる結婚前の若者だけで構成される組織があり、地域の少年は一定の年齢に達すると若衆宿のメンバーとなり、先輩の若者たちから一人前の男になるための訓練を受ける風習がありました。

薩摩士族の若衆宿は郷中と呼ばれ、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で結ばれていたといいます。
話を学生に戻しますと、旧制高校の寮では下級生をチゴ、上級生をニセと呼んでいたことから、薩摩武士の影響が指摘されたみたいです。

実際、旧制高校の寮というのは、エリート向けの若衆宿ともいうべきもので、上級生たちはしばしばストームと称して下級生を襲って犯したりしたそうですが、
この旧制高校における男色又は同性愛については、森鴎外、谷崎潤一郎、徳富蘆花、里見紝、志賀直哉、川端康成など錚々たる作家が、小説や晩年になっからの回想録に書いていますが、
 ttp://mblog.excite.co.jp/user/jack4afric/entry/detail/?id=9082213

60名無しさん:2009/11/04(水) 21:38:09
薩摩藩には 郷中と呼ばれる青少年の教育機関が存在し、藩士の子弟は八歳のときに稚児(ちご)として郷中に加わり、二十歳で兵児二才(へこにせ)の時期が終わるまで厳しく文武の道を体得させられたそうです。

稚児と兵児二才は男色関係で結ばれていて、薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされず、武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあったといわれています。

どくとるマンボウ青春記
北杜夫
新潮社 ¥540 完読
2007/02/21 17:09


詩人・斎藤茂吉の息子であり精神科医・作家である北杜夫氏の自伝小説。

一番おもしろかったのは旧制高等学校の回想。ストームといわれる野蛮きわまる大騒動、惰眠をむさぼる、罪もない下級生を集団で布団蒸しにする、「ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ!」という唄声が寮内にこだまする、なんともいえない哀愁(???)がある

「ああ、青春(せいしゅーん)!」
「セー」
「アイン、ツヴァイ、ドライ!」

…なんだこのバカ騒ぎ(^^)
あと、旧制高校の先生達もチャーミングv 試験の採点基準さえもまったくチャランポランだったとか。たとえば物理の試験、答案に詩とかラクガキを描くだけで点がもらえたりしたそうな。何とうらやましい…。

旧制高校では殆どの生徒が寮に入っており、もちろん寮では男色横行、(『ヰタ・セクスアリス』森鴎外や『少年』川端康成を思い出します。)
それから夜更けまでまったく意味のないような、観念的な議論に没頭したり…こうして少年たちは知性に目覚めていくのだ。
デカンショって、デカルト+カント+ショーペンハウエル のことだったんですね…
 ttp://www.hon-pro.com/cgi-bin/hon-pro.cgi?room=mental&num_q=36&mode2=list

61名無しさん:2009/11/04(水) 21:45:10
薩摩武士の青少年教育は郷中(学舎)で行われた。 徳育・知育・体育を大事にした。 その中の一つ、体育は主に武道(剣術)である。 秘武道”影之流”の師範家の川上四郎兵衛家は四方学舎に所属した。 四方学舎での剣術鍛錬は薬丸家の自顕流と川上家の影之流に分かれて厳しく鍛えられた。 薬丸家もまた四方学舎の舎生である。


-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を

小稚児(こちご、6-10歳)
長稚児(おせちご、11-14歳)
二才(にせ、15-25歳)
長老(おせんし、妻帯した先輩)

の4つのグループに編成したもの。

それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだ。

郷中の起源は島津義弘によるとされている。また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。

明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっている。
ttp://blog.tos-kagoshima.com/?day=20080513

62名無しさん:2009/11/04(水) 21:47:21
郷中教育というのは今でいう青少年団体です。
年長者を二才(にせ)、年少者を稚児と年齢で二つに大別。
二才が稚児を監督/保護し、薩摩隼人たるべく教育訓導する組織。大雑把に言うとこんな感じでしょうか。
この郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。全員がなにかしらそういう関係を誰かと持っていたのか、それが一部であったのかというのはよく分かりませんが、江戸時代の薩摩では男色を知らなければ一人前とは認められなかったということも聞くので…そういう点から考えるとほぼ全員が通った道ではないかとも思われます。
薩摩では社会的な身分関係が
 ttp://blog.goo.ne.jp/silverwing1224/c/f80a4f06defa5495059512360a66b4cc

63名無しさん:2009/11/04(水) 21:51:50
日本社会において同性愛は学生たちの間で流行した。寄宿舎や校舎など閉鎖的な制度をがかつての衆道の要素が強い「男色」を継承していた。森鴎外は、自分自身の性的経歴を書き記した作品『ウィタ・セクスアリス』(1909年)のでこう述べている。
   
   学校には寄宿舎がある。授業が済んでから寄ってみた。ここで初めて男色
  ということを聞いた。僕なんぞ同級で、毎日馬に乗って通ってくる蔭小路と
  いう少年が、彼ら寄宿生たちの及ばぬ恋の対象物である。蔭小路はあまり課
  業はよくできない。薄赤いほっぺたがふっくりとふくらんでいて、かわいら
  しい少年であった。その少年という言葉が、男色の受け身という意味に用い
  られているのも、僕のためには、新知識であった。僕に帰りがけに寄ってけ
  と言った男も、僕を少年視していたのである[森1935年]。
 ttp://www.geocities.co.jp/Berkeley/9559/gayhistory9.htm

64名無しさん:2009/11/06(金) 21:26:27
二才は稚児を指導する(高名な示現流は、二才が稚児に教えた)他、保護監督する役目も担っており、女子はもちろん、他所の二才と交際するのを禁じた。そのような状況の中で、二才と稚児が男色関係になるのは、むしろ自然な成り行きと言えるだろう。西郷隆盛と大久保利通は3歳違いの幼なじみであったと言われるが、果たしてそれだけの"関係"だったのだろうか
それはともかく、この薩摩での男色熱が東京の学生達に伝わった事は、先の里見が、自分を「ちごさん」と、志賀を「にせさん」と呼んでいる点から確実と思われる。しかし、薩摩伝来の男色熱は、少々過熱しすぎたかもしれない。当時9歳の谷崎潤一郎は、薩摩の出と思われる将校に誘拐されそうになった。
ttp://www1.ocn.ne.jp/~yasumi/sub26/sub27/ensyu3-2.htm

65名無しさん:2009/11/06(金) 21:27:02
薩摩の男色は有名ですね。森鴎外が明治期の薩摩の青年の愛読書は「賎のおだまき」という二才・稚児の衆道関係の2人が主人公の話だったと書いてます。島津義弘の「虎狩り」と同様、青少年が暗唱するテキストのようなものだったそうです。島津義弘と同列の男色本・・・(よろろ)ちと読みたいかも。井原西鶴の「好色五人女」にも薩摩話がありますが、男にしか興味がない男に恋をした娘が男装して、稚児を亡くしたショックで出家していたその相手のとこに行って口説いてゲットしてくるという、まあ最後は力技なのかという話です(違)
黒田は郷中のリーダーやってたこともあるから、まあ百戦錬磨というのもあながち(笑)土佐も盛んだったらしいですが、長州では聞かないですね。(何時往来 "It's All Right!")
 ttp://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/bbs/iridiary_log1.htm

66名無しさん:2009/11/06(金) 21:28:59
明治時代になっても、薩摩や会津などの士族出身の若者を中心に、男色の影響は残った。女との交際に関心を持たない者を「硬派」と呼び、女に耽る者である「軟派」を軽蔑する風潮があったことが、坪内逍遥の小説『当世書生気質』や森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』から伺える。しかし、近代には西欧の性意識やキリスト教が輸入され、同性愛を「不自然」と定義する認識が広まっていたことも、上記作品からは伺える。

明治政府は法体系において、男性同士の肛門性交禁止を盛り込んだが、実質的な意味はなく、程なく廃止された。

しかし、第二次世界大戦の敗北以降、少年との性的行為は社会的に禁止・否定され、今日に至っている。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%84%9B

武家の年長者が年少者を教育するという点で制度化したものに会津の什の掟や薩摩の郷中がある。
20世紀以降明治時代になっても、薩摩や会津などの士族出身の若者を中心に、男色の影響は残った。女との交際に関心を持たない者を「硬派」と呼び、女に耽る者である「軟派」を軽蔑する風潮があったことが、坪内逍遥の小説『当世書生気質』や森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』から伺える。しかし、近代には西欧の性意識や

67名無しさん:2009/11/06(金) 21:30:04
丁稚の後門を犯す
 天保十五年(1844)一月のこと。
 小伝馬町一丁目に、島屋という呉服屋があった。
 番頭の徳兵衛は三十一歳で、男色が好きだった。十四歳になる丁稚小僧の竹次郎に迫り、後ろから犯した。
 肛門が切れて、竹次郎がその痛みに泣き出したため、ちょっとした騒ぎとなった。
 息子が犯されてけがをしたと聞き、父親が乗り出してきたが、交渉の末、徳兵衛が詫び金を払って、内済(示談)となった。
 島屋では外聞をはばかり、内密にしていたのだが、こういう噂はすぐに世間に広がる。
 また、なまじ島屋が口をつぐんでいるだけに、勝手な憶測がひとり歩きし、風評も尾鰭がついて流布する。
「竹次郎は肛門が四方に裂けて死んだ」
「竹次郎はその痛みに悶絶し、駕籠で実家に送り返された」
「父親が島屋に怒鳴り込んで、二十両の慰謝料を取った」
 とかいう話も喧伝された。
 また、
「番頭の徳兵衛は上州(群馬県)者で、島屋を首になったあと、吉原の妓楼に住み込みで働いていたが、火事でその見世が丸焼けになった」
 という説もあった。

 実際は、竹次郎の肛門の傷はたいしたことはなかったようで、その後も島屋で奉公を続けていた。
 また、番頭の徳兵衛は京都生まれで、もともと陰間遊びが好きだったようだ。事件のあと、近所に住む職人などがおもしろがって、ことさらに声高に吹聴するため、徳兵衛もさすがに島屋には居づらくなった。みずから暇を取り、いったん国もとに帰った。その後、ふたたび江戸に出てきて、高砂町あたりの町医者のもとに転がり込んだという。
 ttp://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai4/nagai4-43.html

68名無しさん:2009/11/08(日) 09:05:49
「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。

まさに郷中制度の根幹部分です。

「郷中制度」は、ちょうどこのころの島津で作られたものです。

数えだが、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)大蔵との
男色関係の話です。「二才」という言葉もでてくる。
13歳といえば、今では6年生から中1くらいでしょうか。

念者・三五郎と念友・大蔵の「義兄弟の契」を結ぶのは、春の宵、三五郎の部屋の寝所(小座)で、「花に潤う春雨や、軒の玉 水音繁く。色こそ見えね春の雨、裏打ちのみ音ぞして人の寝静まる宵ならば大三今は堪えかね、闇はあやなし梅の花、袖に匂いの薫りきて、風に柳のようなる風情に似たる三五郎を、、、静まり返る小座の内、花のようなる三五郎をば、深くい抱きしめ思いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌、触れて契を結びける。」

美童・三五郎の危難を救った大蔵は、三五郎を「稚児」にすることができたのだ。大蔵は寝所で美童の薫りする三五郎を硬く抱きしめ、三五郎が刀に手をかけてまで守ろうとした、
帯に手をかけるのです。三五郎もすべてを委ねます。そして下帯も解かれ、愛撫に身を委ね一つになるのです。
これを義兄弟の契りといいます。

こういうことが読まれ、旧制高校などでも、、陸軍幼年学校でも伝統として
行われたのだ。

69名無しさん:2009/11/10(火) 20:59:45
江戸時代も後期となると衆道は衰退の一途を辿っていったが、庶民や武士たちの一部にはまた男色の道を捨てることはなかった者がいた。明治維新を迎え、社会制度も文化もあらゆるものが一変しても、退勢の道を辿り細々としたものとなりこそすれ男色の文化は存続した。年長男性と少年のあいだの性的関係・恋愛関係は、男色・衆道の終焉期と言える大正時代となっても、一部の地方においては形こそ大きく変わりながらも若者宿などの風習と共に存続していたといわれる。
また、武家の年長者が年少者を教育するという点で制度化したものに会津の什の掟や薩摩の郷中がある。
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%84%9B
 ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1024416481/l50

江戸時代中期の男色が. 華奢な美少年を対象に.してたことを投影してるんですって。 ... 会津戦争でも薩摩や長州の奴等が会津の少年兵レイプしまくった.って聞いたことあるわ ... サラリーマン金太郎なんてモロ男色漫画・ドラマ。 ...
 ttp://ranran2.net/app/2ch/gaysaloon/1254732719/l50

70名無しさん:2009/11/10(火) 21:00:48
明治時代になっても、薩摩や会津などの士族出身の若者を中心に、男色の影響は残った。女との交際に関心を持たない者を「硬派」と呼び、女に耽る者である「軟派」を軽蔑する風潮があったことが、坪内逍遥の小説『当世書生気質』や森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』から伺える。しかし、近代には西欧の性意識やキリスト教が輸入され、同性愛を「不自然」と定義する認識が広まっていたことも、上記作品からは伺える。

明治政府は法体系において、男性同士の肛門性交禁止を盛り込んだ(鶏姦罪)が、実質的な意味はなく、程なく廃止された。




「幕末史研究 36」  佐藤喜一/著「田村銀之助をめぐる男色考−脱走軍美少年秘録
−」        (日野市立図書館蔵)

71名無しさん:2009/11/10(火) 21:01:30
らに、明治6年(1873)の改定律例266条に規定された鶏姦罪によって、肛門性交が法的に禁止され、違反者は懲役90日の重罪とされたことを紹介。
事例として、明治14年(1881)に元女形の茶屋「女」が、女と思い込んでいた人力車夫と性行為に及び、男性であることが露見し、鶏姦罪で懲役90日に処せられた話を紹介。
「女」としての性行動をもつ定常的な異性装(女装)者にとって、鶏姦罪の存在は違式かい違条例とともに二重の強い抑圧だったことを説明する。

明治の初めの頃、鶏姦罪として一時的に男性同性愛が禁止されたこともありましたが、数年で廃止されています。鶏姦罪は、米英の猿真似に過ぎませんでした。しかし内心の自由を尊重する立場から撤廃された。
日本の場合で言えば、鶏姦罪が廃止されたのは、男色が盛んであった薩摩出身者の反対があったから、ということらしいです。内心の自由と言うよりは、自分達の伝統を守った、というのが近いと思います。

72名無しさん:2009/11/10(火) 21:02:21
「白袴隊」
 
「白袴隊とその時代 ―世紀転換期の不良学生集団と美少年騒動」
「びゃっこたい」と言っても、戊辰戦争の華と散った会津「白虎隊」ではなく、明治30〜36年(1897〜1903)の東京で、美少年を襲ってレイプしたり、美少年を奪い合って決闘事件を起こした、娘をもつ親だけでなく、息子をもつ親をも恐怖させた硬派(=男色)の不良学生集団。

仲間の目印として白い袴を着けたことから「白袴隊」と呼ばれた。

おもしろいのは、「白袴隊」の活動を盛んに紹介して厳しく批判したのが、反藩閥政府を方針とする「万朝報」だったこと。
どうも「万朝報」は、「白袴隊」の少年襲撃(男色)を、薩摩藩の男色風俗と重ね合わせて、「白袴隊」に代表される不良学生による「風俗壊乱」を、政府要人の道徳腐敗に結び付けようとしていたらしい。
そのせいか、記事を詳細に読むと、どうも実に乏しく(レイプも未遂が多い)、「白袴隊」の活動がフレームアップされている感がある。

それはともかく、「白袴隊」は男色(少年愛)を堂々と表看板にした青年集団が明治30年代の東京に存在したという点で興味深い。
古川さんの分析によると、「白袴隊」の「事件」では、年上の青年(18〜23歳が多い)が、年少の少年(13〜17歳が多い)に性愛関係を迫るという形、つまり前近代に地方の「だ」などに見られた年齢階悌制の色彩が濃厚な男色文化の影響が見て取れるという。

しかも、記事を詳細に見ると、「白袴隊」の構成員は、判明する限り、地方出身者ばかり(やはり鹿児島県が多い)で、東京(江戸)本籍の者は見当たらない。
地方に残存していた近世的な男色文化が、上京学生によって東京にもたらされたと、見ることができる。

20世紀に入ると、男女の恋愛だけが賛美されるようになり、こうした男色集団は衰退し、アンダーグラウンド化していく。
「白袴隊」は、歪んだ形ではあるが、近世的な男色文化の最後の光芒だったのかもしれない。

73名無しさん:2009/11/10(火) 22:26:20
「郷中」制度とは、男色が制度化されたものということができるだろう。
薩摩では男色が制度化していた他、若者たちは夕方、油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し
運悪く捕まった少年は輪姦された

74名無しさん:2009/11/11(水) 20:32:53
明治政府が英米法のソドミー法に習った鶏姦罪を廃止して、同性愛を罪とせず、少年少女に対する淫行だけを罰するフランス法を採用することになった経緯は詳しくはわかりませんが、当時の政府高官に薩摩出身者が多かったことと関係があるような気がします。

明治維新の実体は、薩摩藩と長州藩が連合を組んで徳川幕府を倒したクーデターですが、薩摩藩は昔から男色が盛んな土地として知られていました。

明治に入ってから東京の学生の間で男色が流行したのは、新政府の役人として上京した薩摩の人間が男色の習慣を広めたせいだといわれています。

青少年時代に陣中と呼ばれた若衆宿で、先輩や後輩との男色関係を通じて人間形成を行なった薩摩出身の明治政府の高官にとって、男色を罪とすることにはやはり抵抗があり、フランス法では罪にならないと聞いて、そっちの方に乗り換えたのではないでしょうか。

薩摩出身者だけでなく、一般の日本人にも、同性愛が罪だという意識は薄かったでしょうし。

そんなわけで日本は、同性愛を罪とする英米法の考え方を早々と棄ててしまうのですが、イギリスは植民地にした世界の多くの国や地域にこのソドミー法を押し付けます。

75名無しさん:2009/11/11(水) 20:36:20
。「郷中」と呼ばれた薩摩士族の若衆制は町内ごとに設けられていて、宿は「社」と呼ばれた。薩摩では二歳駒にたとえて若者をニセと言い、“社”」に属する士族の若者のことを兵児と呼んだ。社の彼等に武と勇と節儀を練らせる場所であった。

76名無しさん:2009/11/11(水) 20:50:52
【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです

77名無しさん:2009/11/11(水) 22:38:49
二才(にせ)教育の場として、城内(鹿児島市内 鶴丸城を中心とした)に30箇所の塾(二才教育をする場)があった。また、城外には、113箇所あった。
幼児教育か青少年教育の場であった。

にせ教育の真髄
1 嘘を言うな
2、負けるな(自分に)
3.弱きをいじめるな

その塾が、明治10年あたりから、「舎」として、郷中教育の場として、人材育成に大きく貢献。
明治15、16年ごろには統合、廃止などにより、18箇所になった。終戦のころには16、そして現在が10箇所。

そうした「舎」において、現在でも、歴史、伝統行事などを中心に、幼稚園、保育園など幼児教育の場や青少年教育育成の場としても活動中。


鹿児島には郷中(ごうじゅう、ごじゅう)として、古くから伝わる薩摩藩の師弟教育があった。青少年を年齢で分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)を通じて先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする考えに基づいて組織され、西郷さんは、この郷中なくして語れない。

本当の二才教育とは、
6歳から9歳まで…小二才(コニセ)
10歳から14歳までは…長二才(オサニセ)
と呼び、14歳で元服して、やっと大人の仲間入りにて交流がはじまり、二才となる。15歳から25歳ごろまでを二才として、二才組が後輩の指導にあたった。
________________________________________


西郷さんは17歳にて、島津藩に就職した(入藩)。
20歳にして、にせ頭になった。24歳ぐらいまでニセ頭を務め、25歳から江戸屋敷に所属。
ttp://www.just.st/index.php?tn=index&in=762816&pan=2369

78名無しさん:2009/11/17(火) 20:23:13
たまにテレビでも紹介されますが、「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士による男色の制度(少年教育制度)で、まさに「賎のおだまき」そのままということをわすれてはならないだろう。 ...


鹿児島県に「兵児二才」(へこにせ)という青年団組織がある。士族の若者の集会で、薄化粧した「稚児様」と呼ばれる少年を中心に青年達が学習をしたり剣術を習ったりした男だけの世界である。
残念ながらこのような習慣は西南戦争以降廃れてしまったが、イギリスでベーデンパウエルが主唱したボーイスカウト運動が創設されたときも、この兵児二才制度(健児之社)を参考にしたという。(検証によると関係ないという。)
ttp://geocities.yahoo.co.jp/gl/numades/view/200702
(参考)
三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収)(平凡社1974)
上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)

「兵児(へこ)」とは青少年のことで、六歳から十四歳の八月までを「兵児山」と呼び、それより二十歳の八月までを「兵児二才(へこにせ)」、三十歳までを「中老」と三つに分けていました。このため郷中教育は「兵児山」、「兵児二才」を対象に行われました。
   ttp://www1.bbiq.jp/hukobekki/okite/okite.html

79名無しさん:2009/11/17(火) 20:24:10
当時、薩摩藩には 郷中と呼ばれる青少年の教育機関が存在し、藩士の子弟は八歳のときに稚児(ちご)として郷中に加わり、二十歳で兵児二才(へこにせ)の時期が終わるまで厳しく文武の道を体得させられたそうです。
稚児と兵児二才は男色関係で結ばれていて、薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされず、武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあったといわれています。(ジャックの談話室 ttp://jack4afric.exblog.jp/3620880 )

80名無しさん:2009/11/17(火) 20:24:45
福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
 会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、もっぱら粗野な軍人どもの肉欲の餌食とされる時代になっていってしまったのです。ttp://hatopia.hp.infoseek.co.jp/books/yamato.htm

81名無しさん:2009/11/17(火) 20:25:47
(八) 十八健児の社
 十八結交健児社とは頼山陽が薩摩兵児を謡った詩中の一句で随分人口に□灸しているが今尚此健児の社は存続されて鹿児島に於ける青少年教育の一大機関を為し学校以外の学校として其品性の陶冶、精神の訓練に於ては依然として中枢たるの観がある誠に他の地方に見る可らざる一種独特の制度で鹿児島に遊ぶ者の見落す可らざるものであるが昔は之を郷中と呼び今は学舎と称して居る、其精神に至っては固より変る所が無い起源は遠く三百余年の昔にありて郷中規約の最古なる者としては慶長元年新納武蔵守忠元の手書と称するものが今花田中佐の督する会文学舎に蔵まってあるそうで二才咄格式条目と題し兵児の守るべき条々を一ツ書にしてあるとか
 郷中制度は旧藩時代い於る唯一の子弟教育機関(造士館及演武館の創立は安政二年)で当時少年時代を二期に分ち六七歳以後前髪のある頃を稚児と云い十四五歳に至り前髪を去れば兵児二歳と称し稚児頭、二歳頭ありて各其部を統べて居た二十二三歳迄は稚児二才の交際を為し其居所に依り区域を分て郷中と唱え厳格な規約を立てて其方限内にて親睦を交び長幼の次序を正し夙夜文武を励むの外他郷と猥りに交際するを禁じて居た其結果同じ郷中では兄弟の如く親しむ代り他郷に対しては自然競争の念を養成し団結心の鼓吹、敵愾心の昂上に非常の効果を奏したらしく士風士気の振粛作興に欠ぐ可らざるものと成った併し競争が盛んなれば蝸牛角上の争いが得て起り易きもので個人同志の行違いから郷中と郷中との問題となり談判破裂して互に隊伍を組命の取り遣りを演じた事も甚多く夫が明治の代までも残りて学校生徒の間に血を流した事が珍らしく無かった所謂他所者排斥は斯かる気風の産物ならんも這は寧ろ白璧の微瑕とすべく之が為に其美点を没却する事は固より出来ぬ
 郷中規約は多少の相違あるも大体は同一で児童六七歳に成ると皆郷中に入り初めて学に就く、郷中の集会所は私塾又は私宅で毎日巳の刻に出席して師から経書の素読を習い一旦家に帰り申の上刻に再び出席して自由に遊戯し申の下刻から武芸の練習に掛り日暮れて家に返り十五歳以上所謂二才組は更に夜学に就き或は輪講を為し或は講義を聴き軍書又は士道の心得に就て切瑳研究し以て精神と身体を鍛錬した二十四五歳に成れば郷中を去りて或は妻帯し或は役務を奉じ広く有志年長者と交際し尚退社後も郷中の事を世話し幼年者から先輩として尊敬さるるのが例であった郷中は元咄合中と称し東郷重資氏の説に由れば初め青年子弟相集まりて互に志気を砥励し又は勇武の士を慕いて之を首領に仰ぎ一団を造ったのが其起因で後世此制が漸次発達して麑城のみで三十以上城下以外を合し百二十余の諸郷が互に比肩して相下らず団結を堅め制裁を厳にし勢力を張って居たのである
 郷中で学ぶ所は儒教、奉ずる所は英雄崇拝宗、尚ぶ所は豪傑学であった四書五経が経典で明君日新公の伊呂波歌、義弘公の虎狩の書は暗誦科目となされ平常勇気奮発の□□□□□とし和漢古今の英雄豪傑忠臣義士を仰慕するのが習慣で伯夷救斉、諸葛孔明、文天祥、楠正成等は就中其信仰の対象であった謂わば悲憤慷慨の集団で婦女子との交際は固より厳禁、市中商人との交際も同様、品物を買うにも自身金銭を握ることなく必ず年長者同行で町家に入り又暑中も日傘を用いず夜中は木刀一本で提灯を携えず着者は木綿、履物は棕櫚緒に限り又臨機応変の為めの詮議や夜間の勇気試みなど色々の手段を用い殊に奇抜なるは制裁の方法で練争が初刑、義絶が極刑で撮み廻し、打ち廻し、押揉み、蒲団被せ等が行われた右の中女人禁制には流石の隼人も大分悩んだらしく其救済法として現われたのが例の薩摩名物のオカマである。  新聞記事文庫 日本(5-010)
福岡日日新聞 1913.5.24-1913.6.2(大正2)

82名無しさん:2009/11/17(火) 20:26:51
薩摩の「郷中(ごちゅう)制度」とは、地方によって呼び方が変わり、「兵児二才(へこにせ)制度」と言われるものと一体のもので、薩摩の男色文化といえる。優れた男色の社会的制度(若衆組)と言うことができよう。いわば藩を上げての“お稚児さん”制度、「賎のおだまき」の世界ということ。
【男色」とは元服前の“前髪”の稚児・・若衆(わかしゅ)と二才(にせ)・・元服を済ませ前髪を取った、妻帯まで・・との【義兄弟の契り】(肛交)を伴う「美童愛」によって結ばれた組織(若者宿・学舎)のことです。

83名無しさん:2009/11/17(火) 20:28:50
薩摩隼人が男色で有名であることは昨日紹介した。その根源は「契りをもって和となす」といったような秘密結社的な要素が存在するようだ。薩摩の文化や言語にその結社的なもの中核にあるのは周知の事実である。
そのためか、薩摩の男色文化は都における稚児の世界とは異なり、武家特有の荒いものであったようだ。
若い少年たちは「兵児二才(へこにせ)」と呼ばれた。余談であるが、「兵児帯(へこたい)」はここから来ている。文献によると、7歳から14歳までの少年たちは「兵児山」と呼ばれ、14歳から20歳までを「兵児二才」と呼んだ。そして20歳から30歳までの大人たちを「中老」とし兵児のグループをマネージした。
当然、武士の組織であったため武芸と礼節を磨くことを中心とした。
特に薩摩隼人の間には、「恥を知る」ということが大切にされた。彼らの結社的つながりには「菊花の契り」が重んじられ、この「契り」を結ばぬような男は一人前とは見なされなかったという。
これらの「契り」は何も薩摩のみのものではなく、武士の歴史のなかではそこら中に溢れている。
しかし、西郷隆盛に薩摩の兵児らが賊軍と見なされようが最後までついていったのはこのような背景も加担しているのであろう。
西郷にはさまざまな男児の愛人がいたようで、それは小説「よかちごの死」に詳しい。内容は西郷の愛する稚児が主人公の嫉妬で殺されてしまう、というものだ。
織田信長と蘭丸しかり、わが国には稚児文化が社会の上層に行けば行くほど溢れていたのだ。 ttp://ameblo.jp/bloomykota/entry-10142140751.html

ところで、著者の白州正子さんは(このところ再ブームの白州次郎の奥さんだ!)、薩摩隼人の海軍軍人・樺山資紀伯爵の孫娘で、薩摩人に囲まれて育ったため幼い頃から「よか二才」とか「よか稚児」とかいう言葉をフツーに耳にしていたそうだ。
なんといっても薩摩隼人は「男色の道では群を抜いていた」(爆)そうで、著者は「彼ら武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあった」と断言しちゃってる。
そんなわけで、「郷中教育」はもちろん薩摩の男色文化についても書かれているのだが、さすがホンモノの薩摩人…の親族(笑)の証言だけに、いくつか紹介したエピソードはとってもリアル。中には著者の祖父が登場する話もあるのだ!

ちなみに「郷中」とは、郷と呼ばれる地域ごとに分けられた「武士育成のための教育的役割を持った」青少年団体で、元服前の「稚児」を元服した独身青年の「二才」が指導&保護監督するシステム(白州さんは“一種の秘密結社のようなもの”ではなかったか、とも言っている)。
彼らの間に肉体的な交渉があるのは当然で、しかも稚児は他の郷中の二才とは交際厳禁、断りなく郷の外に出てもいけなかった。
郷中内だけの排他的かつ密接な交友が強調された結果、ついには1人の少年を「稚児様」と呼んで皆で崇め奉り、夜には(他郷の二才たちに奪われないように!)交代で少年が寝ている部屋の寝ずの番をするところまでエスカレートしていったそうだ。
そもそも薩摩は、路上で女子に出会うと穢れが身に及ぶのを恐れて避けて通ったというほどの(おいおい!)女性忌避のお国柄。
青少年が婦女子なんかに関わって軟弱になることを防ぎ、勇敢な士風を養うには男色が必要!(爆)とされていたのだ。
そんなわけで、西郷隆盛や大久保利通も嬉々として「稚児様」にお仕えしてたのだ(お仕えされる方だったワケがない・爆)
西郷どんはともかく、一蔵どんがあの陰気くさ…じゃなかった(笑)厳めしい顔で美少年のお部屋の門番してたかと思うと、どうにも笑えるけど。

ここで幕末ファンの人にすごく面白いエピソードをひとつ。
「幕末の薩摩隼人の生活と風習が見事に描かれている」という「よかちごの死」という短編小説では、なんと西郷隆盛が重要な役割を果たしている。
ストーリーは、西郷の恋人(!)である美少年に横恋慕した青年・村田が、成り行きでその少年と諍いになり殺してしまう。
殺人の責めを負って切腹することになったが、事件の背景に少年への思慕があったことだけは親族に対しても口にできない。 ttp://blog.livedoor.jp/egoist777/archives/50676313.html
※ 思い切り余談だが、「よかちごの死」でもわかる通り美少年が大スキだった(笑)西郷どんが土佐の坂本龍馬の実家を訪ねた際、龍馬の親戚の美少年に一目惚れして小姓にくれくれくれくれねだった(笑)…という逸話をどこかで読んだことがある。

84名無しさん:2009/11/17(火) 20:30:39
▼島津氏が継承した新羅の民俗

 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわた
り南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られていない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。

 幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩
摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と
呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行な
われたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。

 名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味
の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ
赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新
羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を
奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。

 三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県
北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯社の地である。
国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて
参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣
した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交
友した。さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新
羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。

 その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖
都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれ
た男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。
ttp://www.k5.dion.ne.jp/~coppe/page015.html

85名無しさん:2009/11/17(火) 20:31:36
「三品彰英論文集」, 2003/6/22

いづれも興味深江い研究文集ですが、とりわけ第六巻の「新羅花郎の研究」が優れた内容で推奨に値します。  古代新羅で貴族の美少年を「花郎」と称して美々しく粧飾させ、彼に男性戦士団が奉仕していたことは、『三国史記』や『三国遺事』などの記述から夙に周知の通り。その新羅花郎の制度について詳細に研究し、さらに日本の薩摩地方に見られた稚児様に仕える士族青年たちの「兵児二才」制度や、対馬の男子盆踊り組合集団、台湾先住民諸族の男子年齢階級組織、北米先住民たちの戦士組合と成年加入式などとも比較考究してあるので、世界各地の男性ばかりの集会組織や加入儀礼に関して、かなり「面白い」考察と論考とが楽しく読めます。ttp://www.amazon.co.jp/review/R1FQEU8XV9O539

86名無しさん:2009/11/17(火) 20:32:46
嘆きの淵に流離(さすら)うる身は―――――西郷とあのひとの真の関係を? まさかな。

 だがどうしても分からなくて、私は井上に問うてみた。・・

『じゃーさ、こっちから聞くけど、え〜と伊藤先生、稚児って言ったらなんでしょう?』
『…は?』『だから稚児だよ。稚児趣味の稚ー児ー』『こっちも真面目なんだよ伊藤センセー。…稚児ってなぁに?』『そりゃ……つまりそういうことだろう』
『そーそー、よく分かってるじゃん。十三歳の秋説が有名だね、我々の間では』
『十三歳の秋って……ちょっと早すぎない?!それともまだからかってンの?』
『からかってなんかないし、早くなんかないよ。陰間は早ければ早いほどいいんだ。慣れるのが早いから』『か、陰間……』
『確かさ〜僕の知ってるところでは、薩摩藩では、十歳から十四歳までを長稚児(おせちご)って言って、元服した二才(にせ)から直接監督されるらしいよ。あれとかこれとか』
 言いながら井上は自分の頬の前でひらひら掌を返したり、拳を作った手から指を出したりしている。私はそれを呆然とみている。
『あれとかこれ…』
『薩摩藩は男女関係が厳しいところなんだってー。少なくとも、長州みたく、すれ違って「お久しぶりです」「まぁ御機嫌よう」なんてことは言ったりしないわけ。でも男は餓えまくり。でー、例の巨人とあのひとは同じ町内で、郷中も同じだった。郷中は知ってるよね』
 地域別に設置された少年教育制度のようなものだ。
『知ってるけどさ…』
『で、巨人が元服した時点であのひとはまだ長稚児だった。元服は成人の証ということで、めでたしめでたし』『って、えー………』
  ttp://balsamicmoon.net/lc-nov-nageki.html

87名無しさん:2009/11/17(火) 20:36:46
一、 郷中教育
郷中教育は、秀吉の役に源を発し、江戸時代二百五十年の間に、次第に体系を整えていたものでありますが、その基本的特徴は、「師弟同行」といわれる異年齢集団の中での青少年の自治的な相互教育という点にあります。
それは明治維新による幕藩体制の崩壊と共に一時中断されてしまいましたが、明治十年代に至って新しい装いを凝らした「学舎教育」に継承され、学校教育の外で、青少年の人間形成のための自主的な教育機関として機能していきました。
「ごじゅう御中」とは、地域の結社で、薩摩の青少年は年齢別に、こちご小稚児(現在の小学生に該当する年齢)、おせちご長稚児(現在の中学生)、にせ二才(高校生)、おせ長老(大学生)に分けられ、武道、学習はもちろん、生活全般にわたり、集団的活動を営んでいました。負けるな。うそを言うな。弱いものをいじめるな。という薩摩三訓を根気強く教えつづけ、遂に薩摩人気質が形成されたものと思います。明治維新の立役者となった西郷隆盛や大久保利通なども、この郷中教育から生まれて来たのであります。
ttp://www.kodokan.org/j_words/0608_j.html

郷中教育について。いわば藩独自の
学校制度ですかね。元服前の前髪姿した少年
たちを稚児(ちご)といい、元服から20代頃までが二才、
30代より年上の年配者を長老(おさ、とも)といいました。町内で二才頭決め、
当番で稚児たちの文武両道、相撲、旗取り、
手槍、水泳などを教えたと記録されてます。

88名無しさん:2009/11/19(木) 21:54:56
薩摩藩には厳しい藩士教育(郷中制度・兵児二才制度)の伝統があったのはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と呼ばれた青年たちの若者組(兵児組)の男色は有名であろう。名門の美少年(美童)を「稚児様」と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(「遠足」)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。

年上の者達が美童の家に押しかけてその“操”を要求した事件もあったということですが・・・明治までその風潮は残っていて、東京まで人の移動とともに伝わったと言われたそうです。 ...
 ttp://www.kyushu01.com/01/0709/0709-159.html
 ttp://blog.livedoor.jp/egoist777/archives/50676313.html
昔時此風の盛んなるや、美少年を呼ぶに稚児様を以てし、その出る時は或いは美しき振袖を着し数多の兵児ニ才之を保護し傍よりは傘をさし掛け、夜は其門に立て寝ずの番を為す者あるに至る。(『薩摩見聞記』)
 ttp://blueswallow.fc2web.com/w/satumaki.html
「稚児様は…… 郷中の名門の嫡男で12〜13歳の特に美貌の少年2名を選んで美服を着せ薄化粧させ、この稚児様を集会の中心として尊敬し、それに奉仕することをもって各種行事の中心とした。」


 三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ)であった。

 ttp://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-51.html
 ttp://www.k5.dion.ne.jp/~coppe/page015.html
 
「江戸の兵児組 女禁制」(製作=阪東妻三郎プロダクション 配給=新興キネマ)
1934.08.30 電気館/新宿帝国館/麻布新興館/新富座
  ttp://www.jmdb.ne.jp/1934/bj002870.htm


参考文献 
(参 考)
礫川全次編『男色の民俗学』(2003年批評社刊)、
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
『日本庶民生活資料集成』第12巻(三一書房刊)薩摩見聞記
氏家幹人「風俗と流行」(『日本通史』第13巻近世3 1994年岩波書店刊)
白洲正子「両性具有の美」
 嵐山光三郎『悪党芭蕉』(2006年新潮社刊)
佐藤喜一「幕末史研究 36」・「田村銀之助をめぐる男色考−脱走軍美少年秘録
−」        (東京日野市立図書館蔵)

89名無しさん:2009/11/19(木) 21:56:40
幕末まで薩摩では、郷中制度を中心に男色が盛んに称揚された。
郷中教育は、島津義弘公(1535〜1619)の頃に確立されたとされるが、祖父の島津忠良(日新公1493〜1568)の時代にすでに郷中教育の原型が作られたようだ。

平田三五郎は、庄内の乱(慶長4年:1599年)において財部で戦死した。庄内の乱は、関ヶ原の戦い(1600年)の前年に、都城を中心に戦乱が繰り広げられたもの。このころには郷中制度はあったのだろう。
平田三五郎は実在の人物、墓(財部町史跡28) が鹿児島県曽於郡財部町古井にある。庄内の乱の様相を伝える数少ない史料『庄内軍記』は『島津史料集』がある。
 ttp://www.shiki-net.com/shirilyou/kadokurayakushi-nisilyuukaidou.pdf#search='
財部では、大抵の者が伊集院方で戦っているが、平田三五郎は島津方に属しており、弱冠15歳で戦死している。平田三五郎と兄貴分の吉田大蔵清家のことを記した「賎之麻玉記」(しずのおだまき)という本がある。その本のことが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の中に「平田三五郎と云う少年の事を書いた写本があって、それを引っ張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これを毎年元旦に第一に読む本になっていると云うことである。」と書いてある。
 桜の木に腰を下ろし、笛を吹いている平田三五郎の掛軸が財部郷土館に展示してある。
郷中制度〈若衆宿〉は明治維新後、西郷が薩摩に下って興した「私学校」に集まった。私学校は市内に分校10校、市外に135校あって、生徒は800くらいいて硬く結ばれていたようだ。西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、この私学校生徒だったという。西南戦争には、少年兵も数多く参加していた。そして、「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさん戦ったようだ。兵児二才と男色で固く結ばれたに違いない。
  ttp://portal.nifty.com/2007/07/20/b/3.htm
ただ、私学校は4年間程度の短いもので、私学校は西郷が自刃した後、その伝統は、「学舎」として継承され、数は少ないものの、平成の現在でも各地に郷中教育の名残である「学舎(まなびや)」が残っています。

90名無しさん:2009/11/20(金) 22:04:46
戊辰戦争では、官軍薩摩と賊軍・合津が戦った。いずれも男色の盛んな土地。
合津では、薩摩の郷中に相当する「什」があった。

合津では。「白虎隊」や「二本松少年隊」など少年兵が活躍した。これに対し薩摩のむくつけき「男色」におぼれた「兵児二才」の兵たち。

会津の中学生くらいの紅顔の少年兵たち。彼らにつかまった三五郎と同じくらいの美童の少年兵。
彼らがどんなめにあうのか・・!?。

91変態おまんこ:2009/12/05(土) 21:05:36
女性と女性でのエッチって気持ちよいです。

ttp://blogs.dion.ne.jp/omanco/

92名無しさん:2010/09/16(木) 23:18:07
>>68

森鴎外の「イタセクスアリス」に出てくる『賤(しず)のおだまき』

以下で読める・・


ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html

93名無しさん:2010/09/18(土) 09:29:28
>>23.>>68

(十四頁:倉田小浜狼藉 平田三五郎危難の事)

倉田軍平後ろより三五郎を大抱きに、宗次(三五郎)脇差抜かんと悶えるを、
小浜助五郎ひたと両手を握りて少しも動かさず、 三五郎は無念至極に思われつ 心の中は燃ゆる火の火水になれと揉みあうに、此の勢いに三五郎が髪は元結ふっと切れ梅の匂いの乱れ髪乱れて馨る春風に吹かれて衣裳の裳返る。 雪を欺くその肌に倉田小浜は堪えかね、花のようなる宗次(三五郎)をば、強力無双の両人が物の数とも思わずで、即にねじ倒し無理に本意を達せんと日も入相の無常を告ぐる山寺の鐘の音響き音添えて哀れいや増す春の暮、往来の人もあらばえに、哀れや三五郎が未だ少年の悲しさに、叶わぬ物故に詮方無くも涙ぐみ・・
ここに一人の主馬に打ち乗りたる・・

94名無しさん:2010/09/18(土) 13:04:44
>>23.>>68.>>93

薩摩は現在の鹿児島と宮崎にまたがった地域。このころ、薩摩では『郷中(ごじゅう)』という郷(地域)を中心とした制度がつくられた。これは稚児と二才[(にせ・20代青年)
庄内の乱(慶長4年:1599年)での「古井原の戦い」というのがあった。このあたりで実際に戦って二人とも死んだ。墓も実在し子孫が墓参りする。
このあたりで戦があったのだろうが、現在でも交通が不便で、思いやりタクシーなどというのが活躍している鄙びたところのようだ。

「賎のおだまき」で、13歳(満11,2歳)、今で言えばほんの小6あるいは中1位か今で言えばJr.あたりの美童の誉れの高い三五郎、野に小鳥だかを取りに一人で行った。一度でもかの美童と契ることができれば死んでもよい。そう想い焦れてきた二人の暴漢、倉田軍平と小浜助五郎。それとも知らず襲われ女の子が襲われるように無理無体に襲われる。そしていよいよ着物の帯に手がかかる、

その頃は元服前の少年武士(若衆)は誰か兄貴([二才]の「稚児」となって瑞々しい肉体を捧げ[契り]をすることになっていた。したがって処女(生童/きわらべ)を守らねばならない。これは薩摩の「郷中」と言って「稚児」と「「二才」(にせ・15〜25)の「男色」の話です。

三五郎は脇差を抜いて抵抗しようとするのだが、13歳の美童の細腕では、藩の荒くれ男二人に敵うはずもない。刀を抜こうとするも、すぐその細腕を押さえられ揉み合ううちに着物の裾も乱れ、雪のように白い柔肌ガ露わになる。それをみて溜まらず舌舐めずりする男に押し倒されてしまう。

いよいよ帯を解かれ強姦の憂き目・辱め・・これから誰とも知れない男に裸に剥かれ自由にされてしまう・・、三五郎はそんなことを思うと涙ぐみ、遠くでは山寺の鐘がなっている。三五郎の悲壮感を一層たかめる。

というときに馬に打ち乗った10歳上の大蔵さんという見知らぬ武士吉田大蔵(二才になる)に助けられる。

危うく強姦されるところ、きわどいところを助けられる場面がある。三五郎は「ぜひに自宅に」と請うが、大蔵さんはぜひにぜひにとすがりつく美童・三五郎を振りきって返ってしまう。
この場で、美童・三五郎の求めに応じ、三五郎の自宅に招かれていたら・・でも大蔵さんはそうしなかったのだ。

続く・・

95名無しさん:2010/09/18(土) 13:05:18
でも、それがよかったのだ。その後三五郎と大蔵さんは、互いに想い焦がれ夜も寝付けなくなったのだ。三五郎を想い焦がれ恋い焦がれた10歳年上の大蔵さんは三五郎の自宅を訪ねることに。
自宅に訪ねてきた大蔵さんに春雨の音だけが聞こえる寝静まった夜中、生童のすべてを捧げ、硬く抱きしめられ、刀を抜いて守ろうとした帯に手がかかるのを大蔵さんならと受け容れる・・、

この薫りも高き凛々しい美堂のすべすべした軟膚に顔を埋め、秘笛を思う存分味わい尽くし吹くこと(一節切・ひとよぎり)できだろう。そして義兄弟の契りをでただろう。

そうした恋い焦がれた、三五と今日この夜晴れて報われ義兄弟となれるのだ。
・・花嫁のように愛撫に身を任せ、すべてを捧げ肉体を一つにして、硬い「男色の契り・義兄弟の契り」を交わした。

念者と念友の「義兄弟の契」を結ぶのは、春の宵、三五郎の部屋の寝所(小座)で、「花に潤う春雨や、軒の玉 水音繁く。色こそ見えね春の雨、裏打ちのみ音ぞして人の寝静まる宵ならば大三今は堪えかね、闇はあやなし梅の花、袖に匂いの薫りきて、風に柳のようなる風情に似たる三五郎を、、、静まり返る小座の内、花のようなる三五郎をば、深くい抱きしめ思いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌、触れて契を結びける。」

花が咲き、春雨の降り激しい軒の玉水の音のみで、寝静まった春の宵、二人だけの寝書の小座の内、いよいよ「義兄弟の契り」がはじまる。柳のような細いしなやかな腰(尻つき)、柳腰の薫り高き三五郎を深く抱きしめる。「かけてぞ解くる雪の肌」とは、恋の名を、かけて帯を解放すこと、帯を解放すと白い雪の肌が露わにあるということ。

13歳の美童三五郎は、暴漢の手から刀に手をかけてまもろうとした帯に二人だけの寝書で、大蔵さんの手がかかっても、下帯の結び目に手がかかっても、それを許し総てを捧げる・・。

そこに現れたる下帯もを付けない雪の肌、暴漢も自由にできなかった、三五郎が守った総てが露わにされただろう。

そして、じっと我慢して許し許され。まだ誰の指も触れたことも無い生童の美童の総てを綺麗なからだの総てを初めて思う存分、味わい尽くし、愛撫尽くし、嗅ぎ尽くし、結び尽くし存分自由にできたのだ。


その後の藩の二才たちは競ってまわし読みし、その後明治になってからも、薩摩出身の塾の書生たちも元旦には必ず読むことが日課と成っていたとある。400年前のどこかこのあたりの広大な一部で実際起こったと思えばいいだろう。「賎のおだまき」を読みながら、財部郷土館に展示されている三五郎の掛け軸を見て、そう思いながら一度見ておくのもいいだろう。

96知らなかった:2010/12/30(木) 21:29:58
’菊華の契り’という言葉、初めて知りました。
菊とは、少年のオ0ツの穴の縞々模様を表す象徴だったんですね!!!
そして、その若衆と一夜の契りをかわすことによって、二人は身も心も一身同体になったんですね!!
う〜ん、なんて奥の深い話なんでしょう!
また一つ勉強になりました。 m(_ _)m

97名無しさん:2011/02/25(金) 02:25:02
硬派すなわち男色家の先輩が、色白で目がくりっとしあ美少年タイプの後輩よりも、
武骨で色黒で田舎臭い鴎外のほうをむしろ好んだというのが興味深い。

98名無しさん:2011/06/10(金) 12:53:09
賤のおだまき

ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881185

99名無しさん:2011/06/16(木) 06:26:06
日本の戦国時代から江戸時代の初期にかけて武士階級の間で男色が流行したことはよく知られていますが、この時代、武士の家に生まれた少年が年長の武士と義兄弟と呼ばれる男色関係をもつのはごく一般的にみられる、ほとんど制度化された習俗でした。
このような「義兄弟」の関係は少年の家族にも公認されるフォーマルな関係で、少年の父親がこれはと思う青年を見込んで自分の息子の兄分になってくれるように頼むことも珍しくなかったといいます。

このような少年と男色関係をもつ武士には女嫌いの傾向が強くみられ、周囲が結婚を勧めてもなかなか結婚しようとせず、40過ぎになってようやく子供を作るために結婚するというケースが多かったそうです。

また民族学者の赤松啓介氏によると、男色が盛んであった九州地方では、少年がフンドシを締めて成人男子の仲間入りをする「フンドシ祝い」で、熟年の男や壮年の男が「フンドシ親」となり、少年にフンドシを贈った夜に少年と性関係をもち、義理の親子になる習慣があったそうです。

これなんか、まさに前述したニューギニアの部族でみられる「尻穴親子」の関係そのものです。

さらにかっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。
薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」と呼び、郷中のメンバーは7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

この「若衆宿」の制度は、ニューギニアの部族の少年が通過儀礼のために入る「男の家」によく似ていますが、若衆宿が西日本に普及していた事実からみて、この若衆宿の制度がニューギニアなど南太平洋の島々から日本に伝わった可能性は十分に考えられます。
   ttp://jack4afric.exblog.jp/8986743

100名無しさん:2011/06/16(木) 06:39:51
>>99

さらにかっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。

薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」(ごちゅう・ごじゅう))と呼び、郷中のメンバーは数え7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。・・・強い絆とは、「義兄弟の契り」といって
肛交に依る肉体的少年性愛・・これを男色(美童愛)という。

   「賤のおだまき」は、この稚児と二才の男色関係の話です。

薩摩の「郷中制度」とは
この稚児と二才の男色関係に依って成り立つもので、
「賤のおだまき」の世界そのものです。

101名無しさん:2011/06/16(木) 07:24:25
青年武士は、美童を稚児・若衆(わかしゅ)にしたいと、しようとします。
美童も誰かの稚児になることがあたりっまえ、稚児はそれまで自らを誰にも与えてはならない。
生童(きわらべ。童貞・処女)を守らねばならない。

男色の秘義は肛交の他、性器の玩翻、一節切(ひとよぎり、フェラ)などあらゆる性の戯れがゆるされるでしょう。
それは、義兄弟の契りまでおあずけ。

はれて「義兄弟の契り」の寝所で二才は、恋い焦がれた美童を初めて自分のものにするのです。
美堂も恋い焦がれた10歳くらい年上のお兄さんの二才に総てを与え、お兄さんのものになるのです。

二才のお兄さんは、初めて美堂と寝て、少年の薫り、乳の香りの芳しい美童を引き寄せ、抱きしめるでしょう。
馨しい髪、芳しい薫り、誰も触れたことの無い綺麗な柔らかい膚、誰も触れることのできない膚と禁断の肉体、そのすべてが今自分の
ものとなろうとしているのです。

これから自分のものとなる恋い焦がれた美童の体を硬く抱きしめ、頬ずりし、美しい美童の髪の薫りをかぎ、なで・・そして帯に手をかけるのでしょう。l
美童もいよいよ恋い焦がれたお兄さんに総てを捧げるのです。
暴漢の乱暴な手から刀を抜こうとして守った帯を解かれる。
でも、大好きなお兄さんならと・・・
そして数え13歳の美堂の女より綺麗な雪の膚が露わになる。

そして下帯の結び目にも手がかかり、美堂は一瞬本能的に股を閉じようとしたかどうかしらないが、下帯が外され美童のすべてが
露わにされるのだ。

102名無しさん:2011/06/16(木) 07:44:31
いかに少年武士とは言え、まだ細腕の、女の子と同じか弱少年、抵抗も空しく

野山の草むらにねじ倒された三五郎はもう詮方なく、いよいよこれから裸に剥かれ強姦される女の子同然に、耐え難い辱めを受ける。これから暴漢に強姦されてしまうのだ、少年はどうする事も出来ず辱めを想い、遠くで鳴り響く鐘の音がなる中、これからされることを想うと無念に涙ぐむ・・・

に引き込まれるのだ。

103名無しさん:2011/06/16(木) 08:14:40
森鴎外の「イタエクスアリス」に「賤のおだまき」と男色の話が載っている。
鴎外も飛び級で数え13歳で大学予備門に入った、ほかに何人かいて、鴎外はじめ
そこの寮で、ひげもじゃの上級生に狙われ男色の被害にあったという。
鴎外はいつも短刀を忍ばせていたという。寮では客人がくると庭で遊んでいる
美童を捕まえて、客人の接待に美童を献上したという。

「男色」とは少年愛(美童愛)のことで、日本の歴史とともに長い伝統
とひとつの文化でもあります。

武家の男色は明治以後も「陸軍幼年学校」に引き継がれ明治時代から終戦まで70年にわたってその全寮制の寮内で深く行われていたのでした。

陸軍幼年学校とは、中学校の秀才が13歳、中学生になってすぐ、中学の1年か2年でM検まで徹底的な身体検査を受けて
入学を許され、陸軍の大将などになってるエリート集団で、3年制(3年生は今の高1か、高2)。

上級生と下級生は固い結びつきがあり、それはあの「義兄弟の契り」によって行われる。今で言えば、中1か中2と高1か高2との硬い絆が入学後まもなく。
陸軍幼年学校というのは、東京で言えば、一中とか三中とは優秀な中学校の
一番とか二番とか,二番とか優秀な生徒が、まだよくわからないうちに先生から
呼ばれて幼年学校応募を勧められ願書を出す。

そして、素っ裸の身体検査だとか思春期の男の子には残酷な検査が行われ、そして合格。
幼年学校に合格者を出すということは、その中学校の至上の栄誉だったようだ。

そして、合格して上級生と寮生活を送る。もちろん男子のみ。一年生から三年生まで二人ずつ6人で一室で暮らし、下級生は上級生の命令は絶対服従、その中で硬い結びつきを教えられる。

入学してしばらくすると、それは3年生によって行われるという。
そのときは痛いというが、もちろん泣いたりしてはいけない。

104名無しさん:2011/06/16(木) 08:26:01
声を凝らしたうめき声と、涙を流しながらも、その70年の伝統儀式に必死で耐えるという。
幼年学校とは、思春期前後の男子の集団、全寮制の寮はベッドが6つある。
両脇に怖い三年生、真ん中に二年生が二人。そして、まだ毛が生えるか生えないか
位の、まだ声変わりもしないか、せいぜい声変わり途中くらいの13歳の一年坊主は、別々に三年生と、二年生の間に分かれて寝る。

一年生を指導するのは三年生の特権。もちろん大切な男色を手取り足取り教える。
「義兄弟の契り」をするのだ。

昔と同じ、僅か今の中一とか二、13位でで年上の上級生と「義兄弟の契り」(男色)をするのだ。

三五郎と同じ。


「義兄弟の契り」をしたものは、戦場でも深い結びつきの絆となるという。
それをするのは、入学後1月位で行われるという。幼年学校はホモの巣窟だったといわれる。

105名無しさん:2011/06/21(火) 06:48:55
「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。4〜5町(約440〜550メ−トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね40〜80戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。青少年を4つのグル−プに分ける。「小稚児」(こちご 6〜10歳)、「長稚児」(おせちご 11〜15歳)、「二才」(にせ 15〜25歳)、「長老」(おせんし 妻帯した先輩)。そのグル−プごとに「頭」(かしら)を選び、その者が郷中の生活の一切と監督の責任を負った。それは子どもたちの自治区であった。
「小稚児」の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ行き本読みを習い、午前中はその復習をしたのち広場や神社の境内などに集まり、相撲、旗とりなどの山坂達者(今で言えば体育・スポ−ツ)によって身体を鍛えた。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、弓、馬術など、武芸の稽古をした。 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。薩摩藩の子どもたちは、一日のほとんどを同年代・年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、武芸を身につけ、勉学に励んだ。

これは現在の説明、だが根幹をなす「男色」の部分がが抜け落ちているのだ。

106名無しさん:2011/06/21(火) 18:48:33
>>105

> 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って・・

さらっとなっているが、このあたりが、男色・美童愛のあたりでしょうか。
 
 実際は集団と集団ではなく、個々の稚児と二才とが稚児を取り合っての「義兄弟」になるということでしょう。

107名無しさん:2011/06/23(木) 08:10:47
【理想】犯しがいがある少年とは【妄想】

 ttp://bbs.pinkybbs.net/test/read.cgi/bl/1274542132/

--------------------------------------------------------------------------------

108名無しさん:2011/06/23(木) 11:12:13
・【体位】少年とつながる時の体位【48手】
  
ttp://bbs.pinkybbs.net/test/read.cgi/bl/1234682525/l50

109名無しさん:2011/07/03(日) 18:13:45
>>2
樋口清之「史実 江戸」(芳賀書店 1967)は何巻か刊行されていますが、
そのうち何巻目が衆道関係の記載が充実しているのでしょうか?

110名無しさん:2011/07/12(火) 09:27:23
>>109

樋口清之「史実 江戸」(芳賀書店 1967)
何巻目が衆道関係の記載が充実しているのでしょうか?


第二卷です。

111名無しさん:2011/07/12(火) 19:56:11
幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行なわれたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。

名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。

三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯社の地である。国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交友した。さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。

その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれた男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。

112名無しさん:2011/07/12(火) 20:02:50
薩摩藩では子弟たちを郷中教育(ごうじゅうきょういく)で心身を鍛え、郷土の先輩たちの手により独特の学風や士風が醸成され、伝統として受け継がれ、県下に名だたる”出水兵児”たちを育んできました。
ところで、出水兵児の(兵児・へこ)とは青少年のことで、数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び、それから20歳の8月までを「兵児二才・へこにせ」、30歳までを「中老」と、三つに区分していました。兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児二才」におかれたことはもちろんです。
出水は肥後と国を接する薩摩の表玄関にあたり、国境の守りとして古来から、最も尚武の地でした。
その出水で三百年以上も昔、名地頭とうたわれた山田昌厳は、厳しい訓練によって出水兵児の士風を確立したといわれてます。

113名無しさん:2011/07/12(火) 20:13:48
士の時代になると、頻繁に出てくるのが「義兄弟」

[義兄弟の契り]というのは、ただ単なる性的関係のみの間柄じゃなく、特別なものでした
「兄分」「弟分」があり、「生死を共にする」仲なのであります.。
女性と恋愛するのとは全く別物で、義兄弟の契りというのは、絶対に裏切ってはいけないとういものなのです

また「兄分」は、「弟分」の庇護者でもあり教育者でもあります
武士の社会では、弟分が兄分の承諾なしに勝手なことをすると、流血事件にまで発展してしまうほど。

114名無しさん:2011/07/12(火) 20:30:06
薩摩藩は四人に一人が武士という藩でした。青年にはきちんとした組織があり、「郷」というチームによって編成されておりました。

6歳から14歳までの元服前の少年を「稚児(ちご)」と呼び、中でも10歳までの少年を「小稚児(こちご)」、11歳以上を「長稚児(おせちご)」と分けていました。

そして元服後の15歳〜25歳くらいまでの青年達を「二才(にせ)」と言いました。

この「稚児」(長稚児)と「二才」の関係はものすごく強く、「二才」は「稚児」に理想的な人間形成をするために色々と教育をします。
この時に、男色(美童愛)が尊ばれた時代だったので、「男色」へと発展するのが必然的であります。

このように、少年時代から培ってきた薩摩風男色ですが、江戸幕府崩壊により薩摩藩の若者の多くが東京へ集まってきました
そのため、明治初期は男色がとても流行したのです


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