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賎のおだまき・武家の時代の男色

81名無しさん:2009/11/17(火) 20:25:47
(八) 十八健児の社
 十八結交健児社とは頼山陽が薩摩兵児を謡った詩中の一句で随分人口に□灸しているが今尚此健児の社は存続されて鹿児島に於ける青少年教育の一大機関を為し学校以外の学校として其品性の陶冶、精神の訓練に於ては依然として中枢たるの観がある誠に他の地方に見る可らざる一種独特の制度で鹿児島に遊ぶ者の見落す可らざるものであるが昔は之を郷中と呼び今は学舎と称して居る、其精神に至っては固より変る所が無い起源は遠く三百余年の昔にありて郷中規約の最古なる者としては慶長元年新納武蔵守忠元の手書と称するものが今花田中佐の督する会文学舎に蔵まってあるそうで二才咄格式条目と題し兵児の守るべき条々を一ツ書にしてあるとか
 郷中制度は旧藩時代い於る唯一の子弟教育機関(造士館及演武館の創立は安政二年)で当時少年時代を二期に分ち六七歳以後前髪のある頃を稚児と云い十四五歳に至り前髪を去れば兵児二歳と称し稚児頭、二歳頭ありて各其部を統べて居た二十二三歳迄は稚児二才の交際を為し其居所に依り区域を分て郷中と唱え厳格な規約を立てて其方限内にて親睦を交び長幼の次序を正し夙夜文武を励むの外他郷と猥りに交際するを禁じて居た其結果同じ郷中では兄弟の如く親しむ代り他郷に対しては自然競争の念を養成し団結心の鼓吹、敵愾心の昂上に非常の効果を奏したらしく士風士気の振粛作興に欠ぐ可らざるものと成った併し競争が盛んなれば蝸牛角上の争いが得て起り易きもので個人同志の行違いから郷中と郷中との問題となり談判破裂して互に隊伍を組命の取り遣りを演じた事も甚多く夫が明治の代までも残りて学校生徒の間に血を流した事が珍らしく無かった所謂他所者排斥は斯かる気風の産物ならんも這は寧ろ白璧の微瑕とすべく之が為に其美点を没却する事は固より出来ぬ
 郷中規約は多少の相違あるも大体は同一で児童六七歳に成ると皆郷中に入り初めて学に就く、郷中の集会所は私塾又は私宅で毎日巳の刻に出席して師から経書の素読を習い一旦家に帰り申の上刻に再び出席して自由に遊戯し申の下刻から武芸の練習に掛り日暮れて家に返り十五歳以上所謂二才組は更に夜学に就き或は輪講を為し或は講義を聴き軍書又は士道の心得に就て切瑳研究し以て精神と身体を鍛錬した二十四五歳に成れば郷中を去りて或は妻帯し或は役務を奉じ広く有志年長者と交際し尚退社後も郷中の事を世話し幼年者から先輩として尊敬さるるのが例であった郷中は元咄合中と称し東郷重資氏の説に由れば初め青年子弟相集まりて互に志気を砥励し又は勇武の士を慕いて之を首領に仰ぎ一団を造ったのが其起因で後世此制が漸次発達して麑城のみで三十以上城下以外を合し百二十余の諸郷が互に比肩して相下らず団結を堅め制裁を厳にし勢力を張って居たのである
 郷中で学ぶ所は儒教、奉ずる所は英雄崇拝宗、尚ぶ所は豪傑学であった四書五経が経典で明君日新公の伊呂波歌、義弘公の虎狩の書は暗誦科目となされ平常勇気奮発の□□□□□とし和漢古今の英雄豪傑忠臣義士を仰慕するのが習慣で伯夷救斉、諸葛孔明、文天祥、楠正成等は就中其信仰の対象であった謂わば悲憤慷慨の集団で婦女子との交際は固より厳禁、市中商人との交際も同様、品物を買うにも自身金銭を握ることなく必ず年長者同行で町家に入り又暑中も日傘を用いず夜中は木刀一本で提灯を携えず着者は木綿、履物は棕櫚緒に限り又臨機応変の為めの詮議や夜間の勇気試みなど色々の手段を用い殊に奇抜なるは制裁の方法で練争が初刑、義絶が極刑で撮み廻し、打ち廻し、押揉み、蒲団被せ等が行われた右の中女人禁制には流石の隼人も大分悩んだらしく其救済法として現われたのが例の薩摩名物のオカマである。  新聞記事文庫 日本(5-010)
福岡日日新聞 1913.5.24-1913.6.2(大正2)


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