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賎のおだまき・武家の時代の男色

99名無しさん:2011/06/16(木) 06:26:06
日本の戦国時代から江戸時代の初期にかけて武士階級の間で男色が流行したことはよく知られていますが、この時代、武士の家に生まれた少年が年長の武士と義兄弟と呼ばれる男色関係をもつのはごく一般的にみられる、ほとんど制度化された習俗でした。
このような「義兄弟」の関係は少年の家族にも公認されるフォーマルな関係で、少年の父親がこれはと思う青年を見込んで自分の息子の兄分になってくれるように頼むことも珍しくなかったといいます。

このような少年と男色関係をもつ武士には女嫌いの傾向が強くみられ、周囲が結婚を勧めてもなかなか結婚しようとせず、40過ぎになってようやく子供を作るために結婚するというケースが多かったそうです。

また民族学者の赤松啓介氏によると、男色が盛んであった九州地方では、少年がフンドシを締めて成人男子の仲間入りをする「フンドシ祝い」で、熟年の男や壮年の男が「フンドシ親」となり、少年にフンドシを贈った夜に少年と性関係をもち、義理の親子になる習慣があったそうです。

これなんか、まさに前述したニューギニアの部族でみられる「尻穴親子」の関係そのものです。

さらにかっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。
薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」と呼び、郷中のメンバーは7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。

この「若衆宿」の制度は、ニューギニアの部族の少年が通過儀礼のために入る「男の家」によく似ていますが、若衆宿が西日本に普及していた事実からみて、この若衆宿の制度がニューギニアなど南太平洋の島々から日本に伝わった可能性は十分に考えられます。
   ttp://jack4afric.exblog.jp/8986743


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