したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

賎のおだまき・武家の時代の男色

42名無しさん:2008/06/17(火) 21:47:49
慶長四年(1599年)の庄内地方(現在の財部(たからべ)周辺)の合戦で島津軍が庄内へ出陣の途中に門倉薬師堂に立ち寄り兵士たちがお堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。そこへ遅れて平田三五郎宗次(容姿秀麗で美少年の名も高く、16歳にして庄内合戦に従軍)と友人の吉田大蔵が通り、二人もお堂へ筆を入れた。しかしすでにお堂には平田三五郎が筆を入れる隙も無く吉田泰造に抱えられ、お堂の高い所に辞世の句を残した。「書置くも 形見ともなる筆の跡 我は何処の土となるらん(平田)」「命あらば 又も来て見ん門倉の 薬師の堂の軒の下露(吉田)」 かくして庄内に出発し、慶長四年十一月二十八日に激戦奮闘の末、先に吉田大蔵が討ち死にしその遺体を家臣が背負って退く姿を見た平田三五郎は号泣し「我、大蔵と生死を共にすると約束せり」と敵陣に切り込み遂には討ち死にした。かくして薬師堂の壁書きは長く残り、遠方より見に来る人も多く平田三五郎・吉田大蔵の辞世を見、感涙したと云う。しかし、後年薬師堂を管理していた寿永山瑞慶寺がお堂の内外壁を黒く塗りつぶし見えなくなり、後に焼失し無くなった。平田三五郎の墓が鹿児島県曽於市財部町北俣の古井荷込坂の上に在って、[三五郎塚]と云う


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板