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賎のおだまき・武家の時代の男色

77名無しさん:2009/11/11(水) 22:38:49
二才(にせ)教育の場として、城内(鹿児島市内 鶴丸城を中心とした)に30箇所の塾(二才教育をする場)があった。また、城外には、113箇所あった。
幼児教育か青少年教育の場であった。

にせ教育の真髄
1 嘘を言うな
2、負けるな(自分に)
3.弱きをいじめるな

その塾が、明治10年あたりから、「舎」として、郷中教育の場として、人材育成に大きく貢献。
明治15、16年ごろには統合、廃止などにより、18箇所になった。終戦のころには16、そして現在が10箇所。

そうした「舎」において、現在でも、歴史、伝統行事などを中心に、幼稚園、保育園など幼児教育の場や青少年教育育成の場としても活動中。


鹿児島には郷中(ごうじゅう、ごじゅう)として、古くから伝わる薩摩藩の師弟教育があった。青少年を年齢で分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)を通じて先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする考えに基づいて組織され、西郷さんは、この郷中なくして語れない。

本当の二才教育とは、
6歳から9歳まで…小二才(コニセ)
10歳から14歳までは…長二才(オサニセ)
と呼び、14歳で元服して、やっと大人の仲間入りにて交流がはじまり、二才となる。15歳から25歳ごろまでを二才として、二才組が後輩の指導にあたった。
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西郷さんは17歳にて、島津藩に就職した(入藩)。
20歳にして、にせ頭になった。24歳ぐらいまでニセ頭を務め、25歳から江戸屋敷に所属。
ttp://www.just.st/index.php?tn=index&in=762816&pan=2369


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