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賎のおだまき・武家の時代の男色
89
:
名無しさん
:2009/11/19(木) 21:56:40
幕末まで薩摩では、郷中制度を中心に男色が盛んに称揚された。
郷中教育は、島津義弘公(1535〜1619)の頃に確立されたとされるが、祖父の島津忠良(日新公1493〜1568)の時代にすでに郷中教育の原型が作られたようだ。
平田三五郎は、庄内の乱(慶長4年:1599年)において財部で戦死した。庄内の乱は、関ヶ原の戦い(1600年)の前年に、都城を中心に戦乱が繰り広げられたもの。このころには郷中制度はあったのだろう。
平田三五郎は実在の人物、墓(財部町史跡28) が鹿児島県曽於郡財部町古井にある。庄内の乱の様相を伝える数少ない史料『庄内軍記』は『島津史料集』がある。
ttp://www.shiki-net.com/shirilyou/kadokurayakushi-nisilyuukaidou.pdf#search='
財部では、大抵の者が伊集院方で戦っているが、平田三五郎は島津方に属しており、弱冠15歳で戦死している。平田三五郎と兄貴分の吉田大蔵清家のことを記した「賎之麻玉記」(しずのおだまき)という本がある。その本のことが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の中に「平田三五郎と云う少年の事を書いた写本があって、それを引っ張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これを毎年元旦に第一に読む本になっていると云うことである。」と書いてある。
桜の木に腰を下ろし、笛を吹いている平田三五郎の掛軸が財部郷土館に展示してある。
郷中制度〈若衆宿〉は明治維新後、西郷が薩摩に下って興した「私学校」に集まった。私学校は市内に分校10校、市外に135校あって、生徒は800くらいいて硬く結ばれていたようだ。西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、この私学校生徒だったという。西南戦争には、少年兵も数多く参加していた。そして、「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさん戦ったようだ。兵児二才と男色で固く結ばれたに違いない。
ttp://portal.nifty.com/2007/07/20/b/3.htm
ただ、私学校は4年間程度の短いもので、私学校は西郷が自刃した後、その伝統は、「学舎」として継承され、数は少ないものの、平成の現在でも各地に郷中教育の名残である「学舎(まなびや)」が残っています。
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