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賎のおだまき・武家の時代の男色

45名無しさん:2009/10/27(火) 21:15:45
薩摩の男色(美童愛)の中心的なものは、郷中(ごちゅう)制度にあるが、明治に入って
西郷隆盛が明治7年に作った私学校に移った。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人
いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったという。
これが、西南の役(明治10年)の主な薩摩軍の戦士となった。

まだ少年の兵士がたくさんいて「田原坂の美少年」の像があるように
今の中学生くらいの少年がたくさんいたようだ。

なお、明治5年には、鶏姦律条例ができた、鶏姦とは少年相手の肛交のことだがかなり行われていたそうだ。
これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんたいして15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、可愛がって
いたのだろう。

男色の二大秘儀は肛交と「一節切」(ひとよぎり)である。「一節切」とは、一回り小さい稚児のものを吹くこと。つまり今流にいえばフェラ。
こういうことが、学校の寄宿舎などでもおこなわれていたようだ。
森鴎外の「イタセクスアリス」にもでてくる。


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