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哲学的・雑談的 3

1千手★:2007/07/16(月) 22:27:25
急遽新しいスレッドを作り、「2」を過去ログ倉庫に入れます。
よほど慌てていたのでしょう「雑談的」と記すべきところを何と「雑学的」と
してしまっていたのです。「雑学的」これはわたしの最も嫌悪するものです。

このスレッドは、他のスレッド同様、「非雑学的に」お願いします。
いまだ未知のいまだ脆弱であやうい観念に言葉をあたえ、姿をもたせてやりたいという希いです。
そしてそれをできれば世に通用する概念に育ててゆきたいのです。
参加をお願いします。

2千手★:2007/07/17(火) 02:01:40
赤坂憲雄の「東北学/いくつもの日本を抱いて」

『東北学への招待』(1904年、角川学芸出版)の巻末にあり、全巻のまとめをする論考である。
必要があって久しぶりに読んだのだが、幾つか考えるところがあった。幾つか引っかかるところがあったと言った方が正確かもしれない。
そのままにしておかない方がよいだろう。
それは例えばこういうところだ。

>山形の山村を聞き書きのために歩くと、思いがけず稗の姿はまるで見られなかった。
その代わりに、戦後間もない頃までは、カノと呼ばれる焼畑で栽培されるソバやカブが主作物であったことを知った。
カブ漬けは冬越しの大切な食料となった。ブナの森の豊かな恵みである山菜・きのこの採集や、狩猟・川漁なども、大切な生業とされてきた。
(p.212。強調は引用者)。

ここで言うところの「主作物」とは何のことであろう? カノではソバやカブが主要な作物であったことはわかる。
そして「カブ漬けが冬越しの大切な食料」であったこともわかる。しかし「ソバやカブが主作物であった」ということは、
それらが「主食」であったということとは別のことなのではないだろうか。つまりそれらは「米」を主食として前提にした上での食料だったのではないだろうか。
 わたしがこんな疑問をいだくのは、この文章が、下北や南部地方では、稗が長く主食の座を占めてきた、という文章に続くものだからである。
例えば「下北では、明治二十年代まで、水田の九割までが稗田であった」という。このことはわかる。
そしてそれゆえ、稗を通して、「稲に覆われた表層の風景の下に」横たわる東北の基層の風景をさぐるという探求を、われわれは何が主食であったかという問題の探究として理解することができるのである。
しかしカブを通して、われわれはその同じ探求を試みることができるのだろうか? 
 もしわれわれが「東北学」という名のもとに「稲作以前の、東北の縄文以来の一万年の基層なす風景」の探求を試みるべきであるならば、
われわれは東北のどの地域においても、同じ方法に基づいた探求を試みることができるのでなければならない。
そのときわれわれはおそらく「主食」という概念を外して探求を進めなければならないのだろう。
 そうするとどうなるのか? わたしは飛騨のある友人が、稗は不味くて柱か何かに掴まらんとよう飲み込めなんだ、と言っていたのを思い出す。
だがその同じ友人は同時に、稗飯、つまり稗と米とを半々にして焚いたものは、これより美味いものはないというぐらい美味いんじゃ、と言っていたのである。
混ぜて調理するというような工夫は、昔からなされて来たことだろう。縄文以来の基層をなす文化や風景は、何も東北にだけあるわけではない。
「東北学」をこころざす者は、東北の固有性を探求するのだろうか。それともある種の通有性、あるいはつながりを探求するのだろうか? 
わたしは、地域の学は、差異をもって関係し合う地域的な諸力の探求の学としてしか成立し得ないと考えているのである。
「東北学」もその例外ではありえないだろう。
 赤坂憲雄の「東北学」は一体何を目指しているのだろうか。わたしが尋ねたいのは過去に考え実践してきたことの回顧や反省ではない。
それらは状況論的な意味しかもたないであろう。
わたしが尋ねたいのは今まさに何を求めているのかということである。

3千手★:2007/07/17(火) 02:40:25
>>2訂正
(1904年)→(2004年)

4千手★:2007/07/18(水) 23:50:42
>庄内では藤沢周平さんの小説を原作とする映画のロケが頻繁に行われ、それぞれの作品が大きな話題になっています。
>映画を観た人が映画の舞台となった庄内へどっと繰り出す。小説や映画が地域の風景を活性化し、
>柔らかい形で観光へとつながってゆくという道筋は、大きな武器だと思います。
 赤坂憲雄(『まんだら』vol.31 p.21)
 赤坂さんはさらにこう言います。
>それには<u>物語の力が必要です</u>。民話でもいいし、現代の小説であってもいい、あるいは絵画でもいい。
>文か芸術が生み出す、土地と結びついた物語の役割はとても大きいのです。

 この「物語の力が必要です」のところを、「詩・歌の力が必要です」に代える、そうい位相も存在すると思うのです。
それは何なのか? 確かにひとつの断層があるのです。
この位相の差を思惟してゆきたい。実施「詩歌」だと商売とつながりにくい気がしてしまうのです。
大量動員ができにくい。しかし永続性は詩歌の方が勝るでしょう。

5千手★:2007/07/19(木) 00:06:49
>>4
訂正
文か芸術→文化芸術

詩歌の方がまさる点
物語が外的状況の組み立てによって感情移入される像が生れるのに対して
詩歌は、とりわけ歌は、人がみずからの心を語る内面の言葉そのものを語ってくれる。
人は歌によって一人称でみずからの心をかたる言葉を与えてもらう。

6Pentatonics★:2007/07/19(木) 22:35:04
>>5
まさにそのことによって、その土地が固有のものとして経験されるわけですね。
ここにいない誰かによって書かれた物語をなぞることは、その土地の経験を一般的なものにしてしまうところがあるのでしょう。
「物語」の導入は、資本や科学的視線による地域像の一律化、一般化と重なり合うものを持っていまるように思います。
これはその土地ならではのものを殺しかねない、危険なものを含んでいると思いますが、多くの良識的な人達がそうは思っていないようですね。

7千手★:2007/07/20(金) 02:23:34
しかし「物語」は実際強く、産業界によっても歓迎され、多くの人々のアイデンテティーの基盤にもなっている。
「物語」の乗ればいろいろと成功しやすいと思います。
そしてまたそれは「その土地ならではのもの」に基づいた物語を生んでゆくこともできるでしょう。
赤坂さんは前掲の論議を「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」という伊波普猷の言葉をモットーに上げます。
彼がその土地に深く結びついた物語を掘り起こすことを考えているのです。
けれどわたしはこれに対して、
「曾つて吾等の高山樗牛はいつたものだ/汝のゐるところを深く掘れ そこには必ず泉あらん/一人の泉は一人の泉だ/何百年たつても一人の泉だ」
という草野心平のことばに、紛らわされない真実を感じるのです。
私のいう詩・歌はこの一人の泉なのです。飲める人がそこからその水を飲んだらいい。
泉は物語ではないのです。歌なのです。

8千手★:2007/07/20(金) 02:36:05
>>7
文が乱れていて失礼。ブログの方には書き直したものを載せます。
赤坂さんとわたしとのこのポジションの違いは、昔から互いにわかっているものなのです。

9千手★:2007/07/20(金) 02:41:25
>>5
土地が固有のものを経験する仕方として「歌」を与えてくれるという論理ですね。
これはたのもしい発想だ。
山中智恵子さんの地名を詠み込んだ数々の歌を思い出します。
土地が歌を与える。これはいい。

10千手★:2007/07/20(金) 02:47:52
物語の危険性に、赤坂さん自身は、気づいているのでしょうか?
彼の語りの、不安なところです。

11Pentatonics★:2007/07/22(日) 01:19:49
語としてのStoryとHistoryの関係についてはあまり知りませんが、物語がほとんど常に一方向に流れる時間を感じさせるようにできていて、それゆえ何らかの歴史を語ってしまいがちであるということは感じています。土地と物語が結びつけられるとき、多くの場合それはなんらかの起源譚という形を取ってしまうようにも思います。このこと自体は自然なことなのだと思います。
「物語」を活かした地域振興が構想される時、商業的にあるいは政治的にこしらえられた起源譚の固定化が同時に行われるのだと思います。この固定化がどれだけ多くのものを殺してしまうのか。この権力的に設定される物語は、多くの問題を持っていると思います。

12Pentatonics★:2007/07/22(日) 01:20:25
この物語はRead_onlyです。商業や行政が用意する「いわれがき」は、「ふーん、そうなのか」と読まれるだけのテキストです。詩歌において、一人称で語り出される言葉が地域の固有の経験を生み出すということを思うと、この違いは大きいように思います。
今の「物語」は、その名に反してここにいる誰によっても語られないことを特徴としているように見えます。ここにはいない誰か、作家やプランナー、メディア上の人びとによって、テクニカルに用意されるテキストが、「物語」と呼ばれているように思われるのです。

多くの人たちによって、さまざまなヴァリアントを派生させながら繰り返し語られるもの(これは今言っている「物語」とは違うあり方です。この「誰かによる物語」に対して、「われわれの物語」と言ってもいいかもしれません)は、固有の場所経験と結びついていく契機を含んでいたはずです。口承で伝えられる伝説、愛誦される詩歌、叙事詩といったものは、そうした回路を通じて、ひとりひとりの内に固有の場所/地域の経験を作り出していったのではないか。

13Pentatonics★:2007/07/22(日) 01:21:06
ひとりひとりによって改めて語り直される、あるいは語り出されるものについて考えると、一つには詩歌がまず挙げられると思いますが、今なおネット上においてさえ何度も語り直されては脈動するように展開していくうわさ話群、特に「こわい話」を忘れることはできないと思います。
人はどんなときに、自分から怪異譚を語り出すのか。その時にその人のうちになにが起きているのか。
「こわい話」の語りのサイクルと、詩歌の経験をどこかで重ねながら考えていくことはできないか・・・(この辺まだ妄想レベルですが)。

14千手★:2007/07/22(日) 01:31:11
>>11,>12
とても適切な説明だと思います。
ですがPentaさんの分析は赤坂憲雄さんが狙っているような「われわれの物語」
による地域作りの構想を支持するものなのではないでしょうか。それならそれで構わないのですが。
わたしは「泉は一人の泉だ」という草野心平の主張を紛らわせたくないのです。

15千手★:2007/07/22(日) 01:37:13
>>11
フランス語の”Histoire”は歴史と物語の両義を含みます。

16千手★:2007/07/22(日) 01:45:48
「一人の泉」論に固執するということは
出発点は詩歌だ、ということにわたしは固執すると言い換えてもいいかもしれません。
歴史は常に「すでに線」であるし、また線を引いてゆくことが不用だと言うわけでもありません。
しかし泉が湧き出てくるのはまずは点からです。

17Pentatonics★:2007/07/22(日) 02:06:17
>>14
赤坂さんの>>4における「物語」と、私が言った「われわれの物語」が必ずしも同じものだとは思わないのですが、両者に共通する問題性もまた判ります。
それは、語ることと、共同体の靭帯をつくることとを素朴に重ねてしまっているところなのでしょう。「われわれ」にはそういう含意が確かにあります。
私自身はこのあたりに迷いを持っています。しかし、伝統的な共同体を自明のものとして、そこに根拠を置くことは避けたいと思っています。それは尊重したいものではあるのですが。
共同体の成員が共通に持つ物語(赤坂さんはたぶんこれに組するのでしょう)ではなく、多彩な変奏を生み出す自由な運動性の方に大切なものがあるように思います。そうでなければ経験は固有のものにならないと思うのです。
怪異譚の越境的なパワーに注目したくなるのも、共同体的なものを超えたひとりひとりによる「語り直し/語り出し」を感じるからです。
怪異譚の内部には、矢印状の時間を切断してしまうような、反歴史的なものが仕組まれてはいないか、と思っています。「新耳袋」以降の現代怪談にもそういう切断の感じを強く感じます。

18千手★:2007/07/22(日) 11:14:10
>>17
かなりのところ、理解し、納得しました。
また
>怪異譚の越境的なパワーに注目したくなるのも、共同体的なものを超えたひとりひとりによる「語り直し/語り出し」を感じるからです。
いわゆる都市伝説をこのように理解する仕方があるのか、と目を開かれました。

19ほかいびと★:2007/07/28(土) 22:50:18

>>2

雑談になりますが、
先月に三陸高田市の場外市場の使用許可を警察から採ったので
秋から今年も何回か出店を予定してます。
そこにくるオバさんたちは自分の採って来た
海草や魚や野菜などを売るというのが多いです。

ところがその中には
今の山村の子供たちは食べない果実や各種穀物粉に混じって
なぜか栽培した稗や粟も売っています。
いまのおばさん達のうち顔なじみも多いし
ちくまの柳田國男の文庫本に東北の稗酒と
書かれてたのですが地域がどこかわかりませんのでこの秋は、
稗や粟の酒がかつて北上山地で作られてたか聞いてみます。

ただし、ご年配の女性でも大正の終りの生まれか
ほとんどが昭和1桁10年代生まれになってきてます。
もう20年も通ってるのでせめて10年早く気がついてれば
明治生まれのおばさん達もいたのにと悔やまれますが、
もしなにか分かったときにはここに報告させていただきます。

この気仙地域ではお月見にあげものとして
こくわ、ガマズミの実、あけび、山ブドウなどをも
山から採ってきた人から直接買っていくことを2004年に確認しました。

これも昔は果実酒ではなかったかと推測してるのですが、
これは古い郷土史の本で確認できないかとおもっています。

中秋のお月さんは、あばたの多い女性に見立てられます。

顔の醜い女性。生け贄に用に都合の良い女性。
あばた顔はマダラ模様の顔。おかめ、おたふく。

・・・こんなことを連想しました。

20千手★:2007/07/28(土) 23:23:02
>>19
ぜひご報告を。
そこからアイヌの稗酒までつながるのか?

21千手★:2007/07/30(月) 03:40:35
トラックバック先がないものかと探して、
「フーコー」+「権力」でグーグルしてみた。
バカばっかり。出てきたのは。
何がバカかというと、どこかにドゥルーズの名前を使わないと、フーコーについて何にも書けないのがバカの証拠その一。
でもそれは徴候でしかない。
本当にバカなのは、フーコーが利用している一次テキストを何一つ自分で点検しないでフーコーについて語れると思っている点。
これは致命的なバカだ。そんなバカしか見つからなかった。
フーコーが一次テキストを申し分なく潔癖に使っているとでも思っているのか?
愚かな話だ。
いうまでもなくみんなカッコつけたがりのオニイチャンばかりだが。

むかし内田隆三の『フーコー』にトリカブトの写真がのっていた。草全体の写真だ。
トリカブトの種子を見なければ、フーコーがまともなことを言っているのかどうか検討もできないだろうが!
フーコー信者という最悪の人種がうようよしている。
いやな景色だ。

22千手★:2007/07/31(火) 22:56:55
伊波普猷の「をなり神」に関心のある人はいないだろうか。
わたしが感じる疑問なんだが、
1.「をなり神」は生きていないと力がないのだろうか?
2.なぜとりわけ遠く離れた航海中の男兄弟を守るのか? 距離はどう関係するのか?
3.むしろ普天間権現の伝承から発想されているのでhないか?
4.その普天間権現の由来伝承でも、兄を助けたが父を助けられなかったのは単なる偶然にも読めるのではないか?
5.他家に嫁ぐと、兄弟を守る力は弱まるのか? ならばなぜ?
6.「をなり」は「をみなり」と同じ語で、つまり「をみな」の古琉球語以上の意味はないのではないのか?
 伊波の「をなり神」を読むと、伊波の自信なさそうな様子を感じてしまうのだ。
それで結局、
7.沖縄地方でほんとうに姉妹は「をなり神」として頼られていたのか?
 折口信夫の論議も、伊波のいうことを鵜呑みにしてしまっているところがあるのではないか。
『日本歌人』9月号のための原稿で、伊波の「をなり神」論を紹介したのだが、わたし自身としてはむしろ疑問の方が増えてしまった。
「うなじ」のこととか、もっと注目し、丁寧に論じるべきところがあるはずだ。

23千手★:2007/07/31(火) 23:02:00
わたし自身では、昔に亡くなった姉をいまも「をなり神」としてもっているのだが。

24E嬢★:2007/08/01(水) 00:01:54
>>22の5について

その昔、他家に嫁ぐということは、生家の宗派から、嫁ぎ先の宗派に変わることだと、
母に教えてもらいました。

母の実家は浄土真宗でしたが、いまは禅宗のなんだっけ???です。

なので、わたしも禅宗だったと思うのです。(名前が出てこない)
嫁ぎましたが、無宗派だたために、死後はゴミ箱行きという、ヘンなカンジ・・・

残念ながらわたしは、宗派を失っています。←この表現であっているのでしょうか?

もし、次回嫁いだら、その旦那さんの宗派に変わるはずです。
宗派の垣根は、越えにくいから、父母兄弟を守る力が薄れることがあってもおかしくないと思います。

父の宗派の神さん、そこに嫁いだ母は、旦那さんの宗派の神さんに守られ、
男の子たちはやはり父の宗派の神さんを受け継ぎ、
嫁いで行く娘たちは、父親の宗派を受け継ぐのではなく・・・

わたしは離婚したことによって、帰る場所を失ったから、太陽信仰しているのでしょうね。

25千手★:2007/08/01(水) 02:21:21
>>24
宗派的な理由で、他家に嫁ぐと兄弟を守る力が弱くなるなら、それは「をなり神」の力は宗派宗教の力より弱いということになりませんか。
もっと力強いものでかければ、遠くで難破した船から兄弟を助けることはできないのではないでしょうか?
「をなり神」の力が、嫁ぐと弱くなるかのように語る時、
伊波は「をなり神の力はたいしたことないぞ」と言っていることになるのではないでしょうか?

26千手★:2007/08/01(水) 09:48:27
>>25
訂正:
もっと力強いものでかければ→もっと力強いものでなければ

27E嬢★:2007/08/02(木) 11:44:44
>>25

どこかの国は、少女を生き神様としています。
しかし、初潮を迎えると、生き神様を引退します。

嫁ぐと、女の子は処女ではなくなります。

女の子の霊力は、「清らか」でないと、パワー・ダウンする感じがします。
宗派説は失敗だったと思います。すみません。

28千手★:2007/08/02(木) 23:51:19
久高島のカミンチュー(神女)でもそうなのですが、
少女ではなく、普通の主婦が神になれる。
女性についてのそういう理解があるのです。
「清ら」は多分折口信夫が好んでいた言葉じゃないかと思いますが、
沖縄の人たちの「清ら(チュラ)」とつながるものがあるのでしょう。
世にも人にも、失われない清らかさがあるのではないでしょうか。

29E嬢★:2007/08/04(土) 17:40:00
主婦の神さん・・・ だから、おかみさんと呼ばれるでしょうか。
(これは、間違っているとは思いますが、でも、書きたかった)

清き明き直き心・・・古事記の世界みたいですね。
高天原に行くには、清き明き心が必要だったのだから、
沖縄の聖地も同じように、清き心を持つ人・・・カミンチュー

>世にも人にも、失われない清らかさがあるのではないでしょうか。
同じ主婦でも、大阪のおばちゃんはダメでしょうね。
数え年で七つまでが、一番純粋なのではないかと思ったのですが、
近くの小学生の言っていることを聞いていると、私よりシッカリしていて・・・

「失われない清らかさ」というのは、
一種の、特殊能力になるのではないでしょうか?

30千手★:2007/08/04(土) 20:01:50
>>29
>清き明き直き心・・・古事記の世界みたいですね。
>高天原に行くには、清き明き心が必要だったのだから、
>沖縄の聖地も同じように、清き心を持つ人・・・カミンチュー
これはかなり違うことのようだと思うのですが。
沖縄言葉で「ちゅら」は普通「美」の字をあてるのですが、そのもとに折口がいうような
「清ら」の感覚があるのではないかと私は思っているのです。
久高では不倫さえしていなければ「七ツ橋」を渡れて、七ツ橋を渡れれば神女になれたようです。

31E嬢★:2007/08/04(土) 20:28:59
>久高では不倫さえしていなければ「七ツ橋」を渡れて、七ツ橋を渡れれば神女になれたようです。
ってことは、久高では、不倫が日常なんでしょうか。
でないと、いい奥さんばかりだと、神女の大量発生につながると思うのです。
たくさん居る=ありがたくない、のか、たくさん居る=ありがたい、なのか。

折口説はちょっと待ってください。本を読んできます・・・

32千手★:2007/08/04(土) 22:54:27
>>31
神女は十二年ごとのイザイホーでですが、今に大勢人がいた時には大勢生れていたようです。
折口。たとえば:
種々無限清らを尽す 我が望みゆゑ (倭をぐな)

33千手★:2007/08/04(土) 22:55:30
>>32
訂正:
今に→島に

34E嬢★:2007/08/05(日) 00:01:47
去年、イザイホーのビデオを見たのですが、
一種の断食かと思っていました。(やはり、もう一度勉強しなおします)

母とイザイホーの話をしていたのですが、
「あれは、夫への嫌がらせじゃないのか」といったのに、大笑いしてしまいました。

35千手★:2007/08/11(土) 12:12:34
ああやって女の権力をkeepしてゆくんだ

36千手★:2007/08/12(日) 03:26:24
>>27
>嫁ぐと、女の子は処女ではなくなります。
アンドレ・ジッドの嫁さんはずっと処女だったんではないですか?

37E嬢★:2007/08/13(月) 11:19:20
アンドレ・ジッドさんをはじめて知りました。
ノーベル賞を貰うような人は、不思議な感覚の人が多いのかと思いました。

もし、アンドレ・ジッドの強烈な思い込みと、
奥さんが本当に婚前交渉とか、不倫がないのであれば、処女である可能性は高いですね。
(私的には、フランス人っぽくあってほしいのですが…)

38千手:2007/08/14(火) 01:55:30
>>37
>(私的には、フランス人っぽくあってほしいのですが…)

ジッド夫人への希望ですか?

39千手★:2007/08/24(金) 12:11:39
ひとは誰から生き方を学ぶのか?
姉崎さんは、森や山での生き方を、ヒグマから学んでいる。
ヒグマの堂々とした生き方から自分の生き方を学んでいる。
単に技術、体術を学んでいるだけではない。
他の生物とのかかわり方をヒグマから学んでいる。
アイヌの生き方の大きさの秘密が、今回の会でわかった気がする。
ヒグマが人を作る。
本土人は、動物からそれだけ大きな生き方を学ぶことはできない。

40千手★:2007/08/25(土) 22:04:06
子連れのヒグマは、戦いを避けるべく、人間が近づいてくるのを感じると、「来るな」という合図を送るのだという。
前足で地面を叩いて。

41千手★:2007/08/25(土) 22:41:36
クマの心がわからないとクマは取れないと姉崎等さんは言う。

--
自分は、むしろ姉崎さんに追われるクマに近いだろう。
心が読まれてしまっているというのは、こちらが裏をかく気でいても、それまで読まれているということだろう。
やられたくないと思えば、普通のクマなら考えない行動に出るしかない。
それで、猟師からは逃げられるかもしれない。だが、クマの仲間からも孤立して、ずいぶん違った存在になってしまうことだろう。
ほどほどのところで撃たれてやろう、とそう思った方が、クマとして仕合わせな生き方ができそうな気がする。
あの猟師になら撃たれてやってもいいと、そう思う猟師もいるだろう。姉崎さんになら撃たれてやってもいいと。

42ほかいびと★:2007/08/26(日) 00:33:45

>>39

>アイヌの生き方の大きさの秘密が、今回の会でわかった気がする。
>ヒグマが人を作る。

千手さんが熊になぜ魅せられるのか不思議でしたが
少し理解できてきたようにおもいました。
熊=人だと感じます。

テレビでみたのですが、
秋田のマタギに追い詰められ焦りながら逃げ惑う
熊の後姿をみたらまるで人間のお婆さんの後姿のようでした。

43千手★:2007/08/26(日) 10:00:56
>>42
http://25237720.at.webry.info/200708/article_12.html
ほんとはツキノワグマもおだやかな性格なのだと思います。
豊沢(なめとこ山)あたりのクマはおだやかだと色んな人から聞きます。
早池根山の周辺のクマとはぜんぜん違うと。

>熊=人だと感じます。
ツキノワグマはそう人間と違わない気がします。
でもヒグマは少なからず違うんではないでしょうか? 
ヒグマ=人間以上=カムイ。
スケールの大きな配慮がある気がします。
(場所によっていは追いつめられているヒグマもいるのでしょうけれど)。

44千手★:2007/08/26(日) 18:07:19
>>39,>>40
明敏な人はもうその先までわかると思うので言っておくと、
「ヒグマはカムイだ」としてアイヌ文化を語るのではなく、
ヒグマがカムイとしてアイヌの人々に理解されてきたことの根にあることが、
今回の姉崎さんの話から見てきた、ということなのです。
 つまり、ヒグマの偉大を猟師だけが理解していたのではなく、ほとんどのアイヌがそれを理解していて、
それでヒグマをカムイ(=神)と考え、呼んでいたのだろうということです。
 この観点は、これまでのアイヌ文化論を一歩先に進める洞察のははずです。内容そのものは
十七年前に蘭越のおばあちゃんたちが口を揃えて言っていたことでもあるのですが。
今までその意味がわからなかった。
 ヒグマが偉大だからこそ、アイヌの人達は、ヒグマを自分たちの祖先と考えるのです。
ヒグマが強いからだけではない。人間として立派だから。生物として立派だからなのです。

45千手★:2007/08/27(月) 03:06:37
>>44 まとめ
http://25237720.at.webry.info/200708/article_14.html

46千手★:2007/09/23(日) 23:48:22
昨日姉崎等さんから話をうかがってきた。貴重な話。
クマは人間とそう違う事を考えているのではないと。
それを身をもって実証してきた。
観念だけ、思想だけで言われていることには何の関心ももたない人だ。
理由なく人間を襲った「悪い(ウェン)」クマのことをカムイとはいわない。
オレはここにいるという合図は、子連れのクマだけではなく、暖かいところで休んでいる雄グマもするのだという。
彼自身何度も聞き、他にもその合図の音を聞いて逃げ帰ったという人もいるということ。
そして動物も恩を感じ、恩を返そうとするということも。
すべて実証のあることだ。
アイヌ、和人という差を越えて、人間がもちうる互酬の思想。その実践の経歴として得た姉崎哲学。

47千手★:2007/09/23(日) 23:54:48
ヒグマは人間以上に知恵がある、ということ。を何回かいっていた。非常に具体的なケースに関して。
家に帰ったらそれを整理してみたい。
非常に正確な物言い。だから一つ一つの言葉が重たい。

48千手★:2007/09/30(日) 02:18:28
八月の千歳の熊撃ち猟師の対談を中心に、ひとと熊との関わりの深みを探るようなものがまとまってゆきそうです。
多くの人たちの気持ちがよいものを作ろうとまとまってゆきそうなのです。

49ほかいびと★:2007/10/08(月) 01:44:06

北上山地の稗酒、粟酒の作り方について

おととい金曜日に稗酒について聞くことができました。
高田市場は朝6時ころから始まって12時頃には片付けてしまう市で、
私も売りに行ってたので終る頃やっと稗売りを探し始めたのですが、
昨今では採る人も珍しい山の果実などをいつも並べてる
60代〜70前後とおぼしき男女の方に教えていただきました。

今回はたくさんの山ブドウと、もろきみ(黍の種類)を並べていましたが、
早朝に話しをしてた元左官職人さんが山ぶどうを一袋買って
話しをしてたので話しのなかに入れていただいて
「35°の焼酎につけるのですか」と訊ねたら売り子の女性が
「浸すのでなく20°のを振り掛けてビンに入れて置くだけで自然と水分が出てくる。」と教えてくれたのですが、それが山ブドウ酒なのだそうです。
2回はお酒が出来るけど3回目は砂糖を入れると
良いとのアドバイスもしてくれました。

山ブドウのとなりには粟?の仲間である「もろきみ」とこちらで呼ぶ
淡山吹色の黍(キビ)もあったので、これでお酒が作れるか聞いたら
できないことはないが稗や粟を酒にするほうが普通だったそうで、
昔はそれを蒸して麹(こうじ)を絡ませて酒瓶に入れ寝かせて作ったのを
彼女の上の世代のお父さんだか叔父だかが飲んでいたそうです。
そんなに昔のことではないようです。

ただし麹ではあまり効かないので麹より店で売ってる「イースト菌」を絡ませて
寝かせた稗や粟酒だと「すぐに、まぐれる」とのことでした。
こちらで「まぐれる」とは人の手にかかり「死ぬ」ことも意味しますが、
この場合には酔い潰れて寝込んでしまうことを意味してます。

昔ながらの麹より市販の「イースト菌」のほうが確実に発酵し良いお酒になるということでしょう。
昭和40年代のころのウチでもそうでしたが、
味噌を作るのに明治35年生まれの私の祖母も「イースト菌」の効き目を
すでに知ってて茹でた味噌豆を発酵させるのにこれを使っていました。

そうしてみると簡単にお店で「イースト菌」が買えなかった昭和20年代、
お店が遠い山間部ですともしかしたら昭和30年代ころまで、
ふつうの麹を使ってたとすれば、度数の低い、
水臭い「稗酒」、「粟酒」をおそらく飲んでいたのではないかとおもいました。

もうすでに市(まち)が終って片付けが始まりそうだったのですが、
今は米があるのだからイースト使ってドブ(どぶろく)作ったほうがずっといい、
つまり稗、粟をわざわざ使うまでもなく、
もっとおししいお酒が飲めるではないかと
この売り子の女性が私の目をじっと見たまま4、5分間も
視線を逸らさず最後までていねいに説明してくれました。

そういえば、こういう経験はよくあるとおもいます。
都会のお勤め人というか、いかにもバリバリ仕事が出来そうな
背広を着たサラリーマンの目を見ながら話しするときって必ず緊張するものだし、
やがてなんかだんだんに少し怖さを感じてきてしまって
話しを早く終らせたくなるものです。

でも、農村や山村の農家の人々のある年代より上の方々は
人の目をじっと見ながら話すのがあたりまえなのに、
だんだんなごやかな気分になってきて話しがはずみ、
つい長話になってしまいます。
農村、山村の人々の視線は淡くて柔らかいです。トゲがないのですね。

今日は近くの竹細工仲間で牛も飼ってる農家の男性が来て、
田んぼの秋草のうち成長したヨモギは青臭くて家畜が嫌うという話しをしたので、
稲作で雑草として抜かれ嫌われてる「野稗」も邪魔ですね?
と訊いたら意外にも牛にとっては大好物だという答えが返ってきました。

牛は真竹の笹も大好物です。
冬なんか牛小屋で市販の飼料と一緒に与えたら飼料なんか後回しにして
まず竹の葉である笹を食べますし、子牛も喜んで食べます。

桃太郎と彦星を一緒にしてはいけませんが、
キビ団子や笹餅のことも考えてみたくなりました。

それと、七夕は竹や笹竹を使いますが、竹や笹は本来は牛を鞭打つものではなく、
もしかしたら競走馬の鼻にニンジンを吊るすのと同じく、
嫌がる牛を彼等の食欲を利用してすんなり田・畑起しに連れて行くのに
必用なアイテムだったのかもしれないなとおもいました。

50千手★:2007/10/08(月) 21:07:26
>>49
記録としてとても興味深いものだと思います。ただここから何が出てくるのか?
アイヌ民族が稗酒を尊重し、稗酒へのこだわりを少なからずもっていたことと関係してくるのか。
そうしたつながり、関係、しかも差異をもった関係を明らかにするように考察をすすめていって欲しいと思います。

また、このテーマはここ(「哲学」スレ)よりむしろ「民俗学の未来」スレに向いているのではないでしょうか。ご一考下さい。

51千手★:2007/10/09(火) 21:29:34
>>50 補足

もしくは「聞書き」スレに。

52千手★:2007/10/10(水) 07:54:36
>>49
アワ・ヒエ/米
麹/イースト菌

この対比の関係がよく分かりません。
>今は米があるのだからイースト使ってドブ(どぶろく)作ったほうがずっといい、
>つまり稗、粟をわざわざ使うまでもなく、

ヒエ・アワの方が米よりもアルコールを作りやすいのですか?
重要な点です。

それと「もろきみ」、これはトウモロコシとはまた違うのですね。

53千手★:2007/10/17(水) 02:33:33
モエレ山を思う 京都には草山がない

ある喫茶店で東山を見ながら学生のレポートを読んでいた。
大学の近く、白川通り沿いの、東に東山の見える喫茶店だ。
それほどよく来る喫茶店ではないが、レポートを読むぐらいの仕事はできるので、そんなときに時々くる。
その喫茶店を出る時に気がついたのだが、目の前の山、その道からの比高差は六十メートルぐらいなものだ。だがその山にはあまり登る気にはならない。
わたしはあの札幌のモエレ山のことを思い出していたのだ。
モエレ山は登りたくなる。だれでも登りたくなる。それは登りやすいし、登ればすごい見晴らしが開けるからだ。草山なのだ。だからどこかだでも、どんな道を取っても登れる。それがモエレ山の凄いところだ。
だが京都には草山がない。照陽樹にせよ、針葉樹にせよ、落葉広葉樹にせよ、樹が生い茂っている。
そうなると、道が限られる。四メートルの雪に被われることもないので、自由に道をとって登ることができない。京都の人はこういう山に慣れてきているのだ。行儀よく、すでにできている道を登ってゆく。歩いてゆく。けもの道なんていう言葉を知っていても、まず滅多にほんとうのけもの道なんか歩いたことはない。ほとんどの京都人はそういう歩き方以外を知らないのだ。出来合いの道を歩くことしか。
札幌のモエレ山の素晴らしさ。
言うだけ言ってみよう。京都の真ん中にひとつ草山を作ってみよう。どの方向から、どんな道をとっても登れる、見晴らしのよい草の山を。

京都人のメンタイリティーが大いに変ることだろう。
「市民」がはじめて生れるだろう。

54千手★:2007/10/19(金) 01:01:28
>そんなムラも人が暮らさなくなり、壊れつつある。そのプロセスは複雑だが、根っこにあるのは「ムラは遅れている、人材もいない、何もない」とみる考え方なのではないか。インドネシアも同じ方向にある。……
島上宗子「「いりあい交流」がつなぐ日本とインドネシア」(加藤剛編著『国境を越えた村おこし」)より

都市化、都市集中が、グローバルに進んでいる傾向なのだということを知らなかった。
そしてその根にあるのが、この村には何もない、遅れてる、人材もない、ということに尽きるのではないかという指摘。
かなり納得してしまう。通信教育で地方で授業を開講しようとするとき、一番問題になるのは、この人材がないということなのだ。
もちろんそうでない地方もあり、そして視点さえ変えれば素晴らしい人がいくらでもいる、ということは多いのだが、それでも
こういう点での地方の人々の自信喪失は見詰めておかなければならないと思う。

55毛蟹★:2007/10/23(火) 11:54:55
都市への一極集中と地方の過疎化が化学でいうところの「可逆反応」であるならば、数年間日本を鎖国して輸出入を止めてしまえばよい。それがナンセンスであれば、一極集中と過疎化は「不可逆反応」であり、この現象の生成プロセスから解消策が見つかることはないだろう。この状況を変えるためには過去にはなかった「不可逆反応」を引き起こすしかない。そしてそれが出来るのは僕の世代ではない。「ケータイ世代」といわれる若者たちのコミュニケーション方法とテクノロジーが結びつくところに不可逆反応の開始点があると僕は思う。

56毛蟹★:2007/10/23(火) 18:37:27
佐藤成史さん(プロ・フライフィッシャー)のブログにヒグマの話しが出ていました。

http://riverwalkers.jugem.jp/?eid=522#comments

57毛蟹★:2007/10/23(火) 19:22:28
ここにもヒグマに関するブログが。

http://kawanikki.blog57.fc2.com/blog-entry-49.html

58千手★:2007/10/23(火) 21:54:33
>>56,>>57
情報有り難う。どちらも拝見。
でも姉崎等『クマにあったらどうするか』がおまず勧めです。

59千手★:2007/10/24(水) 09:01:25
>>55
直接都市化への逆運動にはならないかもしれませんが、既に始まっているドルの下落という
「不可逆反応」は、多少は政策次第のところもあるでしょうが、円の下落をも招き、「鎖国」に近い方向への
動きを作るのではないでしょうか。WTOはもう立ち直れないでしょうし、二国間、地域間の貿易協定
によって自国の経済を支える方向へ向かうように思います。経済のまったくの素人の見当にすぎませんが。

60千手★:2007/10/25(木) 12:37:52
>>59
6月21日のポツダムの貿易交渉の決裂によるWTO「ドーハラウンド」の失敗のこと。
G7主導的な体制はもう作れないでしょう。
田中宇ニュース
http://tanakanews.com/070626trade.htm
参照。

61千手★:2007/11/03(土) 13:08:54
わたしのブログにも出しているものなのですが、きちんと検討をしてゆきたいのでここにも出します。
ご検討いただければ幸いです。
http://25237720.at.webry.info/200710/article_16.html

ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している

『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の1の最後に、こんな言葉があった。

 ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している。(氷上英廣訳、岩波文庫を参照して拙訳。以下同じ。) (S. 12, Zn. 8-9)

今まで気に留めていなかったのだが、容易ではない言葉だ。なぜなら「ふたたび人間になろうと欲している」のなら、この時彼は「人間ではない」ことになるだろうからだ。では、「人間ではない」としたら彼は「何者」なのだ?

 この言葉は、ツァラトゥストラが山を下りようとする時に出てくる言葉だ。そして語りかけている相手は太陽だ。

  見てください! この杯(さかずき)はふたたび空(から)になろうと欲している。ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲してい
る。 (S. 12, Zn. 8-9)

「この杯」(dieser Becher)とはツァラトゥストラ自身のことだ。その杯にはツァラトゥストラがあなたと呼ぶ太陽のこの上ないよろこび(deine Wonne)が満ちみちているのだ。

  あふれ出ようとしているこの杯を祝福してください。その水が金色にかがやいてそこから流れだし、いたるところにあなたのよろこびの反映を運んで行くように! (S. 12 Zn. 5-7)

 この杯の比喩はリヒャルト・シュトラウスの『献呈』(Zueignung)(作品10-1、詩はギルム(Hermann von Gilm))を思い出させるところがあるが、ここでは杯を満たしてくれるのは「女性」ではなく、「太陽」そのものなのだ。ツァラトゥストラはこの時まで十年間、太陽からその「溢れこぼれるもの」(&Uuml;berfluss)を受け取ってきたのだ。そのツァラトゥストラが、今やみずから「溢れこぼれ」(&uuml;berfliessen)ようと欲しているのだ。キーワードは「溢れこぼれるもの」「過剰・過多・豊富」である。ツァラトゥストラは山にあって太陽の溢れこぼれる豊かさを受け取っていた時、「人間」ではなかった。名づければ「太陽の過剰な豊かさを受け取る者」だった。そうしてみずからも蜜を集めすぎた蜜蜂のように、溢れこぼれる豊かさに苦しむ者になった。彼の場合その溢れこぼれるものは「知恵」(Weisheit)と呼ばれる。「知恵」が溢れこぼれるもののツァラトゥストラ的な形である。そしてその「知恵」をいたるところに流れさせることによって、彼は太陽の「この上ないよろこび」を運び伝えてゆくのだ。「あなたのよろこびの反映」の「反映」(Abglanz)、それは流れる水とともにかがやく金色の光なのだが、それは、ツァラトゥストラが太陽から受け取った豊かさのツァラトゥストラ的な形としての「知恵」のことなのだ。ツァラトゥストラの「知恵」は溢れ流れながら金色にかがやくものを伝え与えて行くものなのである。
 であればこう言えるであろう。ツァラトゥストラのあふれる「知恵」の金色のかがやきを受け取る者、その者も人間ではないと。
 われわれはきっと、贈与のニーチェ的な思索の本質に迫ろうとしているのである。

62ほかいびと★:2007/12/04(火) 01:09:52

『▲5▼ 「国際交流」について考える』 のスレッドの7から抜粋いたします。

>『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の2でニーチェがツァラトゥストラについて、
>>彼は変身した (aber er hat sich verwandelt)とか
>>ツァラトゥストラは子どもになった (zum Kind ward Zarathustra)
>とか言うとき、ここにはたしかに「ある交流が成立した」ということが含意されているだろう。
>ツァラトゥストラの交流とは、太陽との交流であり、それ以外ではなく、
>従って彼の変身や生成は太陽への変身、太陽への生成以外のことではない。
>例えば「リゾーム」の中で、ドゥルーズ&ガタリが生成のことを語るときにも、
>その源にはこのツァラトゥストラの変身、子どもへの生成があるように思えるのだが。どうだろうか?

手塚富雄訳の「ツァラトゥストラ」(中央公論社版)を
小児がはじめて登場するところまで読み、
なぜか宮澤賢治や岡本太郎のことふと思い浮びました。
この本では子供を小児と訳してました。

獅子は鬼神に、
小児は人間と反対のことをするという
餓鬼に似てる部分があるようにおもいます。

リゾームを出されたのは無造作で自由気ままに増殖する
精神活動が野放し状態にあるということかなと理解しました。

青年→少年→幼年と辿るほど
自由で豊かな情念を普段から抱いてるのであり
そこに気付き、意識化し、現実の社会へ
芸術でも科学でも技術面でもよいから
成果を具現して周りの人々を脅かせ続けることが
大事なんでしょう。
そんなこと、おもいました。

63千手★:2007/12/04(火) 19:42:09
>>62
レスを有り難う。「リゾーム」を上げたのは「生成」のためです。
子ども≒餓鬼は思いがけない発想です。獅子≒鬼神も。
 ただ、餓鬼、鬼神についてもっと説明してもらえると有り難いのですが。
 ともあれ有り難う。

64千手★:2007/12/17(月) 00:03:34
 佐藤真さんの『サイード(out of place)』を観た。土地にすっかり根づいてしまってはいけない。また、根なし草になってもいけない。そういうメッセージと理解してよいのだろうか。
 あるいは、ひとはみな人種的にも民族的にも混血で、混血者として自分自身の(固有の)生を描いてゆかなければならない。そいういうメッセージと理解してよいのだろうか。とすればわたしはまったく賛同する。
 ただ映画で一つだけ気になったのはエンディングの曲がシューベルト(「即興曲」)だったことだ。やさしさ・そして傷み。シューベルトはその二つのキーワードで語れてしまうのではないだろうか? 世界のすべての音要素を断片とし、音楽テクストを織り進めてゆくための、シューベルトよりももっとふさわしい音楽があったのではないか。例えば『ヒュムネン』。エンディングに向くというわけではないかもしれないが。

65千手★:2007/12/17(月) 00:22:33
↑修正
http://25237720.at.webry.info/200712/article_13.html

66千手:2008/01/09(水) 21:41:03
ニーチェ論の余白に

 子供たちに時には美味しいものを食べさせてやりたい。わたしにはこれが非常に大きな喜びだ。そして肉は美味しい。旧石器時代の男たちもそういう喜びを感じながら獣を捕え、倒していたのだろう。
 そのことを肯定できない人は、自分がこの世に生きていることも肯定できないだろう。

 他者とは誰か、ひとはこの問いに抽象的にではなく答えなければならない。


"Was liegt an meinem Gl&uuml;cke! … Aber mein Gl&uuml;ck sollte das Dasein selber rechtfertigen!" (Friedrich Nietzsche, Zarathustra's Vorrede 3.)
「わたしの幸福は何だろう! …… わたしの幸福は、人間の存在そのものを肯定し、是認するものとならねばならない!」 (氷上英廣訳、岩波文庫)

67毛蟹:2008/01/10(木) 12:01:47
>>66
>そのことを肯定できない人は、自分がこの世に生きていることも肯定できないだろう。

小十郎は肯定できたのでしょうか?
「空腹」という神様だけが獣を殺すことを祝福し、「満腹」という褒美を与えるのではないでしょうか?
小十郎は、猟師として生きる以外にオプションがなかった、と自らに言うことができたのでしょうか?

68千手:2008/01/11(金) 00:03:34
>>67
「空腹」に対しては植物食の方が有効な戦略だったはずです。

他のオプション、というと、その点で宮沢賢治は小十郎を非常に特殊な存在として描いていることになると思います。
山菜採り、茸取り、川魚漁、炭焼きなどのオプションが当時の豊沢でもあり得たはずです。
実際松橋勝治さんは、後年には組合に入って炭焼きをやっていたということです。
その特殊性を賢治は適切に理解していなかったでしょう。
他の点はまた。

69千手:2008/01/11(金) 00:53:27
>>66ははじめどなたかのブログ
Vermischtes 高橋哲哉『国家と犠牲』
http://nob-kakigi.cocolog-nifty.com/vermischtes/2005/09/post_56b7.html
に対してコメントとして書いたものです。残念ながらそのコメントは消去されてしまいました・

70千手:2008/01/11(金) 00:58:28
>>67
小十郎は「是認(rechtfertigen)」していた。
しかしニーチェがいうように>>66、みずからの幸福のゆえにそれを是認したわけではないように見えます。

71千手:2008/02/24(日) 00:18:44
Tout autre n'est pas tout autre. 
すべての他者がまったき他者なわけではない。
この定式をジャック・デリダ(Jacques Derrida)とその追従者たちに提示したい。
デリダが提示した"tout autre est tout autre"(すべての他者は/まったき他者は、まったき他者だ/すべての他者だ)という定式を批判するためである(デリダ『死を与える』III)。

デリダはこの定式によって、息子イサクを殺そうとするアブラハムの状態を、万人がおかれているきわめてありふれた日常的な状態として提示したのである。デリダは、キルケゴールとレヴィナスを同時に標的にし、両者がともに、信仰と倫理とを分かつ境界を提示し得ないことを示したのであるが、しかしそれによってすべての人間(や生物)を「数量」として把握する思考に落ち込んでしまうのである。というのもすべての他者(すべての人間、すべての生物)がまったき他者であるならば、他者を把握するためには数量的な原理以外のものが不要になるだろうからだ。しかし、ニーチェが語るように、本質的に重要なものは「質」にあるのであり、「質的な差異」にあるのである。

わたしが開こうとしているのは、きわめてありふれた世界観に他ならない。しかしこの世界観は、アブラハム以前の、つまり三大一神教の誕生以前の思考と生活の地平を開くのではないだろうか。ともあれもういちど称えてみよう。
"Tout autre n'est pas tout autre." 
「すべての他者がまったき他者なわけではない」

72千手:2008/02/25(月) 23:59:19

http://25237720.at.webry.info/200802/article_6.html
補足あり

73千手:2008/02/28(木) 01:42:06
距離のパトス ニーチェ対デリダ

われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない。「距離のパトス」(Pathos der Distanz)。この概念である。われわれは「距離」の感情をもって関係し合うのである。そして「絶対的な隔たり」(デリダの「まったき他者」"tout autre")とはいつも錯覚であり、妄想であり、あるいは便宜であり、実用的のための道具である。

デリダの定式 "tout autre est tout autre" の源泉をなすであろうニーチェのアフォリズムを上げておく。
>"Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller &Uuml;brigen ausge&uuml;bt. Auch die Liebe zu Gott." (JGB, IV-67)
>「ひとりの者への愛は野蛮な行為である。なぜならひとりの者への愛はその他のすべての者の費用で営まれるからである。神への愛も同じである」(拙訳) (『善悪の彼岸』第四章67)
「費用」(Unkosten)という経済用語の方が、デリダの使う「犠牲」(sacrifice)という不器用な宗教用語よりも事柄を正しく説明するだろう。

アブラハムの物語についてのデリダの(おそらく故意の)読み誤りもひとつ指摘しておく。
>アブラハムが「我ここに」と言い、息子の喉をかき切ろうと刀を振り上げると、神は言う。「その子に手を下すな。」…… (ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫p.148)
 しかし言葉によってアブラハムの手をとどめるのは創世記では「神」ではなく、「天使」(angelus Domini)である。ここで「神」と「神の使い」との微小な差異をデリダは無視するのであるが、神の直接の言葉によって命じられた行為を、天使の言葉によって止めるのは、神に対する裏切りではないのか、という問題がここから起こって然るべきである。ちなみに別の箇所ではデリダも神と天使を区別している。

74千手:2008/02/28(木) 02:05:02

http://25237720.at.webry.info/200802/article_7.html
補足あり

75千手:2008/02/29(金) 03:10:29

次も書いてしまいました。不勉強を恥じるばかりです。これが因果というものか。
http://25237720.at.webry.info/200802/article_8.html
もう一歩だけ、ニーチェの距離のパトスについて書いて、このシリーズは終了します。
後日再開すると思いますが。

76<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

77千手★:2008/03/02(日) 03:41:21

迷惑サイトからの書き込みがあったので削除しました。
発信アドレスは以下でした。
NWTfb-04p2-194.ppp11.odn.ad.jp

78senju:2008/03/02(日) 04:00:02
>>75の内容を再録しておきます。
隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2
(承前)
デリダはこう言っている。マタイ伝6-6の「隠れたところで見ておられる父は……」(共同訳)を註釈して語っているところにおいてである。(ちなみに邦訳『死を与える』ちくま文庫p.186の「in absconditio」は「in abscondito」の誤り。また、"abscondito"は対格ではなく奪格なので、それを「<u>隠れたことを</u>見ておられる」とする訳も誤りであろう)
> 神は私を見る、隠れたところで私の内の私を見る、だが私は神を見ない、神が私を見るのを私は見ない、神のほうは、私が背を向ける精神分析医とは違って、正面から私を見るというのに。神が私を見るのを私は見ないのだから、<u>私は神の声を聞くことができるだけであり</u>、またそうしなければならない。<em>だが多くの場合</em>、誰かが神を、聞くべきものとして私に与えてくれなければならない。<u>神が私に言うことを、私はある他者の声で語られて聞く。別の他者、つまり使者、天使</u>、預言者、メシア、知らせの配達人、知らせをもたらす人、福音伝道師、神と私の間で語る仲介者<u>などを通して聞くのだ</u>。神と私のあいだ、他者と私の間には、対面関係もなく、視線の交叉もない。神は私に視線を向けるが私は神を見ない。しかしそれにもかかわらず私を見るこの視線から、私の責任がはじまるのだ。
 (ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫、p.186。一部改め。強調は引用者)

長々と引用したが、こうした文章を読んでいると、神が私に直接「語る」ということはないかのごとくに思えてくるだろう。だが、創世記二十二章において神がアブラハムに、その愛する息子イサクを燔祭として捧げるように命じる時、「神は彼に向かって言った」(Deus dixit ad eum)と記されているのである。何の仲介者もなくである。これは神が直接人に語るということがあると考えられていたということではないか?
 そしてデリダ自身も、おそらくそれに気づいていて、こっそりと「だが多くの場合」(mais le plus souvent)と断りを入れているのである。
 デリダ自身は前回わたしが指摘した問題点、つまり「神が語る」と「天使が語る」との間の微妙ではあるが歴然とした差異を、どう考えるのだろうか。そして神の語ったことと相反することをいう天使の言葉を、アブラハムはどう考えたと考えるのだろう。「神が語る」と「天使が語る」の間には差異がないと考えたと考えるのだろうか? しかし「多くの場合」という逃げ道では、創世記の歴然とした記述の差異を完全にくぐり抜けることはできないであろう。

79毛蟹:2008/03/02(日) 09:33:30
僕が思うに一神教の神様は「掟の門前」の掟のようなものであり、もしこの神様(掟)が万物の創造者であるというなら、万物は人間の被造物だということになってしまう。

80毛蟹:2008/03/02(日) 10:28:11
某キリスト教系宗教団体のプロパガンダ紙に「科学の進歩は神の存在を揺ぎないものにする」というようなことが書かれていた。宇宙には秩序を持ったものしか存在しておらず、この秩序こそ神の徴なのだそうだ。ふむふむ。したがって極微の世界から宇宙まで、生物、無生物を問わず科学者は万物に神の痕跡を見出すべく日々精進しているとのことであった。

81毛蟹:2008/03/02(日) 18:59:26
>>73
>われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない

この文章の主語がなぜ「われわれ」という複数形になっているのか教えてください。

82千手:2008/03/04(火) 04:10:47
>>81
ニーチェを知り、かつ"Tout autre n'est pas tout autre"という主張を
デリダの"tout autre est tout autre"という定式に対抗させたいと思う者は
ぐらいのことです。
もっとくだけば、「絶対的な他者」という概念が空虚であると考え、そのことをどう表現できるかを考える者はと言い換えてもよいとおもいます。

83千手:2008/03/04(火) 04:22:04
『死を与える』(ちくま学芸文庫版)はデリダがマタイ伝6-6として引く
"il voit dans le secret"
を一貫して「神は隠れたことを見たまい」と訳すのだが、一体どうすればこんな訳が可能なのか?
誤訳を執拗に押しつけている、としか見えないのだが。

84毛蟹:2008/03/04(火) 11:01:16
>82
ご返答ありがとうございます。
「われわれ」の中に僕が含まれていないことが確認できてスッキリしました。

85千手:2008/03/04(火) 19:04:21
>>80
その神様は奇跡は起せないわけですね。

86毛蟹:2008/03/04(火) 20:39:23
>>85
よくは知らないけどオフ中らしく、デーモンという名で休暇を楽しんでおられるとか。

87千手:2008/03/04(火) 23:35:13
>>82
デリダの天才、それは次のような神概念の提出にあります。
「神とは、内部では見えるが、外部では見えないような秘密を、私が守ることが出来るという可能性に付けられた名である」
(『死を与える』p.220)

言い換えると、「鉾走」ができることの根拠の名ですね。
これはまったく天才的な神概念の転換ですね……。

今日明日でこの概念を検討し抜きたい。

88千手:2008/03/04(火) 23:37:52
>>86
神様もうかうかしているとアホな天使が勝手に奇跡を起こしてしまいますよ。

89千手:2008/03/05(水) 12:16:23
>>87
原典を紹介しておきます。
Dieu est le nom de la possibilit&eacute; pour moi de garder un secret qui est visible &agrave; l'int&eacute;rieur mais non &agrave; l'ext&eacute;rieur. ("Donner la mort" p.147)
デリダの『死を与える』の中で最も重要な言葉だと思います。

90千手:2008/03/05(水) 12:25:13
>>84
>「われわれ」の中に僕が含まれていないことが確認できてスッキリしました。
ほんとうに含まれていないんでしょうか?

91毛蟹:2008/03/05(水) 18:50:52
>>90
僕は千手さんの語り口や身振りが嫌いではありません。しかしそれは自分が望んであなたのテキストを読む時に限られます。掲示板は本ではありません。僕は何ら予告もなく唐突に議論の中に己が組み込まれるのを善しとしません。

何を語るかよりもどのような語り口で語るのかについて人はあまりにも無頓着です。もちろん自戒を込めて。

92毛蟹:2008/03/05(水) 19:12:08
>>87
>これはまったく天才的な神概念の転換ですね……。

>今日明日でこの概念を検討し抜きたい。

この語り口は心地良いです。>90と91は無視して続けてください。オーディエンスは酷薄なものです。
僕はデリダの「掟の門前」で一神教の神さまの正体を見せてもらった気がしています。その先をどうぞ。

93千手:2008/03/06(木) 00:35:31
>>89
しかしここで「秘密が守られる」(garder un secret)とすると、あの"tout autre"(述語の方の)が復活してしまう。生きてしまう。
デリダの勝ちなのだろうか?
いや、これも距離(Distanz)の一つの形か?
ニーチェが考えるような超人は千の隔たり、万の隔たりをこともなくわがものとする浪費家だ。何一つ秘密にする、隠す、ということがないが、その存在(本質)自体が秘密でありつづけてしまうのだ。
「秘密を守る」ということ自体せせこましいことだ、とニーチェならデリダと、そしてアブラハムに言うことだろう。
小人にとっては「すべての他者はまったき他者だ」。
同じく、小人にとって「神はまったき他者だ」。
デリダ君、これでよろしいか?

94千手:2008/03/06(木) 00:40:07
>>93
「ペルセポリス演舞場」を併設しよう、かな。

95毛蟹:2008/03/06(木) 00:40:49
>>90
僕は、神様が直接語ったか、天使が語ったか、そんな議論に組したくない。
神様なんて人間の作ったものじゃないか。

96毛蟹:2008/03/06(木) 00:54:41
>>93
それで結構。「神はまったき他者」です。

97千手:2008/03/06(木) 00:59:24
すべての力は隔たり(Distanz)をもって関係し合う。 

(ニーチェ・ドゥルーズ)

98千手:2008/03/06(木) 01:11:38
>>97
それゆえ、"tout autre n'est pas tout autre"である。

99千手:2008/03/06(木) 01:50:58
>>87,>>89,>>93,>>97,>>98
マイ・ブログに収録
http://25237720.at.webry.info/200803/article_1.html

100千手:2008/03/06(木) 02:47:50
>>96
毛蟹さん

>>87
の引用でデリダが提出しているのは外部に存在している神ではなく、内面性においてのみ問題になる神です。
きわめて短い引用で誤解させてしまっているかもしれません。
できれば『死を与える』のご一読を。

101毛蟹:2008/03/06(木) 13:40:40
>>100
僕はもっぱら痰つぼとか便器として神様を重宝しています。

102千手:2008/03/06(木) 17:28:21
>>101
そう言われると、毛蟹さんのために「ニーチェ対デリダ」をもう一節書かなければならないかもしれない。
デリダはなぜ「秘密」を必須の要件とするのか。語れば伝達される何事かが存在するのでなければ、「秘密を守る」ことに何の意味もありますまい。
「秘密を守る」ということがデリダにとって何か意味をもつのか?
語れば伝達される何事かが存在する場面で、デリダは「私が秘密を守ることの可能性」を考えているのか?
それとも創世記のアブラハムとマタイ伝6-6を出発点にもってきたために取っている論述の形にすぎないのか?
ここでも「距離のパトス」を語るニーチェが勝利しているようにみえます。
距離のパトスは秘密ではない。ただそれは語れない。肯定するかどうか。
そこに最大の重さが掛かっている。
デリダもそのことを言いたいのではないのか?
つまり、神とは(距離のパトスの)肯定を可能にするものの名のことであると。

103毛蟹:2008/03/06(木) 19:31:50
>>102
便器のほうが実用的。

104毛蟹:2008/03/06(木) 20:01:34
神様では尻も拭けない。脱糞後にその不在に気付く時、カミの有り難味を痛感する。

105毛蟹:2008/03/06(木) 20:30:09
神を語る資格のあるものは、自分以外の全ての人間から絞り尽くした血よりも自分の血の一滴のほうがはるかに価値があると思う人間か、その逆の人間だけです。

106千手:2008/03/06(木) 21:12:11
くわばらくわばら。

107千手:2008/03/07(金) 00:07:49
>>102
http://25237720.at.webry.info/200803/article_2.html
に再録。

108衒学者:2008/03/07(金) 22:02:58
デリダ言うところの「秘密」とはおそらく概念のことではなく、
選択しうる行動の一つのことを言っているだけなのではないでしょうか。
「隔たりを埋めようとするときの自己」は既に「他者と隔たっていたときの自己」とは違うから、
(隔たりを埋められるところの他者も同様でしょう)
「他者」または「自己」という概念を「使う」とき、それらは定義として「隔たった二つの現存在」となっていなければならないのでしょう。

千手さんが言う他者がまったく他者でない可能性もあるという話は、
前述のように『概念を「使う」とき』、その行動の一部分にミスがある可能性を指摘しているということなのでしょう。
ですがそれは、概念としての「他者」が世界内から完全に消えることを意味しません。なぜなら、
現存在は時間の中で常に存在的にも存在論的にも変化しており、あらゆる「他者」に接近していって隔たりが消えたとしても、
新たな「質の差異」を持つ他者は生まれてくるからです。
更に言えば、「質の差異」を理解することが完全な「他者」理解というわけでもないでしょう。


また、デリダが「他者」の定義にさかのぼり、
「他者」が「まったくの他者」であることを強調したのには、
新たな他者理解の地平を作り出すためのスタートとなる基準地点にまで戻る必要があったからではないでしょうか。
もちろん、数量的理解も質的理解もそういった理解の中の一部でしかないでしょう。
そして結局、どのような他者理解を行うにせよ、それらの議論はすべて政治的、経済的な問題なのです。
またそのような状況では、「他者」や「自己」といった言葉が本来の定義から離れ、サブリミナル効果的なキャッチフレーズとして、
いい様に利用されかねない危険があるわけです。
デリダはそのような状況で、「倫理」を再構築してみせることで(時にはそのスタート地点となる極論的定義に戻るとしても)
「倫理」が忘却されることを防ぎます。また、再構築された「倫理」を現実に積極的に適用することで、
「倫理」のその本来の機能に即した更新を目指します。
ですから、「他者」を理解するという行為が、良い意味でも悪い意味でも「数量的」になりうる事の確認自体は
一つの確認としてむしろ有用だということなのです。
そして前述のように、「他者」は二通りの意味(時間に即した変化、誤認識の解消)で変わりうります。
もちろん変わらない場合というのは、ニーチェ言うところの「距離のパトス」が存在する場合でしょう。
よって、「他者」はまったき「他者」であると言い放つことは、
論理的にも倫理的にも間違ったことではないでしょう。
誰かを名指しにして、「彼はまったくの他者だ」と言うのとは状況が違いますからね。

109Verschwender★:2008/03/08(土) 03:21:49
>>108
Who ? are you?
「眩学者」を名乗っていることはわかりますが。
確か、新しく登場する時は、自己紹介をしてもらうことになっていたと思います。
ともあれまずは自己紹介をお願いします。

110千手:2008/03/08(土) 03:35:03
>>108
まったく何も理解できません。
眩学者ならまだいいのかもしれませんが、雑学者はお断りです。
雑学者ではないことを示す何らかの明晰な語りをして下さい。つまり、明確に依拠するテキスト(デリダのどのテキストのどの文か)を示した上で何かを言って下さい。
客人は歓迎だし、何かを明確に教えてもらえるなら有り難いことですが、とりあえず>>108は何を言っているかよくわかりません。返答不能です。悪しからず。

111千手:2008/03/08(土) 03:43:27
>>108
>千手さんが言う他者がまったく他者でない可能性もあるという話は

私が"tout autre n'est pas tout autre"と言うとき、私は(まったき他者としての)神は存在しないと言っているのです。
そしてまた(まったき他者としての)他人も存在しないと言っているのです。

わたしがまだ誤解の余地の多い語りをしていることも、まだ的確にニーチェの「距離(のパトス)」を説明していないことも承知していますが。

112千手:2008/03/08(土) 04:11:55
>>108
ニーチェは貴族的社会について
"eine Geselschaft, welche an eine lange Leiter der Rangordnung und Werthverschiedenheit von Mensch und Mensch glaubt"(JGB 257)
と説明しています。人と人との隔たり、差異を、"Leiter"(梯子)と言い表わしていることにわたしは注目しています。
何段も何段もあるけど、そしてそれぞれの段の中での物事の感じ方は他の段それとまるっきり違っているのでしょうが、そかしそれにしてもそれらの段は、ひとつの尺度の中に置かれるのです。
眩学者さんはこれについてどう考えるのでしょう?

113千手:2008/03/08(土) 04:30:45
>>108
もう一つたずねておきましょう。>>108で語られていることは、デリダが『死を与える』で問題にしていることと何の関係もないように見えるのですが
一体デリダの『死を与える』のどの主張とどう関係しているとお考えなのでしょうか? お答え下さい。
>>110と同じ疑問になってしまったようですが)

114毛蟹:2008/03/08(土) 09:45:14
>>109〜113
くわばらくわばら。

115Pentatonics:2008/03/09(日) 09:18:31
一部で勘違いされている方があるようですので、
野暮を承知で確認しておきます。
108の衒学者さんは、私ではありません。

116<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

117千手★:2008/03/11(火) 23:31:11
>>116
迷惑投稿があったので削除しました。

投稿日時:2008/03/11(火) 07:38:37
ホスト名:ntt5-ppp8.west.sannet.ne.jp
IPアドレス:211.133.160.39

118毛蟹:2008/03/13(木) 22:04:05
廃墟でたばこを一服。ふぅー

119千手:2008/03/24(月) 21:51:20
>>105
>神を語る資格のあるものは、自分以外の全ての人間から絞り尽くした血よりも自分の血の一滴のほうがはるかに価値があると思う人間か、その逆の人間だけです。

「神を語る資格のあるもの」を云々する資格を毛蟹さんはどこから手に入れたのですか?

120毛蟹:2008/03/24(月) 23:43:49
>>119
資格など要りません。そんなライセンスがここ(ペルセポリス)で必要なのですか。

121千手:2008/03/25(火) 01:21:17
>>120
とすると神を語るにも「資格」は要らないわけですね。
とすれば>>105の言明は>>120と矛盾することになりませんか?

122毛蟹:2008/03/25(火) 10:27:52
>>121
レス105を投稿した3月6日の毛蟹はかつて経験したことのないサイテーの精神状態に見舞われ嘔吐していました。吐いてから19日も経った干からびたゲロ(レス105)のチェックをしていただけるのであれば「資格」などという不用意な言葉が混じらぬような体裁のよいゲロを吐く訓練をしておけばよかったと反省しております。

123千手:2008/03/25(火) 21:57:05
>>122
健康回復を祈ります。

124千手:2008/03/26(水) 08:18:36
このところ「薬物ギョーザ事件」への対応から始まって、
「チベット騒乱」、「米ロ2+2会談」、「台湾総統選挙」とアジアニュースから目が離せないでいましたが
結局はよく分からない。〔「米」vs「中+ロ」〕体制から〔「米+ロ」vs「中」〕体制へ移行してゆくきっかけができてきたようには見えるが
内実がどこまで進んでいるのかはわからない。ロシアが手の内を見せていないのでどこも動けないように見える。
昨日は久しぶりに読むべきニュースがなかった。

125千手:2008/03/26(水) 08:44:02
またもう一つ感じたのは「米+中」によって世界の覇権を維持してゆこうとする動きがあるのかもしれない、ということだ。
やはり台湾からは目が離せない。

126千手:2008/03/26(水) 09:07:49
チベットがらみの人権問題、情報鎖国問題に関連して、独米と英仏の間にはだいぶ温度差があるように見える。
米国が中国寄りの姿勢を示していればどこでも独立運動の気勢はそがれる。
なかで鮮明だったのはチベット人に扮して騒動に加わっていた(扇動していた?)中国人警察官がいたのが写真つきで暴かれたことだ。

127千手:2008/03/27(木) 20:07:38
>>126
>チベット人に扮して騒動に加わっていた(扇動していた?)中国人警察官

上記の話は、情報ソースが少なすぎるので、真偽については現時点では「可疑」としておきます。

128千手:2008/03/27(木) 22:28:23
もっとか確実で重大な問題点は、あの劉荻ら30人の中国知識人の声明の5番指摘していることだ。
つまりラサで騒乱が発生した当日、チベット当局が、「これがダライ集団が計画的に引き起こした事件であるとする十分な証拠をもっている」
と説明したことだ。
 チベット当局は、予め知りながら、有効な措置を取らずに騒乱を発生させたか、あるいは当局自体がこの騒乱を扇動し、発生させたか、どちらかになる、ということだ。

129千手:2008/03/30(日) 15:39:20
「神は人間がつくった」という主張は不毛だ。
「誰が、何を、何のために(=何を狙って)神と名づけたのか」と問わなければならない。
これが多元論的な神の問い方だ。

130千手:2008/03/30(日) 15:44:00
「誰が」というのは「どういうタイプの人間が」、ということだ。

この問い方を学べ。
われわれにそんな暇な時間があるわけじゃない。

131千手:2008/03/30(日) 15:47:48
たとえば姑息な人間は「神」をどのように利用しようとするか。

132千手:2008/03/30(日) 15:53:33
弱い人間はどのような「神」をどのように役立てようとするか。

「神は人間が作ったものだ」と言って満足していると、「神問題」のおぞましい全領域をそのまま手つかずに取り逃がしてしまうだろう。

133毛蟹:2008/03/30(日) 21:02:32
掲示板に投稿された文章を僕に語る主体が投稿者なのか僕なのか、僕には判別できません。おそらくそのどちらの声でも投稿の内容には届かないでしょう。それは僕の限界でもあるだろうし、そればかりでもないだろうとも思います。内田樹さんの言う「うなぎ@村上春樹」に語らせることができなければこういう場で発言してはダメなんだと思いました。そうゆう理由で退場です。

134毛蟹:2008/03/30(日) 21:21:41
>>133
>おそらくそのどちらの声でも投稿の内容には届かないでしょう。

おそらくそのどちらの声でも投稿者の言いたいことは僕には伝わらないでしょう。に訂正します。

135千手:2008/03/31(月) 06:22:21
>>133

>>129はすでに毛蟹さんにターゲットしていません。
もちろん発言の元は毛蟹さんの発言にありますが。
うなぎではありませんがわたしも逃げてゆくのです。
多元論こそ最も強力な無神論であること、このことを示したいということです。

136千手:2008/03/31(月) 06:42:13
デリダの「神とは……の名だ」という結論的表現は、
デリダがこのニーチェ的な多元論の方法に従って論を組み立てていっていることを示しています。
わたしはそれを理解した上で、「秘密」が必要かとデリダに問うのです。
わたしにとってこの議論の中で本当のうなぎはデリダです。
このうなぎとりに役立たない議論にはあまり関心をもちません。それを無礼に感じるかもしれませんが。
『死を与える』のデリダうなぎに釘を打てたか?
打てたつもりでいます。
次ぎは「Donner le temps」のうなぎに釘を打ちたいと思っています。

137千手:2008/03/31(月) 06:51:44
>わたしはそれを理解した上で、「秘密」が必要かとデリダに問うのです

これ(「秘密」を必要とした論の展開)は狂暴な民主主義時代におけるうなぎの生息方法、生存戦略には違いありません。

138千手:2008/03/31(月) 07:02:07
>>133
>こういう場

あなたは逃げるも加わるも自由です。
ここは演舞場です。

139千手:2008/04/01(火) 00:25:20
>>126,>>127
一応ソースを紹介しておきます。
http://en.epochtimes.com/news/8-3-29/67906.html
修正済み写真の方をどういう機関が出したのか、それがもっとわかればいいのですが。

140千手:2008/04/09(水) 12:41:40
あの小泉義之さんのブログを発見。
http://d.hatena.ne.jp/desdel/
けれど期限つきで、もう終了してしまったようです。
ものすごい勉強家!!

141E嬢:2008/04/09(水) 16:25:02
>>140

面白いので、サクサク読んでしまいました。
今度は、ジックリ読んでみようと思います。

142千手:2008/04/17(木) 20:54:08
Ein Buch f&uuml;r Alle und Keinen (ツァラ・ゼミ8)

ツァラ・ゼミを再開する。こういう仕事もついでの時間がないとできないのだが、さいわい京都造形芸術大学で「ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読む」という授業をさせてもらえることになったので、これを機会に『ツァラトゥストラ』の読解を進めさせてもらう。授業は日本語訳を出発点にして読み進めてゆくのだが、それでも当然内容をきちんと検討するためにはドイツ語の原文に戻って点検しなければならない。このブログでは、前と同じように、論を進めてゆく。日本語がわかれば論旨は理解ができるようにするが、その論証の正しさを理解してもらうためにはところどころドイツ語の理解を必要とする、といったところだ。この授業を機会に、手塚富雄訳(中公クラシックスw17)を手に入れたので、叩き台にするものが増えた。しかし日本語訳の出発点にするのは、今回も同じく氷上英廣訳、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』である。まずは「序説」を最後までやりたいと思っているが、いろいろな都合でどうなるかわからない。先のシリーズでは授業では説明したが、説明がかなりやっかいなところは幾つか飛ばした。今回はそういうところを補えればいいのだが。その余裕があるかどうかは、まあ、やってみなければわからないことだ。まずは4月15日の授業で考えた、巻頭の、"Also sprach Zarahtustra."というタイトルの下につけられた"Ein Buch f&uuml;r Alle und Keinen"という添辞について述べてみよう。

 その添辞というか、「副題」というよりはコメントに近いと思われるその言葉は、次のように訳されている。

1.「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」 氷上英廣訳、岩波文庫。
2.「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」 吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫
3.「万人に与える書、何びとにも与えぬ書」 手塚富雄訳、中公クラシックス

三者三様の訳、と言えるかもしれない。けれど一番分かりやすいのは氷上氏の訳だ。読者に向かって、ちょっと高踏的に、お前たちのだれでも文章は読めるだろうが、内容は誰にも分からないだろう。そんな本だ、と構えているところを見せているのだ、というわけである。なるほど確かにわかりそうな気がする。しかし、もしこの本は「だれに読めない」本だと宣言するのであれば、何でそんな本を公にするのであろうか? 
 実際わたしには、この問いを問うだけで、ニーチェがこの言葉にこめたものにまっすぐにたどりつくことができるように思う。だがしばらく寄り道をしよう。
2.「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」の吉沢訳であるが、これはドイツ語の文字どおりの逐語訳に近い。それだけに訳者がそこにどういうメッセージを読み取っているのか示してもらいたいところだが、吉沢訳んぼ巻末につけられた豊富な注にも、この「添辞」の解釈は見当たらない。となると、訳者がどう解釈したかわkらないままである。しかしこの短い訳文からも、わたしなら決してそうは訳さないところが見出せる。それは「ための、そして」の間の「、」だ。後で述べるが、わたしはこの「、」が誤りだと思うのである。
3.の手塚訳は、まるで正岡子規の『歌よみに与える書』を思い出させる。おそらく訳者の念頭に浮かんでいたものに違いない。しかしこの「万人に与える書、何びとにも与えぬ書」は何か滑稽である。「万人に与える書」の方はお前らみんなこれを読んで勉強しておけ、というような高慢な姿勢として理解できるのであるが、しかしその同じ高慢な調子で「何人にも与えぬ書」とやられると、それなら自分の部屋に積んでおいてベッド代わりにするか、あるいは寒いときには薪にでもされたらよいでしょう、と言いたい気になる。つまり、この後半は「お願いだからもらっておくれ」と言いたいのに、言えないで、さびしくしている自尊心のお高い男のセリフにしかみえないのである。それにそもそもどうして「与える」などという訳語が出てくるのだろうか? "f&uuml;r"に与えるという上から下への視線を読み取るのは誤りである。"f&uuml;r"は、「〜向きの」、あるいは、「〜のための」というぐらいの意味である。誰に、あるいは何にフィットするか、というようなことである。その後に"gegeben"(与えた)が省略されているのだ、と言い張る人がいるかもしれないが、それなら"f&uuml;r"ではなく、"Alle""Keinen"も3格にして語るはずだ。手塚訳は、一応日本語にはなっているが、一貫した解釈ができているとは言い難い訳だ。

143千手:2008/04/17(木) 20:55:01
(つづき)
 今やわたしの解釈を示さなければならない。わたしの解釈は氷上訳をさらに進めることによって導かれてくるものだが、それは、「この書を読むことによって、この書にふさわしい人が生まれてくる」ということを願って付けられた添辞だろう、ということだ。とすると読者はどこにいるのだろうか。まさにこの"und"(「と」、英語の"and"に相当)のところにである。ひとは、読者は、この「万人」("Alle")と「無人」("Keinen")の丁度中間にあり、同時に「万人」であり「無人」であるのである。ひとは生成の中に置かれる。
 この拙論の読者はジル・ドゥルーズが純粋な生成を性格づけるために語る「同時に二方向」("deux sens &agrave; la fois")という定式を思い出すかもしれない。ニーチェの"f&uuml;r Alle und Keinen"という定式をきちんと考えようとすれば、ひとはこのドゥルーズの定式に達するのである(だから"und"を「、」で区切る訳は誤りなのだ)。
 ニーチェの「添辞(副題)」を訳してみよう、「万人であり同時に何者でもない者のための書」。「生成する者のための書」と訳してもいいかもしれない。こう訳せば立派な副題である。『ツァラトゥストラ』を読む人は、この「生成する者のための書」という副題の主旨を最後まで忘れないでほしい。

144<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

145<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

146千手:2008/05/23(金) 20:04:45
>>144,>>145
ブログに掲載したので削除しました

147千手:2008/05/24(土) 12:24:54
>グルジア領内にありながらグルジアの統治が及ばない「国内国」が南オセチアとアブハジア。
このふたつの「地域」にロシア軍が駐留しており、これら「未承認国家」を「国家」クラスに格上げして、「正式の外交関係を結ぶ」とした大統領命令に、プーチンがサインしたのは4月16日だった。
> 後継メドベージェフ政権になってロシアの領土的野心は、さらに露骨になった。
 「南オセチア」を「北オセチア」と合邦(合併)させて、その新国家の独立を直ちに承認し、続けて「ロシア連邦」に加盟させる。
(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第2196号より)

こういうニュースを聞くと、プーチンと戦ってみたいという気になる。中国を敵国に想定する北野幸伯さんの見方ではこれからはまずいと思う。

148千手:2008/06/19(木) 23:33:26
イランが欧州金融セクターから資産を引き揚げはじめているという(RPE No.523)。
資産凍結を予期してのことだろう。
近々イラン攻撃が始まるか?
北朝鮮のテロ支援国家指定解除と連動してのことだろう。
ペルセポリスが灰になるか?

149千手:2008/06/20(金) 00:17:13
バクダッド次はテヘランを滅ぼすと
ペルセポリスの破壊者の裔

150<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

151<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

152千手:2008/07/23(水) 06:22:38

美留軒のはなし、修正のため削除しました。修正したものは、
http://25237720.at.webry.info/200807/article_3.html
をお読み下さい。

153千手:2008/08/02(土) 14:32:43
ブログに書いたものを再録しておきます。
http://25237720.at.webry.info/200808/article_1.html

神の定義2

先にわたしの「神の定義」の試みを示した。フランス語で。まずそれを日本語にして示しておこう。

神とは、わたしが、内面的に感知されるものである距離のパトスを肯定することを可能にするものの名前である。
  ---中路正恒---

ちなみにフランス語の方は以下である。
Dieu est le nom de la possibilit&eacute; pour moi d'affirmer le pathos de la distanz qui est sensible &agrave; l'int&eacute;rieur.
--- Masatsune Nakaji ---

 このように定義される神であれば、それをニーチェが否定することはありえない。逆である。全力を挙げて肯定するであろう。距離パトスの肯定以外に、永遠回帰の思想が教えることはないのだから。

 デリダが『死を与える』の中で提示している神の定義との対比は後に行なう。まずとりあえずは本ブログの「ニーチェ対デリダ」を参照していただきたい。

154毛蟹:2008/08/03(日) 11:05:44
>>153
他者のブログをペルセポリスで引用するなら、それを考察の対象としなければならないと思います。
ペルセポリスを運営者の個人的な目的に奉仕させようとするなら誰もエントリーしなくなるのは当然です。

155毛蟹:2008/08/03(日) 11:10:51
ブログとペルセポリスの二股は自演になるということです。

156千手:2008/08/05(火) 08:50:22
>>154
ご意見ありがとう。

この掲示板の主旨は「板情報」に書かれている通りです。

>ペルセポリス (高速度ゼミナール)
> 議論を戦わせ、思考を鍛えてゆきましょう。ここからのヒントでものを書いた方はその明示とご連絡を。(代表中路正恒 責任管理)

157千手:2008/08/05(火) 09:06:27
>>156

"le nom de la possibilit&eacute;"
a.「可能性の名前」(ブログ・現)
b.「可能にするものの名前」(ペルセポリス・哲学153)
この二つは当初は訳し方の違いと思っていたのですが、展開すれば別のことになるかもしれません。
ペルセポリスで議論するために、自分のブログであれば著作権上の問題もないので、原則べつのところを参照する必要はないようにしておきたい、というだけのことです。
議論がなければ打ち捨てるのも当然です。
ブログの方は修正が容易だという利点があります。必要な修正は随時行なっています。

158千手:2008/08/05(火) 09:17:28
墓参り(松山)と出雲大社の本殿特別拝観に行ってきました。

159毛蟹:2008/08/05(火) 12:24:20
>>157
>ペルセポリスで議論するために、自分のブログであれば著作権上の問題もないので、原則べつのところを参照する必要はないようにしておきたい、というだけのことです。

著作権?他者の著作物を掲示板に引用すると著作権上の問題が生じる恐れがあると?
もしそのような問題が実際に発生する確率が1パーセントでもあるとしたら、僕はペルセポリスの運営者に迷惑が掛からぬようにまず自分のブログを立ち上げ、そこに引用したいテキストを収めてから引っ張りださなくてはいけませんね。でもそれは滑稽なことですね。

ペルセポリスで論考を試し、ブログで著作権を確定する。正直に言ってセコイ印象を免れないと思います。とんだ誤解だということであればブログとペルセポリスの関係について納得のゆく説明をお願いします。

160千手:2008/08/05(火) 15:17:57
ペルセポリスは誰もが議論を研くために使ったらいい。
参加者がそれぞれ自分のブログを立ち上げ、それぞれの議論でペルセポリスへのリンクを張ってくれたらいいとずいぶん以前から言っていたものを、誰もそれをやってくれない。
毛蟹さんもまずそれを自分でやってごらんなさい。

161千手:2008/08/05(火) 15:18:59
著作権はペルセポリスに発表した時点で生じます。誤解ないように。

162毛蟹:2008/08/05(火) 20:52:16
>>161
ゴッホの絵の贋作を描いて「私のオリジナルだ」というバカはいません。著作権なんてそんなもんですよ。それを必要とする人間が考え出したものです。

163毛蟹:2008/08/05(火) 21:39:50
>>160
>参加者がそれぞれ自分のブログを立ち上げ、それぞれの議論でペルセポリスへのリンクを張ってくれたらいいとずいぶん以前から言っていたものを、誰もそれをやってくれない。

千手さんと同じようにやったらどうなるか、皆さんよくわかっているんじゃないでしょうか。

164千手:2008/08/06(水) 11:08:41
私の第3ブログ、6月半ばのある日、一日3000アクセスを越えた。
だがそういうことがわかってみると逆にアクセス数なるものに興味を失う。
それに病みつきになるひともいるのだろうが。

また、毎日1万アクセスぐらいになるとステータスから何から違ってくるのだろうけど。

165毛蟹:2008/08/09(土) 09:52:29
「ニーチェ対デリダ」のスレッドの意味がわかりません。
千手さんにとって1つのテーマを2つの机(ブログとペルセポリス)を使って考えることに積極的な意味があるのかも知れません。しかし読み手にとって何の意味があるでしょう。ご紹介のとおり「ニーチェ対デリダ」の全てのエントリーは千手さんのブログで閲覧可能です。読み手からすると両者の関係は卵とニワトリの関係でしかない。
ペルセポリスを閲覧する者は千手さんがブログを立てておられることを承知しています。
ブログで論考を完成し、それをペルセポリスにリンクして意見、感想を求める、つまり完成した論考を批判可能な対象としてペルセポリスで取り上げる、これなら意味があるでしょう。

166毛蟹:2008/08/09(土) 10:17:35
>165を「ニーチェ対デリダ」のスレッドに差し込まなかった(差し込むのを躊躇した)理由を想像してください。
僕が言わなければならないと思ったことはこれで全て言いました。

167千手:2008/08/09(土) 14:28:20
>>165
纏めておけばこれだけ見て議論の概要を掴めるはずです。それがメリットです。

>ペルセポリスを閲覧する者は千手さんがブログを立てておられることを承知しています。

今後はそうでなくなることを予想しています。
現在もそういう知識を必要としていません。

168千手:2008/08/24(日) 13:52:43
>>165
参考にします。

169ほかいびと★:2008/09/05(金) 23:34:50
千手さん

トポイポイねっとで紹介されてた動画サイトYou tubeで見れる
Karlheinz Stockhausenの映像は英語?も
含め理解できませんでした。
また、「短波」のCDは5万円とか高価でまだ入手していません。

彼の音楽もよく解りませんが、ひとつの室内に4つでしょうか
複数の楽団がそれと同数の指揮者で演奏してたり、
4機のヘリコプターに4人のヴァイオリン奏者をそれぞれのヘリに乗せて
空中で弦楽四重奏のようなことをさせてたりとか、
なんの意味か解らないけど、不思議で子供でも興味を持ちそうな作品から
理解していけたらと、のんびりかまえております。

以前に、ウグイスの鳴き声を聴いてそれに応えるように
笛を吹いたことを書いておられましたが、
それもシュトックハウゼンに関係あるのかなと、想像してました。

170ほかいびと★:2008/09/06(土) 00:10:17

岩波書店から新しい「講座・哲学」が20年ぶりくらいに発刊が始まりました。
その中に美学が1巻含まれてるのでそれだけでも最低読みたいと思っています。

1980年代に出版された「講座・美学全5巻」は
夏にかけ一通り読み通しましたが、
その中のXenakisと今道友信の対談があり、
クセナキスが映像の音楽化を情熱的に語るくだりが最高に面白く、
あの時点で次の時代にたくされた
芸術概念上の最重要の課題だったのではないか!と、胸がときめきました。

でも、音楽的な素養も有りクセナキスを子供をあやすように理解してあげて、
助言する今道さえ、演奏家や画家など視覚芸術家がすぐにでも
具体的に表現できる実際の技法や譜面など概念も含めまったく
論文や理論を示せなかったというのにはがっかりしました。

京都造形美術大学の指導方針ばかりでなく、
全国のアート系の大学や専門学校の学生さんや卒業された方々が
CGアートなど動画サイトYou tubeに作品を発表するとのことですしたので、
期待して楽しみにして北京オリンピック期間に捜し廻ってました。
・・・・でも、学生さんのは見つけられず、そのかわり
造形大学の先生の西洋美術史の授業があったので、
それだけ見ました(でも、これもがっかりでしたヨ)。

他にはNHKの「デジタル・スタジアム」もあります。
ぜひ、クセナキスの夢を実現した「視覚の音楽化」を実現成功させて欲しいです。
私は演奏とか絵書きは全くしたことがなく表現出来ないので、
芸術学的な概念のほうを自分なりに空想で組み立てて考えてみたいです。

171ほかいびと★:2008/09/06(土) 00:14:44
170の訂正

京都造形美術大学→京都造形芸術大学 しつれいしました。

172毛蟹:2008/09/12(金) 09:31:21
ほかいびとさんご無沙汰です。

シュトックハウゼンのCDはSternklang-Diskという札幌のお店にオンライン注文されるとリーズナブルな価格で購入できます。

ちなみに「短波」は全集の13番(cd13)にあたります。
価格は¥3460+送料100です。

ただ、基本的に在庫はもっておらず毎月10日に注文を締め切り15日にドイツへ発注、翌月上旬に入荷という形態をとっています。

あまりフォローの良くないお店ですが(代金を入金してもなしのつぶて)、今までのところトラブルはありませんでした。

ご参考になれば幸いです。

173千手:2008/09/28(日) 12:05:41
http://25237720.at.webry.info/200809/article_6.html
折口信夫(釈迢空)の
よこしぶき 萬世橋にふる雪は はるかに過ぎて、明り來るなり
の歌を読解してみました(それを本歌とする自歌自注も付記)。ご検討いただければ幸いです。

174ほかいびと★:2008/09/28(日) 23:27:23

ポスト構造主義に影響を与えたとよくいわれてるニーチェを読んでる最中です。
自分の頭のレベル程度にですが、少しづつ解ってきました。
ニュートンが引力の法則を発見したり、
アインシュタインが相対性理論にたどり着くときまでの感、
ひらめきみたいなのを掴んだのと同じ様な気分で、
それまでの哲学の成果の成分を徹底して吟味批判し、
理性や真理といわれたものを捉え直し提出してくれてたんだなと感授しました。

もし、構造主義が出現しなくとも、ニーチェをちゃんと読んでいれば、
別のアプローチで現在の先進国の様態とほとんど変わらない
人文科学や政治体制が存在していたのではと思いました。

それとジル・ドゥルーズやデリダのようにしっかり読み込み、
論をさらに発展させることのできる人がもっともっと何十倍もの人が
出現してきてもいいのではとおもいます。

そのくらいニーチェの考えは根源的で強く豊潤であり、
とんでもない可能性を秘めてます。べつに私などが言わなくとも当然そうでしょう。
「善悪の彼岸」や「ツァラトゥストラはかく語りき」などは20代の頃に
読んでみてたのですがまったく歯がたたず理解できてませんでした。
しかし、いまは読んだぶんのかぎりですが理解できてるようなので安心してます。

感じることや思惟することは意思の素因だと彼は言っています。
この意思の捉え方は美学や芸術学にも応用して使えるでしょう。

未知でいて多くの人々、庶民にも受けそうな芸術ジャンルの探索や、
自然や人間観察上の人類にとって
未知の鑑賞法を提出できるよう考えてみたいです。

175ほかいびと★:2008/09/29(月) 00:27:39
>>172
毛蟹さま

しばらく掲示板を離れておりしつれいいたしました。
「短波」のレコード、ご紹介いただきまして、ありがとうございました。

今月はシュトックハウゼンやブーレーズ、クセナキス、メシアンなどの
音楽の解説書をコーヒーのカフェインに酔った気分で読んでいました。

レコードやFMを聞かないで、その音楽を映像、形、色、振動などを
ココロの中にアニメ化してその音楽の概念を楽しんでました。

私は音楽いうもの東北の民謡を除いてほとんど、
1970年代にとても流行ってた
歌謡曲さえ13才まで全く解らなかった者です。

音楽は学校で習ったのも含め轟音にしか感じない奇脳を所持してました。
音楽は見てあるいは音楽の説明文を何百回も読み直してしか理解できないんです。

ロックは2年ぐらい、JAZZもDJなど人の説明やJAZZの入門書や
解説書200冊以上は読みましたが、いつも苦しかったです。
でも、絶対に人並みに鑑賞したかったので我慢して聞いてましたが、
聞いて心地よくなるまで10年近くかかったとおもいます。
それまでは、すべて音や説明を抽象のアニメを頭に描いて理解するしかないんです。

「短波」は完全にはイメージ出来てませんが、おそらく勘違いの知識で
アニメ化してあります。音もいろんな自然音や楽器音で想像はしています。
始め、持続、終りとか。始め、中途半端、中途半端な終りとか。
実際「短波」聞いたときの違いの大きさが楽しみです。

メシアンの「音価と強度のモード」は説明読んでるだけで、抽象画のアニメが
ココロに涌いて止まりません。
音高、持続、強弱、音色。光を表現する要素は音より多数ありアニメ化がラクです。
シュトックハウゼンは音の位置の表現も付け加えたとか。
面白いです。それで、あの廻り移動するスピーカーだったのか・・・?。

レコードがない、それ以前にステレオも
ラジオもないっていうのは自由で表現豊かです。

音を聞かないで、さんざん音楽をココロでイメージして、飽きてから
実際にレコードを聞けるという幸福。
さて、どの辺の至福まで阿弥陀様はお導きくださるか。

176毛蟹:2008/10/05(日) 12:02:58
>>173

2つの歌の紹介ありがとうございます。

>よこしぶき 萬世橋にふる雪は はるかに過ぎて、明り來るなり

「萬世橋に立っていたときの私の生にはリアリティーがあった。生成の銀河の中にあって諸々の力と格闘していた。今、生成の銀河は私から遠く離れてしまった。」という印象を受けました。
僕がそう感じたのは、

>「明り來る」世は折口を必要としない世であろう。

このせいかもしれません。


>よこしぶき 隠元橋にふる雨のつめたく冷えてこほる心か

折口が上の歌でやったように千手さんも隠元橋に立っていたときの私と今の私をぶつけてほしいと思います。そうすることで私達は両者の比較が可能になるとおもいます。

177毛蟹:2008/10/05(日) 12:16:02
>>175

さすがほかいびとさん、ブレがありませんね。
雪舟画の3D鑑賞法を紹介していただいたときには批判めいたことを申しましたが今は3D鑑賞法が重要な指摘であり発見であるように思えてきました(とはいえ自分では試しておらず「アタマの中でアニメ化したもの」にすぎないのですが)。

178毛蟹:2008/10/05(日) 12:21:50
>>176

言い忘れました。
萬世橋の写真がとてもよかったです。

179千手:2008/10/07(火) 00:13:13
>>176,>>178
コメントありがとう。
隠元橋は昔でなく、今なのでしょう。

180千手:2008/10/13(月) 01:24:53
>>175
パソコンはお持ちなのでしょう。むかしパソコンでコピーした『短波』をお送りします。
コピーなので限度があると思いますが。
最初にデモ・レコードでこの曲の一部を聴いた時のことを少し思い出します。
そのレコードは人にも聴いてもらおうと思って「音研」の部室に置いておいたら、いつなまにか無くなってしまいました。

181千手:2008/10/25(土) 11:37:17
私にとって重要な論文である「なめとこ山の死の贈与」をUPしました。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_4.html
ご検討いただければ幸いです。

182毛蟹:2008/10/28(火) 09:04:16
>181

拝読しました。
感嘆しました。

山中智恵子と賢治の「瞬息」の時にこれほど長い時間とどまり、その「時」の特性を丁寧に解きほぐしてみせる(僕ですら分かる)著者の集中力と分析力に感嘆しました。「瞬息」を「直観」に置き換えてみると著者の「集中」の保持力と「直観」を呼び戻す力の強さが分かります。

何度も反復して読みたくなるテキストで、素晴らしい仕事だと思います。

183毛蟹:2008/10/28(火) 09:23:17
>181

「瞬息」において贈与されるのは「神性」のみならず贈与される側の「これまで生きてきた時間」も贈与されるのではないでしょうか。
つまり「わたしの中にある主観的な時間(わたしの歴史)」が「瞬息」に連結される、それも「贈与」ではないかなと考えてみました。

184千手:2008/10/28(火) 13:34:32
「この最終的な永遠の確認と封印以外の何ものをももはや望まないためにはお前はおまえ自身と生をどれほどいとおしまなければならないことだろう」
というニーチェの(『悦ばしい知識』341晩)と関連させると、
>贈与される側の「これまで生きてきた時間」も贈与される<
というこの贈与の対象は、「この永遠の確認」だということになるのでしょう。
 直観音楽を「何のために演奏するのか」の答えもまた、「この永遠の確認のため」となるのでしょう。

>>182,>>183の評、ありがとうございました。

185千手:2008/12/02(火) 21:16:13
Youtubeでみつけた田中角栄さんのスピーチ。
聞いてると並の漫才師ではとうていかなわないほどおもしろい。
感心した。
http://jp.youtube.com/watch?v=3IICS3Hsyy8

186千手:2008/12/04(木) 22:20:36
『正法眼蔵』四十六「無情説法」の中、
「いはんや空におふる樹木あり、雲におふる樹木あり。風火等のなかに所生長の百草万樹、おほよそ有情と学しつべきあり、無情と認ぜられざるあり、草木の人畜のごとくなるあり、有情無情いまだあきらめざるなり」
有情と無情の境を引くのはとても難しいからよく考えろ、と言っているのだが、なるほどと感心する。
だがこれは有情論、仏性論にとっては、きわめて本質的で斬新な提案ではなかろうか。

187千手:2008/12/09(火) 03:20:26
「無情説法の会下には、諸聖立地聴するなり。諸聖と無情と、聞を現成し、説を現成せしむ」
無情がする説法は諸聖が聴くというのだ。「無情説法諸聖聞得」とも言われる。

「無情すでに諸聖のために説法す、聖なりや、凡なりや」
無情がする説法は当然ありがたいものなのだ。

さらに
「無情説法、無情聞得」
これもおもしろい。無情のする説法は無情こそが聞きとり得る、ということか。人間も無情にならなければ無情のする説法を聞取り得ないのだ。
「無情説法什麼人得聞」とはそういうことだろう。

188千手:2008/12/09(火) 03:31:11
私がここで言っていることは、『法華経』如来寿量品14に
「是(これ)より來(このかた)、我常に此の娑婆世界に在りて、説法教化す」
と説かれていることに含まれている問題、つまりその場合常住の如来は一体どういう形で説法をしているのか、という問題に対する道元の、あるいは禅門の、答えをここに見出せるのではないかということなのだが、お分かりいただけただろうか?
これはこの前の「風日」の研究会で、堀田さんの発表を註釈して付け足して言ったことなのだが。

189千手:2008/12/09(火) 03:40:22
『正法眼蔵』の「無情説法」を私のように、法華経の根本主張が残している問題への解答として読み取ることが既になされているのかどうかを私は知らない。
或いは当り前のことかもしれず、また道元の専門学者からは問題にもされないことかもしれない。
誰か問うた事のある問題提起であり、解釈なのだろうか?
『正法眼蔵』を『法華経』から解釈するということは、あるいは『法華経』が残している問題に道元がどう取組んでいるかを考えるということは、日本仏教史の研究が当然しなければならない研究のはずなのだが。
 まあ、私も辻さんの本を読んでから言うべきなのだが、まずは最近発見したことを書きとどめておくことにしよう。

190千手:2008/12/09(火) 18:15:57
>>189
>>『正法眼蔵』の「無情説法」を私のように、法華経の根本主張が残している問題への解答として読み取ることが既になされているのかどうかを私は知らない。

webで調べたところ、『法華経』→『禅』という研究はなく、むしろ浄・禅関係で研究がされているようです。
「無情説法」の話です。

191千手:2008/12/31(水) 14:48:10
床田和隆さんのビデオ作品『ワイア(WAIA)』を観た感想。
http://25237720.at.webry.info/200812/article_3.html

192千手:2009/02/11(水) 22:49:45
ドゥルーズのこういう理論はどうでしょう?

コリントの例において、金属貨幣はまず(生産者)としての「貧しい者」に配布され、
彼らは土地に対する権利を買い取るためにこれを使用した。このとき貨幣は、停滞しないという条件、
つまり、貨幣と財および役務とのあいだのに等価交換が成立し、貧者は財または役務の形で、
富者は金銭の形で、富める者も貧しい者も全員が税を収めるという条件のもとで、富んだ者の手に渡るのである。
(『ミル・プラトー』13)

193千手:2009/02/11(水) 22:53:19
[承前]
貨幣はいつも権力装置によって配布されるのであり、財−役務−金銭のあいだの等価関係が成立するように、
保存、流通、循環という条件をともなって出現するのである。
(同前)

194千手:2009/02/12(木) 20:11:14
原国家(Urstaat)の仮説:
「国家というものは人類の最も遠い時代にまで遡るものである」
ドゥルーズはピエール・クラストルを、「未開社会を基体、すなわち自足した実体にした」として批判する。
MPp.444、訳本415頁

195千手:2009/02/26(木) 21:39:24
芸術大学の使命

芸術大学は
cultivating art (耕作芸術あるいは開墾芸術)
さらには
vegetating art (植物栽培芸術)
の学科を作るべきだ。
農学部とどこが違うって?
きっと大して違わない。
より実践的なところを狙っているだけのことだろう。

たとえば、
ケシ栽培にたよらなければ生活を維持できないところに、
他の植物を栽培することによって生活できる途を作ってゆくこと。
イサム・ノグチが言ったアースのカーヴィング(彫刻)を、ほんの少し変えただけのことだ。
この芸術によって
きっと、ノグチが生みだした以上の喜びを生みだすことが出来るだろう。

196毛蟹:2009/02/27(金) 10:03:45
>195
僕の感じたことをお伝えします。

>農学部とどこが違うって?
>きっと大して違わない。
>より実践的なところを狙っているだけのことだろう。

この文章は提案者のものとしてはおかしくないですか?
現在の大学農学部の教育、研究、活動の中身についてどれほどの理解をお持ちなのでしょう?
そしてご自身は土、植物、動物、気象、マーケットについてどれほどの理解をお持ちなのでしょう?

100人の専業農家の一人にでも勝る理解をお持ちですか?

おそらく答えは「NO」でしょう?
「耕作芸術、開墾芸術、植物栽培芸術」これらの概念に含まれる「芸術」は銀蝿とどこが違うのでしょう?

197千手:2009/02/27(金) 21:12:19
知識、技術の内容は農学部、専業農家のもつもを学ぶ。(他にあるとは思わない)
それらの利用を人と地球の美しい姿についてのヴィジョンとともに実践的に探求する。
それは「銀蝿」でしょうか?

198毛蟹:2009/02/27(金) 23:02:19
>195
>この芸術によって

それは「農業」でしょ?「農業」と呼ばれてきた営みに「芸術」という名称を付けてパクる(失礼)のは如何なものでしょうか?
銀蝿は匂いを辿って飛来し、そこに止まって卵を産み付けます。

>197
まずはご自身で学び、実践した上で口を開かないと「ドラエモンのポケット」になってしまいませんか?

199毛蟹:2009/02/28(土) 00:04:48
>197
>それらの利用を人と地球の美しい姿についてのヴィジョンとともに実践的に探求する。

「美しい姿」・・・それって見学者の、お客様のヴィジョンでしょ?
「実践的に探求する」ってことは農業で飯を食うということですよね?でなければ探求を続けられませんからね。
ということは、「お客様のヴィジョンを持ち、かつ農業やって飯の食える人間を育てる」ということになりますね。

農業の世界にも名人はいるでしょう。でもその名人の名人たる根拠は口で説明してもらわない限りわれわれには分からないはずです。名人とは事物の根っこを問い続けてきた人です。「なぜ名人はそうするのか?」その理由は同じところまで達した人間以外には分かりっこありません。
その程度の耕作芸術家が「食える芸術家」を育てられるとお思いですか?

200千手:2009/02/28(土) 00:49:14
ケシを栽培せずに、芋を栽培して食べれるようになれば、それはその土地の生活環境として美しいことだと思います。

201千手:2009/02/28(土) 00:54:49
誤解してほしくないのですが、わたしは「art」をラテン語の「ars」に近い意味で捉えているのです。
これが「art」の由緒正しい使い方だと考えています。
また「六藝」の「藝」にしても相当に生活密着的な技のことです。
近代日本の「芸術」の観念が異常だとわたしは考えています。

202毛蟹:2009/02/28(土) 09:17:58
>200
>それはその土地の生活環境として美しいことだと思います。

観光や視察でそこを訪れた人間、メディアの流す映像を見た人間なら皆心を痛めてそう言うでしょうね。

ところで、彼らは芋が好きなのですか?

>201
なぜ「技」と言わないのですか?農家の人びとにとって「芸術」という言葉は、正に千手さんが異常だとする観念を喚起するのではありませんか?

「異常な観念を纏わされている(とする)」芸術という言葉を使うのであれば再定義したうえで(フェノロサ批判とか・・・よう知らんけど)用いる慎重さが必要ではないでしょうか?
僕なら使いませんね。

203毛蟹:2009/02/28(土) 09:40:53
>202
ケシ畑は視察も観光もできるところではありませんね(笑)。ま、その程度のお気楽人間なんですよ僕は。

メディアの伝える情報を美味いコーヒーを飲みながら(そのコーヒー豆はフェアトレードしたものか・・てなことは考えない)心を痛める人間はゴマンといるでしょう。
その中で『ケシ畑を芋畑に・・・』と考える人間もニマンはいるでしょう。
千手さんもその中の一人で、他と違っているのはそれに「芸術」という名前をつけるところです。

204毛蟹:2009/02/28(土) 10:51:47
思いついたのですが、

「掠め取る芸術学部」というのを設けて「技」を仕込んでやれば、その学部の卒業生は案外すいすい飯を食って行けるかもしれません。
実際そのような芸術のジャンルもありそうです。

205千手:2009/03/02(月) 01:26:35
>>204
>「掠め取る芸術学部」
 何を掠め取る? どうやって?
 香具師の術?
 オレオレ詐欺の術?

206千手:2009/03/02(月) 01:32:37
>>203
>ケシ 
ミャンマーのシャン州の話。地元住民なら殺されないということ。ごく親しく一緒に行動していれば大丈夫だそうだ。
見学に行ってみたいですか?
 アフガニスタンでも事情は同様でしょう。

207千手:2009/03/02(月) 01:34:49
>>202
芸術の新しい定義を提案すること、これは常に大事なことだ。

208毛蟹:2009/03/02(月) 11:26:31
もう止めます。

209千手:2009/03/04(水) 10:03:54
>>205
香具師の術(口上)は、「限界芸術」のカテゴリーに入るでしょう。

210千手:2009/03/07(土) 10:35:10
>>203
ニマンといるならしめたものです。受け入れられるかもしれない。
「芸術」の歪曲、「芸術」=高尚なものという「芸術」理解は誰が広めたか、というと
それは「芸術」を「上部構造」として位置づけたマルクスの影響が非常に強いのではないかと最近思うようになった。
 彼は労働者から芸術を取り上げてしまったことになる。もともと取り上げられていたから、だが、
労働者の内に「芸術の種」を認めてもよいはずだった。

211千手:2009/06/02(火) 01:12:44
鎮魂という思想(追出しの思想)という短いものを纏めたい。
人を追いだすなら賠償金を払ってあっさり追出せばいい、鎮魂のまねごとなどするな。
鎮魂をするなら、風土記の谷刀の神を追出した、マタチ(だったか)のように、永代にわたって鎮魂を続けよ。
せめて一身だけでも死ぬまで鎮魂に従事せよ、というような思想。
いつからこんなにまがいものの鎮魂がはびこってしまったのか?

212千手:2009/06/09(火) 01:21:23
>>211
今日『歴史懇談』25周年記念号にむけて纏め、送った。寄稿を求められていたので。

213千手:2009/07/23(木) 22:15:42
ニーチェの問題は、おおよそこの三つだろう。
1.神が死んだ
2.無意味なものの永続としての世界
3.肯定の発見
ヘッセの詩"Im Leide"(苦しみの中で)を読むと、この問題が縮約された形で読み取れる。ドイツ人がニーチェをどう理解したか、ということはヘッセを読むとよくわかる。非常にストレートに受け止めているのだ。哲学者が読むとどうも素直じゃない。

214千手:2009/07/23(木) 22:17:26
こんな詩だ。

Im Leide (Hermann Hesse)

Da&szlig; bei jedem F&ouml;hn
Vom Berg die Lawine rollt
Mit Saufen und Todesget&ouml;n ---
Hat das Gott gewollt?

Da&szlig; ich ohne Gru&szlig;
Durch der Menschen Land
Fremd wandern mu&szlig;,
Kommt das von Gottes Hand?

Sieht Er in Herzensnot
Und Qual mich schweben?
--- Ach, Gott ist tot!
Und ich soll leben?

215千手:2009/07/23(木) 22:25:02
>>213
うまくない。
1.神が死んだ
2.永遠回帰---無意味なものが永遠に
3.永遠回帰---歓び(だけ)が回帰する
 この方がいい。

216毛蟹:2009/08/10(月) 16:57:32
「コブクロ」という若者に人気のJポップのユニットがいる。
しょうもない歌詞を必死の形相で歌い合う二人の姿はさながらサルのせんずり合戦のようでキモイことこの上ない。
しかし、これがどうも彼らの商売上の戦略のようなのだ。
つまり彼らは彼らの曲に感情移入しているのではない。
彼らにとってのお客様は、「はい、ココで感動しろよ。次、ココ泣くところだからね」と教えてやらなきゃならないほどのバカになってしまった若者達である。
若者のバカ度が進むほど金が儲かるシステムを構築してバカをせっせと養殖しているである。

217毛蟹:2009/08/10(月) 18:00:00
>216
バカ度=情報化社会への適合度であるから彼らは情報化社会のビジネスモデルの最先端を実践していることになる。
バカは2つの種に分類される。一つは顧客になるバカ。もう一つはこのビジネスモデルを知らないバカである。

218毛蟹:2009/08/13(木) 11:03:25
>>215
>1.神が死んだ

神が死んだら神学者、宗教学者は何をなすのですか。

>3.永遠回帰---歓び(だけ)が回帰する

ある事件がある者にとって歓びであると同時に別のものにとって苦痛であるような場合(たとえば戦勝国の国民と敗戦国の国民)、この事件は回帰するのでしょうか。

219千手:2009/08/17(月) 09:20:21
>>218
1.神の墓守
2.本人の問題なので他の者からはわからない

日本の戦没者慰霊の儀式がひどく自分勝手に見えるのは、バカな作戦行動によって殺された他国の人たちへの慰霊という問題意識が微塵も感じられないところです。

220毛蟹:2009/08/18(火) 00:10:02
>>219
1.神の墓守

なるほど。

2.本人の問題なので他の者からはわからない

例えば「快楽殺人」は回帰するのか?という問いです。
殺す側の人間だけに「快楽殺人」という出来事が回帰する、などということは・・不可能ですよね?

221千手:2009/08/18(火) 10:03:06
--- Ach, Gott ist tot!
Und ich soll leben?
ああ、神は死んだ!
わたしはなおも生きねばならないのか?

これがヘッセの詩の結びですが、彼にはまだ「3」への見通しはなかったでしょう。

222千手:2009/08/18(火) 10:09:43
>>220
>例えば「快楽殺人」は回帰するのか?という問いです。
>殺す側の人間だけに「快楽殺人」という出来事が回帰する、などということは・・不可能ですよね?

この問いへの答えをわたしは知りません。
ただ柳田国男が「殺生の快楽」という時(『後狩詞記』)、彼は何かを誤解しています。

223毛蟹:2009/08/18(火) 22:51:42
>>222
>この問いへの答えをわたしは知りません。

僕の問いは「永遠回帰・・・歓び(だけ)が回帰する」に対するきわめてストレートな問いです。そしてこの問いに対する答えは、千手さんの解釈する「永遠回帰」の基本構造(性質?)を明らかにしてくれると期待していました。まったく残念です。

224千手:2009/08/19(水) 09:35:09
>>223
要は「快楽殺人」を理解できないということです。

225毛蟹:2009/08/19(水) 11:41:27
>>224
強姦殺人ならどうですか?

226千手:2009/08/20(木) 00:19:31
>>225
要は、「快楽殺人」にせよ「強姦殺人」にせよ、その快がどのように構成されるかがわたしにはわからないということです。

バタイユの「眼球譚」なら少し考えようがあるかもしれません。

227毛蟹:2009/08/20(木) 09:31:54
>>219,222,224,226

どうもありがとうございました。
ニーチェについて千手さんにお尋ねしたいことはもうありません。

228千手:2009/08/20(木) 13:39:22
>>227
それならお尋きしましょう。
いわゆる「快楽殺人」者は、正確に言って、どこに快楽を感じているのでしょう?

229毛蟹:2009/08/21(金) 00:31:18
>>228
>いわゆる「快楽殺人」者は、正確に言って、どこに快楽を感じているのでしょう?

それは「他の者からはわからない」。そして殺れた者も快楽を感じていたかもしれない。それも「本人の問題なので他の者からはわからない」。すべてそう言って済ませることができる。一方にとって快であると同時に他方にとって不快であるような2者間の出来事は「ある」ということが認められない人のニーチェ論に興味を失ったということです。

230千手:2009/08/23(日) 01:24:21
>嘆きの声は言う、「終わってくれ!」と。
>しかしすべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ---。
>深い、深い永遠を欲してやまぬ!
『ツァラトゥストラ』III-15「第二の舞踏の歌」氷上英廣訳

この「よろこび」と関係のない快楽は、ニーチェの永遠回帰の思想と関係しません。

231毛蟹:2009/08/23(日) 13:26:55
>>230
>しかしすべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ---。

この「よろこび」が個人の生涯に訪れるものに限定されず、生命が経験した「輝かしい」歓び、一切を回帰させる者ということであれば、
「歓びが回帰する」という認識を僕も共有できます。

232千手:2009/08/24(月) 22:40:25
>>231
その通りです。

233毛蟹:2009/08/25(火) 14:23:29
>>232
ご教示ありがとうございました。

234千手:2009/08/28(金) 17:47:32
>>233
いいえ、「教示」というほどのことではございません。

235毛蟹:2009/09/28(月) 22:17:53
オーディオ屋としての目下の課題は、「短波」に登場する全ての音に死に場所を与えることです。呵責の無い力とスピードで音が到達する高さはやはり比類がありません。かれこれ2週間ほどシジフォス的作業に没頭しています。10月5日までに何とかしたい。面屋庄甫氏のモノに対する姿勢が励みになります。

236千手:2009/10/03(土) 12:42:24
>>235
10月5日?

237毛蟹:2009/10/06(火) 10:04:43
法然院でのスクーリング(10月6日〜7日)に間に合わせたいということです。
成果の程は・・・う〜ん、微妙。

238千手:2009/10/26(月) 23:09:28
昨日小泉義之さんに「哲学」の特別講義をしてもらった。
ううーん、おもしろい。何が?
彼だけしかもたないような発想がある。
たとえば、
「ぼくは癌が病気だとは思ってないんです…」
そうか、それは自然な過程と思ってもいいことなのか……。

まあ、僕とは意見も発言のスタイルもあまり合わないのだが、それでも面白い。
鶴見和子の件の絡みでそう思った。

また関心も方法も違う。僕の関心は「神の死の体験」とその先、だが、彼にはそこへの関心はなさそうだ。
方法は、愚にして鈍が僕の流儀だが、彼は明晰な頭脳で次々何でもこなしてゆく。

ともあれ面白かった。いずれ僕の頭の中が整理されて、何がほんとの問題だったかわかってくるだろう。

239毛蟹:2009/10/30(金) 11:59:06
一昨日okamotoさんの絶賛するクリント・イーストウッド監督・主演「グラン・トリノ」を観に祇園会館に行きました。上映は今月末まで。滑り込みです。祇園会館はいい感じのヘタレ具合になっていました。
いい映画でした。戦争という極限状態に於いても敵国人を殺害するのは「自分の意志」であるということ。贖罪は自分の手で行わなければならないということ。この厳しさ。そして主人公は友人と彼の家族を守るため自ら命を捨てるのですが、それが友人にとって返済不能な贈与とならないために返済の方法(愛車「グラン・トリノ」の相続)を用意して死にに行きます。この優しさ。
グラン・トリノが走り去るエンドロールも秀逸でした。画質とイーストウッドの歌声のハーモニーが喩えようもないくらい肌理の細かい時間を作り出していました。このエンドロールによってこの映画は最良のアメリカ映画に成り得たといっても過言ではないと思います(この部分は映画館で観ないと十分には伝わらないかも)。

240千手:2009/11/21(土) 01:24:57
『病いの哲学』と今回の講義に関連して、わたしが質問したのは次のこと、
「死に淫するとはどういうことなのか?」

彼がソクラテス、ハイデガー、レヴィナスを死に淫する哲学者として批判しているのだから、「死に淫する」とはどういうことなのかを明瞭に説明してほしかった。
それほど明瞭な答えをいただけなかったので、後がもつれてしまった。

その連関で、シュテファン・ゲオルゲのある詩について、批判をまとめたい気になっている。
「命を賭けた求愛」というようなことについてだ。
ゲオルゲはそれに成功してしまった。
それは喜びなのか、後悔なのか?
命にまさる価値を、ともかく彼は殺してしまったのだ。

241千手:2009/11/21(土) 01:30:30
ソクラテスは病気であった。だからこそ死に淫した。
---わたしは、ニーチェに倣って、およそこのように思っている。

「病気」とは、肯定できないこと。ルサンチマン。

242千手:2009/11/21(土) 01:39:48
ゲオルゲは、まともな人間なら、非常に苦いものを体験したはずだ。
「神は死んでいた」と言いうるようなものを。

243<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

244中路正恒:2009/12/23(水) 09:08:33
「中路正恒公式ブログ」というものが誰ともわからぬ人物によって立てられていて、
http://plz.rakuten.co.jp/tad77/diary/?act=list
それについて楽天の方に対処をお願いしたら、何もできないという匿名の返事が来ました。
そのやりとりを公開してゆこうと思います。

個人の持つ信用を利用した詐欺行為が、そのブログからはじめられるかもしれない、のに、です。

245毛蟹:2009/12/24(木) 12:10:47
教えて頂きたいのですが、かつて白人には食人習慣というものがあったのでしょうか?
イエスが「このパンはわたしの肉である。この葡萄酒はわたしの血である。」と弟子に言ったと言われています。食人習慣のない種族が思いつくものではないだろうし、同種族の間で広く記憶されていないような比喩をわざわざ用いることはないように思えます。

246毛蟹:2009/12/24(木) 12:28:50
>>244
これは酷い。「個人の持つ信用を利用した詐欺行為」というよりも、個人の信用を貶めることを目途とした行為のようです。
楽天のいう「何もできない」は、現行の法規制では「何もできない」のか、「何もする義務がない」のかどちらでしょうか。後者なら有効な対抗策はなさそうです。黙殺することくらいでしょうか。そのブログを作った人間はこの掲示板も見ている可能性があります。ここで楽天とのやり取りを公開するのは、そいつに餌をやることになってしまうかもしれません。やめたほうが賢明ではないでしょうか。

247毛蟹:2009/12/24(木) 12:31:54
>>246 訂正
誤:後者   正:前者

248毛蟹:2009/12/24(木) 12:45:26
>>245
京都府警のHPです。
http://www.pref.kyoto.jp/fukei/anzen/seiki_h/cyber/sodan/hibou.htm

249毛蟹:2009/12/24(木) 13:00:38
警察への「被害届け」は少なくとも楽天に対するプレッシャーになるはずです。

250千手:2009/12/24(木) 19:19:50
>>249
有り難う。近々警察に相談に行くつもりです。年末で時期が悪いかな。また、まだ仕事が終わらず、毎日追い回されています。
年明け早々もまずいし。ともあれ、行きます。

251千手:2009/12/31(木) 02:30:25
書評:菅野覚明の『神道の逆襲』
http://25237720.at.webry.info/200912/article_5.html

252千手:2009/12/31(木) 02:31:54
書評: 吉田松陰の『留魂録』
http://25237720.at.webry.info/200912/article_4.html

253毛蟹:2010/01/02(土) 11:37:13
本年もよろしくお願いします。
>>251,252
拝読しました。学生に向けて書かれたと思える分かりやすい文章が僕にはとても有り難い。
『留魂録』の書評の最後で中路氏が述べていることとほぼ同じことを内田樹氏がブログで言っています。「労働の価値は労働そのものに内在するわけではない。その成果を享受する他者たちによって事後的に賦与されるのである」、「自分がなした仕事から何らかの喜びや愉悦や利益を受け取る他者がいつか出現するであろうという予測をもてるならば、それは、労働に今ここで価値を加算するのである」。
『神道の逆襲』の書評を読んで考えさせられたこと。「世界(宇宙)と身体で繋がることは、神の名を出さねばならぬほど特別な経験なのか?もしかして、それは普通の人間が『してはいけない』ことなのか?もしそうなら、誰が何の目的で禁止してきたのか?」・・・分からない。

254毛蟹:2010/01/02(土) 21:19:27
>>253
それとも、「神的な経験」というのは、「誰に返礼したらいいのかさっぱり分からない贈与」みたいなものでしょうか?
人間の能力の「連続性?(うまく言えない)」を断ち切ることで誰かが利益を得ているのかもしれないけれど、喜びや感謝の感情を投げ入れるポストとしての「神」なら在ってもいいかと思う。

255毛蟹:2010/01/09(土) 13:02:59
さきほど「病の哲学」(小泉義之)を読了しました。
僕にとってはハードルの高い本であり、理解には程遠い。けれども武器(知力)の正しい使い方とはまさにこのようなものであろうと思わせられた。僕個人の経験(祖母の臨終の際して僕は祖母にとって「不気味なもの」になっていた)と重なって、読みながら幾度も落涙してしまった。今更詫びてもどうしようもない。
最も印象に残った箇所はこれでした・・・「しかし、「生命、しかも病的な生命」は、「もっとも深い、もっと隠された、存在論的レベル」に位置している。深き淵にいるのだ。とすれば、それに相応しい「根本的な地位」を賦与しなければならないのは明らかではないか」。(P224)

256毛蟹:2010/01/09(土) 15:09:25
もうひとつ、「デカルト『方法序説』を読む」(谷川多佳子)も読了。
谷川さんに導かれてスイスイ読めてしまうのだが、一旦本を閉じて自分の頭で「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」を考えようとすると、たちまち混乱してしまう。
「考えるわたし=存在するわたし」は事後的に私によって存在を−かつて存在していたことを−与えられたということであり、現在(この瞬間)に於いてわたしに存在を与えるものは不在ではないのだろうか。

257毛蟹:2010/01/11(月) 15:13:29
「そうならなくてはおかしいはず」というニュース。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&amp;id=1073646

「『豪州人総バカ』と思われたら堪らない」ということらしい。
シー・シェパードの人々が一番恐れることは、「捕鯨国の捕鯨によって鯨類が減少あるいは絶滅してしまうことではなく、鯨類が減少あるいは絶滅する前に捕鯨が絶滅すること」である。そんなことは誰でも想像がつく。

258千手:2010/01/17(日) 00:15:25
とりあえず控えておこう。

川勝平太、鶴見和子『「内発的発展」とは何か』pp.168-169
 鶴見 私、今日は非常に多くを学んだ。まずこの「解説」を読んで、どうしようと思ったのは「類推」。アナロジーが方法になる? こんなこと、いままでの学問の中で聞いたことがないの。これが科学方法論になる? 私、びっくりしたの。アメリカの大学で科学方法論という講義をちゃんと聞いておりますのよ。この中に一度も出てきたことがない。びっくりした。
 川勝 今西錦司ですね。
 鶴見 今西錦司の前に外国にはない? キリスト教の中に。
 川勝 ないと思いますね。やはり今西錦司。
 鶴見 アナロジーというのは、心理学では出てくるけれど……。ロジック、つまりロジカル。メソッドというのには出てこない。サイエンティフィック・メソッドの中にも出てこない。だから私、びっくりしたのよ。

アナロギア・エンティスは? と、ふと思う。難しい。また『差異と反復』の中のノマド的配分と対比されるアナロジー的配分の問題。

259千手:2010/01/17(日) 00:21:46

引用内一字訂正。「ロジカル。」→「ロジカル・」

鶴見さん、さすがだと思う。キリスト教に、という勘のつけ方が。

260千手:2010/02/25(木) 03:35:20
沖縄問題の見方ひとつ。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/142005167.html

261千手:2010/03/05(金) 09:26:33
小沢報道と「テレビ文化人」
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/

262毛蟹:2010/04/12(月) 10:05:36
沖縄基地問題に対する内田 樹さんのコメント。
4月8日付けブログ「従者の復讐」。
http://blog.tatsuru.com/

日本国民の対米感情、国家のなすべきこと、小泉純一郎への評価、いずれも感心させられました。
ただ、日本政府の勝利を「米軍の沖縄からの撤退と基地の全面返還である」とする考えには同意しかねます。

263千手:2010/04/12(月) 10:55:54
>>262ちょっと拝見
わたしは、国家の外に繋がる見えない通路をたくさん作ることを仕事にしているので、「国民国家の黒字」という論点には何のかかわりも持ちたくない所です。
彼の小泉純一郎論は、田中宇の「隠れ多極主義者」という概念とかなりよく似ていると思います。
とりあえず以上。

264毛蟹:2010/04/12(月) 17:29:54
>彼の小泉純一郎論は、田中宇の「隠れ多極主義者」という概念とかなりよく似ていると思います。

これは僕も同感です。

265千手:2010/08/02(月) 21:10:05
内田樹の『日本辺境論』を読んだ。30分以上時間をかけて。「機」の話しは直観音楽と結びつくが、読んでわかったからといって速くなるわけではない。
辺境性に執着してみろ、というお勧め。それで見えてくるものは確かに幾つかある。だもう一歩何が言いたいのかわからない。

266千手:2010/08/03(火) 20:59:39
インターチェンジャブルな能力が大事だと鶴見俊輔は言う。「転移の能力」と言い換えているのがそれだと思う。『新しい風土記へ』の中の池沢夏樹との対談で。うん、と思う。しかしそれと内田樹などの言う「機」と結び付けなければならない。「インターチェンジャブルなのは誰か?」と。それは私なのか?
私ではない。私の背後にありまた手前にある生成なのだ。わたしの言うところの「浮立の気」なのだ。そのはずだ。それは誰のものでもない。
わたしの言葉で言えば、それがリズム(宇宙の)なのだ。

(twitter再録)

270千手:2013/08/10(土) 22:38:57
次の「営業広告」を削除しました。
■ 2013/08/10(土) 19:33:06ns4006995.ip-198-27-82.net

273千手:2013/10/09(水) 21:05:57
次の「営業広告」を削除しました。
■ 2013/10/09(水) 19:42:28ks4003444.ip-142-4-210.net

275千手:2013/10/12(土) 17:52:23
下記の「営業広告」を削除しました。
■ 2013/10/12(土) 14:11:47ks4003444.ip-142-4-210.net


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