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哲学的・雑談的 3

78senju:2008/03/02(日) 04:00:02
>>75の内容を再録しておきます。
隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2
(承前)
デリダはこう言っている。マタイ伝6-6の「隠れたところで見ておられる父は……」(共同訳)を註釈して語っているところにおいてである。(ちなみに邦訳『死を与える』ちくま文庫p.186の「in absconditio」は「in abscondito」の誤り。また、"abscondito"は対格ではなく奪格なので、それを「<u>隠れたことを</u>見ておられる」とする訳も誤りであろう)
> 神は私を見る、隠れたところで私の内の私を見る、だが私は神を見ない、神が私を見るのを私は見ない、神のほうは、私が背を向ける精神分析医とは違って、正面から私を見るというのに。神が私を見るのを私は見ないのだから、<u>私は神の声を聞くことができるだけであり</u>、またそうしなければならない。<em>だが多くの場合</em>、誰かが神を、聞くべきものとして私に与えてくれなければならない。<u>神が私に言うことを、私はある他者の声で語られて聞く。別の他者、つまり使者、天使</u>、預言者、メシア、知らせの配達人、知らせをもたらす人、福音伝道師、神と私の間で語る仲介者<u>などを通して聞くのだ</u>。神と私のあいだ、他者と私の間には、対面関係もなく、視線の交叉もない。神は私に視線を向けるが私は神を見ない。しかしそれにもかかわらず私を見るこの視線から、私の責任がはじまるのだ。
 (ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫、p.186。一部改め。強調は引用者)

長々と引用したが、こうした文章を読んでいると、神が私に直接「語る」ということはないかのごとくに思えてくるだろう。だが、創世記二十二章において神がアブラハムに、その愛する息子イサクを燔祭として捧げるように命じる時、「神は彼に向かって言った」(Deus dixit ad eum)と記されているのである。何の仲介者もなくである。これは神が直接人に語るということがあると考えられていたということではないか?
 そしてデリダ自身も、おそらくそれに気づいていて、こっそりと「だが多くの場合」(mais le plus souvent)と断りを入れているのである。
 デリダ自身は前回わたしが指摘した問題点、つまり「神が語る」と「天使が語る」との間の微妙ではあるが歴然とした差異を、どう考えるのだろうか。そして神の語ったことと相反することをいう天使の言葉を、アブラハムはどう考えたと考えるのだろう。「神が語る」と「天使が語る」の間には差異がないと考えたと考えるのだろうか? しかし「多くの場合」という逃げ道では、創世記の歴然とした記述の差異を完全にくぐり抜けることはできないであろう。


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