あふれ出ようとしているこの杯を祝福してください。その水が金色にかがやいてそこから流れだし、いたるところにあなたのよろこびの反映を運んで行くように! (S. 12 Zn. 5-7)
この杯の比喩はリヒャルト・シュトラウスの『献呈』(Zueignung)(作品10-1、詩はギルム(Hermann von Gilm))を思い出させるところがあるが、ここでは杯を満たしてくれるのは「女性」ではなく、「太陽」そのものなのだ。ツァラトゥストラはこの時まで十年間、太陽からその「溢れこぼれるもの」(Überfluss)を受け取ってきたのだ。そのツァラトゥストラが、今やみずから「溢れこぼれ」(überfliessen)ようと欲しているのだ。キーワードは「溢れこぼれるもの」「過剰・過多・豊富」である。ツァラトゥストラは山にあって太陽の溢れこぼれる豊かさを受け取っていた時、「人間」ではなかった。名づければ「太陽の過剰な豊かさを受け取る者」だった。そうしてみずからも蜜を集めすぎた蜜蜂のように、溢れこぼれる豊かさに苦しむ者になった。彼の場合その溢れこぼれるものは「知恵」(Weisheit)と呼ばれる。「知恵」が溢れこぼれるもののツァラトゥストラ的な形である。そしてその「知恵」をいたるところに流れさせることによって、彼は太陽の「この上ないよろこび」を運び伝えてゆくのだ。「あなたのよろこびの反映」の「反映」(Abglanz)、それは流れる水とともにかがやく金色の光なのだが、それは、ツァラトゥストラが太陽から受け取った豊かさのツァラトゥストラ的な形としての「知恵」のことなのだ。ツァラトゥストラの「知恵」は溢れ流れながら金色にかがやくものを伝え与えて行くものなのである。
であればこう言えるであろう。ツァラトゥストラのあふれる「知恵」の金色のかがやきを受け取る者、その者も人間ではないと。
われわれはきっと、贈与のニーチェ的な思索の本質に迫ろうとしているのである。
"Was liegt an meinem Glücke! … Aber mein Glück sollte das Dasein selber rechtfertigen!" (Friedrich Nietzsche, Zarathustra's Vorrede 3.)
「わたしの幸福は何だろう! …… わたしの幸福は、人間の存在そのものを肯定し、是認するものとならねばならない!」 (氷上英廣訳、岩波文庫)
Tout autre n'est pas tout autre.
すべての他者がまったき他者なわけではない。
この定式をジャック・デリダ(Jacques Derrida)とその追従者たちに提示したい。
デリダが提示した"tout autre est tout autre"(すべての他者は/まったき他者は、まったき他者だ/すべての他者だ)という定式を批判するためである(デリダ『死を与える』III)。
わたしが開こうとしているのは、きわめてありふれた世界観に他ならない。しかしこの世界観は、アブラハム以前の、つまり三大一神教の誕生以前の思考と生活の地平を開くのではないだろうか。ともあれもういちど称えてみよう。
"Tout autre n'est pas tout autre."
「すべての他者がまったき他者なわけではない」
われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない。「距離のパトス」(Pathos der Distanz)。この概念である。われわれは「距離」の感情をもって関係し合うのである。そして「絶対的な隔たり」(デリダの「まったき他者」"tout autre")とはいつも錯覚であり、妄想であり、あるいは便宜であり、実用的のための道具である。
デリダの定式 "tout autre est tout autre" の源泉をなすであろうニーチェのアフォリズムを上げておく。
>"Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott." (JGB, IV-67)
>「ひとりの者への愛は野蛮な行為である。なぜならひとりの者への愛はその他のすべての者の費用で営まれるからである。神への愛も同じである」(拙訳) (『善悪の彼岸』第四章67)
「費用」(Unkosten)という経済用語の方が、デリダの使う「犠牲」(sacrifice)という不器用な宗教用語よりも事柄を正しく説明するだろう。
長々と引用したが、こうした文章を読んでいると、神が私に直接「語る」ということはないかのごとくに思えてくるだろう。だが、創世記二十二章において神がアブラハムに、その愛する息子イサクを燔祭として捧げるように命じる時、「神は彼に向かって言った」(Deus dixit ad eum)と記されているのである。何の仲介者もなくである。これは神が直接人に語るということがあると考えられていたということではないか?
そしてデリダ自身も、おそらくそれに気づいていて、こっそりと「だが多くの場合」(mais le plus souvent)と断りを入れているのである。
デリダ自身は前回わたしが指摘した問題点、つまり「神が語る」と「天使が語る」との間の微妙ではあるが歴然とした差異を、どう考えるのだろうか。そして神の語ったことと相反することをいう天使の言葉を、アブラハムはどう考えたと考えるのだろう。「神が語る」と「天使が語る」の間には差異がないと考えたと考えるのだろうか? しかし「多くの場合」という逃げ道では、創世記の歴然とした記述の差異を完全にくぐり抜けることはできないであろう。
>>81
ニーチェを知り、かつ"Tout autre n'est pas tout autre"という主張を
デリダの"tout autre est tout autre"という定式に対抗させたいと思う者は
ぐらいのことです。
もっとくだけば、「絶対的な他者」という概念が空虚であると考え、そのことをどう表現できるかを考える者はと言い換えてもよいとおもいます。
>>87
原典を紹介しておきます。
Dieu est le nom de la possibilité pour moi de garder un secret qui est visible à l'intérieur mais non à l'extérieur. ("Donner la mort" p.147)
デリダの『死を与える』の中で最も重要な言葉だと思います。