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哲学的・雑談的 3

1千手★:2007/07/16(月) 22:27:25
急遽新しいスレッドを作り、「2」を過去ログ倉庫に入れます。
よほど慌てていたのでしょう「雑談的」と記すべきところを何と「雑学的」と
してしまっていたのです。「雑学的」これはわたしの最も嫌悪するものです。

このスレッドは、他のスレッド同様、「非雑学的に」お願いします。
いまだ未知のいまだ脆弱であやうい観念に言葉をあたえ、姿をもたせてやりたいという希いです。
そしてそれをできれば世に通用する概念に育ててゆきたいのです。
参加をお願いします。

2千手★:2007/07/17(火) 02:01:40
赤坂憲雄の「東北学/いくつもの日本を抱いて」

『東北学への招待』(1904年、角川学芸出版)の巻末にあり、全巻のまとめをする論考である。
必要があって久しぶりに読んだのだが、幾つか考えるところがあった。幾つか引っかかるところがあったと言った方が正確かもしれない。
そのままにしておかない方がよいだろう。
それは例えばこういうところだ。

>山形の山村を聞き書きのために歩くと、思いがけず稗の姿はまるで見られなかった。
その代わりに、戦後間もない頃までは、カノと呼ばれる焼畑で栽培されるソバやカブが主作物であったことを知った。
カブ漬けは冬越しの大切な食料となった。ブナの森の豊かな恵みである山菜・きのこの採集や、狩猟・川漁なども、大切な生業とされてきた。
(p.212。強調は引用者)。

ここで言うところの「主作物」とは何のことであろう? カノではソバやカブが主要な作物であったことはわかる。
そして「カブ漬けが冬越しの大切な食料」であったこともわかる。しかし「ソバやカブが主作物であった」ということは、
それらが「主食」であったということとは別のことなのではないだろうか。つまりそれらは「米」を主食として前提にした上での食料だったのではないだろうか。
 わたしがこんな疑問をいだくのは、この文章が、下北や南部地方では、稗が長く主食の座を占めてきた、という文章に続くものだからである。
例えば「下北では、明治二十年代まで、水田の九割までが稗田であった」という。このことはわかる。
そしてそれゆえ、稗を通して、「稲に覆われた表層の風景の下に」横たわる東北の基層の風景をさぐるという探求を、われわれは何が主食であったかという問題の探究として理解することができるのである。
しかしカブを通して、われわれはその同じ探求を試みることができるのだろうか? 
 もしわれわれが「東北学」という名のもとに「稲作以前の、東北の縄文以来の一万年の基層なす風景」の探求を試みるべきであるならば、
われわれは東北のどの地域においても、同じ方法に基づいた探求を試みることができるのでなければならない。
そのときわれわれはおそらく「主食」という概念を外して探求を進めなければならないのだろう。
 そうするとどうなるのか? わたしは飛騨のある友人が、稗は不味くて柱か何かに掴まらんとよう飲み込めなんだ、と言っていたのを思い出す。
だがその同じ友人は同時に、稗飯、つまり稗と米とを半々にして焚いたものは、これより美味いものはないというぐらい美味いんじゃ、と言っていたのである。
混ぜて調理するというような工夫は、昔からなされて来たことだろう。縄文以来の基層をなす文化や風景は、何も東北にだけあるわけではない。
「東北学」をこころざす者は、東北の固有性を探求するのだろうか。それともある種の通有性、あるいはつながりを探求するのだろうか? 
わたしは、地域の学は、差異をもって関係し合う地域的な諸力の探求の学としてしか成立し得ないと考えているのである。
「東北学」もその例外ではありえないだろう。
 赤坂憲雄の「東北学」は一体何を目指しているのだろうか。わたしが尋ねたいのは過去に考え実践してきたことの回顧や反省ではない。
それらは状況論的な意味しかもたないであろう。
わたしが尋ねたいのは今まさに何を求めているのかということである。

3千手★:2007/07/17(火) 02:40:25
>>2訂正
(1904年)→(2004年)

4千手★:2007/07/18(水) 23:50:42
>庄内では藤沢周平さんの小説を原作とする映画のロケが頻繁に行われ、それぞれの作品が大きな話題になっています。
>映画を観た人が映画の舞台となった庄内へどっと繰り出す。小説や映画が地域の風景を活性化し、
>柔らかい形で観光へとつながってゆくという道筋は、大きな武器だと思います。
 赤坂憲雄(『まんだら』vol.31 p.21)
 赤坂さんはさらにこう言います。
>それには<u>物語の力が必要です</u>。民話でもいいし、現代の小説であってもいい、あるいは絵画でもいい。
>文か芸術が生み出す、土地と結びついた物語の役割はとても大きいのです。

 この「物語の力が必要です」のところを、「詩・歌の力が必要です」に代える、そうい位相も存在すると思うのです。
それは何なのか? 確かにひとつの断層があるのです。
この位相の差を思惟してゆきたい。実施「詩歌」だと商売とつながりにくい気がしてしまうのです。
大量動員ができにくい。しかし永続性は詩歌の方が勝るでしょう。

5千手★:2007/07/19(木) 00:06:49
>>4
訂正
文か芸術→文化芸術

詩歌の方がまさる点
物語が外的状況の組み立てによって感情移入される像が生れるのに対して
詩歌は、とりわけ歌は、人がみずからの心を語る内面の言葉そのものを語ってくれる。
人は歌によって一人称でみずからの心をかたる言葉を与えてもらう。

6Pentatonics★:2007/07/19(木) 22:35:04
>>5
まさにそのことによって、その土地が固有のものとして経験されるわけですね。
ここにいない誰かによって書かれた物語をなぞることは、その土地の経験を一般的なものにしてしまうところがあるのでしょう。
「物語」の導入は、資本や科学的視線による地域像の一律化、一般化と重なり合うものを持っていまるように思います。
これはその土地ならではのものを殺しかねない、危険なものを含んでいると思いますが、多くの良識的な人達がそうは思っていないようですね。

7千手★:2007/07/20(金) 02:23:34
しかし「物語」は実際強く、産業界によっても歓迎され、多くの人々のアイデンテティーの基盤にもなっている。
「物語」の乗ればいろいろと成功しやすいと思います。
そしてまたそれは「その土地ならではのもの」に基づいた物語を生んでゆくこともできるでしょう。
赤坂さんは前掲の論議を「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」という伊波普猷の言葉をモットーに上げます。
彼がその土地に深く結びついた物語を掘り起こすことを考えているのです。
けれどわたしはこれに対して、
「曾つて吾等の高山樗牛はいつたものだ/汝のゐるところを深く掘れ そこには必ず泉あらん/一人の泉は一人の泉だ/何百年たつても一人の泉だ」
という草野心平のことばに、紛らわされない真実を感じるのです。
私のいう詩・歌はこの一人の泉なのです。飲める人がそこからその水を飲んだらいい。
泉は物語ではないのです。歌なのです。

8千手★:2007/07/20(金) 02:36:05
>>7
文が乱れていて失礼。ブログの方には書き直したものを載せます。
赤坂さんとわたしとのこのポジションの違いは、昔から互いにわかっているものなのです。

9千手★:2007/07/20(金) 02:41:25
>>5
土地が固有のものを経験する仕方として「歌」を与えてくれるという論理ですね。
これはたのもしい発想だ。
山中智恵子さんの地名を詠み込んだ数々の歌を思い出します。
土地が歌を与える。これはいい。

10千手★:2007/07/20(金) 02:47:52
物語の危険性に、赤坂さん自身は、気づいているのでしょうか?
彼の語りの、不安なところです。

11Pentatonics★:2007/07/22(日) 01:19:49
語としてのStoryとHistoryの関係についてはあまり知りませんが、物語がほとんど常に一方向に流れる時間を感じさせるようにできていて、それゆえ何らかの歴史を語ってしまいがちであるということは感じています。土地と物語が結びつけられるとき、多くの場合それはなんらかの起源譚という形を取ってしまうようにも思います。このこと自体は自然なことなのだと思います。
「物語」を活かした地域振興が構想される時、商業的にあるいは政治的にこしらえられた起源譚の固定化が同時に行われるのだと思います。この固定化がどれだけ多くのものを殺してしまうのか。この権力的に設定される物語は、多くの問題を持っていると思います。

12Pentatonics★:2007/07/22(日) 01:20:25
この物語はRead_onlyです。商業や行政が用意する「いわれがき」は、「ふーん、そうなのか」と読まれるだけのテキストです。詩歌において、一人称で語り出される言葉が地域の固有の経験を生み出すということを思うと、この違いは大きいように思います。
今の「物語」は、その名に反してここにいる誰によっても語られないことを特徴としているように見えます。ここにはいない誰か、作家やプランナー、メディア上の人びとによって、テクニカルに用意されるテキストが、「物語」と呼ばれているように思われるのです。

多くの人たちによって、さまざまなヴァリアントを派生させながら繰り返し語られるもの(これは今言っている「物語」とは違うあり方です。この「誰かによる物語」に対して、「われわれの物語」と言ってもいいかもしれません)は、固有の場所経験と結びついていく契機を含んでいたはずです。口承で伝えられる伝説、愛誦される詩歌、叙事詩といったものは、そうした回路を通じて、ひとりひとりの内に固有の場所/地域の経験を作り出していったのではないか。

13Pentatonics★:2007/07/22(日) 01:21:06
ひとりひとりによって改めて語り直される、あるいは語り出されるものについて考えると、一つには詩歌がまず挙げられると思いますが、今なおネット上においてさえ何度も語り直されては脈動するように展開していくうわさ話群、特に「こわい話」を忘れることはできないと思います。
人はどんなときに、自分から怪異譚を語り出すのか。その時にその人のうちになにが起きているのか。
「こわい話」の語りのサイクルと、詩歌の経験をどこかで重ねながら考えていくことはできないか・・・(この辺まだ妄想レベルですが)。

14千手★:2007/07/22(日) 01:31:11
>>11,>12
とても適切な説明だと思います。
ですがPentaさんの分析は赤坂憲雄さんが狙っているような「われわれの物語」
による地域作りの構想を支持するものなのではないでしょうか。それならそれで構わないのですが。
わたしは「泉は一人の泉だ」という草野心平の主張を紛らわせたくないのです。

15千手★:2007/07/22(日) 01:37:13
>>11
フランス語の”Histoire”は歴史と物語の両義を含みます。

16千手★:2007/07/22(日) 01:45:48
「一人の泉」論に固執するということは
出発点は詩歌だ、ということにわたしは固執すると言い換えてもいいかもしれません。
歴史は常に「すでに線」であるし、また線を引いてゆくことが不用だと言うわけでもありません。
しかし泉が湧き出てくるのはまずは点からです。

17Pentatonics★:2007/07/22(日) 02:06:17
>>14
赤坂さんの>>4における「物語」と、私が言った「われわれの物語」が必ずしも同じものだとは思わないのですが、両者に共通する問題性もまた判ります。
それは、語ることと、共同体の靭帯をつくることとを素朴に重ねてしまっているところなのでしょう。「われわれ」にはそういう含意が確かにあります。
私自身はこのあたりに迷いを持っています。しかし、伝統的な共同体を自明のものとして、そこに根拠を置くことは避けたいと思っています。それは尊重したいものではあるのですが。
共同体の成員が共通に持つ物語(赤坂さんはたぶんこれに組するのでしょう)ではなく、多彩な変奏を生み出す自由な運動性の方に大切なものがあるように思います。そうでなければ経験は固有のものにならないと思うのです。
怪異譚の越境的なパワーに注目したくなるのも、共同体的なものを超えたひとりひとりによる「語り直し/語り出し」を感じるからです。
怪異譚の内部には、矢印状の時間を切断してしまうような、反歴史的なものが仕組まれてはいないか、と思っています。「新耳袋」以降の現代怪談にもそういう切断の感じを強く感じます。

18千手★:2007/07/22(日) 11:14:10
>>17
かなりのところ、理解し、納得しました。
また
>怪異譚の越境的なパワーに注目したくなるのも、共同体的なものを超えたひとりひとりによる「語り直し/語り出し」を感じるからです。
いわゆる都市伝説をこのように理解する仕方があるのか、と目を開かれました。

19ほかいびと★:2007/07/28(土) 22:50:18

>>2

雑談になりますが、
先月に三陸高田市の場外市場の使用許可を警察から採ったので
秋から今年も何回か出店を予定してます。
そこにくるオバさんたちは自分の採って来た
海草や魚や野菜などを売るというのが多いです。

ところがその中には
今の山村の子供たちは食べない果実や各種穀物粉に混じって
なぜか栽培した稗や粟も売っています。
いまのおばさん達のうち顔なじみも多いし
ちくまの柳田國男の文庫本に東北の稗酒と
書かれてたのですが地域がどこかわかりませんのでこの秋は、
稗や粟の酒がかつて北上山地で作られてたか聞いてみます。

ただし、ご年配の女性でも大正の終りの生まれか
ほとんどが昭和1桁10年代生まれになってきてます。
もう20年も通ってるのでせめて10年早く気がついてれば
明治生まれのおばさん達もいたのにと悔やまれますが、
もしなにか分かったときにはここに報告させていただきます。

この気仙地域ではお月見にあげものとして
こくわ、ガマズミの実、あけび、山ブドウなどをも
山から採ってきた人から直接買っていくことを2004年に確認しました。

これも昔は果実酒ではなかったかと推測してるのですが、
これは古い郷土史の本で確認できないかとおもっています。

中秋のお月さんは、あばたの多い女性に見立てられます。

顔の醜い女性。生け贄に用に都合の良い女性。
あばた顔はマダラ模様の顔。おかめ、おたふく。

・・・こんなことを連想しました。

20千手★:2007/07/28(土) 23:23:02
>>19
ぜひご報告を。
そこからアイヌの稗酒までつながるのか?

21千手★:2007/07/30(月) 03:40:35
トラックバック先がないものかと探して、
「フーコー」+「権力」でグーグルしてみた。
バカばっかり。出てきたのは。
何がバカかというと、どこかにドゥルーズの名前を使わないと、フーコーについて何にも書けないのがバカの証拠その一。
でもそれは徴候でしかない。
本当にバカなのは、フーコーが利用している一次テキストを何一つ自分で点検しないでフーコーについて語れると思っている点。
これは致命的なバカだ。そんなバカしか見つからなかった。
フーコーが一次テキストを申し分なく潔癖に使っているとでも思っているのか?
愚かな話だ。
いうまでもなくみんなカッコつけたがりのオニイチャンばかりだが。

むかし内田隆三の『フーコー』にトリカブトの写真がのっていた。草全体の写真だ。
トリカブトの種子を見なければ、フーコーがまともなことを言っているのかどうか検討もできないだろうが!
フーコー信者という最悪の人種がうようよしている。
いやな景色だ。

22千手★:2007/07/31(火) 22:56:55
伊波普猷の「をなり神」に関心のある人はいないだろうか。
わたしが感じる疑問なんだが、
1.「をなり神」は生きていないと力がないのだろうか?
2.なぜとりわけ遠く離れた航海中の男兄弟を守るのか? 距離はどう関係するのか?
3.むしろ普天間権現の伝承から発想されているのでhないか?
4.その普天間権現の由来伝承でも、兄を助けたが父を助けられなかったのは単なる偶然にも読めるのではないか?
5.他家に嫁ぐと、兄弟を守る力は弱まるのか? ならばなぜ?
6.「をなり」は「をみなり」と同じ語で、つまり「をみな」の古琉球語以上の意味はないのではないのか?
 伊波の「をなり神」を読むと、伊波の自信なさそうな様子を感じてしまうのだ。
それで結局、
7.沖縄地方でほんとうに姉妹は「をなり神」として頼られていたのか?
 折口信夫の論議も、伊波のいうことを鵜呑みにしてしまっているところがあるのではないか。
『日本歌人』9月号のための原稿で、伊波の「をなり神」論を紹介したのだが、わたし自身としてはむしろ疑問の方が増えてしまった。
「うなじ」のこととか、もっと注目し、丁寧に論じるべきところがあるはずだ。

23千手★:2007/07/31(火) 23:02:00
わたし自身では、昔に亡くなった姉をいまも「をなり神」としてもっているのだが。

24E嬢★:2007/08/01(水) 00:01:54
>>22の5について

その昔、他家に嫁ぐということは、生家の宗派から、嫁ぎ先の宗派に変わることだと、
母に教えてもらいました。

母の実家は浄土真宗でしたが、いまは禅宗のなんだっけ???です。

なので、わたしも禅宗だったと思うのです。(名前が出てこない)
嫁ぎましたが、無宗派だたために、死後はゴミ箱行きという、ヘンなカンジ・・・

残念ながらわたしは、宗派を失っています。←この表現であっているのでしょうか?

もし、次回嫁いだら、その旦那さんの宗派に変わるはずです。
宗派の垣根は、越えにくいから、父母兄弟を守る力が薄れることがあってもおかしくないと思います。

父の宗派の神さん、そこに嫁いだ母は、旦那さんの宗派の神さんに守られ、
男の子たちはやはり父の宗派の神さんを受け継ぎ、
嫁いで行く娘たちは、父親の宗派を受け継ぐのではなく・・・

わたしは離婚したことによって、帰る場所を失ったから、太陽信仰しているのでしょうね。

25千手★:2007/08/01(水) 02:21:21
>>24
宗派的な理由で、他家に嫁ぐと兄弟を守る力が弱くなるなら、それは「をなり神」の力は宗派宗教の力より弱いということになりませんか。
もっと力強いものでかければ、遠くで難破した船から兄弟を助けることはできないのではないでしょうか?
「をなり神」の力が、嫁ぐと弱くなるかのように語る時、
伊波は「をなり神の力はたいしたことないぞ」と言っていることになるのではないでしょうか?

26千手★:2007/08/01(水) 09:48:27
>>25
訂正:
もっと力強いものでかければ→もっと力強いものでなければ

27E嬢★:2007/08/02(木) 11:44:44
>>25

どこかの国は、少女を生き神様としています。
しかし、初潮を迎えると、生き神様を引退します。

嫁ぐと、女の子は処女ではなくなります。

女の子の霊力は、「清らか」でないと、パワー・ダウンする感じがします。
宗派説は失敗だったと思います。すみません。

28千手★:2007/08/02(木) 23:51:19
久高島のカミンチュー(神女)でもそうなのですが、
少女ではなく、普通の主婦が神になれる。
女性についてのそういう理解があるのです。
「清ら」は多分折口信夫が好んでいた言葉じゃないかと思いますが、
沖縄の人たちの「清ら(チュラ)」とつながるものがあるのでしょう。
世にも人にも、失われない清らかさがあるのではないでしょうか。

29E嬢★:2007/08/04(土) 17:40:00
主婦の神さん・・・ だから、おかみさんと呼ばれるでしょうか。
(これは、間違っているとは思いますが、でも、書きたかった)

清き明き直き心・・・古事記の世界みたいですね。
高天原に行くには、清き明き心が必要だったのだから、
沖縄の聖地も同じように、清き心を持つ人・・・カミンチュー

>世にも人にも、失われない清らかさがあるのではないでしょうか。
同じ主婦でも、大阪のおばちゃんはダメでしょうね。
数え年で七つまでが、一番純粋なのではないかと思ったのですが、
近くの小学生の言っていることを聞いていると、私よりシッカリしていて・・・

「失われない清らかさ」というのは、
一種の、特殊能力になるのではないでしょうか?

30千手★:2007/08/04(土) 20:01:50
>>29
>清き明き直き心・・・古事記の世界みたいですね。
>高天原に行くには、清き明き心が必要だったのだから、
>沖縄の聖地も同じように、清き心を持つ人・・・カミンチュー
これはかなり違うことのようだと思うのですが。
沖縄言葉で「ちゅら」は普通「美」の字をあてるのですが、そのもとに折口がいうような
「清ら」の感覚があるのではないかと私は思っているのです。
久高では不倫さえしていなければ「七ツ橋」を渡れて、七ツ橋を渡れれば神女になれたようです。

31E嬢★:2007/08/04(土) 20:28:59
>久高では不倫さえしていなければ「七ツ橋」を渡れて、七ツ橋を渡れれば神女になれたようです。
ってことは、久高では、不倫が日常なんでしょうか。
でないと、いい奥さんばかりだと、神女の大量発生につながると思うのです。
たくさん居る=ありがたくない、のか、たくさん居る=ありがたい、なのか。

折口説はちょっと待ってください。本を読んできます・・・

32千手★:2007/08/04(土) 22:54:27
>>31
神女は十二年ごとのイザイホーでですが、今に大勢人がいた時には大勢生れていたようです。
折口。たとえば:
種々無限清らを尽す 我が望みゆゑ (倭をぐな)

33千手★:2007/08/04(土) 22:55:30
>>32
訂正:
今に→島に

34E嬢★:2007/08/05(日) 00:01:47
去年、イザイホーのビデオを見たのですが、
一種の断食かと思っていました。(やはり、もう一度勉強しなおします)

母とイザイホーの話をしていたのですが、
「あれは、夫への嫌がらせじゃないのか」といったのに、大笑いしてしまいました。

35千手★:2007/08/11(土) 12:12:34
ああやって女の権力をkeepしてゆくんだ

36千手★:2007/08/12(日) 03:26:24
>>27
>嫁ぐと、女の子は処女ではなくなります。
アンドレ・ジッドの嫁さんはずっと処女だったんではないですか?

37E嬢★:2007/08/13(月) 11:19:20
アンドレ・ジッドさんをはじめて知りました。
ノーベル賞を貰うような人は、不思議な感覚の人が多いのかと思いました。

もし、アンドレ・ジッドの強烈な思い込みと、
奥さんが本当に婚前交渉とか、不倫がないのであれば、処女である可能性は高いですね。
(私的には、フランス人っぽくあってほしいのですが…)

38千手:2007/08/14(火) 01:55:30
>>37
>(私的には、フランス人っぽくあってほしいのですが…)

ジッド夫人への希望ですか?

39千手★:2007/08/24(金) 12:11:39
ひとは誰から生き方を学ぶのか?
姉崎さんは、森や山での生き方を、ヒグマから学んでいる。
ヒグマの堂々とした生き方から自分の生き方を学んでいる。
単に技術、体術を学んでいるだけではない。
他の生物とのかかわり方をヒグマから学んでいる。
アイヌの生き方の大きさの秘密が、今回の会でわかった気がする。
ヒグマが人を作る。
本土人は、動物からそれだけ大きな生き方を学ぶことはできない。

40千手★:2007/08/25(土) 22:04:06
子連れのヒグマは、戦いを避けるべく、人間が近づいてくるのを感じると、「来るな」という合図を送るのだという。
前足で地面を叩いて。

41千手★:2007/08/25(土) 22:41:36
クマの心がわからないとクマは取れないと姉崎等さんは言う。

--
自分は、むしろ姉崎さんに追われるクマに近いだろう。
心が読まれてしまっているというのは、こちらが裏をかく気でいても、それまで読まれているということだろう。
やられたくないと思えば、普通のクマなら考えない行動に出るしかない。
それで、猟師からは逃げられるかもしれない。だが、クマの仲間からも孤立して、ずいぶん違った存在になってしまうことだろう。
ほどほどのところで撃たれてやろう、とそう思った方が、クマとして仕合わせな生き方ができそうな気がする。
あの猟師になら撃たれてやってもいいと、そう思う猟師もいるだろう。姉崎さんになら撃たれてやってもいいと。

42ほかいびと★:2007/08/26(日) 00:33:45

>>39

>アイヌの生き方の大きさの秘密が、今回の会でわかった気がする。
>ヒグマが人を作る。

千手さんが熊になぜ魅せられるのか不思議でしたが
少し理解できてきたようにおもいました。
熊=人だと感じます。

テレビでみたのですが、
秋田のマタギに追い詰められ焦りながら逃げ惑う
熊の後姿をみたらまるで人間のお婆さんの後姿のようでした。

43千手★:2007/08/26(日) 10:00:56
>>42
http://25237720.at.webry.info/200708/article_12.html
ほんとはツキノワグマもおだやかな性格なのだと思います。
豊沢(なめとこ山)あたりのクマはおだやかだと色んな人から聞きます。
早池根山の周辺のクマとはぜんぜん違うと。

>熊=人だと感じます。
ツキノワグマはそう人間と違わない気がします。
でもヒグマは少なからず違うんではないでしょうか? 
ヒグマ=人間以上=カムイ。
スケールの大きな配慮がある気がします。
(場所によっていは追いつめられているヒグマもいるのでしょうけれど)。

44千手★:2007/08/26(日) 18:07:19
>>39,>>40
明敏な人はもうその先までわかると思うので言っておくと、
「ヒグマはカムイだ」としてアイヌ文化を語るのではなく、
ヒグマがカムイとしてアイヌの人々に理解されてきたことの根にあることが、
今回の姉崎さんの話から見てきた、ということなのです。
 つまり、ヒグマの偉大を猟師だけが理解していたのではなく、ほとんどのアイヌがそれを理解していて、
それでヒグマをカムイ(=神)と考え、呼んでいたのだろうということです。
 この観点は、これまでのアイヌ文化論を一歩先に進める洞察のははずです。内容そのものは
十七年前に蘭越のおばあちゃんたちが口を揃えて言っていたことでもあるのですが。
今までその意味がわからなかった。
 ヒグマが偉大だからこそ、アイヌの人達は、ヒグマを自分たちの祖先と考えるのです。
ヒグマが強いからだけではない。人間として立派だから。生物として立派だからなのです。

45千手★:2007/08/27(月) 03:06:37
>>44 まとめ
http://25237720.at.webry.info/200708/article_14.html

46千手★:2007/09/23(日) 23:48:22
昨日姉崎等さんから話をうかがってきた。貴重な話。
クマは人間とそう違う事を考えているのではないと。
それを身をもって実証してきた。
観念だけ、思想だけで言われていることには何の関心ももたない人だ。
理由なく人間を襲った「悪い(ウェン)」クマのことをカムイとはいわない。
オレはここにいるという合図は、子連れのクマだけではなく、暖かいところで休んでいる雄グマもするのだという。
彼自身何度も聞き、他にもその合図の音を聞いて逃げ帰ったという人もいるということ。
そして動物も恩を感じ、恩を返そうとするということも。
すべて実証のあることだ。
アイヌ、和人という差を越えて、人間がもちうる互酬の思想。その実践の経歴として得た姉崎哲学。

47千手★:2007/09/23(日) 23:54:48
ヒグマは人間以上に知恵がある、ということ。を何回かいっていた。非常に具体的なケースに関して。
家に帰ったらそれを整理してみたい。
非常に正確な物言い。だから一つ一つの言葉が重たい。

48千手★:2007/09/30(日) 02:18:28
八月の千歳の熊撃ち猟師の対談を中心に、ひとと熊との関わりの深みを探るようなものがまとまってゆきそうです。
多くの人たちの気持ちがよいものを作ろうとまとまってゆきそうなのです。

49ほかいびと★:2007/10/08(月) 01:44:06

北上山地の稗酒、粟酒の作り方について

おととい金曜日に稗酒について聞くことができました。
高田市場は朝6時ころから始まって12時頃には片付けてしまう市で、
私も売りに行ってたので終る頃やっと稗売りを探し始めたのですが、
昨今では採る人も珍しい山の果実などをいつも並べてる
60代〜70前後とおぼしき男女の方に教えていただきました。

今回はたくさんの山ブドウと、もろきみ(黍の種類)を並べていましたが、
早朝に話しをしてた元左官職人さんが山ぶどうを一袋買って
話しをしてたので話しのなかに入れていただいて
「35°の焼酎につけるのですか」と訊ねたら売り子の女性が
「浸すのでなく20°のを振り掛けてビンに入れて置くだけで自然と水分が出てくる。」と教えてくれたのですが、それが山ブドウ酒なのだそうです。
2回はお酒が出来るけど3回目は砂糖を入れると
良いとのアドバイスもしてくれました。

山ブドウのとなりには粟?の仲間である「もろきみ」とこちらで呼ぶ
淡山吹色の黍(キビ)もあったので、これでお酒が作れるか聞いたら
できないことはないが稗や粟を酒にするほうが普通だったそうで、
昔はそれを蒸して麹(こうじ)を絡ませて酒瓶に入れ寝かせて作ったのを
彼女の上の世代のお父さんだか叔父だかが飲んでいたそうです。
そんなに昔のことではないようです。

ただし麹ではあまり効かないので麹より店で売ってる「イースト菌」を絡ませて
寝かせた稗や粟酒だと「すぐに、まぐれる」とのことでした。
こちらで「まぐれる」とは人の手にかかり「死ぬ」ことも意味しますが、
この場合には酔い潰れて寝込んでしまうことを意味してます。

昔ながらの麹より市販の「イースト菌」のほうが確実に発酵し良いお酒になるということでしょう。
昭和40年代のころのウチでもそうでしたが、
味噌を作るのに明治35年生まれの私の祖母も「イースト菌」の効き目を
すでに知ってて茹でた味噌豆を発酵させるのにこれを使っていました。

そうしてみると簡単にお店で「イースト菌」が買えなかった昭和20年代、
お店が遠い山間部ですともしかしたら昭和30年代ころまで、
ふつうの麹を使ってたとすれば、度数の低い、
水臭い「稗酒」、「粟酒」をおそらく飲んでいたのではないかとおもいました。

もうすでに市(まち)が終って片付けが始まりそうだったのですが、
今は米があるのだからイースト使ってドブ(どぶろく)作ったほうがずっといい、
つまり稗、粟をわざわざ使うまでもなく、
もっとおししいお酒が飲めるではないかと
この売り子の女性が私の目をじっと見たまま4、5分間も
視線を逸らさず最後までていねいに説明してくれました。

そういえば、こういう経験はよくあるとおもいます。
都会のお勤め人というか、いかにもバリバリ仕事が出来そうな
背広を着たサラリーマンの目を見ながら話しするときって必ず緊張するものだし、
やがてなんかだんだんに少し怖さを感じてきてしまって
話しを早く終らせたくなるものです。

でも、農村や山村の農家の人々のある年代より上の方々は
人の目をじっと見ながら話すのがあたりまえなのに、
だんだんなごやかな気分になってきて話しがはずみ、
つい長話になってしまいます。
農村、山村の人々の視線は淡くて柔らかいです。トゲがないのですね。

今日は近くの竹細工仲間で牛も飼ってる農家の男性が来て、
田んぼの秋草のうち成長したヨモギは青臭くて家畜が嫌うという話しをしたので、
稲作で雑草として抜かれ嫌われてる「野稗」も邪魔ですね?
と訊いたら意外にも牛にとっては大好物だという答えが返ってきました。

牛は真竹の笹も大好物です。
冬なんか牛小屋で市販の飼料と一緒に与えたら飼料なんか後回しにして
まず竹の葉である笹を食べますし、子牛も喜んで食べます。

桃太郎と彦星を一緒にしてはいけませんが、
キビ団子や笹餅のことも考えてみたくなりました。

それと、七夕は竹や笹竹を使いますが、竹や笹は本来は牛を鞭打つものではなく、
もしかしたら競走馬の鼻にニンジンを吊るすのと同じく、
嫌がる牛を彼等の食欲を利用してすんなり田・畑起しに連れて行くのに
必用なアイテムだったのかもしれないなとおもいました。

50千手★:2007/10/08(月) 21:07:26
>>49
記録としてとても興味深いものだと思います。ただここから何が出てくるのか?
アイヌ民族が稗酒を尊重し、稗酒へのこだわりを少なからずもっていたことと関係してくるのか。
そうしたつながり、関係、しかも差異をもった関係を明らかにするように考察をすすめていって欲しいと思います。

また、このテーマはここ(「哲学」スレ)よりむしろ「民俗学の未来」スレに向いているのではないでしょうか。ご一考下さい。

51千手★:2007/10/09(火) 21:29:34
>>50 補足

もしくは「聞書き」スレに。

52千手★:2007/10/10(水) 07:54:36
>>49
アワ・ヒエ/米
麹/イースト菌

この対比の関係がよく分かりません。
>今は米があるのだからイースト使ってドブ(どぶろく)作ったほうがずっといい、
>つまり稗、粟をわざわざ使うまでもなく、

ヒエ・アワの方が米よりもアルコールを作りやすいのですか?
重要な点です。

それと「もろきみ」、これはトウモロコシとはまた違うのですね。

53千手★:2007/10/17(水) 02:33:33
モエレ山を思う 京都には草山がない

ある喫茶店で東山を見ながら学生のレポートを読んでいた。
大学の近く、白川通り沿いの、東に東山の見える喫茶店だ。
それほどよく来る喫茶店ではないが、レポートを読むぐらいの仕事はできるので、そんなときに時々くる。
その喫茶店を出る時に気がついたのだが、目の前の山、その道からの比高差は六十メートルぐらいなものだ。だがその山にはあまり登る気にはならない。
わたしはあの札幌のモエレ山のことを思い出していたのだ。
モエレ山は登りたくなる。だれでも登りたくなる。それは登りやすいし、登ればすごい見晴らしが開けるからだ。草山なのだ。だからどこかだでも、どんな道を取っても登れる。それがモエレ山の凄いところだ。
だが京都には草山がない。照陽樹にせよ、針葉樹にせよ、落葉広葉樹にせよ、樹が生い茂っている。
そうなると、道が限られる。四メートルの雪に被われることもないので、自由に道をとって登ることができない。京都の人はこういう山に慣れてきているのだ。行儀よく、すでにできている道を登ってゆく。歩いてゆく。けもの道なんていう言葉を知っていても、まず滅多にほんとうのけもの道なんか歩いたことはない。ほとんどの京都人はそういう歩き方以外を知らないのだ。出来合いの道を歩くことしか。
札幌のモエレ山の素晴らしさ。
言うだけ言ってみよう。京都の真ん中にひとつ草山を作ってみよう。どの方向から、どんな道をとっても登れる、見晴らしのよい草の山を。

京都人のメンタイリティーが大いに変ることだろう。
「市民」がはじめて生れるだろう。

54千手★:2007/10/19(金) 01:01:28
>そんなムラも人が暮らさなくなり、壊れつつある。そのプロセスは複雑だが、根っこにあるのは「ムラは遅れている、人材もいない、何もない」とみる考え方なのではないか。インドネシアも同じ方向にある。……
島上宗子「「いりあい交流」がつなぐ日本とインドネシア」(加藤剛編著『国境を越えた村おこし」)より

都市化、都市集中が、グローバルに進んでいる傾向なのだということを知らなかった。
そしてその根にあるのが、この村には何もない、遅れてる、人材もない、ということに尽きるのではないかという指摘。
かなり納得してしまう。通信教育で地方で授業を開講しようとするとき、一番問題になるのは、この人材がないということなのだ。
もちろんそうでない地方もあり、そして視点さえ変えれば素晴らしい人がいくらでもいる、ということは多いのだが、それでも
こういう点での地方の人々の自信喪失は見詰めておかなければならないと思う。

55毛蟹★:2007/10/23(火) 11:54:55
都市への一極集中と地方の過疎化が化学でいうところの「可逆反応」であるならば、数年間日本を鎖国して輸出入を止めてしまえばよい。それがナンセンスであれば、一極集中と過疎化は「不可逆反応」であり、この現象の生成プロセスから解消策が見つかることはないだろう。この状況を変えるためには過去にはなかった「不可逆反応」を引き起こすしかない。そしてそれが出来るのは僕の世代ではない。「ケータイ世代」といわれる若者たちのコミュニケーション方法とテクノロジーが結びつくところに不可逆反応の開始点があると僕は思う。

56毛蟹★:2007/10/23(火) 18:37:27
佐藤成史さん(プロ・フライフィッシャー)のブログにヒグマの話しが出ていました。

http://riverwalkers.jugem.jp/?eid=522#comments

57毛蟹★:2007/10/23(火) 19:22:28
ここにもヒグマに関するブログが。

http://kawanikki.blog57.fc2.com/blog-entry-49.html

58千手★:2007/10/23(火) 21:54:33
>>56,>>57
情報有り難う。どちらも拝見。
でも姉崎等『クマにあったらどうするか』がおまず勧めです。

59千手★:2007/10/24(水) 09:01:25
>>55
直接都市化への逆運動にはならないかもしれませんが、既に始まっているドルの下落という
「不可逆反応」は、多少は政策次第のところもあるでしょうが、円の下落をも招き、「鎖国」に近い方向への
動きを作るのではないでしょうか。WTOはもう立ち直れないでしょうし、二国間、地域間の貿易協定
によって自国の経済を支える方向へ向かうように思います。経済のまったくの素人の見当にすぎませんが。

60千手★:2007/10/25(木) 12:37:52
>>59
6月21日のポツダムの貿易交渉の決裂によるWTO「ドーハラウンド」の失敗のこと。
G7主導的な体制はもう作れないでしょう。
田中宇ニュース
http://tanakanews.com/070626trade.htm
参照。

61千手★:2007/11/03(土) 13:08:54
わたしのブログにも出しているものなのですが、きちんと検討をしてゆきたいのでここにも出します。
ご検討いただければ幸いです。
http://25237720.at.webry.info/200710/article_16.html

ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している

『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の1の最後に、こんな言葉があった。

 ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している。(氷上英廣訳、岩波文庫を参照して拙訳。以下同じ。) (S. 12, Zn. 8-9)

今まで気に留めていなかったのだが、容易ではない言葉だ。なぜなら「ふたたび人間になろうと欲している」のなら、この時彼は「人間ではない」ことになるだろうからだ。では、「人間ではない」としたら彼は「何者」なのだ?

 この言葉は、ツァラトゥストラが山を下りようとする時に出てくる言葉だ。そして語りかけている相手は太陽だ。

  見てください! この杯(さかずき)はふたたび空(から)になろうと欲している。ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲してい
る。 (S. 12, Zn. 8-9)

「この杯」(dieser Becher)とはツァラトゥストラ自身のことだ。その杯にはツァラトゥストラがあなたと呼ぶ太陽のこの上ないよろこび(deine Wonne)が満ちみちているのだ。

  あふれ出ようとしているこの杯を祝福してください。その水が金色にかがやいてそこから流れだし、いたるところにあなたのよろこびの反映を運んで行くように! (S. 12 Zn. 5-7)

 この杯の比喩はリヒャルト・シュトラウスの『献呈』(Zueignung)(作品10-1、詩はギルム(Hermann von Gilm))を思い出させるところがあるが、ここでは杯を満たしてくれるのは「女性」ではなく、「太陽」そのものなのだ。ツァラトゥストラはこの時まで十年間、太陽からその「溢れこぼれるもの」(&Uuml;berfluss)を受け取ってきたのだ。そのツァラトゥストラが、今やみずから「溢れこぼれ」(&uuml;berfliessen)ようと欲しているのだ。キーワードは「溢れこぼれるもの」「過剰・過多・豊富」である。ツァラトゥストラは山にあって太陽の溢れこぼれる豊かさを受け取っていた時、「人間」ではなかった。名づければ「太陽の過剰な豊かさを受け取る者」だった。そうしてみずからも蜜を集めすぎた蜜蜂のように、溢れこぼれる豊かさに苦しむ者になった。彼の場合その溢れこぼれるものは「知恵」(Weisheit)と呼ばれる。「知恵」が溢れこぼれるもののツァラトゥストラ的な形である。そしてその「知恵」をいたるところに流れさせることによって、彼は太陽の「この上ないよろこび」を運び伝えてゆくのだ。「あなたのよろこびの反映」の「反映」(Abglanz)、それは流れる水とともにかがやく金色の光なのだが、それは、ツァラトゥストラが太陽から受け取った豊かさのツァラトゥストラ的な形としての「知恵」のことなのだ。ツァラトゥストラの「知恵」は溢れ流れながら金色にかがやくものを伝え与えて行くものなのである。
 であればこう言えるであろう。ツァラトゥストラのあふれる「知恵」の金色のかがやきを受け取る者、その者も人間ではないと。
 われわれはきっと、贈与のニーチェ的な思索の本質に迫ろうとしているのである。

62ほかいびと★:2007/12/04(火) 01:09:52

『▲5▼ 「国際交流」について考える』 のスレッドの7から抜粋いたします。

>『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の2でニーチェがツァラトゥストラについて、
>>彼は変身した (aber er hat sich verwandelt)とか
>>ツァラトゥストラは子どもになった (zum Kind ward Zarathustra)
>とか言うとき、ここにはたしかに「ある交流が成立した」ということが含意されているだろう。
>ツァラトゥストラの交流とは、太陽との交流であり、それ以外ではなく、
>従って彼の変身や生成は太陽への変身、太陽への生成以外のことではない。
>例えば「リゾーム」の中で、ドゥルーズ&ガタリが生成のことを語るときにも、
>その源にはこのツァラトゥストラの変身、子どもへの生成があるように思えるのだが。どうだろうか?

手塚富雄訳の「ツァラトゥストラ」(中央公論社版)を
小児がはじめて登場するところまで読み、
なぜか宮澤賢治や岡本太郎のことふと思い浮びました。
この本では子供を小児と訳してました。

獅子は鬼神に、
小児は人間と反対のことをするという
餓鬼に似てる部分があるようにおもいます。

リゾームを出されたのは無造作で自由気ままに増殖する
精神活動が野放し状態にあるということかなと理解しました。

青年→少年→幼年と辿るほど
自由で豊かな情念を普段から抱いてるのであり
そこに気付き、意識化し、現実の社会へ
芸術でも科学でも技術面でもよいから
成果を具現して周りの人々を脅かせ続けることが
大事なんでしょう。
そんなこと、おもいました。

63千手★:2007/12/04(火) 19:42:09
>>62
レスを有り難う。「リゾーム」を上げたのは「生成」のためです。
子ども≒餓鬼は思いがけない発想です。獅子≒鬼神も。
 ただ、餓鬼、鬼神についてもっと説明してもらえると有り難いのですが。
 ともあれ有り難う。

64千手★:2007/12/17(月) 00:03:34
 佐藤真さんの『サイード(out of place)』を観た。土地にすっかり根づいてしまってはいけない。また、根なし草になってもいけない。そういうメッセージと理解してよいのだろうか。
 あるいは、ひとはみな人種的にも民族的にも混血で、混血者として自分自身の(固有の)生を描いてゆかなければならない。そいういうメッセージと理解してよいのだろうか。とすればわたしはまったく賛同する。
 ただ映画で一つだけ気になったのはエンディングの曲がシューベルト(「即興曲」)だったことだ。やさしさ・そして傷み。シューベルトはその二つのキーワードで語れてしまうのではないだろうか? 世界のすべての音要素を断片とし、音楽テクストを織り進めてゆくための、シューベルトよりももっとふさわしい音楽があったのではないか。例えば『ヒュムネン』。エンディングに向くというわけではないかもしれないが。

65千手★:2007/12/17(月) 00:22:33
↑修正
http://25237720.at.webry.info/200712/article_13.html

66千手:2008/01/09(水) 21:41:03
ニーチェ論の余白に

 子供たちに時には美味しいものを食べさせてやりたい。わたしにはこれが非常に大きな喜びだ。そして肉は美味しい。旧石器時代の男たちもそういう喜びを感じながら獣を捕え、倒していたのだろう。
 そのことを肯定できない人は、自分がこの世に生きていることも肯定できないだろう。

 他者とは誰か、ひとはこの問いに抽象的にではなく答えなければならない。


"Was liegt an meinem Gl&uuml;cke! … Aber mein Gl&uuml;ck sollte das Dasein selber rechtfertigen!" (Friedrich Nietzsche, Zarathustra's Vorrede 3.)
「わたしの幸福は何だろう! …… わたしの幸福は、人間の存在そのものを肯定し、是認するものとならねばならない!」 (氷上英廣訳、岩波文庫)

67毛蟹:2008/01/10(木) 12:01:47
>>66
>そのことを肯定できない人は、自分がこの世に生きていることも肯定できないだろう。

小十郎は肯定できたのでしょうか?
「空腹」という神様だけが獣を殺すことを祝福し、「満腹」という褒美を与えるのではないでしょうか?
小十郎は、猟師として生きる以外にオプションがなかった、と自らに言うことができたのでしょうか?

68千手:2008/01/11(金) 00:03:34
>>67
「空腹」に対しては植物食の方が有効な戦略だったはずです。

他のオプション、というと、その点で宮沢賢治は小十郎を非常に特殊な存在として描いていることになると思います。
山菜採り、茸取り、川魚漁、炭焼きなどのオプションが当時の豊沢でもあり得たはずです。
実際松橋勝治さんは、後年には組合に入って炭焼きをやっていたということです。
その特殊性を賢治は適切に理解していなかったでしょう。
他の点はまた。

69千手:2008/01/11(金) 00:53:27
>>66ははじめどなたかのブログ
Vermischtes 高橋哲哉『国家と犠牲』
http://nob-kakigi.cocolog-nifty.com/vermischtes/2005/09/post_56b7.html
に対してコメントとして書いたものです。残念ながらそのコメントは消去されてしまいました・

70千手:2008/01/11(金) 00:58:28
>>67
小十郎は「是認(rechtfertigen)」していた。
しかしニーチェがいうように>>66、みずからの幸福のゆえにそれを是認したわけではないように見えます。

71千手:2008/02/24(日) 00:18:44
Tout autre n'est pas tout autre. 
すべての他者がまったき他者なわけではない。
この定式をジャック・デリダ(Jacques Derrida)とその追従者たちに提示したい。
デリダが提示した"tout autre est tout autre"(すべての他者は/まったき他者は、まったき他者だ/すべての他者だ)という定式を批判するためである(デリダ『死を与える』III)。

デリダはこの定式によって、息子イサクを殺そうとするアブラハムの状態を、万人がおかれているきわめてありふれた日常的な状態として提示したのである。デリダは、キルケゴールとレヴィナスを同時に標的にし、両者がともに、信仰と倫理とを分かつ境界を提示し得ないことを示したのであるが、しかしそれによってすべての人間(や生物)を「数量」として把握する思考に落ち込んでしまうのである。というのもすべての他者(すべての人間、すべての生物)がまったき他者であるならば、他者を把握するためには数量的な原理以外のものが不要になるだろうからだ。しかし、ニーチェが語るように、本質的に重要なものは「質」にあるのであり、「質的な差異」にあるのである。

わたしが開こうとしているのは、きわめてありふれた世界観に他ならない。しかしこの世界観は、アブラハム以前の、つまり三大一神教の誕生以前の思考と生活の地平を開くのではないだろうか。ともあれもういちど称えてみよう。
"Tout autre n'est pas tout autre." 
「すべての他者がまったき他者なわけではない」

72千手:2008/02/25(月) 23:59:19

http://25237720.at.webry.info/200802/article_6.html
補足あり

73千手:2008/02/28(木) 01:42:06
距離のパトス ニーチェ対デリダ

われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない。「距離のパトス」(Pathos der Distanz)。この概念である。われわれは「距離」の感情をもって関係し合うのである。そして「絶対的な隔たり」(デリダの「まったき他者」"tout autre")とはいつも錯覚であり、妄想であり、あるいは便宜であり、実用的のための道具である。

デリダの定式 "tout autre est tout autre" の源泉をなすであろうニーチェのアフォリズムを上げておく。
>"Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller &Uuml;brigen ausge&uuml;bt. Auch die Liebe zu Gott." (JGB, IV-67)
>「ひとりの者への愛は野蛮な行為である。なぜならひとりの者への愛はその他のすべての者の費用で営まれるからである。神への愛も同じである」(拙訳) (『善悪の彼岸』第四章67)
「費用」(Unkosten)という経済用語の方が、デリダの使う「犠牲」(sacrifice)という不器用な宗教用語よりも事柄を正しく説明するだろう。

アブラハムの物語についてのデリダの(おそらく故意の)読み誤りもひとつ指摘しておく。
>アブラハムが「我ここに」と言い、息子の喉をかき切ろうと刀を振り上げると、神は言う。「その子に手を下すな。」…… (ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫p.148)
 しかし言葉によってアブラハムの手をとどめるのは創世記では「神」ではなく、「天使」(angelus Domini)である。ここで「神」と「神の使い」との微小な差異をデリダは無視するのであるが、神の直接の言葉によって命じられた行為を、天使の言葉によって止めるのは、神に対する裏切りではないのか、という問題がここから起こって然るべきである。ちなみに別の箇所ではデリダも神と天使を区別している。

74千手:2008/02/28(木) 02:05:02

http://25237720.at.webry.info/200802/article_7.html
補足あり

75千手:2008/02/29(金) 03:10:29

次も書いてしまいました。不勉強を恥じるばかりです。これが因果というものか。
http://25237720.at.webry.info/200802/article_8.html
もう一歩だけ、ニーチェの距離のパトスについて書いて、このシリーズは終了します。
後日再開すると思いますが。

76<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

77千手★:2008/03/02(日) 03:41:21

迷惑サイトからの書き込みがあったので削除しました。
発信アドレスは以下でした。
NWTfb-04p2-194.ppp11.odn.ad.jp

78senju:2008/03/02(日) 04:00:02
>>75の内容を再録しておきます。
隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2
(承前)
デリダはこう言っている。マタイ伝6-6の「隠れたところで見ておられる父は……」(共同訳)を註釈して語っているところにおいてである。(ちなみに邦訳『死を与える』ちくま文庫p.186の「in absconditio」は「in abscondito」の誤り。また、"abscondito"は対格ではなく奪格なので、それを「<u>隠れたことを</u>見ておられる」とする訳も誤りであろう)
> 神は私を見る、隠れたところで私の内の私を見る、だが私は神を見ない、神が私を見るのを私は見ない、神のほうは、私が背を向ける精神分析医とは違って、正面から私を見るというのに。神が私を見るのを私は見ないのだから、<u>私は神の声を聞くことができるだけであり</u>、またそうしなければならない。<em>だが多くの場合</em>、誰かが神を、聞くべきものとして私に与えてくれなければならない。<u>神が私に言うことを、私はある他者の声で語られて聞く。別の他者、つまり使者、天使</u>、預言者、メシア、知らせの配達人、知らせをもたらす人、福音伝道師、神と私の間で語る仲介者<u>などを通して聞くのだ</u>。神と私のあいだ、他者と私の間には、対面関係もなく、視線の交叉もない。神は私に視線を向けるが私は神を見ない。しかしそれにもかかわらず私を見るこの視線から、私の責任がはじまるのだ。
 (ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫、p.186。一部改め。強調は引用者)

長々と引用したが、こうした文章を読んでいると、神が私に直接「語る」ということはないかのごとくに思えてくるだろう。だが、創世記二十二章において神がアブラハムに、その愛する息子イサクを燔祭として捧げるように命じる時、「神は彼に向かって言った」(Deus dixit ad eum)と記されているのである。何の仲介者もなくである。これは神が直接人に語るということがあると考えられていたということではないか?
 そしてデリダ自身も、おそらくそれに気づいていて、こっそりと「だが多くの場合」(mais le plus souvent)と断りを入れているのである。
 デリダ自身は前回わたしが指摘した問題点、つまり「神が語る」と「天使が語る」との間の微妙ではあるが歴然とした差異を、どう考えるのだろうか。そして神の語ったことと相反することをいう天使の言葉を、アブラハムはどう考えたと考えるのだろう。「神が語る」と「天使が語る」の間には差異がないと考えたと考えるのだろうか? しかし「多くの場合」という逃げ道では、創世記の歴然とした記述の差異を完全にくぐり抜けることはできないであろう。

79毛蟹:2008/03/02(日) 09:33:30
僕が思うに一神教の神様は「掟の門前」の掟のようなものであり、もしこの神様(掟)が万物の創造者であるというなら、万物は人間の被造物だということになってしまう。

80毛蟹:2008/03/02(日) 10:28:11
某キリスト教系宗教団体のプロパガンダ紙に「科学の進歩は神の存在を揺ぎないものにする」というようなことが書かれていた。宇宙には秩序を持ったものしか存在しておらず、この秩序こそ神の徴なのだそうだ。ふむふむ。したがって極微の世界から宇宙まで、生物、無生物を問わず科学者は万物に神の痕跡を見出すべく日々精進しているとのことであった。

81毛蟹:2008/03/02(日) 18:59:26
>>73
>われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない

この文章の主語がなぜ「われわれ」という複数形になっているのか教えてください。

82千手:2008/03/04(火) 04:10:47
>>81
ニーチェを知り、かつ"Tout autre n'est pas tout autre"という主張を
デリダの"tout autre est tout autre"という定式に対抗させたいと思う者は
ぐらいのことです。
もっとくだけば、「絶対的な他者」という概念が空虚であると考え、そのことをどう表現できるかを考える者はと言い換えてもよいとおもいます。

83千手:2008/03/04(火) 04:22:04
『死を与える』(ちくま学芸文庫版)はデリダがマタイ伝6-6として引く
"il voit dans le secret"
を一貫して「神は隠れたことを見たまい」と訳すのだが、一体どうすればこんな訳が可能なのか?
誤訳を執拗に押しつけている、としか見えないのだが。

84毛蟹:2008/03/04(火) 11:01:16
>82
ご返答ありがとうございます。
「われわれ」の中に僕が含まれていないことが確認できてスッキリしました。

85千手:2008/03/04(火) 19:04:21
>>80
その神様は奇跡は起せないわけですね。

86毛蟹:2008/03/04(火) 20:39:23
>>85
よくは知らないけどオフ中らしく、デーモンという名で休暇を楽しんでおられるとか。

87千手:2008/03/04(火) 23:35:13
>>82
デリダの天才、それは次のような神概念の提出にあります。
「神とは、内部では見えるが、外部では見えないような秘密を、私が守ることが出来るという可能性に付けられた名である」
(『死を与える』p.220)

言い換えると、「鉾走」ができることの根拠の名ですね。
これはまったく天才的な神概念の転換ですね……。

今日明日でこの概念を検討し抜きたい。

88千手:2008/03/04(火) 23:37:52
>>86
神様もうかうかしているとアホな天使が勝手に奇跡を起こしてしまいますよ。

89千手:2008/03/05(水) 12:16:23
>>87
原典を紹介しておきます。
Dieu est le nom de la possibilit&eacute; pour moi de garder un secret qui est visible &agrave; l'int&eacute;rieur mais non &agrave; l'ext&eacute;rieur. ("Donner la mort" p.147)
デリダの『死を与える』の中で最も重要な言葉だと思います。

90千手:2008/03/05(水) 12:25:13
>>84
>「われわれ」の中に僕が含まれていないことが確認できてスッキリしました。
ほんとうに含まれていないんでしょうか?

91毛蟹:2008/03/05(水) 18:50:52
>>90
僕は千手さんの語り口や身振りが嫌いではありません。しかしそれは自分が望んであなたのテキストを読む時に限られます。掲示板は本ではありません。僕は何ら予告もなく唐突に議論の中に己が組み込まれるのを善しとしません。

何を語るかよりもどのような語り口で語るのかについて人はあまりにも無頓着です。もちろん自戒を込めて。

92毛蟹:2008/03/05(水) 19:12:08
>>87
>これはまったく天才的な神概念の転換ですね……。

>今日明日でこの概念を検討し抜きたい。

この語り口は心地良いです。>90と91は無視して続けてください。オーディエンスは酷薄なものです。
僕はデリダの「掟の門前」で一神教の神さまの正体を見せてもらった気がしています。その先をどうぞ。

93千手:2008/03/06(木) 00:35:31
>>89
しかしここで「秘密が守られる」(garder un secret)とすると、あの"tout autre"(述語の方の)が復活してしまう。生きてしまう。
デリダの勝ちなのだろうか?
いや、これも距離(Distanz)の一つの形か?
ニーチェが考えるような超人は千の隔たり、万の隔たりをこともなくわがものとする浪費家だ。何一つ秘密にする、隠す、ということがないが、その存在(本質)自体が秘密でありつづけてしまうのだ。
「秘密を守る」ということ自体せせこましいことだ、とニーチェならデリダと、そしてアブラハムに言うことだろう。
小人にとっては「すべての他者はまったき他者だ」。
同じく、小人にとって「神はまったき他者だ」。
デリダ君、これでよろしいか?

94千手:2008/03/06(木) 00:40:07
>>93
「ペルセポリス演舞場」を併設しよう、かな。

95毛蟹:2008/03/06(木) 00:40:49
>>90
僕は、神様が直接語ったか、天使が語ったか、そんな議論に組したくない。
神様なんて人間の作ったものじゃないか。

96毛蟹:2008/03/06(木) 00:54:41
>>93
それで結構。「神はまったき他者」です。

97千手:2008/03/06(木) 00:59:24
すべての力は隔たり(Distanz)をもって関係し合う。 

(ニーチェ・ドゥルーズ)

98千手:2008/03/06(木) 01:11:38
>>97
それゆえ、"tout autre n'est pas tout autre"である。

99千手:2008/03/06(木) 01:50:58
>>87,>>89,>>93,>>97,>>98
マイ・ブログに収録
http://25237720.at.webry.info/200803/article_1.html

100千手:2008/03/06(木) 02:47:50
>>96
毛蟹さん

>>87
の引用でデリダが提出しているのは外部に存在している神ではなく、内面性においてのみ問題になる神です。
きわめて短い引用で誤解させてしまっているかもしれません。
できれば『死を与える』のご一読を。


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