[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
哲学的・雑談的 3
108
:
衒学者
:2008/03/07(金) 22:02:58
デリダ言うところの「秘密」とはおそらく概念のことではなく、
選択しうる行動の一つのことを言っているだけなのではないでしょうか。
「隔たりを埋めようとするときの自己」は既に「他者と隔たっていたときの自己」とは違うから、
(隔たりを埋められるところの他者も同様でしょう)
「他者」または「自己」という概念を「使う」とき、それらは定義として「隔たった二つの現存在」となっていなければならないのでしょう。
千手さんが言う他者がまったく他者でない可能性もあるという話は、
前述のように『概念を「使う」とき』、その行動の一部分にミスがある可能性を指摘しているということなのでしょう。
ですがそれは、概念としての「他者」が世界内から完全に消えることを意味しません。なぜなら、
現存在は時間の中で常に存在的にも存在論的にも変化しており、あらゆる「他者」に接近していって隔たりが消えたとしても、
新たな「質の差異」を持つ他者は生まれてくるからです。
更に言えば、「質の差異」を理解することが完全な「他者」理解というわけでもないでしょう。
また、デリダが「他者」の定義にさかのぼり、
「他者」が「まったくの他者」であることを強調したのには、
新たな他者理解の地平を作り出すためのスタートとなる基準地点にまで戻る必要があったからではないでしょうか。
もちろん、数量的理解も質的理解もそういった理解の中の一部でしかないでしょう。
そして結局、どのような他者理解を行うにせよ、それらの議論はすべて政治的、経済的な問題なのです。
またそのような状況では、「他者」や「自己」といった言葉が本来の定義から離れ、サブリミナル効果的なキャッチフレーズとして、
いい様に利用されかねない危険があるわけです。
デリダはそのような状況で、「倫理」を再構築してみせることで(時にはそのスタート地点となる極論的定義に戻るとしても)
「倫理」が忘却されることを防ぎます。また、再構築された「倫理」を現実に積極的に適用することで、
「倫理」のその本来の機能に即した更新を目指します。
ですから、「他者」を理解するという行為が、良い意味でも悪い意味でも「数量的」になりうる事の確認自体は
一つの確認としてむしろ有用だということなのです。
そして前述のように、「他者」は二通りの意味(時間に即した変化、誤認識の解消)で変わりうります。
もちろん変わらない場合というのは、ニーチェ言うところの「距離のパトス」が存在する場合でしょう。
よって、「他者」はまったき「他者」であると言い放つことは、
論理的にも倫理的にも間違ったことではないでしょう。
誰かを名指しにして、「彼はまったくの他者だ」と言うのとは状況が違いますからね。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板