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哲学的・雑談的 3

73千手:2008/02/28(木) 01:42:06
距離のパトス ニーチェ対デリダ

われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない。「距離のパトス」(Pathos der Distanz)。この概念である。われわれは「距離」の感情をもって関係し合うのである。そして「絶対的な隔たり」(デリダの「まったき他者」"tout autre")とはいつも錯覚であり、妄想であり、あるいは便宜であり、実用的のための道具である。

デリダの定式 "tout autre est tout autre" の源泉をなすであろうニーチェのアフォリズムを上げておく。
>"Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott." (JGB, IV-67)
>「ひとりの者への愛は野蛮な行為である。なぜならひとりの者への愛はその他のすべての者の費用で営まれるからである。神への愛も同じである」(拙訳) (『善悪の彼岸』第四章67)
「費用」(Unkosten)という経済用語の方が、デリダの使う「犠牲」(sacrifice)という不器用な宗教用語よりも事柄を正しく説明するだろう。

アブラハムの物語についてのデリダの(おそらく故意の)読み誤りもひとつ指摘しておく。
>アブラハムが「我ここに」と言い、息子の喉をかき切ろうと刀を振り上げると、神は言う。「その子に手を下すな。」…… (ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫p.148)
 しかし言葉によってアブラハムの手をとどめるのは創世記では「神」ではなく、「天使」(angelus Domini)である。ここで「神」と「神の使い」との微小な差異をデリダは無視するのであるが、神の直接の言葉によって命じられた行為を、天使の言葉によって止めるのは、神に対する裏切りではないのか、という問題がここから起こって然るべきである。ちなみに別の箇所ではデリダも神と天使を区別している。


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