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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

1避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 08:14:59 ID:wCRrWiVM0
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL: https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/

757避難民のマジレスさん:2022/03/31(木) 23:16:02 ID:0kLA/JdU0
144.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part2③

Q:なぜ、あなたはラマナ・マハルシの写真を飾っているのですか?

 ある人から恩恵を受けた時、どうしてその人を忘れることが出来るのかね? 誰も与えることのできなかった「それ」を与えてくれた人をどうして忘れることが出来るのかね? 

マハルシ以外に誰も幸福は内にあると教えて、苦しみを取り除いてくれた人はいなかった。だからこの地球に生きている限り、その人に恩を返すべきだ。

 誰かがあなたを助けてくれたら、有り難うと言って$100差し出すかも知れない。しかし、全ての苦しみを永遠に取り除いてくれた人にどのようにして恩返しをすることができるのか?

あなたがどこに行こうともその人が後について来て、全ての面倒を見てくれる。彼はパンジャブの私の家にも来てくれた。それは誰も信じることのできない奇跡であった。なぜなら彼がパンジャブに現れた時、彼はアルナーチャラにいたからだ。

 私は「それ」を求めてインド中を探し回った。「『それ』は内にある」ということを知らなかった。その時、マハルシがパンジャブの私の家にやって来て、アルナーチャラの住所を私に与えてくれた。

 しかしどのようにして彼のところに行ったらよいか? 軍隊を引退してグル探しに全てのお金を使ってしまった。その時新聞の求人広告で、マドラスの会社が引退した陸軍の士官を探しているのを見つけ採用された。そして前金も送られて、そのお金で真っ直ぐにマハルシのところに行き、その一ヶ月後仕事に着いた。

 私がアシュラムに着くと、パンジャブで私に住所をくれたその人がいるのだ。私はその人が自分自身の宣伝をしたに過ぎないと落胆して彼には会わなかった。

 その時ある紳士が私に話しかけた、「あなたは北部からやって来た人だね。」

「はい、そうです。」

「しかし、今着いたばかりなのにもう帰るのかね?」

 それで私は説明した。「この人はパンジャブの私の家にやって来て、私が尋ねた質問の答を得る為にはここにやって来なければならないと住所をくれました。」

 紳士は答えて、「それは何かの間違いだ。彼がここに来て以来50年間、彼は一度もアルナーチャラから離れたことはない、他の人にも聞いて見なさい。」

 このようにして全てが始まった。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

758鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/01(金) 00:10:04 ID:1d4drIFg0

 本当に必要としていたら師は目の前にもいるじゃろう。
 全ては心が作り出すのであるからのう。
 奇跡でもないのじゃ。
 観る必要があるものが見えるのじゃ。

759避難民のマジレスさん:2022/04/01(金) 00:26:41 ID:YeVypRL60
145.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part2④

慈悲と奉仕

慈悲は自由である人に飾られた宝石だ。
この種の慈悲は練習することはできない。
全てがあなたの真我だ。いったい誰が誰を助けているというのか。
この種の慈悲はボーディサットヴァとして人間に生まれかっわって来る。
慈悲はやり手が消えた後に生まれるダルマだ。

真理については愚かな人々に話さないことだ。
単に愛と幸福を分かち合いなさい。
ノーマインドは神からの偉大な贈り物だ。
話さなくてもその沈黙は全地球に行き渡る。
沈黙のバラの花がそのその美しさを放つように。
静寂のうちに座りすべての存在に平和を送りなさい。
海の水は空になっても愛と平和には限りがない。
無我の奉仕としてそれを分かち合いなさい。
これが礼拝だ。

Q:全てが消えていきますが、「私以外の他の人々を助けなければならない」という思考が消えません。

 この消えない思考は誰に属しているのかね? 消えないこの思考の根源を探し出さない限りどんな修行も瞑想も役に立たない。この消えない思考が「私」という思考だ。

 「私」は思考だと誰も知らない。「私」という思考が存在しないときは他の思考も存在しない。だから「私」という思考の根源を断ち切りなさい。あなたはうまくやっているが、誰が盗人か知らない。盗人を捕まえなさい。あなたを騙している盗人は「私」だ。

 他人を助けたいのならあなた自身が自由になることだ。地球上でもっとも裕福な人は全世界を2〜3日養うことができるかもしれないが、仏陀は2600年間世界を養ってきた。

Q:どのようにして世界をよくすることができますか? 

 私の教えは世界を改革することでも、あなた自身を改革することでもない。私が話すことをただ聞いて理解しなさい。

  世界は存在したことはない。
  存在しないものをどのようにして改革するのかね?
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

760鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/01(金) 23:44:32 ID:1d4drIFg0

 他人も世界も自分の心が創った幻影に過ぎないのじゃ。
 自分が自由にならなければ世界も他人も自由にならないのじゃ。
 自分の心の反映であるからのう。
 自分という観念がなければ全ては平和なのじゃ。

761避難民のマジレスさん:2022/04/01(金) 23:51:56 ID:PAc1Nte.0
146.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part3①

愛:彼方から彼方へ

自由とは誰も知らない何かが始まるということだ。
サットサンガには終りがない。
測り知れない至福が常に湧き上がってくる。

「私は存在―意識―至福だ」という揺るぎない確信を得ることが教えの終焉だ。
しかしこの彼方に神聖な秘密がある。
この神聖な秘密は密かに尋ねられ
神々しくそれに従わねばならない。

絶え間なく源泉に行き続けなさい。
源泉にさえ着地しないことだ。
まだ彼方がある、
限りなく深みに進みなさい。

平和ー気づき-至福から最後の半歩を踏み出しなさい、
そこにはマインドの彼方に息づく神秘が・・・。

Q:発展の最後のステージいるあなたにとってまだ進歩がありますか?

 これは非常に良い質問だ。「これが最後のステージで全てが終わった。これ以降は経験すべき発展も進歩もない」これが多くの悟った人が述べたことだ。

 どの本にも書かれていないが、私はこの方面でまだ何か展開すべきことがあると信じている。理解には終りがない。完璧に最終の実現をした後でも純粋な意図がある限り、まだ成されるべき何かがある。

 それについて話したことはないし今も話さないが。それは知的な把握を超えているので、それを知っている人は表現することは出来ない。私はそれが何か言いたいのだ。

 クリシュナがアルジュナに言ったようにそれは神聖な秘密だ。

 「あなたに授けるこの知識は神聖な知識だ。他の誰かに告げられるべきものではない。」

 私には神秘が非常に神聖で秘密だということが分かる。それは言葉では言い表せない。私はそれを隠しているのではない、ただ話せないのだ。おそらく話すときが来るかもしれない。たとえその時が来ても誰も理解することはできないだろう。

Q:神秘について何か話していただけますか?

 神秘について話すことができたとしたらそれは神秘であるはずがない。それはミステリーではなくヒストリーだ。この叡智は何か誰も知らない。そこに行った人々は二度と戻ってこないからだ。

Q:神秘は真我を超えているのですか?

そうだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

762鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/02(土) 21:44:43 ID:1d4drIFg0

 真我は法として人を導くためのものじゃ。
 それはまだ言葉にして語れるものじゃ。
 神秘はもはや言葉にはできないのじゃ。
 言葉にしてしまえば全ては嘘になるのじゃ。
 実践によって自ら達するしかないのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 22:27:19 ID:gUkKzeYA0
147.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part3②

Q:愛とは何か知りたくて仕方がありません。

 この愛に対する熱望が100%充分ではないので、愛に関する質問が起こってくるのだ。河の水面から頭が突き出しているときだけ話すことが出来る。頭を愛の河に沈めたまま話そうとしてごらん。話せるかね?

 話すときは頭がいつも河の水面から突き出て河の両岸にいる人々に話しているのだ。頭が完全に愛の河に沈み込めば、愛について質問することはない。

   愛は身体の毛穴を通じてそれ自体で話す。
   口を開けて離す必要はない。
   愛には言葉がない。
   愛について話すことや経験することができるものは愛ではない。
   考えや饒舌は哲学で愛ではない。

   愛すると愛になる。
   誰が誰に話すというのか?
   ただ見つめてごらん、すると愛が起こる。
   全てが偽りだ、人工的だ、愛以外の全てが。

   愛するとどのように愛するかが分かる。
   分からないというのなら愛ではない。
   愛は内からひとりでにやってくる。
   それを妨げることは出来ない。
   愛があるとき残りの全てが終わりだ。
   他のものに対する執着は落ちる。
   愛だけが、愛することだけが存在する。

   時間がかかるというのは延期していることだ、
   愛のほかに興味があるのだ。
   愛は自発的でハートの住人だ。

Q:「私である」私が宇宙の踊り手に見えます。ありがとうございます。

 私はこの経験を祝福しよう、実際にはそれは経験ではないが。これはここで起こって、あなたは真理への最後のステップに入る。これがあなたの人生の目的だ。

 真理を実現した後は全てを目撃する。良い悪いの判断はない。全てがゲームだと悟る。もし誰かがキスするならOK。誰かがあなたを打ったなら、彼の手が傷つかなかったか確かめなさい。

 昔、ある聖人がいて、水を飲むために川に降りて行った。川の中にサソリが押し流されているのに気づいて、助けようと手を差し伸べたら指を噛まれた。サソリに噛まれるとそれは痛いものだ。

 それでも彼は何度もサソリを助けようと試みて、その度に指を噛まれた。これを近くで見ていた人が聖人に尋ねた。

 「あなたを噛もうとしているサソリをなぜ助けようとしているのですか?」

 聖人が言うには、「習性である噛むことをサソリがやめないのに、なせ私の奉仕の習性をやめるべきかね?」

 だから、演じるには難しいゲームであるかも知れない。あなたに噛みつく多くのサソリはいるし、うじ虫が餌になるあなたを待っている。死があなたを待っている。

 だから、あなたの息が続く限りこのゲームを演じなさい。まわりで起こっていることを全て目撃していなさい。そうするとあなたは賢人だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

764鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/03(日) 21:46:39 ID:1d4drIFg0

 愛についての知識は愛ではないのじゃ。
 むしろ愛から遠ざかる障害になるものじゃ。
 知識とは記憶であり、過去のものであるからのう。
 記憶に囚われていては今ここにある愛は感じられないのじゃ。
 言葉もイメージもない愛は、自他の分別がなければただあるものなのじゃ。

765避難民のマジレスさん:2022/04/03(日) 23:38:33 ID:aPVtJg4A0
148.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part3③

Q:パパジ、私は内なる家にいつも永遠にいます。かって離れたことがないものに入るのは不可能だし、入ったことがないものから離れるのは不可能です。広大な動かない平和があるだけです。

 説明することはできないが、ある種の「熱望」がいつも、いまだに底流を流れている。悟りの前にも後にもこの「熱望」は存在し続ける。しかし、無知が叡智に対して持つ「熱望」ではない。

 「叡智を獲得したら全ては終わりだ、これ以上の経験はない」とある人達は言うが、「それ」は測り知れないものだから、いまだに「それ」に向かって行こうとする動きを私は感じている。

 あなたは「それ」そのものであるが、しかも、あなたを愛にもっと近くもっと深く連れて行こうとする力がその底で働いている。あなたはこの経験をしたのだから分かると思うが、「それ」には終わりがない。しかし、それについては説明することができない。

 「それ」が測り知れないなら、この愛の過程もまた測り知ることなく決して終わることはない。それは河が海に流れ込むようなものだ、ただ広がり続けて、海と河という関係は無くなる。そして、海の底から海の表面へと動き続ける!!(笑)

Q:無の中で愛はもっと深まるように思われます。

 無の中には愛も美もないという人がいる。この手の学派にいる人は「無とは全く何もないことだ」と言うが、これは私の経験ではない。

  底知れぬ無。
  無のまさにそのセンター、
  奥深い無に到着くすると、そこに愛と美が・・・・
  それはとても美しい。

Q:パパジ、私達一人一人に与えて下さったものに、心の底から感謝します。

 あなたの人生、時間、身体を完全に明け渡して、私達に必要な全てを与える為に献身して下さった。

 あなたは本当の降伏、献身、慈悲とは何かを示して下さった。あなたの臨在と知恵に溢れた言葉で、真の知識を私達に明らかにし、平和を与えて下さった。

 あなたの日常生活の中に私達を招待して下さって、どのように巧みにこの世界で生きて行くかを教えて下さった。

 あなたのハートに私達を永遠に取り込み、私達を言いようもない至福に満ちた愛に溺れさせて下さった。

 本当に有り難うございます。パパジ、あなたの愛が私達をその中に溶かして行く、この愛は一体何ですか? 私達は心からあなたを愛しています。信じられない位愛しています。(跪いて、マスターの足にキスをする)
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

766鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/05(火) 00:03:21 ID:1d4drIFg0

 自他の観念がなければそこにも愛があるじゃろう。
 他人と自分が同じであるという感情が真の愛の源泉なのじゃ。
 そこには愛別離苦も怨憎会苦もないのじゃ。
 それこそが永遠の愛の始まりなのじゃ。

767避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 00:12:24 ID:oC/z6xpc0
149.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part3④

  愛には愛の中に絶え間なく引きずりこむ、測り知れない力がある、
  真我は真我の中に永遠に広がって行く底力を持っている。
  無の深さ、これがどのように私が愛を経験しているかだ。
  この測り知れなさに入って行けば行く程、
  もっと吸引され、魅せられ、その中に溶けて行く。
  この美しさが魅了し続ける
  その中に深く行けば行く程、一瞬ごとにもっともっと愛の中に入って行く、
  この一瞬は純粋の愛、永遠の愛だ、
  全てが愛、全てがこの愛だ、逃げ道はない。

  愛は真我、理解は必要ない、完璧だ。
  愛以外には何もない、それは歓喜の源。

  「ここ」、「ここ」に愛の秘密が、さあこれをあげよう。

  まず、愛しなさい、
  それから話しなさい。
  愛を話すのに頭は必要ない、ハートだけだ。
  このハートの中では家に戻る為の地図は必要ない。
  あなたはすでに家にいるのだから。
  この愛の中で「ここ」にいることが最も簡単なことだ。
  他の全ては努力だ。
  全ての考えを取り除くこと、これが愛だ。

  愛、ハート、この瞬間が真理。
  この愛を見るには、愛で全てを見ることだ。
  ハートから見るとハートだけが見える。
  エゴから見るとエゴが見える。
  この瞬間の愛は「私」にも「あなた」にも属さない。
  だから、私は愛の中にいる。
  マインドはノーマインドの時、それはハート。
  ハートは、真我は、アートマンは、無。

  バラは沈黙して人を引きつける。
  愛の中にいる人はその美しさで輝く。
  愛を貯めておくことができないなら、全てに全てを与えなさい。
  愛はいつも泉のように満ちて来る。
  全てを愛し、何があろうとも、全てを愛しなさい。
  これが全ての戦いに勝つ秘訣だ。

  愛はいつもあなたを愛している。
  この愛なしに呼吸はできない。
  この愛なしに生きることはできない。
  あなたはこの愛、あなたは「それ」だ。

  ただ、静かにしてそのように居なさい。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)
第13章 自由 終了  

「真理のみ」ウェブ掲載版 全編終了

768鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/05(火) 21:47:27 ID:1d4drIFg0

 愛という思いによって人は自分を手放すことができるのじゃ。
 それは恐れの反対であるからなのじゃ。
 誰も恐れの中では自分を明け渡せないのじゃ。
 愛によってのみ人は全てを明け渡せるのじゃ。
 それが愛の道なのじゃ。

769避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 08:56:49 ID:s83mPz9Y0
1936年12月16日

バローダの代表として国際宗教会議に参加したグジャラート人のナトヴェルラル・パレック氏がこの地を訪れている。
彼は若い男性で、身だしなみがよく、注意深く、自分が積んだ功徳をかなり自覚している。
彼は、いくつかの質問を書いたメモをシュリ・バガヴァンに差し出した。

質問者
 アートマ・パラマートマ・サッチターナンダを悟ることができるようお願いします。

マハルシ
 アートマ・パラマートマ・サッチターナンダとは、一つの同じもの、つまり真我を意味します。
 そうでなければ、そこに喜びはないでしょう。
 もしそれが永遠でないなら、始まりがあるはずです。
 始まりがあれば終わりもあるため、それは一過性のものに過ぎません。
 一時的な状態を求めても仕方がありません。
 事実、それは努力なしに、常に意識している平和の状態です。
 努力なしに気づきを保っている状態が至福であり、それが悟りなのです。

質問者
 私は知的な答えが欲しいのではありません。現実的な答えが欲しいのです。

マハルシ
 そうです。
 直接的な知識には、知的な言説は必要ありません。
 真我は誰もが直接体験しているのですから、そのようなものはまったく必要ないのです。
 誰もが、"I am(私は在る)"と言っているのです。
 それ以上、何か悟るべきことがあるのでしょうか?

質問者
 私にはよくわかりません。

マハルシ
 あなたは存在しています。
 あなたは "I am(私は在る)"と言っています。
 それは存在を意味します。

質問者
 しかし、私はそのこと、すなわち私の存在について確信が持てません。

マハルシ
 ほう!では、今話しているのは誰なのでしょうか?

質問者
 私です、確かに。
 しかし、私が存在するかどうか、確信が持てないのです。
 しかも、私の存在を認めることは、私をどこにも導かないのです。

マハリシ
 存在を否定する誰かさえいるはずです。
 もしあなたが存在しなければ、質問者は存在しませんし、質問も起こりえません。

質問者
 私が存在すると仮定してみましょう。

マハルシ
 なぜ自分が存在するとわかるのですか?

質問者
 私が考え、感じ、見るからです。

マハルシ
 つまり、あなたの存在はこれらから推論されるということですね。
 さらに、眠りの中では、感じたり、考えたりなどしていないのに、存在があるのです。

質問者
 しかし、そうではありません。
 私は、深い眠りの中で自分が存在するとは言えません。

マハルシ
 では、あなたは睡眠中の自分の存在を否定するのですか?

質問者
 眠りの中で私は存在するかもしれませんし、存在しないかもしれません。
 神のみぞ知る、です。

マハルシ
 あなたは眠りから覚めると、眠りにつく前に何をしていたかを思い出します。

質問者
 眠る前と眠った後のことは言えますが、眠りの中にいたのかどうかは言えません。

770避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 08:58:02 ID:s83mPz9Y0
マハルシ
 あなたは今、眠っていたと言いますね?

質問者
 そうです。

マハルシ
 眠っている状態を覚えていない限り、どうしてわかるのでしょうか?

質問者
 眠っていたとは言えません。
 そのような存在を認めても、どこにも行き着きません。

マハルシ
 人間は、眠りに襲われるたびに死んで、目が覚めたら蘇生しているということですか?

質問者
 そうかもしれません。
 神のみぞ知る、です。

マハルシ
 それなら、神を呼んで、これらの謎の解決策を見出させましょう。
 もし人が眠ったまま死ぬとしたら、人が死を恐れるのと同じように、人は眠りを恐れることでしょう。
 しかし、実際には人は眠りを求めるのです。
 そこに喜びがない限り、なぜそうでなければならないのでしょうか。

質問者
 眠りには積極的な快楽はありません。
 睡眠を求めるのは、疲労を取り除くためだけです。

マハルシ
 そうですね、「疲労から解放されるため」というのは正しいです。
 疲労から解放された人がいるのです。

質問者
 そうです。

マハルシ
 だから、あなたは眠りの中に存在し、今も存在しているのです。
 あなたは眠りの中で、感じたり、考えたりすることなく、幸せでした。
 同じ人[あなた]が今も続いているのに、なぜあなたは幸せでないのでしょうか?

質問者
 どうして、幸せがあると言えるのでしょうか?

マハルシ
 みんな、スッカマハマスヴァプサム(私は幸せに眠った/幸福に眠っていました)と言いますね。

質問者
 私は、彼らが正しいとは思いません。
 スッカ(至福)はなく、悲しみがないだけなのです。

マハリシ
 あなたの存在そのものが至福なのです。
 ですから、誰もが「私は至福の眠りについていた」と言うのです。
 それは、人は眠りの中で原初の無垢の状態にとどまっているということです。
 悲しみについては、何もありません。
 眠りの中に悲しみがないと言うのなら、それはどこにあるのでしょうか?
 現在、真我を身体と間違って同一視していることが、これらすべての誤解を生んでいるのです。

質問者
 私が欲しいのは悟りです。
 私は現在、自分が本来持っている幸福な性質を感じていません。

マハリシ
 それは、現在、真我が非真我と同一視されているからです。
 非真我もまた、真我から離れているわけではありません。
 しかし、肉体が離れているという間違った観念があり、真我が肉体と混同されているのです。
 幸福を実現するためには、この間違った識別を終わらせなければなりません。

質問者
 私は自分ではどうすることもできません。

(エンジニアは師に帰依することを勧めました。)

質問者
 同意します。

マハルシ
 あなたの本性は幸福です。
 あなたはそれが明らかでないと言っています。
 あなたの真の存在から何が邪魔をしているのか見てみましょう。
 その障害とは、間違ったアイデンティティであると指摘されています。
 だから、その誤りをなくしなさい。
 患者は、治るために医者の処方した薬を飲まなければなりません。

質問者
 しかし、患者は自分ではどうすることもできないほど弱いので、無条件に医者の手に身を委ねているのです。

マハルシ
 医者には自由にさせ、患者は何も言わずに黙っていればよいのです。
 同じように、黙っていなさい。
 それは努力を要しません。

質問者
 それが最も効果的な薬でもあるのですね。

771避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 09:39:05 ID:s83mPz9Y0
その他、彼が書き留めた質問は次のようなものだった。

質問者
 神の存在を私に確信させてください。

マハリシ
 真我の実現は、そのような確信に相当します。

質問者
 プラーラブダ(過去のカルマ)とプルシャカラ(ここでの自己努力)とは、どのように関係しているのでしょうか?

マハルシ
 プラーラブダは、カルマ(行為)です。
 そのためのカルタ(実行者)がいなければなりません。
 そのカルタが誰なのかを見なさい。
 プルシャカラとは、努力のことです。
 誰がそれを働きかけるのかを見なさい。
 そこには同一性が確立されています。
 その関係を知ろうとする者自身が繋ぎ目なのです。

質問者
 カルマや生まれ変わりとは何ですか?

マハルシ
 カルタ(行為者)を見れば、カルマ(行為)は明らかになります。
 もし、あなたが今生まれたら、生まれ変わるかもしれません。
 あなたが今生まれているかどうか見てください。

質問者
 ジョーティダルシャナ(光のビジョン)を得るのを助けてください。

マハルシ
 ダルシャナ(見ること)は、ドラシュタ(見る者)を暗示します。
 彼を見つけなさい、そうすればダルシャナ(見ること)は彼の中に含まれます。

772鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/13(水) 00:12:21 ID:1d4drIFg0

 マハリシはいくつもの質問に対して、いずれも自分を見ることを薦めるのじゃ。
 それこそが全ての仏陀達の説いた唯一の法なのじゃ。
 言葉や方法は違っても、心の中に自分を観察する主旨は同じなのじゃ。
 それが観えたら、悟りもやってくるのじゃ。
 そして眠りの中でも消えない意識があると感得するのじゃ。

773避難民のマジレスさん:2022/04/13(水) 07:12:16 ID:Qgecbs4E0
羊飼いのプーヴァンは、シュリ・バガヴァンを30年前、ヴィルパクシャ洞窟時代から知っていると言う。
彼は、当時、訪問者にミルクを提供することもあったのだった。

6年ほど前、彼は1匹の羊を見失い、3日間探し続けた。
その羊は妊娠しており、彼は野生動物に襲われたと思い、羊を取り戻せる見込みは全くなかった。
ある日、アスラマムの近くを通りかかったシュリ・バガヴァンは、彼を見かけ、最近どうしているか尋ねた。
男は、迷子の羊を探していると答えた。
シュリ・バガヴァンはいつものように黙っていた。
そして、羊飼いに石を持ち上げるのを手伝ってくれるように頼み、彼はとても喜んでそれをやった。
作業が終わると、シュリ・バガヴァンは羊飼いに言った。
「この道を行きなさい」と、町に向かう歩道を指さした。
「この道を行けば、迷子の羊を見つけることができますよ」。
そこで彼はそうすると、2匹の子羊を連れた見失った羊を見つけたのだ。

羊飼いは言う、
「この人はなんというバガヴァンなんだろう!
 彼の言葉の力を見てください!
 彼は偉大だ!
 私のような貧しい者さえ決して忘れません。
 私の息子のマニッカムのことも覚えてくれています、慈悲ぶかく。
 このような人が偉大な人なのです。
 私は、盛った雌牛の世話など、どんな小さなことでも、彼のためにできることがあればうれしいのです」。

774避難民のマジレスさん:2022/04/13(水) 12:20:10 ID:Qgecbs4E0
マハルシも神通力を持っていたのでしょうか?

775鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/13(水) 23:34:39 ID:1d4drIFg0

 ↑もっていたじゃろう。
 それは悟った者にとっては当然のことであるがのう。
 迷い羊がいつもいるところを知っていたのじゃ。
 いつか飼い主がくると思っていたのじゃろう。
 羊飼いが来たからわかったのじゃ。
 不思議に見えても全ては繋がっているからわかるのじゃ。

776避難民のマジレスさん:2022/04/14(木) 06:14:56 ID:6aogKkR.0
ラマナ・マハルシとの対話297

1936年12月18日

コーエン氏が尋ねた。

質問者
 瞑想は、ジャーグラト(目覚め)の状態での心とともにあります。
 夢の状態にも心があります。
 なぜ、夢を見ているときには瞑想がないのでしょうか?
 そもそも可能なのでしょうか?

マハルシ
 夢の中で訊いてください。

短い沈黙の後、シュリ・バガヴァンは続けた。

マハルシ
 あなたは、今瞑想して、自分が誰であるかを知るようにと言われています。
 そうする代わりに、あなたは「なぜ夢や眠りの中では瞑想がないのか」と尋ねるのです。
 もし、誰にとってジャーグラト(目覚め)があるのかがわかれば、夢と眠りもまた同じ者とって存在することが明らかになるはずです。

 あなたはジャーグラト(目覚め)、スワプナ(夢)、スシュプティ(眠り)の目撃者です……むしろ、それらがあなたの前を通り過ぎるのです。
 あなたは今、瞑想から外れているので、このような疑問が湧いてくるのです。
 瞑想に専念し、これらの疑問が生じるかどうか見てみましょう。

777鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/15(金) 00:08:33 ID:1d4drIFg0

 夢の中で何がどうなっているのか、などという疑問は仏陀には無意味なのじゃ。
 そんなことは死すべき人間が気にするべきことでもないのじゃ。
 せっかく死を超えた仏陀に会えたというのに、夢の中の夢について聞いても何の利益も無いのじゃ。
 そうであるからマハリシは夢の中でも起きていても、それを見る者を探すようにいうのじゃ。
 常に自分を追及することだけがこの夢幻の世界から逃れる道なのじゃ。

778避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 06:23:02 ID:rUQBIQ2U0
ラマナ・マハルシとの対話 298

1936年12月23日

ある訪問者が、瞑想は探求よりも直接的である、なぜなら前者は真理を保持し、後者は非真理から真理を選別するからだ、と疑問を呈した。

マハルシ
 初心者にとっては、特定の形に対する瞑想はより簡単で、より好ましいものです。
 瞑想を実践することは、現実から非現実を選別するアートマ・ヴィチャーラにつながります。

 あなたが真理と相反する要素で満たされているときに、真理を持ち続けることに何の意味があるのでしょうか?

 アートマ・ヴィチャーラは、あなたに「真我がまだ実現されていない」と思わせるような障害を取り除くことにより、実現に直接つながるのです。

779鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/15(金) 21:31:30 ID:1d4drIFg0

 瞑想は集中するだけであるから簡単でやりやすいものじゃ。
 しかしそれだけでは悟りは訪れないのじゃ。
 自分を追及しなければならないのじゃ。
 自分についてなにもわからないのに、瞑想だけをしているならば無意味なのじゃ。
 自分がどのようなものか気付いたならば悟りも訪れるのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2022/04/16(土) 08:16:44 ID:VNkG73cE0
ラマナ・マハルシとの対話 299

1936年12月24日

T. K. S. アイヤール氏がシュリ・バガヴァンに音の源について尋ねた。

マハルシ
 パラ(音)は背骨の一番下にあるムーラーダーラから生じるというのが一般的な見解です。
 ヴァイカリー(想念形態)から始まるすべての音は、クンダリニーから生ずるパラに含まれており、クンダリニーはハートと異なるものではありません。
 実際のところ、シャダーダーラ(6つのセンター)全体はハートに含まれています。
 クンダリニーを源とするスシュムナーは、ハートに含まれてます。

ある訪問者がアンタレーナ・タールケー・セーンドラヨーニヒ*について質問した。

マハルシ
 インドラヨーニはスシュムナー・ナディーと共にパラー(至高者)に含まれています。


(福間巌氏註*)

アンタレーナ・タールケー・セーンドラヨーニヒ : 「タイッティリーヤ・ウパニシャド」1-6-1,2

「クンダリニーは口蓋を通過して大脳に達する」と述べられている。
シャンカラーチャーリャはこの経路を「スシュムナー」と呼んだ。
インドラヨーニとは(ブラフマンに通ずる)インドラの通り道(経路)あるいはインドラの生れた場所を意味する。

781鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/17(日) 00:08:35 ID:1d4drIFg0

 マハリシはハートに集中する者であったから全てはハートに含まれるのじゃ。
 ハートもまた至高の意識の中にあるというのじゃ。
 それもまた感得するものなのじゃ。
 他の者は頭とかに感得するかもしれんのじゃ。
 ありのままに今ここにあるものごとを感じるのじゃ。

782避難民のマジレスさん:2022/04/17(日) 06:41:30 ID:pgcQJsWA0
ラマナ・マハルシとの対話 300

1936年12月25日

科学専攻を卒業したブラフマチャリ(ブラフマチャリヤを実践する男性)の青年は、木から熟したリンゴが落ちるように、何か仕事が舞い込んでこないかと、この4、5ヶ月間、ここで恩寵を待っていた。
彼は他に仕事を見つける努力はしていない。
昨日、兄が彼を両親のところに連れて行こうとやって来た。
しかし、青年はそれを断った。
シュリ・バガヴァンにこの件が持ちかけられた。

マハルシ
 私は誰かに来るように言うことも、出て行くように言うこともしません。
 ここでは誰もが自分の好きなようにします。
 彼はホールで平和を感じ、仕事も欲しいと言っています。
 どうやら、彼の平和が妨げられないように、仕事はホール自体で見つけなければならないようです。
 平和はホールの中にあるのではありません。
 それは真我の安息の中にあるのです。
 それはどこでも得ることができます。

数日後、青年は自身の聖紐を捨て、手足を震わせながらシュリ・バガヴァンの前に現れたが、青年は後にそれを至福(アーナンダ)であると表現した。
シュリ・バガヴァンは彼に、ホールで自分の前に座ることを習慣にしないようにと言い、外に出るよう命じた。
そして、さらにこう続けた。

マハルシ
 ひな鳥でさえ、親鳥に守られているのは、翼が生えるまでの間だけです。
 永遠に保護されるわけではありません。
 帰依者も同じです。
 私は道を示しました。
 あなたは今、その道を進み、どこにいても平安を見出すことができるようにならなければなりません。

この若者は、シュリ・バガヴァンが次のような言葉でウパデーシャ(霊的指導)を与えてくれたと思っている。
「自己(エゴ)は自分自身で征服しなければならない」。

しかし、その男は、地元の学校での仕事の依頼を断り、自分はアルナーチャラの丘かシュリ・バガヴァンから強大な仕事を与えられたと考えていた。
「その仕事が何であるかは、後に世界が知ることになる」と彼は言う。
彼は数ヶ月前からこの日の出来事をすべて予期して、母親や友人たちに予言していた。
彼は、この出来事を喜んでいる。

しかし、シュリ・バガヴァンは彼を、まったく誤っている別の男になぞらえた。
その若者は、自分を未完成のバガヴァンだと思い込んでいる。
その後、彼は気が狂って、死んでしまった。

783鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/17(日) 23:46:55 ID:1d4drIFg0

 インドにもこのように宗教に狂うものがいるのじゃ。
 信仰しているようで実は自我肥大なのじゃ。
 自我が自分だと思い、それが傷つくのが怖いのじゃ。
 無我ならば何の仕事でも恐れることもないのじゃ。

784避難民のマジレスさん:2022/04/18(月) 06:07:10 ID:cAHIrcjk0
ラマナ・マハルシとの対話 301

ある紳士が、シュリ・バガヴァンの指示に従ったときの経験を幾つか熱心に語り、彼とシュリ・バガヴァンが同じ曜日に生まれ、同じ名前を持っていることにも付随的に言及した......
シュリ・バガヴァンはこう付け加え、話を終えた。

マハルシ
 同じ真我が両者の中にあるのです。

785鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/18(月) 23:16:46 ID:1d4drIFg0

 誰にでもアートマンは見出せるじゃろう。
 それが法なのじゃ。
 どこまでも追求していけば、いつかは辿りつくのじゃ。
 全てはつながっているからなのじゃ。

786避難民のマジレスさん:2022/04/19(火) 06:25:07 ID:1s9vYmVk0
ラマナ・マハルシとの対話 302

トゥリチから来たある若者が、ウパデーシャ・マンジャリの中で熟達した弟子の資格としてアティヤンタ・ヴァイラーギャム(完全なる無執着)が述べられていることについてシュリ・バガヴァンに質問し、尋ねた。

質問者
 ヴァイラーギャとは何ですか?
 世俗的な物事から離れ、解脱を欲すること。
 そうではないですか?

マハルシ 
 誰がそれを得ていないのですか?

 人はそれぞれ幸福を求めますが、苦痛に伴う快楽を幸福と誤解しています。
 そのような幸福は一過性のものです。
 誤った行為は、つかの間の喜びを与えます。
 世界には苦痛と快楽が交互にやってきます。
 苦痛を生むものと喜びを生むものとを識別し、幸福を生みだす追求だけに専念することがヴァイラーギャです。
 苦痛を伴わないものとは、いったい何でしょうか?
 人はそれを求め、それに従事します。
 そうでなければ、この世に片足を突っ込み、もう片足を霊的な追求に突っ込むことになります(どちらの領域でも満足に進歩しない)。

グルの役割についてまた質問が出た。

マハルシ
 人は自分自身ではどうすることもできず、自分があまりにも弱いことを知り、グルの形をとったより強い力を求めるのです。

787鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/19(火) 23:20:18 ID:1d4drIFg0

 苦痛から逃れ、快楽を得ようとするのは生物の根源的な欲求なのじゃ。
 それは全ての衆生に備わっている本能なのじゃ。
 そうであるから悟りを求めるのも、苦から離れて永遠の喜びを求めるのであるから全ての衆生がもっている欲といえるのじゃ。
 ただ悟りの道が本当に一切の苦から逃れる道で在ると、確かに知らないから俗世の欲を求めてしまうのじゃ。
 正しい知識があれば、誰もが悟りを求めるのは当然なのじゃ。

788避難民のマジレスさん:2022/04/20(水) 06:36:25 ID:1f0uHof.0
ラマナ・マハルシとの対話 303

K.R.V.アイヤール氏は、ナーダ(音)についてさらに光明を求めた。

マハルシ
 それに瞑想する者はそれを感じるのです。
 ナーダには10種類あります。
 最後の雷鳴のようなナーダの後、人はラヤ(一時的な没入)を得ます。
 それが彼の自然で永遠の状態です。
 ナーダ、ジョーティ、あるいは探究は、このように人を同じ地点に導きます(前者は間接的、後者は直接的)。

質問者
 心はしばらくの間穏やかになりますが、再び現れます。
 どうしたらよいのでしょうか?

マハルシ
 たびたび得られる平穏は、他の時にも覚えておかなければなりません。
 その平穏は、あなたの自然で永遠の状態です。
 継続的な修練によって、それは自然になります。
 それは「流れ」と呼ばれています。
 それがあなたの本性です。

 ナーダやビジョンなどは、トリプティ(認識するもの、認識、認識されるものの三位)の存在を暗示します。
 真我への探求から生じる流れは、シュッダ・トリプティまたは純粋な三位……つまり、未分化の三位なのです。

789鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/20(水) 23:33:34 ID:1d4drIFg0

 ナーダとはヨーガで体内の音に集中する瞑想なのじゃ。
 呼吸の音とか、心音等に集中するのじゃ。
 熟練すれば神秘的な音が聞こえるようになるというのじゃ。
 しまいには雷鳴のような音がするというのじゃ。
 それを実践する者には聞こえるものなのじゃ。

790避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 07:30:58 ID:NWX9.iv60
ラマナ・マハルシとの対話 304

1936年12月26日

あるスイス人女性が、シュリ・バガヴァンに対するフォティズム(視覚性共感覚)を描写した。
彼女が目を開いて座っていると、シュリ・バガヴァンの顔がケルビム(智天使)のようになり、絢爛な花々で覆われているのが見えた。
彼女はその子供のような顔に愛情を抱いた。

マハルシ
 ビジョンはあなたの心の中にあります。
 あなたの愛が原因なのです。
 ポール・ブラントンは私を巨人として見ましたが、あなたは私を子供のように見ました。
 どちらもビジョンです。

婦人は言った。

質問者
 ポール・ブラントンは私に、ここで何か霊的な体験をしたかと尋ねたのですが、私はそれを否定しました。
 今、このようなことが起こっています。

マハルシ
 ビジョンに惑わされないでください。

質問者
 もし、何マイルも離れたヨーロッパにいる人が、あなたの助けを求めたら......。

マハルシ
 ヨーロッパはどこにありますか?
 それはあなたの中にあります。

質問者
 私はここに来ました。
 私はマハルシにそこに来てほしいのです。

(そう言って、彼女は優しく笑った。数分間の沈黙)。

マハルシ
 あなたは物理的身体を見るので、限界を感じるのです。
 時間と空間は、この次元に作用します。
 粗大な身体のことを考える限り、異なる身体として見出される差異が存在するでしょう。
 一方、真のマハルシ(聖者)の知識は、すべての疑念を解決します。

 あなたは今、インドにいますか?
 それとも、あなたの中にインドがあるのでしょうか?
 今でさえ、あなたがインドにいるというこの概念は消えなければなりません。
 インドはあなたの中にあるのです。
 それを確かめるためには、自分の眠りを見てください。
 眠っているときに、ヨーロッパにいるとか、インドにいるとか感じたでしょうか?
 それでも、あなたはその時、今と同じように存在していたのです。

 宇宙はあなたの中にあります。
 物理的身体は空間の中にありますが、あなたではありません。

 ポール・ブラントンはビジョンを見たとき目を閉じていましたが、あなたは目を開けていたと言います。

質問者
 そうです。
 でも、私はビジョンを見たことがありませんが、彼はサイキックです。

791避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 07:32:20 ID:NWX9.iv60
数分後、彼女は、このようなビジョンを見ることは、利点なのか欠点なのか、と尋ねた。

マハルシ
 利点です。

シュリ・バガヴァンは続けた。

マハルシ
 おそらく、あなたは子供のことを考えていて、それがビジョンに現れたのでしょう……。

質問者
 そう、シヴァの、彼の子供のような顔だけ……。

マハルシ
 それです。

質問者
 でも、シヴァは破壊者なんですよ……(子供ではないという意味)。

マハルシ
 そうです、悲しみの。

数分後、バガヴァンは続けた。

マハルシ
 あなたはじきに眠りにつくでしょう。
 朝起きると、あなたは「よく眠れて、幸せだった」と言うでしょう。
 眠っている間に起こったものが、あなたの真の本性なのです。
 それは今も続いています。
 そうでなければ、それはあなたの真の本性ではありません。
 今でさえ、眠りの状態を得なさい。
 それがシヴァなのです。

 私たちは形を持っているのでしょうか?
 シヴァの形を想う前に、それを見極めなさい。
 あなたは眠りの中に存在しなかったのでしょうか?
 その時、何か形を意識していたのでしょうか?
 あなたは眠りの中で形を持っていたのでしょうか?
 あなたはまったく同じように存在していたのです。
 眠りの中にいた「私」も今存在しています。
 あなたは、あなたの眠りの体験によれば、身体ではありませんでした。
 あなたは今、同じように存在しています……つまり、身体を持たずに。
 身体を持たずにいて、あなたは睡眠中幸せでした。
 あなたは今も同じです。
 このように、永続するものだけが、あなたの真の本性であるに違いありません。
 眠りの中では身体はなく、幸せな体験だけがありました。
 それは今も続いています。
 真我は身体がありません。
 もしあなたがこのように身体を持たないのであれば、シヴァがどうして身体を持つことができるでしょうか?
 もしあなたが身体を持っているならば、シヴァもまた身体を持っています。
 もしあなたが違うならば、彼もまた違うのです。

質問者
 では、なぜ彼はシヴァなのですか?

マハルシ
 シヴァとは、幸福……吉兆の権化を意味します。

(彼女はとても喜んでいた。しばらくして、彼女は去った。)

792鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/21(木) 23:52:02 ID:1d4drIFg0

 人が見る世界も神も仏も全て自分の心で造られたものじゃ。
 そうであるから現われた心象も、心の中を示すものなのじゃ。
 それが特殊な力によるものでも、また同じように心の中から現われるものじゃ。
 深い睡眠の中でも消えない意識が真の本性なのじゃ。
 そこに世界や神仏がいなくとも全てであるのじゃ。

793避難民のマジレスさん:2022/04/22(金) 07:39:01 ID:LzPV8th.0
ラマナ・マハルシとの対話 305

訪問者同士が話していて、その中の一人が言った。

「我々は、我々の伝統的な教えに慣れ親しんでいるが、これらの教え(シュリ・バガヴァンの教えのこと)に従うができない。我々のやり方に不慣れな外国人が、どうしてそんなに簡単にシュリ・バガヴァンの教えに従うことができるというのか?」

彼は、ハンディキャップがあるにもかかわらず、我々を理解しようとする彼らの試みに共感し、また適切な知識を持たない彼らを哀れんでいるようだった。

シュリ・バガヴァンは最後にこう言った。

マハルシ
 ビジョンはないよりはあったほうがいいのです。
 彼らはそうやって興味を持つのです。
 彼らは異国の思想になじめません。
 しかし、一度なじめば、続けていきます。
 メリットはこれくらいのものです。

シュリ・バガヴァンはその後、シヴァプラカーシャム・ピライ*のビジョンについて言及した。

「ビジョンは外的なものではありません。それらは内面にのみ現れます。もし、外的なものであれば、そこに見る者がいなくても現れなければなりません。その場合、その存在の根拠は何でしょうか?見る者しかありません」。


(福間巌氏註* : シヴァプラカーシャム・ピライのヴィジョン)

シヴァプラカーシャム・ピライは1902年にマハルシに出会い、「私は誰か?」の質疑応答を記録した最も初期の弟子。
以下は彼のヴィジョンの体験である。

シヴァプラカーシャム・ピライは座るとマハルシを見つめた。
すると、突然頭の周りに目も眩むような光の輪が現れ、マハルシの頭から黄金の子供が出現したかと思うと再び戻っていった。
彼はあふれくる恍惚感に満たされた。
長い間抱えてきた疑いと優柔不断からくる緊張が破れ、彼は純粋な解放感の中でむせび泣いたのだった。
次の日の夜、マハルシの前に座ると、彼は再びヴィジョンを見た。
このときマハルシの身体は朝日のように輝き、その周りには満月のときに見える光輪があった。
それからマハルシの全身は聖灰に覆われ、目は慈悲で輝いているのを見た。
2日後、彼は再びヴィジョンを見た。
このときは、マハルシの身体はあたかも純粋な水晶のように見えた。
恐怖に圧倒されて、彼はそこから立ち去った。
さもなければ、彼のハートの中でこみ上げていた喜びさえも消えてしまっただろう。

『ラマナ・マハルシの伝記』(ナチュラルスピリット刊)より。

794鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/23(土) 00:34:15 ID:1d4drIFg0

 伝統がなくとも不可思議なビジョンを見れば信じるものもいるというのじゃ。
 しかしそれもまた自分の心の中の観念から現われるものじゃ。
 見る者がいなければビジョンもないのじゃ。
 見る者という原因がないからなのじゃ。

795避難民のマジレスさん:2022/04/23(土) 07:30:32 ID:hu6VhfHg0
ラマナ・マハルシとの対話 306

質問者
 瞑想するためには具体的な何かが必要です。
 どうやって「私」に瞑想すればいいのでしょうか?

マハルシ
 私たちは完全に形に根ざしてしまっているので、瞑想するための具体的な形が必要なのです。
 私たちが黙想するものだけが、最終的に残ります。
 あなたが黙想するとき、他の想念は消えてしまいます。
 あなたが黙想する必要がある限り、他の想念が存在します。
 あなたはどこにいるのでしょうか?
 あなたは、あなたが存在するからこそ、黙想するのです。
 なぜなら、黙想する者が黙想しなければならないからです。
 黙想は、彼が存在するところにしかありえません。
 黙想は、他のすべての想念を遠ざけます。
 あなたは自分自身を源に融合させるべきです。
 時には、睡眠、死、気絶などのように、私たちは無意識に源に融合します。
 黙想とは何でしょうか?
 それは、意識的に源に融合することです。
 そうすれば、死や気絶などに対する恐怖が消えるでしょう。
 なぜなら、あなたは意識的に源に融合することができるからです。

 なぜ死を恐れるのでしょうか?
 死が非在を意味することはありえません。
 なぜあなたは眠りを愛し、死を愛さないのでしょうか?
 あなたは今思考していないのですか?
 あなたは今存在していないのですか?
 あなたは眠っている間に存在しなかったのでしょうか?
 子供でさえ、よく眠れた、幸せだったと言います。
 しかし、それは無意識のうちに、眠りの中の自分の存在を認めているのです。
 つまり、意識こそが私たちの真の本性なのです。
 私たちは無意識のままではいられないのです。
 しかし、私たちは、制限された意識に注意を向けているため、「私たちは睡眠中に無意識だった」と言います。
 世界や身体などが私たちの中に深く入り込んでいるため、この相対的な意識が真我であると見なされるのです。
 寝ている間に「自分は無意識だ」と言う人がいるでしょうか。
 彼は今そう言うのです。
 これは相対的意識の状態です。
 したがって、彼は抽象的な意識ではなく、相対的な意識について話しているのです。
 意識は相対的な意識や無意識を超えているのです。

再びティルヴァーチャカムの話に戻り、シュリ・バガヴァンはこう言った。

マハルシ
 四大聖人はみな、最初の一節で自分の体験を述べています。(1) 無分別な崇拝 (2) 絶え間ない想起 (3)想念の生じない状態 (4) 自我はなく、真我がある。

すべて同じ意味です。

質問者
 しかし、この真理は実現されていません。

マハルシ
 いずれは実現されるでしょう。
 それまでは、「ほんの一瞬でさえも、あなたは私の心を離れることはありません」という献身(バクティ)があります。 
 彼が一瞬でもあなたのもとを離れるでしょうか?
 あなたの心がさまよいだすのを許すのは、あなたの方です。
 彼は常に変わりません。
 あなたの心が定まったとき、あなたはこう言います。
 「彼は一瞬たりとも私の心を離れることはありません」と。
 なんとばかげたことでしょう!

796鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/24(日) 00:01:07 ID:1d4drIFg0

 黙想とは意識的に源に融合することであると、マハリシは説いたのじゃ。
 それは誰の心の中にもあるものじゃ。
 むしろそれこそが全ての存在の本体なのじゃ。
 全てはそこから起こったものなのじゃ。
 それに身を委ねることが全ての瞑想の目的なのじゃ。

797避難民のマジレスさん:2022/04/24(日) 07:42:21 ID:qd1MKDrg0
ラマナ・マハルシとの対話 307

1936年12月27日

マイソールから来たシャマンナ氏がシュリ・バガヴァンに尋ねた。

質問者
 どうかアハム・スプラナ(「私-私」の光)について説明してください。

マハルシ
 「私」は眠っている時には知られません。
 目が覚めると、通常、「私」は肉体や世界、そして非真我と結び付いて知覚されます。
 そのように結び付けられた「私」がアハム・ヴリッティです。
 アハムが真我だけを表すとき、それはアハム・スプラナです。
 これはジュナーニにとって自然なもので、これそのものがジュナーニによってジュナーナと呼ばれ、バクタによってバクティと呼ばれているのです。
 それは睡眠中も含めて常に存在するにもかかわらず、知覚されません。
 それは睡眠中に一度に知ることはできません。
 それは、まず起きている状態で認識されなければなりません。
 なぜならそれは、3つの状態すべての根底にある私たちの真の本性だからです。
 努力はジャーグラト(目覚め)の状態でのみ行われ、真我は今ここで実現されなければなりません。
 それはその後、ジャーグラト、スワプナ、スシュプティに中断されない、連続した真我であると理解され、実現されるでしょう。
 このように、それはアハンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない経験)です。
 ヴリッティは、より良い表現がないために使われています。
 文字通りのヴリッティであると理解してはなりません。
 その場合、ヴリッティは「海のような川」と同様ですが、それは不合理です。
 ヴリッティは持続時間が短いものです。
 それは限定された、方向づけられた意識です。
 あるいは、想念や感覚などの認識によって分断された絶対的な意識です。
 ヴリッティは心の機能であるのに対し、継続的な意識は心を超越します。
 これが、ジュニャーニや解脱した存在の自然で原初の状態です。
 それは途切れることのない経験です。
 それは、相対的な意識が収まったときに、自分自身を顕わにします。
 アハム・ヴリッティ(「私」-想念)は途切れますが、アハム・スプラナ(「私-私」の光)は途切れることなく、継続します。
 想念が収まった後、その光は輝きを放つのです。

798鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/24(日) 22:34:39 ID:1d4drIFg0

 アハム・ヴリッティは五体や知覚に投射された自己観念といえるじゃろう。
 その働きがないものがアハム・スプラナなのじゃ。
 無我の状態といえるのじゃ。
 それもまた言葉通りのものではないがのう。
 言葉を超えたものは、自ら体験して確かめるしかないのじゃ。

799避難民のマジレスさん:2022/04/25(月) 07:08:24 ID:slvVrXSM0
ラマナ・マハルシとの対話 308

1936年12月31日

不可触性に関する質問があった。

マハルシ
 非自己は触れることができません。
 社会的な不可触性は人間が作り出したものですが、他の不可触性は自然で神聖なものです。

質問者
 不可触民は、私たちの寺院に入ることを許されるべきでしょうか?

マハルシ
 それを決めるのは、他の人たちです。

ヴィシュヌのアヴァターに関する質問があった。

マハルシ
 私たち自身のアヴァターを知りましょう。
 他のアヴァターの知識は後からついてきます。

再び、イーシュヴァラについての質問があった。

マハルシ
 イーシュヴァラの存在は、私たちのイーシュヴァラに対する観念に従います。

 まず、イーシュヴァラが誰の観念であるかを知りましょう。
 その観念は、それを思い描いた人に従っているだけでしょう。
 あなたが自分が誰であるかを見いだせば、他の問題は自ずと解決されるでしょう。

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/25(月) 22:28:36 ID:1d4drIFg0

 どのような質問にも、マハリシは自分自身の内側に目を向けるようにと誘導するのじゃ。
 それこそが言葉で伝えられる唯一の教えなのじゃ。
 他の知識はいらないのじゃ。
 全て観念遊戯であるからのう。
 観念を優先させて自己の探求を忘れないようにと、マハリシは常に注意するよう説くのじゃ。

801避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 07:25:37 ID:tna/dDuc0
ラマナ・マハルシとの対話 309

1937年1月1日

質問者
 アハム・ブラフマースミ(私はブラフマンである)とブラフマイヴァーハム(ただブラフマンだけが私である)の違いは何でしょうか。

マハルシ
 前者はプラティヤクシャ・ヴリッティ(直接体験)であり、後者はパロークシャ・ジニャーナ(間接的知識)です。
 前者はアハム(「私」)の実現から始まりますが、後者は、同じものが実現されるとしても、真我と不可分である伝聞のブラフマンから始まります。

802鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/26(火) 22:32:28 ID:1d4drIFg0

 自らがブラフマンに没入する体験はありえるのじゃ。
 本当に没入したらもはや私はないのじゃ。
 ブラフマンだけが私であるというのは観念に過ぎないのじゃ。
 ブラフマンは全てであるから、あるものだけがブラフマンであり私であるという限定は出来ないからなのじゃ。

803避難民のマジレスさん:2022/04/27(水) 07:08:37 ID:OSx.b5H.0
ラマナ・マハルシとの対話 310

グリーンリース氏
 10月にこのアーシュラマムを去った後、私は10日間ほどバガヴァンの平安に包まれていることに気づきました。
 仕事に追われている間じゅう、その一体感の平安が奥底を流れていたのです。
 それは、退屈な講義で半分眠っているときの二重意識のようなものでした。
 そして、それは完全に消え去り、代わりに以前の愚かさが戻ってきたのです。

 仕事が、瞑想する時間を残してくれません。
 常に「私は在る(I Am)」を思い出し、実際に仕事をしながらそれを感じようとすることで、十分なのでしょうか。

マハルシ
 それは、心が強くなったときに、常にできるようになります。
 繰り返し修練することで心が強くなり、そのような心は流れにつかまることができるようになります。
 その場合、仕事に従事していようがいまいが、流れは影響を受けず、途切れることはありません。

質問者
 別の瞑想はまったく必要ないのですか?

マハルシ
 瞑想は、今のあなたの真の本性です。
 あなたがそれを瞑想と呼ぶのは、他の想念があなたの気を散らしているからです。
 これらの想念が払い除けられたとき、あなたは一人、つまり想念から解放された瞑想の状態にとどまるのです。
 そして、それこそが、あなたが今、他の想念を遠ざけることによって得ようとしている、あなたの真の本性なのです。
 このように他の想念を遠ざけることが今、瞑想と呼ばれています。
 修練がしっかりしたものになると、真の本性がそれ自身を真の瞑想として顕わします。

 あなたが瞑想しようとすると、他の想念がより力強く生じるのです。

すぐに他の数名が質問を一斉に唱えた。

シュリ・マハルシは続けた。

マハルシ
 そうです、瞑想中にはあらゆる種類の想念が生じます。
 それはまったく正しいことです。
 あなたの中に隠れているものが引き出されるのです。
 それらが浮かび上がってこない限り、どうして破壊されうるのでしょうか?
 それゆえ、それらは、やがて消滅させられるために自然に浮かび上がり、このようにして心を強くするのです。

訪問者
 すべてはブラフマンであると言われています。

マハルシ
 そうです、すべてはブラフマンです。
 しかし、あなたがそれらが分離していると考える限り、それらは避けられなければなりません。
 一方、それらが真我であることが分かれば、「すべて」と言う必要はありません。
 なぜなら、存在するものはすべてブラフマンだけだからです。
 ブラフマンの他には何もありません。

質問者
 リブ・ギーターは、非常に多くの対象を非現実であると語り、最後に、それらはすべてブラフマンであり、したがって現実であると付け加えています。

マハルシ
 そうです。
 あなたがそれらを非常に多くのものとして見るとき、それらはアサット、すなわち非現実です。
 しかし、あなたがそれらをブラフマンとして見るとき、それらは現実であり、それらの基質であるブラフマンから現実性を引き出しているのです。

質問者
 なぜウパデーシャ・サーラムは、身体などをジャダ、すなわち非生命だと語っているのですか?

マハルシ
 あなたが、それらは真我から離れた身体などであると言う限りにおいてです。
 しかし、真我が見いだされれば、この身体なども真我の中にあることがわかります。
 その後、誰もその質問をしなくなり、誰もそれらが非生命であるとは言わなくなります。

質問者
 ヴィヴェーカは、真我と非真我を識別することだと言われています。
 非真我とは何ですか?

マハルシ
 実は、非真我というものはありません。
 非真我は真我の中にも存在します。
 真我が非真我のことを語るのは、自分自身を忘れてしまったからです。
 それは自分自身を見失ってしまったので、結局のところ自分自身以外の何ものでもないものを非真我と思い込んでいるのです。

こうして、諸説の主唱者たちの議論は白熱した。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/28(木) 00:03:47 ID:1d4drIFg0

 瞑想とは真の本性以外の想念を遠ざけることだというのじゃ。
 最初は想念がいろいろと浮かんでくるが、瞑想を続けていれば全て滅して行くのじゃ。
 そして思考に隠されていた真の本性も観えてくるのじゃ。
 それが全てであるブラフマンなのじゃ。
 全てのものごとは全く同じ本性をもっているからなのじゃ。
 自分自身にあるその本性を追求することで、全ての本性も見出せるのじゃ。

805避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 07:37:13 ID:egdLjUPU0
ラマナ・マハルシとの対話 311

1937年1月2日

マハルシ
 立ち昇る「私」はまた、沈みます。
 それは個の「私」あるいは「私」という観念です。
 立ち昇らないものは、沈むことはありません。
 それは在り、永遠に在り続けます。
 それが普遍的な「私」、完全な「私」、すなわち真我の実現です。

午後5時30分、スイス人の女性がシュリ・バガヴァンに、瞑想をしばらく続けると頭が痛くなると訴えた。

マハルシ
 もし、瞑想者と瞑想が同じものだと理解されれば、頭痛や同様の訴えはなくなるでしょう。

質問者
 しかし、それらは異なっています。
 どうして同じものだと考えられるでしょうか?

マハルシ
 それは、あなたの視点のためです。
 ただ一つしかなく、違いはないのです。
 瞑想すれば、相対的な意識は消え去ります。
 それが全滅ではないのは、絶対的な意識が生じるからです。
 聖書には、「天の国はあなたの内にある」と書かれています。
 もし、あなたが自分自身を身体だとみなしているなら、この言葉を理解するのは難しいでしょう。
 一方、あなたが本当の自分を知っているなら、天の国もすべても、あなたの真我に含まれています。
 それらは、自我が発生した後に生じた概念です。
 ドリシュティン・ジニャーナマイーン・クリトヴァ・パシュエード・ブラフママヤン・ジャガト(あなたの目を内に向け、それを絶対化しなさい)。
 その絶対的な自覚を実現した上で、外を見れば、宇宙は実現された絶対なるものと不可分であることに気づくでしょう。

 あなたの視点は外に向けられているので、あなたは「外」のことを話します。
 その状態であるために、あなたは「内」を見ることを勧められているのです。
 この「内」は、あなたが求めている「外」に対して相対的なものです。
 実際は、真我は外でも内でもありません。

 天について語るとき、人は天を上か下か、内か外かのように考えますが、それは人が相対的な知識に慣れているからです。
 人は客観的な知識だけを求めているので、このような考えになってしまうのです。

 現実的に言えば、上も下もなく、内も外もないのです。
 もしそれらが実在するならば、夢のない眠りの中にも存在するはずです。
 なぜなら、実在するものは、連続的で永久的でなければならないからです。
 睡眠中に「内」や「外」を感じたでしょうか?
 もちろん違います。

質問者
 私は覚えていません。

マハルシ
 もしそこに何かがあれば、それは思い出されるでしょう。
 しかし、あなたはそのときの自分の存在を認めています。
 同じ真我が今話しているのです。
 眠っているときには未分化だった真我が、現在の状態では分化しており、多様性を見ているのです。
 真の実在とは、客観的な知識を欠いた唯一のものです。
 それが絶対意識です。
 それこそが、私たち全員が認める幸福の状態です。
 その状態は、この起きている状態においてさえももたらされなければなりません。
 それはジャーグラト・スシュプティと呼ばれます。
 それがムクティです。

806避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 07:38:09 ID:egdLjUPU0
質問者
 自我が、輪廻転生するものです。

マハルシ
 そうです。
 しかし、輪廻転生とは何でしょうか?
 自我は同じままです。
 新しい身体が現れて、それを保持します。
 自我は変わりません。
 それが一つの身体を離れ、別の身体を探して見つけることはありません。
 あなたの粗大な身体にさえも何が起こるのか見てみましょう。
 あなたがロンドンに行くとします。
 どうやって行きますか?
 乗物を使って波止場に行き、汽船に乗り込み、数日でロンドンに到着します。
 何が起こったのでしょうか?
 乗物は動きましたが、あなたの身体は動きませんでした。
 それでもあなたは、地球のある部分から別の部分へと旅したと言います。
 乗物の動きがあなたの身体に重ねられているのです。
 あなたの自我についても同様です。
 輪廻転生は、重ね合わせです。
 例えば、夢の中で何が起こるのでしょうか?
 あなたは夢の世界へ行くのでしょうか、それともそれはあなたの中で起こるのでしょうか?
 間違いなく後者でしょう。
 ちょうど転生と同じです。
 自我はずっと変化しないままです。

 繰り返しになりますが、あなたの眠りの中には時間も空間もありません。
 それらは「私」という想念が生じた後に生じる観念です。
 「私」という想念が立ち昇る前には、観念は存在しません。
 ですから、あなたは時間も空間も超えているのです。
 「私」という想念は限定された「私」に過ぎません。
 真の「私」は無限で、普遍的で、時間も空間も超えています。
 観念は眠っているときは存在しません。
 ちょうど眠りから覚め、外の世界を見る前に、あなたの純粋な真我である自覚の状態が存在します。
 それが知られなければなりません。

質問者
 しかし、私はそれがわかりません。

マハルシ
 それは、理解の対象ではありません。
 あなたがそれです。
 いったい誰が、そして何を理解するというのでしょうか?

807鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/28(木) 23:05:27 ID:1d4drIFg0

 瞑想をして思考や雑念が消えたならば、それでも消えない意識が在るとわかるじゃろう。
 意識は常にあり、滅することはないのじゃ。
 それは肉体に縛られたものでもないのじゃ。
 常にあり続け変ることはないのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2022/04/29(金) 07:13:21 ID:/kN5DyGE0
ラマナ・マハルシとの対話 312

プーナのV・K・チョールカル氏
 「汝自身を知れ」、あるいは、あなたの中の「私」が誰であるかを知りなさい言われています。
 それを行う方法は何でしょうか?
 ただ機械的にずっとマントラを繰り返すだけでいいのでしょうか、それとも、なぜマントラを繰り返しているのか、その都度思い出しながらやらなければならないのでしょうか。

マハルシ
 あなたは、いつも自動的にマントラを繰り返しています。
 もし、永遠に続いているそのアジャパ(無言の詠唱)に気づいていないのなら、ジャパに取り組むべきです。
 ジャパは努力を伴って行われます。
 その努力とは、他の想念を追い払うことを意味しています。
 そうして、ジャパは精神的、内面的なものになります。
 最後に、そのアジャパと永遠の本性が実現されるでしょう。
 なぜなら、それはあなたの努力なしでも続いていることがわかるからです。

 努力のない状態が、実現の状態なのです。

チョールカル氏は、再び実践的な観点からの、つまり彼自身に適した教えを求めた。

マハルシ
 それは、外的なものではないので、他に求める必要はないのです。
 それは内的なものであり、また永遠でもあります。
 それは常に実現されています。
 しかし、あなたは気づいていないと言います。
 それはそれ自身への絶え間ない注意を必要とします。
 それ以外の努力は必要ありません。
 あなたの努力は、他の想念に気を取られないようにすることだけを意味しています。

その人物は満足した。

809鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/29(金) 23:00:54 ID:1d4drIFg0

 マントラも極め尽くせば悟りへの道になるものじゃ。
 途中で諦めてしまうのではいかんのじゃ。
 長く続けられる方法が自分にあった法なのじゃ。
 合っていなければ長くは続けられないのじゃ。
 そうであるから実現されているとマハリシは言うのじゃ。
 一つの法を極めつくすまで実践し続けることだけが大事なのじゃ。

810避難民のマジレスさん:2022/04/30(土) 12:28:28 ID:R4vJvKO60
ラマナ・マハルシとの対話 313

グリーンリース氏
 バガヴァンは昨日、人が「内なる神」の探求に従事している間は、外側の仕事は自動的に進むだろうとおっしゃいました。
 シュリ・チャイタニヤの生涯には、彼は生徒たちへの講義をしながらクリシュナ(真我)を探し求めているうちに、自分の体がどこにあるのか忘れてしまい、クリシュナのことを話し続けたと説明されています。
 このように考えると、仕事は放っておいても大丈夫なのか、という疑問が湧いてきます。
 身体的な仕事に一部でも注意を向けるべきでしょうか?

マハルシ
 真我がすべてです。
 今、私はあなたに尋ねます。
 あなたは真我から離れているのでしょうか?
 真我から離れて仕事は続けられるでしょうか?
 あるいは、身体は真我から離れているのでしょうか?
 どれも真我から切り離すことはできません。
 真我は普遍的なものです。
 ですから、あなたが自発的に従事するかどうかにかかわらず、すべての行為は続いていきます。
 仕事は自動的に進んでいきます。
 真我に注意を向けることは、仕事に注意を向けることを含んでいます。

質問者
 もし私が仕事に注意を向けなかったら、仕事はうまくいかないかもしれません。

マハルシ
 あなたは自分自身を身体と同一視しているので、仕事は自分によってなされるものだと考えています。
 しかし、身体と、仕事を含む活動は、真我から離れたものではありません。

 あなたが仕事に注意を向けるかどうかが、どうしたというのでしょうか?
 例えば、あなたがある場所から別の場所へ歩いたとします。
 あなたは一歩一歩に注意を払っているわけではありません。
 しかし、しばらくすると、あなたは気づくと目的地に到着しています。
 仕事、つまり歩くという行為は、あなたがそれに注意することなく続いていたことに気づきます。
 他の種の仕事についても同じです。

質問者
 では、それは寝ながら歩いているようなものですね。

マハルシ
 全くその通りです。
 子供がぐっすり眠っているとき、母親は子供に食事を与えます。
 子どもは、起きているときと同じように、その食べ物をよく食べます。
 しかし、翌朝、その子は母親に「お母さん!昨日の夜はご飯を食べなかったよ」と言います。
 それでも、母親や周りの人たちは、その子が食べたことを知っています。
 しかし、本人は「食べていない」と言います。
 本人は気づいていませんが、行為は続いていたのです。
 夢遊病は、まさにこの種の仕事の良いアナロジーです。

 別の例を見てみましょう。
 荷車に乗った乗客が眠ってしまいました。
 その旅の途中で、牛は動いたり、立ち止まったり、頚木を解かれたりします。
 彼はこれらの出来事を知りませんが、目を覚ますと違う場所にいることに気づきます。
 彼は途中の出来事について至って無知でしたが、彼の旅は終わったのです。

 人の真我ついても同じです。
 彼は身体の中で眠っています。
 彼の覚醒状態は牛の動きであり、彼の三昧は牛の静止状態です(なぜなら三昧=ジャーグラト・スシュプティであるため)。
 つまり、彼は行為に気づいていますが執着していないのです。
 だから、牛は引き具につながれていますが、動かないのです。
 彼の眠りは牛の頚木を解くことです。
 なぜなら、活動の完全な停止は、牛が頚木から解放されることに相応するからです。

 さらに別の例もあります。
 映画館では、シーンがスクリーンに映し出されます。
 しかし、動画はスクリーンに影響を与えたり、変化させたりはしません。
 見る者は画像に注意を払い、スクリーンを無視します。
 画像はスクリーンから分離することはできません。
 それでもスクリーンの存在は無視されます。
 このように、真我もまた、その上に画像、すなわち行為が進行しているスクリーンなのです。
 人は、前者を無視して、後者を意識しています。
 それでも、彼は真我から離れていません。
 意識していようがいまいが、行為は続いていくのです。

質問者
 映画館にはオペレーターがいますね。

マハルシ
 映画館は非生命の材料でできています。
 スクリーン、画像、照明などは非生命であり、オペレーター、つまり生命意識を持つ行為者を必要とします。
 真我の場合、それは意識そのものですから、必要なものは全て揃っています。
 オペレーターが別に存在することはありえません。

質問者は、上記の回答が示唆するように、自分が身体とオペレーターを混同していないと抗議した。

811避難民のマジレスさん:2022/04/30(土) 12:29:14 ID:R4vJvKO60
マハルシ
 身体の機能は、オペレーターの要求を伴っていることを覚えておかなければなりません。
 なぜなら身体という非生命体には、オペレーター、生命意識を持った代理人が必要だからです。

 人々は自分がジーヴァだと思っているので、シュリ・クリシュナは、神がジーヴァのオペレーターとしてハートに宿っていると言ったのです。
 実際には、ジーヴァもオペレーターもいません。
 真我がすべてを構成しています。
 それはスクリーンであり、画像であり、観客であり、演者であり、オペレーターであり、照明であり、その他すべてなのです。
 あなたが真我を身体と混同し、自分自身を演者として想像することは、観客を映画の画像の中の演者だと述べているのと同じことです。
 画像の中の演者が、スクリーンなしでシーンを演じることができるかどうか尋ねるのを想像してください。
 真我と離れて行為をしていると考えている人はこのようなものです。

質問者
 観客に映画の画像の中で演技をしてくれと頼んでいるようなものです。
 夢遊病が望ましいようですね。

マハルシ
 カラスは、どんなものを見るにも、どちらかの目に虹彩を1つだけ入れるという説があります。
 虹彩はただ1つですが、眼窩はふたつあります。
 その視覚は望むままに操られます。

 また、象は1本の鼻で呼吸をし、水を飲むなどの行為をします。

 また、蛇は見るにも聞くにも同じ器官を使うといわれています。

 同様に、行為や状態も、その人の視点によります。
 眠りながらの覚醒も、覚醒しながらの眠りも、夢を見ながらの眠りも、夢を見ながらの覚醒もほぼ同じです。

質問者
 私たちは、物理的な覚醒の世界で、物理的な身体を扱わなければなりません。
 もし仕事の最中に眠ったり、眠りが襲ってきたときに仕事をすると、仕事がうまくいかなくなります。

マハルシ
 睡眠は無知ではありません。
 それはあなたの純粋な状態です。
 覚醒状態は知識ではなく、無知です。
 睡眠には完全な自覚があり、覚醒には完全な無知があります。
 あなたの真の本性は、その両方をカバーし、それを超えて広がっています。
 真我は、知識も無知も超えています。

 睡眠、夢、覚醒は、真我の前を通過する様態にすぎません。
 あなたが気づいているかどうかに関わらず、それらは進行します。
 それが、覚醒、三昧、深い眠り、夢の状態が通過するジニャーニの状態であり、それは前述したように、乗客が眠っているときに牛が動いたり立ったり頚木を外されたりするようなものです。
 これらの質問は、アジニャーニの観点からのものであり、そうでなければこれらの質問は生じません。

質問者
 もちろん、真我にとってそれらが生じることはありえません。
 そこに尋ねることができる誰がいるというのでしょうか?
 しかし、残念ながら私はまだ真我を実現していないのです。

マハルシ
 それこそが、あなたの道を阻んでいるものです。
 あなたは、自分がまだ真我を実現していないアジニャーニであるという考えを捨てなければなりません。
 あなたは真我なのです。
 一時でも、あなたが真我から離れていたことがあったでしょうか?

質問者
 つまり、それは夢遊病、あるいは白昼夢の実験なのです。

バガヴァンは笑った。

812鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/30(土) 22:52:57 ID:1d4drIFg0

 マハリシは仕事をしている時でも真我に注意を向けるようというのじゃ。
 全ては真我であるからというのじゃ。
 自分が仕事をしているという思いがあれば、自我の強化になってしまうのじゃ。
 肉体が自動的に仕事を処理していく過程を見守るのじゃ。
 そうすれば仕事によって修行も進んでいくのじゃ。

813避難民のマジレスさん:2022/05/01(日) 15:13:36 ID:hWvCue/c0
ラマナ・マハルシとの対話 314

1937年1月3日

甘露の滴

昨日の答えの中で、シュリ・バガヴァンは、真我は深い眠りの中の純粋な意識であると言い、また、実現の理想として、眠りから目覚めた状態へ移行する真我を示した。

このことを説明するようにと請われた。

シュリ・バガヴァンは快く答えた。

マハルシ
 真我は眠りの中の純粋な意識です。
 それは、移行期にはイダム(「これ」)を含まないアハム(「私」)として展開し、目覚めた状態では、アハム(私)とイダム(これ)として現れます。
 個人の体験は、アハム(「私」)のみを用いて行われます。
 ですので、示された方法で(つまり、移行期の「私」を用いて)実現を目指さなければなりません。
 そうでなければ、睡眠体験は彼にとって重要ではありません。
 もし移行期の「私」が認識されれば、基体が発見され、それが目標につながるのです。

 また、睡眠はアジニャーナ(無知)であると言われています。
 それは、起きている状態で蔓延している間違ったジニャーナ(知識)との関係においてのみです。
 起きている状態が本当はアジニャーナ(無知)であり、眠っている状態はプラジニャーナ(完全な知識)なのです。
 プラジニャーナとはブラフマンのことである、とシュルティ(聖典)は言っています。
 ブラフマンは永遠です。
 睡眠を体験する者はプラージニャと呼ばれます。
 彼は3つの状態すべてでプラジニャーナムです。
 睡眠状態の特別な重要性は、彼が知識に満ちている(プラジニャーナガナ)ことです。
 ガナとは何でしょうか?
 ジニャーナとヴィジニャーナがあります。
 両方ともに、すべての知覚の中で作用します。
 ジャーグラトにおけるヴィジニャーナは、ヴィパリータ・ジニャーナ(間違った知識)、すなわちアジニャーナ(無知)です。
 それは常に個人と共存しています。
 これがヴィスパシュタ・ジニャーナ(明確な知識)になると、それがブラフマンです。
 睡眠中のように、間違った知識が完全に存在しないとき、彼はただ純粋なプラジニャーナのままです。
 それがプラジニャーナガナです。
 アイタレーヤ・ウパニシャッドはプラジニャーナ、ヴィジニャーナ、アジニャーナ、サンジニャーナはすべてブラフマンの名前であると言っています。
 知識だけで構成されているなら、彼はどのように体験されるのでしょうか?
 体験は常にヴィジニャーナを伴います。
 したがって、プラジニャーナガナの体験のためには、移行期の純粋な「私」を保持しなければならないのです。
 覚醒状態の「私」は不純であり、そのような体験には役立ちません。
 それゆえ、移行期の「私」、あるいは純粋な「私」を使うのです。
 この純粋な「私」はどのようにして認識されるのでしょう?
 ヴィヴェーカ・チューダーマニは、「ヴィジュニャーナ・コーシェー・ヴィラサティヤジャスラム(彼は常に知的な鞘、ヴィジュニャーナ・コーシャの中で輝いている)」と言っています。
 トリプラ・ラハスャや他の著作は、連続する2つのサンカルパ(観念や思考)の合間が、純粋なアハム(「私」)を表していると指摘しています。
 したがって、純粋な「私」をとらえながら、プラジニャーナガナを有することを目的とすべきであり、そしてその試みの中にヴリッティが存在するのです。
 これらはすべて、しかるべき各々の場と役割があると同時に、実現につながるのです。

814避難民のマジレスさん:2022/05/01(日) 15:14:33 ID:hWvCue/c0
 ヴィヴェーカ・チューダーマニでは、純粋な真我はアサットを超えている、つまりアサットとは異なると説明されています。
 ここでいうアサットとは、汚染された目覚めの「私」のことです。
 アサッドヴィラクシャナは、サット、すなわち眠りの真我を意味します。
 彼はまた、サットとアサットとは異なると説明されています。
 どちらも同じ意味です。
 彼はまた、アシェーシャ・サークシー(すべてを見る観照者)でもあります。

 もし純粋なら、不純な「私」を用いて、どのように彼を体験することができるでしょうか?
 ある人が「私は幸福に眠った」と言います。
 幸せは彼の体験でした。
 もしそうでなければ、どうして体験しなかったことについて話すことができるでしょうか?
 もし真我が純粋であるなら、彼はどうやって睡眠中の幸福を体験したのでしょうか?
 今、その体験を語るのは誰でしょうか?
 その話し手はヴィジニャーナートマン(無知な自己)であり、プラジニャーナートマン(純粋な自己)について話しています。
 どうしてそのようなことができるのでしょう?
 このヴィジニャーナートマンは眠りの中に存在していたのでしょうか?
 睡眠中に幸福を体験したという彼の言葉は、彼が睡眠中に存在したことを推測させます。
 では、どのように彼はとどまっていたのでしょうか?
 確実に、目覚めているときの状態と同じではありません。
 彼はそこでは非常に微妙な存在だったのです。
 非常に微妙なヴィジニャーナートマンは、マーヤーの様態を用いて、幸せなプラジニャーナートマンを体験します。
 それは、木の枝や小枝や葉の下で見られる月の光のようなものです。

 微妙なヴィジニャーナートマンは、今この瞬間の明白なヴィジニャーナートマンとは明らかに無縁の存在に見えます。
 なぜ、私たちは睡眠中に彼の存在を推測しなければならないのでしょうか?
 その幸福の体験を否定して、この推論を終わらせるべきではないのでしょうか?
 いいえ。
 誰もが睡眠を求め、熟睡を楽しむために良いベッドを用意するのですから、幸福の体験の事実を否定することはできません。

 このことから、認識するもの、認識、認識されるものは、各々微妙な差異こそあれ、3つの状態のすべてに存在するという結論に達します。
 移行期では、イダム(「これ」)が抑制されているため、アハム(「私」)はスッダ(純粋)です。
 アハム(「私」)が優位を占めます。

 なぜ、その純粋な「私」が今、認識されないのでしょうか、あるいは、記憶にすら残らないのでしょうか?
 それは、面識(パリチャイ)が欠けているためです。
 それは意識的に成し遂げられた場合にのみ認識することができます。
 したがって、努力して意識的に獲得してください。

815鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/01(日) 22:50:14 ID:1d4drIFg0

 マハリシは悟りを得てない者は起きている時が無知であり、むしろ寝ている時が完全な智恵があるというのじゃ。
 起きている時には自我があり、観念があるから夢幻の中にいるようなものなのじゃ。
 寝ていれば忘我になるから、少しは真我に近いといえるのじゃ。
 眠りの中で意識的にそれが見られれば、起きている時にも覚えていられるのじゃ。

816避難民のマジレスさん:2022/05/02(月) 07:39:58 ID:hWvCue/c0
ラマナ・マハルシとの対話 315

侍者の一人が尋ねた。
 シュリ・バガヴァンは、「現実と虚構はどちらも同じものだ」と仰いました。
 どうしてそうなのでしょうか?

マハルシ
 タントラ派やその種の人々は、シュリ・シャンカラの哲学を、彼のことを正しく理解せずに、マーヤー・ヴァーダと非難しています。
 彼は何を言っているのでしょうか?
 彼はこう言っています。
 1.ブラフマンは現実である。 2.宇宙は虚構である。 3.ブラフマンは宇宙である。
 彼は、2番目の発言に止まらず、3番目の発言で補足を続けています。
 それは何を意味するのでしょうか?
 宇宙はブラフマンから離れたところにあると認識されており、その認識は間違っているということです。
 反論者たちは、彼の「ラッジュ・サルパ(縄ー蛇)」の解説を指摘します。
 これは無条件の重ね合わせです。
 縄の真理が知られた後には、蛇の幻想は完全に取り除かれます。

 しかし、彼らは、例えばマルマリーチカーやムリガトリシュナー(蜃気楼の水)のような、条件付きの重ね合わせも考慮に入れるべきです。
 蜃気楼は、それが蜃気楼であることを知った後でも消えません。
 幻はそこにありますが、人は水を求めてそこに駆け寄りはしません。
 シュリ・シャンカラは、この両方の解説に照らして理解されなければなりません。
 世界は虚構です。
 それを知った後でも、それは現れ続けるのです。
 それはブラフマンであり、分離していないことが知られなければなりません。

 もし世界が現れるなら、しかしそれは誰に対して現れるのか、と彼は問います。
 あなたの答えは何ですか?
 真我、とあなたは言わなければなりません。
 もしそうでなければ、認識する真我がいないのに世界が現れるでしょうか?
 ですから、真我が現実なのです。
 それが彼の結論です。
 現象は真我として現実ですが、真我から離れてたものとして虚構なのです。

 さて、タントラ派などは何と言っているでしょうか?
 彼らは、「現象は現実である。なぜなら、現象は、それが出現する実在の一部だからである」と言います。
 これら二つの声明は同じではないでしょうか?
 それが、私が言った「現実と虚偽は同じものである」という意味です。

 反論者たちは続けます。
 「無条件の幻想だけでなく条件付きの幻想も考慮すると、蜃気楼中の水という現象は、その水がいかなる目的にも使用できないので、純粋に幻想である。
 しかし、世界という現象は違う、それは目的を持っているからだ。
 では、どうして後者が前者と同等であるというのだろうか?」

 現象は、それが目的や用途にかなうというだけでは、現実とはなり得ません。
 たとえば、夢を例にとってみましょう。
 夢の創造物には目的があり、それらは夢の目的にかなうものです。
 夢の水は夢の渇きを癒します。
 しかし、夢の創造は、目覚めている状態では矛盾しています。
 覚醒状態の創造は、他の2つの状態において矛盾しています。
 連続的でないものは現実ではありえません。
 もし実在するなら、それは常に実在していなければならず、短期間は実在し、他の時は非実在ということはありえません。

 魔法の創造物もそうです。
 それらは現実に見えても幻なのです。

 同様に、宇宙はそれ自体として、つまり根底にある実在を離れて実在することはできません。

817鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/02(月) 22:19:30 ID:1d4drIFg0

 今ここにある現実から離れて、どこか遠いところにブラフマンがあるのではないとマハリシは説いているのじゃ。
 天国とか極楽にいくと、ブラフマンも実現されるのではないかという幻想を打破するためなのじゃ。
 この幻想の娑婆世界でさえ、ブラフマンを基底として存在するのじゃ。
 それは全てが心から作られたものであるからなのじゃ。
 全てはブラフマンである意識の表れなのじゃ。
 そこに観念による幻想を投射しているから迷いの世界もあるのじゃ。
 それがなくなれば、全てはもとからブラフマンだけであったと知れるのじゃ。

818避難民のマジレスさん:2022/05/03(火) 07:05:31 ID:zk.NgNfs0
マハルシ
 映画館の上映でスクリーンに炎が映し出されています。
 それはスクリーンを燃やしますか?
 滝が流れています。
 それはスクリーンを濡らしますか?
 工具があります。
 それらはスクリーンを傷つけますか?

 そのため、アッチェーディヨーン、アダーヒョーヨン、アクレーディヨーヤム(魂は、断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない)などと言われるのです。
 火や水などは、ブラフマン(つまり、真我)というスクリーン上の現象であり、ブラフマンに影響を与えることはありません。

819鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/03(火) 22:39:23 ID:1d4drIFg0

 現世が幻影であるとは仏教でもよく言われることじゃ。
 この世で何が起ころうと、不死の境地は影響されないのじゃ。
 夢の中で傷つけられても、起きれば何の傷もないようにのう。
 夢幻である金や名声や権力は得ても失っても何の意味もないのじゃ。
 幻を捨てて永遠の実在に到達することが、この世の唯一の存在理由なのじゃ。

820避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:11:01 ID:T7iCrEFQ0
ラマナ・マハルシとの対話 317

パルキ氏
 ここに来る多くの人が、あなたからビジョンや思念伝達を受けたと言っています。
 私はここ1ヶ月半ほどここにいますが、まだほんの少しもそのような体験はありません。
 それは私があなたの恩寵を受けるに値しないからでしょうか?
 もしそうなら、私はヴァシシュタクロートパンナ(ヴァシシュタの系譜)でありながら、あなたの恩寵を受けられず、遠く離れた外国人たちが受けているのは恥ずべきことだと感じています。
 この不名誉を取り除くために、何かプラーヤシュチッタ(贖罪の方法)を伝授していただけないでしょうか?

マハルシ
 ビジョンと思念伝達は、心の状態によってもたらされます。
 それは個人に依存し、普遍的な存在に依存するものではありません。
 さらに、それらは取るに足らないものです。
 重要なのは、心の平安です。

質問者
 心の平安はトランス状態の結果です。
 トランス状態はどのようにして得られるのでしょうか?

マハルシ
 トランス状態とは、ただ想念がないだけの状態です。
 その状態は眠りの中に存在しています。
 それによって、あなたは永続的な心の平安を得るのでしょうか?

質問者
 アーシュラマムの刊行物に、トランス状態が必要だと書かれていますね。

マハルシ
 トランス状態は、新しく手に入れるべき別のものではありません。
 あなたの自然な状態が、トランス状態です。

質問者
 しかし、私はそれを感じないのです。

マハルシ
 あなたが正反対の信念を持っているということが妨げなのです。

質問者
 私は真我を実現していないので、自分の永続的なトランス状態を理解していないのです。

マハルシ
 これは繰り返しに過ぎません。
 それが障害となっているのです。
 これは、あなたが非真我を自分だと思うから生じるのです。
 それが間違いです。
 非真我を真我とみなしてはいけません。
 そうすれば、真我はあなたに明らかになります。

質問者
 私は理論的には理解していますが、現実的には理解できません。

マハルシ
  自己の非実現を語る自己という、2つの自己は存在しません。

質問者
 私にとっては、それはまだ理論的です。
 どうしたらトランス状態になれるのでしょうか。

マハルシ
 トランス状態は、その効果が一時的なものにすぎません。
 それが続く限り、幸福があります。
 それから覚めると、古いヴァーサナが戻ってきます。
 サハジャ・サマーディ(努力のない三昧)でヴァーサナが破壊されない限り、トランス状態になんの益もありません。

質問者
 しかし、トランス状態はサハジャ・サマーディに先行しなければならないのではありませんか?

マハルシ
 トランス状態は、自然な状態です。
 行為や現象はありますが、それらはトランス状態に影響を与えません。
 もし、それらが真我から離れたものではないと気づけば、真我が実現されます。
 トランス状態が永続的な心の平安をもたらすのでなければ、トランス状態に何の用があるでしょうか?
 今でさえ、何が起ころうとも、あなたはトランス状態にあることを知りなさい。
 それがすべてです。

質問者
 しかし、私はどのようにすればよいのでしょうか?

821避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:12:41 ID:T7iCrEFQ0
ある学者が述べた。
 ヤトー・ヴァーチョー・ニヴァルタンテー・アプラーピャ・マサナー・サハ(心とともに、言葉も届かないところ)。

質問者は反論した。
 マナサイヴァ・アープタッヴャン(ただ心をもってして実現される)とも言われています。

マハルシ
 そうです。
 純粋な心、すなわち、想念から解放された心こそが、真我なのです。
 純粋な心は、不純な心を超えています。

質問者
 精妙な見る者の、最も精妙な知性で見られるのです。

マハルシ
 心について述べられたことは、これにも当てはまります。

質問者
 もしトランス状態が私の生得の状態だとしたら、なぜトランス状態は実現の前に得られる必要があると言われるのでしょうか?

マハルシ
 それは、人は自分の永遠のトランス状態に気づくべきだということです。
 それに対する不注意が無知です。
 プラマードー・ヴァーイ・ムリティユ(不注意は死そのものである)。

質問者
 事前にトランス状態を得ずに、どうして注意深くあることができるでしょうか?

マハルシ
 よく分かりました。
 もしあなたがそんなにトランス状態を得たいと強く願うなら、どんな麻薬でも役に立つでしょう。
 薬物中毒がその結果であり、解脱ではありません。
 トランス状態にさえ、潜在状態のヴァーサナがあります。
 そのヴァーサナが破壊されなければなりません。

別の信奉者
 ヴァーサナが完全に破壊される前に、真我実現はありうるのでしょうか?

マハルシ
 ヴァーサナには2種類あります。
 1. 無知な者に束縛をもたらすバンダ・ヘートゥと、2. 賢明な者に楽しみを与えるボーガ・ヘートゥです。
 後者は、実現を妨げることはありません。

質問者
 例えば、ヴァーマデーヴァ、ジャダ・バラタなどの、真我を実現した人は生まれ変わるのですか?
 
マハルシ
 実現した人が生まれ変わることはありえません。
 再誕は、縛り付けるヴァーサナによるものです。
 しかし、これらは真我実現の状態において破壊されます。

質問者
 彼らはケーヴァラ・ニルヴィカルパの段階には達しましたが、サハジャ・ニルヴィカルパではなかったということでしょうか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 もし享受のためのヴァーサナだけが実現の状態を妨げず、そしてもし至福の状態を妨げられずに世界の出来事を見ることができるのなら、執着だけが束縛であるということになります。
 合っていますか?

マハルシ
 はい、その通りです。
 執着が束縛なのです。
 執着は、自我を滅すれば消えます。

質問者
 実現は、グルの恩寵によって助けられると言われています。

マハルシ
 グルは、真我にほかなりません。

質問者
 クリシュナはサーンディーピニを師に持ち、ラーマはヴァシシュタを持ちました。

マハルシ
 グルは、求道者にとって外的なものだと言われています。
 心の内向はグルによってもたらされます。
 求道者は外向性を有しているため、グルから学ぶようにと勧められるのです。
 やがて彼は、グルが真我であることを見出すことになります。

822避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:13:24 ID:T7iCrEFQ0
質問者
 私にグルの恩寵をいただけますか?

マハルシ
 恩寵はいつもそこにあります。

質問者
 しかし、私はそれを感じません。

マハルシ
 明け渡しが、人に恩寵を理解させるのです。

質問者
 私は、心と魂を明け渡しました。
 自分の心の一番の審判は私です。
 それでも、私は恩寵を感じないのです。

マハルシ
 もしあなたが明け渡していたら、疑問は生じなかったでしょう。

質問者
 私は明け渡しました。
 それでも疑問が湧いてきます。

マハルシ
 恩寵は不変です。
 あなたの判断は変わります。
 それ以外に、どこに落ち度があるというのでしょうか?

質問者
 私は、自分自身を明け渡せるようにならなければなりません。

マハルシ
 ターユマーナヴァルは言いました。
 「私にこれほどまでに議論させ、これほどまでにあなたの言葉に従うことを可能にしたあなたに栄光あれ!」。

823鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/04(水) 23:10:09 ID:1d4drIFg0

 恩寵とかトランスとかの変異を欲しがっているならば、それは世間の金や権力や名声を欲しがっているのと変わりないのじゃ。
 自分の欲を出しているのであるからのう。
 自分の欲があるならば明け渡しても居ないのじゃ。
 全ては今ここにいる自分に最初から備わっているものじゃ。
 さらに何かをほしがる必要は無いのじゃ。

824避難民のマジレスさん:2022/05/05(木) 08:23:57 ID:QA3dYefs0
ラマナ・マハルシとの対話 318

1937年1月7日

ヒンドゥ―教徒の紳士が、死の恐怖はどうすれば克服できるのかと質問した。

マハルシ
 死について考える前に、あなたがそもそも生まれてきたかどうかを調べてください。
 生まれた者だけが死ぬことができます。
 あなたは眠っているときでさえ、死んでいるのと同じなのです。
 そこに、死へのどんな恐怖がありますか?

質問者
 眠っている時、私たちはどうなっているのでしょうか?

マハルシ
 睡眠中に質問してください。
 あなたが眠りの体験を思い出すのは、起きている時にだけです。
 あなたはその状態を「幸せに眠った」と言って思い出すのです。

質問者
 その状態を体験するための手段は何ですか?

マハルシ
 それは、私たちが他の状態で慣れ親しんでいるアンタハカラナとは違い、マーヤーカラナと呼ばれています。
 睡眠状態のアーナンダートマンが覚醒状態のヴィジュニャーナートマンと呼ばれるように、同じ手段でも、状態によって呼び方が違うのです。
 
質問者
 マーヤーカラナがアーナンダを体験している様子をご説明ください。

マハルシ
 どうしてあなたは「私は幸せに眠った」と言えるのでしょうか?
 その体験はそこに、あなたの幸福を証明するために存在しているのです。
 眠っている状態での体験がなければ、起きている状態での想起はありえません。

質問者
 そのとおりです。
 しかし、どうか説明をお願いします。

マハルシ
 どうして描写されうるというのでしょうか?
 もし、あなたが物を取り戻すために水に飛び込んだら、水から上がった後で初めて、その回収について話すでしょう。
 あなたが水に沈んでいる最中は、何も言いません。

質問者
 私は眠っている間、恐怖がありませんでしたが、今はあります。

マハルシ
 なぜなら、ドヴィティーヤードヴァイ・バヤン・バヴァティ(2であることにより、恐怖は生ずる)……恐怖は常に他のものだからです。
 何に、あなたは恐れているのですか?

質問者
 身体、感覚、世界、イーシュヴァラ、行為者性、快楽などの知覚のためにです。

マハルシ
 それらが恐怖を引き起こすのであれば、なぜあなたはそれらを見るのですか?

質問者
 それらは避けられないものだからです。

マハルシ
 しかし、それらを見ているのはあなたです。
 恐怖は誰にとってあるのでしょうか?
 それらにとってでしょうか?

質問者
 いいえ、私にとってです。

マハルシ
 あなたがそれらを見るから、あなたはそれらを恐れるのです。
 それらを見なければ、恐れはなくなるでしょう。

質問者
 では、起きている状態ではどうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 真我でありなさい。
 そうすれば、恐怖に惹き起こす別のものは存在しないでしょう。

質問者
 はい。
 今、私は理解しました。
 もし私が真我を見るなら、その見ることが非真我を追い払い、そして幸福が存在するということです。
 しかし、死の恐怖があるのです。

マハルシ
 生まれた者だけが死ぬはずです。
 死があなたを脅かせるために、本当にあなたが生まれてきたかどうかを確かめてください。

825鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/05(木) 22:50:02 ID:1d4drIFg0

 眠りの時の意識は死の意識と同じなのじゃ。
 そうであるからマハリシは死を恐れる者に、眠りの中では恐れがないことを説いているのじゃ。
 眠ることを恐れない者が死を恐れる必要は無いのじゃ。
 毎日眠って起きるということは、毎日死ぬことを体験しているのであるからのう。
 眠りの中で幸福があるならば、死にもまた幸福は在るのじゃ。

826避難民のマジレスさん:2022/05/06(金) 07:59:41 ID:eTa3nqhY0
ラマナ・マハルシとの対話 319

ゴアから来たヒンドゥー教徒、シュリーダー氏が尋ねた。
 
 ヨーガハ・カルマス・カウシャラム(ヨーガは行為における技である)のカウシャラム(技)とは何でしょうか?
 それはどのようにして得られるのでしょうか?

マハルシ
 結果を気にすることなく、行為をしなさい。
 自分が実行者だと考えてはいけません。
 仕事を神に捧げなさい。
 それが技であり、またそれを得る方法です。

質問者
 サマットヴァン・ヨーガ・ウッチャテー(平静がヨーガである)。
 平静とは何ですか?

マハルシ
 それは多様性の中の単一性です。
 宇宙は今、多様であると見られています。
 すべての物に共通する要素(サーマー)を見なさい。
 それがなされれば、対極(ドゥヴァンドワーニ)中の平等は自然に訪れます。
 しかし、通常、平静として語られるのは後者です。

質問者
 多様性の中にある共通の要素はどのように認識されるのですか?

マハルシ
 見る者はただ一人です。
 それらは見る者なしには現れません。
 他のものがいかに変化しようとも、見る者に変化はありません。

ヨーガハ・カルマス・カウシャラム = 仕事における技がヨーガである

サマットヴァン・ヨーガ・ウッチャテー = 平静がヨーガである

マーメーカン・シャラナン・ヴラジャ = 私にのみ明け渡しなさい

エーカーメーヴァードヴィティーヤム = 二のない一なるもの

これらはカルマ、ヨーガ、バクティ、ジニャーナを表しており、同じ意味を伝えています。

それらは、ただ一つの真理を、異なる側面で表現したものなのです。

827避難民のマジレスさん:2022/05/06(金) 08:00:16 ID:eTa3nqhY0
エーカナート・ラーオ氏

 そのためには恩寵が必要なのでしょうか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 神の恩寵を得るにはどうしたらよいのでしょうか?

マハルシ
 明け渡しによって。

質問者
 それでも私は恩寵を感じません。

マハルシ
 誠意が欠けているのです。
 明け渡しは口先だけのものであっても、条件付きであってもいけません。

これらの言葉を説明するために、聖者ジャスティニアンの一節が読み上げられた。

 「祈りは言葉から成るものではない。
  それはハートからのものである。
  ハートに融合することが祈りである。
  それはまた恩寵でもある。」

 アルヴァールは言います。

 「私はずっとあなたを求めていました。
  しかし、真我を実現すると同時に、あなたが真我であることがわかりました。
  真我は私のすべてであり、だからあなたは私のすべてなのです」。

質問者
 限定、無知、欲望(アナヴァ、マーイカ、カーミャ)という不純物は、瞑想の道を阻みます。
 どうやって克服するのですか?

マハルシ
 それらに惑わされないことによって。

質問者
 恩寵が必要です。

マハルシ
 そうです、恩寵は始まりでもあり終わりでもあります。
 内向は恩寵によるものです。
 忍耐は恩寵であり、実現は恩寵です。
 それが、マーメーカン・シャラナン・ヴラジャ(私にのみ明け渡しなさい)という言葉の理由です。
 もし、人が完全に自分自身を明け渡したら、恩寵を求める部位が残っているでしょうか?
 彼はその時、恩寵に飲み込まれてしまうのです。

質問者
 障害は強力で、瞑想を妨害します。

マハルシ
 もし高次の力が認識され、それに明け渡したならば、どんな障害がどうやってあなたを妨害し得るというのでしょうか?
 もしあなたが「それらは強力だ」と言うなら、それらがあなたを妨害しないように、それらの力の源がとらえられなければなりません。

828鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/06(金) 23:01:14 ID:1d4drIFg0

 自分を明け渡したという者がよくいるが、実は何も明け渡して居ないのじゃ。
 自分を明け渡すのは実際には難しいものじゃ。
 極端に言えばいきなりグルに害されても防御せずに死んで本望とさえ思う境地であるからのう。

 呼吸法とか集中で忘我に至る方がまだ容易なのじゃ。
 熟達すれば自然にサマーディにまで至れるからのう。
 自分を明け渡したと偽っていれば、永遠に恩寵は来ないのじゃ。

829避難民のマジレスさん:2022/05/07(土) 08:11:38 ID:MkueXGeY0
ラマナ・マハルシとの対話 320

ある日常会話の中で、シュリ・バガヴァンはこう指摘した。

マハルシ
 真我実現は適者にのみ可能です。
 ヴァーサナは、ジニャーナが明らかになる前に滅されなければなりません。
 ジニャーナが明らかになるには、人はジャナカ王のようになり、真理のためにすべてを犠牲にする覚悟がなければなりません。
 完全なる放棄が、適性の指標となります。

830鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/07(土) 22:56:44 ID:1d4drIFg0

 ヴァーサナは心の奥に植え付けられた行いの観念記憶なのじゃ。
 ジニャーナは智恵なのじゃ。
 つまりは自分がこのように行ったとかいう自我からの観念を滅するべきというのじゃ。
 自我を完全に放棄して自らの行いを観念から解放しなければならないのじゃ。
 それができる者は稀なのじゃ。

831避難民のマジレスさん:2022/05/08(日) 07:28:11 ID:IdPnLSsQ0
ラマナ・マハルシとの対話 321

質問者
 ジャーグラト(覚醒状態)には不幸が現れます
 なぜ現れるのでしょうか。

マハルシ
 もしあなたが、あなたの真我を見るなら、それらは現れないでしょう。

質問者
 私が誰であるかということに目を向けても、私は何も見つけられません。

マハルシ
 あなたは睡眠中、どのように在りましたか?
 そこには「私」という想念はなく、あなたは幸せでした。
 一方、ジャーグラトでは、「私」という根源的な想念をきっかけに種々の想念が開花し、これらがあなたに生得な幸せを隠してしまうのです。
 幸せの障害となるこれらの想念を取り除くのです。
 あなたの自然な状態は、眠っている間に明らかなように、幸せなのです。

質問者
 私は自分の睡眠体験について何も知りません。

マハルシ
 しかし、あなたはそれが幸せであったことを知っています。
 そうでなければ、「私は幸せに眠った」とは言わないでしょう。
 想念がなく、「私」もなく、あなた自身以外の何もないとき、あなたは幸せです。
 それが真理の全てです。

 これこそまさに、マハーヴァーキャ・タットヴァマシ(あなたはそれである)が伝えていることです。
 あなたの真我を見つけなさい。
 そうすれば「それ」が知られます。

質問者
 ブラフマンはどのような存在なのですか?

マハルシ
 なぜあなたは自分とは別のブラフマンを知りたがるのですか?
 聖典は「あなたはそれである」と言います。
 真我はあなたと懇意であり、あなたは真我なしには存在し得ません。
 真我を実現しなさい。
 それがブラフマンの実現でもあるのです。

質問者
 しかし、私にはそれをすることができません。
 私は真我を実現するには弱すぎるのです。

マハルシ
 その場合は、無条件にあなた自身を明け渡しなさい。
 そうすれば、高次の力がそれ自体を明らかにするでしょう。

質問者
 無条件の明け渡しとは何ですか?

マハルシ
 もし人が自分自身を明け渡せば、質問する者も考えるものもなくなります。
 「私」という根源的な想念をしっかりとらえることによって全ての想念が排除されるか、自分自身を高次の力に無条件に明け渡すか、そのどちらかです。
 実現には、これら2つの方法しかありません。

832鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/08(日) 23:41:32 ID:1d4drIFg0

 不幸があるならばそれは自我によってもたらされるのじゃ。
 まだ真我に達していないのじゃ。
 求め続ければそれも実現するのじゃ。
 求めることが出来ないならば、明け渡しをするがよいのじゃ。
 誰もが自分にあった法を実践するべきなのじゃ。

833避難民のマジレスさん:2022/05/09(月) 07:29:50 ID:H1xqWR1I0
ラマナ・マハルシとの対話 322

マドラスの有名な事務弁護士の娘である、教養ある婦人が尋ねた。

あなたがアドバイスされたように、想念から自由でいるためには、人はどうすればよいのでしょうか?
「私は誰なのか?」という探求しかないのでしょうか?

マハルシ
 ただ静かにしていることです。
 それをやって見てください。

質問者
 不可能です。

マハルシ
 その通りです。
 同じ理由から、「私は誰か?」という探求が勧められるのです。

質問者
 その問いを投げかけても、内側からは何の返答もありません。

マハルシ
 どんな返答を期待しているのですか?
 あなたはそこにいないのですか?
 これ以上何を?

質問者
 想念がますます湧き上がってきます。

マハルシ
 その場で直ちに、「私は誰か?」と、同じ問いかけをするのです。

質問者
 1つ1つの想念が湧き上がるたびにそうすればいいのでしょうか?
 世界は私たちの想念でしかないのでしょうか?

マハルシ
 この質問は世界に任せてください。
 世界に、「私はどうやって誕生したのか?」と尋ねさせましょう。

質問者
 それは私に関係ないということですか?

マハルシ
 深い眠りの中では何も知覚されません。
 これらはすべて、起きた後にのみ見られるものです。
 想念が生じた後にのみ、世界は生まれます。
 それが、想念以外の何であり得るというのでしょうか?

別の訪問者が尋ねた。

心を静めるにはどうしたらよいのでしょうか?

マハルシ
 まず、心をとらえさせ、ここに連れてこさせましょう。
 それから、それを静める方法と手段を考えましょう。

質問者
 ジャパをしていときでさえも、心は常に変化していると言いたかったのです。

マハルシ
 ジャパは心を静めるためだけにあるのです。

質問者
 どのようなジャパが良いのでしょうか?

マハルシ
 ガーヤトリーのような、適切なものなら何でも。

質問者
 ガーヤトリーでよいのでしょうか?

マハルシ
 それに優るものがあるというのでしょうか?
 それができない人たちだけが、他のものを探すのです。
 それは、その中に真実の全領域を包含しています。
 詠唱(ジャパ)はディヤーナ(瞑想)につながり、それは真我を実現するための手段なのです。

質問者
 1日30分で十分でしょうか?

マハルシ
 それは常に、あるいはできる限り長く行われなければなりません。

834鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/09(月) 23:02:25 ID:1d4drIFg0

 ガーヤトリーとは神への賛歌と助力を願うマントラなのじゃ。
 インドの人で信仰がある者ならば、唱え続けて集中力が養えるのじゃ。
 ただの言葉ならば無意味なものとしてやめてしまが、マンドラは信仰があるから続けられるのじゃ。
 毎日続ければディヤーナからサマーディにまで到達できるのじゃ。

835避難民のマジレスさん:2022/05/10(火) 15:58:33 ID:AuK7e.NA0
ラマナ・マハルシとの対話 323

アルナーチャラ・アシュタカムの第6連を説明しながら、シュリ・バガヴァンは次のように述べた。

マハルシ
 前の連の最後の言葉は、「一者は在るのか?」と問いかけています。
 今回の連の最初の言葉は、「そうだ、一者は在る……」と答えています。
 そしてこう続きます。
 「それは唯一なる一者であるにもかかわらず、その素晴らしい力によって、無知、あるいは潜在的傾向の集合体としても知られる小さな点である『私』(自我)の上に投影されるのである。
 この投影された光が相対的知識である。
 これは、人のプラーラブダ(今結実している過去のカルマ)に従って、内部の潜在的傾向を外部の粗雑な世界として現し、粗雑な外部の世界を微細な内部の世界として引き入れる。
 外界の粗雑な傾向を内界の微細な傾向として顕在化させ、外界の総体的な傾向を内界の微細な傾向として退出させる。
 そのような力は精妙な次元では心と呼ばれ、物理的な次元では脳と呼ばれている。
 この心や脳は、その永遠の一なる存在に対する拡大鏡として機能し、それを拡大された宇宙として外へ示す。
 目覚めと夢見の状態では心は外向性であり、眠っているときは内向性である。
 心を媒体として、一つの至高なる存在が、目覚めと夢見の状態では多様に見られ、睡眠状態や卒倒などでは引き入れられたままである。
 ゆえに、あなたはただそれであり、それ以外にはありえない。
 どのような変化があっても、同じ一つの存在があなた自身として残り、あなた自身以外に何もないのである。」

 前の連にはこうあります。

 一度太陽光を浴びると、もはや感光板は画像を映すことができない。
 同じように、心(感光板)も、あなたの光にさらされた後は、もはや世界を映すことができなくなる。
 さらに、太陽はあなたに他ならない。
 その光線が像の形成を妨げるほど強力であるなら、あなたの光はさらにどれほどであろうか?
 このように、唯一なる存在であるあなた自身から離れた何ものも存在しないと言われるのだ。

 今回の連では、小さな点=自我、暗闇でできた小さな点=潜在的傾向からなる自我です。
 見る者、主体または自我が立ち現れると、それは自身を、見られるもの、客体またはアンタハカラナ(内的器官)として拡大します。
 自我が立ち現れるためには、光は薄暗くなければなりません。
 白昼では、縄は蛇のように見えません。
 真っ暗闇では縄そのものが見えないので、それを蛇と間違えることはありません。
 薄明かりの中、夕闇の中、影で暗くなった光の中、薄明かりに照らされた闇の中においてのみ、縄が蛇に見えるという間違いが起こるのです。
 同様に、純粋な光を放つ存在が自我として立ち現れるのも、それは、闇を通って拡散するその光の中でこそ可能なのです。
 この闇は、原初の無知(原罪)としても知られています。
 それを通過する光は、投影された光と呼ばれます。
 投影された光は、その真価に基づいて、純粋な心、イーシュヴァラ、あるいは神として一般に知られています。
 イーシュヴァラがマーヤーと一体化されていることはよく知られています。
 つまり、投影された光はイーシュヴァラです。

 もう一つの名前である純粋な心は、不純な心をも暗示します。
 これは、ラージャシックまたは活動的な心、あるいは自我のことです。
 これもまた、別の投影を通してのみ、元のサートヴィックな心から映し出されることができるのです。
 したがって、自我は第二の闇(アヴィディヤー)の産物です。
 次に来るのは、アンタハカラナ(内的器官)の形をとったターマシックまたは不活発な心です。
 これが世界として現れるのです。

 粗雑な身体の立場からすれば、脳を介して、世界として外部に輝いていると言えるかもしれません。

 しかし、粗雑な身体は、心に他なりません。
 心は、四つの内なる器官、あるいは想念からなる原理、あるいは第六感からなるとも言えます。
 あるいは、知性を自我に、チッタを心に(すなわち記憶機能を思考機能に)組み合わせて、二つの部分(自我と心)からなるとすることもできます。
 後者の場合、ヴィジュニャーナートマン(知的自己)、自我、あるいは見る者が主体を形成し、心の鞘あるいは見られる者が客体を形成します。

 覚醒、夢、睡眠の状態は、原初の闇(ムーラ・アヴィディヤー)にその起源があります。
 目覚めているときと夢の中では、心は外に出てその様態から体験を引き出し、眠りの中では、マーヤーの様態を用いて体験しながら内に引き込まれます。
 独自の力が個人と宇宙のすべての活動を制御しているのです。
 これらはすべて、自ら光りを放つ存在の基底に投影された光を通過する現象に過ぎません。

836避難民のマジレスさん:2022/05/10(火) 15:59:38 ID:AuK7e.NA0
 白昼に蛇が縄に見られないように、また濃い闇の中では縄そのものが見られないように、自ら光り輝く純粋な存在の三昧状態にも、深い眠りや卒倒などにも、世界は現れないのです。
 投影された光(闇と混ざった光、無知によって汚された知識)の中でだけ、その源から独立していない世界は、現れ、栄え、滅びるように見えるのです。
 その多様性もまた、本来の源である実在から排除されることはありえません。
 ここでは、一つの単一の存在が多様化し、客体化され、そして撤退する、という芝居が繰り広げられているのです。
 それを行うシャクティ(力)がなければならず、また、見事なものです!
 彼女は、自分の起源から独立していることはできません。
 自ら光り輝く純粋な存在の中では、このシャクティは見られません。
 それにもかかわらず、彼女の行動はこのうえなく有名なのです。
 なんと卓越しているのでしょう!

 彼女の卓越した本来の活動(すなわち振動する力)からサットヴァに満ちた投影が生じます。
 そこからラージャシックな自我、次に一般に知識として知られているタマスの想念形態、あるいは拡大レンズに相応する光が生じます。
 人工の光がレンズを通してスクリーンに映し出されるように、投影された光も想念(拡大鏡)を通過してから、その先にある世界へと広がっていきます。
 さらに、想念は ── それ自体が種子の形態をとった世界であり ── 、広大な外界であるかのように見えます。
 それは並はずれた力です!
 このように、イーシュヴァラも個人も世界も、自ら光り輝く単一の存在を基底に投影された光でしかないのです。

 さて、この「私」という想念(自我)とは何でしょうか?
 成り立ちから見れば、主体なのでしょうか、客体なのでしょうか?

 覚醒状態や夢の状態で他のすべての客体を目撃している以上、あるいは、少なくとも私たちがそう思っている以上、それは主体であると考えられなければなりません。
 しかし、純粋な真我を実現すれば、それは単なる客体でしかありません。

 この「私」という想念(自我)は誰のものなのでしょうか?
 この究明がヴィチャーラを形成します。

 「私」という想念と「これ」という想念は、どちらも同じ光からの放射です。
 それらは、それぞれラジョーグナとタモーグナに関係します。
 ラジャスやタマスから解放された、投影された光(純粋なサットヴァ)を得るためには、それは、「これ」という想念によって断たれることなく、「私-私」として輝きを放たなければなりません。
 この純粋な状態は、一時的に睡眠と覚醒の間に介在します。
 それが長引けば、宇宙意識、あるいはイーシュヴァラにさえなります。
 これが、自ら光り輝く至高の存在の実現に至る唯一の道なのです。

 また、「私は幸せに眠った、何にも気づくことなく」と、目覚めた後に回想される深い眠りには、二種類の体験があります。
 幸福と無知がその体験です。
 このように、私たちはその力が、1. アーヴァラナ(闇)と 2. ヴィクシェーパ(多様性)に改変されるのを見ます。
 心はヴィクシェーパの結果なのです。

837鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/10(火) 23:04:03 ID:1d4drIFg0

 自我はただの観念であり、名前とイメージの連結したものに過ぎないのじゃ。
 それを主体で在ると認識してしまうことが、無明なのじゃ。
 そこからさまざまな苦が起こるのじゃ。
 それはただの謬見なのじゃ。
 観察ができればそれが消え去るのじゃ。
 縄が蛇ではないと気付くように、名前とイメージが自分ではなく、自分のものでもないと気づけば無我になるのじゃ。

838避難民のマジレスさん:2022/05/11(水) 12:54:52 ID:AuK7e.NA0
ラマナ・マハルシとの対話 324

1937年1月10日

回想録

(1) スカンダアシュラマムにいた時、シュリ・バガヴァンは、10フィートほど離れたところに小さくて長い白色のヒキガエルを見かけた。
シュリ・バガヴァンはそれを見つめ、それはシュリ・バガヴァンを見つめた。
突然、それは大ジャンプをし、正確にシュリ・バガヴァンの片方の目の上に止まった。
シュリ・バガヴァンはすぐに目を閉じたので、怪我はなかった。

(2) かつて、羽をきらびやかな扇のように広げて気取って歩く2羽の孔雀がいた。
一匹のコブラもその遊びに参加し、その頸部を掲げ、それらの中を動き回っていたものだった。

(3) シュリ・バガヴァン曰く、孔雀は緑のトカゲを見つけるとすぐに、まっすぐそのトカゲのところに行き、おとなしくトカゲの前に首を下ろすと、トカゲはそれを噛み切り孔雀を殺してしまう。

(4) ある時、ランガスワミ・アイエンガール氏が丘に出かけた。
近くに一頭の豹がいた。彼は石を投げた。
豹は彼の方を向いた。
彼は命からがら逃げ出した。
シュリ・バガヴァンは途中で彼に会い、どうしたのかと尋ねた。
アイエンガール氏は走りながら「ヒョウ」とだけ言った。
シュリ・バガヴァンがその獣がいるところへ行くと、獣はすぐに立ち去った。
以上のことが起こったのは、ペストが蔓延していた頃だった。
豹はよく寺院の脇を自由に歩き回っており、時には2頭、3頭でいることもあったものだった。

(5)
シュリ・バガヴァンは言った。
「蛙はよくヨーギに例えられます。
 長い間静かにしていて、首の下の皮がリズミカルに動くのが唯一の生命の兆しなのです」。

「また、カエルは、生気が停止した状態で並外れて長い間とどまることができます。
 それらは舌を飲み込むと言われています。
 舌を飲み込むのはヨーギの修行でもあります。
 生気が停止されるのです。
 ヨーギは死にませんが、生命活動を再開する前に、他の人に舌を引き抜かれなければなりません。
 蛙が飲み込まれた舌を出して活動を再開するのは驚くべきことです」。

1937年1月11日

(6) ラグーヴィーラン ── マラヤーラム語のやさしい散文で書かれた『ラーマーヤナ』 ── を読んでいると、ハヌマーンが身体的にランカに渡る前に、精神的にどのようにその島に到達したかに関する一節があった。
シュリ・バガヴァンは、精神的なアプローチは身体的な行為よりも早く目的を達成する、という点を強調した。

(7) シュリ・バガヴァンは次のような面白い逸話を話した。
マラヤーリの偉大な聖者であり著述家であるエルータチャンが、寺院に入るとき、身に魚を数匹隠し持っていた。
ある敵対者がそれを寺院の参拝者たちに報告した。
その男は調べられ、王のもとに連れて行かれた。
王は彼に「なぜ、魚を寺院に持ち込んだのか?」と尋ねた。
彼は答えた。
「それは私の罪ではありません。
 私は服の中に隠しておいたのです。
 他の者たちが神殿の中で魚を曝したのです。
 過失は曝した者にあります。
 体内の排泄物は不潔とされませんが、排泄されると不潔とされます。
 これも同じです」。

839鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/11(水) 23:32:29 ID:1d4drIFg0

 身に入るものより、身からでるものが自分を傷つけるというのじゃ。
 人は食べ物に毒がはいっていないかとか、腐っていないかとか気をつけるじゃろう。
 それと同じように口から出る言葉や、行いに気をつけるのじゃ。
 暴言や暴力によって遂には自分を傷つけないよにうするためなのじゃ。

840避難民のマジレスさん:2022/05/12(木) 12:01:47 ID:fkqLohAs0
ラマナ・マハルシとの対話 325

1937年1月12日

グントゥール地区のラーマ・シャーストリ氏はシュリ・バガヴァンに関する8つのシュローカを作り、心を込めて読み上げた。
それからシャーストリ氏は導きを請うた。

「私はジニャーナ・マールガにふさわしくないサンサーリーです。
 世俗の物事が私を惑わします。
 どうか、私が何をすればよいのか教えてください」。

マハルシ
 バガヴァンのことを考えなさい。
 世俗の物事がどうして彼を惑わすというのでしょう?
 あなたもそれらもバガヴァンの中にあるのです。

質問者
 私はナーマ・スマラナ(神名の想起)をしてもよろしいのでしょうか?
 どのようなナーマを選べばいいのでしょうか?

マハルシ
 あなたはラーマ・シャーストリです。
 その名前を重要視しなさい。
 ラーマと一つになるのです。

841鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/12(木) 21:12:55 ID:1d4drIFg0

 ラーマとはヴィシュヌの化身であるとされる神なのじゃ。
 質問した者の名前と同じなのじゃ。
 親が神にあやかるようにとつけた名前じゃろう。
 自分と縁のある神に帰依するようにというのじゃ。
 そのようであれば帰依もしやすいからなのじゃ。
 帰依が完全になれば神と一つで在ると感じるのじゃ。

842避難民のマジレスさん:2022/05/13(金) 18:01:20 ID:99qwrTUY0
ラマナ・マハルシとの対話 326

1937年1月13日

長く住んでいる従者の質問に答える形で、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 誰もが、心の落ち着きのなさを訴えています。
 心を見つけさせなさい、そうすれば彼らは知るでしょう。
 確かに、人が座って瞑想するとき、想念はいくらでも急に噴き出してきます。
 心は想念の束に過ぎません。
 想念の弾幕の中を押し進もうとする試みは、うまくいきません。
 もし、何らかの方法で真我に留まることができれば、それが良いのです。
 それができない人たちには、詠唱や瞑想(ジャパやディヤーナ)が処方されます。
 それは、象に鎖を与えて、その鼻を制御するようなものです。
 象の鼻は通常、落ち着きがありません。
 象は町の通りに連れ出されると、四方八方に鼻を伸ばします。
 もし、運ぶ鎖が与えられれば、落ち着きのなさは抑えられます。
 落ち着きのない心も同様です。
 ジャパやディヤーナに従事させられれば、他の想念は追い払われ、心は単一の想念に集中します。
 こうして心は平和になるのです。
 しかし、それは長期間の奮闘なしに平和が得られるというわけではありません。
 他の想念すべてが決着をつけられなければならないのです。

 別の例を挙げましょう。
 牛が悪戯をして、近所の人の畑に入り込んで草を食んでいるとします。
 彼女の盗み癖は簡単には断たれません。
 どうすれば彼女を牛房に閉じ込めさせておけるか考えてみてください。
 無理やり牛房に繋がれれば、彼女は悪戯をする機会を待つだけです。
 もし、牛房の中で良質の草の誘惑を受けたら、初日は一口だけ食べて、また逃げる機会を待ちます。
 翌日には2口と、そのように日を追うごとに口数が増えていき、最終的に邪な性質が断たれます。
 悪癖から完全に解放されれば、安心して放し飼いにされ、近所の牧草地に入り込むこともありません。
 牛房で叩かれたとしても、その場を離れることはありません。
 心も同様です。
 心は、想念として現れる潜在的なヴァーサナの力によって、外に向かってさ迷い出ることに慣れているのです。
 内に秘められたヴァーサナがある限り、それらは外に出てきて自らを使い果たさなければなりません。
 想念が心を構成しています。
 心とは何かを探れば、想念は引き下がり、求道者はそれらが真我から生じることを知ります。
 私たちが心と呼んでいるのは、これらの想念の集合体です。
 もし、想念が真我から生じることを悟り、それらの源に留まれば、心は消えてなくなります。
 心が消滅し、平和の至福が実現した後、今、すべての想念を排除することが困難であると感じているのと同様に、1つの想念を引き出すことが困難であると感じるでしょう。
 ここでは、心は悪戯をする牛で、想念は隣の牧草地、想念から解放された自分自身の原始の存在は牛房です。

 平和の至福は、邪魔されるにはあまりに惜しいものです。
 ぐっすり眠っている人は、起こされて自分の仕事をするよう命じられるのを嫌がります。
 眠りの至福は、想念から生まれる仕事のために犠牲にされるには、あまりにも魅惑的です。
 想念のない状態は、本源の状態であり、至福に満ちています。
 想念にまみれた不幸な状態のためにそのような状態を捨てるのは憐れではないでしょうか?

 もし、想念のない状態に留まりたいのであれば、奮闘は避けられません。
 自身の原初の状態を取り戻す前に、人は戦い抜かなければなりません。
 戦いに勝利し、ゴールに到達すれば、敵、すなわち想念はすべて真我の中に収まり、完全に消滅します。
 想念が敵です。
 それらは宇宙の創造に相当します。
 想念がなければ、世界も創造主である神も存在しません。
 真我の至福とは単一の存在に他なりません。

843避難民のマジレスさん:2022/05/13(金) 18:02:07 ID:99qwrTUY0
 プラハラーダが三昧に入ってたとき、ヴィシュヌは心の中で想いました。

 「このアスラ(悪魔)が三昧に入っていることで、すべてのアスラたちは平和のうちにある。
 戦いも、力試しも、力の探求も、力を得るための手段もない。
 そのような力のための手段(ヤーガ"供物"、ヤグニャ"儀式"など)がない場合、すなわち神々は栄えなければ、新しい創造がないばかりか、いかなる存在も正当化すらされない。
 ゆえに、私は彼を起こさせる。
 そうすれば、アスラたちは立ち上がり、彼らの本来の性質が現れ、神々が彼らに挑戦する。
 そうなれば、アスラや他の者たちは力を求め、その獲得のための手段を取る。
 ヤグニャなどが盛んになり、神々が栄え、よりいっそうの創造が、いっそうの戦いが起こり、私は十分な仕事をすることができるだろう」。

 そこでヴィシュヌはプラハラーダを起こし、彼に永遠の生命とジーヴァン・ムクティを祝福しました。
 宇宙がその永遠の本性の中で続いていくように、デーヴァ(神)とアスラの戦いは再開され、旧秩序が回復されたのです。

質問者
 どうして神ご自身がアスラの要素を目覚めさせ、絶え間ない戦争状態をもたらすというのでしょう?
 純粋な善性が神の本性ではないのでしょうか?

マハルシ
 善性は相対的なものでしかありません。
 善は常に悪を暗示し、それらは常に共存しています。
 一方は他方の裏面なのです。

844鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/13(金) 22:56:07 ID:1d4drIFg0

全ての瞑想や法は心を静めるめのものなのじゃ。
 心を静めて観察がし易くするために実践するものじゃ。
 最初から心が静まっていれば瞑想もいらないのじゃ。
 阿修羅がいなければ、神々も必要はないというがそれを表す比喩なのじゃ。

845避難民のマジレスさん:2022/05/14(土) 14:38:03 ID:ZvNr5i4o0
ラマナ・マハルシとの対話 327

ホールの聴衆は、とても熱心に聞いていた。
その中の一人、シュリ・バガヴァンの誠実な帰依者は、それにとても感銘を受け、すぐに我を忘れてしまった。
彼は後に、その体験を次のように語った。

帰依者
 私は長い間、「流れ」はどこから始まるのか、体の中なのか、それとも別の場所なのかと考えていました。
 突然、私の体は希薄になり、やがて消えてしまいました。
 「私は誰なのか?」という探求が、非常にはっきりと、強制的に続けられました。
 「私-私-私」という音だけが持続していました。
 そこには一つの広大な広がりがあり、それ以外何もありませんでした。
 ホールで起こった出来事について、ぼんやりとした認識がありました。
 ヴェーダの詠唱が終わると、人々が立ち上がって敬礼したことに気づいていました。
 私も立とうと思いましたが、すぐにその思いは消えました。
 私はまた、一つの広がりの中に陥ってしまいました。
 その体験は、シュリ・バガヴァンの声を聞くまで続きました。
 それが自分を取り戻させました。
 そして、立ち上がって敬礼しました。
 不思議な感覚は30分以上続きました。
 私はそれを忘れることができません。
 今も私の頭から離れないのです。

シュリ・バガヴァンは彼の言葉に耳を傾け、何分間か沈黙していた。
彼の唇から、いくつかの見解がこぼれ落ちた。

マハルシ
 人は身体の外に出るように思えるかもしれませんが、身体そのものは私たちの想念以上のものではありません。
 想念のないところに身体はありえず、身体のないところに出たり入ったりすることはありえません。
 しかし、習慣によって、外に出るという感覚が生まれます。

 海面に落ちた雹の一粒が溶けて、海の中の水、波、泡などになります。
 同様に、微細な知性は、ハートから小さな点(自我)として立ち現れ、膨らんで、最後にはハートの中に入り、ハートと一体となります。

 たとえ牛乳が海のように広がっていても、あなたは海のように広い口でそれを飲むことができるでしょうか?
 あなたは、乳頭の小さな毛細管を通してのみ、それを吸うことができます。

 ヴィシュヌ派の聖者であるナンマルヴァールはこう言っています。
 「私の真我のみがあなたである」。
 これはどういう意味でしょうか?
 「私が真我を実現する前は、あなたを探してさまよっていた。
  今、真我を実現したことで、あなたが真我であることがわかった」。
 このことは、限定不二一元論にどう適合するのでしょうか?
 このように説明されるに違いありません。
 「真我に浸透しながら、あなたはアンタルヤーミー(内在する存在)として残存している。
  したがって、私はあなたの身体の一部であり、あなたはその身体の所有者(シャリーリー)である」。

 自分自身ではないとして身体を放棄したのに、なぜ別(神)の身体になるというのでしょうか?
 もし自分の身体が真我でないなら、他の身体もまた非真我なのです。

 限定不二一元論の反論者は、至福を経験するためには個人性が必要だと考えています。
 個人性、つまり「私」という性質が失われてはいけないと。
 嗚呼!真我は身体ではないのに、真我が神の身体となる!
 それは不条理ではありませんか?

 あるいは、もしあなたが神にプラパッティー(自分自身を明け渡すこと)をすれば、あなたは自分自身を彼に委ねたことになり、あなたは彼のものであって、もはやあなたのものではありません。
 もし、神が身体を必要とするのであれば、神に自分で探してもらいましょう。
 あなたが、彼が身体の所有者であると言う必要はありません。

846鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/15(日) 01:38:07 ID:1d4drIFg0

 人の肉体も想念であるとマハリシはいうのじゃ。
 全ては意識であるから、肉体という物理的な存在もまたその一部なのじゃ。
 全てつながり、同じ本質を持つものなのじゃ。
 肉体だけが自分であるという囚われがあれば、肉体の外に出たという観念も起こるのじゃ。
 意識が全てであると理解できれば、肉体への束縛がなくなっただけであると気づくのじゃ。

847避難民のマジレスさん:2022/05/15(日) 15:43:22 ID:asj6Mn/.0
ラマナ・マハルシとの対話 328

あるヨーロッパの紳士が、落ち着いた調子で始め、はっきりと、ゆっくり話した。

「なぜ、個人は世俗の物事に巻き込まれた状態にあり、その結果、悩みを刈り取らねばならないのでしょうか?
 彼らは自由であってはならないのでしょうか?
 もし彼らが霊界にいれば、より大きな自由があるはずです」。

マハルシ
 この世はあくまで霊的なものです。
 あなたは自分を物理的な身体と同一視しているので、この世は物理的であり、あの世は霊的であると語っているのです。
 ところが、在るのは、霊的なものでしかないのです。

質問者
 肉体分離した魂、すなわち霊たちは、より深い洞察力を持ち、より大きな自由を享受しているのでしょうか?

マハルシ
 あなたは自分をこの肉体と同一視しているので、肉体分離した魂たちを霊として語るのです。
 これらの限界から、あなたは彼らの限界について話し、彼らの能力を知ろうとします。
 肉体分離した魂にも、微細な身体があります。
 そうでなければ、あなたは「肉体分離した魂」とは言わないでしょう。
 肉体分離とは、「この粗雑な身体を脱いだ」という意味です。
 あなたが彼らに個人性を与える限り、彼らは微細な身体に属されます。
 彼らの限界は、彼ら自身の状態によって決まります。
 あなたが自身の限界の重荷を感じているように、彼らもまた自身の限界の重荷を感じているのです。
 私が霊や霊界と言ったのは、絶対的な霊のことであり、相対的なものではありません。
 もしあなたが自分自身が霊であると悟ったなら、この世界は霊的なものでしかなく、物理的なものではないことがわかるでしょう。

質問者
 彼らの身体は、私たちの身体と同じように一時的なものなのでしょうか。
 彼らは転生するのでしょうか?

マハルシ
 これらの質問は、あなたが自分自身を身体だと考えているから生じるのです。
 この身体には誕生と死があり、この身体が倒れると別の身体が生まれてきますが、これが転生と呼ばれています。
 しかし、あなたはその身体なのでしょうか?
 もし、あなたがこの身体ではなく、霊であることがわかれば、あなたは粗雑や微細な身体から解放され、何の限界もなくなるでしょう。
 何も限界のないところに、物理的や霊的な世界があるでしょうか?
 転生という問題がどうして生じるというのでしょうか?

 もう一度、別の視点から考えてみましょう。
 あなたは夢の中で自ら夢の身体を作り出し、その夢の身体で行動します。
 覚醒状態でも同じように改竄されます。
 現在、あなたは自分がこの身体であり、夢の身体ではないと思っています。
 夢の中では、この身体は夢の身体によって改竄されます。
 つまり、これらの身体はどちらも実在しないのです。
 なぜなら、それぞれがある時だけは本物であり、他の時は偽物だからです。
 実在であるものは、永遠に実在でなければなりません。
 しかし、あなたは「私」と言います。
 この「私」という意識は、三つの状態を通じてずっと存在しています。
 それには何の変化もありません。
 それだけが実在なのです。
 三態は偽りです。
 それらはただ心のためだけのものです。
 あなた自身の視覚を妨げているのは心です。
 あなたの真の本性は、無限の霊です。
 それがあなたの眠りの状態だったのです。
 あなたは他の二つの状態における限界を認めます。
 どうしてその違いは生じるのでしょう?
 眠っているときには心はありませんでしたが、夢や目覚めている状態には心が存在します。
 限界を感じるのは、心の働きによるものです。
 心とは何でしょう?
 それを見つけてください。
 もしあなたがそれを探せば、それはひとりでに消えていくでしょう。
 なぜなら、心には真の実在がないからです。
 それは想念から構成されていて、想念が停止すれば消滅するのです。

質問者
 そのとき、私は残っているのでしょうか?

マハルシ
 眠りの中でのあなたの体験はどうでしょうか?
 想念も心もなかったのに、そのときあなたは残っていたのです。

848避難民のマジレスさん:2022/05/15(日) 15:45:38 ID:asj6Mn/.0
質問者
 瞑想しようとすると、心がさまよってしまいできません。
 どうしたらいいのでしょうか?

マハルシ
 あなたの質問が答えを与えてくれます。
 まず、質問の最初の部分についてですが、あなたは集中してもうまくかないと言います。
 「あなた」は「真我」を意味します。
 何にあなたは集中するのですか?
 どこで失敗するのですか?
 一つの自己がもう一つの自己に集中するといった、二つの自己があるのでしょうか?
 今、失敗を訴えている自己はどちらなのでしょうか?
 二つの自己があるはずがありません。
 あるのはたった一つの真我だけであり、それは集中する必要がありません。

 「しかし、それなら、なぜ幸福が存在しないのでしょうか?」とあなたは尋ねます。
 あなたが眠っているときの霊のままでいることを妨げるものは何なのでしょうか?
 あなた自身が、それはさまよう心であると認めています。
 その心を探し出してください。
 そのさまよいが止めば、それは真我、つまり永遠の霊である「私」という意識であることが見いだされるでしょう。
 それは、知識も無知も超えているのです。

質問者
 私は仕事で忙しく、集中の練習をする時間がほとんどありません。
 何か集中を助けるものはありますか?
 呼吸の制御は良い助けでしょうか?

マハルシ
 プラーナと心は同じ源から生じます。
 その源には、息を止めるか、心をたどることで到達されます。
 もし後者ができないなら、前者が助けになるのは間違いありません。
 呼吸の統制は、呼吸の動きを観察することによって得られるのです。

 心が観察されれば、想念は止みます。
 平和がもたらされ、それがあなたの真の本性なのです。
 ジャナカ王は言いました。
 「私は今、 私から『私』を奪ってきた泥棒(すなわち心)を見つけた。
  この泥棒を即座に殺してやろう」。
 想念による動揺は、真我から平安を奪っているように見えます。
 この動揺が心です。
 それが止むと、心は飛び立つと言われています。
 真我は乱されることのない基底として残るのです。

別の人が口を挟んだ。
「心が心を殺さなければならないのです」。

マハルシ
 そうです、もし心があるのなら。
 それを探してみれば、存在しないことがわかります。
 存在しないものがどうして殺されるというのでしょうか?

質問者
 精神的なジャパは口頭のジャパより優れていないのですか?

マハルシ
 口頭のジャパは音で構成されています。
 音は想念から生じるものです。
 想念を言葉で表現する前に、考えなければならないからです。
 想念が心を形成するのです。
 したがって、精神的なジャパは口頭のジャパよりも優れています。

質問者
 ジャパに黙想しつつ、口頭で繰り返してはいけないのでしょうか?

マハルシ
 ジャパが精神的になったら、音の必要性はどこにあるというのでしょうか?

 ジャパは精神的になることで、黙想になります。
 ディヤーナ、黙想、精神的なジャパは同じものです。
 想念が乱雑であることを止め、一つの想念が他のすべての想念の排除に固執するならば、それが黙想であると言われています。
 ジャパやディヤーナの目的は、個々の想念を排除し、単一の想念に自身を止めることです。
 そして、その想念もその源である絶対意識、すなわち真我の中に消えていきます。
 心はジャパに取り組み、そして自らの源に沈んでいくのです。

質問者
 心は脳から生じると言われています。

マハルシ
 脳はどこにあるのですか?
 それは身体の中にあります。
 私は、身体そのものが心の投影だと言っています。
 あなたは、身体のことを考えるとき、脳について話します。
 身体とその中の脳を作り出し、そしてまた脳がその座であることを確かめるのは心なのです。

質問者
 シュリ・バガヴァンは、ある著作の中で、ジャパはその源まで辿り着かれなければならないと述べています。
 それは心を意味されているのではないのでしょうか?

マハルシ
 これらはすべて、心の働きにすぎません。
 ジャパは心を単一の想念に固定するのに役立ちます。
 他のすべての想念は、それらが消えるまで従属させられます。
 それが精神的になったとき、ディヤーナと呼ばれます。
 ディヤーナはあなたの真の本性です。
 しかし、それがディヤーナと呼ばれるのは、それが努力によってなされるからです。
 努力は、想念が乱雑である限り必要です。
 あなたが他の想念と共にいるために、単一の想念の継続を瞑想またはディヤーナと呼ぶのです。
 ディヤーナが無努力になれば、それがあなたの真の本性であることが見いだされるでしょう。

849鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/16(月) 00:11:27 ID:1d4drIFg0

 最近は脳科学者というのがいて脳が全てという唯脳論がはやっているが、それもまた幻想だというのじゃ。
 脳は肉体の一部であり、肉体もまた幻想であるからなのじゃ。
 肉体に限定された幻想から生まれる更なる幻想なのじゃ。
 それも観察すれば矛盾に気付けるのじゃ。

850避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 12:38:31 ID:fosx545U0
0720 神も仏も名無しさん 2022/05/16 12:36:12
>>713
音楽は、
鹿子の怨霊の呪い〜
鹿子のテーマ曲
く〜る、鹿っ、くる〜、
鹿っ、く〜る♫
https://m.youtube.co.../watch?v=g7Y2eB6ZLZc
      | _____________  |
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |  ザー
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |
      | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;::::::::::::::| |
      | |:::::::::::/ ̄ ̄ ̄`´    `ヽ:::::::| |
      | |::::::::::|  :ill||||||||||ll: ,-‐‐、l::::::| |
      |  ̄ ̄|  ||||||||||||||||「しi .l ll ̄  .|
      | ̄「 ̄|  ||||||貞|||||||i ̄川リ ̄| ̄|
      |_| ノ   ||||||||||||||||||     |_|
        /    ||||||||||||||||||
        /    /||||||||||||||||||
       / ̄/ ̄ |||||||||||||||||
       /  /    |l|l|l|l|l|l|l|l
     / /    |l|l|l|l|l|l|ll
    / ヘJ      l|l|l|l|l|l|l
    ノ川        ||l||l||ll

851避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 13:34:24 ID:fosx545U0
すまん、誤爆許せ、
鬼和尚

852避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 16:16:58 ID:BvlxYP5M0
ラマナ・マハルシとの対話 329

朝、シュリ・バガヴァンはタミル語版のラーマクリシュナ・ヴィジャヤムの中の聖エステラから短い一節を読み上げた。

その趣旨は…

「あなたの敵は渇望や熱情などです。
 もし、あなたが害されたと感じたら、内に目を向け、その被害の原因を見つけなさい。
 それはあなたの外にあるのではありません。
 外的な原因は単なる重ね合わせに過ぎません。
 もしあなたが自分自身を害することができなければ、慈悲深い神がいかなる形であなたを害するというのでしょうか?」

シュリ・バガヴァンはさらに、聖エステラは優れた聖者であり、その教えは極めて妥当であると述べた。

853鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/17(火) 00:15:06 ID:1d4drIFg0
>>851 許すのじゃ。
 これからはよいAAを投稿するのじゃ。

854鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/17(火) 00:17:49 ID:1d4drIFg0

 全ては自らの心によって創られるのであるから、被害の苦もまた原因は自分の心にあるのじゃ。
 他のどこかにあるのではないのじゃ。
 自分の心にある障害が最も自分を苦しめるのじゃ。
 観察すればそれもまた滅していくのじゃ。

855避難民のマジレスさん:2022/05/17(火) 18:23:13 ID:XdaBfUio0
ラマナ・マハルシとの対話 330

シュリ・バガヴァンは喘息持ちで、喉が嗄れていた。
オレンジが捧げ物として持ってこられた。
いつものように分け前が配られた。
シュリ・バガヴァンは咳込み、口の中からオレンジを吐き出さざるを得なかった。
彼は「仕方なく吐き出してしまったのです」と言った。
ある紳士が言った。
「おそらく、それはシュリ・バガヴァンの健康状態には合わないのでしょう」。

マハルシ
 もし、他の人ではなく、あなたがその果物を持ってきていたなら、そのように言うでしょうか?

856鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/17(火) 23:06:09 ID:1d4drIFg0

 施されたものは何でもありがく頂くのが作法なのじゃ。
 施した者に慈悲を与えるためなのじゃ。
 お釈迦様も最後の布施で病になったが、最後の布施は多いに功徳があるものじゃと、庇ったのじゃ。
 施主に慈悲をかけたのじゃ。


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