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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

1避難民のマジレスさん:2018/07/07(土) 12:47:05 ID:GOHu/WSs0
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619

853避難民のマジレスさん:2019/05/03(金) 23:12:23 ID:LC3de7YgO
>>851
『I AM THAT 私は在る』
【100 理解は解放へ導く】(つづき)

 質問者 類似性は表面的なものではありません。人間は複雑な存
     在であり、同時に原告と被告、判事、刑務所長、死刑執
     行人になることができるのです。「自発的な」サーダナ
     に、それほどの自発性はありません。人は理解とコント
     ロールの範囲を超えた力に動かされているのです。苦痛
     に満ちた長い努力による以外、私には身体の代謝作用ほ
     ど心理的代謝作用を変えることはできません。それがヨ
     ーガなのです。私が尋ねたいことは、「マハラジはヨー
     ガが暴力を含んでいるという私の見方に同意されるでし
     ょうか?」ということです。
 マハラジ
 あなたが示しているヨーガが暴力を意味していることには同意す
 るが、私はいかなる形の暴力も唱道したことはない。
 私の道は完全に非暴力のものだ。
 私は言葉どおり正確に非暴力を意味している。
 それがどのようなものであるか自分自身で試してみるがいい。
 私はただ、それが非暴力だと言うだけだ。
 質問者 私は言葉を誤用しているわけではありません。あるグル
     が残りの人生を、一日、十六時間瞑想するよう求めると
     すれば、私には自分への極端な暴力なしにそれをするこ
     とはできません。そのようなグルは正しいのでしょうか、
     間違っているのでしょうか?
 マハラジ
 あなたがそうしたいと感じないかぎり、誰もあなたに一日、十六
 時間瞑想するよう強要してはいない。
 それは、「あなた自身とともに在りなさい。ほかのものごとのな
 かに自分を見失ってはならない」と言っているだけなのだ。
 教師は待つだろう。
 だが、マインドは性急なのだ。
 暴力的なのは教師ではなくマインドだ。
 そしてマインドはそれ自身の暴力を恐れているのだ。
 マインドに属するものは相対的であり、それを絶対的と見なすこ
 とは誤りだ。
 質問者 もし私が受容的なままでいれば、何の変化も起こらない
     でしょう。もし活動的になれば、私は暴力的になるでし
     ょう。無益でも暴力的でもないどのようなことを私はす
     ればいいのでしょうか?
 マハラジ
 もちろん、無益でも暴力的でもない道がある。
 しかも、最高に効果的なものだ。
 ただあるがままのあなた自身を見なさい。
 あるがままのあなた自身を受け入れなさい。
 そして、あなたであるもののなかへと、どこまでも深く入ってい
 きなさい。
 暴力や非暴力は、あなたの他者に対する態度を表している。
 自己と自己自身との関係性は暴力でも非暴力でもない。
 それはそれ自身に気づいているか気づいていないかのどちらかだ。
 もしそれがそれ自身を知っているなら、それが為(な)すすべて
 は正しいだろう。
 もしそれがそれ自身を知らないなら、それが為すすべては誤りだ
 ろう。
 質問者 「私はあるがままの私を知っている」とはどういう意味
     でしょうか?
 マハラジ
 マインドが現れる以前に、私は在る。
 「私は在る」はマインドの中にあるひとつの想念ではない。
 マインドが私に起こるのであって、私がマインドに起こるのでは
 ない。
 そして時間と空間がマインドのなかに存在するため、私は時間と
 空間を超え、永遠で不変なるものなのだ。
 質問者 あなたは真面目なのですか? 本気であなたがいつでも、
     どこにでも存在すると言われるのですか?
 マハラジ
 そうだ。
 あなたにとって動くことの自由が明白であるように、私にとって
 それは明白なことだ。
 樹が猿に「あなたがどこへでも動くことができるというのは本当
 なのですか?」と尋ねているところを想像するがいい。
 そして猿は言うだろう。
 「そうだとも」と。
 質問者 あなたは因果関係からも自由なのでしょうか? あなた
     は奇跡を起こせますか?
 マハラジ
 世界そのものがひとつの奇跡なのだ。
 私は奇跡を超えている。
 私は絶対的に正常だ。
 私にとってはすべて、起こるべきことが起こるのだ。
 私は創造過程を妨げない。
 大いなる奇跡がつねに起こっているときに、小さな奇跡が私にと
 ってどのような意味があるというのだろう?
 何であれあなたが見ているものは、つねにあなた自身の存在を見
 ているのだ。
 あなた自身のなかへどこまでも深く入っていきなさい。
 内側を探しなさい。
 自己発見には暴力も非暴力もない。
 偽りを破壊することは暴力ではないのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

854鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/04(土) 22:35:43 ID:1d4drIFg0
お釈迦様も神通力で説法すれ゛は善いという者に、そのようなことは幻術師がもっとうまくやってのけるからいかんのじゃ、と言っているのじゃ。
長年修行して空が飛べるとか言っても幻術師が直ぐにもっとうまくやってしまうから無意味なのじゃ。
更に空を飛んでも死には無力なのじゃ。
真の奇跡である不死の境地を目指すが善いのじゃ。

855避難民のマジレスさん:2019/05/04(土) 23:21:40 ID:LC3de7YgO
>>853
『I AM THAT 私は在る』
【100 理解は解放へ導く】(つづき)

 質問者 私が自己探求を実践するとき、あるいはそれが何らかの
     形で私に利益をもたらすだろうと考えながら内側へと入
     っていくとき、私はいまだにあるがままの私から逃げだ
     しているのです。
 マハラジ
 まったくそのとおりだ。
 真の探求はつねに何かのなかへであって、何かから外へではない。
 私がいかにして何かを得るか、あるいは避けるかを探求するとき
 は、本当に探求しているとは言えない。
 何かを知るためには、完全にそれを受け入れなければならないの
 だ。
 質問者 そうです。神を知るには神を受け入れなければなりませ
     ん。何と恐ろしいことでしょう!
 マハラジ
 神を受け入れる前に、あなたはあなた自身を受け入れなければな
 らない。
 それはもっと恐ろしいことでさえある。
 自己受容の第一段階はまったく喜ばしいものとは言えない。
 なぜなら、人は楽しい光景を見るわけではないからだ。
 先へ進んでいくには、すべての勇気が必要とされる。
 助けとなるのは沈黙だ。
 完全な沈黙のなかで、あなた自身を見守りなさい。
 あなた自身を描写してはならない。
 あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。
 そして、あなたはあなたが見ているものではないことを覚えてお
 きなさい。
 「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。
 解放へのほかの手段というものはない。
 すべての手段は延期を意味するのだ。
 あなたではないものを断固として拒絶しなさい。
 真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。
 それは、「何ものでもないもの」なのだ。
 質問者 世界は急速に、危機的な変化を通り抜けています。私た
     ちはそれをアメリカのなかで大いなる明晰性(めいせき
     せい)をもって見ることができます。それらはほかの国
     々で起こっているのですが。一方では、犯罪の増加が見
     られ、他方では、真正な神聖さが現れています。共同体
     が形成され、それらのいくつかは非常に高いレベルの統
     合と禁欲生活を送っています。炎がその燃料を使い尽く
     すように、あたかも悪はそれ自体の成功によってそれ自
     体を破壊しているかのようです。一方、善は生命のよう
     にそれ自身を永続させるのです。
 マハラジ
 出来事を善と悪に区別するかぎり、あなたは正しいだろう。
 事実は、善は悪となり、悪はそれ自身を満たすことによって善と
 なるのだ。
 質問者 愛についてはどうでしょう?
 マハラジ
 それが好ましくない欲望へと変わるとき、破壊的になるのだ。
 質問者 好ましくない欲望とは何でしょうか?
 マハラジ
 記憶すること、想像すること、期待することだ。
 それは感覚的で、言語的なのだ。
 耽溺(だんでき)のひとつの形態だ。
 質問者 ブラフマチャーリア、禁欲はヨーガに必要不可欠なもの
     でしょうか?
 マハラジ
 抑制と抑圧の人生はヨーガではない。
 マインドは欲望から解き放たれ、リラックスしていなければなら
 ないのだ。
 それは記憶の一形態である決定から来るのではなく、理解から現
 れる。
 理解するマインドは欲望と恐れから自由なのだ。
 質問者 どうやって私自身を理解させることができるのでしょう
     か?
 マハラジ
 瞑想によって。
 つまり注意を払うことによってだ。
 あなたの問題に完全に気づいていなさい。
 それをすべての角度から見つめなさい。
 それがあなたの人生にどう影響を与えるのか見守りなさい。
 そして、放っておくがいい。
 それ以上あなたにできることはないのだ。
 質問者 それは私を解放するのでしょうか?
 マハラジ
 あなたはあなたが理解したものから自由なのだ。
 外側での自由の表現が現れるには時間がかかるかもしれない。
 だが、それはすでにそこにある。
 完成を期待してはならない。
 顕現のなかに完成というものはないのだ。
 小さな衝突はまぬがれない。
 問題が完全に解決されることはない。
 だが、あなたはそれが作用しないレベルへと身を引くことができ
 るのだ。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

856避難民のマジレスさん:2019/05/04(土) 23:43:38 ID:LC3de7YgO
>>855
> 質問者 愛についてはどうでしょう?
 マハラジ
 それが好ましくない欲望へと変わるとき、破壊的になるのだ。
 質問者 好ましくない欲望とは何でしょうか?
 マハラジ
 記憶すること、想像すること、期待することだ。
 それは感覚的で、言語的なのだ。
 耽溺(だんでき)のひとつの形態だ。

←マハラジが説く、好ましい愛とは、記憶、想像、期待、と無縁で、感覚的でも言語的でもないものとは、
全てを受け入れる、ただ一つの意識のことでありましょうか?、

> 質問者 それ(=瞑想)は私を解放するのでしょうか?
 マハラジ
 あなたはあなたが理解したものから自由なのだ。
 外側での自由の表現が現れるには時間がかかるかもしれない。
 だが、それはすでにそこにある。
 完成を期待してはならない。
 顕現のなかに完成というものはないのだ。
 小さな衝突はまぬがれない。
 問題が完全に解決されることはない。
 だが、あなたはそれが作用しないレベルへと身を引くことができ
 るのだ。

←観察瞑想により、理解を深め、それを放置して、作用しないレヘルへと身を引けと言うことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

857鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/05(日) 22:55:07 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
 そこに至れば自他を一つに見る真の愛が在るのじゃ。
 この世の愛は執着に変るからいかんのじゃ。

 そうじゃ、観察して完全に理解できる気付きが起こればそれから自由になるのじゃ。
 自己同一化がなくなり、作用がなくなるのじゃ。
 観察が完全であれば厭離が自然に起こり、自ら身を引くことを意識しなくともできるのじゃ。

858避難民のマジレスさん:2019/05/05(日) 23:59:06 ID:LC3de7YgO
おわびと告知(´・(ェ)・`)つ
昨年1月9日から続けて参りました、マハラジ講読会、あと一章を残すところとなりました。

実はたいへん残念なのでありますが、本日掲載する部分までで、終了とせざるを得なくなりました。

あと5〜6回分くらいのページ数でありますので、残念であります。

と、言うわけで、>>848殿、急なことで申し訳ありませんが、
引き続き、マハラシの対話録の講読会にバトンタッチ、お願いできるでありましょうか?

>>857
鬼和尚、いつもありがとうであります。
この度は中途半端で申し訳ありません。

859避難民のマジレスさん:2019/05/06(月) 00:05:58 ID:LC3de7YgO
>>856
『I AM THAT 私は在る』
【101 ジニャーニは理解も把握もしない】
 質問者 ジニャーニ(賢者)は何かを為(な)す必要があるとき、どのよう
     に行うのでしょうか? 彼は計画を立て、詳細にわたって決定し、
     それを実行するのでしょうか?
 マハラジ
 ジニャーニは状況を完全に理解し、即座に何が為されるべきかを知る。
 それだけだ。
 残りはひとりでに起こる。
 しかも、たいていは無意識のうちに起こるのだ。
 ジニャーニとすべての存在との同一性は本当に完全なものであり、彼が宇宙
 に応えるように、宇宙も彼に応える。
 ひとたび状況が認識されれば、出来事は適切な対応のなかで動いていくとい
 うことに彼は絶大な確信を持っているのだ。
 普通の人は個人的利害に関心を持ち、危険とチャンスを計算している。
 一方、ジニャーニは超然として、すべては起こるべくして起こると確信して
 いる。
 そして何が起こるかは、さして重要なことではないのだ。
 なぜなら、最終的に均衡と調和が戻ってくることは不可避だからだ。
 ものごとの核心には平和があるのだ。
 質問者 私は人格が幻想であり、アイデンティティを失うことなく油断なく
     冷静にあることが、私たちにとっての実在との接触点であることを
     理解しました。どうか教えていただけますか、今、この時点であな
     たは個人なのでしょうか、それとも自己覚醒したアイデンティティ
     なのでしょうか?
 マハラジ
 私はその両方だ。
 だが真の自己は、個人によって与えられた、何が私ではないかという表現に
 よる以外描写することはできないのだ。
 個人に関してあなたが言えることはみな自己ではない。
 そしてあなたはあるがままの、そうありえたであろう、そうあるべき自己に
 関して何も言うことはできないのだ。
 すべての属性は個人的なものであり、実在はすべての属性を越えているから
 だ。
 質問者 あなたはときどき自己で、ときどき個人なのでしょうか?
 マハラジ
 どうしてそう在ることができよう?
 個人とは、ほかの人たちにとってそう現れる私なのだ。
 私自身にとって、私は意識の無限な広がりであり、そのなかで無数の個人が
 果てしない連鎖のなかで現れては消えていくのだ。
 質問者 あなたにとってはまったくの実体のない個人が、私たちにとっては
     現実に見えるのはどうしてでしょうか?
 マハラジ
 自己、すべての存在の根源、意識と歓喜であるあなたは、何であれあなたが
 知覚するものに実在性を与えるのだ。
 この実在性を与えることはつねに今のなかにおいて起こり、ほかのどのとき
 にも起こることはない。
 なぜなら過去と未来はマインドのなかにしか存在しないからだ。
 「在ること」は今だけに適用するのだ。
 質問者 永遠性も無限なのではないでしょうか?
 マハラジ
 時間が無限なのだ。
 そこに限界はあるが、永遠は今という一瞬のなかにある。
 私たちがそれを見失うのは、私たちのマインドがつねに過去と未来の間を行
 き来しているからだ。
 マインドが今に焦点を当てるために止まることはないだろう。
 もし興味が起これば、それは比較的簡単にできるのだ。
(´・(ェ)・`)
(みかん)

860避難民のマジレスさん:2019/05/06(月) 15:39:45 ID:jfWCoXjM0
>>858
了解です!くまさんもお疲れさまでした(-人ー)
OSHOとパパジの講読会も、引き続き楽しみにしてますね。

861避難民のマジレスさん:2019/05/06(月) 16:50:31 ID:LC3de7YgO
>>860
よろしくお願いします。
(´・(ェ)・`)つ

862鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/06(月) 21:51:41 ID:1d4drIFg0
>>858 ご苦労さんなのじゃ。

悟りを得れば全ての状況で身体の智慧が無意識に起きて実行するのじゃ。
そこに計らいは無いのじゃ。
本人にも寸前まで何をするのか分からないのじゃ。
全ての状況に同じ答えは無いから、智慧もまた無尽に働くのじゃ。

863避難民のマジレスさん:2019/05/07(火) 11:04:35 ID:jfWCoXjM0
1935年5月15日

対話1

遊行僧(サンニャーシー)が疑いを解くために尋ねた。
「どうすればこの世のすべてが神であるということを悟れるでしょうか?」

マハルシ

もしあなたが叡知の目で観れば、世界が神であることを見いだすでしょう。
至高の霊性(ブラフマン)を知らずして、どうしてすべてに遍在する神を見いだすことができるでしょうか?

864避難民のマジレスさん:2019/05/07(火) 12:10:49 ID:LC3de7YgO
>>863
ありがとうございます。よろしくお願いします。
(´・(∀)・`)つ

865鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/07(火) 22:46:49 ID:1d4drIFg0
ブラフマンは全てにあるのじゃ。
それを見なければ群小の観念である神に囚われるのじゃ。
インドにもいろろいな神がいるのじゃ。
川の神とか猿の神とか牛の神とか世界を作った神とかそれを夢見ている神とかなのじゃ。
それらに囚われれば観念に囚われたことになるのじゃ。
今ここにある全てである意識に気付けばブラフマンを見たことになるのじゃ。

866避難民のマジレスさん:2019/05/08(水) 13:03:47 ID:jfWCoXjM0
対話2

ある人が知覚の本性について尋ねた。

マハルシ

あなたがどの状態にあろうと、知覚はその状態の性質を帯びるものです。
目覚めの状態(ジャーグラト)では、粗大な身体が粗大な名前や形を知覚し、夢見の状態(スワプナ)では、精神的身体が多様な名前と形をともなった精神的創造物を知覚します。
そして夢のない深い睡眠状態(スシュプティ)では、身体との同一化は失われるため、知覚はなくなります。
同様に、ブラフマンと自己同一化した超越状態においては、人は全体と調和の内にあるため、彼の真我から分離したものは何もないのです。

867鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/08(水) 22:54:17 ID:1d4drIFg0
知覚は刺激を受け取る性質から鏡のように今の状態に染まるのじゃ。
赤い紙を目の前に置けば全て赤く見えるようにのう。
自分の意志によらずただありのままに刺激を受け容れるだけなのじゃ。
自分ではなく自分のものでさえもないものじゃ。
自己同一化により、自分の知覚と認識するだけなのじゃ。

868避難民のマジレスさん:2019/05/09(木) 14:50:13 ID:jfWCoXjM0
対話3


幸福の本性について質問があった。

マハルシ

もし外的な原因や自分の所有するものが幸福の原因だと考えるなら、所有するものが増えれば幸福も大きくなり、所有するものが減るにしたがって幸福も少なくなると結論づけることは理にかなっていると言えるでしょう。
そうすると、もし所有するものがなければ、幸福はありえないはずです。
実際の体験ではどうでしょうか?
それはこの考えと一致しているでしょうか?

深い眠りの中で、人は自分の身体も含めて何も所有していません。
それにもかかわらず、不幸であるどころかまったく幸せなのです。
誰もがぐっすりと眠ることを望んでいます。
つまり幸福は本来人に備わったものであり、外的な原因によるものではないということです。
人に生来備わった純粋な幸福の扉を開くためには、真我を実現しなければならないのです。

869鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/09(木) 23:06:50 ID:1d4drIFg0
外的な環境で幸福になるならば誰も幸福にはなれないのじゃ。
それは直ぐに変化してしまう性質であるからのう。
いずれは死によって永遠に捨てなければならないものじゃ。
心の中にこそ真の幸福はあるのじゃ。
それは死によっても無くなる事が無い永遠の幸福なのじゃ。

870避難民のマジレスさん:2019/05/10(金) 01:49:57 ID:LC3de7YgO

>>868
>深い眠りの中で、人は自分の身体も含めて何も所有していません。
それにもかかわらず、不幸であるどころかまったく幸せなのです。
誰もがぐっすりと眠ることを望んでいます。
つまり幸福は本来人に備わったものであり、外的な原因によるものではない

←言われてみればあたりまえの様でもありますが、くまにとっては、
幸福は本来人に備わったものであると言うことについての、たいへん新鮮な言説であります。
(´・(ェ)・`)つ

871避難民のマジレスさん:2019/05/10(金) 12:02:31 ID:jfWCoXjM0
対話4

教養ある青年がマハルシに尋ねた。

「生物学者はハートが左側にあると言っているのに、どうしてあなたは右側にあると言われるのでしょうか?」

マハルシ

そのとおりです。
身体的器官であるハートは左側にあり、それが否定されたわけではありません。
しかし私の言うハートは身体的なものではなく、それは右側にしかありえないものなのです。
それは私の体験に由来するため、他から証拠を求める必要もありません。

それでも、マラヤラム語版のアーユルヴェーダの書と『シーター・ウパニシャド』の中に確証を得ることができるでしょう。

そう語ると、マハルシは後者からマントラを引用し、前者から韻文の一部を読み上げた。


マラヤラム語版のアーユルヴェーダの書
…『アシュターンガ・フリヤダム』のこと

『シーター・ウパニシャド』
…『アタルヴァ・ヴェーダ』に含まれる32の『ウパニシャド』の1つ。
『ラーマーヤナ』に登場する女神シーターが行為、願望、知識の3つの力を秘める神聖な存在として描写されている。

872避難民のマジレスさん:2019/05/10(金) 19:44:49 ID:LC3de7YgO
>>871
経絡とかツボみたいなものでありましょうかね?
(´・(ェ)・`)つ

873鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/10(金) 23:12:39 ID:1d4drIFg0
>>870 そうじゃ、眠りによって人は苦から一時的に逃れて安らぐのじゃ。
 幸福が心によることの証拠なのじゃ。

>>872 マハリシのチャクラじゃな。
 それは流派によって違い、人によっても違うのじゃ。
 アートマンは胸の中にあるというのじゃ。
 各自でそれを突き止めるしかないのじゃ。

874避難民のマジレスさん:2019/05/11(土) 11:25:47 ID:jfWCoXjM0
対話5

エンジニアのM・フリードマン氏が恩寵についての所見を述べた。

「海に飛び込んだ塩人形は、たとえ防水服を着ていても生き残れないでしょう」

マハルシは嬉しそうに微笑んで、それはいい喩えだと褒めると、「身体が防水服なのです」と言葉を添えた。

875避難民のマジレスさん:2019/05/11(土) 11:59:30 ID:LC3de7YgO
>>874
恩寵=真理
海=ただ一つの意識。(社会ではないでありましょう。)
塩人形=自我、個我

で、ありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

876鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/11(土) 23:33:13 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
身体があれば自分という観念から逃れるのは容易ではないのじゃ。
しかし、実際には身体もまた意識の中にあり、外のものではないのじゅ。
いずれは海に同化していくのは必然なのじゃ。

877避難民のマジレスさん:2019/05/12(日) 11:52:12 ID:jfWCoXjM0

対話6

心が散漫にならないようにする方法について、サンニャーシーが質問した。

マハルシ

あなたは自分の真我を忘れて、外側の物事に目を向けます。
真我をとらえ続けているなら、外側の世界を見ることはないでしょう。

878避難民のマジレスさん:2019/05/12(日) 12:24:02 ID:LC3de7YgO
>>877
うむ。
散漫になっていると、気づいてればよいのでありますかね?

真我は無いものでありますから、その無いものが胸の辺りあると仮定して、そこに集中すればよいのでありますね。
そうすると、自我は無いものであるといつかは気付けるわけでありますね。
で、その事に気づけたのは誰かという最後に残る疑問の答えが、ただ一つの意識であるわけでありますね。

「無」とか「空」と言うよりも、「ただ一つの意識」「アートマン」「ブラフマン」とか言った方が目標がわかりやすいでありますね。

(´・(ェ)・`)つ

879鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/12(日) 22:57:48 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、気付けばよいのじゃ。
 それがアートマンの法なのじゃ。
 それには否定することでしか辿りつけないのじゃ。
 言葉は役に立たないから実践するしかないのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

880避難民のマジレスさん:2019/05/13(月) 13:06:59 ID:jfWCoXjM0

対話7

『ダクシナームールティ・ストートラム』の最終節にあるように、「全知全能(イーシュヴァラトヴァ)を達成するとともに、超自然能力を達成することはできるか」という質問にマハルシが答えた。

「まず全知全能を達成しなさい。
それから、他の質問が起こるかどうか見てみなさい」

881避難民のマジレスさん:2019/05/13(月) 18:41:05 ID:LC3de7YgO
>>880
うむ。
きっとマハリシは全能のパラドクスを承知の上で、それをも含む「ただ一つの意識」「アートマン」「ブラフマン」の追求を促してるのでありましょうか。
で、超自然能力、を肯定してると理解すべきでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

882鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/13(月) 22:50:21 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
全知全能で既に全ての超自然能力を得ているのじゃ。
ただ力が欲しいだけの者の質問なのじゃ。
それも競争に勝ちたいからなのじゃ。
競争に勝つ力に囚われた者なのじゃ。

883避難民のマジレスさん:2019/05/14(火) 11:10:41 ID:jfWCoXjM0

対話8

質問者

自分で選んだ聖なるマントラを繰り返し唱えても、恩恵を受けることはできるのでしょうか?

マハルシ

できません。
マントラは師から伝授されなければならず、またその人はそれにふさわしいだけの力量を持っていなければなりません。

ある王と大臣の物語があります。
ある日、王が大臣の邸宅を訪れました。
そこで王は大臣が聖なるマントラの復唱に従事している最中だと告げられました。
王は彼を待ち、大臣が挨拶に来たとき、それがどのようなマントラなのかと尋ねたところ、それは最も神聖なマントラ、ガーヤトリーですと大臣は答えました。
王はそれを伝授してくれるようにと頼んだのですが、大臣は自分にはその力がないことを告白したのです。
そのため、王は仕方なく他の者からそのマントラを学び、後に大臣に会ったとき、それが正しいものかどうか聞いてもらおうと、ガーヤトリーを唱えてみせました。

大臣は

「マントラ自体は正しいものですが、王がそれを口にするのはふさわしくありません」

と伝えました。

その説明を王に強いられたとき、大臣は傍らに控えていた従者に、

「王をとりおさえろ」

と命じました。

しかし従者は命令にしたがいませんでした。
大臣は何度も同じ命令を繰り返しましたが、やはり従者はしたがわなかったのです。

王は激怒して、その従者に

「大臣をとりおさえろ」

と命じました。

すると、従者は即座に命令にしたがったのでした。

大臣は笑って、

「これが王への説明なのです」

と言いました。

「いったいどうして?」

と王は尋ね返しました。

「命令は同じであり、命令された人もまた同じです。
しかし命令する者の権威が違っていたのです。
私が命じたとき、その効力はまったくありませんでしたが、あなたが命令されたとき、即座に効力を発しました。
マントラについても同じことなのです」

884避難民のマジレスさん:2019/05/14(火) 19:19:47 ID:LC3de7YgO
>>883
うむ。日本の財界人や元芸能人でマントラ販売で商売してる人もいるでありますね。
ビートルズの師匠とかも。
なんかくまは、そう言うのは受け入れられないであります。
(´・(ェ)・`)つ

885鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/14(火) 22:52:15 ID:1d4drIFg0
マントラは基本的に神への呼びかけなのじゃ。
信仰する神へのマントラであり、師匠が弟子に授けることで信じて続けることができるのじゃ。
師匠も弟子の信仰態度などを見て決めるのじゃ。
強い信仰の無い者には無意味なのじゃ。

886避難民のマジレスさん:2019/05/15(水) 12:31:17 ID:jfWCoXjM0

対話9

質問者

なぜ聖典は賢者が子供のようだと述べているのでしょうか?

マハルシ

子供と賢者はある意味で似ています。
出来事は、それが起こっている間だけ子供の興味を引きますが、終わってしまえば子供はそれについて考えたりしません。
ですから、出来事が子供に何の印象も残さず、精神的影響を与えなかったことは明らかです。
それは賢者(ジニャーニ)にとっても同じなのです。

ジニャーニ…真我実現した人。賢者。ジュニャーニ。ギャーニ。

887避難民のマジレスさん:2019/05/15(水) 19:01:49 ID:LC3de7YgO
>>886
真我実現した人と賢者は別なのでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

888鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/15(水) 23:06:24 ID:1d4drIFg0
悟っていなくとも多く学んで賢くなることはできるのじゃ。
正しい知識によって自らの愚かさを知れば賢者なのじゃ。
お釈迦様も自分を愚かだと知る者は賢者であると説いているのじゃ。
多く学んで゜知識を捨てて臨機応変になれば子供と同じなのじゃ。

889避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 12:38:21 ID:jfWCoXjM0

対話10

質問者

どうすれば『実在についての四十頌補遺』(ウラドゥ・ナールパドゥ・アヌバンダン)第九節にもとづくマハルシの教えにしたがって真我を実現できるでしょうか?
困難なのは心を制御することなのです。

  ハートの蓮華の中には、不変の純粋意識が真我として存在している。

  自我が取り除かれたとき、この真我の意識は個の魂に解放を与える。

               『実在についての四十頌補遺』第9節  

マハルシ

心の制御は呼吸の制御によって為されます。
他の方法を頼らずともその修練だけをすれば、心は制御されるでしょう。

さもなければ、卓越した霊性の力を持った人の臨在のもとに在ることで、心は自然と制御されます。
これが賢者との交際(サットサンガ)の偉大さです。

890鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/16(木) 22:55:06 ID:1d4drIFg0
呼吸法をして呼吸を止めるのはクンバカというのじゃ。
呼吸が自然に止まれば心も止まるのじゃ。
サマーディに入っている時は呼吸も止まっているのじゃ。
観察してみるとよいのじゃ。

891避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:17:11 ID:LC3de7YgO
>>890
うむ。
くまサマディ経験はないでありますが、呼吸が1分間に2〜3回くらいまでなったことはあるであります。
第三者に機械計測されたわけではなく、自分で数えたわけでありますから、そんなに瞑想が深まっていなかったことは明らかでありますが、
心が鎮まると、呼吸数が減るのは確認できたであります。
(´・(ェ)・`)つ

892避難民のマジレスさん:2019/05/17(金) 12:56:20 ID:jfWCoXjM0

対話11

質問者

運命(カルマ)が終焉するときは来るのでしょうか?

マハルシ

カルマはそれ自体のうちに、それ自体の破滅の種子を孕んでいるのです。

893鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/17(金) 22:20:15 ID:1d4drIFg0
>>891 そうじゃ、どんどん試してみると善いのじゃ。
 それがヨーガなのじゃ。

カルマとは報いを説明するためにできた観念に過ぎないのじゃ。
それが本当にあるわけではないのじゃ。
観念であるから消えていくしかないのじゃ。
囚われてはいかんのじゃ。

894避難民のマジレスさん:2019/05/18(土) 12:40:38 ID:jfWCoXjM0

対話12

ある人がマハルシに、「何かお言葉をいただけますか?」と頼んだ。
何について知りたいのかと尋ねられ、彼は、「自分は何も知らないので、マハルシから何かを聞きたいのです」と答えた。

マハルシ

あなたは自分が何も知らないことを知っています。
その知識を見いだしなさい。
それが解放(ムクティ)なのです。

895避難民のマジレスさん:2019/05/18(土) 18:30:14 ID:LC3de7YgO
>>894
ちょぴっとづつ知った気になることが、有害なのでありましょう。戒めねばなりますまい。
(´・(ェ)・`)つ

896鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/19(日) 22:45:54 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、自分が愚かであることを知ったのが賢者なのじゃ。
人の知識の限界が世界であるから、制限された知識で傲慢に陥れば世界も狭いままなのじゃ。
何も知らないと知れば世界も広がるのじゃ。
悟りに赴くこともできるのじゃ。

897避難民のマジレスさん:2019/05/20(月) 13:47:35 ID:jfWCoXjM0
1935年1月6日

対話13

イギリスのM・A・ピゴット婦人が、『秘められたインド』を読んでマハルシのもとを訪れた。
弟子の一人が通訳を務めた。
ホールの中は子供連れの女性を含めた大勢の訪問者でざわめいていたが、ようやく沈黙が訪れた。

それまで無限の空間を見つめていたマハルシが、突然静かな声で「サル!」と言ったのが聞こえた。
扉の近くには小さな赤ん坊がいた(母親は扉の反対側にいて気づいていなかった)。
そこには後ろ足で立ちながらその赤ん坊を傷つけないように、そっと両手で抱いている大きなサルの姿が見えた。
彼らはマハルシの臨在の中で安らぎ、仲良くしていたのだ。
サルはマハルシの声を聞くやいなや、さっと飛びのいて消え去った。
この出来事は婦人に強烈な印象を与えたのだった。

898避難民のマジレスさん:2019/05/20(月) 13:53:17 ID:jfWCoXjM0
1935年1月7日

M・A・ピゴット婦人が尋ねた。

「真我実現には師が必要でしょうか?」

マハルシ

真我実現は教えや講話や瞑想よりも、師の恩寵によるものです。
前者が二義的な助けにしかならないのに対して、師の恩寵は最も重要で本質的な要因です。

質問者

真我実現を妨げる障害は何でしょうか?

マハルシ

心の潜在的傾向(ヴァーサナー)です。

質問者

どうすれば心の潜在的傾向を克服できるでしょうか?

マハルシ

真我を実現することによってです。

質問者

それでは堂々巡りです。

マハルシ

そのような問題を引き起こし、障害をつくり出しておいてから、明らかな矛盾に困惑して苦しむのは自我なのです。
誰がそれを尋ねているのか、その尋ねている人を見いだしなさい。
そうすれば真我は見つかるでしょう。

899避難民のマジレスさん:2019/05/20(月) 14:00:15 ID:jfWCoXjM0
質問者

真我実現の助けとなるものは何でしょうか?

マハルシ

聖典の教えや真我を実現した賢者の教えです。

質問者

そのような教えは、討論や講話や瞑想などによるものでもいいのでしょうか?

マハルシ

かまいませんが、それらは二義的な助けにしかなりません。
最も重要なのは師の恩寵なのです。

質問者

師の恩寵を得るには、どれほどの時間がかかるのでしょうか?

マハルシ

なぜそれを知りたいのですか?

質問者

希望を与えてくれるからです。

マハルシ

そのような希望でさえ障害なのです。
真我は常に存在し、真我なしには何も存在しません。
真我として在りなさい。
そうすれば欲望や疑いは消え去るでしょう。
真我は眠り、夢見、目覚めという存在状態観照者です。
それらの状態は自我に属しますが、真我は自我さえ超越しています。
眠りの状態の中でも、あなたは存在していなかったでしょうか?
眠っている間、あなたは自分が眠っていることや世界に気づいていないことを知っていましたか?
あなたが眠りの体験を自覚のない状態だったと描写するのも、目覚めの状態においてだけです。
それゆえ、眠りの状態の意識は目覚めの状態の意識と同じものなのです。
もしこの目覚めの状態の意識が何であるかを知っているなら、あなたは三つのすべての状態を観照する意識を知ることになります。
そのような意識は、眠りにおける意識を探求することで見いだすことができるのです。

質問者

その場合、私は眠ってしまうでしょう。

マハルシ

それでもかまいません!

質問者

それは空白状態なのです。

マハルシ

誰にとってその空白状態が現れるのですか?見いだしなさい。
いつであれ、あなた自身の存在を否定することはできないはずです。
真我は常にそこに在り、すべての状態において存在しているからです。

質問者

あたかも眠りの中にとどまりながら、しかも同時に気づいているべきなのでしょうか?

マハルシ

そのとおりです。
気づいていることが目覚めの状態です。
それゆえ、それは眠りの状態ではなく、眠りのない眠りなのです。
想念の起こるままにまかせていたら、あなたは自分を見失い、果てしなく迷路をさ迷うだけでしょう。

質問者

だとすれば、私は想念の起こる源を探求することに戻るべきなのでしょうか?

マハルシ

まさにそのとおりです。
そうすれば想念は消え去り、ただ真我だけが残るでしょう。
実際、真我には内側も外側も存在しません。
そのような観念も自我による投影でしかないのです。
真我は純粋で絶対なるものだからです。

900避難民のマジレスさん:2019/05/20(月) 14:05:03 ID:jfWCoXjM0

質問者

知的になら理解はできますが、知性は実現の助けとなるのでしょうか?

マハルシ

ある段階までなら助けとなります。
たとえそうだとしても、真我が知性を超越していることは理解しておきなさい。
知性は真我に達する前に消え去らなければならないからです。

質問者

私が真我を実現すれば他者の助けになるでしょうか?

マハルシ

もちろんです。
それは可能なかぎり最高の助けとなります。
しかしそこに助けられるべき他者は存在しないのです。
なぜなら、金細工師がさまざまな宝飾品の中の金を見積もるとき、ただ金だけを見ているように、真我を実現した人はただ真我だけを見ているからです。
自己を身体と同一視するときにのみ、名前と形は存在します。
しかしあなたが身体を超越したとき、身体意識とともに「他者」も消え去るのです。

質問者

それは植物や樹木などについても同じことが言えるのでしょうか?

マハルシ

それらが真我を離れて存在するでしょうか?見いだしなさい。
あなたはあなたが植物を見ていると考えています。
その考えは真我から投影されたものなのです。
その想念がどこから現れたのか見いだしなさい。
そうすれば、想念はもはや現れず、ただ真我だけが残るでしょう。

901避難民のマジレスさん:2019/05/20(月) 14:09:15 ID:jfWCoXjM0

質問者

理論的には理解できるのですが、それでも想念は依然としてそこにあるのです。

マハルシ

そうです。それは映画のようなものです。
スクリーン上には光があり、その上を去来する影が、何かのドラマが演じられているような印象を観客に与えるのです。
もし同じ映画の中で、観客もまたドラマの一部としてスクリーン上に見られたとしたら、見る者と見られるものがともにスクリーンの上にあることになります。
それをあなた自身に当てはめてみなさい。
あなたはそのスクリーンです。
真我が自我をつくり出します。
そして自我は想念を自己増殖させ、それが今あなたの尋ねたような樹木や植物などのある世界として映し出されるのです。
実際には、それらはすべて真我以外の何ものでもありません。
もしあなたが真我を見るなら、いつでも、どこでも、すべてが真我であることがわかるでしょう。
ただ真我だけが存在するのです。

質問者

そのとおりです。
それでも私はいまだに理論的にしか理解できないのです。
しかしあなたの答えはシンプルで、美しく、得心のいくものです。

マハルシ

「私は真我を実現していない」という考えさえ一つの障害です。
事実は、真我だけが存在するのです。


『秘められたインド』…ポール・ブラントン著。日本ヴェーダーンタ協会発行。
マハルシの初期の西洋人帰依者ポール・ブラントンが、インド各地で出会った多くの聖者との体験を記録した本。
最終章はマハルシに捧げられており、この書により多くの西洋人が彼のもとを訪れた。

ヴァーサナー…心の潜在的傾向、性癖を意味する。
無数の過去世で起こった行為の印象(サンスカーラ)が蓄積されたものが、現世では無意識内に種子として潜在しており、状況に応じて衝動、感情、欲望、恐れなどとして現れる。
仏教では燻習(くんじゅう)、習気(じっけ)、種子(しゅうじ)などと呼ばれる。

902避難民のマジレスさん:2019/05/20(月) 14:16:06 ID:jfWCoXjM0
>>899
誤・存在状態観照者
正・存在状態の観照者

903鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/20(月) 23:02:51 ID:1d4drIFg0
アートマンを追求するには師匠が不可欠なのじゃ。
なぜならば認識できる観念全てを否定しなければならないからなのじゃ。
大抵の者は自我をアートマンと思ってしまうものじゃ。
全て否定してくれる師匠がいればそれを正せるのじゃ。

904避難民のマジレスさん:2019/05/20(月) 23:49:49 ID:LC3de7YgO
>>903
それをシステムにしようとしたのが公案でありますかね?
(´・(ェ)・`)つ

905避難民のマジレスさん:2019/05/21(火) 10:29:24 ID:jfWCoXjM0
1935年1月8日

対話14

一人の老人が訪れ、ホールに座った。
マハルシはシャルマ氏によってサンスクリット語に訳された『アルナーチャラ・アクシャラ・マナ・マーライ』(文字の結婚指輪)を読んでいた。

老人が静かに尋ねた。

「真我実現はいかなる表現も超えているため、言葉で描写することはできないと言われていますが、どうしてでしょうか?」

マハルシ

『アルナーチャラ・アシュカム』(シュリー・アルナーチャラへの八連の詩)の第二節にその要点が述べられているように、実現の描写は不可能だとしても、その存在を示すことはできるのです。


その直後、老人の感情に明らかな変化が見られた。
呼吸は深く激しくなり、謙虚に全身を床にひれ伏すと、二分ほどしてようやく立ち上がった。
しばらくの間、静寂の内にとどまった後、彼はその場を去った。
明らかに、老人はある啓示を受けたのだ。
彼はマハルシにその確証を求め、マハルシはそれに相応する答えを与えた。
老人は確証を得、謙虚に、神の計らいを感じとったのだった。


『アルナーチャラ・アシュカム』第二節

見る者とは誰か?
内面を探ったとき、見る者は消え去り、その後に残ったものを私は見た。
だが、「私は見た」という想いは起こらなかった。
それゆえ、「私は見なかった」という想いがどうして起ころうか?

太古の昔、ダクシナームールティとして現れたあなたでさえ、ただ沈黙によってのみそれを伝え得たというのに、誰がそれを言葉で伝える力を持つというのか?

大地から天空までを輝かす丘としてそびえ立つあなたの境地を伝えるのは、ただ沈黙しかない。

906鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/21(火) 23:09:17 ID:1d4drIFg0
>>903 公案も観念を滅するためのものと言えるがアートマンとは又違うのじゃ。
 答えはあるからのう。
 
認識できない認識主体に達したならば、それは沈黙によってのみ伝えるしかないのじゃ。
全て否定して実践するものであるからのう。
沈黙だけが正しい答えなのじゃ。
見る事も見ないこともない沈黙の教えなのじゃ。

907避難民のマジレスさん:2019/05/21(火) 23:21:22 ID:LC3de7YgO
>>906
答えがあるのは、公案でありますか?
公案をとことん考えることで、観念を滅することはできるものでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

908避難民のマジレスさん:2019/05/22(水) 10:00:07 ID:jfWCoXjM0

対話15

「至高の魂は、最も微細なものよりも微細で、最も巨大なものよりも巨大である」
という『ウパニシャド』の中の言葉について質問があった。

マハルシ

原子の構造でさえ心によって発見されました。
したがって、心は原子よりも微細なものなのです。
心の背後に存在する個人の魂と呼ばれるもの、それは心よりも微細で精妙なものです。
さらにタミル州の聖者マーニッカヴァーチャカルは、
「太陽光線の中を舞う塵の一粒一粒が一つの宇宙を表し、太陽の光全体が至高の存在を表す」
と語っています。


至高の魂は、最も微細なものよりも微細で…『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』3-20

これは原子よりも小さく、最大のものよりも大きい。
真我は個人のハートの洞窟の中に宿る。

909鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/22(水) 22:41:13 ID:1d4drIFg0
>>907 答えは在るのじゃ。
 隻手には手を見せるとかのう。
 公案だけを考えれば他の観念は浮かばないのじゃ。
 それも集中なのじゃ。

最小のもの最大のものもただ観念であるだけなのじゃ。
観念を超越したものは最小で最大なのじゃ。
微細なアートマンも集中すればサマーディの中で最大になるのじゃ。
それ自体になるのがサマーディであるからのう。
世界の全てがアートマンになるのじゃ。

910避難民のマジレスさん:2019/05/23(木) 13:49:15 ID:jfWCoXjM0

1935年1月19日

対話16

気品ある七十歳の英国紳士、ダグラス・アインスリー氏(グラント・ダフ氏)は、マドラス前総督の甥である。
作家かつ詩人でもあり、以前アテネ、パリ、ハーグの英国公使館に所属していたため、政府の賓客としてマドラスを訪れていた。
彼はポール・ブラントンからの紹介状を携えてマハルシに会いに来た。
その翌日、再び彼は訪れ、1時間ほどホールにとどまった。
その両日とも何の言葉も実際に交わされず、二人はお互いに見つめ合うばかりだった。
ダグラス氏は質素で禁欲的な習慣の持ち主だった。
午後一時までは何も食べず、それから昼食をとり、夕方も、コーヒーとビスケット以外は何もとらずに眠りについた。
生涯独身を通し、空腹のまま一日数マイルの散歩をした。
言葉数は少なく、物腰は優雅だった。
声は低音で穏やかにしゃべり、その言葉はハートから湧き上がるかのようだった。
友人には故ジョン・ウッドロフ氏、サルヴパッリー・ラーダークリシュナン氏、オックスフォード大学教授のトーマス氏などがいた。彼は『ヴェーダ』の詠唱を聞きたいと望んでいた。

月曜日に、ラトビア共和国のリガから手紙が届いた。
手紙の中の質問は、西洋の来訪者から最近問われた「死者の魂の存在とその供養」に関する質問と偶然にも同じ内容だった。
リガに送られた返信の内容が、ダグラス氏に対して読まれた。
次に、マハルシの『実在についての四十頌 』がタミル語で詠われ、それから『ヴェーダ』の詠唱が行われた。
彼はそれを崇高な格調の高いものと感じた。

911避難民のマジレスさん:2019/05/23(木) 13:51:14 ID:jfWCoXjM0
翌日の午後、ダグラス氏は再び訪れ、他の者たちが驚く中、昨夜起こった体験についてマハルシに伝えた。
彼が語るには、「自己の内面、ハート・センターの右側に電光のごとく輝くものを見た」ということだった。
また、「内面で輝く太陽を見た」とも語った。
マハルシはかすかに微笑むと、『アートマ・ヴィディヤー』(真我の知識)の英訳版を彼に読んで聞かせた。
そこには、「真我実現とは、心の広がり(チッタ・ヴョーマン)とは明確に区別された、意識の広がり(チッド・ヴョーマン)であるアートマンに達することである」という秘教的な言葉が書かれていた。
彼はこの説明が気に入ったようだった。

後ほどダグラス氏のことが話題に上り、マハルシが言葉を添えた。
「自分の得た収入で、自分の家で平和に暮らすこともできただろう七十歳にもなる老人のことを考えてもみなさい!
一万キロもの航海や異国の鉄道の長旅という困難にも耐え、言葉もわからず、孤独な一人暮らしでの運命の移ろいや過酷な暑い気候、自分の体質に合わない不慣れな環境といったすべてを受け入れた彼の熱意がいかに真剣そのものだったか!
彼は自分の家で幸せに暮らすこともできたはずです。
内なる平安への熱望が彼をここに来させたのです」。
まさにそのとおりだ!
彼の真剣な熱意が、ここに到着してたった四日の内に光明の体験をもたらしたのだ、と人々は語り合った。


真我実現とは、心の広がり…『アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)』2 ラマナ・マハルシ作

真実で、力強く、永遠に新鮮な真我。
この幻の身体と世界は、「それ」から現れ出す。
この幻影が破壊され、何一つ残らず消え去ったとき、真我の太陽は実在として輝きわたる。
広大なハートの広がりの中で、暗闇は消え去り、苦悩は絶え果て、至福があるれ出す。

912避難民のマジレスさん:2019/05/23(木) 14:01:04 ID:jfWCoXjM0
死者の魂に関する質問についてマハルシが語った。

マハルシ

自分自身を粗大な身体と同一視しているかぎり、その人は想念が物質化して現れた粗大な世界も現実のものと見なします。
なぜなら、彼は自分の身体が他の物理的存在から生まれてきたと考えているため、自分以外の世界も自分自身の身体と同様に実在すると感じるのです。
これまでここに存在し続けてきた魂は、確かに死後も生き残ります。
なぜなら前世から来て、現世の身体の中にまだ存在し続けていると感じている魂がそこにあるからです。
このような状況では天国や地獄も真実と見なされるため、死別した魂は遺族による祈りによって利益を受けるのです。

それとはまったく別の考えをするなら、そこには前世からの心の潜在的傾向(ヴァーサナー)の種子を蓄えている自我があり、その自我が湧き起こった源である真我があります。
その真我こそが唯一の実在なのです。
真我は自我、心の潜在的傾向、粗大な感覚器官を輝かせます。
この潜在的傾向が感覚を通して現れ、宇宙として物質化され、真我の反映である自我によって知覚されるようになるのです。
自我はそれ自身を身体と同一視するため、真我の視野を失ってしまいます。
この過ちの結果が、現在の人生における無知と不幸の暗闇なのです。

自我が真我から生じたという事実、そしてその事実を忘れること、それが誕生です。
そうしてみると、個人の誕生が母親を殺したとも言えるでしょう。
母親を再び得たいという現在の願望は、真実においては真我を取り戻したいという願望なのです。
それは真我実現と同じことであり、自我の死でもあります。
これが母親への明け渡しであり、そうすることで母親は永遠に生き続けるのです。

913避難民のマジレスさん:2019/05/23(木) 14:01:59 ID:jfWCoXjM0
それからマハルシは、タミル語版の『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からディールガ・タパシと二人の息子プンニャとパーヴァナの物語について語った。

マハルシ

両親と死に別れて嘆き悲しむ弟を、兄はこう語って慰めました。
「どうして両親が死んだことを嘆くのかい?
彼らがどこにいるのか僕が教えてあげよう。
彼らは僕らの内側に、僕たち自身として存在しているんだ。
生命の流れは生と死、快楽と苦痛などの体験を通して果てしない転生を通り抜けてゆく。
川の流れは岩の上や、くぼみや、砂や、高いところや低いところを通り抜けながらも、流れ自体は影響を受けずにいる。
同じように、生と死、快楽と苦痛は、自我という蜃気楼に現れる水面の揺らぎのようなものなんだよ。
唯一の真実は真我だけだ。
自我は真我から現れ、想念を通してそれ自身を宇宙として現す。
そしてその中にお母さんや、お父さんや、友達や、親戚が、現れては消え去っていくんだ。
これらの人々はみな、真我の表れでしかない。
両親も真我の外側に存在しているわけではないんだよ。
だから嘆くことなんかない。
それを理解して、幸せになるんだ」


『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からディールガ・タパシと二人の息子プンニャとパーヴァナの物語

聖者ディールガ・タパシにはプンニャとパーヴァナという2人の息子がいた。
プンニャはすでに真我を実現していたが、弟パーヴァナはまだその途上にいた。
ある日、父ディールガ・タパシは突然の死を迎え、母もその後を追った。
プンニャは淡々と葬儀を進めたが、パーヴァナは嘆き悲しむばかりだった。
プンニャは弟に、自分たちが過去世で無数の両親を持っていたという真理を説き、しかも無数の過去世でパーヴァナは鹿、ライオン、サル、王子、カラス、象、鳥などとして生きてきたことを伝えて、死を嘆く必要などないことを悟らせたのだった。

914鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/23(木) 23:00:00 ID:1d4drIFg0
アートマンは認識主体であるからそれから自我の幻想もあるのじゃ。
自我を認識主体とか認識していることが謬見なのじゃ。
自我も認識されている観念でしかないのじゃ。
観念幻想であることが分かれば、自己同一化がなくなるのじゃ。

915避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 18:37:18 ID:jfWCoXjM0
1935年1月24日

対話17

オックスフォード大学の英文学者、エヴァンス・ヴェンツ氏がポール・ブラントン氏からの紹介状を携えて到着した。
彼は長旅で疲れていたため休息を必要としていた。
すでに数回この国を訪れており、インドでの生活様式には慣れていた。
彼はチベット語を学び、『チベットの死者の書』やチベットで最も偉大なヨーギー、ミラレパの伝記である『ミラレパの生涯』、そして『チベットの秘教の書』の翻訳補助にたずさわっていた。

午後になって、彼は質問を始めた。
それらはヨーガに関係したものだった。
彼はヨーガで坐るために、トラや鹿などを殺して毛皮を使うことが正しいことなのかどうかを知りたがった。

マハルシ

心がそのトラや鹿なのです。

質問者

すべてが幻影だと言うなら、殺すこともかまわないとおっしゃるのですか?

マハルシ

誰にとっての幻影なのでしょうか?見いだしなさい!
事実、誰もが人生のあらゆる瞬間において「真我の殺し屋」(アートマハン)なのです。

質問者

どれが最も良い座位(アーサナ)でしょうか?

マハルシ

どのアーサナでもかまいませんが、楽な姿勢の半跏趺坐(スカ・アーサナ)が良いでしょう。
しかし知識の道(ジニャーナ・マールガ)を行く者にとって、それは重要ではないのです。

質問者

座位はその人の気質を表すのでしょうか?

マハルシ

そうです。

質問者

トラの毛皮や羊毛や鹿の毛皮などには、どのような特質や効果があるのでしょうか?

マハルシ

ある人々がそれらの毛皮に特質や効果があることを発見したのです。
ヨーガの本にそのことが述べられています。
それは磁気の伝導性や非伝導性と一致するといったことです。
しかし知識の道を行く者にとってそれは重要ではありません。
真の座位とは、真我の中に位置し、そこに確立されることを意味しているのです。
それは内側にあります。
他の人たちは、外的な姿勢について述べているのです。

916避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 18:42:40 ID:jfWCoXjM0
質問者

瞑想に最も適した時間はいつでしょうか?

マハルシ

時間とは何でしょうか?

質問者

どうぞおっしゃってください!

マハルシ

時間とは単なる概念にすぎません。
ただ実在だけが存在するのです。
何であれあなたが考えたことは、そのように現れます。
あなたがそれを時間と呼べば、それは時間となり、もしも存在と呼べば、それは存在となる。
そのようなものです。
あなたがそれを時間と呼んでおいてから、昼や夜、年や月、時間や分に分割するのです。
知識の道(ジニャーナ・マールガ)を行く者にとって、時間は問題ではありません。
しかしいくつかの規則や規律は初心者にとって有用なものです。

質問者

ジニャーナ・マールガとは何なのでしょうか?

マハルシ

精神集中は知識の道でもヨーガの道でもある点で共通しています。
ヨーガの目標は個人と普遍的実在との合一です。
実在は何か新しいものではありえません。
それは今も存在しているはずであり、事実、存在しているのです。
それゆえ、知識の道はどうして分離(ヴィヨーガ)が生じたのかを見いだそうとします。
分離でさえ実在からのみ現れるのです。

質問者

幻影とは何でしょうか?

マハルシ

誰にとっての幻影ですか?見いだしなさい。
そうすれば幻影は消え去るでしょう。
人々は幻影について知りたがりますが、それが誰にとって起こるのかを調べようともしません。
それは愚かなことです。
幻影は未知のものであり、外側にあります。
しかし探究者は既知なるものであり、内側にあります。
あなたの知らない遠く離れたものを見いだそうとするよりも、身近で、あなたに親しいものを見いだしなさい。

質問者

マハルシは西洋人に何か特別な座位を勧められますか?

マハルシ

それを勧めることはできるでしょう。
しかしはっきりと理解されるべきことは、瞑想は座位や特別な時間帯や装具一式がないときにも続けられるべきだということです。

質問者

マハルシは西洋人に何か特別な修練方法を勧めますか?

マハルシ

それは個人の精神的特質によるものであって、決められた一定のルールがあるわけではないのです。

917避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 18:51:19 ID:jfWCoXjM0
エヴァンス・ヴェンツ氏はヨーガの初歩段階における質問を始めた。
そのすべての質問に対してマハルシは、
「それらはヨーガの補助的な事柄であり、ヨーガ自体がすべての目標である真我実現の補助なのです」
と答えた。

質問者

仕事は真我実現の妨げとなるでしょうか?

マハルシ

いいえ。
真我を実現した人にとっては真我だけが実在であり、行為は真我に影響を与えることのない単なる現象にすぎないのです。
たとえ行為しているときでも、彼には行為者であるという感覚がありません。
行為は自然に起こり、彼はそれを執着心なく見守り続けるだけです。

このような行為に目的はありません。
仕事に従事している者でさえ、知識の道(ジニャーナ・マールガ)を修練することができます。
初心者には最初は困難かもしれませんが、修練を重ねるうちにそれは効果を現し、やがて仕事が瞑想の妨げになることもなくなるでしょう。

質問者

修練とは何でしょうか?

マハルシ

自我の源である「私」をたゆまず探究し続けることです。
「私は誰か?」、それを見いだしなさい。
純粋な「私」は実在であり、絶対的な「存在ー意識ー至福」です。
「それ」が忘れられたとき、あらゆる不幸が起こります。
「それ」をしっかりととらえれば、不幸がその人に影響を与えることはなくなるのです。

質問者

真我実現にブラフマチャリャ(独身生活)は必要でしょうか?

マハルシ

ブラフマチャリャとは「ブラフマンの内に生きる」ことを意味します。
一般に理解されているような独身生活との関係はありません。
真のブラフマチャリャ、つまりブラフマンの内に生きる人は、真我であるブラフマンの内に至福を見いだします。
だとすれば、なぜ他に幸福の源を探そうとするのでしょうか?
事実は、真我から外へと出て行くことに、すべての不幸の原因があるのです。

質問者

独身生活はヨーガにおいて必要不可欠なものなのでしょうか?

マハルシ

そうです。
独身生活は、確かに多くの補助的な方法の一つです。

質問者

それならば、必要不可欠ではないのですね?
結婚した者でも真我を実現できるのですね?

マハルシ

もちろんです。
それは心の適性の問題なのです。
結婚していようと未婚であろうと、真我実現は可能です。
なぜなら、それは今、ここに在るからです。
もしそうでなければ、つまり努力によって時間をかけた後に達成できるものなら、そして、もしそれが新たに獲得しなければならないようなものなら、追求する価値さえないでしょう。
なぜなら、自然でないものは永遠でもないからです。
しかし私が語る真我とは、今ここに在り、ただそれだけが存在するのです。

918避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 18:56:20 ID:jfWCoXjM0
質問者

神はすべてに遍在しているため、他の生き物の生命を奪ってはならないはずです。
では、殺人者の生命を社会が奪うのは正しいことなのでしょうか?
国家が生命を奪うのは許されるのでしょうか?
キリスト教国家の中には、それを間違いと見なし始める国も現れています。

マハルシ

殺人者に罪を犯すよう駆り立てたものとは何でしょうか?
その同じ力が彼に罰を与えるのです。
社会や国家は、その力の手の内の一つの道具にすぎません。
あなたは一人の生命が奪われたことについて語っていますが、無数の生命が奪われる戦争においてはどうでしょうか?

質問者

まったくそのとおりです。
どちらにせよ、生命の損失は誤りです。
戦争は正当化できるのでしょうか?

マハルシ

常に真我の内に在り続ける覚者にとって、一人の生命、あるいは数人の生命、あるいはこの世のすべての生命、または三界のすべての生命が失われたとしても、何の違いもありません。
たとえ彼がすべての生命を破壊することになったとしても、そのような純粋な魂に罪が触れることはないのです。

 マハルシは『バガヴァッド・ギーター』の第十八章十七節から引用した。

   自我という概念から自由で、知性に執着しない人は、

   たとえ全世界を全滅させようと、彼が殺したということはなく、

   行為の結果に縛られることもない

質問者

行為はその人の来世に影響を及ぼすのではありませんか?

マハルシ

あなたは今生まれたのですか?
どうして来世について想いをめぐらすのでしょうか?
事実は、生も死も存在しないのです。
自分は生まれたと考える者に、死について考えさせなさい。

919避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 19:02:03 ID:jfWCoXjM0
質問者

マハルシの真我実現には、どれほどの時間がかかったのでしょうか?

マハルシ

このような問いがされたのは、あなたが名前や形を知覚しているからです。
このような知覚は、自我と身体を同一視するために起こります。

夢の中のように、自我がそれ自体を微細身と同一視すると、知覚も精妙なものとなります。
しかし深い眠りの中には何の知覚もありません。
それでも、そこに自我は存在していなかったでしょうか?
いいえ、存在していたはずです。
そうでなければ、眠っていたという記憶さえ存在しえなかったでしょう。
眠っていたのは誰でしょうか?
あなたは眠りの中で、「私は眠っている」とは言いませんでした。
あなたがそう言うのは、目覚めの状態である今、このときです。
ですから、自我は目覚め、夢見、眠りのすべてにおいて存在していたのです。
これらの状態の根底にある実在(リアリティ)を見いだしなさい。
その実在という境地の中には、ただ「存在」だけが在ります。
そこにはあなたも、私も、彼もなく、現在も、過去も、未来もありません。
それは時間と空間を超え、表現を超えています。

それは常に存在しているのです。

バナナの木は実が熟して地に落ちる前に根元から芽を出します。
その芽は移植され、そしてまた同じ過程を繰り返します。
それと同じように、太古の昔、弟子たちの疑問を沈黙の内に消し去った原初の師ダクシナームールティも芽を残し、それは今も増え続けています。
グルとはそのダクシナームールティの若芽の一つなのです。
真我が実現されれば、あなたが尋ねたような問いは生じなくなるでしょう。

質問者

マハルシはニルヴィカルパ・サマーディに入ったことがありますか?

マハルシ

目を閉じているときはニルヴィカルパ・サマーディであり、開いているときは(そこに区別はあっても絶対の静寂の内に在る)サヴィカルパです。
(しかし目を開いていようと閉じていようと)常に変わらず存在する自然な境地がサハジャなのです。

920避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 21:46:07 ID:LC3de7YgO
>トラや鹿などを殺して毛皮を使うことが正しいことなのか。

マハルシ

心がそのトラや鹿なのです。

質問者

すべてが幻影だと言うなら、殺すこともかまわないとおっしゃるのですか?

マハルシ

誰にとっての幻影なのでしょうか?見いだしなさい!
事実、誰もが人生のあらゆる瞬間において「真我の殺し屋」(アートマハン)なのです。

うぅむ。
これが、覚者の答えである理由をくまなりに書きながら考えてみる。

誰にとっての幻影か?
幻影を見ている幻影の自我にとっての幻影でありましょう。

誰もがとは、真我の実現に至ってない、自我あるとの幻影の中にいる、いわゆる凡夫でありましょう。

動物を殺して瞑想時の敷布にしていいのかと言う、価値判断を含む意見の表明は、凡夫の価値判断に過ぎないと退けてるわけではなく、
引用最後の、
>事実、誰もが人生のあらゆる瞬間において「真我の殺し屋」(アートマハン)なのです。
←「真我の殺し屋」と言う言葉に、たった一つの意識、アートマン(それには当然殺されたトラをも含む)、その殺し屋である自我を滅して、否定をもってのみ表現しうる認識できない認識主体であるところのアー
トマン(=無我)まで至らなければダメだよ!と言う、クールな励ましの意と受け止めるべきかなと思うであります。
(´・(ェ)・`)つ

921鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/24(金) 23:24:26 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
 それを問う者の心の中に殺生はあるのじゃ。
 
時間も観念に過ぎないゆえに、アートマンを実現した者にはないのじゃ。
どれほどの時間と聞くのは、寝ていた者が眼を覚ますのにどれほど時間がかかったかと聞くようなものじゃ。
寝ていた者には時間は知覚されないのじゃ。
観念のある者だけに時間はあると認識されているのじゃ。

922避難民のマジレスさん:2019/05/25(土) 13:00:57 ID:jfWCoXjM0
1935年1月26日

対話18

エヴァンス・ヴェンツ氏が尋ねた。
「超自然能力を持ったヨーギーがいますが、マハルシは彼らについてどうお考えですか?」

マハルシ

その力は噂によってか、あるいは実演によって知られます。
それゆえ、それらは心の領域の中だけにあるのです。

質問者

ブラントン氏は、マドラスのヨーギーがヒマラヤに住む師と交信をしていると言いました。

マハルシ

それは一般に知られているテレパシーほど驚くべきものではありません。
聞く人なしにテレパシーはありえず、見る人なしにテレビはありえません。
近くの音を聞くことと遠くの音を聞くことに、何の違いがあると言うのでしょう?

重要なのは、それを聞く本人なのです。
聞く者なしに聞くことはありえず、見る者なしに見ることはありえないからです。

質問者

つまり、あなたは私に対象ではなく主体について考えなさいと言われるのですね?

マハルシ

主体と対象は心が生じた後にのみ現れます。
主体も対象も、そして超自然能力も、心の中に含まれるのです。

質問者

アルナーチャラの丘に光(ジョーティ)が現れるのを目にすることはできますか?

マハルシ

できます。

質問者

カイラース山やベナレスのような聖地を巡礼することには、霊的な効果があるのでしょうか?

マハルシ

あります。

質問者

ベナレスで死を迎えることに恩恵はあるのでしょうか?

マハルシ

あります。
もし真のベナレスと真の死の意味が理解されれば、その意味は明らかになるでしょう。

質問者

つまり、それらは真我の中に在るということですね?

マハルシ

そのとおりです。

質問者

身体の中の六つのセンターに相応するセンターが、世界にも存在すると言われています。

マハルシ

そうです。
世界の中に存在するものは身体の中にも存在し、身体の中に存在するものは世界の中にも存在しているのです。

質問者

ベナレスの神聖さは信仰によるものなのでしょうか、それとも外面的にも真実なのでしょうか?

マハルシ

その両方です。

質問者

ある人はある聖地に惹かれ、別の人は別の聖地に惹かれます。
それはその人の気質によるのでしょうか?

マハルシ

そうです。それぞれ違った場所に生まれ、別々の土地で暮らしていた人たちが、今日ここにこうして集まっていることを考えてもみなさい。
あなたたちをここに引き寄せた力とは何なのでしょうか?
もしこれが理解されれば、他の力もまた理解されるでしょう。

923鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/25(土) 22:59:33 ID:1d4drIFg0
力とか聖地とか奇跡とか神秘なものも全て心の中にあるもの゛ゃ。
観念の内から出ていないのじゃ。
その観念を持つものがあると思えば在るのじゃ。
観念が無くなればその者の世界からなくなるのじゃ。

924避難民のマジレスさん:2019/05/26(日) 00:38:10 ID:jfWCoXjM0
1935年1月29日

対話19

グラント・ダフ氏が尋ねた。

「記憶と忘却はどこに位置しているのでしょうか?」

マハルシ

心(チッタ)の中にです。

925鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/26(日) 22:48:57 ID:1d4drIFg0
全ては心の中で繰り広げられる幻影なのじゃ。
記憶に依存した認識が観念を創り、その観念の中でのみ人は生きていくのじゃ。
世界が自分で創った観念であることもわからないのじゃ。
神とか世界が自分を創ったと思っているのじゃ。

926避難民のマジレスさん:2019/05/27(月) 09:30:23 ID:jfWCoXjM0
1935年1月30日

対話20

エヴァンス・ヴェンツ氏
 ジニャーニ(真我実現した人)にとって孤独は必要でしょうか?

マハルシ
 孤独は人の心の中に在ります。
 世間の雑踏の中に在りながら、静かな心を保っている人がいるかもしれません。
 そのような人は、ただ独り在るのです。
 深い森の中に暮らしながら、心を制御できない人もいるかもしれません。
 そのような人は独り在るとは言えないでしょう。
 独り在ることとは、心の在りようです。
 たとえどこにいようとも、欲望にかられた人は独り在ることができません。
 その反対に、無欲の人はいつでもただ独り在るのです。

質問者
 ということは、仕事に従事しながらも欲望に触れることなく、ただ独り在ることもできるということなのですね?

マハルシ
 そうです。
 執着心とともに為された仕事は足かせとなりますが、執着心なしに為された仕事が行為者に影響を及ぼすことはありません。
 このように仕事をする人は、たとえ仕事の最中にあってもただ独り在るのです。

質問者
 チベットには孤独の内にあって、しかも世界を救済している多くの聖者がいると言われています。
 そのようなことは可能なのでしょうか?

マハルシ
 可能です。
 真我を実現することは、人類に与えることのできる最も偉大な救いです。
 それゆえ、聖者は森にとどまっていようとも助けとなることができるのです。
 しかし「独り在る」とは森に住むことだけを意味するのではないことを覚えておきなさい。
 それは街中であろうと、世俗の仕事の只中にあろうと可能なのです。

質問者
 聖者が人々に交わって助けを施すのは必要なことではないでしょうか?

マハルシ
 ただ真我だけが実在なのです。
 世界やその他すべては実在ではありません。
 真我を実現した人は、世界を自分自身と別のものとして見ないのです。

質問者
 つまり聖者の真我実現は、人類の意識をそれとは気づかぬうちに向上させているということなのですね?

マハルシ
 そうです。
 助けは目に見えないものかもしれません。
 それでも、それはそこにあります。
 聖者は知られることなく全人類を助けるのです。

質問者
 他の人々と交わったほうがよいのではありませんか?

マハルシ
 交わるべき他者というものはないのです。
 真我は一つであり、唯一の実在だからです。

927避難民のマジレスさん:2019/05/27(月) 09:31:33 ID:jfWCoXjM0
質問者
 もし真我実現した者が百人いたなら、世界にとってより偉大な恩恵となるのではありませんか?

マハルシ
 あなたが「真我」と言うとき、それは無限なるものを意味していますが、それに「者」という言葉を加えると、その意味は限定されてしまいます。
 無限の真我だけが、唯一の実在なのです。

質問者
 なるほど、確かにそのとおりです。
 シュリー・クリシュナは『ギーター』の中で、「執着心なしに為された仕事は、無為であるよりも優れている」と言っています。
 これはカルマ・ヨーガでしょうか?

マハルシ
 そこに言われていることは、聞く者の気質に合うように与えられた教えなのです。

質問者
 「孤独の内に在る人が助けとなれる」という考えは、ヨーロッパでは理解されないでしょう。
 世間の中で働く人々だけが役に立てると考えられているからです。
 この誤解はいつ正されるのでしょうか?
 ヨーロッパ人の心は迷い続けるままなのでしょうか、それとも真理を理解するのでしょうか?

マハルシ
 ヨーロッパであろうとアメリカであろうと問題ではありません。
 ヨーロッパやアメリカが、あなたの心の中以外のどこに存在すると言うのですか?
 あなたの真我を実現しなさい。
 そうすればすべては理解されるでしょう。

 もしあなたが夢の中で何人かの人を見て、それから目覚めて夢を思い出したとき、夢の中の人々も目を覚ましたかどうかということを確かめようとするでしょうか?

質問者
 宇宙が幻影(マーヤー)であるという理論についてどう思われますか?

マハルシ
 マーヤーとは何でしょうか?
 それは実在以外の何ものでもないのです。

質問者
 マーヤーは幻影ではないのですか?

マハルシ
 マーヤーとは実在の顕現を意味するのです。
 それゆえ、マーヤーは実在以外の何ものでもありません。

質問者
 シュリー・シャンカラーチャーリャは知的なだけで、悟ってはいなかったと言う人がいますが、そうなのでしょうか?

マハルシ
 なぜシャンカラーチャーリャのことで心を煩わせるのですか?
 あなた自身の真我を実現しなさい。
 他の人たちは自分で自分の面倒を見るでしょう。

928避難民のマジレスさん:2019/05/27(月) 09:34:10 ID:jfWCoXjM0
質問者
 イエス・キリストは人々の病気を癒しました。
 それは単なる超自然能力(シッディ)なのでしょうか?

マハルシ
 イエスは人々の病気を癒していることに気づいていたでしょうか?
 彼が自分の能力を意識することはできなかったはずです。
 このような物語があります。

 イエスはあるとき盲目の男を癒した。
 その男はやがて悪人になってしまった。
 数年後、その男に出会ったとき、イエスは
 「どうしてあなたは悪人になってしまったのか?」と尋ねた。
 男は答えた。
 「盲目の間は罪の犯しようもありませんでした。
 しかしイエスが視力を与えたために、邪悪になってしまったのです。
 その責任はイエスにあるのです」と。

質問者
 イエス・キリストは超自然能力(シッディ)を持った全能の人だったのではありませんか?

マハルシ
 彼は自分の能力に気づくことができなかったのです。

質問者
 テレパシーのような能力を得ることは良くないことなのでしょうか?

マハルシ

 テレパシーやラジオは遠くのものを見たり聞いたりすることを可能にします。
 それらは見ることや聞くことという点では同じです。
 近くの音を聞こうと遠くの音を聞こうと、聞くという行為に違いはありません。
 基本的な要因は聞く者、主体にあるのです。
 聞く者あるいは見る者がいなければ、聞くことや見ることはありえません。
 知覚とは心の機能です。
 超自然的な力(シッディ)は、それゆえ心の中にしか存在しないのです。
 それは真我に本来備わっているものではありません。
 もとからあるものではなく、後から獲得されたものは永遠ではありません。
 したがって、努力して獲得するだけの価値もないのです。

 シッディとは能力が拡大されたものです。
 限られた能力を持つ者は不幸です。
 それゆえ、幸福になるために能力を拡大しようとするのです。
 しかし本当にそうなのか考えてみなさい。
 もし限られた能力のために不幸だと言うのなら、能力が拡大するにしたがって不幸も拡大することになります。
 超能力は幸福をもたらすのではなく、人をより不幸にするのです。

 しかも、何のための能力なのですか?
 超能力者になろうとする人は賞賛を求めて自分の力を誇示します。
 賞賛が得られなければ幸福にもなれないでしょう。
 そしてそこには彼を賞賛する他者の存在も必要とされます。
 彼は自分より高い能力を持った者に遭遇することさえあるでしょう。
 それは嫉妬を生み出し、さらに不幸を招くでしょう。
 能力の高い者はさらに能力の高い者に出会い、ついには一瞬の内にすべてを吹き飛ばしてしまうような存在に出会うことになるでしょう。
 そのような至高の存在、それが神、あるいは真我なのです。

 いったいどちらが真の力でしょうか?
 虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か?
 平和をもたらすもの、それが最高の成就(シッディ)なのです。

929避難民のマジレスさん:2019/05/27(月) 09:35:15 ID:jfWCoXjM0
質問者
 しかしヨーロッパやアメリカの普通の人々は、そのような考えよりも能力の顕示や講義による教えなどを望んでいるのです。

マハルシ
 講義は人々を改善することもなく、ただ数時間楽しませるだけでしょう。
 一方沈黙は永久的に、全人類に恩恵をもたらすのです。

質問者
 しかし沈黙では理解できません。

マハルシ
 それは問題ではありません。
 沈黙は雄弁です。
 言葉による教えは沈黙のように雄弁ではありません。
 沈黙は絶えず雄弁なのです。
 原初の師、ダクシナームールティはその極致です。
 彼は弟子のリシ(賢者)たちに沈黙を通して教えたのです。

質問者
 しかし彼には弟子たちがいました。
 それはそれでよかったでしょう。
 でも今は違います。
 人々は見いだされ、救われなければならないのです。

マハルシ
 それは無知の証拠です。
 あなたを創造した力が世界をも創造したのです。
 もしそれがあなたの面倒を見るなら、世界の面倒も見ることができるでしょう。

質問者
 イエス・キリストが語っている「失われた魂」についてバガヴァーンはどう思われますか?

マハルシ
 何が失われたと言うのですか?
 失われるような何があると言うのですか?
 重要なのは、生来のものだけです。
 それは永遠なるものであり、体験できないものなのです。
 生まれたものは死ななければならず、得られたものは失われるに違いありません。
 あなたは生まれたのですか?
 あなたは常に存在しているのです。
 真我が失われることはありえないからです。

質問者
 仏陀はすべてを包括する八正道を最高の道として勧めました。

マハルシ
 そうです。
 ヒンドゥー教では、それはラージャ・ヨーガと呼ばれています。

質問者
 ヨーガを真理の探究者に勧めますか?

マハルシ
 ヨーガは心の制御を助けます。

質問者
 しかしそれは危険と見なされている超自然能力に導くのではありませんか?

マハルシ
 しかし質問は、「真理の探究者」に関してではなかったですか?
 あなたは超能力の探究者を意味したのではなかったはずです。

930避難民のマジレスさん:2019/05/27(月) 19:03:52 ID:LC3de7YgO
マハルシさんは、若い時に一人で悟り、その後ヴェーダ以外の幅広い知識を身に付けたのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

931鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/27(月) 23:20:56 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、悟った後に学んだのじゃ。
 人に教えるには知識も必要であるからなのじゃ。

何かを失ったとか、罪を負ったとかの詐欺的な宗教に騙されてはいかんのじゃ。
何も失えず、負う事も無いのじゃ。
何もかも全て在るのじゃ。
それは得ることも失うことも汚れることも清くなることも無いのじゃ。
全てあるがままなのじゃ。

932避難民のマジレスさん:2019/05/27(月) 23:37:18 ID:LC3de7YgO
>>931
般若心経が悟りのイメージでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

933避難民のマジレスさん:2019/05/28(火) 10:30:15 ID:jfWCoXjM0
1935年1月31日

対話21

マドラス州の立法府議員であり、有力なヒンドゥー教徒のエラッパ・チェッティアール氏が尋ねた。
 
「聞くことによって得た知識は確固としたものにならず、黙想によって生まれた知識は揺るぎないものとなると言われていますが、なぜでしょうか?」

マハルシ

一方、耳にしただけの知識(パロークシャ)は確固としたものにならないが、真我実現によって生まれた知識(アパロークシャ)は揺るぎないものとなると言われています。

またこうも言われています。
聞くことは真理の知的理解を助け、瞑想はその理解を明瞭にし、黙想が真理の実現をもたらす、と。

さらに、このような知識はみな確固としたものではなく、ただそれが掌の上の木の実ほど身近で明らかなものとなったときにだけ、それは確固としたものになるとも言われています。

聞くことだけで十分だと断言する人もいます。
なぜなら、有能で、おそらくは過去世で修練を積んで資質を培った人は、一度真理を聞いただけで真我を実現し、平和の内にとどまるからです。
しかし資質を培っていない人は、サマーディ(三昧)に没入するまで今述べたような段階を経なければならないのです。

934鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/28(火) 23:24:19 ID:1d4drIFg0
>>932 そのようなものじゃ。
 それもまた法であるがのう。

経典でも聖者の言葉でも見たり聞いたりしただけの知識は無意味なのじゃ。
富士山に登らずに富士山の話をしているようなものであるからのう。
ちゃんと登った者が正しく完全な知識で語ることが出来るのじゃ。
実践によって正しい知識を得なければ何の意味も無いのじゃ。

935避難民のマジレスさん:2019/05/29(水) 14:30:27 ID:jfWCoXjM0
対話22

ピゴット婦人がマドラスから戻り、食生活について尋ねた。

質問者
 修行者(サーダカ)のために指導される食事とはどのようなものでしょうか?

マハルシ
 決められた量の清らか(サートヴィック)な食事です。

質問者
 サートヴィックな食べ物とは何でしょうか?

マハルシ
 パン、フルーツ、野菜、ミルクなどです。

質問者
 北インドでは魚を食べる人もいます。
 そうしてもよいのでしょうか?

マハルシは何も答えなかった。

質問者
 私たち西洋人は特定の食事に慣れていて、それを変えることは健康にも影響し、心を弱らせます。
 身体的な健康を保つことは必要ではないでしょうか?

マハルシ
 それは本当に必要なことです。
 身体が弱まるほど心は強大になるのです。

質問者
 いつもの私たちの食事がないと、健康は衰え、心は力を失います。

マハルシ
 心の力とはどういう意味でしょうか?

質問者
 世俗的な執着を断ち切る力です。

マハルシ
 食べ物の性質が心に影響を与えるのです。
 心は消化された食べ物に養われているからです。

質問者
 本当ですか!
 ではどうすれば西洋人はサートヴィックな食事だけに適応できるようになるのでしょうか?

マハルシ
(エヴァンス・ヴェンツ氏に向かって)
 あなたは私たちの食事をしています。
 そのために不自由を感じますか?

エヴァンス・ヴェンツ氏
 いいえ。
 慣れていますから。

質問者
 慣れていない人たちはどうなのですか?

マハルシ
 習慣とは単に環境に適応することにすぎません。
 問題なのは心です。
 実際は、ある食べ物がおいしく良いものだと考えるように心が慣らされてきたのです。
 菜食主義者も非菜食主義者も、食べ物自体は同じように良いものです。
 ただ心はある食べ物に慣れ親しみ、おいしいと見なしてそれを求めるのです。

質問者
 真我を実現した人にも食事に規則があるのでしょうか?

マハルシ
 いいえ。
 彼は不動で揺るがず、食べるものによって影響を受けることはありません。

質問者
 肉を料理するということは、生命を殺すことではないでしょうか?

マハルシ
 非暴力(アヒンサー)はヨーギーの修行にとって最も重要な規則です。

質問者
 植物さえも生命を持っています。

マハルシ
 あなたが座っている床の石さえも!

質問者
 私たちはしだいに菜食主義に慣れていくでしょうか?

マハルシ
 そうです。
 それが正しい方法なのです。

936鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/29(水) 23:07:39 ID:1d4drIFg0
施されたら肉も食べてもよいのじゃ。
しかし、瞑想には菜食が向いているのじゃ。
神経も静まるからのう。
肉とか砂糖とか刺激物を取りすぎると攻撃的になると言うのじゃ。

937避難民のマジレスさん:2019/05/30(木) 10:33:06 ID:jfWCoXjM0
1935年2月2日

対話23

エヴァンス・ヴェンツ氏が先日の質問を続けた。

「霊的な師を二人以上持ってもよいのでしょうか?」

マハルシ
 師とは誰でしょうか?
 結局、師は真我なのです。
 その人の心の発展段階に合わせて、真我は外的な師として姿を現すのです。
 古の高名な聖者、アヴァドゥータは二十四人以上の師を持っていました。
 師とは、何であれそれから人が学ぶことのできる対象をいいます。
 アヴァドゥータがそうだったように、師は、ときには無生物であるかもしれません。
 神、グル(師)、真我は一つなのです。

 霊的(スピリチュアル)な精神を持った人は、神がすべてに遍在すると考え、神を自分の師と見なします。
 次に、神は人の姿をとったグルを彼のもとに送り、彼はグルが遍在するすべてであることを悟ります。
 最終的には、その同じ人が師の恩寵によって、彼自身の真我こそが実在であり、それ以外何も存在しないことを感じ取ります。
 こうして彼は真我が師であることを見いだすのです。

質問者
 シュリー・バガヴァーンは弟子を取りますか?

マハルシは黙ったままだった。

しばらくして、弟子の一人が答えを差し出した。

「マハルシは誰も彼の真我の外側に在るとは見なしません。
 ですから、彼にとって弟子というものはありえないのです。
 彼の恩寵はすべてに遍く存在し、沈黙を通して恩寵を受けるにふさわしい人に分かち合われるのです」

質問者
 書物から得た知識は真我実現に役立つのでしょうか?

マハルシ
 霊的な精神をもたらすというかぎりにおいては。

質問者
 知性はどこまで助けとなるのでしょうか?

マハルシ
 知性を自我の中に、自我を真我の中に沈めさせるまでです。


【アヴァドゥータ】
 すべての所有物を放棄し、ヒンドゥー教のダルマ(義務)からも自由となって放浪する覚者(ジニャーニ)。
 ここではその代表格であるダッタートレーヤを指す。
 彼は、土からは忍耐と不動の心を、水からは純粋な心を、空からは無執着の空なる心を学んだ。
 このようにして五大元素、鳩、バッタ、象、鹿、魚、娼婦、蛇、小さな女の子など出会ったものすべてを師と見なして教えを得たと言われている。

938鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/30(木) 23:25:28 ID:1d4drIFg0
アートマンは一つというのに弟子と師匠がある筈も無いのじゃ。
説かれたことを理解していないのじゃ。
アートマンを実践していないのじゃ。
アートマンを習うのにアートマンを理解しなければ無意味なのじゃ。

939避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 07:35:05 ID:LC3de7YgO
>>938
直接的で、誰にでも、くまでもわりやすい解説をありがとうであります。
(´・(∀)・`)つ

940避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 09:50:10 ID:jfWCoXjM0
1935年2月4日

対話24

ピゴット婦人
 どうしてあなたはミルクは飲むのに卵は食べないのですか?

マハルシ
 家畜の牛たちは子牛が必要とする以上にミルクを出すため、ミルクを搾られることに喜びを感じるのです。

質問者
 でも雌鳥も卵を抱えきれないのではないでしょうか?

マハルシ
 しかし卵の中には、やがて生命となるものが宿っているからです。

質問者
 想念が突然止まり、「私ー私」が突然湧き上がって、それは続いていきます。
 それは感じることの中にあり、知的なものではありません。
 これでよいのでしょうか?

マハルシ
 もちろん、それでよいのです。
 「私ー私」が湧き上がるのを感じるには、想念や理性が消え去らなければなりません。
 感じることが主な要因であり、理性ではないのです。

質問者
 何よりも、それは頭の中ではなく胸の右側で感じられるのです。

マハルシ
 そうあってしかるべきです。
 なぜなら、ハートはそこにあるからです。

質問者
 私が外側を見るとき、それは消え去ってしまいます。
 どうすればよいのでしょう?

マハルシ
 しっかりとそれを心にとどめなければなりません。

質問者
 もしそのような想起とともに行為するのであれば、その行為は常に正しいものとなるのでしょうか?

マハルシ
 そうあって当然です。
 しかしながら、そのような人は行為が正しいかどうかを心配したりはしません。
 彼の行為は神の行為であり、それゆえ正しいのです。

質問者
 それでは、どうして食事を制限しなければならないのでしょうか?

マハルシ
 あなたの現在の体験は、あなたのいる環境の影響によるものです。
 この場を離れてその体験を持てるでしょうか?
 体験とは一過性のものです。
 それが永続的なものになるまで修練は欠かせないでしょう。
 そのような体験が続けて起こるようにする助けとして、食事制限があるのです。
 ひとたび真理の内に確立されれば、制限は自然に落ちてゆくでしょう。
 さらに、食事は心に影響を与えます。
 それゆえ、純粋な食事を保つべきなのです。

ピゴット婦人は後にある弟子に伝えた。

「彼からの波動をより強烈に感じています。
 そして、以前よりも容易に『私』の中心に達することができるようになっています」


【「私ー私」】

以下はマハルシ自身の言葉で記録された「私ー私」の主要な説明である。

1)

この私はどこから立ち現れるのか?これを内側に求めよ。
するとこの「私」は消滅する。これが智慧の探求である。
「私」が消滅するところに、自ら「私ー私」が現れる。これは無限なるもの(プールナム)である。

『ウパデーシャ・サーラム』第19、20節

2)

内奥の核心で、ハートは「私ー私」という真我に気づき、ブラフマンとしてひとり輝く。
真我探求によって、あるいは呼吸制御によって、ハート深く潜り、アートマンの内に永遠にとどまりなさい。

『シュリー・ラマナ・ギーター』第2章2節

3)

それゆえ、死骸となった身体は死骸として捨て置き、「私」という言葉を口にせずに、「『私』として現れたそれはいったい何なのか?」と熱心に探求すべきです。
そうすれば、多数に分割された想念は消え去り、単一で分割不可能な気づきである「私ー私」という無音のスプラナ(輝き、振動)が自ずと輝き出すでしょう。
もしそれを離れることなく静寂の内にとどまれば、「私は身体だ」という自我の形である個我性の感覚は完全に破壊され、スプラナさえも静まるでしょう。
賢者や聖者はただこれのみが解脱であると断言しています。

『真我の探求』第3節

941避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 09:51:31 ID:jfWCoXjM0
4)

S.S.コーヘン著『グル・ラマナ』(シュリー・ラマナシュラマム刊)の中にあるマハルシとS.S.コーヘンとの会話に「私ー私」の本性に関する質問がある。
ここに「私ー私」意識とアハム・スプラナの本質が明確に説かれている。

コーヘン
 シャンカラーチャーリャの『ヴィヴェーカ・チューダーマニ』には「私ー私」意識はハートの中で永遠に輝きながらも、誰もそれに気づいていないと述べています。

バガヴァーン
 そうです。
 目覚め、夢見、夢のない眠り──どの状態であろうと、そしてそれを意識しようとしまいと、例外なくすべての人がそれを持っているのです。

コーヘン
 『サット・ダルシャナ・バーシュヤ』の「対話」の項の中に「私ー私」は至高の意識として述べられていますが。

バガヴァーン
 「私ー私」意識は絶対なるものです。
 それはサハジャ・サマーディの起こる前に現れますが、サハジャ自体の中にも「私ー私」意識の中にも精妙な知性が存在しています。
 その2つの違いは、「私ー私」意識の中には(微細な)身体の感覚がまだ残っていますが、サハジャにおいて身体の感覚は完全に消え去るということです。

コーヘン
 バガヴァーン、あなたは昨日、人の身体の中には針の先ほど小さい穴が存在し、意識がそこから身体へと絶えず噴き出していると言われました。

バガヴァーン
 それは身体を意識と結びつけている無知の結び目で、通常は閉じています。
 それはケーヴァラ・ニルヴィカルパの中で心が一時的に消え去るときには開きますが、再び閉じてしまします。
 しかしサハジャの中では、それは開いたままとどまるのです。

コーヘン
 「私ー私」意識の体験の間、それはどのような状態なのでしょうか?

バガヴァーン
 「私ー私」意識がそれを永久的に開く鍵なのです。

コーヘン
 あなたの言われる究極の意識「私ー私」が現れるセンターに達するにはどうすればよいのでしょうか?
 ただ単に「私は誰か?」と問えばいいのでしょうか?

バガヴァーン
 そうです。
 それがあなたをそこへ連れて行くでしょう。
 あなたはそれを静かな心で行わなければなりません。
 心の静寂が不可欠なのです。
 
コーヘン
 そのセンター、ハートに達したとき、意識はどのように現れるのでしょうか、私はそれを認識するでしょうか?

バガヴァーン
 もちろんです。
 それはすべての想念から解放された純粋な意識として認識されます。
 それは純粋で完全なあなた自身の真我の覚醒です。
 というよりむしろ存在の覚醒なのです。
 それが純粋であるとき、見誤ることはありません。

コーヘン
 そのセンターでの振動は、純粋意識の体験と同時に感じられるのでしょうか、それともその前、あるいはその後でしょうか?

バガヴァーン
 それらは1つであり、同じものです。
 しかし、スプラナは瞑想が十分確立されて深まり、最高位の意識に最も近づいたときでさえ、あるいは突然の恐怖や強烈なショックで心が停止したときにさえ感じることができます。
 それは注意をそれ自体に引きつけるため、静寂によって繊細になった瞑想者の心はそれを感じ、それに強く引かれ、ついにはその中、真我の中へと沈み込むのです。

コーヘン
 「私ー私」意識は真我の実現なのでしょうか?

バガヴァーン
 それは真我実現の前兆です。
 それが不変のサハジャとなったとき、それが真我実現、解脱なのです。

(『グル・ラマナ』より抜粋)

942避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 22:22:53 ID:LC3de7YgO
>>940
「私ー私」 とは、私から私を引く、マイナスするLという意味でありますか?
(´・(ェ)・`)つ

943鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/31(金) 22:50:25 ID:1d4drIFg0
サハジャとは自然な状態なのじゃ。
意識しないでも私の観念が見えればそうなるのじゃ。
スプラナは忘我の意識なのじゃ。
マハラジならば気付きの意識と言うじゃろう。
観る意識なのじゃ。

944鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/31(金) 22:56:48 ID:1d4drIFg0
私ー私とは他の想念が消えてアートマンが観えた状態なのじゃ。
真我独存と呼ばれるのじゃ。
全てのものごとが私に見えるのじゃ。
誰もがそうなるものではないがのう。
クリシュナムルティもそうなったというのじゃ。

945避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 23:11:23 ID:LC3de7YgO
>>944
全てか私・・・私 - (マイナス私)= 無 でも良さそうでありますね。
(´・(∀)・`)つ

946避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 11:28:37 ID:jfWCoXjM0
 対話25

『真我実現』(マハルシの最初期の伝記)の著者であるB・V・ナラシンハ・スワミが尋ねた。

「私とは誰でしょうか?どうやってそれを見いだすのでしょうか?」

マハルシ
 あなた自身にそれを問いなさい。
 身体(アンナーマヤ・コーシャ)とその機能は「私」ではありません。
 さらに深く進むと、心(マノーマヤ・コーシャ)とその機能も「私」ではないことがわかります。

 次の段階は、「これらの想念はどこから湧き起こるのか?」と問うことです。
 想念は自発的で、表面的で、分析的です。
 それは知性の働きなのです。
 では誰がそれに気づいているのでしょう?
 このように問うことで、想念の存在とその明確な概念、そしてその働きは個人にとって明らかになります。
 この分析の結果、想念やその流れの存在を認識するのは、個人の人格であるということがわかります。
 
 この人格が自我、あるいは一般に言われる「私」です。
 知性(ヴィジニャーナマヤ・コーシャ)は「私」の鞘にすぎず、「私」そのものではないのです。

 さらに探求を続けてゆくと、「この『私』とは誰なのか?」、「どこからそれは湧き起こるのか?」という問いが起こります。
 眠りの中では「私」は気づいていませんでした。
 「私」が立ち現れるとともに、眠りは夢見あるいは目覚めへと変化してゆくのです。
 しかし今は夢見の状態には関わらずにおきましょう。
 今、この目覚めの状態での私とは誰なのか?
 もし「私」が眠りから生じたのだとすれば、その「私」は無知に包まれているはずです。
 そのような無知な「私」が、聖典や聖者が「私は眠りをも超越する」と語る「私」だとは言えません。
 「私」とは今、ここに在るべきものです。
 そして「私」は眠りや夢見の質を持たないにもかかわらず、眠りや夢見の間にも存在すべきものなのです。
 それゆえ、「私」は(至福であるアーナンダマヤ・コーシャをも超えた)三つの状態の根底に存在する完全なる基盤であるに違いありません。

 簡潔に言えば、「私」は五つの鞘を超越したものです。
 次に、真我ではないすべてを否定し続けた後に残るもの、それが真我、サット・チット・アーナンダ(存在ー意識ー至福)なのです。

質問者
 どうすれば真我を実現できるでしょうか?

マハルシ
 現在の相対的な次元を超越しなさい。
 存在(真我)はそれ自身から分離したもの(非真我)を明らかに知っています。
 つまり主体は対象に気づいています。
 見る者がドリクであり、見られるものはドリシャです。
 これら二つの根底にはそれらを結ぶものがあるはずです。
 それが「自我」として現れるのです。
 この自我がチット(知性、意識)の本性です。
 アチット(非感覚的なもの、意識のないもの)とはチットの否定でしかありません。
 それゆえ根底にある本質は、対象ではなく主体に近いものなのです。
 「見られるもの」(ドリシャ)が完全に消え去るまで「見る者」(ドリク)を探すことによって、相対的な「見る者」はより希薄になり、最後には絶対的な「見る者」だけが残ります。
 この過程は「対象としての世界の消滅」と呼ばれます。

質問者
 どうして「見られるもの」である対象としての世界が排除されなければならないのでしょうか?
 対象が残されたままでは、真理は実現できないのでしょうか?

マハルシ
 できません。
 「見られるもの」の排除とは、主体と対象という分離を排除することです。
 対象は実在ではありません。
 (自我をも含めた)すべての目に見えるものが対象なのです。
 対象である非実在を排除することによって実在が残ります。
 ロープが蛇に見間違えられたとき、真実を悟るには、蛇という誤った知覚を排除するだけでいいのです。
 そのような排除なしに、真理は悟れません。

質問者
 対象としての世界の消滅は、いつ、どうやって起こるのでしょうか?

マハルシ
 それは対象に相対する主体、つまり心が排除されたときに完結します。
 心が主体と客体の創造者であり、二元的概念の起こる原因なのです。
 それゆえ、心は「自己は限定されたものである」という誤った観念によって起こる不幸の原因でもあるのです。

947避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 11:30:07 ID:jfWCoXjM0
質問者
 心とは何なのでしょうか?

マハルシ
 心は生命の顕現の一形態です。
 木片や精密な機械が心と呼ばれることはありません。
 生命の気が生命活動として現れ、また心という意識的現象として現れるのです。

質問者
 心と対象物との関係性とは何でしょうか?
 心は、心とは異なるもの、すなわち世界と接触しているのでしょうか?

マハルシ
 世界とは目覚めと夢見の状態の中で「感じられる」ものであり、また思考と知覚の対象でもあります。
 どちらも精神的活動です。
 もし目覚めや夢見という想念の精神的活動がなければ、「世界」を「知覚」することさえないでしょう。
 眠りの中にそのような精神的活動はなく、「対象と世界」も存在しません。
 したがって、「世界の実在性」は自我が眠りから出現することで自我によって創造されたと言えるでしょう。
 そしてその実在性は、眠りの中でその本性を回復した魂によって飲み込まれ、消え去るのです。
 世界が現れたり消え去ったりするのは、クモが巣をつくり出し、それを再び引き入れるのに似ています。
 ここで言うクモは目覚め、夢見、眠りの三つの状態の根底に在ります。
 人の中に宿るそのようなクモが、アートマン(真我)と呼ばれるものです。
 一方、(太陽から生じたと考えられている)世界の中に宿るクモはブラフマン(至高の霊性)と呼ばれます。

 「人の中に宿る『彼』は、太陽の中に宿る『彼』と同じものである」

 サ・ヤシュチャーヤン・プルシェー・ヤシュチャーサーヴァーディッティエー・サ・エーカハ。

 『タイッティリーヤ・ウパニシャド』第2巻8章1節

 真我あるいは霊性が現れず、活動がないとき、そこに主体と対象、つまり「見る者」(ドリク)と「見られるもの」(ドリシャ)のような相対的二元性はありません。
 もし心の現れる究極の原因を探求し続ければ、心はアートマンあるいはブラフマンと呼ばれる実在の現れでしかないことがわかるでしょう。
 心は「微細心」(スークシュマ・シャリーラ)と呼ばれ、ジーヴァは個人の魂を意味し、個性の成長の核である人格と見なされています。
 想念あるいは心はジーヴァの一側面、あるいはジーヴァがそれ自身を表す一つの方法と言われています。
 そのジーヴァの発展の初期段階では、生命は不活発な状態にあります。
 心は常に物質と関係し、あるいは物質に対して働きかけていて、それ自体単独で存在することはけっしてありません。
 つまり心と物質は共存しているのです。


【五つの鞘(パンチャコーシャ)】
 真我を覆い隠す五つの鞘。
(1)アンナーマヤ・コーシャ(身体の鞘)。
(2)プラーナマヤ・コーシャ(生気の鞘)。
(3)マノーマヤ・コーシャ(心の鞘)。
(4)ヴィジニャーナマヤ・コーシャ(知性の鞘)。
(5)アーナンダマヤ・コーシャ(至福の鞘)。

948鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/01(土) 23:12:59 ID:1d4drIFg0
>>945 そうじゃろう。
 マハラシもいろいろウパニシャッドの言葉を習ったが、やはり自分の言葉で表現するしかないのじゃ。
 悟りの境地は同じでも育った環境とか知識が違うからのう。
 経典や聖者の言葉も参考にするしかないのじゃ。

身体から至福にいたる鞘とは自己同一化される対象なのじゃ。
それらが自己であると認識しているうちは悟りは訪れないのじゃ。
一切の対象が無い時、自己もなくなり悟りも訪れるのじゃ。
同一化の対象は後半異なるが、仏教の五蘊と同じ主旨なのじゃ。

949避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 10:59:15 ID:jfWCoXjM0

対話26

質問者
 どうすれば世界の顕現の究極的原因であり、その本質である心の本性を見いだすことができるでしょうか?

マハルシ
 想念をその価値の順位に並べてみると、「私」という想念が最も重要だということがわかります。
 人格という概念もまた、その他すべての想念の根や幹です。
 それぞれの観念や想念は誰かの想念としてのみ起こり、自我から独立して存在することはありません。
 それゆえ、自我が想念の活動を表すのです。
 二人称と三人称の代名詞である「あなた、彼、あれ」などは、一人称代名詞の「私」なしには存在しません。
 それらは一人称が現れた後にのみ現れます。
 つまり三つの人格はともに現れ、ともに消えていくのです。
 それゆえ、「私」または人格の究極の原因をつき止めなさい。

 「私」という観念は身体を得た自我に起こります。
 それは身体あるいは有機体に関係しているはずです。
 ちょうど話すことや性欲が脳に中心を置いているように、「私」は身体の中、あるい特定の場所に関係しているのでしょうか?
 それとも、「私」は脳、血液、内臓に中心を置いているのでしょうか?
 「想念という生気」は脳と脊髄に中心を置いています。
 そして脳と脊髄の中を血液が循環し、食べ物と空気を適切に混合し、神経物質に変容させることで、この想念という生気は養われているのです。
 それゆえ、血液循環、呼吸作用、栄養摂取を含めた自律的な生命作用または生気は、身体組織の中核あるいは本質だと言われています。
 このような理由から、心は生気の現れと見なされ、また心はハートに宿ると考えられているのです。

質問者
 心を消去し、その代わりに直観を発展させる修練方法について伺いますが、それらは心でも直観でもない中立的な基盤をともなう、二つの異なった段階なのでしょうか?
 それとも真我を実現するには精神活動のない状態が必要なのでしょうか?

マハルシ
 修行者(アビャーシー)にとって、二つの明確に異なった段階があります。
 一つは眠り、昏睡、気絶、狂気などに共通の基盤である精神活動のない状態と、もう一つは自己意識の存在しない状態です。

質問者
 心を消し去り、相対的意識を超越するにはどうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 心は本質的に落ち着きのないものです。
 落ち着きのなさからそれを解放しなさい。
 安らぎを与えなさい。
 気を散らすものを避けなさい。
 内側を見るよう訓練しなさい。
 そしてそれを習慣としなさい。
 外的な世界を無視し、心の平安を妨げるものを除くことで、そうすることができるようになります。
 
質問者
 どうすれば心を落ち着かせることができるでしょうか?

マハルシ
 外的な接触──自己以外の対象物との接触──が心を不安定にさせるのです。
 真我ではないものへの興味を失うこと(ヴァイラーギャ)が第一段階です。
 そうすれば内観と集中の習慣がそれに続くでしょう。
 そして外的な感覚や内的な知的機能を制御することが、最終的にサマーディへと導くのです。

950鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/02(日) 22:22:29 ID:1d4drIFg0
自分んがあるという観念から他の観念も次々に生まれてくるのじゃ。
それが縁起というものじゃ。
その心を観るためには五感を制することも重要なのじゃ。
心の視点を外から内側に向けるのじゃ。

951避難民のマジレスさん:2019/06/03(月) 12:55:29 ID:jfWCoXjM0
対話27

質問者
 それらはどのように修練されるのでしょうか?

マハルシ
 外的現象の本性のはかなさを見極めることがヴァイラーギャ(離欲、無執着)へと導きます。
 だからこそ、真我探究が最初に踏み出される重要な一歩となるのです。
 真我探究が自動的に継続するようになると、富や名声、快適さや快楽を無価値なものとして軽視するようになります。
 「私」という想念を見極めることはより明確になり、こうして「私」の源であるハートへと導かれてゆくのです。
 それが最終目的です。
 しかしながら、もし探究者の気質が真我探究の道という内観的、分析的な方法に合わない場合は、神、グル、人類、道徳理念、あるいは美の概念に対するバクティ(帰依、献身、信愛)を養わなければなりません。
 真我探究か帰依のどちらかが個人の心を虜にしたとき、それ以外のことに対する執着心は弱まり、無執着心が強まっていきます。
 それと同時に究極的目標に対する執念が培われ、ついには、ただそれだけが心を占有するのです。
 このようにして、ヴィジョンや直接的な助けなどをともないながら、一点への集中は気づかぬうちに発展していきます。

 真我探究や帰依が適さない人の場合、自然に静けさをもたらすプラーナーヤーマ(調息)を試みるとよいでしょう。
 これはヨーガ・マールガ(ヨーガの道)と呼ばれるものです。
 もし生命が危険にさらされれば、生命の救出の一点にすべての関心が集まるでしょう。
 もし呼吸が抑えられれば心はゆとりを失い、外的な対象物に飛びつくこともなくなるでしょう。
 このように呼吸を制御している間は心も落ち着いています。
 すべての注意は呼吸とその調整に向けられ、他の物事に対する興味が失われるからです。
 熱情には乱れた呼吸がともないますが、穏やかな幸福にはゆっくりとした規則正しい呼吸がともないます。
 激烈で発作的な喜びには、苦痛と同じように痛みがあり、そのどちらにも乱れた呼吸がともないます。
 真の平安こそが幸福です。
 快楽が幸福をもたらすことはありません。
 心は修練によって改善され、革砥で砥がれたカミソリの刃のように鋭くなります。
 そうすることで、心はよりいっそう内的または外的な問題に取り組めるようになるのです。

 もし真理の探究者がジニャーナ(知識)とバクティ(帰依)の二つの道に気質的にそぐわず、また第三の方法であるヨーガも年齢的な状況から無理である場合、彼は(例えば社会奉仕などの善い行いをする)カルマ・ヨーガ、つまり行為の道を試みるべきです。
 彼の崇高な本性はより明らかになり、無私無欲の喜びを得るようになるでしょう。
 小さな自我は主張をやめ、彼の中の善が開花する機会を得るでしょう。
 こうして彼は他の三つの道の一つにも十分適するようになるのです。
 この一つの方法だけでも適切に身につければ、彼の直観は開花するでしょう。

質問者
 一定の想念や連続的な問いかけが自己催眠状態を招くことはありませんか?
 分析不可能な基本原理であり、把握しがたく、漠然としか知覚できない「私」を分析するためには、それを一点に限定するべきではないのではありませんか?

マハルシ
 いいえ。
 それは空間を見つめるような、まばゆい水晶や輝く光を見つめるようなものです。

質問者
 心をその一点に集中させることはできるのでしょうか?
 それはどのようにするのでしょうか?

マハルシ
 もし心が散漫になったなら、「この散漫な心は誰に起こったのか?」と即座に問いただしなさい。
 それはあなたを「私」という点に即座に連れ戻すでしょう。

952避難民のマジレスさん:2019/06/03(月) 12:56:21 ID:jfWCoXjM0
質問者
 心はどれほどの間、ハートの中にとどめておくことができるのでしょう?

マハルシ
 修練が進むほど長くとどめておくことができるようになります。

質問者
 修練を止めたときには、何が起こるのでしょうか?

マハルシ
 心は現在の通常の状態に戻ります。
 ハートの中で融合していた心が、知覚されるさまざまな現象に取って代わられます。
 これは外向的な心と呼ばれています。
 それに対して、ハートに向かう心は安らいだ心と呼ばれています。

質問者
 この過程は単に「知的なもの」なのでしょうか、それとも主に「感じられるもの」なのでしょうか?

マハルシ
 後者です。

質問者
 心がハートの中にあるとき、すべての想念が止むということは、どうやって起こるのでしょうか?

マハルシ
 意志の力によって、師の教えの真理に強烈な信頼を抱くことによってです。

質問者
 この修練の利点とは何でしょうか?

マハルシ
*a意思の克服──集中力が培われる
 b熱情の克服──無執着が培われる
 c徳業を積む──すべてを平等に見る

質問者
 なぜ思考の及ばない点について考えるという自己催眠を用いるべきなのでしょうか?
 どうして光の凝視や呼吸の維持、音楽を聞くことや内なる音に耳を傾けること、オームなどの神聖なマントラの復唱といった他の方法を用いないのでしょうか?

マハルシ
 光の凝視は心を麻痺させ、意志をしばらくの間硬直させますが、その効果は永続しません。
 呼吸の抑制もまた一時的に意志を麻痺させますが、永続はしません。
 音に聞き入ることも、そのマントラが聖なるものであり、想念を高め浄化する高次の力に守られたものでないかぎり、結果は同じこととなってしまうでしょう。


*本書の中に度々見られるこのような箇条書きや表は、マハルシ自身の言葉の表現ではなく、記録者の便宜による。


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