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素朴な疑問

435:2002/09/01(日) 01:58
> 私は、学会員ですが、変な学会員だと思います。
>聖教新聞は、取っていません。停止しています。
>(無意味な批判記事が多い為です。)
>だから、ちょっと違うと思います。

> 外部の人間に学会の会館に連れて行けと言われる
>ような、へんな学会員です。

へんな学会員が、まじめな元学会員に対して「どういう指導をうけたかしりませんが」
と平気で言える、この神経が理解できません。

436たまちゃん:2002/09/01(日) 02:47
すみません。失礼します。
御本尊様に天照大神と書かれていました。
これは日本の神ですよね。
何故書かれているのでしょうか?
また、伝教大師があるなら、聖徳太子とか鳩摩羅什とかはどうでしょう?
仮に御本尊に現代板があったらどうなるのでしょうか?

437:2002/09/01(日) 03:52
> 御本尊に迷うなら持たなければいいのではないですか。
> 御書のどこにも、個人で御本尊がなければ、幸福になれないとは
>ありません。

確か、創価学会は会員に顕師本尊から寛師本尊に取替えさせたのではありませんか?
「取り替えろって、うるさいけど、メンドクサイからヤダ」という学会員の不満の声を聞いたことがあります。
取り替えたくない、って言ってる人にまで、取り替えろ、というのは何故ですか?
顕師本尊では都合が悪いのですか?

御書のどこにも、個人で御本尊を持ってなければ幸福にはなれない、とは書いてませんね。
おっしゃる通りです。
日顕師が嫌いなら、その御本尊は捨てちゃって、御本尊無しでいいじゃないですか。
簡単、安易に御本尊を送るのって良くないですよね。新会員は御本尊無しでいいですよ。
わざわざ、じょうえん寺の寛師本尊を大量印刷する創価学会を、宮本さん、どう思います?

私は創価学会のやってることが、さっぱり理解できません。

438宮本:2002/09/01(日) 07:16
あさんへ
 横レスの場合は、出来れば指摘して下さいね。(五月さんあてのつもりでしたんで)
>というのは何故ですか
  私は、そういうことしていません。あさんのいう当事者に直接きくのが
 本筋ではないですか。学会員のやること全てに責任を取る必要が
 個人にあるのでしょうか・?
  学会員が、法華講の方に本山の事で抗議するのは、筋違いとおもいませんか・?
 一般法華講の方々には、何の責任もないのではないかと思いますが。  
>わざわざ...
 必要のないことで、やめるべきだと思います。

  学会の方にこられた御僧侶の方々の同意もあった以上、何も言えません。
 どう考えも、それ程、教学力もありませんし、石山のこと知りませんから。

 >御本尊無しでいいじゃないですか
 
  私もそう思います。

 そして、組織的登山の必要ありませね。(本人の希望なら別でしょうが)
 御書の中のどこにもありません。
 登山しなければ、幸福になれないとは、なかったと思います。

 (今週は、仕事でモニタの前にいませし、あさんの発言を全く
  見ることできません。全部、きちっと答えていないと思います。
  御容赦下さい。)

439五月雨:2002/09/01(日) 08:04
宮本さん

私のHNが気に食わなくて、変えて下さったのでしょうか。自分では気に入っているので変えずに呼びかけて下さいませんか。よろしくお願いします。音にすると全く違いますから。

宮本さんは、別に学会員であっても学会の代表でもなく、この掲示板での発言にも、何の責任も持ちません、という事なんですよね。だから宮本さんのレスを読んで疑問をぶつけても、小冊子に書いてあるから読めとか(入手できないのを承知で)言った当事者に聞けとか、逃げの一手ですね。これって無責任ですよね。
この掲示板では、大袈裟かもしれないけれど、信仰人生を賭けて、皆真剣に考えレスしていると思います。ロムされている方も真剣だと思います。私は自分の信仰に迷った末にたどり着いたこの掲示板から、多くの事を知り、学ばせて頂きました。
その事を今一度考えていただいて、宮本さんのご意見を聞かせて下さい。

440アネモネ:2002/09/01(日) 09:33
横レス失礼いたします

宮本さん

>私の記憶違いかもしれませんが、本山より離脱した末寺に
日寛師の真筆の御本尊があります。
 その末寺が、学会の支持の末寺になったためだったと思います。
(和歌山県の末寺だったと思います)
 したがて、真筆は、大石寺には無かったと思います。
(間違いの場合は、お許し下さい)


ご真筆がその和歌山県のお寺にあるということは、つまりご親筆は大石寺にはない。だから、大石寺がでどころではないという意味だと思いますが、それを文面通り読むならば、いかにも御本尊をモノとして捉えていることを、宮元さん自らが表明してしまったと感じます。
宮本さんのレスの中で、私は、ここが一番の矛盾ではないかなと感じました。

江戸時代は私が言うまでもありませんが、本末制度の秩序が厳しかった時代です。その和歌山県のお寺に日寛上人のご真筆のご本尊があるということは、そのお寺が大石寺の末寺であったことを如実に証明しているものでもありますね。それは、宮本さんがいう「私が師弟論を信用していない為です。」という観念的な理論では説明がつかないもので、もっと厳格な制度的秩序によって説明されることだと思います。

本末制度という絶対的な秩序のもとで、大石寺の末寺であるその和歌山県のお寺に法主である日寛上人が真筆御本尊を下付されたわけですね。ここはご理解されることと思います。そして今日までそのお寺で護り伝えられてきた。ところが、近代化で本末秩序の緩和された今日において、そのお寺は本山から離れ(?)、そしてそれを学会の御本尊とした。しかしそのご本尊がどのような秩序の関係でそのお寺にあるのかという、おおもとをだとれば、でどころは大石寺であるという認識になります。
なにより、日寛上人は、大石寺の法主だったわけですから、その日寛上人が書写あそばされた御本尊は、どこのお寺に伝えられていようとも、でどころは大石寺ですね。
理解されますでしょうか。

かつて宮本さんが書かれていたように、学会が大石寺と袂を分けたことをかえって良かったと思っているのであれば、日寛上人のご本尊ではなくて、いっそ日蓮聖人のご真筆の御本尊をコピーして下付していかれたほうが、ややこしくならなかったですね。ただし、戒壇之大御本尊は絶対という思いが、学会員の心にも強く残っているのであれば、日蓮聖人の他の真筆の御本尊のコピーでは意味がないわけですね。
結局、破門となり表面的に宗門と袂を分けても、教義的にはどこまでいっても日蓮正宗の一派であることから完全に脱却はできないのが、創価学会なのではないでしょうか。

この認識は、五月雨さんとの議論において非常に重要なことではないかと思います。この点の認識の違いを避けては、議論が空回りするだけではないでしょうか。
この点は、ぜひとも突き詰めてほしいと思います。

441犀角独歩:2002/09/01(日) 10:03

宮本さん:

私の名前を書かれていたので、いちおうレスします。あまりに質の悪い内容で、実は書くのも面倒です。

> ちなみに、独歩さん方に御安置してあった御本尊は、日寛師書写の御本尊様のようですが、草創期の学会では、日寛師の御本尊様が流布されていたと、辻さんの発言もありました。

私の漫荼羅は達師の印刷です。

しかし、、言っておきますが、学会の草創期からの印刷漫荼羅配布は各末寺がやっていたなどと嘯く従来の方法ではなく、“徹底した本山一山管理”に基づく配布です。戦前のことは知りませんが、すくなくても戦後は末寺が勝手に印刷した漫荼羅が配られることなんかなかったでしょう。なにが従来の方法ですか。

よくまあ、こんな下らない学会文書を鵜呑みにするものだと、この度は更にまことに呆れ果てました。

こういう嘘を200万部配ろうが何しようが、嘘を100遍繰り返しても本当にはならないのです。

当時、学会が独自の印刷漫荼羅頒布を始めたときの屁理屈は「和合僧団には本尊授与の資格がある」というものでした。何百万部と配られた新聞です。ご自分で調べてご覧なさい。

この記事を読んで私は大笑いしました。これでは要するに漫荼羅頒布前の創価学会は和合僧でなかったという意味も含んでしまうからです。

自分のところで、成田さんが申し出ようと何しようと漫荼羅の印刷して販売したりしないのが「節度」というものです。

宮本さんは聖教新聞も取らず、幹部も信用しない、けっこうなことであると思います。
ついで、たとえ200万部も売られようと、こんな歴史をねじ曲げた虚構のはかない文書も、買って読んで、せっせとアップしたりしないほうが、誤解されることもないでしょう。

442:2002/09/01(日) 11:20

宮本さん

どうも失礼いたしました。

> 私は、そういうことしていません。あさんのいう当事者に直接きくのが
> 本筋ではないですか。学会員のやること全てに責任を取る必要が
> 個人にあるのでしょうか・?

これは私の
>> 確か、創価学会は会員に顕師本尊から寛師本尊に取替えさせたのではありませんか?
>> 「取り替えろって、うるさいけど、メンドクサイからヤダ」という学会員の不満の声を聞いたことがあります。
>> 取り替えたくない、って言ってる人にまで、取り替えろ、というのは何故ですか?
>> 顕師本尊では都合が悪いのですか?

という質問に対する答えですね?
私は、学会員個人が、他の個人である学会員のやったことの、全てに責任を負う必要は無いと思います。たとえば、事業の失敗とか、万引きなどの犯罪とか。
しかし、顕師本尊から寛師本尊に取り替えさせるということは、個人の学会員がやったことではなく、組織的に行われたことです。
このお取替えは、宗教的にどういう意味がありますか? それが知りたいのですが。
広宣流布を目指す創価学会の一員として、このことを、どう考えますか?

「俺がやったことじゃないからシラネーヨ」ですか。

443:2002/09/01(日) 11:35

宮本さん

>> わざわざ、じょうえん寺の寛師本尊を大量印刷する創価学会を、宮本さん、どう思います?

という私の質問に対して、

> 必要のないことで、やめるべきだと思います。

という宮本さんのお答えですが、必要の無いことをやっている創価学会を、その構成メンバーとして、どう思いますか?
必要の無い御本尊を配って、「我々は大聖人の教えを守っている唯一の団体だ」と威張っている創価学会をどう思いますか?

444:2002/09/01(日) 12:38

宮本さん

> 学会員が、法華講の方に本山の事で抗議するのは、筋違いとおもいませんか・?
> 一般法華講の方々には、何の責任もないのではないかと思いますが。

私は、法華講に抗議ウンヌンということは、宮本さんに質問していません。
全然、見当違い、筋違いの答えで、話を混乱させるのは、やめてください。

445:2002/09/01(日) 12:43

五月雨さん

> 宮本さんは、別に学会員であっても学会の代表でもなく、この掲示板での発言にも、何の責任も持ちません、という事なんですよね。だから宮本さんのレスを読んで疑問をぶつけても、小冊子に書いてあるから読めとか(入手できないのを承知で)言った当事者に聞けとか、逃げの一手ですね。これって無責任ですよね。
この掲示板では、大袈裟かもしれないけれど、信仰人生を賭けて、皆真剣に考えレスしていると思います。ロムされている方も真剣だと思います。

同感であります。

446孤独な迷子:2002/09/02(月) 00:04
横からレスしてすみません。

独歩さん

 ご丁寧な解説を有り難うございます。

 独歩さんの指摘された3点のうち、2点は私にも当て嵌まりそうです。

 > ・自分自身を追い詰めていくような在り方→切迫型
    祈りをかなえなければいけない、叶うはずだ、叶わないのは信心がないからだと言ったような

 > ・極端に至福感に浸るような在り方→脳内物質分泌型

 私の場合は、「信心がない」と言うよりも(尤も信心があるとも言えませんが)、信心の仕方に誤りがあるのではないかと考えました。正しい信心ならば、正しい(?)結果が出るだろう。その結果が出ないのは、その過程に何か誤りがあるのではないか、そう考えたのです。それで、以前「体験発表」のことについて質問させていただきました。結果から逆に辿ってゆけば、何かが見えてくるかも知れないと。

 2点目の「極端に至福感に浸るような在り方」。このようなことを追い求めていたかも知れません。



五月雨さん

 心配していて下さったのですね、本当に有り難いことです。

 > 迷子さんは、何もかもよくお分かりなんだと思いました。

 とんでもないです。皆さんに比べたら、私などは未だに入り口のあたりで迷子になっています。(^_^)

 > 独歩さんが仰ったように、私はパンドラの箱を開けてしまいました。でも最後に残ったのは「希望」ですよね。

 本当にパンドラの箱ですね。でもそこに「希望」を見いだせたのは羨ましい限りです。私も皆さんに教えを請いながらその「希望」を探してみたいと思います。
 これからもよろしくお願いします。




アネモネさん

 > ほんの数行に満たないレスからは始まって、今回はこんなにたくさんのレスをされたこと、私はすごく嬉しいです。

 そう言っていただけると、私もとても嬉しいです。一月近く間が空いてしまったので気が重かったのですが、何だか勇気づけられました。有り難うございます。アネモネさんは優しい方なのですね。
 この掲示板に出会って最初は読むことのみでしたが、五月雨さんがここを去ろうとしたことがありましたよね。そのことがきっかけになって、思い余ってレスしてしまいました。でも、こうして皆さんと交流させて頂けるようになり、五月雨さんにも感謝しています。

 > 私が信仰のうえで一番問題にするのはいつも「心」なんですね。心が救われるかどうか。

 私もそう思います。「心」って一番の根本ですよね。その人の心の状態によって同じ出来事に対しても、その人の反応の仕方(振る舞い、言動など)が変わってくるのだと思います。その心の状態をより良いものにするために、大聖人は唱題行を教えられたのかと思えてきました。

 > その方々が信心から離れてしまったことで、なにか思うところがおありなのでしょうか。

 誤った折伏などしなければ良かったと今は思います。特に入院してしまった方に対してはそのように感じます。彼の心の中に新たに不信の種を植え付けてしまったような気がします。人間に対する不信を。


 アネモネさんのレスには心が温められます。有り難うございます。



管理人さんへ

 書き込みが先行してしまい、挨拶が遅れてしまいました。

 このような掲示板を作ってくれたことに感謝しています。
 この掲示板に出会えて、心の安堵を得られた思いです。今後も宜しくお願いします。

447五月雨:2002/09/02(月) 10:27
昨日は宮本さんのレスに、頭が壊れていましたが、あ さん始め一緒に彼に語りかけて下さったお陰で、今日はすっかり回復しています。私の頭は構造が単純なので、直りは早いです(笑)
彼のレスを見ていると、学会員の体質だなと思います。「私は学会を信じていますが、学会が何をしようと関係ありません」 無責任さです。
これと同じような体質がウチのお寺の、脱会して法華講員になった元学会幹部です。圏とか本部、支部の幹部ともなれば、信心を教えていった立場です。折伏した人数は百人を越えると豪語する元学会幹部は、脱会した時に折伏した人たちに、「学会が正しいと信心させた」その責任を果たしたでしょうか。一人も果たした人はいません。「どうせ言っても無駄だし、学会員はキチガイやから」と言ってましたよ。腑に落ちないものを感じながらも、元幹部は見るからに怖そうなので、そうですかーと言った私です。
でも、数年して元本部幹部だった現講頭夫婦には、「支部幹部以上だった人は私が教えてきた事は間違いだったと縁する学会員に陳謝して、正しい教えはこうだと言うべきだ」と言いましたら、苦虫を噛んだようなお顔をされていました。こんな事を言ったから嫌われてしまったと思います。
宮本さんの意味不明のレスを読みながら、こんな事を考えさせられました。

448五月雨:2002/09/02(月) 10:39
孤独な迷子さん

>本当にパンドラの箱ですね。でもそこに「希望」を見いだせたのは羨ましい限りです。

いいえ、実はまだ見つけている途中です。というかパンドラの箱の結末は希望が残るというものでしたよね。だからあるんじゃなかろうかと思っただけです。それに大聖人様のお教えに何も残らなかったら寂し過ぎます。

>このような掲示板を作ってくれたことに感謝しています。
 この掲示板に出会えて、心の安堵を得られた思いです。今後も宜しくお願いします。

私も同感です。匿名の世界のインターネットに真実などあるはずがないと、思っていた事もありますが、今は世の中が変わってしまいました。このパソコンこそ
パンドラの箱なのかも知れません。こちらこそどうぞよろしくお願い致します。

449五月雨:2002/09/02(月) 10:44
たまちゃんさん

五月雨と申します。よろしくお願い致します。せっかくレスして下さったのに、宮本さんとの不毛の議論の谷間になって、なんだか埋もれてしまっているように思いました。たまちゃんさんのご質問は私は教学は専門外?なので、独歩さんにおまかせしたいと勝手に思います。独歩さんよろしくお願いします。

450五月雨:2002/09/02(月) 11:03
独歩さん

たまちゃんさんのご質問に、お答えしてあげて下さい。先に勝手に教学は独歩さんにとおまかせと言いながら、お願いの方が遅くなってすみません。

私が前々から書いていますように、日蓮正宗信徒でありながらも、教義を知らない人がいるという事実があります。そこで、ウチの講きっての教学に詳しいおじいさんに日蓮正宗の教義について聞いてみたくなりました。お電話で依頼をしたのですが、日蓮正宗の教義について聞きますので、後日にお伺いしますと言ったら、すごい勢いでまくし立てられました。「住職は法座(にじょう台)に座ったら猊下である」「宗門の事に信徒は一切口出ししてはいかん」そして
「日蓮正宗の信心の根本は無疑曰信である、信じる事が大事なんだ」と言われたのです。無疑曰信・疑いなきを信というと読むのは知っていますが、これってもの凄く危険だと思うのです。それこそ戒壇本尊がイワシの頭に摩り替わっていても分からないと思います。本当の意味は何なのでしょう。どうぞご教示を、よろしくお願いいたします。

451犀角独歩:2002/09/02(月) 14:58

436 たまちゃん さん:

五月雨さんからのご依頼を受ける形になりました。
果たして私が答えてよいのかどうかわかりませんが、記させていただきます。

疑問として提示されたところ、漫荼羅図示の根本問題から、応用に跨る重要事項であると思います。つまり、けっこう難しい質問ですね。ですから、私が思う範囲で、という限定で記させてください。

> 御本尊様に天照大神と書かれていました。
これは日本の神ですよね。
何故書かれているのでしょうか?

文献的に言えば、本尊三度相伝の

一、釈迦と申すは天照太神西天に釈迦と顕はれ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、日本に又大明神と顕はれ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て正直の頭に宿る、末法濁世の時は日蓮聖人と顕はれ諸仏の本意を顕はす、左れば釈迦上行天照太神、日蓮聖人只一躰の習にして釈迦幼少の御名は日種と、天照幼少の御名は日神と云ふ最も謂れあることなり、其れ天照太神と云ふときんば法華本迹の躰にて御座すなり、天照太神は面は女躰にて御座せとも実には陰陽和合神にて御座すなり、天と云ふ字は二人と書く是れ則陰陽の二なり、明神の明と云ふ字は又日月と書けり則ち日月は陰陽の躰、本迹の二門なり

また、

七、日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判日蓮躰具)、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか。

ということになるのでしょう。
しかしながら、この文献の示すところに拠れば、「日蓮聖人只一躰」「悉く日蓮」ならば、なにもいくつも書かなくてもよいのではないのか?という疑問が湧きますが、このように同体異名を同一上に記すことを互為主伴として充てるようですが、この語は他にも当たる意味があります。

なお、多分、このご質問の根底に漫荼羅は虚空会(相伝では霊山会)を図示したものであるから、遠く日本の神が入るのはなぜかという伏線もあるように思えます。
私は、この点は、漫荼羅は聖人己心の図示であるからだと考えています。
この点については、どなたかが示されていました。特に聖人の真跡に見られるところではないので、決定的なことは言えないところと惜しまれます。

> 伝教大師があるなら、聖徳太子とか鳩摩羅什とかはどうでしょう?

他門では、このように真筆漫荼羅に見られない聖衆を記すことはあるようです。
私が聞いた中では「行学院日朝上人」を記すということがありました。
また、いわゆる葬儀用の漫荼羅では、五道冥王、閻魔法王を入れるなどの例もあるようです。

> 仮に御本尊に現代板があったらどうなるのでしょうか?

これは難しい。どうでしょうか。たまちゃんさんは、どのようにお考えになりますか。

452犀角独歩:2002/09/02(月) 16:04

450 五月雨さん:

まああ、聞く耳持たない翁は、放っておくのがよいでしょう。
このお爺さんの悲しい姿は、本人は「えっへん、わしはこんなに信心強盛なのじゃ」と思っているかもしれませんが、以下のハッサン氏の指摘そのままであろうかと思います。

「忠誠心と献身は、あらゆる感情のうちでいちばん高く評価されるものである。メンバーは、部外者に対して以外は、消極的な感情を抱いたり表現したりすることは許されない。メンバー決して、自分自身や自分に必要なことへ感情を向けず、いつもグループのことを考え、不平は絶対に言わないように教わる。彼らは決してリーダーを批判してはいけない。代わりに自分自身を批判すべきである(と教わる)」

このような人に何を言っても無駄なことは、ここ掲示板でも言い出しても、他の意見など耳を傾けず、自分の言うことを繰り返すような閉ざされた人々の例を見ればわかります。結局、私たちに採るべき最良の選択は

「本人が求めてもいない批判的な記事を送ったりしない。そういう情報は、実際は益よりも害のほうが多い」

というハッサン氏の指摘を忠実に守るべきです。忠言耳に逆らう、自分たちがいちばん正しいという操られた他者蔑視は、反対に遭うほど強固になるばかりだからです。

また、無疑曰信、疑いを無くして信じるを曰うことには、思考停止を共用する短絡とは別に、本来の意味は全く違うでしょう。そのお爺さんの言っていることは、まあ言わば、不疑曰信といったところでしょう。つまり、疑わず信じるということです。

無疑と不疑、どこがちがうのでしょうか。これは天地雲泥の差があります。
無疑とは自分の心の中に湧き出る一切の疑いに答えを見いだした結果が信であるということ、不疑は単に疑わないこと、意味も精神もまったく違いますね。

まあ、これぐらいのことは、原島嵩さんだって、『池田先生への手紙』のなかで記していました。この人はいまは法華講なんだそうですから、同じ法華講同士。なんと言っても昔の教学部長、年はお爺ちゃんよりは下とはいえ、役職至上主義者には、かえって私のような創価学会の役職とは無縁であった人間の言葉より、聞く耳を持つかもしれません。

ちなみに、この原島さんの本を私にくれたのは“住職”でした(笑)

453五月雨:2002/09/02(月) 16:48
独歩さん

お爺さんには、余計な話はせずに聞く方にまわりますので、ご安心下さい。私の興味のひとつは昭和三十年代からの信心をしている人の
教義の理解度です。教学を知らない人に聞いても面白くありませんから、この頑固ジジイにしました、あっ口が滑ってしまった。お爺さんです。
『池田先生への手紙』は私の愛読書なんですよ。学会批判の本を全部処分したけれど、この本だけは置いています。原島さんの苦悩が伝わる本でした。今は原島さんだけが被害者という感じはありません。彼も果たすべく責任があると思います。この本で無疑曰信の意味を知りました。意味に間違いがないのでしたら、この本をお爺さんに見てもらいましょう。元創価学会教学部長の言葉は絶対でしょうから。
“住職”さんは、中々粋な事をされますね(笑)

454犀角独歩:2002/09/02(月) 22:19

453 五月雨さん:

そうそう。粋といえば粋も粋(爆)
自分が伊達男を気取るには信者も所化もみんな犠牲。

でも、そんなこと、ちっともわかっていなかったですね。
1億円近い個人預金。最高級車に贅沢な食事と住まいの私生活。
薄墨素絹は名ばかりで、一振り何百万もする衣。
おまけに学会役職の「奥様」に匹敵する寺院住職「奥様」。

言っていたことは「普通が何がいけないんですか。慎ましやかな生活でいいんですよ」(笑)

本気で自分は慎ましやかな生活をしていると思っているようでした。「?」と私は思っていたのですが、「猊下に比べれば」という比較対照の選択がそもそも間違っていたんでしょう。あるいは「池田さんに比べれば」だったのかも知れません。

読経の声も、説教の内容も声も最高。でも、それだけ。読経の声がよくて、説教の内容がよくて声もよいだけ。字もうまかったですね。そんなものしかし、なにになります、権威で感動する人間以外、「なんて身のない虚しい人だ」と呆れられるだけですよね。

なーーにもわかっていないボンボン、世間知らずの井の中の蛙。いまは私は、そんな立ち居振る舞いを思い出すだけで「恥ずかしい!」と本気で思うだけです。裸の王様、漫才を見る思いです。

455たまちゃん:2002/09/02(月) 23:37
五月雨様、独歩様
お気づかい頂きましてありがとうございました。
また真剣に応えて頂きましてありがとうございます。
これからいろいろ考えてみます。

456アネモネ:2002/09/03(火) 00:05
孤独な迷子さん

こんにちは。
私は今までの人生で、本当に優しくなければならないときに、そうなれなかったという苦い経験を重ねてきてます。強い性格も持ち合わせていて、本当にここぞというときにその強さが発揮される場合を除いて、なんでもないときはけっこう持て余すというか、厄介というか、自分で自分に振り回されてるんですよ。

>その心の状態をより良いものにするために、大聖人は唱題行を教えられたのかと思えてきました。

きっと大聖人はそういう願いと祈りをこめて、唱題行を教えられたと、私はいまでも信じてますよ。だけど、今の大石寺の組織では、そういう願いや祈りはこめられていないですね。別のものになっていると思います。大石寺の栄耀栄華でしょうか。そんな願いと祈りではないかと思います。だから、誰も心が救われないのではないでしょうか。

>誤った折伏などしなければ良かったと今は思います。

ここの掲示板に参加している人が、そういう思いを大なり小なり抱えていると思います。私もそうですよ。入信させたものの、家庭の事情で遠くに引っ越してしまい、いつのまにか疎遠になってしまった人がいます。私はこうして組織から離れようとしているのに、彼女にはそういう私の変化も思いも、伝えてないままなんです。いつかきちんと向き合って、話しておかないといけないなぁって気にかけてます。そのためにも、今度こそはいい加減なまやかしの信心を教えることのないよう、この掲示板で勉強していこうって思ってます。
孤独な迷子さんも、今はなにかとてもやるせない気持ちだと思いますが、今出来ることとして、ここで一緒にお勉強していきましょう。

>特に入院してしまった方に対してはそのように感じます。彼の心の中に新たに不信の種を植え付けてしまったような気がします。人間に対する不信を。

孤独な迷子さんにとって、とても大事な方だったのでしょうか。そんな感じを受けます。そしてその方は、孤独な迷子さんから折伏を受ける前から、精神的な病を患っていらしたのではないでしょうか。どんなことがキッカケでそうなってしまわれたのか、身の上話など聞かれたことありますか?それこそ、人に対する不信からなのでしょうか。

457アネモネ:2002/09/03(火) 00:07
(つづき)

私は、孤独な迷子さんは何も彼のことを騙したりしていないと思います。
騙したわけではないけれども、孤独な迷子さんが正しいと信じて伝えてしまったことが、間違いであったかもしれないということですね。そのことに今、孤独な迷子さんはつらいけれども目を反らさず、考えてみようとしていらっしゃるわけです。今度こそ、まやかしを信じてしまわないように、また信じてしまったものがまやかしであったということがきちんと説明できるようにお勉強し、いつか彼の病状が落ち着いて、また孤独な迷子さんの心にも余裕が出来た頃、ここに書いた思いと共に学んだことの全てを彼に話してあげられるといいですね。きっと時間の経過も助けとなって、彼が少しばかり感じた不信は少しずつ信頼に変わっていくかもしれません。そうなることを「希望」として、繰り返しになりますが、掲示板で一緒に学んでいきましょう。

そして、その方がどんな病気にかかってしまったのかということも、ぜひ学んでみてはどうでしょう。ご病気のことを何も知らないままご本人やご家族に接することは、とても危ない場合がありますね。病気はなんでもそうですが、特に精神を患っている場合、言葉ひとつで病状を左右する場合もあると聞きます。その言葉の善し悪しは一般常識で推し量れるものではなくて、ある程度専門的な知識が必要ですから、そんなことも少し学んでみられてはどうかと思いました。

だけど、ザッと今読み返してみると、なんか私、学ぶことばかり勧めてハッパかけてしまってますね。自分はたいして学んでいないというのに、ごめんなさいね。ゆっくりマイペースでいきましょう。

458五月雨:2002/09/03(火) 10:57
独歩さん

いやあ、すごいお坊さんもいるものですね。講習会登山に参加した時に声がよくて、説教も素晴らしい僧侶にはうっとりしたものですが、その“実”というものも考えないといけないなと思いました。極小寺院の若手僧侶といっても四十目前ですが、ウチの指導教師とえろう変わりませんね。僧侶の金銭感覚もよく分かりました。お金が無いといいながら、何であんなに贅沢できるんやろかと思う事が多々ありましたが、あれはあれで慎ましやかな生活だったのでしょう。基準が違うわけですね。
御供養で、贅沢三昧する姿を見せ付けられても、信徒は何も言ってはいけない、複雑な思いを抱いてもいけない、ご供養をさせて頂いた瞬間から何に使おうと、僧侶の勝手だという論理?には何か違うと思っているのですが・・・・

459五月雨:2002/09/03(火) 11:22
大白法9月1日号に「創価学会と離脱僧らの再度の邪難を摧破す」という日蓮正宗青年僧侶邪義破折班の文書が載っています。その中に

「貴殿ら創価学会と離脱僧は、“立宗3月説の根拠となる御書についてはいずれも大聖人の御真蹟が現存せず、反対に立宗4月説を裏付ける大聖人の御書『聖人御難事』『諌暁八幡抄』には厳然と大聖人の「4月28日」との御真筆が残されている。この一事をとってみても、4月28日のみに立宗会を修することが門下の道である”などと、相変わらず身延ばりの御真蹟偏重の戯論を述べている。当方が、御真蹟のない御書でも、例えば『開目抄』のように、御書のその意義内容を根本として尊重しなければならないと教えた意味がまるで理解できていないのである。貴殿らの頭の悪さ頑迷さには呆れ返る。」

とあります。御書のその意義内容を根本として尊重するというのは、偽書であろうがなかろうが、意義さえあれば御真蹟といっしょだという意味でしょうか。私が意義のある御書を書いたら、それは真蹟となるのですかね。元々石山には、御書は真蹟でなければならないという考えはありませんから、こんな結論付けが成り立つのでしょうか。

石山の教学ってちょっと壊れていませんか?

460:2002/09/03(火) 15:08
>貴殿ら……相変わらず身延ばりの御真蹟偏重の戯論を述べている。

大白法に、身延が御真蹟偏重であることを教えてもらった。偏重した方がいいんでねえの?、しないよりは。

461犀角独歩:2002/09/03(火) 16:10

> 相変わらず身延ばりの御真蹟偏重の戯論を述べている

これはこう言い換えることができます。

「相変わらず寛師ばりの偽書・真偽未決偏重の戯論を述べている」

真跡と偽書・真偽未決、どっちが重みがあるのかは自明です。

> …頭の悪さ頑迷さには呆れ返る

石山僧侶に向けられた言葉と思ったら、自分のことを言っているわけですか。天に唾するとはこのことですね。鏡を見て喋っているんじゃないんでしょうかね。もっとも学会僧など、問題外です。この人々が論じることはまったく話になりませんが。

> 石山の教学ってちょっと壊れていませんか

「ちょっと」は余計です。完全に壊れています。

> 御真蹟偏重…偏重した方がいい…しないよりは

仰るとおり。賛成です。

462五月雨:2002/09/03(火) 16:42
あ さん

>大白法に、身延が御真蹟偏重であることを教えてもらった。

ホンマですね。身延の方が大聖人様の直々のお言葉に触れようとしている訳ですね。さすがに物事を見る視点が違ってますね。鋭いです、勉強になりました。

463五月雨:2002/09/03(火) 16:54
独歩さん

>「ちょっと」は余計です。完全に壊れています。

す、すみません。ちょっとかなと思っていたのですが、完全では救いようがありませんね。その救い様の無い彼らが書いた文章です。

「すなわち日蓮正宗の血脈相承には、法体の相承と法門の相承があり、法体相承は『御本尊七箇相承』の「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」との御聖意からも明らかなごとく、年齢、学解等に関係なく、法体相承を受けられたその御内証には日蓮大聖人の御生命が直ちに宿られるのである。不信心な貴殿らにはその不思議が信じられないところから様々な疑念が生じてしまうのである。「我即法界・法界即日蓮」「事の一念三千」の甚深の義を深く信解すべきである」

「日蓮大聖人の御生命が直ちに宿られるのである。」ちょっと気持ち悪さを覚えるのですが、こんな事を大聖人は本当に説かれているのですか。

464問答迷人:2002/09/03(火) 19:13

横レス失礼します。

『御本尊七箇相承』は、保田妙本寺の相伝書です。ですから、代代の聖人とは、保田の歴代をさしていますね。なのに、どうして、大石寺の歴代に日蓮大聖人の御生命が宿ると言えるのでしょうか。

また、この文書を正しいとすると、保田妙本寺への血脈相承を認めることになり、保田の歴代の内証に、大聖人の御生命が宿る、という意味になります。そして、それは、大石寺歴代は無関係ですよね。

こういう文書の引用を『我田引水』とか、『バクリ』とか言いますね。質が良くないですね。

465五月雨:2002/09/03(火) 21:55
問答迷人さん

『御本尊七箇相承』は、保田妙本寺の相伝書なんですか!?
それはどうして分かるのですか。ずっと石山の相伝書だと思っていました・・・

466問答迷人:2002/09/03(火) 23:06

富士宗学要集第一巻33頁に「編者曰く房州日山写本等に依って此を写す」と有ります。房州とは、保田妙本寺の事です。

467犀角独歩:2002/09/04(水) 07:17

近年、日蓮宗学全書、本尊写真集が完成し、それまでの意味は完全に失しましたが、本来、本尊(漫荼羅)相伝書、口伝書、切紙相承と言ったものは、師弟子の関係を結ばない限り、絶対に聞くことも、見ることも、写すこともできなかったでしょう。

なお、中世以降、これら秘密相承、口伝の類は、希少性から金銭で売買されることもあったようです。しかし、明治以降、亨師が資料を蒐集する頃には学問的な気運の高まりで、これらの点が改善され、万人がそれを披見できるようになったことはよかったのだと思います。

いま話題に上がっている本尊七箇相承などは、特に本尊書写に係る相承書であるわけです。弟子のなかでも、継承者になるような特定の弟子にしか、継承されないものであったでしょう。

つまり、この相承書の写しが、石山にはなく、保田にあるということは、まさに問答名人さんが仰ることを意味するのであると思います。

また、それは漫荼羅書写が唯授一人の相承であるなどということがまったくの虚構であったことを意味することが、私どもにとっては最も重要な点でしょう。

468犀角独歩:2002/09/04(水) 08:22

五月雨さん:

> 「日蓮大聖人の御生命が直ちに宿られるのである。」ちょっと気持ち悪さを覚えるのですが、こんな事を大聖人は本当に説かれているのですか。

そんな馬鹿な(笑)
説かれているわけはないでしょうね。

もっともらしい偉そうな文体で書いてありますが、ぜんぜん内容がない。虚仮威し文章ですね。

だいたい、この文章でいちばん、そもそも間違っているのは「生命」という一言です。
真跡といわず、真偽未決書を含めても「生命」なんか説かれているところはどこにもありません。まったく全然、真面目に研鑽していない証拠でしょう、この文章を書いた人間は。真面目に、時代、文献考証をしたら、恥ずかしくて「生命」なんて言葉は使えなくなります。

澁澤氏の以下の指摘はもっともなのであって、こんな考証もなく、「日蓮大聖人の御生命」などと言って恥ずかしささえ感じない厚顔無恥な程度の悪さが石山のレベルかと思うと情けなさで腹も立ちません。

「文学者の鈴木貞美氏が「大正生命主義」という名で取り上げた当時の主だった思想傾向で、その生命主義的世界観を支える「神秘主義」の流行なのです。大正生命主義とは、鈴木氏によれば「日露戦争後から関東大震災に至る時代の思想・文化状況において、『生命』の語が氾濫し、『生命』がその時代のスーパーコンセプトになっていた現象を名づけたもの」と定義されています。現代もまた、「生命」という言葉が時代のスーパーコンセプトに押し上げられている状況にあるといえます。 生命という語は氾濫していますが、しかし生命が何であるのか未だ明確に定義されているわけではありません。そうした状況の中で宗教界においても伝統・新宗教を問わず、「宇宙生命」や「久遠の生命」と表現される「生命主義的世界観」が、きちんとした検討を通すことなく教義の中心を説明する口当たりのよい現代的概念になっているという現状があります。しかし、それは六十年前の神秘主義・生命主義の流行がただ無批判に反復されているだけかもしれないのです。ニューエイジの諸要素を教義に繰り込んだオウム真理教の事件以後の問題としても、ニューエイジを含む生命主義的世界観をどう捉えるかは大きな宗教的課題になると思います」(宗教と科学について−ニューエイジ批判を通しての一考察−渋沢光紀師)
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_07.htm

私の生命論は批判はかなり早い時期からでしたが、仏教的見地から、この点の、特に創価学会の非を突いたLibraさんの論考はお薦めです。つまりは、学会で醸造された生命論は、今なお依然として石山に影響を与え続けていると言うことです。

宇宙生命論は仏教ではない Libraさん
http://page.freett.com/Libra0000/z001.html

469五月雨:2002/09/04(水) 09:36
問答迷人さん

保田妙本寺という名前はよく目にするのですが、最初は石山の末寺では無かったのですか。あまり詳しく知りませんので、どういう経緯のあったお寺か教えて頂ければ幸いです。

470五月雨:2002/09/04(水) 10:09

独歩さん

大聖人様は生命を説き切られたお方だから、スゴイんだと教わってきました。日蓮正宗青年僧侶邪義破折班の壊れた連中も、大聖人様は生命を説かれていると思っている訳でしょう。では誰が教えたか、猊下ですよね。猊下もそう思っているのでしょうね。

>学会で醸造された生命論は、今なお依然として石山に影響を与え続けていると言うことです。

どうしては母体の石山が、信徒の考えに影響されるのですか。どうにも理解出来ません。法灯連綿七百五十年の歴史を誇る日蓮正宗の教学は、どこでどうなってしまったのでしょうか。

472問答迷人:2002/09/04(水) 18:16

五月雨さん

>保田妙本寺・・・・最初は石山の末寺では

日興上人の重須での弟子、新六の一人、日郷上人の開基です。日郷上人は、日目上人のお供をして日尊上人と共に42回目の天奏に参加しました。途中、日目上人が美濃の垂井でお亡くなりになられたため、日尊上人は日目上人の代理で天奏を遂げ、京都に止まりました。日郷上人は、遺骨や重宝を持って富士に戻りました。その時、すでに日道上人が大石寺第四世の座に着いていたため、日目上人の跡目争いが起こりました。結局、日郷上人は、遺骨を下之坊に収めて、重宝を持って安房の吉浜に法華堂を立てて妙本寺としました。その後、70年に渡って保田妙本寺と富士大石寺とは、蓮蔵坊の所有権を巡って係争状態が続きます。

戦後、一時期、大石寺の本山となっていましたが、今回の創価学会問題を契機にして、日蓮正宗を離脱しています。

473犀角独歩:2002/09/04(水) 18:50

五月雨さん:

日蓮聖人は生命なんか説いていませんね。
これは戸田さんの「仏とは生命のことだ」のバクりでしょう。
戸田さんの悟達がダメだと言ったのは石山でしたね。

生命を説いたというのであれば文証・理証・現証でも挙げて説明してもらいたいものですね(笑)

474顕正居士:2002/09/04(水) 19:37
興門八本山(開山)-現所属

大石寺(日興)-日蓮正宗
妙蓮寺(日華)-日蓮正宗(昭和25年合同)
北山本門寺(日興)-日蓮宗
小泉久遠寺(日郷)-日蓮宗
実成寺(日尊)-日蓮宗
要法寺(日尊)-日蓮本宗
西山本門寺(日代)-単立
妙本寺(日郷)-単立(昭和32年以降一時日蓮正宗に合同)

明治以降大石寺の所属

日蓮宗-分立→日蓮宗勝劣派-分立→日蓮宗興門派-改称→本門宗
-大石寺単立→日蓮宗富士派-改称→日蓮正宗(明治45年)

475いちりん:2002/09/05(木) 08:39
富士門流のいろんなグループのいまの勢力について、教えてください。
公称の会員数、お寺の数、指導教師数、機関紙の発行部数とか。

476いちりん:2002/09/05(木) 08:42
創価学会は、会員数一千万ということでしたか。
聖教新聞は、発行部数550万部。こないだ選挙では、公明党は800万票くらい獲得しましたか。
活動家は、200万人くらいなかなあ。

顕正会、法華講とか数も知りたいのですが。

477犀角独歩:2002/09/05(木) 15:11

顕正会は現在、80万人で、11月までに100万人達成と言うことではありませんでしたしょうか。もっとも大半は高校生で、責任者と勤行をして、数珠と経本を買って、サイン一つで入会という数取りでしょうが。

法華講は、この前、聞いたところに拠ると17万人ということでしたが、この根拠はよくわかりませんでした。

478顕正居士:2002/09/05(木) 15:14
平成12年度文化庁統計には
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r3-1.htm

日蓮正宗は教師747名、寺院教会数712、檀信徒数約34万とあります。平成7年の
統計では檀信徒数が約576万であった。だから、創価学会の会員数は約542万人
になる。
正信会は教師約200名、寺院教会約150といわれている。教師や寺院教会は数え
られる。檀信徒数の内容はよくわからない。宗教団体には年会費などが存在し
ない場合が多く、滞納による除籍がおこらない。仮に日蓮正宗の実檀信徒数を
上の統計の半分の約17万名と考えれば、正信会の檀信徒数は教師、寺院数から
の比例で約4万である。顕正会などの実会員数は推定のもとになる数字がない。

479五月雨:2002/09/05(木) 15:31
問答迷人さん

>すでに日道上人が大石寺第四世の座に着いていたため、日目上人の跡目争いが起こりました

日目上人がお亡くなりになってまもなくに、日道上人が第四世の座に着かれていたのだとすると、日郷上人が知らない相承書でもあったのでしょうか。

>戦後、一時期、大石寺の本山となっていましたが、今回の創価学会問題を契機にして、日蓮正宗を離脱しています。

末寺じゃなくて「本山」ですか?

この保田妙本寺には「万年求護の御本尊」があると聞いた事があります。その御本尊はどのような謂れがあるのでしょう。
ずい分前にウチの住職と話している時に「万年求護の御本尊」に触れて『にたあ』と笑ったのが頭から離れません。その時分は、日蓮大聖人様のご本尊は戒壇本尊以外にあるだなんて知らなかったし、保田妙本寺に「万年求護の御本尊」があると最近になって理解できたほどです。

それにしても石山は何故、保田妙本寺の相伝書『御本尊七箇相承』をまるで自分達のもののように引用するのでしょう。その神経が分かりません。

480五月雨:2002/09/05(木) 15:41
独歩さん

>生命を説いたというのであれば文証・理証・現証でも挙げて説明してもらいたいものですね(笑)

法華講の爺っ様に聞いてきます(笑)

481五月雨:2002/09/05(木) 17:25
独歩さん

今、ふと思ったのですが、「事の一念三千」は生命を説かれているのではありませんか?
それに勤行・唱題で六根清浄して、いつもきれいな生命でいる事が大切だと教わったと思います。これは石山でも言われていることだと思うのですが、私の記憶違いでしょうか。

482いちりん:2002/09/05(木) 17:49
大乗仏教のもっとも基本的な考えは
─「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょう・しつう・ぶっしょう)─
ということで、「生きとし生けるものすべてに仏性がある」という意味ですね。仏性とは、ほとけそのもの。

一切衆生ですから、「もろもろの生あるもの」で、人間だけではありませんですね。
で、この一切衆生が、もろもろの生あるもの、生きとし生けるものということで、すなわち生命ですもね。

あらゆる生命は、仏性がある。「悉有」というのですから、まったくイコールともいえますよね。
つまり、一切衆生悉有仏性というのは、すなわち「仏性とは一切衆生である」ということにもなります。

悉有ですから、もうすべてにわたって仏性である。
ありとあらゆるものが仏性である。仏性とは、すべてのものである。

というわけで、あらゆるものが仏である。宇宙が仏である。生命が仏である。
……とまあ、そういう理屈が成り立つのかなあと思うわけです。

しかしまあ、これは自分のなかで「実感」がなかったら、屁みたいな理論ですよね。
光を知っている人と、盲目の人が「光というものがあるのだ」と理屈でいうくらいの違いでしょうか。

でまあ、ともあれ戸田さんは、思いこみなのか実感なのか妄想なのかわかりませんが、「仏とは生命である」とつかんだ。
で、このキーワードをもとに、日蓮仏法をわかりやすく展開していった。
そして、その戸田さんのお話がわかりやすいので、日蓮正宗の坊さんたちも、顕正会も、もちろん創価学会も、得意になって使い出した。

483犀角独歩:2002/09/05(木) 18:22

五月雨さん:

> 「事の一念三千」は生命を説かれているのではありませんか

おお、こうきましたか(笑)
ほぼ、生命論の濫用はいちりんさんが書いてくださったとおりだと思います。

で、この一念三千ですが、これは言葉をよく見てください。生命三千ではないでしょう。“一念”三千です。これがすべてですね。一念に三千を観るということです。生命は三千に諸相があるなんてことを言っているわけではありません。一念が生命でしょうか。違いますよね。一念とは心の問題です。止観の序に

説己心中 所行法門 (己心の中に行ずる所の法門を説く)

というのです。では心が生命でしょうか。心は心です。生命ではありませんね。

要するに止観の原文に当たらず、一念三千を生命で解説したものから止観を読むと、すべて生命の解説に見えてしまうのです。固定観念というのは恐ろしいわけです。

大石寺系グループを私はカルトというわけではありませんが、カルトというのは教義、聖典をどのように読まなければいけないかという、「たった一つの解釈」を押しつけるものです。そして、この解釈を受け入れないと「地獄に堕ちる、悪いことが起きる、謗法だ」と鞭をふるい、反対に信じれば、「幸福になる、功徳がある」と飴を与える呪文をかけて、それ以外の一切の解釈を斥けるように操作するものですね。

「生命」という言葉を、石山系グループではそのように濫用していると、私は糾弾しているのです。

484五月雨:2002/09/05(木) 22:10
独歩さん

十(界)×十(界)×十(如是)×三(世間)=三千 と大草さんの著書「法華講員の基礎知識」小川只道師監修にありますが、この考え方は間違いなのですか。

485犀角独歩:2002/09/05(木) 22:35

434 五月雨さん:

反対にお尋ねしましょうか。五月雨さんの生命は3000にしか分類できないようなものですか。生物、取り分け人間の構造はそんなに簡単ではありませんね。違いますか。

生命体の設計図であるDNA、人間の遺伝指数はたしか3万から3.5万と言われています。細胞数は60兆です。思考パターンは3000などという、そんな小さな数であるはずはありませんね。

つまり、石山のいう「一念三千=生命」はまるで科学的な検証に耐えないことになります。では天台がいう三千は間違っているのか?と言えば、わたしは一概にそうは言えないと思います。

天台が言う三千は禅定、観法に当たり、自身の心の中を三千に分けて観よ、観た後はそれを三千と思うな、三千は一にして、また一にもあらずというのです。そのような禅定における観念観法の指南としてみ、思惟修習の手段とする限りでは間違いとは言えないでしょう。

しかし、「一念三千が生命の実相だ」などと言い出したり、死んだ日蓮の生命は板漫荼羅に宿っているなどと言い出せば、あれま、困ったものだというほかないことになります。さらにその生命が宇宙生命と一体であるとか、一念三千は宇宙生命の真理だ(そこまでは言っていないか言っているか知りませんが)などとなれば、もうほとんど誇大妄想の域に達した病理性を心配せざるを得ないことになります。いかがでしょうか。

486やーこ。:2002/09/05(木) 23:23
孤独な迷子さん、他
唱題は早口ではなく、ゆっくりするものです。
それから、大半の場合はやはり言葉の受け売りでした。
しかし、自分の場合他は自分の体験から元にして話して来ましたが…。
ということを考えると、一概には言えないようです。

五月雨さん
超遅レスすみません。しかも誤字ばかりでした。
最後の質問の回答ですが、頭の中から完全に「組織を切り離す」ということです。
ただそれだけです。危険も伴いますが。
組織のメンバーは例え自分の記憶から消去されそうになってもいつまでもどこまでも
追いかけてくることも多いです。なので難しいかもしれません。
私の場合は住んでいる環境を思いっきり変え、連絡もできなくする。それだけでした。

487:2002/09/06(金) 00:02
やーこ。さん:

頭の中から完全に組織を切り離すために、わざわざ住んでいた環境を変えたとは、大変な苦労があったみたいですね。
やーこ。さんは、その苦労の話を、いちど、誰かに思いっきり聞いてもらう必要があるように思えてきました。
身近に話を聞いてくれる人がいるといいのですが。

488:2002/09/06(金) 04:03
身近に話を聞いてくれる人がいるといいのですが、というのは、
難しい仏教の教義がカラむことなので、なかなか周囲の人には理解してもらえない、という意味です。
学校で知り合った友達程度では、「やーこ。の話、ムズい。何だかわかんなーい」と言われて終わりですからねぇ。

489やーこ。:2002/09/06(金) 05:53
あさんへ。
御心配なく。二人おります。
うち一人は私が入信させた中学の先輩で、もう一人はみなさんがよく知っている人です。問答迷人さんやさい角独歩さんではありません。
内緒です。

490問答迷人:2002/09/06(金) 15:11

五月雨さん 479について。

>日郷上人が知らない相承書でもあったのでしょうか。

もし、そのような文書を日目上人が残しておられたのなら、跡目騒動なんか起こらないですよね。大体、そういう文書は、そんな争いを避けるために残す物ですから、跡目騒動が起こったこと自体、日目上人が、そういう文書を残さなかった事の結果であると僕は考えています。

>末寺じゃなくて「本山」ですか?

そうです。大石寺が総本山、妙蓮寺が本山、妙本寺も、本山として扱われていました。

>この保田妙本寺には「万年求護の御本尊」があると聞いた事があります。その御本尊はどのような謂れがあるのでしょう。

日蓮聖人がご自身が上行菩薩で有ることを述べられた唯一の脇書きが認められています。保田では、この本尊こそ、日蓮聖人の出世の本懐で有るとしていました。

>それにしても石山は何故、保田妙本寺の相伝書『御本尊七箇相承』をまるで自分達のもののように引用するのでしょう。その神経が分かりません。

日蓮正宗は、大石寺こそ、日蓮聖人の唯一の正系門家であるという神話に固執していますから、日蓮聖人の相伝は全て大石寺に本来は伝えられた相伝であるはずだ、という根拠のない固定観念に取り付かれているのだと思います。ですから、日興上人に相伝されたとされる相伝書は、全て大石寺の相伝なんだと思い込んでいるのでしょう。その他にも、なんの根拠も示さずに、要法寺の相伝を大石寺の相伝で有ると言ってみたりしています。思い込みという事は恐ろしいなぁ、と思います。歴代の上人から上人に手渡しされてきたという相伝箱に、日蓮聖人の全ての御真筆の相伝書が収められているとでも信じているのでしょうかね。

491五月雨:2002/09/06(金) 23:36
独歩さん

法華講の爺様が言うには、「一念三千とは、瞬間の心の動きが、三千に分かれる、もっと細かく言うと八万四千に分かれるんだ、そこには十界互具の仏界があって、仏界の湧現こそ即身成仏が出来る、これが仏法の基本だ」と言ってました。
むかーしにそんな風に聞いた覚えがあります。でも法華講に入って聞いた記憶が無いのは・・・日蓮正宗の教義って一体何なんでしょう。あったっけ?私には何でも願いを叶えてくれるご本尊というのが教義だったように思います。文証・理証・現証はご勘弁ください。

492五月雨:2002/09/06(金) 23:47
問答迷人様

>日目上人が、そういう文書を残さなかった事の結果であると僕は考えています。

ニセモノでも本物でもそういう文書は何も無いのですか。それはおかしいですね。血脈が途切れてしまうのではないですかね。

>日蓮聖人がご自身が上行菩薩で有ることを述べられた唯一の脇書きが認められています。

それはすごい脇書ですね。深い意味のあるご本尊のように思われるものが、日蓮聖人の唯一の正系門家であるという石山が所有していないというのはどういうことなんでしょう。

>日興上人に相伝されたとされる相伝書は、全て大石寺の相伝なんだと思い込んでいるのでしょう

そんな思い込みが、文証・理証・現証を重視する石山にあるというのが恐いです。

493五月雨:2002/09/06(金) 23:59
やーこ。さん

やーこ。さんのレスは読んでて、スパイ映画みたいに思っちゃいました(笑)
どんな危険が伴うのでしょう。危険の伴う宗教はやめた方が良いのではと思います。それでも、日蓮正宗に固執するのは戒壇本尊に魅力があるのかな。今日も法華講の爺様と話をしていて思ったんだけど、はじめに戒壇本尊ありきで、教義がどんなにひどくても我関せずの爺様に、なんか違うんじゃないのと思ったのが、やーこ。さんにも当て嵌まりそうな気がします。
私なら、こんなこわい組織とは頭の中だけで切り離さずに、身も切り離しますね。
そんな信心、やってて楽しいですか?心に平安がありますか?

494孤独な迷子:2002/09/07(土) 01:17
アネモネさん

 >強い性格も持ち合わせていて、・・・・・

 それってとても羨ましい資質だと思います。優しさを支えているものは心の強さではないでしょうか。強さに裏打ちされていない優しさは一見優しさのようでも、ただの同情で終わってしまうこともありますよね。
 アネモネさんのその心の強さは、アネモネさんの大切な個性の一つだと思います。

 毎回、励まして頂いたり、アドバイスして頂いたり、その度に心も軽くなります。今気づいたのですが、こうした会話のやりとりで心が軽くなるというのも、ある種の「救い」に通じますね。
 以前、アネモネさんのレスに「何でも思うところを書いてください。」という趣旨のことがありましたが、このことだったのですね。

 宗教とは本来社会や人間を善導してゆくものだと思っていましたが、石山においては何か違っている感じですね。責任のある立場の人たちが、早く慈悲の心に気づいて貰いたいと思います。


 > なんか私、学ぶことばかり勧めてハッパかけてしまってますね。

 人間がのんびりしているもので、少しハッパをかけて貰った方がちょうど良いかも知れません。

495やーこ。:2002/09/07(土) 07:35
五月雨さん。

やってて楽しかったですよ…昔は。10万登山を過ぎる頃までは。
つまり、その時は自分が中高生ぐらいまでのときだったのですけれども、
周囲には、いろいろな境遇やある意味障害を持った方がいて、
それを克服すべく日々の唱題、勤行などで磨き合って行けました。
ある人は、精神に何らかの学習障害があった人ですが、
この人は次第に普通に生活できるようになりました。
今は亡くなっているけど、目の見えなかったおばあちゃん。
やっと、御本尊様が見える、というレベルにたどり着きました。
他にも、信心していてありえない不思議な出来事が次から次に出てくるという点
では結構楽しかったです。
が、今はお寺の参詣などで全然楽しくない。歓喜も無い。
人の悪口とか、信心している人同士がけなしあったりする姿。もう見てらんない。
たぶん、30万登山勧誘がきっかけだと思います。しかし、なぜそうなってまで
信じるかというと、この信心による「不思議」な力を自らも体験して、それを
信じているからです。だって、最後には成仏したいんだもの。
というわけで、これを回答とします。

496五月雨:2002/09/07(土) 09:32

やーこ。さん

>この信心による「不思議」な力を自らも体験して、それを
信じているからです。だって、最後には成仏したいんだもの。

不思議な力ってどのようなものだったのですか(興味津々)ここに書ける範囲内で結構ですので、教えてもらえませんか。
最後に成仏したいというのは、死んでからという事なんですか?

>これを回答とします。

これ以上はもう答えませんという事では無いですよね。お答えお願いします。楽しみにしています。

497問答迷人:2002/09/07(土) 21:49

五月雨さん 

>ニセモノでも本物でもそういう文書は何も無いのですか。それはおかしいですね。血脈が途切れてしまうのではないですかね。

日目上人から、日道上人への譲り状ですか。僕は、それは勉強不足なので見たことがありません。どなたか御存知ならお教えください。

>それはすごい脇書ですね。深い意味のあるご本尊のように思われるものが、日蓮聖人の唯一の正系門家であるという石山が所有していないというのはどういうことなんでしょう。

日目上人が42回目の天奏の時に、京都への旅に持参されて、途中で亡くなられたので、日郷上人が美濃から持ち帰り、大石寺には渡さず、そのまま保田に持参され、保田の重宝になったわけですね。

498孤独な迷子:2002/09/07(土) 23:08
やーこ。さん

 初めまして、よろしくお願い致します。

 > 唱題は早口ではなく、ゆっくりするものです。

 ご指摘有り難うございます。第59世日亨上人の唱題についての御指南に
  「お題目の唱え方は、身に油断怠りなきよう、意に余念雑念なきようにありたい。口より出す声は、早口であったり、粘口であったりしてはならぬ、落着いて確固と、尻強に中音に唱えねばならぬ。・・・」
とありますね。

 > しかし、自分の場合他は自分の体験から元にして話して来ましたが…。

 差し支えなかったら、その体験について教えてください。

 お母様のこと別のスレッドで知りました。お心をお察しいたします。

499やーこ。:2002/09/08(日) 07:12
おはようございます。すごく眠いので頭が良く回りません。
雨が降ったらミニオフ会参加できるのに…。

五月雨様、孤独な迷子様:
59世の御指南どおりです。そういう風にすれば、洗脳効果(?)になることは
間違い無くないです。が、今の宗門、法華講の唱題はどうでしょう???
早口でアクセントポイントが無い、ということに気が付いてくれると思います。
また、腹式呼吸により、かえって体にいいですよ。
それが組織でできないということは問題だと思います。
体験に付いては、本日は仕事がありますので、後日書き込み致します。

ねむいです…。

500アネモネ:2002/09/10(火) 20:55
孤独な迷子さん

ご返信が遅くなってごめんなさいね。

>アネモネさんのその心の強さは、アネモネさんの大切な個性の一つだと思います。

なんかとても良い性格のように書いて下さって、ありがとうございます。だけど、私は少し表現を間違ってました。強い性格とは、「心の強さ」というよりは、「気の強さ」なんですね。それでいながら、実は気が小さいところもあって、そうかと思えば、強気になったりと、こう書いていると、とにかく感情の起伏が激しいという、厄介な性格がおわかりになるかと思います(笑)

>強さに裏打ちされていない優しさは一見優しさのようでも、ただの同情で終わってしまうこともありますよね。

孤独な迷子さんの言われる、本当の強さと優しさというのは、やはり大聖人様のなかに見てしまいますね。この尊敬と恋慕の気持ちはお寺に行かなくなった今も、私の心の中に素朴な信仰として変わらなく存在しているなぁと感じています。

>以前、アネモネさんのレスに「何でも思うところを書いてください。」という趣旨のことがありましたが、このことだったのですね。

私の体験上、掲示板に参加して書き込むことは、悶々とした心の解放に通じる行為だなぁと思えたんですね。
私はこの一年半ほどを振り返ってみて、この掲示板に書き込むことで、随分と意識改革されてきたなと思うんです。私は、頭の回転が遅くて、「喋る」ということはとても苦手なのですが、「書く」という行為のほうが好きで、そうすることで雑然とした考えや思いを整理する働きがあるなぁって実感するんですね。時には批判や反論も頂きますが、でもそうしたやりとりの中から意識の変革が出てくるんだってこと、この掲示板を通して体験したことだったんですね。

お寺の中では、なかなか自分が考えていることというのが言いにくいものです。そこにいろんな思惑やしがらみが渦巻いているからかもしれません。非常に建前を重視した人間関係が出来ているなぁと思います。そこを一歩踏み込んで、心の中をさらけ出した人間関係を築こうと思っても、どうしてもいつしか組織内の派閥争いに巻き込まれてしまうんですね。また洗脳された者同士の人間関係では、向上的な意識の変革には至らないものです。少しでも洗脳から目を覚まし始めたとしても、即座にその芽は否定され摘まれてしまうことでしょう。そのときには、地獄に落ちるという脅しに似た言葉の暴力が伴いますから、気の弱い人は、それだけで精神衛生上とても良くないものであり、そのまま心乱された状態では健全な生活そのものが阻害されてしまいます。
一般的な人間関係だって難しい昨今ですが、そこへもってきて「仏法の為」という固定化された価値観のもとで、単純に意思と行動が既定されてしまうような組織での人間関係は、歪なものにならざるを得ないと思いました。そこにいる人たちが悪いのではなくて、そういう仕組になってしまっているのが問題であり、それが組織信仰なのだということを、この掲示板を通して、ようやく私も気がついたんですね。
その気がついたことを素直に認めることは、何よりも自分の為なんですね。自分を大切にしようと思うならば、組織信仰から離れることが最善なのだとわかりましたし、何もそれが信仰を捨てることではないわけですから、その認識をしっかり持っていれば、組織信仰を離れることはなんでもないことなんですね。まずは自分の心の建て直しが大事ですね。

掲示板での人間関係には何もしがらみがありません。建前よりも本音で語れるわけです。今まで口に出来なかったことを思い切って書いてみると、実は自分と同じことを思っている人がいたんだということに気がつきます。もしかすると遠く離れたところに住んでいる人なのかもしれませんが、それでも自分の考えと共鳴する人がいるということは、非常に心強いものです。またそれを読んで別の方が、また同じことを共鳴し、孤独な迷子さんのようにいつしか書き込みをされるようにもなるかもしれませんね。非常に小さな積み重ねで、しかも言葉の限界も確かにありますが、でもそれ以上に言葉にこめる自分の思いの力の大きさにも気がつきました。
孤独な迷子さんも今、その心の作用に気付かれていること、私は喜びを共鳴します。きっと孤独な迷子さんは、私なんかより信心はずっと先輩なのではないでしょうか。そんな若輩の私の言葉を心に留めて頂いて、本当に嬉しいです。

501アネモネ:2002/09/10(火) 20:56
(つづき)
>宗教とは本来社会や人間を善導してゆくものだと思っていましたが、石山においては何か違っている感じですね。

本当に私もそう思います。善導しているとはとても言えないですね。30万登山が近づくにつれて御説法の内容が貧弱になっていき、何を説くにしても折伏・折伏と我田引水。そんなことで頭数を煽らなくても、実社会の中で苦しみもがき、潜在的に信仰の救いを求めている人はたくさんいるんですね。
自分の教団の世帯数のことよりも、巷で苦しむ人々の数のほうを思い知ってほしいです。年間3万人以上の自殺者が出ていますし、また連日のようにいたましい殺人事件が起きています。ふと報道を聞き流しているうちに、あーまたかと段々感覚が麻痺していくのが恐ろしくもあります。だけど、自殺した人の家族、殺された人の家族、殺した人の家族、そして死んでいくしかなかった本人、また殺人者本人、どれほどの苦しみの中を生きているのかと心を寄せるとき、宗教の力を真に信じる宗教家であるならば、この巷の姿をなんとかしようと慈悲の気持ちを奮い起こして人々に心を砕いてほしいものです。
ここでいう宗教家とは、信徒のことではなくて、聖職者(僧侶)のことですね。厳しいことを言うようですが、そういう心を持ったお振る舞いをしてはじめて、供養を受け生活が賄えられる立場なのではないかと思います。
またそのような慈悲の振る舞いの結果に導かれた数字が30万であるならば、立宗750年も心から共に祝えるものであったと思います。しかし残念ながら、そんな経緯の結果の30万ではなかったですね。信徒の犠牲の上に成り立った、体裁だけの上げ底30万登山です。本当にいまだに席を残す者として恥ずかしいです。

仏教では、出来るだけ怒りの気持ちは持ってはならないそうですが、だけどこの怒りばかりはどうしても私は心に留めて、忘れたくないと思っているんです。それが私の持ち前の、厄介な気の強さなんですね(笑)

502やーこ。:2002/09/11(水) 07:03
五月雨さん、その他の方々

ごめんなさい!
質問の回答が今忙しすぎてかけてないです!
箱根帰ってから書きます。

503五月雨:2002/09/11(水) 08:58
やーこ。さん

質問の回答なんていつでもいいですよ、そんな事考えずに
箱根で楽しく遊んでね。どうぞ、ごゆっくり。

504いちりん:2002/09/11(水) 09:34
>仏教では、出来るだけ怒りの気持ちは持ってはならないそうですが、だけどこの怒りばかりはどうしても私は心に留めて、忘れたくないと思っているんです。

というアネモネさんのことばから、考えてみたのですが。
仏教では、「怒るのはよくない」という教えはありますよね。怒ってしまうと、心が汚れて煩悩が増大して、苦しむのは自分だからということだと思います。

といっても、怒るという心はどうしようもないわけですよね。で、わたしは、いつも思うのは、
 ──「怒りが出るときは、自己観察のチャンス」──
と思っています。

人生の局面を降りかえると、怒りが生じたときは、数限りなくありますよね。些細なことでも怒るし、裏切られたと言っては怒り、約束を破られたといっては怒り、やかましいといっては怒り、ともう膨大な怒りがあります。

で、怒るときは、そのものに対して、怒っているようだけど、じつは、そうでもないことがあります。つまり、怒る対象の理不尽さとかどうしようもなさは、たまたま
  ──怒りの引き金──
に過ぎないんじゃなかろうかと。

で、人生を振り返ると、「ああこんなふうにして怒ることがあったなあ」「怒ったあとは、かならずあんなふうになったなあ」という、ひとつの
  ──怒りのパターン──
というものが、あるんだと思います。

ほんとに、おもしろくて、観察すると「怒りに至る脚本」「怒りのあとの感情の着地具合」というのがありまして、そこに「怒るパターン」があるんですよね。

で、その「いつものパターン」というものに気づくと、「おお、きたきた。またきくたか」というふうに余裕が生まれまして、そして怒りをうまく処することができるかもしれないし、怒りを処することができなくても、怒りによって、自分というものの新しい発見があったりしますよね。

で、いくらお題目を唱えても、活動しても、人間がなかなか成長しないということがあるとしたら、ひとつには、この「自分の感情のパターン」に気がつかないからじゃなかろうかとも、思うわけです。

(この投稿は、アネモネさんに対してどうこういう目的じゃなくて、アネモネさんのことばか触発されて、ふと浮かんだわたしの感想ということです)

505いちりん:2002/09/11(水) 10:37
補足です。

成長しないという意味合いは、「おんなじことを繰り返してしまう」ということもありますね。また、いつもの
 ──「轍」(わだち)──
にはまってしまうということです。

ブッダの探求は、この「轍」(わだち)にはまつてしまうことからの、解放にありました。
この「轍」とは、つまり
  ──輪廻──
ということですね。おんなじパターンで、生きてしまう。そして、死んでも、またおんなじパターンを繰り返す。そのおんなじパターンなのことを、別の観点から言うと、
  ──宿習(しゅくじゅう)とか習気(じっけ)──
などと訳されます。どうしようもない生きるうえでの傾向性みたいなものですよね。

で、仏道修行というのは、この宿習とか習気を、根本的にクリアーしてしまうことが目標なのかもしれません。

そのことは、ただお題目を唱えるとか、やみくもに活動しても、なかなか難しいというのは、身近な人間を観察すれば、容易にわかりますよね。なかなか人間は、変わらない。おんなじことばかりやっている。人によっては、信仰するとますますヒドくなったりする。ますます頑なになって、柔和さがなくなる人がいる。

そこで、ブッダは、やみくもにお題目を唱えろとか、折伏しろなどとは言いませんでした。どういう修行法を提案したかというと、
 ──自己観察、気づきの道──
であります。

このことを、
 ──念(サティ、つまり気づき)とか観(ヴィパッサナー、つまり自己をよく観ること)──
ともいうんじゃないかと思います。

日常生活の中で、自分の感情のパターンに気づきなさいよ、気づいた時点で、それはもう超えていくことができると。それが、わたしがいま探求している、ブッダのセラピーというような世界です。

506アネモネ:2002/09/12(木) 00:27
いちりんさん

>──怒りのパターン──
というものが、あるんだと思います。

まったく、その通りなんです。
「おお、きたきた。またきたか」というところまでは、私にも自覚があるんですね。それを仕事のときなどは、背中にしょってるものがあるので、たいていは我慢してるんですね。ところがそれでも、どこからともなしにGOサインが聞こえてくるときがあるんです。
それこそ別のスレッドでも書きましたが、クレームを言わなければならないと判断してしまった瞬間なんかそうですね。お寺に対するクレームも同じです。
そうなると、もうなんだかわかりませんが、どこからともなしに言葉と理屈が溢れ出てくるんです。私ってこんなだったっけ?と思いながら、いやこれが本当の私なんだ!といった感じでどんどん語気が強くなっていくんですね。

>怒りによって、自分というものの新しい発見があったりしますよね。

確かにそうですよね。
人間関係でいうと、まず怒りで損うもの大きいですね。だけど、それを乗り越えられると、かえって仲良しになれたりする場合もあります。そうなると、今度はそのまま仲良くしていたいから、なるべく怒りの感情は抑えるようになりますね。以前ならば怒っていたようなことでも全然平気で、むしろ相手を尊重し大切にしようという気持ちのほうが勝ります。
ところが、それがもっと親密になってしまうと、今度は逆に遠慮がなくなってこれまたイケイケGOサインが出やすくなったりします。私の経験からすると、この場合がエスカレートしていくと最も危ないなぁと思います。そこで関係が破綻した場合は、なかなか修復できない場合もあるかもしれません。

人間関係って、その距離感って絶対に大事だなぁと思います。夫婦や親子、兄弟、恋人、友人、どの場合もそうかもしれませんね。
そんな人間関係を豊かに構築するためにも、自分の心の状態の観察こそ、とても大事なことなのですね。


>──宿習(しゅくじゅう)とか習気(じっけ)──
などと訳されます。どうしようもない生きるうえでの傾向性みたいなものですよね。

これは、「業」にも近いものでしょうか。業とは「心の傾向性」と言っていた人もいました。そういうのって確かにあるなぁと思います。

> ──自己観察、気づきの道──
であります。

人生において、最も長い付き合いは、自分自身ですものね。自分に最大の関心をもって心を眺めていく修行って、本当は一番人生を面白くまた楽しく、そして幸せに感じさせるものかもしれませんね。怒ってしまう自分に学ぶことと、そして発見、確かに大きいです。

507いちりん:2002/09/12(木) 09:27
「業」(ごう、カルマ)というのは、いわば「おこない」なんでしょうね。
その「おこない」は、身体的な行為、喋ったこと、さらには心で考えたことも、入るようです。

その「おこない」は、次の「おこない」に連鎖しますよね。そしてまた、次の「おこない」にと、無限につながっていく。
死んでも、その人の「おこない」が、次の生命に更新されるときでも、つながるというわけです。

よく「自業自得」といいますけれど、「自分がつくったおこないは、自分で受ける」わけですよね。
「与えたものがかえってくる」ともわたしは解釈してますけど。
ですから「かえってきたものは、自分が与えたものだ」ともいえましょうか。

「いまのわたし、いまの境遇、いまの環境、いまのもろもろの現実」は、「自分自身が与えたもの出有る」「自分が作り上げたもの」であると。

で、薫習とか習気というのは、そういう「おこない」(業)をしてしまう傾向性ですよね。「クセ」みたいなものでしょうか。
これ、人間ですと、かならずありますよね。双子の兄弟でも、それは違うから、環境によってつくられたと言うよりも、持って生まれたものというか。さらには、やはり過去世からのえんえんとつづいたもの、かもしれないですね。

で、この「クセ」がほんとうに「くせ者」で、クセのために、いろいろと苦労してしまう。
ああ、やっぱりおんなじことをやってしまったよ、いつもこんなふうになるよ、というのがありますね。それって、クセが作用していますね。

だから、自分のクセに気づいていくのが、とても大切だなあと思うんです。
「気づく」というのは、まさに、気づくわけですね。
しつけとか訓練というのは、あともどりしますけど、気づきというのは、後戻りしないんですね。
ここがおもしろいですね。

努力して頑張って修行するという流れと違うところがあるんだと思います。
むしろ、「気づく」というのは、頑張りとか努力とは、無縁かも知れませんです。

気づくことがなくて、頑張って努力して、すごい修行をすると、かえって難しくなるようです。とくに宗教は、正しいことをしているという思いこみがきついですから、かえってへんなものがくっついて、肝心の自分自身の気づきがない人間になったりするような。。

508五月雨:2002/09/12(木) 10:05
いちりんさん

>持って生まれたものというか。さらには、やはり過去世からのえんえんとつづいたもの、かもしれないですね。

三世の生命って本当にあるのですか、お釈迦さんはそう説かれているのでしょうか。
えんえんと「クセ」が続くと考えると嫌になってしまいます。

509いちりん:2002/09/12(木) 10:56
五月雨さん

>三世の生命って本当にあるのですか、お釈迦さんはそう説かれているのでしょうか。

わたしは、このいのちが、過去世にもあって、死んでも来世にも続くかどうかというのは、確信が持てないですね。まあ、なんとなく、生命は過去からも続いてきたし、来世も続くとは考えています。で、これは誰人もわからないことなんでしょうね。

で、お釈迦さんが、三世の生命を説いているかどうか、ですが。
これは、もう原始仏教の大前提なんですね。

生命は、一回限りじゃなくて、無限の過去から無限の未来に続いていく。
そして、いいことをすれば、いいところに生まれる。悪いことをしたら、悪いところに生まれると。

しかし、どんなにいいことをして、天界に生まれて神々の仲間になったとしても、所詮は「苦」である。「三界は、みな苦だ」というのが、お釈迦さまの洞察です。

それで、この生命の輪廻から、脱却しなければ、苦から逃れられないと悟ったんでしょうね。「三界」という世間から、出なくちゃいけない。
生命の輪廻からの脱却が、「解脱」であり「涅槃」ということです。
これが「四諦」という教えの基本ですね。

で、お釈迦さんは、「輪廻する根本原因」を洞察しました。
それが「十二因縁」ですね。まあ、かんたんにいうと「執着」があるから、輪廻するということになります。

で、その「執着」を離れれば、輪廻することはない、解脱できるということです。
しからば、その実践法はあるのかというと、それが「八正道」ということになるわけです。

ではその、「八正道」はいかにして実践するかということになるわけですが、そのなかに「正念」というのがあります。これは、「いつもちゃんと、自分自身に気づいている」ということです。

でまあ、この「気づき」が、輪廻を超える大きなポイントであると。わたしは、そのように思っているんですね。

>えんえんと「クセ」が続くと考えると嫌になってしまいます。

そうですね。えんえんと、考えると、なかなかしんどい。
けどまあ、クセ=わたし、ということですから。そういうクセのある自分を、ひとつひとつ解きほぐしていくというのも、これまた楽しいんじゃないかと思うわけです。たぶん。

まあ、自分の思いこみが、ひとつひとつ外れていく。しがらみが、ひとつひとつ取れていく。すると、ひとつひとつ、自由になっていく。ラクになっていく。いっぺんには、ならんのでしょうけど。だから、それが楽しい、面白いということでもあるかも。。

510孤独な迷子:2002/09/13(金) 23:30
アネモネさん

 アネモネさんが普通の人だと思って安心しました。これまでのレスのやりとりで、すごい人なのではないかと勝手に想像を膨らませていました。
 感情の起伏が激しいと言うことですが、私もそのような人間です。でもそれって言葉を換えれば、感情(感性?)が豊かと言うことですよね。そしてそのこと自体を自己観察できるというのは、冷静なもう一人の自己が、或いは、自己の一部である客観的な心の部分が存在していると言うことでしょう。だから自分を内省したり出来るのではないでしょうか。もっと言えば、その客観的な心が主になって、感情の部分を従えられれば人格的な向上も望めるのではないかと思っていますが・・・。
 実際、私の所属組織の中にも気だけは強くて思ったことをダイレクトに言ってしまう人がいました、古い人は聞き流していましたが、新しく組織に入って来た人はとても傷つけられたと言うこともありました。しかし、当の本人は自分の発言を忘れているのか、人の心を傷つけたということには気づいていないようです。こういう人格と「私は正しい信心をしている」という信念が合体すると本当に怖いもの知らずになるようですね。当に「鬼に金棒」という感じです。周りの人たちも何も言えませんでした。

 > 孤独な迷子さんの言われる、本当の強さと優しさというのは、やはり大聖人様のなかに見てしまいますね。

 最近、私は「御本仏日蓮大聖人」というより「人間日蓮聖人」という見方になりつつあります。その方がより近くに聖人を感じられるように思えます。「御本仏」と「人間(凡夫)」との間には、「神」と「人間」ほどのそれではないですが、やはり隔たりというものを感じます。これは私の主観的な感じ方かも知れませんが。
 聖人在世の時代、世相は大変なものだったと聞いていますし、また御書の中にもそのような記述があったと思います。それで「この世の苦しみをどうしたら救えるのか」というのが聖人の胸に去来したのでしょう。それが大きな動機となって、真の仏法を求められ、法華経に至り、寿量品の文底に秘沈された大法に行き着いたと言うことなのでしょう。
 その聖人の中に大きな慈悲を感じられますし、その道程において様々な障害を乗り越えられて来たという中に心の強さを感じています。
 でもこのような人たちは他にもいますね。釈尊もそうかも知れないし、イエスもそうであったのだろうと。また最近では、マザーテレサなどはそういう類の方ではなかったのかと思っています。

 > そこへもってきて「仏法の為」という固定化された価値観のもとで、単純に意思と行動が既定されてしまうような組織での人間関係は、歪なものにならざるを得ないと思いました。

 ここはとても大事な点だと私も思います。抑も人間関係など成り立たないのではないでしょうか。例えば、一見その関係がうまくいっているように見えても、それは組織信心という土俵の上での話です。もし組織に対しての疑問など投げかけたら、とたんにその関係は崩壊してしまうでしょうし、私の場合は、無視されました。この掲示板で勉強させて頂いたことや、それまで自分の中でくすぶっていた疑問などを突き合わせてみれば、この組織は普通ではないかも知れないとまで思っています。

 > きっと孤独な迷子さんは、私なんかより信心はずっと先輩なのではないでしょうか。そんな若輩の私の言葉を心に留めて頂いて、本当に嬉しいです。

 信心歴だけはアネモネさんよりあるかも知れませんが、信心という点ではアネモネさんの方がよく勉強なさっているなと感心させられています。

 この掲示板に来てレスを読ませて頂いて感じたことは、皆さん、独歩さんにしても、いちりんさん(初めまして、よろしくお願いします。)にしても、五月雨さん、アネモネさんにしても、ある部分を超えた上で、自分で道を探してみようと言う志を持っているんだなと言うことです。
 私の場合は、その越えるべき部分で消化不良を起こしてしまい、その処方箋を探している最中でしたので、ここで知ったことは少々ショックなこともありました。

 > 宗教の力を真に信じる宗教家であるならば、この巷の姿をなんとかしようと慈悲の気持ちを奮い起こして人々に心を砕いてほしいものです。

 組織のトップの人たちは本当に宗教の力を信じているのかどうかはなはだ疑問です。信じているのだったら、教えから外れるようなことは出来ないだろう思いますが。

 この30万総登山も個人的には、何かしっくりきませんね。

511アネモネ:2002/09/16(月) 09:41
孤独な迷子さん

>アネモネさんが普通の人だと思って安心しました。

ついつい自分を良く見せようという意識が働いて、レスを書いてしまうとこがあるのかもしれないなぁと思います。私自身も勘違いし始める前に、孤独な迷子さんにご理解頂けて、ホッとしてます(笑)

> もっと言えば、その客観的な心が主になって、感情の部分を従えられれば人格的な向上も望めるのではないかと思っていますが・・・。

本当にそんなふうに向上していきたいとですよね。私の場合、冷静な自己がある前に、失敗を経て、痛い目にあってようやく気がついたという場合が多くて、いちりんさが書いてらした、「業=行いの傾向性」っていうのをほとほと感じてきたんですよ。

>当の本人は自分の発言を忘れているのか、人の心を傷つけたということには気づいていないようです。

それこそこのような傾向性って講の中で多く見受けられますよね。もう、住職や猊下や宗門に対しては、頭を地べたにこすりつけるほどへへーって感じで平伏すほど低姿勢でありながら、かたや信心していない人や信徒同士でさえも蹴落としても平気という態度の違い。私は、自分のお寺だけが特別、修羅の状態なのかと思っていたんですね。よく私のお寺の人はこう口にしてました。「このお寺は本当に宿業が深いし、そこに所属している私たちも同じで、それも因縁なのよね」と、諦めにも似た言葉を吐いていたものです。だけど、それは何もたまたま私のお寺だけの特別な状況ではないということが、この掲示板でわかったんですね。どうも、どこのお寺も同じような問題を多かれ少なかれ抱えているんだ。それを知っただけでも、大変大きな意識変革につながりました。

>こういう人格と「私は正しい信心をしている」という信念が合体すると本当に怖いもの知らずになるようですね。

こうなってしまうと、誰からも忠告されることはないですから、勘違いのままどこまでも暴走していくんですよね。本当に怖いです。私のお寺では、今、そのような状態の人が、講頭になっています。話しに聞くと、かなり講の中はしんどいようです。

>最近、私は「御本仏日蓮大聖人」というより「人間日蓮聖人」という見方になりつつあります。

あー、孤独な迷子さんも、すでにそうなのですか。大聖人様と記しましたが、実は私も、もう「人間日蓮聖人」で捉えてます。聖人の生き生きとした人間性を、同じ人間として追い求めてみると、本仏と拝していたときとは違ういろんな発見がありますね。かえって糧となるものも多い気がします。それが、信仰を求める心の旅になるのかなって思います。

512アネモネ:2002/09/16(月) 09:42
(つづき)
>でもこのような人たちは他にもいますね。釈尊もそうかも知れないし、イエスもそうであったのだろうと。また最近では、マザーテレサなどはそういう類の方ではなかったのかと思っています。

私も全く同感です。その時代その時代、また風土が違うその土地その土地で、慈悲に満ちた人や、愛に生きた人がいるんですよね。名前を後世に残していない人にもいらしたかもしれませんね。もしかしたらそんな人は今もどこかにちゃんといらして、人々に心を尽くしていらっしゃるのかもしれませんよね。

>私の場合は、無視されました。この掲示板で勉強させて頂いたことや、それまで自分の中でくすぶっていた疑問などを突き合わせてみれば、この組織は普通ではないかも知れないとまで思っています。

なにもかも、よーくご覧になってきていらっしゃるんですね。
実は私は、ある所化さんの目に余る素行について忠告をしたことがあったんですね。当然のことをしたつもりでしたが、いろいと行き違いもあって私はそのことでお寺の中で一部の人から無視されるようになりました。幹部の中心的な方々とその取り巻きの方々でした。その方々に私が何かをしたわけではないのです。なのに、非常に露骨な態度で無視されました。なにか気にいらなかったのでしょう。
そうした経緯とは関係なく、掲示板で大石寺のまやかしがわかってきたことで、ちょうど30万登山が始った頃からすっかりこの組織がいやになりお寺に行かなくなったんです。すると、かつて私に露骨な無視を決めていた方がお電話をかけていらっしゃるんですね。そして決まって言うことは、「いつも心配してるのよ。何かあったら相談に乗るからね」とこうです。別にこの方々に心配して頂くようなことも、相談するようなこともないのですが。こういうのなんて言えばいいんでしょう。悪いですが、なんだか節操がないと思ってしまいました。人を傷つけたことは都合よくすっかりお忘れになっておられるんでしょうね。また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。
結局は、頭数を揃えるため、そして自分が活動しているという既成事実のための、マニュアル文句をただ口にしているだけの、心のない虚しい言葉に響きました。

>信心歴だけはアネモネさんよりあるかも知れませんが、‥

やはりそうでしたか。今ごろになって、恥ずかしくなってきました(笑)
でも、そんな私にレスを続けてくださって、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
そうそう、別のスレッドで拝見しましたが、孤独の迷子さんは埼玉なんですね。実は、私も埼玉なんですよ。いつかオフ会などで、お目にかかれるといいなぁなんて思いました。

>組織のトップの人たちは本当に宗教の力を信じているのかどうかはなはだ疑問です。信じているのだったら、教えから外れるようなことは出来ないだろう思いますが。

本当にそうですね。信じている振りをしているようにさえ思えます。しかも、それを見ている他の信徒も、実はいろんなことをよーく見ていて、従っている振りをしているような‥。もしかすると仮面信心の組織なのかもしれませんね。だけど、こうでなきゃいけないという信心と組織の形というものがあって、やはり固定観念ですね。それが強くて身動きがとれず、その形のために、大事な人間性を捨ててその振りに徹している。その振りの形が信心だということになってしまっている。まどろっこしい説明になってしまいましたが、なにかそんな感じもしたりもします。

513アネモネ:2002/09/16(月) 09:43
(つづき)
>この30万総登山も個人的には、何かしっくりきませんね。

本当に同感です。私はとうとう参加拒否になりました。ですので、五月雨さんの生々しいレポート、とても貴重に読ませてもらいました。
入信して7〜8年ですが、30万登山のことは信徒の大きな目標として掲げられた所へ、その意味をよくわからないまま入信したんですね。徐々に信心が深まっていくものの、年々、その数字に講をあげて信徒が煽られ踊らされていく様子がとてもチグハグに感じてきました。私のことを仲間に入れてくれた講の人々が、徐々に徐々に人間性を失っていく姿を見てきた7〜8年だった気がするんです。
その数字のために、多くの人が入れ替わり幹部になりましたが、生活や仕事を犠牲にし、そして最後は人間性とともに自分を見失っていく。そして同時に心の奥底には、疑心暗鬼とともに怨執みたいなものも芽生えてしまう。その頃には顔つきまで変わっていかれます。これが、幹部のたどる道のように思えました。
結局は、心に余裕がなくなってしまうんですね。私は組織とは別に、そんな心の常態になってしまったことを経験したことがあるのですが、そこから脱却して健全な心を取り戻すには、そのグルグルの渦から物理的に逃げ出すしかないんですね。逃げることは決して卑怯でもなんでもなくて、自分を大切にすることなんだと、そう思うんです。離れて健全な心を取り戻すと、かつて苦しんでいた自分の状態が冷静に見えてくるんですね。

先日、たまたま道で地区長と二度もバッタリお会いしました。一度目は道を隔てていたこともあってご挨拶を避けられてましたが、二度目は至近距離で避けるわけにもいかなかったのでしょう、いきなり「30万行かないの?」これがご挨拶でした。もう、普通のご挨拶も出来なくなってしまわれているんですね。この方、壮年部の方のお葬式の式場でお目にかかったときも、いきなりこのご挨拶だったんですよ。ご自分ではそれが正しいご挨拶になっているんでしょうね。悪い人ではないんです。真面目な方なんですね。なのに組織信心に真っ直ぐに生きているために、とうとう奥さまと子どもさんは出て行かれたそうです。本人は自分の信念で信じているからまぁそれはいいとしても、家を出て行くしかなかったご家族はさぞかし情けなかったことと思います。何のための仏法なんだろうなぁと思いますね。大石寺よりも自分の家族を下に置いてしまう信心って、本当に成仏の道なのかなって思います。こういう状況に陥ってしまっている人、またその潜在的な予備軍の人がどれほどいるだろうかと思うと、お寺を離れたからといって決して無関心でいてはいけないなと思い、こうして掲示板に参加していこうと思っています。

514犀角独歩:2002/09/16(月) 18:45

ここの掲示板でも、ずっと長いこと30万登山が話題になっているわけなんですが、なんでこんなことが大騒ぎになるのか、一般からすれば不思議なことですね。

30万登山に行く=信心があるという図式がここにあるようで、インスタントな信心の証が目先のニンジンになっているわけですね、これは。

法華講員に限らず、学会員もそうですが、「いかに自分が信心があるのか」を証明するために、組織が提示した信心の証明法を疑うこともなく夢中になって実行している構造があるわけですね。

法華講であれば、30万登山、供養、学会であれば、それに投票依頼、新聞啓蒙、書籍販売、民音の勧誘まで含まれ、顕正会も共通するのが、朝晩の勤行、折伏。これらは、みな信心の証明として用意されているわけです。各人が信心ある証明となる実践項目はしかし、組織に縛り付け、労働力と金銭を差し出す形で具体化される、信者は一所懸命、自分が信心があることを、周囲の人間にアピールするために熱心になっていく。そして、誰により自分自身に対して、信心がある証明をしようと躍起になっているわけですね。

しかし、こういうトリックに引っかかること自体、要するに信心なんてないからでしょう。そして、構造的には信心が労働力と金銭拠出にすり替えられていく仕組みがひそんでいます。信心は本来、個人の功利性を約束するものであるのに、あにはからんや個人ではなく組織が労働力と金銭を得る結果となっているわけです。

このように個人の目的が、いつの間にか他の目的にすり替えられる仕組みをマインド・コントロールというわけです。強盛な信仰心が強烈なマインド・コントロールである仕組みがここに隠されているわけです。これは信仰の問題ではない社会心理学的な問題であると私が感じる所以です。

515犀角独歩:2002/09/17(火) 07:40

↑ 信心の証明ばかりではなく、功徳(御利益)があるというおもらい信仰も含まれますかね。

516孤独な迷子:2002/09/20(金) 06:32
アネモネさん

 > ついつい自分を良く見せようという意識が働いて、レスを書いてしまうとこがあるのかもしれないなぁと思います。

 これまでのアネモネさんのレスから、そういう意識は私には感じられませんからどうぞご安心を。
 ただ毎回感心させられていることは、いつも文章がよくまとめられて書かれているなーと、質問を投げかけても具体的な事例をもって答えて貰えるので、とても参考になるということです。

 > 私の場合、冷静な自己がある前に、失敗を経て、痛い目にあってようやく気がついたという場合が多くて、・・・

 行動的な方なのですね。羨ましい。私は行動する前に考える方が先に立ってしまって、その間に機会を逃してしまうということが多いです。

 > 「このお寺は本当に宿業が深いし、そこに所属している私たちも同じで、それも因縁なのよね」と、諦めにも似た言葉を吐いていたものです。

 この考え方というのは、念仏の思想に近いような気もしますが、これに似た言葉は私も嘗て組織の中で聞いたことがあります。この一点を見ても日蓮聖人の教えというものが正しく組織の中に流れていないと思ってしまうのですが。

 > また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。

 このような発想をしているとしたら、最早仏教の信仰者とは言えないかも知れませんね。慈悲のかけらもないと思います。宗門ではある時期「祖道の恢復」といっていたことがありましたが、どうも恢復はされなかったようですね。それとも別の意味合いがあったのでしょうか。

 > でも、そんな私にレスを続けてくださって、本当に嬉しいです。

 こちらこそ助けられていると思っています。ここでやりとりしていることは組織の人には聞けない雰囲気がありますし、また、聞いたとしても真面目には答えてくれないでしょう。例えば「体験発表」の裏話みたいなものは表には出てこないでしょうね。
 以前、常々疑問に思っていたことを聞いてみたら、いきなり「あんたは提婆達多だ。」と言われたことがありましたが、その時は何だか分からず、頭の中で「?」が舞っていました。今思うと、組織に対して批判的なことというのは(当時は批判するつもりはなく、疑問を投げかけただけでしたが)、受け容れられないようですね。

 私もいつかオフ会に参加させていただきたいと思っています。皆さんきっとすばらしい人たちなんでしょうね。

 > 何のための仏法なんだろうなぁと思いますね。大石寺よりも自分の家族を下に置いてしまう信心って、本当に成仏の道なのかなって思います。

 「一家和楽の信心」という言葉がありますが、この方はどのように捉えているのでしょうか。
 信心という名の下に、何かしらのすり替えが行われて、そのことで豊かになる人たちがいる。そして、その一方では苦しまされる人たちがいる。でも、その苦しみの中にいる人たちは、それを自分の宿業と捉えたり、また成仏への道と捉えたりしているのでしょうね。

517孤独な迷子:2002/09/20(金) 06:58
独歩さん

 <514>のレス、その通りですね。
  組織信心のただ中にいる人は、もう自分の置かれている状況が見えなくなっているのかも知れませんね。
私はニンジンに釣られなくて良かったのかも知れない。

518アネモネ:2002/09/23(月) 23:06
孤独な迷子さん

>この考え方というのは、念仏の思想に近いような気もしますが、‥日蓮聖人の教えというものが正しく組織の中に流れていないと思ってしまうのですが。

私などは、日蓮聖人のイメージとして、「前向き」「プラス思考」「ポジティブ」「問題解決型」などの言葉が浮かぶのですが、全然そういうものが感じられないですね。

>>また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。
>このような発想をしているとしたら、最早仏教の信仰者とは言えないかも知れませんね。慈悲のかけらもないと思います。‥

私はとうとう家庭訪問を受ける側となりましたが、かつてお寺に参詣していた頃、座談会などでは、家庭訪問に行ってきた方が、そのご家庭の様子について報告されることがよくありました。もしもその内容を、家庭訪問を受けた方が聞いたら、どれだけ気を悪くされることかと思うようなことを平然と話されているんですね。たいてい、生活に困っているとか、落ちぶれているとか、病気がちだとか、そういったことを本人不在の講中に向かって話し時には拍手も出るほど盛り上がっている光景を、私はとても異様だと思いました。そして横で住職は、薄笑いを浮かべて話に頷いて喜んでいるのです。

また、講頭がある信徒の家のお引越しを手伝いに行かれまして、そのときに押入れの奥から何やら、いわゆる謗法の像のようなものが出てきたらしいのです。長年住んだ家の押入れの奥深くに何をしまってあったかなど、わからなくなっているのは当然です。出てくることもあるでしょう。黙っていてあげればいいものを、講頭はそれをお寺の座談会の場で、その方の名前まで挙げて得意気に話しているんですね。そして「お寺に来ない人の家ではこういうことになっている。怖いことです」などと言い、住職はそれを受けて補足に嫌味なことを話して締めくくられました。

また、ある学会員から住職宛に届いた私信を、差し出した方個人の住所が記載された封筒とお手紙の全てを、ホワイトボードに貼り出したりということもありました。

信仰の目的で、家庭訪問に行って聞いたことは、これは決して安易に人に口外してはならない問題を孕んでいることが多いと思うんですね。聖職者の立場は秘匿義務として、そのことを厳しく戒められているものだと思います。そしてそれは信徒が家庭訪問する場合だって同じだと思うのです。そこで見てきたこと、知り得たこと、感じたことは、その人の責任において自分の胸に留め、そのうえで訪問先の方との信頼関係を築いて信仰について語り合っていくのが家庭訪問の目的だと思うのです。ところが、大前提にある秘匿義務につていの指導がまるで野放しでやみくもに家庭訪問が行われ、その報告と称して講の中で半ば面白おかしく語られてる実態に対して、住職は注意はおろか一緒になって盛り上がっているというわけです。

こうなると、いわば「見せしめ」という言葉しか私には思い浮かびません。もしも、自分がお寺から離れてしまうと、こういうことを言われてしまうんだという脅迫ですね。こういうこにより、心理的に怖くて、とりあえずお寺の組織から離れられないという方がけっこういると思います。こういうひとつひとつの振る舞いが、信徒をマインドコントロールしていると思うんですね。
私もそうした恐れを抱いていた時期もありましたが、でも私はこれこそ、与同罪になるのではないかと思うようにもなりました。たとえ自分がその話の盛り上がりに対して、冷めた態度を決め同調しなくても、そのような見せしめの場に居合わせていることそのものが、同罪になっていくのではないかと思ったんですね。自分が、中傷されることよりそっちのほうが怖いって思うようになりました。そう思うえるようになったら、何を言われたっていいじゃないって、気が楽になりましたね。

519アネモネ:2002/09/23(月) 23:08
(つづき)

>例えば「体験発表」の裏話みたいなものは表には出てこないでしょうね。

そうでした。孤独な迷子さんの最初のご質問は、「体験発表」によく語られる奇跡についてでしたね。
最近また、私の折伏の親と話をすることがあったのですが、私と同様、お寺にも行かなくなり、登山も参加拒否をして当たり前の日常を送っているようなのですが、だけど、どうしても長年染み付いた、いわば学会当時から身につけてしまった因果を、一日の生活の細々した出来事の大半に結び付けてしまう習慣はなかなか抜け切れないようです。たとえば、唱題してないから、お寺に行ってないから、折伏してないから、勤行さぼってるから、だから命が弱くなってる。だから、こうなる。だから、息子の持病が悪くなった‥とこうくるわけです。それが朝目が覚めて、夜眠りにつくまでのひとつひとつの出来事を全て結びつけているんですね。良いことは、仏法を持っているから、悪いことは信心をさぼっているから。この単純方程式だけのようです。
確かに日蓮聖人の説かれた書の中には、このようなことも書かれていることと思いますが、だけど、これが一日の大半の行動を支配する考え方になってしまっては、結局、目の前にある問題は何も解決されないだろうなと思うんですね。もしかしたら、これが先にも述べたお寺の諦めムードにもつながるものかもしれません。息子さんの持病の悪化は、生活態度や習慣の変化に因るところが大きいでしょうし、治すためには、病院に行くなり、生活改善を試みるなりすることが大事です。だけど、過去世の宿業と因果で納得していては、何も問題は解決されないんですね。さりげなーくそのことを伝えるのですが、刷り込まれてきたものへの確信が強く、その場は納得されても時間の経過とともにまたもとに戻っていますね。気長に対話を重ねていくことが大事ですね。

>今思うと、組織に対して批判的なことというのは(当時は批判するつもりはなく、疑問を投げかけただけでしたが)、受け容れられないようですね。

顕正会が発刊書籍の新聞の一面広告の掲載したとき、入信間もない私は、このことをどう捉えればいいのかわからず法華講連合会にお問合せのお電話を入れたんです。その前に所属寺院にお電話を入れたのですが、長い間、話中でしたので連合会にかけたのでした。そうしましたら、電話応対のマナーを知らないような女性が出られて、「大石寺とは関係ない組織です」と一言。「それではどうして大石寺を名乗っているのですか?」と続けて聞きましたら、「法華講の方なんでしょ。そんなことに興味を持たないほうがいいですよ」で切られてしまいました。まずこの度の五月雨さんの三十万登山の報告にもありましたように、宗門にしろ連合会にしろ、その組織の実態は、電話応対のマナーすら行き届いていないほどの、いわば体裁だけ繕った非常に脆弱な組織だということがわかりました。
そして何よりもその基本的姿勢ともいうべき組織の体質は、「依らしむべし、知らしむべからず」の封建意識で、信徒に対しては何か疑問を持つことすら謗法だと刷り込んでいるんですね。
このことは、今回、金正日が拉致事件を認め謝罪したことについて、北朝鮮の国民に向けては全く報道されていないそうですが、それと似たようなものだと思います。

>いつかオフ会に参加させていただきたいと思っています。皆さんきっとすばらしい人たちなんでしょうね。

私も心臓が飛び出るかと思うほど、ドキドキして参加しました。でも、参加して本当に良かったですよ。いつかお目にかかれる日を楽しみにしてます。

520アネモネ:2002/09/23(月) 23:09
(つづき)

>「一家和楽の信心」という言葉がありますが、この方はどのように捉えているのでしょうか。

きっと、本当は寂しい思いを噛みしめていらっしゃるのだと思うんですね。だけど、その気持ちを認めてしまったら、何もかも今の自分を支えているものが崩れ落ちてしまい、自己の存在否定にもなりかねないわけですね。この方へかける言葉は、私には見当たらないです。きっとそんな寂しい心の奥底にある本心も、誰にも語ることはないでしょうね。

>でも、その苦しみの中にいる人たちは、それを自分の宿業と捉えたり、また成仏への道と捉えたりしているのでしょうね。

人生においては、誰にでも大なり小なり浮き沈みがあり、どん底を経験するものではないかと思います。そして、絶望してしまうことってあります。私もそういうことがありました。
だけど、「あーもう私はだめだ」と思ったその次の瞬間に、どこからともなしに、元気が出てくることがあるんですね。それはもしかしたらただの空元気かもしれません。だけど、逆境の絶望の中にあって希望を生み出すというか、そんな気力が出てきたときがあったんですね。
人生の扉をこじ開けるというか、そういう力がどこからともなしに出てきて、切り拓いていく。振り返ってみると、その逆境のときにどこからともなしに出てくる精神力というのは、信仰によるところが大きいのかもしれないなと思います。
自ら希望を生み出す力ですね。もう、どうにもならないはずの自分が、生きていこうと力強く思う。そんな気力なんてあるはずないのに、なんとか自分で立ち上がろうとする。
これはもしかすると、いつか寿命が尽きて死んでいくときでさえ、その死の先に希望を見ようとすることが出来るかもしれないもので、それこそが信仰心が為せることなのかもしれないなと想像します。

だけど、人生の絶望に希望を生み出す信仰を教えるはずの既存の宗教が、組織の論理で更なる苦しみを与えているとしたら、これは本来背負う必要のない苦しみですね。その苦しみに耐えたところで、肝心の人生の苦しみは解決されず扉は何も開かれていかないのではないかと思います。開かれていかないことを過去世の宿業としたところで、何も希望は見出されませんね。
そんな人たちが集まって、お寺に来ない人の悪口を言い合って盛り上がり自分の状況を納得しているわけです。
私は仏教の教義はよくわかってませんが、だけどそんな講の様子を咎めることなくその場に居合わせることは、きっと与同罪になるのではないかと思うようになったんですね。
本当にいろいろ考えさせられますね。

521みかん:2002/09/26(木) 12:32
すいません、既出の質問かもしれませんが、
大石寺の奉安堂は、現在ではいつ完成の予定になっていますか?
2002年の10月と聞いていたのですが。

522五月雨:2002/09/26(木) 12:53
みかんさん はじめまして。

奉安堂は外側は既に完成しております。あと内装と回廊の工事をしているみたいですが、ほとんど出来上がっているでしょう、憶測ですみません。落慶法要は10月12日から10日間あって一日5000人、合計50000人の落慶法要登山があるそうです。私が聞いた法華講の人の記憶に間違いがなければいいのですが。

523みかん:2002/09/28(土) 21:39
五月雨さんこんにちは。
予定通りに進行しているのですね。
どうもありがとうございました。

524五月雨:2002/09/28(土) 21:52
みかんさん こんばんは

みかんさんはこの法要登山についてどう思われますか、あなたは申し込んでいないの?それとも行くことの出来ない組織に所属しているとか・・・奉安堂が気になるとは学会の人かしら。法華講の人間よりも数倍気にしているのが、何だか面白いですよね。

525みかん:2002/09/28(土) 22:46
私は無所属・無信仰です。

526みかん:2002/09/28(土) 22:54
五月雨さん こんばんは

五月雨さんは大石寺門流の信者・僧侶が、相手の所属をいちいち聞くことについてどう思われますか、あなたはどうして聞いたの?それとも聞いて相手の素性がわからないと不安な組織に所属しているとか・・・相手の所属が気になるとは日蓮正宗の人かしら。創価学会の人間よりも数倍気にしているのが、何だか面白いですよね。

527五月雨:2002/09/29(日) 07:19
みかんさん

ご気分を損じたみたいでごめんなさい。私はとりあえず法華講の者です。だってみかんさんはいきなりこの掲示板に登場されて
一番目のレスだったでしょ(二番目だったかな)。私は答えたものの、法華講の人なら知らない筈はないのにな、と思ったのです。そして学会の人には結構執拗に奉安堂について聞かれるものですから、みかんさんもそうなのだろうかと思った次第です。素性の判らない人に教えた不安はたしかにありましたよ。そう思っては駄目ですか。


>私は無所属・無信仰です。

の方が、奉安堂について興味を持たれているみたいですが、どんな点に興味があるのですか、なーんて聞くと叱られますね。

528みかん:2002/09/29(日) 11:56
五月雨さん、感情的に反応しまして、すいませんでした。
あらためましてよろしくお願いします。
わたしは前からこの掲示板を知っていたので初登場だったという自覚が足りなかったのと、
正宗寺院に用事でいくたびに、「学会の人?」などといやそうに根掘り葉掘り素性を
探られた経験を何度もしておりますので、カチンときた次第です。大変、失礼しました。
(相手の素性を知りたがるのは学会も同じのようですね。)

とある文章を書き終えたものですから、奉安堂についても言及しているので、
もし完成時期が違っていたら、その部分を書き直さないといけないという理
由からの質問です。

ご参考までに当該部分を引用します。
>1955年までは御宝蔵に秘蔵されており、それ以降は創価学会が寄進した奉安殿
>に安置された。1972年からは正本堂に安置されたが、1998年に正本堂解体
>にともない、新たに建築された奉安殿に遷座されている。2002年の10月に、
>現在建築中の奉安堂に遷座される予定である。

登山に関しては、部外者なので、良いとも悪いともとくに感想はありません。
五月雨さんは今回の登山に批判的なご様子ですが、なぜですか?
ノルマ主義、数が多ければいいみたいなところがあるからでしょうか。

529五月雨:2002/09/29(日) 13:13
みかんさん

ご事情よく分かりました、私も言葉に過ぎたところがあったと思います。お詫びいたします、私も改めましてよろしくお願いいたします。

>1998年に正本堂解体にともない、新たに建築された奉安殿に遷座されている。

ここのところは、新たに建築された奉安殿ではなく、多分増改築されただけだったと思います。私は昔の奉安殿でご開扉を受けたことがないので、今と昔の奉安殿が同じかどうかは分かりません。でも奉安殿に戒壇本尊が戻されたと聞いたような記憶があります、ここのところはハッキリご存知の方にお答え頂くのが良いかもしれません。

>五月雨さんは今回の登山に批判的なご様子ですが、なぜですか?
ノルマ主義、数が多ければいいみたいなところがあるからでしょうか。

奉安堂は『立教開宗七百五十年を祝して、毎日一万人が参加して、一ヶ月間、三十日に亘って法要を執り行う』為に作る予定だったのが、設計に手間取って、三十万登山に間に合わないという陳腐なことになってしまいました。結局法華講は、三十万登山に参加して(それも何度も)その上に落慶法要登山への参加もしなくてはなりません、自分達のミスでこうなってしまったのに、反省もなく参加者を募るのは、二重の強要だと思ってます。
法華講は年寄りが多く、どこかしら具合が悪いのに、身体に無理をしながら登山するという人達を見て、複雑な思いを抱きました。
行くと言う本人達はそれで幸せなのだから良いのかもしれませんが、その信徒の気持ちを利用する石山が許せません、そんな気持ちです。

530孤独な迷子:2002/09/30(月) 06:55
五月雨さん、皆さん、お久しぶりです。

みかんさん、はじめまして。

 レスを一つ入れさせていただきます。

 
アネモネさん

 ご無沙汰しています。

 > 私はとうとう家庭訪問を受ける側となりましたが、・・・。

 それは羨ましいような・・・。私など家庭訪問はおろか、電話の一本も掛かって来なくなりました。有り難いような、寂しいような。
 確かに組織から離れた人のことは悪く言っても、良く言うことはまず無いですね。だいたい組織に出られなくなるのはそれなりの理由(原因)があってのことだと思いますが、その原因に対してはほとんど議論されずに、とにかく「出ない」ことへの批判、挙げ句の果てには「そのうちに現証が出る」などとの賜れる始末です。これではいくら信心、信心と言ったところで、その信心は深化しないでしょうね。
 「釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候・・・(趣意)」と言うような御文があったような気がしますが、そういうことは皆さんあまり意識はしないのでしょうか。

 > たとえば、唱題してないから、お寺に行ってないから、折伏してないから、勤行さぼってるから、だから命が弱くなってる。

 この考え方というのは私の中にも根強く生きています。先日車を運転していてヒヤッとしたことがありました。その時何を思ったかと言えば、「最近組織に出ていないからか」とか、要するに「今までの信心の形から外れているから」と言う感情が先に出てきてしまうのですね。そういう思考回路が出来てしまっているという事実を改めて確認してしまいました。これはしばらく続く後遺症のようなものかも知れません。

 > 過去世の宿業と因果で納得していては、・・・

 「それは自分の宿業だ」とか「罪障だ」とか、よく耳にした言葉です。だいたい最後はこの言葉に帰着されてしまうのですね。それで納得する人はそれこそ信心強盛にやっていけるのかなーと思いますが。私は納得できませんでした。

 > 信徒に対しては何か疑問を持つことすら謗法だと刷り込んでいるんですね。

 30万登山の2,3年ぐらい前から「絶対信」という言葉が連発されていたことを思い出します。「無疑曰信」という言葉より強力なニュアンスを含ませていたのでしょうかね。

 > その逆境のときにどこからともなしに出てくる精神力というのは、信仰によるところが大きいのかもしれないなと思います。

 アネモネさんはこの時期には既に信心をなさっていたのですか。とこのような質問をすること自体、これまでの信心に拘っているのですね。

531妙薬:2002/09/30(月) 09:43
今度用無しになる奉安殿は、正本堂解体に伴って増改築したものです。
私は昔の奉安殿と今の奉安殿も入りました。実質2倍近く広いですね。
30万総登山に関しては、それぞれの立場によって様々な見解があると思いますが、
多くの法華講員は、決して「不満」とは考えていませんよ。大御本尊にお目通りす
ることで感激するものです。
私自身には若干の不満がありますが。

532犀角独歩:2002/09/30(月) 11:35

妙薬さん:

ここの掲示板の文章を読み違えているでしょう。

> 多くの法華講員は、決して「不満」とは考えていませんよ。大御本尊にお目通りすることで感激するものです。

不満と考えていない、また戒壇之漫荼羅を言われるままに信じ、言われるままに登山する、その点を問題視しているのですよ。

533みかん:2002/10/01(火) 00:21
五月雨さん。
大石寺は過大な登山負担を信者に強いているということですか。なるほど。

妙薬さん。はじめまして。
>今度用無しになる奉安殿は、正本堂解体に伴って増改築したものです。
これは、正本堂以前に以前使われていた奉安殿を増改築して、
再利用していたということでしょうか。

孤独な迷子さん、
はじめまして。よろしくお願いします。

534アネモネ:2002/10/03(木) 10:36
孤独な迷子さんお久しぶりです。

>私など家庭訪問はおろか、電話の一本も掛かって来なくなりました。有り難いような、寂しいような。

こういってはなんですが、お寺の近くに住んでいる私の家には、活動してますという既成事実のために立ち寄っていらっしゃる方が多いような‥そんなところかと思います。それも、30万登山が一応締め切りとなってからはほとんどないですよ。静かになりました。
孤独な迷子さんは、心無い振る舞いをされた方たちであっても、そのように懐かしくも思っていらっしゃるのですね。そういう優しい心持ちこそ、大事だと思います。

>だいたい組織に出られなくなるのはそれなりの理由(原因)があってのことだと思いますが、その原因に対してはほとんど議論されずに、とにかく「出ない」ことへの批判、

そうなんですよ。問題の根本を解決しようとしない。問題の根本は、因縁ということになっているんですものね。でも、かつて私が気にとめていた問題とは、コミニティとしての法華講組織のあり方だったんですね。でも、それ以前に、そのコミュニティ形成の目的を裏付ける理論そのものが、崩れてしまい、もはやその問題を考えること自体が無意味になってしまいました。信心歴の浅い私も、多少の虚脱感はありましたが、気をとりなおして自分の信仰観を求めていこうと思ってます。

>これはしばらく続く後遺症のようなものかも知れません。

そうですよねぇ。かく言う、私も実はそうです(笑)

>「それは自分の宿業だ」とか「罪障だ」とか、よく耳にした言葉です。だいたい最後はこの言葉に帰着されてしまうのですね。それで納得する人はそれこそ信心強盛にやっていけるのかなーと思いますが。私は納得できませんでした。

罪証だとか宿業だとかは、要するに「過去世」のことを言っているわけですが、誰も見てきたこともないことを、確信をもって方ってそして納得するんですよね。自分のことについてはそんな納得も自由ですが、でも人のことまで、確証のないことを確信をもって言って惑わしてほしくないものです。

>アネモネさんはこの時期には既に信心をなさっていたのですか。

あっ、いえいえ、私が特記したこの時期は、まだ日蓮正宗の信心ではないですね。その前の宗教ですが‥。でも私はこのことについては、いずれの宗教にも、きっとそのようなはたらきがあるのではないかと、それこそ信じてるんですよ。

>とこのような質問をすること自体、これまでの信心に拘っているのですね。

全然、そんなことないです。これまでの信心の全てを否定することはないですよね。
私は、宗教の恐ろしさにはしっかり目を向けるようにしてますが、それでもやっぱり人生において信仰を持つということは、生きる喜びを感じる素晴らしいものであるに違いないと思ってるんです。いちりんさんも書かれてましたが、学びはあるということですよね。孤独な迷子さんも、これまでの信心の中できっと何か掴んでいらっしゃることがあり、それがこの掲示板への書き込みにも繋がっていることと思います。


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