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素朴な疑問

507いちりん:2002/09/12(木) 09:27
「業」(ごう、カルマ)というのは、いわば「おこない」なんでしょうね。
その「おこない」は、身体的な行為、喋ったこと、さらには心で考えたことも、入るようです。

その「おこない」は、次の「おこない」に連鎖しますよね。そしてまた、次の「おこない」にと、無限につながっていく。
死んでも、その人の「おこない」が、次の生命に更新されるときでも、つながるというわけです。

よく「自業自得」といいますけれど、「自分がつくったおこないは、自分で受ける」わけですよね。
「与えたものがかえってくる」ともわたしは解釈してますけど。
ですから「かえってきたものは、自分が与えたものだ」ともいえましょうか。

「いまのわたし、いまの境遇、いまの環境、いまのもろもろの現実」は、「自分自身が与えたもの出有る」「自分が作り上げたもの」であると。

で、薫習とか習気というのは、そういう「おこない」(業)をしてしまう傾向性ですよね。「クセ」みたいなものでしょうか。
これ、人間ですと、かならずありますよね。双子の兄弟でも、それは違うから、環境によってつくられたと言うよりも、持って生まれたものというか。さらには、やはり過去世からのえんえんとつづいたもの、かもしれないですね。

で、この「クセ」がほんとうに「くせ者」で、クセのために、いろいろと苦労してしまう。
ああ、やっぱりおんなじことをやってしまったよ、いつもこんなふうになるよ、というのがありますね。それって、クセが作用していますね。

だから、自分のクセに気づいていくのが、とても大切だなあと思うんです。
「気づく」というのは、まさに、気づくわけですね。
しつけとか訓練というのは、あともどりしますけど、気づきというのは、後戻りしないんですね。
ここがおもしろいですね。

努力して頑張って修行するという流れと違うところがあるんだと思います。
むしろ、「気づく」というのは、頑張りとか努力とは、無縁かも知れませんです。

気づくことがなくて、頑張って努力して、すごい修行をすると、かえって難しくなるようです。とくに宗教は、正しいことをしているという思いこみがきついですから、かえってへんなものがくっついて、肝心の自分自身の気づきがない人間になったりするような。。


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