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素朴な疑問

520アネモネ:2002/09/23(月) 23:09
(つづき)

>「一家和楽の信心」という言葉がありますが、この方はどのように捉えているのでしょうか。

きっと、本当は寂しい思いを噛みしめていらっしゃるのだと思うんですね。だけど、その気持ちを認めてしまったら、何もかも今の自分を支えているものが崩れ落ちてしまい、自己の存在否定にもなりかねないわけですね。この方へかける言葉は、私には見当たらないです。きっとそんな寂しい心の奥底にある本心も、誰にも語ることはないでしょうね。

>でも、その苦しみの中にいる人たちは、それを自分の宿業と捉えたり、また成仏への道と捉えたりしているのでしょうね。

人生においては、誰にでも大なり小なり浮き沈みがあり、どん底を経験するものではないかと思います。そして、絶望してしまうことってあります。私もそういうことがありました。
だけど、「あーもう私はだめだ」と思ったその次の瞬間に、どこからともなしに、元気が出てくることがあるんですね。それはもしかしたらただの空元気かもしれません。だけど、逆境の絶望の中にあって希望を生み出すというか、そんな気力が出てきたときがあったんですね。
人生の扉をこじ開けるというか、そういう力がどこからともなしに出てきて、切り拓いていく。振り返ってみると、その逆境のときにどこからともなしに出てくる精神力というのは、信仰によるところが大きいのかもしれないなと思います。
自ら希望を生み出す力ですね。もう、どうにもならないはずの自分が、生きていこうと力強く思う。そんな気力なんてあるはずないのに、なんとか自分で立ち上がろうとする。
これはもしかすると、いつか寿命が尽きて死んでいくときでさえ、その死の先に希望を見ようとすることが出来るかもしれないもので、それこそが信仰心が為せることなのかもしれないなと想像します。

だけど、人生の絶望に希望を生み出す信仰を教えるはずの既存の宗教が、組織の論理で更なる苦しみを与えているとしたら、これは本来背負う必要のない苦しみですね。その苦しみに耐えたところで、肝心の人生の苦しみは解決されず扉は何も開かれていかないのではないかと思います。開かれていかないことを過去世の宿業としたところで、何も希望は見出されませんね。
そんな人たちが集まって、お寺に来ない人の悪口を言い合って盛り上がり自分の状況を納得しているわけです。
私は仏教の教義はよくわかってませんが、だけどそんな講の様子を咎めることなくその場に居合わせることは、きっと与同罪になるのではないかと思うようになったんですね。
本当にいろいろ考えさせられますね。


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