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素朴な疑問

501アネモネ:2002/09/10(火) 20:56
(つづき)
>宗教とは本来社会や人間を善導してゆくものだと思っていましたが、石山においては何か違っている感じですね。

本当に私もそう思います。善導しているとはとても言えないですね。30万登山が近づくにつれて御説法の内容が貧弱になっていき、何を説くにしても折伏・折伏と我田引水。そんなことで頭数を煽らなくても、実社会の中で苦しみもがき、潜在的に信仰の救いを求めている人はたくさんいるんですね。
自分の教団の世帯数のことよりも、巷で苦しむ人々の数のほうを思い知ってほしいです。年間3万人以上の自殺者が出ていますし、また連日のようにいたましい殺人事件が起きています。ふと報道を聞き流しているうちに、あーまたかと段々感覚が麻痺していくのが恐ろしくもあります。だけど、自殺した人の家族、殺された人の家族、殺した人の家族、そして死んでいくしかなかった本人、また殺人者本人、どれほどの苦しみの中を生きているのかと心を寄せるとき、宗教の力を真に信じる宗教家であるならば、この巷の姿をなんとかしようと慈悲の気持ちを奮い起こして人々に心を砕いてほしいものです。
ここでいう宗教家とは、信徒のことではなくて、聖職者(僧侶)のことですね。厳しいことを言うようですが、そういう心を持ったお振る舞いをしてはじめて、供養を受け生活が賄えられる立場なのではないかと思います。
またそのような慈悲の振る舞いの結果に導かれた数字が30万であるならば、立宗750年も心から共に祝えるものであったと思います。しかし残念ながら、そんな経緯の結果の30万ではなかったですね。信徒の犠牲の上に成り立った、体裁だけの上げ底30万登山です。本当にいまだに席を残す者として恥ずかしいです。

仏教では、出来るだけ怒りの気持ちは持ってはならないそうですが、だけどこの怒りばかりはどうしても私は心に留めて、忘れたくないと思っているんです。それが私の持ち前の、厄介な気の強さなんですね(笑)


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