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素朴な疑問
504
:
いちりん
:2002/09/11(水) 09:34
>仏教では、出来るだけ怒りの気持ちは持ってはならないそうですが、だけどこの怒りばかりはどうしても私は心に留めて、忘れたくないと思っているんです。
というアネモネさんのことばから、考えてみたのですが。
仏教では、「怒るのはよくない」という教えはありますよね。怒ってしまうと、心が汚れて煩悩が増大して、苦しむのは自分だからということだと思います。
といっても、怒るという心はどうしようもないわけですよね。で、わたしは、いつも思うのは、
──「怒りが出るときは、自己観察のチャンス」──
と思っています。
人生の局面を降りかえると、怒りが生じたときは、数限りなくありますよね。些細なことでも怒るし、裏切られたと言っては怒り、約束を破られたといっては怒り、やかましいといっては怒り、ともう膨大な怒りがあります。
で、怒るときは、そのものに対して、怒っているようだけど、じつは、そうでもないことがあります。つまり、怒る対象の理不尽さとかどうしようもなさは、たまたま
──怒りの引き金──
に過ぎないんじゃなかろうかと。
で、人生を振り返ると、「ああこんなふうにして怒ることがあったなあ」「怒ったあとは、かならずあんなふうになったなあ」という、ひとつの
──怒りのパターン──
というものが、あるんだと思います。
ほんとに、おもしろくて、観察すると「怒りに至る脚本」「怒りのあとの感情の着地具合」というのがありまして、そこに「怒るパターン」があるんですよね。
で、その「いつものパターン」というものに気づくと、「おお、きたきた。またきくたか」というふうに余裕が生まれまして、そして怒りをうまく処することができるかもしれないし、怒りを処することができなくても、怒りによって、自分というものの新しい発見があったりしますよね。
で、いくらお題目を唱えても、活動しても、人間がなかなか成長しないということがあるとしたら、ひとつには、この「自分の感情のパターン」に気がつかないからじゃなかろうかとも、思うわけです。
(この投稿は、アネモネさんに対してどうこういう目的じゃなくて、アネモネさんのことばか触発されて、ふと浮かんだわたしの感想ということです)
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