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素朴な疑問

518アネモネ:2002/09/23(月) 23:06
孤独な迷子さん

>この考え方というのは、念仏の思想に近いような気もしますが、‥日蓮聖人の教えというものが正しく組織の中に流れていないと思ってしまうのですが。

私などは、日蓮聖人のイメージとして、「前向き」「プラス思考」「ポジティブ」「問題解決型」などの言葉が浮かぶのですが、全然そういうものが感じられないですね。

>>また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。
>このような発想をしているとしたら、最早仏教の信仰者とは言えないかも知れませんね。慈悲のかけらもないと思います。‥

私はとうとう家庭訪問を受ける側となりましたが、かつてお寺に参詣していた頃、座談会などでは、家庭訪問に行ってきた方が、そのご家庭の様子について報告されることがよくありました。もしもその内容を、家庭訪問を受けた方が聞いたら、どれだけ気を悪くされることかと思うようなことを平然と話されているんですね。たいてい、生活に困っているとか、落ちぶれているとか、病気がちだとか、そういったことを本人不在の講中に向かって話し時には拍手も出るほど盛り上がっている光景を、私はとても異様だと思いました。そして横で住職は、薄笑いを浮かべて話に頷いて喜んでいるのです。

また、講頭がある信徒の家のお引越しを手伝いに行かれまして、そのときに押入れの奥から何やら、いわゆる謗法の像のようなものが出てきたらしいのです。長年住んだ家の押入れの奥深くに何をしまってあったかなど、わからなくなっているのは当然です。出てくることもあるでしょう。黙っていてあげればいいものを、講頭はそれをお寺の座談会の場で、その方の名前まで挙げて得意気に話しているんですね。そして「お寺に来ない人の家ではこういうことになっている。怖いことです」などと言い、住職はそれを受けて補足に嫌味なことを話して締めくくられました。

また、ある学会員から住職宛に届いた私信を、差し出した方個人の住所が記載された封筒とお手紙の全てを、ホワイトボードに貼り出したりということもありました。

信仰の目的で、家庭訪問に行って聞いたことは、これは決して安易に人に口外してはならない問題を孕んでいることが多いと思うんですね。聖職者の立場は秘匿義務として、そのことを厳しく戒められているものだと思います。そしてそれは信徒が家庭訪問する場合だって同じだと思うのです。そこで見てきたこと、知り得たこと、感じたことは、その人の責任において自分の胸に留め、そのうえで訪問先の方との信頼関係を築いて信仰について語り合っていくのが家庭訪問の目的だと思うのです。ところが、大前提にある秘匿義務につていの指導がまるで野放しでやみくもに家庭訪問が行われ、その報告と称して講の中で半ば面白おかしく語られてる実態に対して、住職は注意はおろか一緒になって盛り上がっているというわけです。

こうなると、いわば「見せしめ」という言葉しか私には思い浮かびません。もしも、自分がお寺から離れてしまうと、こういうことを言われてしまうんだという脅迫ですね。こういうこにより、心理的に怖くて、とりあえずお寺の組織から離れられないという方がけっこういると思います。こういうひとつひとつの振る舞いが、信徒をマインドコントロールしていると思うんですね。
私もそうした恐れを抱いていた時期もありましたが、でも私はこれこそ、与同罪になるのではないかと思うようにもなりました。たとえ自分がその話の盛り上がりに対して、冷めた態度を決め同調しなくても、そのような見せしめの場に居合わせていることそのものが、同罪になっていくのではないかと思ったんですね。自分が、中傷されることよりそっちのほうが怖いって思うようになりました。そう思うえるようになったら、何を言われたっていいじゃないって、気が楽になりましたね。


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