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Last Album

79 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:29:09 ID:NLjW9Fhg0
一ヶ月ほど前から微熱が続き、なかなか収まらなかった。食欲もなく、食べようとしても吐き戻すようになった。
それらの諸症状を、私は当初、息子が死んだショックが今頃になってやってきたのだと勘違いしていたのだ。
無論それが悪性新生物の引き金だとは夢にも思っていなかった。

半月以上経っても回復しないので病院に行くと、精密検査に回された。それが先週のことだ。

そして昨日、電話で呼び出された私は沈痛な面持ちの医師から、自身が肝臓癌に冒されていること、
それは大いなる若さによって活き活きと余所へ転移し、病期で言うところのステージ4に至っていること、
余命が半年程度であることなどを告げられた。

すぐにでも入院をしなければならないという段になり、私は必要な荷物をまとめるためだけに家へ帰された。
しかし私はその足を、自宅ではなく駅に向けた。そして電車に乗った。最果ての街へ、妻に会うために。

(´・ω・`)「最初から、君をどうこうしたいとは思っていなかった。
      ただ、このまま君を見ずに人生を済ませてしまうことがどうしても耐えられなかった。
      それだけだったんだよ」
 
だが、その思いもどこかでとち狂ってしまったらしい。
今の私は妻をどうしても連れて帰りたいと思っていたし、
それが不可能であることを見越して早くも抑鬱に陥っていた。

日常的な時間の、何たる残酷さ……。

80 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:32:11 ID:NLjW9Fhg0
ζ(゚ー゚*ζ「私に貴方を責める権利はないわ。
       私だって自分のために、貴方に何もかもを隠していたんだから。
       貴方が貴方のために今まで黙っていたとしても、文句一つ言えやしない」

(´・ω・`)「でも、それはあまりに哀しいじゃないか。
      お互いの、踏み込んじゃいけない領域が、この期に及んで益々拡大しているような気がして……」

ζ(゚ー゚*ζ「仕方が無いのよ。結局、私と貴方の間にある高い壁は、取り去れるような類いのものじゃないんだから」

(´・ω・`)「耄碌爺さんの話に、一つどうしても共感せざるを得ない部分があったんだ。
      僕の人生は、まるっきり不足していたさ。何よりもまず、涙が足りなかった。
      そして、命の尺も足りていなかったみたい。

      こんな人生が、実際のところ世界の主人公たる者の生涯では有り得ないんだ」
 
私を取り巻く、死という名の波状攻撃はあまりにも過剰だった。
少なくとも、息子を殺す理由はどこにも無かったはずだ。

しかしそれも、かの実業家という主人公を支える装置の働きであると考えれば、
幾らか合理的であるような気がする。少しは、救われる気もするではないか。
舞台の暗がりで蠢く群衆の一人ぐらいに、その手の悲壮が訪れねば退屈ではないか……。

81 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:35:42 ID:NLjW9Fhg0
私は、吹っ切れた気分を取り繕っていた。それを理性の端から頭へ、表情へ、全ての動作へと滲ませていく。
道化と言うほど完成されてはいまい。しかし、よく知る妻を欺ける程度には化けられたはずだ。
 
だから、妻の嘆息に似た問いにも、間髪入れずに応じられた。

ζ(゚ー゚*ζ「貴方は、これからどうするの?」

(´・ω・`)「帰るさ。当初の目的は果たしたんだから」
 
妻はその時、初めて頭を垂れて黙り込んだ。私たちを包むやるせなさは、余りにも重厚だった。
私は、誰にも反論させないほどに妻を愛している。
妻だって、きっと。しかし、それだけ似ている私たちの頭の中身は、今や完全に違う構造を呈してしまっているのだ。

歩み寄れる類いのものではない。土下座して承認されるものでもない。
少し昔、妻がよく言っていた言葉を思い出す。貴方に甲斐性があれば……。
そう、私に甲斐性があれば、今だってきっと。いや、しかし。

ζ(゚ー゚*ζ「……癌と闘って、余命半年を宣告されたのに何年も行き続けている人の話をよく聞くわ。
      だから、まだ可能性がないわけじゃないわよ」

(´・ω・`)「そうだとしても、もうすぐみんな死ぬんだろう? 同じ事だよ」

ζ(゚ー゚*ζ「でも、貴方には生きていて欲しいのよ」

(´・ω・`)「僕だって、君には長生きして欲しい」

ζ(゚ー゚*ζ「ねえ、愛してるのよ」

(´・ω・`)「僕だって」

ζ(゚ー゚*ζ「なのに、何故こんなにも違うの?」
 
分からない……。どうしようもないことを言うならば、妻にイメージなど浮かばなければ良かったのだ。
息子の弔いに艱難辛苦を舐めながら、それでもなお日常へと修正しようとしていく穏やかな生活の中で、
ある日突然死にたかった……。

82 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:37:16 ID:NLjW9Fhg0
私は立ち上がって彼女に背を向けた。私には、もうすぐ彼女が泣き出すと分かっていたのだ。
また涙を共有できぬ前に、出て行くことにした。

(´・ω・`)「それじゃ、また……。いや、さようなら」
 
少なくとも今、私たちは完全に自由だった。自由意思で、別離を選択したのだ。
それは、鼓動も速まらぬほどに息苦しかった。

※ ※ ※

83 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:38:31 ID:NLjW9Fhg0
私について。

……特に何も。

※ ※ ※

84 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:41:15 ID:NLjW9Fhg0
外に出ると、既に夜明けが始まっていた。街は来たときと同じような色で静まりかえっている。
沈む世界の突端にあるこの街は、特定の人々以外には見向きもされずに、このまま幕引きを迎えるのだろう。
あまりにも芸術的な話だ。しかし、あまりにも身勝手な話だ。
 
駅に入り、改札へ向かう途中に、私はぼんやりと立ち尽くす老婆の姿を発見した。
彼女は私に気付くと、口を曲げてあからさまに不機嫌そうな顔をした。

('、`*川「もう帰るのかね」

(´・ω・`)「ええ、早くしないと医者に怒られますので」

('、`*川「別にここに居ても構わんのだぞ」

(´・ω・`)「遠慮しておきます。お言葉に甘えるには、私はあまりにも惨めになりすぎました」

言ってから、私は、自らに残留する矜持に苦笑する。
私がここを去る理由はそんなものではない。私は再び、遁走するだけの話だ。

(´・ω・`)「ねえ、お婆さん」

そのまま私を見送ろうとする老婆に、少し意地の悪い質問をぶつけてみる。

(´・ω・`)「人生って、何だと思いますか」

('、`*川「そんなこと、分からん」

老婆は突っ慳貪な物言いで返してきた。

('、`*川「死んでから考えることにしよう」

(´・ω・`)「なるほど、それは名案ですね」
 
私たちは、傷をなめ合う者同士の笑いを笑った。そして、別れた。

85 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:43:40 ID:NLjW9Fhg0
改札に立つ守衛は、昨夜の二人とは別人だった。
私は努めて穏やかに、「失敗したよ」と声をかける。
片方の男が、眠たげに「そりゃ、お気の毒に」と答えてくれた。
 
寂れたプラットホームで始発をひたすら待った。その間は何も考えていなかった。
やがてやって来た電車に、薄い感慨だけを持って乗り込んだ。
 
走馬燈の街を離れていく電車が、徐々に朝と生気に向かっていく途中、不意に私の両眼から多くの涙が溢れた。

しばらく、何が起こったのか分からなかった。
頬を伝い、足下へこぼれ落ちていく雫を、私は屍体を眺めるように訝しげに見下ろしていた。
それが涙だと理解してもなお、私は呆けて垂れ流し続けていた。

86 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:45:50 ID:NLjW9Fhg0
私はさっき、彼女に一つだけ嘘をついた。
実はついさっきまで、私は私が世界の主人公であるという思いを払拭できずにいたのだ。
 
すなわち、人生はこのようなものだと考えていたのだ。

最初から悲哀に偏って設定されていたのならば、私の人生こそそれにふさわしい。
だから、老人への敗北感に苛まれることもなかった。
私はただただ卑屈に開き直ってみせただけなのだ。それが本心であると、自己暗示できるほどの名演だったと思う。
 
しかし、それならばこの涙は何なのだろう。決まっている。私はやはり私の悲しみを認められずにいたのだ。
この涙には、多くの意味が含まれているに違いない。息子の死、妻との別れ、自分の余命、世界の……
いや、それは別に構わない。私には、そんなことまでは分からない。

そう、私の涙は、全人類の終わりに捧げる涙などではなく、
自分の中で複雑に絡み合った問題を解きほぐすためだけの涙だ。

87 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:48:30 ID:NLjW9Fhg0
ようやく私は人間としてのスタートラインに立ったのだろうか。
悲しみの涙は、自分に自意識が舞い戻ってきた証だ。
ならばこれから、私はあらゆる大きな問題について考えていかねばならない。
 
遅い、遅すぎるじゃないか。残された限られた時間で、私に何が出来ると言うのか。
何より、私は人類の終わりとは切り離された自分自身の近しい死に整理をつけられるのか。

涙腺は次々に新しい涙を供給し続けている。
こんなことなら、もう少しあの部屋に留まって妻と共に泣き明かせばよかった。
 
私は自分の死を認めない。そんなはずはない、何かの間違いだ。
それを受け入れさせようとする現実からは孤立を決め込もう。そして、再び取り引きを持ちかける。
妻に会いたい、妻に会いさえすれば、死ねる気がする。

それから、更に人間らしい反応を……無理だ、とても間に合わない。
懸命に深淵の海でもがいて、もがいて、もがいて……。
それだけしても最後には死を、消極的に受容する道しか残されていないのか。

私は物語の完成を、万端整えて見守ることが出来ない。そしてその素晴らしさに、保証も持てない。

人生の終端の辺りで、次から次に後悔の残渣が見つかっていく。
目を瞠ればキリがない。私はまだまだ泣き続けた。

※ ※ ※





88 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:49:41 ID:NLjW9Fhg0
次は9/30の夜に投下します。
これは一種の短編集なので作品同士の関連は殆どありません。
あらかじめご了承ください。

では。

89名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 01:05:02 ID:4k1oG.jo0
おつ
やっぱりあんたすごいわ。もうすごいとしか言いようがない

90名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 01:10:11 ID:Egr4HY1s0

よかった。この話の続きはないの?

91名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 01:50:09 ID:bUFown2s0

面白かった以外の言葉が思いつかないくらいに衝撃を受けた
この次の作品たちもwktkして待ってる

92名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 04:06:28 ID:In1q7xO20
おおー!タイトルが印象的だったから覚えてる!
期待支援

93名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 05:12:19 ID:2IIGlX7c0
よくわかんなかった

94名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 07:48:14 ID:4GYhL2ps0
何だかんだアンタが戻ってきてくれるとホッとするよ
いつも楽しみにしている

95名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 08:16:43 ID:K6waV.4.0
おつです
意外と読みやすかったし面白かった
名もない(´・ω・`)のなんとも言えない感情が最後に見れてよかった

>>30
の「探してきてやろう」の台詞は('、`*川が正しい?

96名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 12:19:54 ID:Smz9n.qo0
また読めるとはwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

97名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 12:22:18 ID:HwQIeaOQ0
Lastコン部もクル━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!⁇?

98名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 15:04:04 ID:z9toAL2.0
初っ端から濃厚だなあ
おつ

99 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:39:35 ID:9BaR2n0c0
>>90
ないです。各短編は全て単品モノです。

>>95
そうです、失礼しました。

100 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:40:48 ID:9BaR2n0c0
3.午前五時(interlude 1) 20130403KB

始発列車が到着した先に降り立った男は、そこで初めて自分が記憶を喪ってしまっていることを漠然と理解した。
対面のホームでしばし待っていれば元の駅に戻ることができるのかもしれない。

しかし男は自分の乗車駅を把握していない。手元にあるのは具体的な切符ではなく抽象的なICカードだ。
駅員に訊けば正確なことが分かるだろうか。しかし生憎と男にはそれを実行するだけの勇気が無かった。

だから男は真っ直ぐ歩いて改札にカードをかざし、駅を出た。
カードが入っているのは茶色の、年季が入っていると思われる二つ折りの財布で、
現金はやや潤沢に準備されているようだった。

男は改札前にある支柱に身を預けながら財布の中をまさぐる。
小銭入れの中には、小銭ではなく小さな鍵と三桁の数字が記されたメモ用紙が入れられていた。

外に出た男は自分が尋常では無い眠気に襲われていることに気付いた。
始発電車に乗るということは昨晩、碌に眠っていなかった可能性が高い。

そもそも男はどこで何をしていたのだろうか。
毛玉の纏わり付いたコートやシャツは会社へ通うそれではなく、つまり私用であったと推測できる。
頭の鈍痛は過度な飲酒のせいと思える。では、胸を灼く焦燥感の正体は何であろう。

101 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:43:51 ID:9BaR2n0c0
いずれ男は歩き出した。
駅の前は閑散としていて、温度も相まって寒々しい。
遠近感の定まらない目線を左右へ走らせると、駐輪場の姿が映った。

男は財布の中に入っている鍵がそこに置かれている自転車のものであるかもしれないと思い当たった。
駐められている自転車にはそれぞれ番号が割り振られている。
男は財布の中にあったメモ用紙と見比べて、それらしい、チェーンの錆びた自転車を引き出した。

乗ってみると、自重でやや自転車が沈むのを感じた。両輪の空気が十分ではないらしい。
パンクに気を付けなければならないと思いながら、男はやけに重たいペダルを勢いに任せて漕ぎ出した。

とは言え、男には自分の目的地が判然としていなかった。
真っ直ぐ進んでも、左右に曲がっても、それは自分にとって正しいようには思えない。
引き返すのも妥当ではないし、立ち止まるのも恐らく間違いだろう。

警察へ身元照会に伺うべきだろうか。何とも馬鹿馬鹿しい話だ。
午前五時の記憶喪失者に、およそ公安を手間取らせるだけの意味などあるのだろうか。

男は自転車を漕ぎ続けた。
凍えるような風がコートを通して身体の中へ病魔のように侵入する。
しかしその風は、唯一男に心地よさを与えるものだった。睡眠への欲求を、自らの不安を、吹き消すような風だった。

自転車はゆっくりと、しかし着実に進み続けた。
夜明けを迎えた空が明るくなり、大きな人間がその空を漂っている。
人間の影が、男を着実にとらえ続けている。男は自転車を漕ぐ。

やがてのぼり坂に突き当たる。
男は坂をのぼる。無心になってのぼる。坂を。

のぼる。

102 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:46:48 ID:9BaR2n0c0
4.雷鳴 20120928KB

彼女が外出するのを見送ってから、ぼくはすぐ準備に取りかかった。
いつも通勤に使っているネクタイで輪を作り、リビングの椅子に上って吊照明に結びつける。

これが案外と手間取った。
輪の作り方は何度も練習を重ねて心得ていたものの、
照明の傘が邪魔してなかなか上手くネクタイを取り付けられないのだ。

この点はインターネットには記されていなかった問題だった。
不器用なぼくのやることだからテレビドラマで見るような美しい死に様にはなりそうになかったし、
何よりも、その問題にぶつかったことで本当にこの装置がぼくを死なせてくれるのか不安でたまらなくなってきた。

しかしぼくは決めていた。
苦心してネクタイを結び終え、今日のために書き留めておいた三枚の遺書をテーブルに重ねる。
あとは足下の椅子を蹴ってしまえば終わりだ。そう信じておかないとやってられない。

そう、首吊りは苦痛が少ないというネットの情報にしたって、試してみなければ分からないのだ。
だが、今の時点では楽に死ねると自分に言い聞かせるよりほかない。
 
そうして思い切りよく椅子を蹴飛ばそうとした瞬間、背後で凄まじい閃光が迸った。
ぼくは背中を氷で撫でられたような反応を示し、恐る恐る振り返った。

103 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:49:33 ID:9BaR2n0c0
椅子の上から見える窓の外は、いつの間にか仄暗い曇天に覆われていた。唐突に日が沈んだみたいだ。
夕刻までまだ時間はたっぷりと残されているはずなのに、今にも夜が降りかかってきそうである。
 
そんな状況に、ぼくは少しだけ興奮してきた。何だか、思いもよらずいい死に様になりそうだからだ。
部屋の電気も消してしまった方がいい、とぼくは思い、早速椅子から下りて照明のスイッチを切った。
それと同時に、遠くの方から微かな雷鳴が聞こえてきた。ぼくはますます盛り上がった。
 
再び椅子の上に立とうとしたとき、窓ガラスにぽつ、と一粒の水滴がすいついた。
それは次々とガラスにはりついて、たちまち全体に湿り気を纏わせる。
 
ぼくはほんの少し感傷的な気分でその模様を眺めていた。
雨は瞬く間に勢いを増して、どうどうと膨らんだ雑音をかき鳴らす。
夏の終わりにはありがちな、通り雨というやつだろう。そしてまた、空全体が瞬間的に輝いた。

ぼくは何の気なしに音が迫ってくるまでの時間を数えてみる。十を数え終わるぐらいでそれは響いた。
まだまだ雷雲は遠くにありそうだ。

104 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:52:16 ID:9BaR2n0c0
さて、準備は整った。舞台装置は、思った以上の効果を引き出している。
こんな雨の中で死に、晴れ上がった頃に天国へ舞い上がれるならそれは純粋に幸せな幕引きだろう。
椅子に上ってネクタイに首を通す。目を閉じて、ちょっとだけ過去のことを随想する。

これまでに関係を持った人たちのことを考える。豪雨の音ばかりがぼくの耳に届いている。さあ、行くとしよう。
 
唐突に玄関ドアの閉まる音が響いた。次いで、ととと、と部屋に駆け込んでくる軽めの足音。
ぼくは反射的に首からネクタイを離し、慌てて椅子から下りようとした。

しかし、二人暮らしには少し狭いぐらいの間取りで、
彼女がぼくを見つけるまでに平静を装うことなどできるはずもなかった。

105 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:55:50 ID:9BaR2n0c0
というわけで、ぼくは椅子の上で息を切らしている彼女と対面したのである。
しばしの沈黙のあと、まず彼女は部屋の照明を付けた。ぼくの滑稽な姿が白色灯の下に晒される。

それと同時に彼女の姿もようやく明瞭になった。
小刻みに上下している肩や頭が濡れそぼっていることから、彼女が傘を持たずに家を出てしまったことが分かる。
そしてそれを取るために急いで引き返してきたということも。

本来なら彼女は、友人との買い物であと二時間は戻ってこない予定だった。
二時間もあれば、ぼくの計画は確実に遂行されるはずだったのだ。
しかし、感傷的にも思えた突然の大雨がぼくから機会を奪い取ってしまったのである。

あまつさえ、ぼくの計画そのものすらも、
考えられる限り最も惨めな方法で彼女に見せつけることになってしまったのだ。

ミセ*゚ー゚)リ「なにしてるの」

と彼女は言った。死化粧のような温度の口調で。

( ・∀・)「いや、べつに」

とぼく。とても言い逃れできる状況では無かった。
ぼくの眼前で、丸い形のネクタイがフラフラとなびいてしまっている。

106名も無きAAのようです:2014/09/30(火) 20:56:15 ID:ndky9GqM0
待ってたよ

107 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:58:27 ID:9BaR2n0c0
椅子の上で突っ立っている間抜けなぼくを置いて、彼女はテーブルにあった――
本来ならぼくが死んだ後に読まれるはずの――遺書を拾った。
それは決して、目の前で読まれたい出来映えでは無かった。

何しろ死んでしまう理由が殆ど見当たらなかったから、
少ない要因をクレープ生地のように薄くのばしたようやくできあがった駄作なのだ。

彼女はしばらく目を通してからもう一度ぼくを見上げた。
悲嘆に暮れているようで、軽蔑しているようにも見える瞳。
ぼくは彼女の髪と瞳が好きだった。それらは、何故かぼくを非常に安心させてくれた。

ミセ*゚ー゚)リ「あなたがこんなことするなんて、思いもしなかった」

さっきよりは幾分重々しい口調で彼女は言う。
しかし、まだ端々に戸惑いが覗いて見える。

ミセ*゚ー゚)リ「でもわからない。これを読んでもぜんぜんわからない。あなたは何故死のうと思ったの。
       あなたは何故、死ななければならないの」

( ・∀・)「わからないよ」

こうなった以上、ぼくに残されているのは素直に白状する道だけだ。
ぼくはできるだけ自らの心持ちを、真実を話そうと努めた。

( ・∀・)「自分でも理解できないんだ。どうしてこんなことをしないといけないのか。
      でも、それはそういうものなんだと思う。そう捉えるしか方法はないんだよ。
      ぼくはとにかく、死ななければならないんだ」

108 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:02:10 ID:9BaR2n0c0
しかし、どうやったってぼくの言葉を素直だとは取ってもらえないだろう。
自分でも分かっていないことを相手に説明するなんて、どだい無理な話なのだ。

当然、彼女は納得しなかった。険しい表情のままぼくに近づき、

ミセ*゚ー゚)リ「降りてよ」

と言葉を投げた。ぼくは素直に従った。
今まで使っていたこの椅子が、普段彼女の座っているものだということに、そのとき初めて気がついた。
 
相変わらず降りしきる雨の音。
それはぼくを取り巻く状況の変化に合わせて、いっそう緊張感を際立たせているようにも思える。
ぼくも彼女も、互いに立ち竦んだまま一切の言葉を放てずにいた。

ぼくには、このような状況で口にするべき台詞が何一つ思い浮かばなかったのだ。
恐らく、彼女のほうも同じだろう。

ミセ*゚ー゚)リ「座ろう」
 
一分ぐらいしてから彼女はそう呟き、自ら率先して椅子に座り込んだ。
ぼくもテーブルの向かいにまわって腰を下ろす。
ぼくたちが対峙するその間には、醜悪な完成度の遺書が無造作に散らばっている。

できることなら今すぐにでもこの三枚を滅茶苦茶に破いて捨て去ってしまいたかった。
しかし、今この場で勝手な行動が許されるとはとても思えない。
ぼくはまるで、模範囚のような面持ちで彼女と、彼女の奥にある壁を見つめていた。

109 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:05:58 ID:9BaR2n0c0
稲光……修羅場を演出するにはあまりにも紋切り型に過ぎる。しかしそれは現実に起きていた。
ぼくは彼女の次なる言葉をただ呆然と待ち続けていた。
自ら何かを発するつもりは毛頭なく、ただひたすらに彼女へ従属しようという思いがあるばかりだった。

それは結局のところ逃避でしかないのかもしれないが、
だからといって積極的な行動が実を結ぶような場面であるとも思えない。
不思議と、ぼくは自分が浮気でもしてしまったかのような焦燥感に駆り立てられていた。

ミセ*゚ー゚)リ「ひどい」

と雨音にかき消される程度の声音で彼女は言った。

ミセ*゚ー゚)リ「どうして一言も相談してくれなかったの。何で頼ってくれなかったの」

( ・∀・)「ごめんね」

とぼくは少し俯いた。

ミセ*゚ー゚)リ「何かいやなことでもあったの。会社とか、人間関係とか……」

( ・∀・)「いや、万事がうまく進んでいたよ。ぼくにしては上出来なぐらい、順風満帆な人生を歩んでいたと思う。
      充足していない、なんてことは何一つないんだ。だから誰のせいでもないんだよ」
 
嫌みたらしい言い回しだと、われながら思った。核心を突かずにその周囲を堂々巡りしているような調子。
相手を苛立たせるには十分な冗長さがあった。
そう分かりながら口にするぼくは、おそらく愚かしいほどのあまのじゃくなんだろう。

110 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:08:31 ID:9BaR2n0c0
彼女はぼくの弁解を聴くと何故か説教でもされているかのようにしゅん、と小さくなってしまった。
ぼくの迷走した言葉を精一杯理解しようとしてくれているからかもしれない。

もしもそうだとしたら、一切を手放しにして喜べる程度には嬉しい話だ。
それはぼくの独占欲を大いに刺戟してくれる。
そしてほんの少し、計画の失敗を晒してよかったという風に思えるのだ。

ミセ*゚ー゚)リ「もう一度きくけど」

と彼女は下を向いたまま低く息を吐くようにして言う。

ミセ*゚ー゚)リ「どうして死のうと思ったの」

( ・∀・)「……何度でも、同じように答えるしかないんだ。ぼくにだってさっぱり分からない。
      ぼくは何の挫折も孤独も感じていないし、むしろ生きていることはとても素晴らしいとも思えるよ。
      それなのに、死ななければならないんだ。死なないと、もうどうしようもない」

ミセ*゚ー゚)リ「こんな理由で……」

彼女は粗雑に遺書を取り上げる。

111 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:12:10 ID:9BaR2n0c0
( ・∀・)「そんな理由で……いや、少し違うかもしれない。
      本当はそこに書いてあることでさえ嘘っぱちなのかもしれないんだ。
 
      ぼくの理由には元々心臓にあたる部分がなかったのかもしれないし、
      だからこそこんな気持ちになっているんだとも思う。

      でも少し前から今日実行しようと思っていたのは事実だし……
      ねえ、ぼくをメンタル・クリニックへつれていくつもりはあるの」

それはぼくにとって最大の懸案事項とも言えたが、彼女は何も答えてくれず、代わりに

ミセ*゚ー゚)リ「少し前って、どれぐらい」

と言った。

( ・∀・)「一ヶ月ぐらいかな」

と返すとそう、と頷いた。予兆を感じ取られなかったことについて悲しんでいるのかもしれない。
その気持ちは分からないでもなかったが、ぼくはますます歓喜を覚えた。

彼女はぼくを愛している。そしてぼくも彼女を愛している。
ただそれだけの事実を確認できるだけで、こんなにも快感が訪れるとは。
けれど、きっとこんな確認のしかたは間違っているのだろう。

112 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:15:34 ID:9BaR2n0c0
再び重苦しい沈黙。
湿気を帯びた熱が部屋の中にまで忍び込んできているようで、滅多に汗をかかないぼくの額にも水滴が浮かぶ。
雨脚は一段と強まっているように感じられた。
 
ところで……ぼくがメンタル・クリニック行きを望んでいないのは、何もそういった施設を恐れているからではない。
むしろそこはとても居心地の良い場所であると推測できる。
カウンセラーはぼくにとって最良と思えるアドバイスと薬を与えてくれるだろう。

だから、正当な動機さえあれば受診することもやぶさかではない。

そう、問題はぼくに動機が存在しないことだ。
確かに死にたがっているというのはそれに値するのかもしれない。
しかしそれ自体が、ぼくにとって最早重大な関心事ではなくなってしまっているのだ。

ぼく自身が問題視していない症状で医者にかかるというのは……
なんだか、自由人を虜囚と見紛ってしまっているかのような違和感を覚えてしまう。
 
しかし、彼女はそう思っていないらしい。いや、誰だってそうは思わないに違いない。
だから彼女は静かに、しかし激しく泣き出した。
その涙には怒りや、哀しみや、分類できない感情の複合体が含まれているのだろう。

そしてその殆どが、ぼくのための想いだ。これはたぶん、自意識過剰ではなく客観的事実であると思う。
逆の立場であったなら、ぼくも彼女と同じ行動をとっただろう。それはぼくが彼女を十分に想っているからだ。

113 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:18:35 ID:9BaR2n0c0
ミセ*゚ー゚)リ「もし、あなたがこんなことを、本当にしてしまったとして」

馬鹿馬鹿しいことに、ぼくらを照らす灯りの隣にはまだネクタイの輪がぶら下がったままだ。

ミセ*゚ー゚)リ「わたしは何もできなかったの。わたしは、あなたが消えてしまうのを黙って見送るしかなかったの」

( ・∀・)「それは……そうかもしれない。でも、何もできないのは、ぼく自身も同じなんだ。
      ぼくだって、自分をどうすることもできない。ぼくはここで、おしまいにしなければならないんだよ」

ミセ*゚ー゚)リ「あなたは、わたしのことを考えてくれなかったの」

( ・∀・)「いや」

とぼくは即答した。
実際、椅子を蹴る際に最初に浮かんだのは彼女の顔だったし、
一人で予行演習している際にも何回も何回も彼女のことを考えた。

それでも彼女に何も告げなかったのは、こうなってしまうことが分かっていたからだ。

ミセ*゚ー゚)リ「じゃあ、どうしてわたしを置いて消えてしまうの。
      あなたは良いのかもしれないけれど……わたしの立場はどうなるの。
      わたしは、これからどうすればいいの」

114 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:21:51 ID:9BaR2n0c0
ハープを奏でているような激情だった。
外の雨音に負けてしまいそうで、しかしまっすぐにぼくへ届くほどの芯の強さを持っている。
 
彼女の投げかけた問題は――少なくともぼくにとっては――本当に難しいものだった。
だからぼくはしばらく押し黙って、それからこう答えた。

( ・∀・)「もちろん、きみのことはずっと考えていたよ。片時だって忘れたことはない。
      でも、それ以前にぼくは今回やろうとしたことを……
      きみのこととは別問題として考えようとしていたんだ。

      その二つの間には越えられない壁があって、
      そのためにぼくは、きみのことを最後までは予測できなかったんだ」

ミセ*゚ー゚)リ「へりくつだよ、そんなの……」

そればかりは認めざるを得ない。
正直、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。

ミセ*゚ー゚)リ「それじゃあ、やっぱりわたしのことなんて考えてなかったようなものじゃない。
      だって、わたしは選ばれなかったんだから」
 
そもそも論争以前の問題として、ぼくには主張がどこにも存在していない。
ぼくは実際に彼女のことを常々想っていた。それは事実だ。

その一方で、ぼくはネクタイの輪がちょうど自分の首のサイズに合うよう何度も練習を繰り返し、
馬鹿みたいな遺書まで用意した。そして実際に行為に及んだ。それも事実だ。
何もかも明白であるというのに、どうしてこんなにも息苦しいのだろう。

115 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:24:28 ID:9BaR2n0c0
一応、この人間社会に生きている限りは自らの発言に責任を持たなければならないと思う。
しかし、中身を伴わない発言にはどうしたって責任の持ちようがないのだ。
ましてやそれが嘘偽りのない心情の真相そのものだとしたら、ぼくは空っぽの自分を弁護しなければならなくなる。

その虚しさときたら。

せめて、もう少し正当に聞こえる死の理由を考えてから行動に移すべきだったのだろうか。
今となっては遅い話である。とりあえず、今日死ぬというのはちょっと始末が悪い。

( ・∀・)「だいじょうぶだよ」

だからぼくはそう言った。

( ・∀・)「もう……今日はもう、こんなことしないから。それより、早く出かけないといけないんじゃないかな。
      雨はまだ当分降り続きそうだけど……」
 
そしてぼくは立ち上がり、今度は自分の椅子を使って天井のネクタイを取り外そうとした。
途端に彼女も乱暴に立ち上がって、ぼくを見た。唇を噛みしめていた。
双眸に、明らかな怒りの色が込められている。殴られるのかと思ってぼくは少し身構えた。

116 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:28:33 ID:9BaR2n0c0
ミセ*゚ー゚)リ「出て行く」

しかし、すでに言葉で頬に痛烈なビンタを浴びせていたのはぼくの方だったらしい。
彼女の涙声には屈辱が紛れていた。

ミセ*゚ー゚)リ「わたし、もうこの家、出て行くから」

( ・∀・)「どうして」

無意識のうちに疑問が口に出る。そう問いかける権利がないことは頭のどこかで分かっている。
だからと言って引き留めずにいるのは、なおのこと悪手であるというずる賢さも。

ミセ*゚ー゚)リ「だって、あなたがわたしのことを考えてくれないんだったら、
      わたしだってあなたのことを考えたくないもの。そんなの、不公平じゃん。
 
      だからわたしは出て行くよ。もっと一緒にいたいけど、あなたが死なないといけないんだったら、
      わたしも出て行かないといけないんだよ」

横暴であるようにも感じられたが、やけに説得力のある理論だ。
そう感じられるのは、ぼくと彼女が同じ理屈の俎上にのっているからだろうか。
どちらの言葉にも、もっともらしい意味や内容は含まれていない。

しかし、ぼくにはそれこそが彼女の素直な心情の吐露であり、空っぽのぼくへの返答であるように思える。
また、事実としてぼくが死んでしまったなら、彼女としてもとてもそんな場所に住み続けていられないだろう。
首吊りが最も気楽な死に方だとはいえ、死に場所のことも考えておくべきだった。

117 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:31:23 ID:9BaR2n0c0
それにしても、彼女の言い分をこのまま認めてしまってもいいものだろうか。
身勝手な話、できれば彼女にはぼくが死んでしまうまで離別してほしくなかった。
できることなら、なるべく彼女をそばに感じたまま――それでいて密かに――たくらみを成功させたかった。

でも、それはあくまでもぼくの都合だし、こうやって全部が暴露されてしまった以上、
心の中でそっと思っておくのも無粋というものだろう。

だからぼくは、自分がしようとしていることをより確実に実行するためにも、
彼女の言葉に首肯してやるべきなのかもしれない。しかし、あまりに冷たくは無いだろうか……
いや、今になってそう考えること自体が罪であるようにも思える。

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿」

ぼくの思案は彼女の言い放った一言によって不意に現実へ揺り戻される。

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿……」

彼女はもう一度呟いた。そしてしばらく口をつぐんで、更に

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿」

と繰り返した。

そして少しだけ苦しげにうめいてから、戻ってきたときと同じように部屋を駆け出ていった。
数秒と経たず、玄関ドアがいきおいよく閉まる。ぼくはその様子をぼんやりと見送ってから、
彼女がテーブルに落とした三枚の遺書を拾い集め、ぐしゃぐしゃに丸めてくずかごに放り投げた。

一度目を通されたのだからもう十分だ。書き直すこともないだろう。

118 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:35:47 ID:9BaR2n0c0
一切の出来事を遠くから眺めているような気分だった。
ぼくの感情は、死人の心電図のように少しも波立っていない。
ぼくの知らないところで、意識だけが眠っているような感じ。

映画館の最前列で、終わらないエンドロールを眺めているような気分。

彼女は少し慌ただしすぎたのではないかと思う。

ぼくに対しては、まだ説得の余地が残っていただろうし――
もっとも、彼女がぼくの強固な決心を見透かしていたとすれば話は別だが――、
着のみ着のままで部屋を飛び出すほど切迫した状況でもなかったように思う。

無論、そんな心境にまで追い込んだのは他ならぬぼく自身だから、彼女に文句をつけるのは筋違いだ。
しかしながら、さすがにあんな具合で飛び出されたのではいささか心配にもなってくる。
だいいち、彼女は財布も何もかも全部入ったハンドバッグを部屋に放置したままだ。

これでは友達に会いに行くこともできないだろうし、このまま二度と帰ってこないというわけにもいかないだろう。

ぼくはぼくの決心をひるがえすつもりはないが、それでも、うじうじとした罪悪感が湧き上がってくる。
それは一種回避行動のようなもので、自分自身を落ち着かせるための休息に過ぎない。
やはり、この場所で死ぬというのは少し考え直したほうがよさそうだ。

彼女がぼくのことをどう想い始めたかはさておき、これ以上彼女に苦痛を与えるのはさすがに良心が痛む。
そして、死ぬ時期ももう少し先に延ばしたほうがいいのかもしれない。
やはり、生きている人間が死んでいる人間に変化するときにはそれなりの面倒がつきまとうようだ。

死人が生きている人間の数倍も存在感を発揮することだって、珍しくないというのに……。

119 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:38:16 ID:9BaR2n0c0
閃光……先ほどより激しくなったような気がする。
ぼくは、彼女がおそらく傘を持たずに出ていったのだと気付いた。
黒々とした空は更に深さを増していて、まだまだやむ気配がない。雷鳴。随分と近づいてきたようだ。

ぼくの、客観的にみれば身勝手極まりない理屈で、部屋を追い出されるはめになった彼女が不憫でしかたない。
ぼくは傘を持って彼女を探しに出かけることにした。
傘は一本で構わないかとも考えたが、さすがに今の状況で相合い傘はありえないだろうと思い直して二本持つ。

彼女のハンドバッグはそのままにしておくことにした。
いずれ彼女は戻ってくるだろうし、本当に必要なものを全部揃えていたらそれこそ夜を通り越してしまう。

外に出てみると、叩きつけるような雨の勢いに改めて驚く。何かの拍子で神様が怒り狂っているかのようだ。

このどしゃ降りの中を彼女は本当に行ってしまったのだろうか。
二階建てのこのアパートには雨風をしのげる場所など廊下ぐらいしか見当たらない。
まず、ぐるりと建物のまわりを一周してみたが、彼女の姿を見つけることはできなかった。
 
それならば、どこへ行ってしまったのだろう。ぼくにはまるで見当がつかない。
いずれかのコンビニにでも入って雨宿りしているのかもしれないが、
この辺りにはそういった場所が散在しているし、もしもあてが外れていたら時間を無駄にするばかりだ。

アパートを出て右に進むべきか、左に進むべきか、それさえも判断が難しい。
とは言え、立ち止まっていても何にもならない。

120 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:41:26 ID:9BaR2n0c0
ともかく、感性のままに歩いてみることにした。まず右へ進んで、奥にあるT字路を左へ曲がる。
すると一軒目のコンビニが見つかったので何の気もない風を装って入ってみる。

案の定、とでも言うべきか、彼女はそこにいなかった。こうやってしらみつぶしにあたっていくしかないだろう。
そうやっている内に彼女のほうが先に帰ってしまっているかもしれないが、それならそれで構わない。
いや、逆に心配させてしまうだろうか。ぼくが死に場所を求めてさまよい歩いている……というように。

彼女が、ぼくの言葉の全てを等しく信用してくれていればいいのだが。
 
二軒目のコンビニにたどり着くまで、何度も前後左右を確認して彼女を探したが、
こうも雨がひどいと視界もままならない。多くの人は外出する気にもならないようで、
この辺りにしては珍しくほとんど人とすれ違わない。久々に感じる孤独。雨の中へ吸い込まれていくような息苦しさ。

この雨は止まないのではないのだろうか、という根拠のない不安感すら持ち上がってくる。
傘を二本持ってきておいて良かったと心の底から思う。一本の傘でこの雨量から二人を守るのはとても無理だ。
 
道すがら、本屋を見つけたので入ってみる。狭い店内にも彼女はいないようだ。
それどころか一人の客さえおらず、若い店員がレジのところで暇そうにあくびをしている。
傘をさしていても自分の身体は濡れてしまっているようで、ところどころから水がしたたっている。

このままでは意図せずそこらじゅうの本を水びたしにしてしまいそうだったので、ぼくは慌てて店を出た。

121 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:44:40 ID:9BaR2n0c0
彼女はぼくより遙かに濡れねずみになってしまっているに違いない。
気の毒だ、というのが正直な感想で、真摯に自分のせいだと反省することができない。

どのように想っても、対岸の火事に駆けつけようともせず、
ただ遠くのほうから水を浴びせようとあくせくしているような、無様さを覚えてしまうのだ。

彼女の言ったとおり、彼女への愛情と死の問題を分けて考え、その上で死を選択し彼女を捨てたのだから、
その無様さはもはや挽回しようもない。ならば今、こうやってかけずり回っている自分は何なのだろう。

……きっと、これは誰しもの心に起きるちょっとした善意でしかない。
ぼくが彼女のことを愛していると言ったところで、誰が信用するだろう。
信用されないということは、存在しないも同然なのだ。

本屋を出ると、相変わらず強い雨が降りしきっていた。
目の前の古い木造住宅のトタン屋根に雨粒が刺さって、せわしなく不協和音を奏でている。

なんだかひどく疲れていた。

122 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:47:40 ID:9BaR2n0c0
ここからの行き先の候補として幾つか思い浮かぶが、そのどれを取っても彼女がいる気がしなかった。
もしや、彼女はこの雨と一緒に溶けてどこかへ流れていってしまったのではないだろうか。
そうであってもおかしくない気がした。

そして、もしそうだとしたら、ぼくみたいな人間にはもう追いかけることもできない。傘だって無駄になる。
 
それでも、ぼくは歩き出さなければならなかった。
彼女を探し続けるにしても、早々に引き上げてしまうにしても、立ち止まってはいられない。
何があろうと、前には進まなければならないのだ。そんなことは分かっている。

分かっていたからこそ、今日という日に向けて着々と準備してこられたのだ。
彼女にさえ見つからなければ……。
 
いや、そんな名残惜しさに浸っている場合ではない。ぼくは傘をさすために少し上を向いた。
その瞬間、視線の先を光が斜め下へ走った。稲妻だ。続いて鼓膜をつんざく爆音。

先ほどまでとは比べものにならない音の大きさに、ぼくは思わず悲鳴をあげそうになっていた。
外に出たのだから大きく聞こえるのは当然の話なのだが、それでもぼくは必要以上に驚愕していた。

しばらくその場を動けずに足を震わせていた。
それからようやく、何事もなかったかのような顔で傘をさして歩き出すことができた。
ぼくはたぶん、空襲の時に逃げおおせることもできずに死んでしまうのだろうな、などとつまらないことを考える。

それぐらい頭が混乱していた。脳みその奥底で、まだ雷鳴が反響していた。

123 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:50:16 ID:9BaR2n0c0
それにしても稲妻をじかに見たのはいつ以来だろう……もしかしたら初めての体験かもしれない。
その一瞬の出来事は脳裏にしっかりと焼き付いているのだが、
その衝撃を説明しろと言われてもたぶん何一つ伝えられないだろう。

雷を怖がる人が多いというのも分かる気がする。
よく分からない恐怖というよりは、はっきりと目撃することによる畏怖。
科学的な原理も解明されているはずなのに、人間の手ではどうすることもできない自然の偉大さ。

そしてそれだけではなく、個人的な恐怖心を刺戟する何かがある。

ぼくの足取りは明らかに重くなっていた。落雷のために疲労は倍増していて、
そのせいかいっそう孤独感が深まっていく。薄ぼんやりと浮き上がっているような街路は、
進むにつれて迷宮の様相を呈してきた。こんな天気の下で出ていった彼女は相当強い女性なのだろう。

もちろん、ぼくが弱すぎるという可能性も否定できないが。

いや、もしかしたらぼくが見落としていただけで、彼女は意外と近所で雑誌でも立ち読みしているのかもしれない。
もちろん、そうであって欲しいという希望的観測も含まれる。
辛うじて持ち合わせていた小銭で買った切符で遠くへ行かれてしまったのであったら、もうどうしようもない。

二軒目のコンビニも不発に終わり、ぼくは更に進み続けた。
もう、どこを歩いているのかはっきりしなくなってきている。
おぼつかない足取りで家の壁だけを目で追いながら前進する。自分の目的が何かも忘れてしまいそうだ。

傘はもうほとんど役に立っていないようで、全身から雨のにおいが蒸気のように湧き上がっていた。
雨粒か自分の汗かも分からない顔の水滴をぬぐい、ようやくたどりついた曲がり角で向きを変える。

124 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:53:21 ID:9BaR2n0c0
ともすれば不快な眠りに落ちてしまいそうな頭の上で再び光と音が放たれた。
ぼくは誰かに一喝されたかのように身体をまっすぐに硬直させ、そのままの姿勢で歩き出した。
ぼくは雨の息苦しさよりも、時折訪れる雷の激烈さに戦慄していた。

何故こんなにも雷に責められているような気分になるのか分からない。
ただ、その攻撃は泣き出したくなるくらいにおそろしかった。

そう……純粋に考えればおかしな話である。何もぼくは、雷鳴を怖がる必要なんてないはずなのだ。
本来なら、ぼくはもう既に死んでいる身なのだから。あの部屋の、あの吊照明の、あのネクタイ――
それはまだ、孤独にぶら下がっているはずだ――によって。

そのぼくが雷に挫かれるなど、本来なら不可思議でしかない。
にも関わらず、ぼくはこれ以上雷が落ちないことを願っている。
できればこの雨と共にさっさとどこかへ消え去ってほしいと切望している……。

何かのはずみで雷がぼくの真上に落ちてきたら、ぼくは呆気なく死んでしまうか。
そうでなくても意識不明の重体ぐらいには追い込まれてしまうのだろう。もしかして、ぼくはそれが怖いのだろうか。
首吊りによる死を望んではいても、落雷による死は本望ではないのかもしれない。

結果としては変わらないというのに、ぼくはあくまでも形式に拘っているのかもしれない。
では、形式としての死を求めているのであれば、ぼくは本来的には死を望んでいないのではないか。

だが、近いうちにぼくは死ななければならない。それだけは確かだ。
何故か。そんなことは分からない。分からないなら死ななくてもいいじゃないか。
死ぬだけの勇気があるなら、生きていけるはずだ。

125 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:57:08 ID:9BaR2n0c0
……いや、違う。死ぬ元気と生きる元気は根本的に異なっているのだ。
その二つは、まったくもって別問題なんだ……そう、まるで彼女への愛情と同じように。
そしてぼくには、死ぬ元気を上回るだけの生きる元気が存在していなかった。

死ぬ元気を出して、こうして無闇に生き続けているのをやめるなら、死ぬのが道理じゃないか……。

ふと我に返ると目の前に広々とした川が横たわっていた。
どうやら、気付かない間に川沿いの道にまで来てしまっていたらしい。
増水した川の流れは普段に比べて速く、濁っていた。

そしてぼくはふと――すくみ上がってしまった。
雷鳴の響いている時に広い場所に出るのは危険だという小学生でも知っている知識を思い返したからである。

それにしても先ほど思い出していたのは……そう、ぼくが書いた下らない遺書の内容とほとんど同一だった。
たったあれだけの動機を、ぼくは目いっぱい拡大して三枚にも膨らませたのだ。

内容と呼べるほどの内容は一つもなく、
ただ素朴に死ななければならないという事実を淡々と書き並べただけにすぎない。
遺書というよりは、検死調書とでも言うべきだっただろうか……。

126 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 22:00:20 ID:9BaR2n0c0
そもそもぼくが何故死にたくなってしまったのか、それに値する理由などいくら考えても出てこなかった。
ただぼくは死にたかった。死ななければならないと盲信していた。

例えば高校生が卒業すれば大学か就職かに進路を定めなければならないのと同じように、
ぼくはぼくの人生において、次の行動を選択しただけなのだ。そう、いずれにせよ前には進まなければならない。
進まずとも、人生はあらゆる濁りを含めて流れていってしまう。その流れは深く、目まぐるしいほど速い……。

選ばなかった道を惜しむのは儚いことだ。だからぼくは彼女に何も告げなかった。
生きることと死ぬことは、同じ人間の身に起きる話なのに互いに相反している。

少しでも残っている「生きたい」という希望の残渣を捨てるためにも、
「死ななければならない」という響きはとても魅力的だった。だからぼくはその言葉に執心した。
生きていることは強制されるべきことじゃない。

それが必要でなくなったなら、或いは必要性が薄れていると感じたなら、自ら死んでしまっても構わないのだ。
そう信じてぼくはあらゆる努力を惜しまなかったつもりだ。

だが、雷鳴はそんなぼくの選択肢を根こそぎ奪い取ってしまった。
ぼくが今まさに感じているのは……紛れもない死への恐怖心だった。
雷撃で散る程度の命を、ぼくはまだ吹き消してしまいたくないと思ってしまったのだ。

そう、だからぼくは死にたくない。死ななければならないが、死にたくないのだ。なんという矛盾だろう。
生きる元気などは既に枯渇してしまっているのに、死ぬ元気さえ無理矢理そぎ落とされてしまった。
そして、その二つの井戸は重厚な蓋で閉ざされてしまい、二度と水が注がれることはない。

ぼくは、真の意味で空っぽになってしまったのだ。

127 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 22:03:20 ID:9BaR2n0c0
考えるのをやめてしまいたい意志とは逆行して、ぼくの頭は無意味に覚醒していた。
あらゆる物事を並行して思考している。生きていることも、死ぬことも、何もかもを考えていた。
全身が、今にもはちきれそうなほど軋んでいる気がした。

全部が無駄だった。死を考えることさえ、苦痛でたまらなくなっていた。
結局のところ、色々と難癖をつけて死を回避しようとしているようにしか見えない自分自身があまりにも疎ましかった。
そう、できることなら雷鳴など耳に入れることなく、死という選択肢を完遂してしまいたかった。

それだけで、よかったのだ。

そして雷鳴が響いた。ぼくは辺りにかまわず叫んでいた。
ここにも、彼女の姿は見当たらない。





128 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 22:04:01 ID:9BaR2n0c0
次は10月1日の夜に投下します。

では。

129名も無きAAのようです:2014/09/30(火) 22:04:19 ID:0LeReEVs0
乙!

130名も無きAAのようです:2014/09/30(火) 22:38:06 ID:KnsmzAGM0


131名も無きAAのようです:2014/09/30(火) 23:46:27 ID:tOLsnB4A0
どうすればここまで考えをほじくれるのか…
アースで散る雷みたいな話だったよ
おつでした

132 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:16:58 ID:h2WvNwoE0
5.ちぎれた手紙のハレーション 20140731KB

『兄さま、貴方はわたくしに大いなる寵愛を授けてくださいましたね……』

外では太陽がキラリキラリと照り輝き、上空を舞う雲の波は、まるで畝って奇妙な芸術のように舞い躍ります。
少しだけそよぐ空気が、心地の良い熱を運んでくれます。

こんな日に独り部屋に引き蘢って、手書きの手紙をしたためているなどというのは、
もしかしたら背徳的な行為なのかも分かりません。
 
けれども、わたくしはどうしてもこの手紙を今日中に書き終えなければなりませんでした。
忙しなく動き回る世情に従って、わたくしもするべき事はサッサと終わらせてしまわねばならないのです……。

『貴方の寵愛は、わたくしの人生に数多の幸福を齎してくださいました。
 ですから、わたくしは貴方と共に歩んだ年月を、決して後悔などしておりません……』
 
わたくしも一人前の現代ッ子でありますから、手書きで長文を書き表すなどという事には然程慣れておりません。
こうやって書きながらも少しずつ読み返し、その文字の乱雑さに恥じらいを覚えてしまいます。

字体にはその人の育ちが其の儘表現されると申しますけれども、
それを考えるとわたくしはただただ申し訳なくなってしまいます。

『こうして互いが離ればなれになってしまってなお、
 わたくしは兄さまのことを思い出さない日は殆どないのです……』

133 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:20:04 ID:h2WvNwoE0
そういえば、昨夜はこんな夢を見ました。
 
わたくしは空を漂っていました。
生まれ故郷である田舎町の宙空を、特に何をするということもなく浮揚していたのです。

季節は夏。時刻は真昼間で今と同じように太陽の光が燦々と降り注いでいました。
なのに、そこには同時に星空も存在していたのです。
彼らの輝きは決して太陽に負ける事なく、それぞれがくっつき合い、色々な星座を形成しておりました。

そして私の眼には、まるで図鑑で見ているかのように、それぞれの星座の画がハッキリと映っていたのです。
 
そんな非現実的で酷く美しい空の下をわたくしは飛行しておりました。
すると、眼下の畦道に学生時代の知り合いを発見したのです。

彼女とはそれほど仲が良かった憶えもないのですが、
その時の私は何の疑問も持たずに彼女の元へ一目散に舞い降りていったのです。

そのとき……落下していく際に覚えた無重力的な心持ちときたら……
今思い出してさえ、身体がゾクゾクとしてまいります。

ああ……そうです、畢竟、わたくしの夢は浮遊と墜落によって構成されているのです……
現実には決して味わう事のない体験……けれども、わたくしには親しみすら覚えられる感触……。
わたくしは、もう幼き頃から、その体験の虜になっていたと言っても過言ではないのでしょう……。
 
話がそれてしまいました……そうして、わたくしは知り合いの女性のところへ降り立ちました。
彼女の風貌は私の知っているものと何ら変わるところなく……
学生時代と同じく柔和な笑みをわたくしに向けてくださっていました……何の違和感も覚えていないかのように……。

134 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:23:12 ID:h2WvNwoE0
(*゚ー゚)「こんにちは」

と、わたくしは何だか気取った風に挨拶をしました。

(*゚ー゚)「今日はいいお天気ですね」

ミセ*゚ー゚)リ「ええ、本当に」

彼女も優雅に応じてくださいました。

ミセ*゚ー゚)リ「こんな綺麗に星座が見れることなんて、滅多にないことですわ」

(*゚ー゚)「貴方はどの星座がお気に入りなのですか?」

ミセ*゚ー゚)リ「私は、実を言うと蛇遣い座が最も素敵だと思っているんですよ」

(*゚ー゚)「まあ。蛇遣い座でしたら、まだ空には昇っておりませんね」

ミセ*゚ー゚)リ「ええ、けれど、宵の口にはきっと美しく煌めいている筈ですわ」

(*゚ー゚)「本当ですわね、アハハハハ」

ミセ*゚ー゚)リ「アハハハハ……」
 
そうしてわたくしは目を覚ましました……夢の中の彼女に別れを告げる事もなく……。

135 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:27:38 ID:h2WvNwoE0
夢から醒めるたび、わたくしはいつも口惜しい気分になってしまいます。
夢の世界は大抵において素晴らしく、美しく、そして夢の中のわたくしは、
その全てが余すところなく現実であると信じ込んでいるのです。

ところが、夢から醒めるたび、わたくしの確信はたちまちにして立ち消えてしまい、
あまつさえ、同じ夢と再会することは稀にも起きてくれないのです。

そうですからわたくしは……夢と別れるたびに……わたくしの中に僅かに潜んでいる美しき部分……
自分自身に陶酔できる部分を失ってしまうような感覚に陥ってしまうのです。

『兄さまはお元気でやっていますでしょうか。わたくしのことを、まだ憶えてくださっていますでしょうか』
 
そのあとに遺るのは自己嫌悪のわたくし……どす黒く固まってしまったわたくしだけが、
心の中に居座ってしまっているような気さえしてしまうのです……。
そしてその嫌悪感はやがて他者に及び、愛すべき家族に及び、兄さまに及び……。

『突然のお手紙にさぞや驚かれたことでしょうね。
 けれどもわたくしは、どうしても直筆で兄さまにお伝えせねばならないことが出来てしまったのです。
 兄さま、兄さま……悲しんでくださいますか。寂しがってくださいますか。

 このお手紙は他でもなく、兄さまへの別れのお手紙なのですよ……』

136 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:30:27 ID:h2WvNwoE0
……その、時代遅れの山高帽を冠った背高の紳士がわたくしの部屋を訪れたのは、
今から丁度一週間まえのことです。その時も素晴らしい夢をお別れをして……
ウツラウツラとしていたわたくしのところへ、彼はあまりにも唐突に、不躾に……

願っても得られないような悪夢を携えてやってきたのです。
 
今にして思えば、どうしてわたくしは見ず知らずのあの男を部屋に入れてしまったのでしょうか……
身持ちの悪い女である自覚はありません……しかしあの時は、あの時だけはどうしても、
避けられぬ運命が形になって現れたのだと錯覚し、受け入れざるを得なかったのです。
 
部屋に入った男は帽子をとることもなく、煙草を一本、吸ってもいいかとわたくしに訊ねました。
わたくしが渋々了承いたしますと、彼は背広の胸ポケットからクリーム色の小箱を取り出して、
窓際へ歩み寄っていきました。

( ・∀・)「この煙草はね……貴女なんかもご存知かも知れませんが……ピースというんです。
      ええ、英語です。欠片ではなく、平和という意味のほうで……。

      ハハ、私はこの一生涯で、これ以外の煙草を吸うたことがないんですよ。
      そもそも煙を好んで吸う趣味は無いんでね、格好がつけばなんでもいいんです……。
      ええ、喫煙者の心理なんて大抵そんなものですよ、キットネ……。

      ほら、パッケージに鳩が描かれているでしょう。平和の象徴ですよ……。
      こんな、依存性の高い毒物に平和なんて名付ける意図について、貴女はどう思われます? 
      私は、チョット頭がおかしいんじゃないかと思うんですがネ……。

      でも、平和そのものが依存性の高い毒物だと考えると……
      どうで、なかなか小気味よい皮肉だと思いませんか。思わない……? 
      まあ何でもいいんですよ。きっと制作者にもそんな意図はありますまい。

      解釈なんてものは、各々の感性と主観の数だけ存在するという事で一つ……。
      とにかく私は、この名前に一目で惚れ込んでしまったという具合なんです……。
      それで、時々目についたら購うことにしているというワケで……」

137 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:33:23 ID:h2WvNwoE0
彼の風体は、何となく旧き小説に登場する私立探偵を思わせました。
帽子の下に垣間見える目鼻立ちはどこか日本人離れしていて、何より、部屋の中では更に背丈が際立ちました。
そうやって含蓄を呟きながら煙をツイと吐き出す姿などは、十分に板についていたと言って間違いないでしょう。

( ・∀・)「……ええ、分かっていますよ。そんな疑いの眼差しを向けずとも……
      私はこうして煙草をスパスパやるためにここを訪ねたワケじゃないんです……。
      そう、チョット退っ引きならない用事が出来たもので、こうして寄らせていただいたんですよ。

      それはね、有り体に言えば人探しと申しますか……ある方の依頼があったものでして……」

(*゚ー゚)「では、矢張り貴方様は探偵か何かでいらっしゃる……?」

( ・∀・)「ヤハリ? ……そう、そうですか。ハハ、そう見えますか。こいつはいけませんねえ。
      探偵がイカニモ探偵という格好をしていることほど滑稽なものはありません……
      私服警官が警察手帳をぶら下げて歩いているようなもんです。

      今後は改善に努めましょう。ええ、そうしましょう……
      然しね、今回はもう、貴女に気付いていただいても一向に構わないんですよ。
      何せ私の役目は貴女を突き止めた時点で、とうに終わってしまっているものですから……」

138 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:36:25 ID:h2WvNwoE0
そうして彼は、背広の内ポケットから一枚の写真を取り出し、わたくしに手渡しました。
それはモノクロで仕上がったポラロイド調の写真で、まるで昭和以前の雰囲気を匂わせるものでした。
そしてそこには一人の、何の変哲もない若い男性が写されておりました。全然見覚えのない男性の顔が……。

(*゚ー゚)「あの、この方は……?」

( ・∀・)「きっとそう言うだろうと思っていましたよ……。いやね、依頼人には聞かされておったのです。
      彼女は記憶を喪失してしまっているかもしれない、
      だから僕の顔を見ても何もハッキリ思い出せないだろう……とね。

      それだからこそ、私のような私立探偵にお鉢が回ってきたという具合で……。まあ、何でもいいんですよ」

彼はそこで、不自然なほどに口角をつり上げた笑みを浮かべてみせました。
その表情が何とも恐ろしく恐ろしく……わたくしはとても直視することが出来ませんでした。

( ・∀・)「ええ、落ち着いてよくお聞きください……この方は、貴女の婚約者なのですよ」
 
わたくしは目を見開いてその写真と、彼の顔を交互に見つめました。
そして、ヒュウ、と音階の外れた呼吸をしながら「そんな……」とやっと一言呟いたのです。

( ・∀・)「ほほう……やはり全部依頼人の……貴女の婚約者の予想した通りでしたか。
      ええ、きっと何やらの特別な事情があったのでしょう。貴女はこの顔の人物を憶えていない、
      それどころか、自分が誰彼と婚約したかどうかさえ、記憶していない……そういうワケですね?」
 
わたくしはただ、コクリと首肯するのがやっとでした。

139 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:39:45 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「そうですか。それは困った事態ですナ……。然し、既に調べはついているんですよ。
      ここへ伺う前に、予め言質は取れているというワケで……。

      ええ、つまり依頼人のご家族、及び貴女のご両親にも事情をお聞きしましてね。
      この依頼人と貴女が三ヶ月ほど以前に婚約を結ばれ、
      各々のご両親への挨拶も済ませているという事は、既にハッキリしているというわけです」

(*゚ー゚)「そんな、何かの間違いでは……」

( ・∀・)「間違いではない! ……ええ、現に私がここに辿り着いたのがその証拠ではありませんか。
      私だって何も闇雲に、シラミつぶしに貴女の苗字の彫られた表札を探して歩いたんじゃあないんですよ。
 
      貴女は一ヶ月ほど前、突如依頼人の前から姿を消した。
      以来、彼は貴女を発見しようと這々の態で動き回ったのです。それでも見つかりやしない……
      それで彼は、恥を忍び、断腸の思いで私や貴女のご両親に相談を持ちかけたと、そういうワケです。

      貴女の居場所はご両親が大体の見当をつけてくれました。
      曰く、娘は静かな場所を好み、また所縁のないところを嫌うと……故に、大学生の頃、
      下宿していた辺りが怪しいのではないかと……そしてその推測は、見事的中していた」
 
わたくしはもう一度、目を凝らして写真の人物を眺めました。
ごくごく普通の、何一つ印象的ではない男性の表情……。
それこそ、通りすがりの見知らぬ他人に向けるような感情しか湧いてきません。

こんな男性と知り合いになり、ましてや婚約を結んだ自分がいるなどということは、全く信じられないことでした。

……そして何よりも……こんな言い方は可笑しいかもしれないですけれど……
わたくしには記憶喪失になった憶えが一切ないのです。

140 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:42:17 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……まあ、よくよく驚かれるのも無理もない。
      然しね、貴女の仕掛けた今回の失踪劇は、
      ある程度貴女自身によって意図されていたものだったんですよ」

(*゚ー゚)「……どういうことです、それは……」

( ・∀・)「貴女は失踪直後、ご自身の携帯電話を解約しておられる。
      それで、依頼人もご両親も連絡が取れなかったという経緯があります。
 
      このご時世にわざわざご自身の電話番号を失われるなど、
      相応の覚悟をもってでしかなし得ない事ではありませんか。そう思うでしょう? 

      ……いやいや、これは、今の貴女を責め立て、糾弾しても何ら意味のないことではありますがネ……。
      ただ、一つ考えていただきたいのは、過去の貴女はご自身の意思をもって、
      計画的に今回の芝居を打ったという事実でありまして。

      そこには何らかの、重大な動機が秘められている筈なんですよ」

(*゚ー゚)「そんなこと……わたくしは、まだ、この男性……
     わたくしが婚約を結んでいる男性のことも思い出せていませんのよ。
     そもそも、わたくしが婚約なんて……誰か様と、そんな縁を結んでいただなんて……」

( ・∀・)「ほほう、ご自分が婚約者の身分であるということがそれほどに信じられませんか」

(*゚ー゚)「だってそうでしょう? 
     婚約をしたということは、私はその方に恋慕し、また恋慕していただき、
     長い時間を経てようやく到達する頂ではありませんか。

     それほどに貴ぶべき時間の全部が、現在の私の頭からはスッポリと抜け落ちてしまっているのです……。
     だって、正直に申し上げますと、今この方の写真を見ても、何の好意も抱けないんですのよ……」

141 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:45:29 ID:h2WvNwoE0
わたくしは、もう殆ど耄けたような心持ちになっておりましたが、
それでもまだ、この探偵への疑いを持ち続けていました。

すなわち、全てがこの、探偵を名乗る男の一人芝居なのではないかと……
全ては、何らかの目的でわたくしを騙すための策略に過ぎないのではないかと……。
 
しかし、そんなわたくしの疑惑や期待は、彼の次の言葉によって華麗に打ち砕かれることとなってしまったのです。

( ・∀・)「イヤイヤ……貴女の恋愛観は素晴らしいものです。
      この時代にそれほど堅牢な心をお持ちである事には、ホトホト頭が下がる思いです。

      とは言え……私も職業柄、貴女の感情的な言葉だけで屈するわけにもいかない……
      ええ、これは男性である私からはやや言いにくいんですがね……
      依頼人が貴女を心配なさっていたのには、格別の理由があるからなんですよ……。

      これは直接的な動機があるわけではなく、
      ただ依頼人が過去の貴女からお聞きなさっただけのことではありますが……
      事実であれば成る可く速やかに自覚していただかなければならない……。

      ええ、そうです。過去の貴女はね、依頼人に、ご自身が身重であるという風に告白したそうなんですよ」
 
私は彼の言葉を噛み砕いて、ようやく意味を理解した瞬間にグラリと揺らめくような目眩を覚えました。
それと同時に、お腹の方から心臓に向かってゾワゾワと悪寒が競り上がりました。
まるで言葉に反応し、自らの存在を主張するかのような不気味な悪寒が……。

142 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:49:06 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「ええ、もっとも、まだ月日は浅く……外見で判別できるものではありません。
      然し乍ら貴女自身がお感じになられた様々な変化が……その事実を明確に物語っていたのだそうです。
      依頼人は……ええ、勿論貴女もです……それはそれはお喜びになられたそうですよ。

      それで、近いうちに連れ立って病院に行き、
      正確な事実を把握しようという手筈まで組んでいたとのことなのです。
      けれども、その矢先に貴女が失踪なされた……。

      そのため、依頼人は『過去の貴女が過去の貴女の儘であれば』失踪するなど考えられないと、
      こう予測立てたワケでしてネ。まあ、勿論勾引されたという可能性もお考えになったそうですが……
      そうだとすれば、ご本人によって携帯電話が解約されているというのは、どうにもオカシイ。

      そう、それこそ記憶喪失になったとでも考えなければ有り得ない事態だった、とそういうわけなんです……
      オヤ、大丈夫ですか? 相当にお顔色が悪いようですが……」

(*゚ー゚)「気になさらないでください」

と、わたくしは言葉を絞り出しました。勿論、まだ信じられない気持ちでいっぱいでした。
けれども、それでも、悪寒が止まりませんでした……まるでわたくしの身体を乗っ取ろうとしているかのように、
徐々に震えが全身へと行き渡ってゆくのです……。

143 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:51:29 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……ええ、まあ、私も専門の医者ではないんでネ……
      貴女を一見してご懐妊されているかどうかなど分かる由もない……
      どうしても信用できないようであれば、一度ご自身で産婦人科などに通ってみては如何でしょう……。

      イヤイヤ、というのもね、依頼人はすぐに貴女を連れ戻そうという気はないんですよ……
      ええ、これは貴女のためを思ってのことです。記憶喪失にせよ何にせよ……
 
      まあ、結果的に予想通りだったワケですが……この時期に失踪なさるということには、
      余程の動機があったに違いない、彼女には彼女自身、心の整理をつけてから帰ってきてもらいたいと、
      そう仰るんですな……。

      実際、ねえ? 今から依頼人の元へお帰りになったところで、益々混乱するばかりでしょう、
      そう思いませんか……。そういうわけですので、貴女にはいましばらく、猶予があるのです。
 
      本来ならば私の仕事はここで終いなんですが、そうですナ……
      一週間後を目処に、もう一度此処へお伺いします。それまでに、身辺整理をするということで一つ……。
 
      その際にも帰宅を拒否されるようならば、私は何度だってやって参りますよ。
      何せ暇なものでしてネ……。しかしまあ、私も仕事ですので、
      契約している期間はそれ相応の料金を頂きます……

      無論、それだけ依頼人の金銭的負担も膨れ上がるという具合で……
      まあまあ、それは今の貴女が考えるべき事案ではないですな。

      失礼、どうもこういう商売ですと、銭金の問題に敏感になってしまうものなんですよ……
      今時、私立探偵なんて流行りませんからねえ……この服も一張羅なんですよ……アハハハハ……」
 
わたくしは、一人でペラペラと、さも楽しそうに喋り続ける彼をぼうっと見遣っておりました。
そのうちに無意識に下腹部を撫ぜようとした手を、バチリと他方の手で払いのけました。
今は自分の身体など触りたくもない……そんな心持ちで……。

144 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:54:56 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……おっと、失礼……チョイと長居しすぎたようですな……
      ああそうそう、名刺を置いておきますんでネ、
      何かお困りごとがあったらいつでもその番号にお掛けください。

      ああ、この名刺ね、一応名前は記してあるんですが、あくまでも仮名でして……
      ほら、一枚ごとに名前が違うでしょう? まあ、用心するに越した事はないというワケで。
 
      けれども身分は確かですよ。何なら、ご両親に連絡を取ってみては如何です? 
      きっと私の評判が聞ける筈です。もっとも、ご両親には別の名前で知られているかもしれませんがネ……
      どうもそのあたりの物覚えが悪くて……アハハハハ、ではこれにて……」
 
……彼が立ち去った後、ポッカリと穴があいてしまったような空間を、わたくしはただただ呆然と眺めておりました。
どれぐらいそのままで居たでしょう……。不意に我に返ったわたくしは、早速両親に連絡を取ろうと試みました。

しかし……もしも探偵の言葉が真実であれば、両親もまた、彼と同じようなことを、
追い討ちをかけるようにして私に告げるだけでしょう。或いは、必要以上の語気で叱責されるやもしれません。
その口撃に今のわたくしが耐えられる筈もありませんでした。

かと言って、探偵の言葉の一切合切を全否定されてしまえば、
わたくしは愈々頭がおかしくなってしまうかもしれません。それだけ彼の言葉には迫力と真実味があったのです。

ですから、わたくしは両親に連絡を取るのをやめてしまい……近所のドラッグストアへ走ることにしました。
そこでわたくしは……もう本当に、顔から火が出るような思いで……妊娠検査薬を購ったのです。

無論、病院に行けばもっと確実な状態が判明するのでしょうけれど、
とてもそんな勇気を出すことは出来ませんでした。
然し、市販の妊娠検査薬でさえも、九分九厘、正確な結論を叩き出してしまうのです……。

『兄さま、実はこのたび、わたくしはとある方の子を妊娠したのです……』

145 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:57:50 ID:h2WvNwoE0
結果は、何度見ても変わりませんでした。
探偵に妊娠の疑惑を突きつけられたその当日に、わたくしは自分の身に、
自分の子どもが宿っていることを理解したのです。

それはもう、今までに見たどんな悪夢よりも絶望的で、そして突き刺さるように痛むほど現実的でした。
わたくしは、つまり、そういった行為を誰彼と交わした憶えはなく、
しかしその証拠はこのお腹に明白に存在しているようなのです。

そんな自分がふしだらにさえ思えてしまい、自己嫌悪が一層に肥大していくのでした。

『けれども、兄さま、信じていただけますか。わたくしは、それでも、それでも……』
 
最早、妊娠という事実だけで探偵の言葉を鵜呑みにするには十分でした。
何らかの理由によって記憶を喪失し、愛すべき人をおいて逃げ去ってしまった……
それが、ようやく自分自身のことなのだと了承するに至りました。
 
ああ、けれど、それでもわたくしは、探偵が置いていった写真を見ても何の感慨も持てずにいました。
わたくしの好みに合うかどうかも分からず、ましてや記憶の引き出しが開かれる気配もありません。

けれども、この男性と愛を交わしたというイメージは徐々に現実味を帯びていき、
わたくしは独りで煩悶せざるを得ませんでした。それは惨めなほどに背徳的で、堕落的で……。
ああ、このお腹に子がいなければ、わたくしはきっとナイフでもって自死していたことでしょう。

けれども、子殺しという罪は脳内で想像することさえ重すぎて我慢できず、
結局は何も出来ずにグシャグシャと髪の毛をかき混ぜてばかりいたのでした。

『兄さま、わたくしは現実を受け止めなければなりませんでした。
 わたくしは、誰か様の元へ嫁ぐという現実を受け止めなければなりませんでした』

146 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:00:22 ID:h2WvNwoE0
探偵はわたくしに、身辺整理をしておくようにと告げましたが、
わたくしには特段……自分の心情を除き、整理しておくべき物事など思いつきませんでした。
ですので、もう今すぐにでも、名刺に記された番号へ連絡することも可能だったのです。

けれどもそれは、わたくしにとって自ら断頭台に上がる日を選ぶようなものでした。
電話をした瞬間にモノクロの男性が、それに伴うあらゆる出来事が色調を得てわたくしに降り掛かることを考えると、もう、とても自分から連絡をとるなどという手段には及べませんでした。

しかしそれはまた、お腹の子どもを無闇に放置しているようにさえ思われ、
わたくしはあらゆる嫌悪感によって雁字搦めに縛り付けられてしまったのです。
 
そうして生きている心地などひとつも得られないような日々が一日、また一日と過ぎてゆきました。

わたくしはただ、自室に横たわって再びやってくるであろう探偵の足音に怯え続けていたのです。
そうやって怯え続けている事にやがて疲れ果て、ウトウトとした微睡みに溺れ……
そうしてまた、一日が無為に終わるのでした。

『兄さま、年の離れた兄さまは、わたくしにとって親も同然の存在でありました。
 そして兄さまもまた、わたくしのことを娘のように可愛がってくださいましたね』

147 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:04:41 ID:h2WvNwoE0
そして一昨日のことでした。また微睡みに浸っている私は、朧げな夢を見たのです。
それはわたくしと兄さまがまだ子どもだった頃の遠く懐かしき思い出を描くものでした。
十も歳の離れた兄さまは、まだ二歳くらいのわたくしを抱き上げ、タカイタカイを繰り返してくれていたのです。
 
恐らく、両親がやっていたのを真似てみたのでしょう。
まだ背も低かった兄さまは、わたくしを出来るだけ高く抱き上げるために背伸びまでしていました。
それから、フウと息をついてほとんど落とすようにして手元にわたくしを戻します。

わたくしがキャッキャと喜ぶものですから、兄さまはまた踏ん張ってわたくしを抱え上げ、
タカイタカイ、タカイタカイ、と云うのでした。
その繰り返しを、兄さまは腕が上がらなくなるまでいつまでもいつまでも続けてくれるのでした。

『物心ついたわたくしが最初に受けた兄さまの愛が、あのタカイタカイでした。
 兄さまのタカイタカイはちょっと危なげで、特に腕をおろすときなんかは随分スピードがあり、
 わたくしは幼心にスリルを感じていたように思います。

 けれど、そんな兄さまのタカイタカイが、わたくしは大好きでした』

148 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:08:12 ID:h2WvNwoE0
その夢の中で、わたくしは兄さまと幼いわたくしがタカイタカイをしているのを、
どこからともなく客観的に眺めておりました。

しばらくは、何だか温かい気持ちでその様子を見守っていたのですが、
やがて、兄さまに抱かれている小さい自分が羨ましくて堪らなくなりました。

それは、恥ずかしながら殆ど嫉妬のような情念であり、
わたくしも、もう一度兄さまに抱かれたい、といつの間にか狂おしいほどに欲していたのです。

『そして、わたくしはどうしてか、今なお兄さまに抱き上げられたいという思いを捨てられずにいるのです』
 
必死にタカイタカイをしている兄さまに近づこうと、夢の中のわたくしは、
存在しているかも分からない身体を蠢かせて接近を試みました。
そしてあわよくば、小さい自分から兄さまの手元を奪い取ってしまおうとしていたのです。
 
何故それほどに執念を燃やしているのか……自分自身にも分かりませんでした。
ただただ本能の赴くままに……理性をどこかに置き去ってまで、わたくしは兄さまに抱かれようとしていたのです。
そして散々に?き苦しんだ後、わたくしはようやく兄さまの手元に辿り着いたのです。
 
夢の中のわたくしは、小さい頃のわたくしの身体と同化しておりました。
わたくしは、何の違和感もなく、まんまと兄さまの手の中に侵入することができたのです。
そして案の定、兄さまは疑う事もなく、またタカイタカイをしてくださいました。

タカイタカイ。タカイタカイ。タカイタカイ。タカイタカイ……。

149 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:11:11 ID:h2WvNwoE0
『気付いた事があります。わたくしはよく夢の中で空を飛んだり、そして落ちていったりします。
 何だか気味の悪いようにも聞こえますが、わたくしにとってそれは酷く心地の良いものなのです。
 それが何故なのか……全ては、兄さまの、タカイタカイに起因しているように思えてならないのです……』
 
その浮揚と、無重力的な墜落……わたくしには、それがもうたまらないのです。
ましてやそれが、夢の中でとはいえ、兄さまの手でしていただいているのですから。
それは懐古の念だけではなく、何やら抑えのきかない情欲を燃やすのでした。
 
わたくしはしばしその快楽を享受し続けました。
頭の中では、兄さまとの思い出が齣撮りの映画みたいに流れていました。それはあまりにも幸せでした。
あまりにも美しくありました。

このまま死んでも一向に構わない。いやむしろ、兄さまの手の中で死んでしまいたいと何度思ったことでしょう。
夢の中で、もう少し身体に自由が利いていたら、
わたくしは自らの口で直接兄さまにお願いしていたかもわかりません。
 
そうして永劫のような時間の後に目覚めたわたくしは、それが夢だと徐々に認識していくと同時に、
襲いかかってくる現実の怖さを前にしてサメザメと泣き続けました。
そして、兄さまに逢いたくてたまらなくなってしまっていました。

ああ、もう一度だけでいい。兄さまに抱きしめていただきたい。それさえ叶えられるなら、わたくしは、もう、もう……。

150 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:14:13 ID:h2WvNwoE0
『……一つ、奇妙な疑問があるのです。わたくしの処へやってきた探偵は、
 わたくしの婚約者や、わたくしの両親について口にしましたが、
 ただの一度として兄さまについて言及しなかったのです。

 あの方は、必要最低限の情報のみを伝えたために兄さまのことを口にしなかったのでしょうか。
 それとも、敢えて口に出さなかったのでしょうか……』
 
そうして、わたくしは手紙を書くことにしたのです。
まるで遺書のように丁寧に、どれだけ疲れても手書きで書き綴ろうと心に決めて……。

もうすぐ探偵がやってきます。そうしたら、わたくしはもう拒否の姿勢をとることは出来ないでしょう。
黙ってついていくより他にないのです。ですからそれまでに、
満身創痍の身体に鞭打って何とかこの手紙を書き終えなければなりませんでした。

『けれども、婚約した方の顔や氏名は忘れてしまっていても、兄さまのことは今なおハッキリと憶えております。
 兄さまの姿形は脳裏にしっかりと浮かび上がり、揺らぐ気配もありません。

 愛しい兄さま。そろそろ筆を置かねばなりませんが、
 わたくしにはこの手紙を締めくくる言葉がどうにも思い浮かばないのです。まだまだ書きたいことは山とあります。
 せめて、嫁いでしまう前にもう一度お会いしたかった。もう一度お顔を見たかった。もう一度お話ししたかった……』
 
外では太陽がキラリキラリと照り輝き、上空を舞う雲の波は、まるで畝って奇妙な芸術のように舞い躍ります。
こんなよい日にわたくしは何という思いを抱えてしまっているのでしょう。

そして、わたくしは何というものを失ってしまったのでしょう。

151 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:17:20 ID:h2WvNwoE0
『ああ、けれどこれは今生の別れではありませんでしょう……そうであることを願うしかありません。
 ですからわたくしは、ここで、一度この手紙を区切りたいと思います。
 またいつか、お手紙を書かせていただきますね。

 ねえ、兄さま……よければお返事をください。わたくしは、ただそれを渇望するだけで生きてゆけます。
 それでは兄さま、ごきげんよう……』
 
遂にわたくしは筆を置きました。そして丁寧に手紙を折り畳み、予め用意していた封筒に入れ、綺麗に封をしました。
そして、宛名のところに兄さまの名前を書き……。

( ・∀・)「もうそろそろ、よろしいですか」

不意に背後から聞こえてきた声に、わたくしは思わず悲鳴をあげてしまいました。
そうして恐る恐る振り返ってみますと、例の探偵が、
あの不自然に口角をつり上げた笑みを浮かべて突っ立っていたのです。

( ・∀・)「いやいや失礼……驚かせましたかネ。けれども貴女も不用心なものですよ、
      女性の独り住まいで鍵もかけていないなんて……。
      もしこれが押し入り強盗だったらどうするんです……アハハハハ。まあ、何だっていいんです。

      実はかれこれ十分ほど前からここに居ったのですがね。
      どうも忙しげでしたから、声をかける機会を見計らっていたんですよ……驚かせてしまいましたかネ。
      まあ、いつにしたって貴女は驚いていたことでしょう。仕方ない仕方ない……。

      さて、ではそろそろ参りましょうか。貴女も、拒否する意思は無いようですからネ……」

152 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:20:34 ID:h2WvNwoE0
(*゚ー゚)「待ってください」

わたくしは、もう殆ど叫んでおりました。

(*゚ー゚)「せめてこの手紙を出させてください。これは、大切な手紙なのです。
     これを出さないことには、わたくしは心積もりを固めることが出来ません……」
 
探偵はジッとわたくしのことを見下ろしておりました。そしてアハハと笑い、それから突然、
私の手から封筒を奪い取りました。

(*゚ー゚)「何を……」

取り戻そうと手を伸ばすわたくしの前で、探偵は笑みを浮かべたまま、その封筒を中身ごと縦横に引き裂きました。

( ・∀・)「ご冗談を」

ハラハラと落ちてゆく紙片の向こう側で、探偵は声を潜めました。

( ・∀・)「こんな手紙に意味などありますまい……殊に、宛てる住所の分からぬ手紙というものにはね」

(*゚ー゚)「え……」

( ・∀・)「何を驚いてらっしゃるんです? 
      だったら貴女には、その『兄さま』とやらの住処がお分かりなのですか? ……ほら、分かる筈も無い。
      だって、貴女と貴女のご兄弟は、両親によって無理矢理別れさせられたのですからネ……

      もしや、そのこともお忘れに? 貴女が幾ら望もうとも、この手紙は『兄さま』には届かず、
      ましてや再会など果たせる筈もないのですよ……。

      ええ、けれども貴女は誰を恨むべきでもありませんよ……
      だって、両親は善かれと思って二人の仲を取り計らったのですから。
      ただし、それがために貴女の記憶に混濁が生まれた可能性もなきにしもあらず……。

      ええ、知っております。全部知っておりますとも。わたくしは貴女がたご兄弟の関係も、
      何もかも調べきっておりますとも……」

そして探偵は、伸ばしたまま硬直していたわたくしの手を握って無理矢理に立ち上がらせ、
ふと真顔で呟いたのです。

153 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:24:08 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「けれどもネ……ご安心ください。
      貴女の望む『兄さま』とやらは……きっと、こんな千切れた手紙さえも頼りにして、
      きっと貴女の元へ辿り着くことでしょう……。

      貴女が『兄さま』を熱望するのと同じぐらい、『兄さま』も貴女を熱望しているのです……
      だから何の心配もない……ええ、要らないんですよ。

      私はご両親の強い願いもあって敢えて『兄さま』のことを口にしませんでしたが、
      貴女自身の記憶が確かである以上、貴女がた二人の仲までは阻害しませんとも……。
      だってそれは仕事じゃありませんからね……アハハハハ。

      大丈夫、お二人の心意気次第で、貴女がたは天国にも地獄にも堕ちられるでしょう。
      今はただ、待ち侘びることです」
 
……一陣の風が吹いて、床に散らばった手紙の破片をユルリと窓の外へと運んでゆきました。





154 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:24:53 ID:h2WvNwoE0
次は10月3日の夜に投下します。

では。

155名も無きAAのようです:2014/10/01(水) 23:42:31 ID:CvlgnK7o0
おつ
なんか大正ロマンっぽい雰囲気だった

156名も無きAAのようです:2014/10/02(木) 00:30:16 ID:rXU9IDEg0
まぁブーン系じゃなくてもいいかな

157名も無きAAのようです:2014/10/02(木) 00:48:36 ID:.xOBlmwk0
ちんこがむずむずする話だったな

158名も無きAAのようです:2014/10/02(木) 01:23:58 ID:/4DP5WtM0
記憶を失った原因がわからないままか
あと婚約者が兄なのか?それとも兄と愛し合っていたのに婚約する事になったから記憶を失って逃亡したのか?

159名も無きAAのようです:2014/10/02(木) 20:43:16 ID:Jr7wa3aU0
いや、ブーン系でなけりゃ俺は目にする機会がなかった。
楽しみにしてる。

160名も無きAAのようです:2014/10/03(金) 00:23:06 ID:jcntNHL20
むしろブーン系でやるべき作品ってなんだよ

色々想像を膨らませる終わり方がいいね
おつ

161 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:05:48 ID:/I8YLJN20
6.聖夜の恵みを(interlude 2) 20111103KB 

少し前の十二月、一番幼い孫が私達に向かって、クリスマスに何が欲しいか訊ねてきたことがあった。

(・∀ ・)「一緒にお願いしてあげるよ」
 
孫はサンタクロースに送る手紙をクレヨンで書いていた。
私達は顔を見合わせた。それはむしろ、私達が孫に問いかけたい質問だったからだ。
先手を取られ、二人して思わず微笑んだ。

( ФωФ)「爺ちゃんは、そうだな」

私は逡巡して言った。

( ФωФ)「旅がしたいな。外国も捨てがたいが、やはり国内……。
       そう言えば北海道で食べた海鮮丼は格別だったな、今頃の時期にもう一度……」
 
そこまで口にした時、ふと妻の視線を感じて私は思わず口を噤んだ。
何が言いたいのか、手に取るように分かる。
お爺ちゃんたら、年甲斐もなく真剣に考えているみたい。もう、サンタさんよりお爺さんなのにね……。

( ФωФ)「婆さんは、どうだい」

小恥ずかしくなって、私は慌てて妻に訊ねた。妻は昔と変わらぬ所作で首を少し傾げ、皺の中に笑みを作った。
そして、軽く目を閉じて言った。

从'ー'从「お婆ちゃんぐらいの歳になると、毎日生きているだけで幸せと思えますよ。
     でも、そうね。出来ればお爺ちゃんと、もう少し長く一緒に居たいものね」
 
その殊勝さときたら。私はますます小さくなったのだった。

162 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:08:36 ID:/I8YLJN20
( ФωФ)「婆さん」

从'ー'从「何ですか」

( ФωФ)「遺灰を、少しだけでも海に撒いてくれないか」
 
冷たく淋しい川のせせらぎが聞こえていた。もうすぐ私を向こう側へ運んでいく流れだ。
朧気な感覚の中で、私は言葉を紡いでいた。

( ФωФ)「旅がしたいんだ」
 
この期に及んでも旅に拘っている自分がおかしくなって、心の中で笑った。身体はついてこなかった。
病室の白い空間には私と妻しか居ない。もうすぐ死ぬと言う事実は案外すんなりと飲み込めるものだった。
世界は徐々に輝きを失い、誰も居なくなったようだ。だが、すぐ傍に妻がいることは分かっていた。

それでも覚える孤独感が、たまらなく幸福だった。
私が妻を一心同体の如く愛していると、ようやく理解出来たからだ。この孤独はあまりにも切なく、美しかった。
 
妻の手が私の腕に重ねられる。柔らかい愛撫。お互い、随分と痩せてしまったものだ。
時は肉体を剥がしていき、そして遂には魂も剥がす。掌から伝わる僅かな熱も、じきに遠ざかっていく。

( ФωФ)「婆さん」

从'ー'从「何ですか」

( ФωФ)「すまないな、願いを叶えてやれなかった」
 
妻の、慎み深い笑い声が聞こえてきた。

从'ー'从「もう、慣れましたよ」
 
そうだったな、いつもそうだった……。
急激に襲ってきた最後の眠気に抗えず、私はただ、妻の手の感触に残った灯火を委ねた。

163 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:11:46 ID:/I8YLJN20
/ ,' 3「偶然ですよ」

と、サンタクロースは言った。

/ ,' 3「海岸沿いを飛んでいたところへ、突然貴方が飛び込んできましてね」
 
私の言葉通り、妻は約束通り灰になった私を海に撒いてくれた。
そうして上空へ舞い上がったところへ、件の赤い紳士が通りがかってくれたというわけだ。

( ФωФ)「こんな老いぼれに奇蹟が起こるとは、申し訳ないものです」

/ ,' 3「ご老人、いえ、偉大なる人の子よ。そんなことはありません。何しろ、今宵は聖夜なのです。
   あらゆる人に、その恵みが降るべきなのですよ。貴方にも、貴方の奥様にも」
 
そして、聖夜のそりは我が家へ向かってくれた。何故か私には、妻が私に気付いてくれるという確信があった。

164 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:14:47 ID:/I8YLJN20
7.明日の朝には断頭台 20140928KB

( ФωФ)「……」

[TV]<さあ阪神タイガース、伝統の一戦、ここを抑えれば一気に優勝が見えて参ります。

( ФωФ)「ふん、点差は一点。ランナーはあれど、我がチームには不動の守護神がおるのだ」

[TV]<九回裏、ツーアウト二塁……マウンド上のピッチャーが額の汗を拭う。

( ФωФ)「この打者はインハイに直球を投げておけば余裕だ。データ的にも明らかであると言える」

[TV]<さあ、キャッチャーがインコースに構えた。

( ФωФ)「うむ」

[TV]<ピッチャー、セットポジションから……今、投げました!

( ФωФ)「そこや!」

[TV]<カッキィィィィィィィィィイイイイイイイイン

( ФωФ)「あ」

[TV]<ああ、これは! なんということでしょう! ライト、ただ上を見上げるだけ――!

[TV]<入りました! ジャイアンツ、九回裏、勝負を決める代打の逆転サヨナラホームラン!

( ФωФ)「……」

[TV]<守護神、ただただ呆然と立ち尽くしている……ボールはキャッチャーの要求通りだったのですが……。

( ФωФ)

( ФωФ)

(#ФωФ)「せやからアウトコースに落ちる球や言うたやろ!」

165 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:17:33 ID:/I8YLJN20
<コンコン

(#ФωФ)「相手も対策ぐらいしてくるやん! そこは裏をかく配球にしといたらよかったんや!」

<ガチャ

(゚、゚トソン「失礼します」

(#ФωФ)「もうええ! 我輩が監督やる!」

(゚、゚トソン「ご主人様」

(#ФωФ)「悪いことは言わん! 年俸は一千万でええぞ!」

(゚、゚トソン「ご主人」

(#ФωФ)「ろーっこーおーろーしにー!」

(゚、゚トソン

(゚、゚トソン チッ

(゚、゚トソン「ご主人様、わたくしです。トソンです」

(#ФωФ)「さーっそーおーとぉー!」

(#ФωФ)

( ФωФ)「……む、誰かと思えばメイドのトソンではないか」

(゚、゚トソン「ええ、ご主人様のお世話を独りで二十四時間任されているにもかかわらず」

(゚、゚トソン「時給680円から一向に上がる気配もない哀れなメイドの都村トソンが参上致しました」

( ФωФ)「……」

( ФωФ)「うむ、実に説明的な台詞で分かりやすい。よろしい。褒美は我輩のウインクだ」

( Фω<) バチン

(゚、゚トソン チッ

166 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:20:42 ID:/I8YLJN20
( ФωФ)「なあトソンよ……どうして我が阪神タイガースは短期決戦になると勝てぬのだ?」

(゚、゚トソン「申し訳ありません、わたくしは野球のことを存じ上げてございませんので、悪しからず」

( ФωФ)「このままではどうせ、クライマックスシリーズで敗退してしまうぞ……」

(゚、゚トソン「どっちにしたってセールやるんだからいいじゃないですか」

( ФωФ)「ちなみにトソンの好きなスポーツは?」

(゚、゚トソン「クリケットです」

( ФωФ)「クリケット……」

(゚、゚トソン「ええ。あれです、棒で球をなんかアレするやつです」

( ФωФ)

(゚、゚トソン

167 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:23:18 ID:/I8YLJN20
( ФωФ)「……それで、どうしてここに?」

(゚、゚トソン「ああ、うっかり忘れるところでした。大した用事じゃありません」

( ФωФ)「構わん構わん。申せ」

(゚、゚トソン「いいニュースと悪いニュースがありますが、悪いニュースから言いますね」

( ФωФ)「我輩、好きなものは最初に食べるタイプなのだが……」

(゚、゚トソン「ご主人様の処刑の日取りが決まりました」

( ФωФ)

( ФωФ)「あら」

(゚、゚トソン「明日です」

( ФωФ)「まあ」

(゚、゚トソン「断頭台で行われるそうです」

( ФωФ)「やだ」

(゚、゚トソン「以上」

( ФωФ)

( ФωФ)「……で、いいニュースは?」

(゚、゚トソン「最後に申し上げましたでしょう。断頭台です」

( ФωФ)「……」

(゚、゚トソン「特注ですよ」

( ФωФ)「やだアタシ全然気付かなかったわ」

(゚、゚トソン「まったく、ご主人様ときたら相変わらず鈍感なんですから」

(゚、゚トソン アッハッハッハッハ

168 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:26:26 ID:/I8YLJN20
( ФωФ)「えー、我輩ったら死んじゃうのー?」

(゚、゚トソン「何を仰ってるんですか。そもそもご主人様はこの屋敷に軟禁されており」

(゚、゚トソン「政府から処刑の日を待つ身だったではありませんか」

( ФωФ)「うむ、実に分かりやすい説明だ。我輩も自分の立場を再確認できた」

(゚、゚トソン「恐れ入ります」

( ФωФ)「しかし、明日というのは些か急すぎるのではないか?」

(゚、゚トソン「いわゆるお役所仕事ですね。ほら、大臣の判子とかいるじゃないですか」

( ФωФ)「ふむ、我輩の処刑を躊躇するだけの人情は残っておったか」

(゚、゚トソン「悩み抜いたあげく、まあ、最終的には、いてまえって感じだったそうです」

( ФωФ)「……なんでそんなことをトソンが知っておる?」

(゚、゚トソン「電話で聞きました。お役人と一緒に大笑いでしたね」

(゚、゚トソン「まあ、実際にハンコが押されたのは先月のことで、さっきまで担当者が忘れてたそうなんですけど」

(゚、゚トソン「それがまたウケてウケて」

( ФωФ)「愉しそうだなこやつめ」

169 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:29:22 ID:/I8YLJN20
( ФωФ)「というか、我輩処刑されるほどなんか悪いことしたっけ?」

(゚、゚トソン「逆に、それぐらい悪いことしたから処刑されるんでしょう?」

( ФωФ)「ふむう……まあ、今更考えても仕方がないことではあるが」

(゚、゚トソン「それにしても断頭台ですよ。これを作るのがまあ大変だったそうで」

( ФωФ)「ふむ」

(゚、゚トソン「何しろ、国産のギロチンというものは今まで存在しなかったわけですから」」

(゚、゚トソン「そこで今回は各省庁協力のもと、使用する木材の選定から刃の落下速度まで緻密に設計したそうですよ」

( ФωФ)「我輩、そんなことにお金使うぐらいなら世界の恵まれない子供たちを助けるべきだと思う」

(゚、゚トソン「あ、そうそう。もう一つ大切なことを言い忘れていました」

( ФωФ)「なんだ、どうせ悪い話だろう」

(゚、゚トソン「選べますよ、表と裏」

( ФωФ)「……え?」

(゚、゚トソン「仰向けとうつぶせ、あ、一応側面でも大丈夫だそうです」

( ФωФ)「肘ついててもいいの?」

(゚、゚トソン「なんなら、そば殻の枕もOKだそうです」

( ФωФ)「うわあ、我輩ってばなんて幸せなのー」

170 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:32:44 ID:/I8YLJN20
( ФωФ)「……ふむ、しかし急にそんなことを言われても困るな。どうすべきだろうか」

(゚、゚トソン「昔の話では、仰向けの場合大抵の囚人が発狂してしまったと聞きますね」

( ФωФ)「やっぱりそっちの方が怖いであろうな、刃が落ちてくるのが見えてしまうのだから」

(゚、゚トソン「ただ、ご主人様の場合はうつぶせの場合もモニターが用意されまして」

( ФωФ)「え」

(゚、゚トソン「今回は、なんと八つのカメラがそれぞれの角度からご主人様の処刑を中継いたします」

(゚、゚トソン「これはまさに、現代技術と伝統との運命的な邂逅ですね」

( ФωФ)「いつの間にこの国はそんなにアバンギャルドになったのだろう」

(゚、゚トソン「時代は刻々と変化していくんです。野球ばかり見ている場合じゃないですよ」

( ФωФ)「……ということはさっきのナイターが我輩の野球の見納めだったわけか……」

( ФωФ)「それがサヨナラ負けって」

(゚、゚トソン「ご主人様も明日でこの世からサヨナラですし、丁度いいじゃないですか」

(゚、゚トソン ハハッ

171 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:35:56 ID:/I8YLJN20
( ФωФ)「……トソン、きみともお別れということになってしまうのだな」

(゚、゚トソン「そういうことですね」

( ФωФ)「思えば二十年前のあの春の日、シルクロードからやってきた奴隷商人の列の中にキミはいた」

( ФωФ)「商品として売られている少年少女の中で、キミの姿は一際輝いていた」

( ФωФ)「嗚呼、こんな幼気な少女を惨たらしい者の手に渡してなるものか、そう思い我輩はキミを買ったのだ」

( ФωФ)「それからは、キミをまるで娘の如き想いで育ててきたのだ……」

( っωФ)

( っωФ)「こうして立派な大人になるまで、キミを見守ることが出来てよかった」

( っωФ)「我輩の願いはそれだけだったといっても過言ではない……・」

(゚、゚トソン

(゚、゚トソン「わたくし、十九の時にフロムエーで応募したんですけど」

( っωФ)

( っωФ)「……」

(゚、゚トソン「時給、780円って書いてあったんですけど」

( っωФ)「……め、目にゴミが」

(゚、゚トソン「嘘ばかりついてると泥棒になりますよ」

( ФωФ)「いいもーん、泥棒になる前に死刑になるもーん」

172 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:38:35 ID:/I8YLJN20
(゚、゚トソン「というかシルクロードからやってきた奴隷商人が今時いるわけないでしょう」

(゚、゚トソン「もうちょっとリアリティのある設定にしないとネットで親の仇みたいにぶっ叩かれますよ」

( ФωФ)「我輩、全然リアリティのない処刑方法で明日死ぬみたいなんだけど……」

(゚、゚トソン「まあ、ギロチンは元来人道的な処刑方法とされてきたわけですし」

(゚、゚トソン「これを機に、死刑の方法が変更されるかもしれませんよ」

( ФωФ)「……ま、どうなろうと我輩の知る由もないのだが」

(゚、゚トソン「まあ、普通は死刑になんかなりませんしね」

( ФωФ)「やっぱりどうして我輩が死刑にされるのか、サッパリ納得いかんのだが」

(゚、゚トソン「知りませんよ。わたくしに残業代を払わなかったからじゃないですか」

( ФωФ)「それならもっと残虐な死に方をすべき奴がいるだろうに」

173 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:41:22 ID:/I8YLJN20
(゚、゚トソン「……あ、もうそろそろ十一時ですよ。睡眠のお時間です」

( ФωФ)「やだ、今日は寝ない」

(゚、゚トソン「どうしてですか? 眠れないならビールとマイスリーでも飲みますか?」

( ФωФ)「そういうことじゃなくてだな。無理にでも寝ないといけないわけじゃなくてだな」

(゚、゚トソン「スタンガン、使います?」

( ФωФ)「それは睡眠ではなく気絶だ。というか、どうしてそこまで寝かせたがる」

(゚、゚トソン「だって、一応仕えている身ですから、ご主人様が寝てくれないとわたくしも眠れないじゃないですか」

( ФωФ)「……眠いの?」

(゚、゚トソン「わりと」

( ФωФ)「別に先に寝てもかまわないが」

(゚、゚トソン「あ、はい。じゃあお疲れーっす」

( ФωФ)「やだ! 行かないで!」

(゚、゚トソン「なんなんですか、かなり鬱陶しいタイプのメンヘラみたいなこと言って」

( ФωФ)「分かりそうなものだろう。何が悲しくて死を迎える夜をメイドにまで見放されないといけないのだ」

(゚、゚トソン「分かりましたよ。イヤイヤいますよ」

(゚、゚トソン「イヤイヤですよ」

( ФωФ)「……もう、別にそれでいいから」

174 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:45:00 ID:/I8YLJN20
(゚、゚トソン「現実逃避したいなら、せめてお酒でも飲みますか?」

( ФωФ)「そうだな……最高級のやつを頼む」

(゚、゚トソン「はい」

、゚トソン,,, テテテ

( ФωФ)「……やれやれ、なんだか雰囲気が出ないな。しかし、こういうときはどういう心持ちでおればいいのやら」

( ФωФ)「我輩もメイドを雇える程度には財をなしたのだ、せめて今夜ぐらいはリッチに過ごしたい……」

トトト ,,,,(゚、゚トソン

( ФωФ)「変な戻り方だな」

(゚、゚トソン「顔の構成上仕方ないんです……はい、どうぞ」

( ФωФ)「おお、すまないな。なるほど、これか。我輩の持つ最高の酒はキンキンに冷えたこのクリアアサヒ」

( ФωФ)「……」

( ФωФ)「クリアアサヒやん」

(゚、゚トソン「ええ、最高級ですね」

( ФωФ)「ビールどころか発泡酒ではないか」

(゚、゚トソン「まあ、正確には発泡酒ですらない、第三のビールですね」

(゚、゚トソン「でもそれ、ただのクリアアサヒじゃないんですよ。ちゃんとラベルを読んでください」

( ФωФ)「……くりああさひ、ぷらいむりっち」

(゚、゚トソン「最高級のコクですよ」

( ФωФ)「我輩はこんなセブンイレブンみたいな煽り文句では騙されないぞ」

175 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:48:13 ID:/I8YLJN20
(゚、゚トソン「なんなんですか、じゃあバーリアルに取り替えますか?」

( ФωФ)「いやもう、これでいい……というか何でもいい」

( ФωФ) プシュ

( ФωФ) グビリ

( ФωФ)「……あー、美味い」

(゚、゚トソン「ははは、貧乏舌ですね」

( ФωФ)「とりあえずこういうことでも言うておかないとやっておれんだろうが!」

(゚、゚トソン「ご同情いたします……わたくしも頂いてよろしいでしょうか?」

( ФωФ)「ああ、いいぞ構わん。どうせ最期の夜なのだから」

(゚、゚トソン「では失礼して……」

(゚、゚トソン キュポン

(゚、゚トソン トットットッ

(゚、゚トソン「おっとっと、口から迎えにいかなあかん口から」

( ФωФ)「……トソン」

(゚、゚トソン クイッ

(゚、゚トソン クゥーッ

(゚、゚トソン「……はい? 何か言いました?」

( ФωФ)「何飲んでるの、それ」

(゚、゚トソン「森伊蔵ですけど」

176 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:51:59 ID:/I8YLJN20
( ФωФ)「……」

(゚、゚トソン「カァーッ、やっぱりこの味わいは格別ですねえーっ」

( ФωФ)「あのね、トソン、よくきいて」

( ФωФ)「我輩もまあ、そこまでお酒に詳しいわけじゃないけれども」

( ФωФ)「それでもね、クリアアサヒより森伊蔵のほうが高級なことぐらいは分かるの」

(゚、゚トソン トットットッ

( ФωФ)「だからね、今この状態は主従関係が逆転してるというか」

(゚、゚トソン クイッ

( ФωФ)「なんか専用のお猪口まで用意してるしね。我輩そんなのあるって知らなかったんだけど」

(゚、゚トソン クゥーッ

( ФωФ)

(゚、゚トソン

( ФωФ)「……おいしい?」

(゚、゚トソン「わたくし、芋焼酎って苦手なんですよね」

( ФωФ)「怖いよ! もうアタシアンタの考えが全然わかんないよ!」

177 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:55:32 ID:/I8YLJN20
(゚、゚トソン「なんですか、最後の夜に森伊蔵の一つぐらい飲んじゃいけないんですか!」

(゚、゚トソン「寝る子は育ちますけど寝る焼酎は適切に保存しないと味を損なうんですよ!」

( ФωФ)「え、何この我輩が怒られてる感じ」

(゚、゚トソン「だからわたくしは無理してでもこの森伊蔵を一晩で飲みきろうという魂胆でこの日を待ち望み……」

( ФωФ)っ

(゚、゚トソン「……」

( ФωФ)っ

(゚、゚トソン「何ですか、そのはしたないお手々は」

( ФωФ)「あー、冥土の土産に森伊蔵の味を憶えていきたいなー」

( ФωФ)「って」

( ФωФ)っ

(゚、゚トソン「お手々がそう仰ってる?」

( ФωФ)「うん」

( ФωФ)「我輩じゃなくて、我輩のお手々がね」

( ФωФ)「これはもうどうしようもないな」

( ФωФ)っ

(゚、゚トソン「はいはい、いけないお手々ですねー、まずは伝達神経を切りましょうねー」

( ФωФ)っ

( ФωФ) スッ

178 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/03(金) 21:58:44 ID:/I8YLJN20
(゚、゚トソン「もう分かりましたよ、ご主人様のコップ持ってきますから」

( ФωФ)「なんで我輩だけコップなのだ。せめてお猪口を用意したまえ」

(゚、゚トソン「言うこと聞かないならその缶の中に入れてチャンポンしますよ」

( ФωФ)「……どうせ新しいお猪口を探すのが面倒とかそういうやつだろう」

(゚、゚トソン「ははは、わたくしはメイドですよ。そういう家事を嫌がってたら仕事にならなその通りです」

( ФωФ)「分かったから、そのお猪口で飲ませてくれ」

(゚、゚トソン「えっ」

( ФωФ)「何だ。我輩も焼酎をお猪口で飲む権利ぐらいはあるだろう」

(゚、゚トソン「でもこれ、わたくしが使いましたよ」

( ФωФ)「うむ、それがどうした」

(゚、゚トソン「キッスですよ」

( ФωФ)「ん?」

(゚、゚トソン「間接キッスです」

( ФωФ)

(゚、゚トソン

(゚、゚ポッ

( ФωФ)「何を突然髪型を変えておるのだ」


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