したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール まとめる | |

漢文翻訳スレッド

1 中村 :2004/11/30(火) 00:27
(移行対象  投稿日: 2004/04/28(水) 00:59)

・『晋書』の翻訳や草稿での疑義・質問・指摘に関してご自由にどうぞ!
 現行のMLとかぶる部分ですが、MLでの書式にこだわらず、楽に聞きあう・指摘しあうスレッド。

話題としては『晋書』に限らず、漢文に対する質問なども。

2 中村 :2004/11/30(火) 00:34
(移行対象  投稿日: 2004/04/28(水) 01:04)

永一さんの翻訳(晋書巻九十六列女列伝)をちょっと見ました。たまたま気づいた点をひとつ載せておきます。

「與郝雅相親重」…雅は「いつも」の意でしょう。
         「雅相〜〜」いつも互いに〜〜だった。という句をどこかで見た記憶が^^;

3 えちぜん :2004/11/30(火) 00:36
(移行対象  投稿日: 2004/05/07(金) 00:58)

王祥伝から質問です。

「武帝踐ソ,拜太保,進爵爲公,加置七官之職。」とあるのですが、
「七官之職」とはなんでしょうか?

志第十四 職官 に「世祖武皇帝即位之初,以安平王孚為太宰,鄭沖
為太傅,王祥為太保,司馬望為太尉,何曾為司徒,荀邈為司空,石
苞為大司馬,陳騫為大將軍,世所謂八公同辰,攀雲附翼者也.」
とあるので、王祥を除く七名もそれぞれ官職に着いたということで
しょうか?
ただ、もしそうだとしても、王祥以外はこのような書き方はされて
いないので、ちょっと不思議です。

P.S. 中村さんとクッキーさんから、王祥伝についてMLでご指摘
頂いていて、早くご返答しないといけないのですが、なかなかでき
なくてすみません。もうちょっとお時間ください。

4 NAGAICHI Naoto :2004/11/30(火) 00:38
(移行対象  投稿日: 2004/05/08(土) 17:55)

中村さん、ご指摘ありがとうございます。
「雅」を第一勘で「みやびやか」だと思ってしまい、「上品に」とやってしまったのですが、辞書をちゃんと引くと「もとより、平素から、もともと」という副詞的用法がありました。
訂正しときます。

5 中村 :2004/11/30(火) 00:39
(移行対象 投稿日: 2004/05/11(火) 23:00)

>えちぜんさん

王祥伝の「七官之職」ってホントになんでしょうかね。。。
職官志をざっと読んだりすると、官名がしきりにかわったり、常設されずに置かれた時期もあれば置かれなかった
時期もある官職が多いようです。ですからここはやはり職官志にある王祥がついた太保以外の7つの官職なのかと
思います。やはり官職は職官志の正しい理解が必要ですね。。。

なんか回答になってないですが、レスを。。。^^;

6 えちぜん :2004/11/30(火) 00:41
(移行対象 投稿日: 2004/05/13(木) 02:12)

>中村さん

レスありがとうございました。
あれからちょっと考えていて、今更ながら気づいたのですが、「拜太保,進爵爲公,
加置七官之職。」の主語は王祥ではなく、武帝ですね。
「拜」は「〔官職を〕授ける」という意味があるんですね。てっきり「〔官職を〕
受ける」の意味だと思って、主語は王祥だと思っていました。
であれば、「加置七官之職」を行ったのも武帝であって、「七官之職」は王祥が
ついた太保以外の官職と言って良いかなと思います。

7 NAGAICHI Naoto :2004/11/30(火) 00:43
(移行対象 投稿日: 2004/05/13(木) 20:03)

つまらない指摘しかできないんですが、
「王導伝」

人物簡介、王恬−「兄と王悦と違い」は「兄の王悦と違い」
でしょう?

「後參東海王越軍事」を「後に東海王越の軍事に入った」と訳され
てますが、僕なら「後に東海王越の軍事に参与した」と訳すかなあ、
と。

まだ全部読めてませんので、取りあえず気になったところを挙げま
した。

8 中村 :2004/11/30(火) 00:45
(移行対象 投稿日: 2004/05/15(土) 17:47)

参考文献スレの34で、

>>NAGAICHI Naoto さん
いま煮詰まってるのが、「恭姜」って誰?「華」って誰?ってことです。
訳文の文意も通ってないとこあるしなあ。

とのことですが、『晋書』列女伝に見える恭姜ですよね?
ちょっと調べたのですが、衛の釐侯の太子・恭伯先の妻だった人だと思います。

9 NAGAICHI Naoto :2004/11/30(火) 00:46
(移行対象 投稿日: 2004/05/15(土) 20:11)

>中村さま
>ちょっと調べたのですが、衛の釐侯の太子・恭伯先の妻だった人だと思います。

ありがとうございます。
でも『史記』衛康叔世家に出てくる釐侯の子の共伯余と共伯和は分かるんです
けど、恭伯先とは?
とにかく調べてみます。

『列女伝』貞順の宋恭伯姫の間違いじゃないかと、首ひねってたんですけどね。

「華」のほうはあっさり分かっちゃいました。
『列女伝』貞順に載ってる斉孝公夫人の孟姫でした。この人が華氏だっての
見落としてました。

10 中村 :2004/11/30(火) 00:48
(移行対象 投稿日: 2004/05/17(月) 10:02)

>NAGAICHIさん

『史記』には出てこなくてやや後代の資料に出てきます。
実は奥の手を使いまして。。。(『文淵閣四庫全書』全文検索)
今度は出典と原文を確認してご提示します^^; ちょっとものぐさすぎました。

11 中村 :2004/11/30(火) 00:49
(移行対象 投稿日: 2004/05/17(月) 10:56)

『文選』巻第十六の潘安仁の「寡婦賦」に「蹈恭姜兮明誓、詠柏舟兮清歌」とあって、
唐李善注に「毛詩曰、柏舟、恭姜自誓也。衛世子恭伯早死、其妻守義、父母欲奪而不許。注、恭伯、僖侯之世子也」
とあります。

中央研究院の検索を駆使して・・・(笑)

12 NAGAICHI Naoto :2004/11/30(火) 00:51
(移行対象 投稿日: 2004/05/17(月) 20:01)

>中村さま
「台湾中央研究院」
人文資料庫師生版 1.1→古籍三十四種→文選→
…ありますね。
「其妻守義、父母欲奪而不許。」というところからいっても、
『晋書』の列女で挙げてる恭姜に間違いないでしょう。
ありがとうございます。

13 suite :2004/11/30(火) 00:54
(移行対象 投稿日: 2004/06/08(火) 18:59)

『晋書』孫盛伝。
晋書なので、こちらに書き込んでみます^^

盛嘗詣浩談論、對食、奮擲麈尾、毛悉落飯中、食冷而復暖者數四。至暮忘餐。

盛は嘗て浩に詣りて談論し、食に對して、麈尾を奮擲するに、
毛は悉く飯中に落ち、食の冷へて復た暖むること數四。暮に至りて餐を忘る。

孫盛はかつて殷浩を訪ねて談論したことがあった。
食事の席で、払子を振り回し〔ながら談論し〕ていたところ、
毛はことごとく飯の中に落ち、冷めた食事を再び暖めることは四回に及んだ。
夜になって食事をすることを忘れた。

ここの、

「冷めた食事を再び暖めることは四回に及んだ」という文と、
「夜になって食事をすることを忘れた」という文が、内容的にダブっている気がするのです。

「(食事を忘れて談論しあっていたので)冷めてしまった食事を暖めた」という内容と、
「夜になって、食事を忘れたが、結論はついに出なかった」という文です。

よくわからないので、教えてください。

14 えちぜん :2004/11/30(火) 00:56
(移行対象 投稿日: 2004/06/09(水) 01:42)

>『晋書』孫盛伝

「夜になっても、食事のことを忘れていた。」ということではないでしょうか?

例えば、昼食をとりながらの談論も、談論に夢中になるあまり、昼食をとるのも
忘れていて、夜になっても昼食は手つかずのままだった。と言う感じではないかと
思うのですが。。。

15 中村 :2004/11/30(火) 01:03
(移行対象 投稿日: 2004/06/09(水) 06:18)

『晋書』の該当部分は、『[冓斗]注』にあるように『太平御覧』巻三百九十が引く『郭子』の記事が元になっているようです。

郭子曰、孫安國往殷中軍許、共語。往返精苦。客主無間。左右進食、冷而復煖者數四。彼我奮擲塵尾、毛悉隨落、滿餐飯中。賓主遂至暮忘餐。殷方語孫卿曰、公勿作強口馬。我當併卿控。孫亦曰、卿勿作穴鼻牛。我當穿卿頰。

左右が食を進めて、そのご飯の中に毛が一杯とあるので、昼飯夕飯とかまわず食事が出されたときと考えた方がいいでしょうか。
しかし「至暮忘餐」の餐が、最初に出されて何度も暖められた飯なのか、あらたに夕方に出された夕飯なのか判然とはしませんよね。
「日が暮れても食事のことを忘れていた」と訳して、その食事が先に出されたのか夕飯なのか言わずに訳すのもありかと(原文にも忠実です^^;)

「食事を顧みず議論に熱中したのに、結論が出なかった」という全体の主旨からすれば、何度暖めても(手をつけず)、あげくの果てに日が暮れても夕飯をとらずに議論に熱中したとするのが自然かとは思います。
この故事は『世説新語』の文学篇にもありますので、諸家の翻訳を参考にしてみるといいでしょう。

16 suite :2004/11/30(火) 01:04
(移行対象 投稿日: 2004/06/11(金) 05:18)

>えちぜんさん、中村さん
その線で訳してみたいと思います。ありがとうございました。

17 suite :2004/11/30(火) 01:06
(移行対象 投稿日: 2004/09/06(月) 08:00)

久々に再開した『晋書』職官志なのですが、726ページにある次の文章がよくわかりません。

太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫、
開府位從公者爲文官公、冠進賢三梁・鄢介[巾責]。

太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右の光祿大夫・光祿大夫、
府を開きて位の從公なる者を文官公と爲し、進賢の三梁・鄢き介[巾責]冠す。(?)

「輿服志」の770〜771ページに、介[巾責]の説明があるのですが、
衣服なのか頭巾なのかよくわからないのです。
『和刻本』では、「進賢の三梁なるを冠し、鄢介[巾責]す」とありますが、意味不明です。
これは何のことなのでしょう?
『漢辞海』(460ページ)では、「頭髪を包むかぶりもの」という内容でした。

18 えちぜん :2004/11/30(火) 01:09
(移行対象 投稿日: 2004/09/07(火) 00:47)

>太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫、
>開府位從公者爲文官公、冠進賢三梁・鄢介[巾責]。

私はこう読み下しました。

太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫、
府を開くに位の公に從ふ者は文官の公と爲し、進賢の三梁なるを・
鄢き介[巾責](かいさく)を冠(かむ)らしむ。

以下、大漢和辞典を引きました。
'進賢'は「文官又は儒者の冠の名」とあります。『晋書』輿服志767ページに
その説明があります。大漢和辞典には図があります。

'三梁'の'梁'は「くしがた」とあります。大漢和辞典には図があるのですが、
どうやら冠の飾りのようです。'三梁'はその飾りが三本あるということのようです。
『晋書』輿服志によるとこの他に五梁・二梁・一梁とあるようで、役職によって飾り
は何本と決まっているようです。

'介[巾責]'は「文官の用いる[巾責]。[巾責]は頭を包むもの。」とあります。
'[巾責]'を単独で引くと、「づきん。髪づつみ。ひたいあて。かんむりした。」と
あり、冠をかぶる前に着ける頭巾のようです。ちょうど剣道の面をかぶる前に、
頭に手ぬぐいのような布を巻きますが、このようなものでないでしょうか?
そして、その'[巾責]'が黒いということのようです。『晋書』輿服志770ページに
は、赤い'[巾責]'の記述があり、武官が身につけたようです。黒は文官、赤は武官
ということでしょうか?

以上のことから、以下のように訳しました。

「太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫については、
晋朝を開くにあたって、公の位に就いたものを文官の公と位置づけ、三梁の
進賢(三本の飾りがついた文官がかぶる冠)と〔その下には〕黒い頭巾を
かぶらせた。」

大漢和辞典しか引きませんでしたので、正しいかどうか分かりませんが、
ご参考にしていただけたらと思います。

19 中村 :2004/11/30(火) 01:14
(移行対象 投稿日: 2004/09/07(火) 13:20)

基本的にえちぜんさんの解説でいいかと。

補足すると、
中華書局の「冠進賢三梁、鄢介幘。」と和刻本の「進賢の三梁なるを冠し、鄢介幘す」
というのはいずれも冠としてかぶるのは「進賢三梁」で、鄢介幘は違うということです
よね。冠ではなく頭巾だから「冠」という動詞をとらない、という判断なのでしょう。
だから、中華書局では並列ではなく断句してあり、和刻本もまたしかりです。
ですから、原語を尊重するならば「三梁の進賢冠をかぶり、黒い介幘をつける(ことと
した)」とでもなりましょうか。

幘について少し調べたのですが、えちぜんさんの「剣道の面の下のてぬぐい」というた
とえはよく分かりますね。以前は冠はじかにかぶっていたのですが、王莽がてっぺんは
げだったので(冠だけだと禿げが見える)、幘を冠の下につけたのだという説話?まで
あります。魏晋のころには冠+幘というのが一般的だったようですが、それ以前はそう
でなかったようで、後漢の画像石などにもさまざまな冠と幘が見えます。>詳しくは
『漢代の文物』など参照

20 suite@職官志 :2004/11/30(火) 01:18
(移行対象 投稿日: 2004/09/07(火) 15:02)

ありがとうございました。

頭巾のようなものという方向でいこうと思っていたのですが、、、
そうなると次の文章はどうなのでしょうか。
 「大司馬・大將軍・太尉・驃騎・車騎・衞將軍・裵大將軍、開府位從公者爲武官公、皆著武冠、平上鄢幘」
ここの、
 「上を平らかにせし鄢き幘(?)」
がひっかかるのです。『晋書辞典』によると、おそらく上のような説明になるのではないかと思うのですが・・・。
頭巾の上部を平らにするのは、、、???
 「正式な冠の下にかぶった背の低い冠」といった図が想像できるのですが・・・。
やっぱり並列はまずいでしょうか?

しかし、王莽の逸話は面白いですね。イ、イメージが・・・

21 えちぜん :2004/11/30(火) 01:24
(移行対象 投稿日: 2004/09/07(火) 23:41)

懲りずに調べてみました。(笑)

'平上幘'は大漢和辞典にはありませんでしたが、漢語大詞典にはありました。
「亦称"平巾幘"。魏晋以来武官所戴的一種平頂頭巾。・・・」
これだと上部が平らな頭巾であって、『晋書辞典』も同様の記載なのかも
知れません。
同じく、'平巾'の項を引いてみると、「即武官所戴的平巾幘」とあり、用例と
して、「宋高承<事物紀原・旗[旗兆]采章・幘>:"其承遠遊、進賢者,
施以掌導,謂之介幘;承武弁者,施以笄導,謂之平巾。"」とありました。
'武弁'は武冠のことです(『晋書』輿服志767ページ)。'笄導(けいどう)'
は大漢和辞典によると、「冠をとどめる笄(こうがい)をいう」とあり、'笄'
は「束ねた髪をとめ、又、冠をとめるためにさすもの」とあります。
'進賢'の時の'掌導'というのが分からないのですが、冠のかぶり方が異なる
ようです。
武冠をかぶる時に'笄'を使って冠を止めると、幘の上部が平らに見えるから
'平上幘'というのではないかと勝手に想像しています。
19では、武官は赤の幘をかぶっているようだと書いたのですが、誤りですね。
早とちりでした。。。
文官と武官は幘の形状の違いでも区別できたようですね。

読み下し ・・・、皆武冠・平上鄢幘を著(き)せしむ
訳    ・・・、皆武冠(武官がかぶる冠)と〔その下に〕黒い平上幘
     (冠をとめた時に上部が平らに見える頭巾)をかぶらせた。

難しいですねぇ。。。

22 suite@職官志 :2004/11/30(火) 01:29
(移行対象 投稿日: 2004/09/09(木) 13:32)

ありがとうございました。
一応、「介幘す」と読んでみます。

次の質問なのですが、726ページの最後の行に、
  「自祭酒已下、令史已上、皆皁零辟朝服」
とあり、読み下すと、
  「祭酒自り已下、令史已上は、皆な皁(くろ)き零辟朝服す」
でしょうか。

ここの、「零辟」がわかりません。
『漢語大詞典』webにもなく、見当もつきません。
 ↑ これは買わなきゃだめのようですね。。。


あの、少しく思ったのですが、官職関係担当者がいないと翻訳に支障をきたすと思われますので、
継続的にやってみようと思います。

文量が多いので、全体を12分割前後し、少しづつ暫定公開していきます。
リンクはここにはります。
定本は中華書局本を用いるのですが、著作権問題を回避するため、校勘記は一切訳さず、
句読点も必要に応じて一部変更し、注は少し多めにつけようと思います。

くだらない質問をすると思いますが、よろしく御教示頂けたら嬉しいです。

23 えちぜん :2004/11/30(火) 01:33
(移行対象 投稿日: 2004/09/10(金) 01:23)

>皆皁零辟朝服

大漢和辞典を引きました。

「零」は「あまり。はした。わづか。こまかい。」
「辟」は「ふちどる」

という意味があります。

以上から次のように読み下し、訳しました。

読み下し 皆皁(くろ)き零(はした〔ぬの〕)もて朝服を辟(ふちど)る。

翻訳   皆黒いわずかな布で朝服を縁取った。

あんまり自信はありません。特に「零」ですが、上記の意味は比較的新しい時代に
用いられているような感じなのです。しかも〔ぬの〕と補っていますので。。。

ただ、私が小学生の頃から愛用している「新漢和辞典」(大修館書店)の巻末付録
に「中国服飾図」というのがありまして、漢代の様々な身分の人の服装のイラスト
があり、簡単な解説が付いているのですが、その中に「官吏」と題したものがあり、
その解説に
「[巾責]をかぶり、領・袖口を黒色の布でふちどった赤色のひとえを着、裳をはく。」
とあります。
これは近いと思ったのですが、いかがなものでしょうか。。。?

>あの、少しく思ったのですが、官職関係担当者がいないと翻訳に支障をきたすと思われますので、
>継続的にやってみようと思います。

私も官職については知っておかなければと思い、和刻本もコピーを取って、出てくるたびに確認
しようと思っていたのですが、担当していただけると助かります。
翻訳楽しみにしています。

24 suite@職官志 :2004/11/30(火) 01:36
(移行対象 投稿日: 2004/09/10(金) 17:24)

質問ばかりではやはり申し訳ないので、短い箇所ですが暫定公開します。
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/shinjo_shi14_shokkan_part_12.htm

秩品に関する注は、煩雑を避けてすべて省略し、
その代わりとして、『通典』巻第三十七・職官十九「秩品二」の晉の箇所を訳出して別にリンクをはります。

引き続き、「公・従公その他」をやります。

25 suite@職官志中書省 :2004/11/30(火) 01:37
(移行対象 投稿日: 2004/09/22(水) 13:47)

734ページ、後ろから2〜3行目の、

「黄門觔已署、事過通事乃署名。已署、奏以入」
  の箇所が訓読できないので、訳せないでいます。
  和刻本は、
「黄門觔已署事過、通事乃署名。已署奏以入」
  とし、
「黄門觔は已に事に署して過ぎて、通事は乃ち名を署す。已に署して奏して以て入り」
  と読んでいます。
  これでよいのでしょうか? 特に前半部分の区切りがわからないのです。

26 NAGAICHI Naoto :2004/11/30(火) 01:40
(移行対象 投稿日: 2004/09/24(金) 08:13)

我流で意訳すると、
「黄門郎が〔詔書の草稿を〕書き記し終わり、草稿が通過すると、通事〔郎〕はそこで署名した。書き記し終わったものが〔宮中に〕入って奏上され、皇帝により注意深く読まれると、詔書は認可される。」
というような感じかなあ。
区切りは和刻本のほうが分かりやすいと思います。中華書局が間違いってわけじゃないけど。
訓読は領分じゃないんですが、和刻本分かりにくい。

27 suite :2004/11/30(火) 01:41
(移行対象 投稿日: 2004/09/24(金) 17:39)

一応、中華書局本に従い、
  「黄門觔は已に署し、事過ぎて、通事は乃ち署名す」
などと読んでみましたが、和刻本のほうでも意味は通じるようですね。
ありがとうございました。

『通典』卷第三十七によるとともに五品のようで、
かつ黄門郎(=給事黄門侍郎。属侍中府)のほうが通事郎(後の中書侍郎。属中書省)よりも上位のようですが、
近侍官には似たような役職が多く、しかもしばしば省略形で書かれるので、よくわからない部分が多いのです。

28 suite :2004/11/30(火) 01:45
(移行対象 投稿日: 2004/10/05(火) 01:03)

suite です。

おお、更新されている!
官職関係中心の拙い指摘しかできませんが、どうぞよろしくお願いします。

鄭注伝

●魏の文帝(曹丕)が太子になる(217)と

  元号に附す西暦年はともかく、過去の出来事に附する西暦年は少し乱暴かと思います。
  自分の思い込みかもしれませんが、晉書に興味のある方というのは、
  曹丕が王太子に任ぜられた年は知っているのではないかと想像します。
  敢えて附すのであれば、注に落としたほうが丁寧かと思います。

●寿光公の官職をやめさせて

  意味は同じですが、「壽光公として邸宅に帰らせた(役職を罷免した)」等のほうが適当と思います。

●死後、太傅を贈り

  原文「追贈太傅」。追贈は鬼籍に入ってからのものですので「太傅を追贈し」などが適当でしょうか。

●鄭沖には子が無く、

  細かく訳せば、「男子(息子)が無く」でしょうか。

●(10)原文「拜太保」 鄭沖が太保に任命されたのは(略)

  三国志には「十二月庚戌」とあります。あまり意味はないのですが、日にちまで添えれば丁寧かと思います。

●(14)原文「三俊」 「三儁」ともいう。(略)「漢の張良・蕭何・韓信を指す」としている。

  こういう記述は列席順にはしないのでしょうか?
  相国にまで昇りつめた蕭何が一番上、処刑された韓信を下のするのが自然と思うのですが・・・。

●(17)原文「明年薨」 『資治通鑑』晋紀二に(略)

  この箇所、晉書武帝紀に、「閏月癸酉、太傅壽光公鄭沖薨」とあります。
  日付の指摘は帝紀に従い、具体的な記述がみられない場合にのみ、
  通鑑を参考されたほうが読者がわかりやすいかと思います。
  両方に異同が見られる場合には両方引用されれば丁寧でしょう。

●(18)原文「追贈太傅」 武帝(司馬炎)が即位した時に(略)

  鄭沖は一応太傅を罷免されているので、太傅を追贈されても問題ないかと思います。
  同例の有無を現在調査中です。

29 suite :2004/11/30(火) 01:52
(移行対象 投稿日: 2004/10/08(金) 08:18)

前に任ぜられた官を追贈されることについて、進展がありましたので、ご報告いたします。

何曾傳に、息子の何劭の記事として、

  「永康初、遷司徒。趙王倫簒位、以劭爲太宰。【略】永寧元年(301)薨、贈司徒」

とあります。

しかし、何劭の官職に関しては不明瞭な点がいくつかあり、例えば司徒に昇進する際の記述でも、

  恵帝紀永康元年(300)夏四月の条
    「丁酉、以梁肜爲太宰、左光祿大夫何劭爲司徒、右光祿大夫劉寔爲司空」
  何曾傳
    「惠帝即位、初建東宮、太子年幼、欲令親萬機、故盛選六傅、以劭爲太子太師、通省尚書事。
    後轉特進、累遷尚書左僕射。劭博學、善屬文、陳説近代事、若指諸掌。永康初、遷司徒」

以上のような相違が見られます。前もって特進(二品)を授けられている以上、
下位の尚書左僕射(三品)に任ぜられるのは何となく不自然なので、左光祿大夫のような気がします。

さらに、恵帝紀永寧(301)元年の条には、
  「冬十二月、司空劭薨」とあります。
同年五月の条には、
  「甲戌、以齊王冏爲大司馬都督中外諸軍事、成都王穎爲大將軍録尚書事、河間王颙爲太尉。
  罷丞相、復置司徒官。己卯、以梁王肜爲太宰領司徒」とあります。

何曾傳には記述がありませんが、偽帝司馬倫が誅されたあとに任ぜられたのでしょうか。
最終位が司空であれば、司徒を追贈されても不思議はないように感じます。
資治通鑑注は、司空は太宰の誤りとしていますが、司馬肜が太宰領司徒として任ぜられているので、
これは不自然と思います。太宰に左右分置はありません。
しかし、三国志魏書第十二何キ傳注引晉諸公賛では、最終位は太宰となっています。

現在、武帝・恵帝時代の宰相表を作成しているのですが、
およそ西暦300年以降は、通鑑にも記載されていない、わかりにくい箇所が多いのです。
とくに、何劭・劉寔・司馬颙・司馬乂は厄介ですので、これらの伝を担当される方はご注意されますよう。

30 菅原 :2004/11/30(火) 01:55
(移行対象 投稿日: 2004/10/09(土) 10:56)

>suiteさん
早々のご指摘ありがとうございます。
これほどすぐにご指摘いただけるのは本当にありがたいです。

ところで、suiteさんのご指摘に【解體晉書】全体に関わる指摘がありましたので、
私の方から説明します。

>元号に附す西暦年はともかく、過去の出来事に附する西暦年は少し乱暴かと思います。
>自分の思い込みかもしれませんが、晉書に興味のある方というのは、
>曹丕が王太子に任ぜられた年は知っているのではないかと想像します。
>敢えて附すのであれば、注に落としたほうが丁寧かと思います。

まず事項に西暦年をふるのは読者の便を図ろうと【解體晉書】で議論して決定したことなので、
えちぜんさんの指摘ではなく【解體晉書】の方針に関わる意見になります。
もしsuiteさんがこの方針をご存じでなければ私の説明不足でした。
すみませんでした。

次に読者に関してですが、
「晉書に興味のある方というのは、曹丕が王太子に任ぜられた年は知っている」というのは
ちょっと読者層を高く考えすぎです。
ちくま訳本の『三国志』を読み始める方ぐらいのレベルを想定していただければと思います。

以上が私の補足説明です。
suiteさんの活発なご意見はいつもありがたいです。
停滞しがちな【解體晉書】に活力を与えてくれます。
これからもご意見やご指摘よろしくお願いします。

31 えちぜん :2004/11/30(火) 01:58
(移行対象 投稿日: 2004/10/09(土) 20:59)

>suiteさん

鄭沖伝へのご指摘ありがとうございます。
内容確認しましたので、ご返答します。

>●魏の文帝(曹丕)が太子になる(217)と
>元号に附す西暦年はともかく、過去の出来事に附する西暦年は少し乱暴かと思います。
>自分の思い込みかもしれませんが、晉書に興味のある方というのは、
>曹丕が王太子に任ぜられた年は知っているのではないかと想像します。
>敢えて附すのであれば、注に落としたほうが丁寧かと思います。

菅原さんがコメントしてくださいましたね。私は【解體晉書】会の方針云々とまでは考えていま
せんでしたが、西暦年を付けるかどうかは、翻訳者の裁量で良いのではないかと思っていました。
ただ、草稿の凡例に

 一、数字の表記は西暦年以外は原則として漢数字を用いた。年号や時期を区別するのに
    重要な出来事には算用数字による西暦年を( )で付けた。

とありますし(と言っても後で確認したのですが)、元号の箇所だけでなくても良いようですね。
私の場合、"読者の便を図る"というような余裕はなく、自分で時系列の感覚を掴むために付け
ているようなものです。
ただ、注にその西暦年を記述した根拠を記述した方が丁寧だと私も思いましたので、今後は
付けるようにしたいと思います。


>●(10)原文「拜太保」 鄭沖が太保に任命されたのは(略)
>三国志には「十二月庚戌」とあります。あまり意味はないのですが、日にちまで添えれば丁寧かと思います。

確かに丁寧ですね。実は十二月何日なのかを書きたかったのですが、「庚戌」が何日なのかが分からなくて、
結局月までの記述にしたのです。先日話題にあがった「二十史朔閏表 (附西歴回歴)  [陳垣]」を先月購入
したので、これからは書くようにします。(ただ、読み方がまだ分からないんですけどね。。。)


>●(14)原文「三俊」 「三儁」ともいう。(略)「漢の張良・蕭何・韓信を指す」としている。
>こういう記述は列席順にはしないのでしょうか?
>相国にまで昇りつめた蕭何が一番上、処刑された韓信を下のするのが自然と思うのですが・・・。

これは漢語大詞典の記述の通りに書いただけです。よく分かりません。


>●(17)原文「明年薨」 『資治通鑑』晋紀二に(略)
>この箇所、晉書武帝紀に、「閏月癸酉、太傅壽光公鄭沖薨」とあります。
>日付の指摘は帝紀に従い、具体的な記述がみられない場合にのみ、
>通鑑を参考されたほうが読者がわかりやすいかと思います。
>両方に異同が見られる場合には両方引用されれば丁寧でしょう。

武帝紀にありましたか。見落としていました。やはり帝紀も見ないと駄目ですね。


>●(18)原文「追贈太傅」 武帝(司馬炎)が即位した時に(略)
>鄭沖は一応太傅を罷免されているので、太傅を追贈されても問題ないかと思います。

私の感覚的な話ですが、死後追贈される場合は、これまでの貢献に報いる形で、生前(もしくは死の
直前)に就いていた官職よりも高い官職を贈るのかなと思ったわけです。当然名誉職ですから、その時
に別の人が追贈された官職を持っていても特に問題ないと思ったんです。なのに、生前就いていた官職
を追贈しているので、誤り?と思ったわけです。

長くなりますので、一旦切ります。

32 えちぜん :2004/11/30(火) 02:12
(移行対象 投稿日: 2004/10/09(土) 21:00)

続きです。
suiteさんが、他の事例を探して下さって、何劭伝でその事例を見つけたということでしたので、私も調べて
見ました。(今、何劭伝を訳しているもので。。。)
恵帝紀・何曾伝・資治通鑑の何劭の官職がらみの箇所を抜粋しました。
一番左の数字はページ数です。

恵帝紀
89 〔永煕元(290)年〕秋八月壬午,立廣陵王遹為皇太子,以中書監何劭為太子太師
91 〔永平元(291)年〕八月庚申,以趙王倫為征東將軍、都督徐兗二州諸軍事;河間王顒
               為北中郎將,鎮鄴;太子太師何劭為都督豫州諸軍事,鎮許昌.
94 〔元康七(297)年〕九月,以尚書右僕射王戎為司徒,太子太師何劭為尚書左僕射.
96 〔永康元(300)年〕夏四月・・・丁酉,以梁王肜為太宰,左光祿大夫何劭為司徒,
97 〔永寧元(301)年〕春正月乙丑、趙王倫簒帝位。
98 〔永寧元(301)年〕夏四月・・・誅趙王倫、
99 〔永寧元(301)年〕十二月,司空何劭薨.

校勘記
110 [一八]司空何劭薨 據紀及劭傳,上年四月劭遷司徒;據通鑑八四,本年正月遷太宰.此作「司空」,疑誤.

何曾傳
998 〔武〕帝為王太子,以劭為中庶子.
998 及即位,轉散騎常侍,
998 咸寧初,有司奏劭及兄遵等受故鬲令袁毅貨,雖經赦宥,宜皆禁止.事下廷尉.詔曰:「太保與毅有
    累世之交,遵等所取差薄,一皆置之.」遷侍中尚書.
999 惠帝即位,初建東宮,太子年幼,欲令親萬機,故盛選六傅,以劭為太子太師,通省尚書事.後轉
    特進,累遷尚書左僕射.
999 永康初,遷司徒。
999 趙王倫簒位,以劭為太宰。
999 永寧元年薨,贈司徒,

資治通鑑
2599 〔永煕元(290)年〕 夏,四月,辛丑,皇后召華廙及中書令何劭,口宣帝旨作詔,
2603 〔永煕元(290)年〕 秋,八月,壬午,立廣陵王遹為皇太子。以中書監何劭為太子太師,
2618 〔元康七(297)年〕 〔秋,七月〕丁丑,京陵元公王渾薨。九月,以尚書右僕射王戎為司徒,太子太師何劭
                  為尚書左僕射
2642 〔永康元(300)年〕 〔夏,四月〕丁酉,以梁王肜為太宰,左光祿大夫何劭為司徒,
2651 〔永寧元(301)年〕 〔春,正月,丙寅〕以梁王肜為宰衡,何劭為太宰,
2668 〔永寧元(301)年〕 十二月,潁昌康公何穭薨

こうして見ると、確かに

>前もって特進(二品)を授けられている以上、
>下位の尚書左僕射(三品)に任ぜられるのは何となく不自然なので、左光祿大夫のような気がします。

のように一貫性がないですね。

>最終位が司空であれば、司徒を追贈されても不思議はないように感じます。
>資治通鑑注は、司空は太宰の誤りとしていますが、司馬肜が太宰領司徒として任ぜられているので、
>これは不自然と思います。太宰に左右分置はありません。
>しかし、三国志魏書第十二何キ傳注引晉諸公賛では、最終位は太宰となっています。

恵帝紀の「司空何劭薨」については、校勘記に「資治通鑑巻八四に、『本年正月太宰に遷る』とある。ここで『司空』として
いるのは、誤りだと疑う」とあって、資治通鑑注ではないし、司空を太宰の誤りとしている訳でもないですよね。
私は「司空」は「司徒」の誤りであろうと思います。というのは、「太宰」は趙王倫が簒位している時に就いているもので、
その期間は多くても趙王倫が誅殺までの3〜4ヶ月でしょうから、恵帝が復帰したのちは、以前の司徒に戻ったんではないかと
思うのですが。。。
そう考えると三国志魏書第十二何キ傳注引晉諸公賛は、「位亦至太宰」とありますが、ここでは最終位ではないような気がします。
普通は順当に官職が高くなり「至太宰」とあれば、最終位なんでしょうけど、短期間の簒位による任命など特殊な事情がありますから。
ここでは、生涯就いた中での最高職が太宰であったというニュアンスではないでしょうか?
もしかすると、記録されていないだけで、尚書左僕射だった何劭がいつの間にか左光祿大夫になっているように、司徒だった何劭
がいつの間にか司空になったのかも知れませんが。

ちょっと話がそれましたが、「司空」が「司徒」の誤りであれば、鄭沖と同様の事例となるわけで、生前就いていた官職を追贈すると
いうことは、珍しくはなかったと考えられますね。

思わぬ形で何劭伝翻訳の後押しをして頂いてありがとうございました。それにしても、西暦300年頃というのもなんだか面白そう
ですね。

33 suite :2004/11/30(火) 02:18
(移行対象 投稿日: 2004/10/09(土) 22:09)

何曾伝を翻訳中でしたか。お力になれてうれしいです。

何劭の最終官位はなんなのか? 私としては「司空」であったと想像します。
根拠としては、
  恵帝紀 98頁 己卯、以梁王肜爲太宰、領司徒
      99頁 五月乙 酉、侍中太宰領司徒梁王肜薨
とあり、司馬肜は司徒兼任ということになっているようです。

さらに、何劭の太宰は、恵帝ではなく、簒奪者司馬倫の任命であったという点です。
正規の任命ではなかったということになります。
薨去後に司徒を追贈されたとなると、司徒以上ではなかったらしい、ということです。
いづれにしても脱文があり、これをどうまとめるかということでしょう。

よくわからないのは、300〜302年でしょうか。
代表の訳された司馬榦もその一人で、司馬榦伝通りに読むと、
太保が、劉寔とかぶってしまうので、注をつけたほうが丁寧かと愚考いたします。

劉寔伝
「元康初、進爵爲侯、累遷太子太保、加侍中・特進・右光祿大夫・開府儀同三司、領冀州觥督。
 九年(恵帝紀では永康元年夏四月癸巳)、策拜司空、遷太保、轉太傅。
 太安初、寔以老病遜位、賜安車駟馬・錢百萬、以侯就第。
 及長沙成觥之相攻也、寔爲軍人所掠、潛歸觶里。
 惠帝崩、寔赴山陵。懷帝即位、復授太尉」

公に任命されたのがいつで誰なのかは記録が不完全な以上、仕方のないことだと思います。
まとめにくいのが最大の痛手ということでしょうね。

34 えちぜん :2004/11/30(火) 02:21
(移行対象 投稿日: 2004/10/10(日) 02:18)

>何劭の最終官位はなんなのか? 私としては「司空」であったと想像します。
>根拠としては、
>恵帝紀 98頁 己卯、以梁王肜爲太宰、領司徒
>      99頁 五月乙 酉、侍中太宰領司徒梁王肜薨
>とあり、司馬肜は司徒兼任ということになっているようです。

「司徒」に着目すると、司徒は永康元(300)年四月に何劭が就任して、同年九月
丞相と呼び名を変え、司馬肜が就任したとあります。(恵帝紀 96ページ)
ただ、資治通鑑では「肜固辞して受けず」とあります。(2646ページ)
その後、永寧元(301)年趙王倫の簒位を経て、同年六月丞相が廃止され、司徒が
復活し、司馬肜が司徒兼任となります。
何劭は司馬肜より半年ほど早く薨去していますし、司馬肜が司徒兼任
のまま薨去したことを考えると確かに何劭は薨去当時「司徒」ではないですね。
(やはりつまみ食いは駄目ですね。しっかり読まないと。。。(反省))

推測ですが、何劭は薨去した当時、「司徒」でも「司空」でもなかったのかも知れません。
司徒が丞相となると同時に離職し、趙王倫の簒位の間、太宰に任命されるも、趙王倫
の誅殺により自然消滅。。。なのかな。
三公の一つである司空の拝命の記録がなく、資治通鑑では「潁昌康公何穭薨」として
「司空何劭」としていない点など考えているとそんなのもありかなと思ってます。

35 菅原 :2004/11/30(火) 22:46
(移行対象 投稿日: 2004/10/11(月) 12:49)

以前に西暦年を付与した方がいいと話し合った年号を参考までに再録します。

《魏》
魏文帝即位(二二〇)
明帝即位(二二六)
斉王即位(二三九)
司馬懿のクーデター・曹爽誅殺(二四九)
司馬懿の死・司馬師後継(二五一)
高貴郷公即位(二五四)
司馬師の死・司馬昭後継(二五五)
高貴郷公の死・常道郷公即位(二六〇)
蜀滅亡(二六三)
司馬昭晋王即位・晋国建設(二六四)
五等爵創設(二六四)

《武帝》
武帝即王位(二六五)
武帝即位・受禅(二六五)
呉滅亡(二八〇)

《恵帝》
恵帝即位(二九〇)
楊駿誅殺(二九一)
司馬亮誅殺(二九一)
司馬倫簒奪・誅殺・恵帝反正(三〇一)
恵帝北征・恵帝討成都王穎・蕩陰の戦役(三〇四)

《懐・愍帝》
懐帝即位(三〇七)
洛陽傾覆・陥没(三一一)
愍帝即位(三一三)

《元帝》
元帝承制(三一七)
元帝即位(三一七)

《恭帝》
宋受禅(四二〇)

ご意見があれば嬉しいです。

36 suite :2004/11/30(火) 22:49
(移行対象 投稿日: 2004/10/11(月) 15:01)

色々読んでみてひとつはっきりしたのが、「職官志」担当者がいなければまずいということです。
現在、5分の2ほど読み下し文が完成して(推測箇所多し)、作業は細々と続いております。
今回は、列伝第八において気づいた点を並べてみようと思います。よろしくお願いいたします。

琅邪王伷伝

●しばらくして〔都〕督青州諸軍事を兼任し、

 原文「頃之、并督青州諸軍事」ですが、前に都督徐州諸軍事に任ぜられていることからしても、
 都督青州諸軍事であると推測します。
 職官志には、「觥督裵軍爲上、監裵軍次之、督裵軍爲下」とあり、都督と督が異種とされています。
 ここは、そのまま「督青州諸軍事」と抜き出して、
 注に、「都督が正しいと思われる」などと落とされるのが妥当と考えます。

●尚書右僕射に転任し、散騎常侍を加官された(6)。

 注に、「恵帝紀」元康元年(二九一)三月の条および『資治通鑑』巻八二には、【略】
 とありますが、本紀には主たる事項しか記述されず、その欠を補うのが列伝と思いますので、
 この注は不要と考えます。

 扶風王駿伝

●〔使〕持節・都督〔雍涼等州諸軍事〕はもとのままとされた。

 原文「持節・都督如故」。意味は訳文の通りだと推測されますが、
 無理やり読み下せば、「節を持ち都督することは故の如し」でしょうか。
 ここは、「節を持ち〔雍涼などの州の諸軍事を〕都督することはもとのままとされた」
 としてはまずいのでしょうか。

全体的に思ったのですが、原文「子」は、「息子」などにされたほうが、
より正確と思われますが、いかがでしょうか。

37 suite :2004/11/30(火) 22:51
(移行対象 投稿日: 2004/10/11(月) 15:24)

李特載記

●趙[广欽]がみずから大都督・大将軍・益州牧を名乗ると、

 原文「[广欽]自稱大都督・大將軍・益州牧」。
 「趙[广欽]が大都督・大将軍・益州牧を自称すると」のほうが、
 正規の任命ではないニュアンスがより出ると思われます。

 後文に、「太安元年(三〇二)、李特は益州牧・都督梁益二州諸軍事・大将軍・大都督を自称し」
 原文「太安元年、特自稱益州牧・都督梁益二州諸軍事・大將軍・大都督」
 とありますが、こちらの訳を推したいと思います。

●趙の長史の袁洽やが任命した地方官長(郡太守・県令)を殺した。

 カッコ内に、県長を加えることを提案いたします。

●恵帝は梁州刺史の羅尚を平西将軍、兼護西夷校尉・益州刺史とし

 原文「惠帝以梁州刺史羅尚爲平西將軍・領護西夷校尉・益州刺史」
 意味は同じなのでしょうが、「領」を「兼」へと変えた理由がよくわかりません。
 そのままそっくり抜き出してはまずいのでしょうか。


・・・自分で読み返してみて、どうも喧嘩口調の嫌いがありますが、
断じてそのようなことはございません!(必死)

最近、掲示板が活性化していないのは、表サイトが更新されないのが唯一の理由ですが、
それに加えて、既存の訳文に対する指摘がないからだと思うのです。
そこで、つまらない指摘をしてみたのですが、どれもこれもどうでもいい内容ばかりのような気がします(汗)

それでは失礼いたします^^

38 中村 :2004/11/30(火) 22:53
(移行対象 投稿日: 2004/10/13(水) 13:56)

>>37suiteさんへ

李特載記への指摘ありがとうございます。
「自称」か「みずから名乗る」かで、正規の任命でないニュアンスが出るのが
どちらか自分では分かりかねますが、自称にしてみようかと思います。みずから
名乗ると訳した理由は自称という言葉がやや固いと感じたからでした。同訳他部
分で自称と訳していて統一がとれてないのですが^^;

県令・県長についてはたしかに指摘の通りかと思います。訂正します。

3番目の「領」を「兼」へと変えたのも、日本語として領〜〜と羅列しただけ
では理解ができないとのことからだったように思います。これについては原文
の通りにして、注などで「領」の意味合いを説明するのがいいでしょうか。
suiteさんの言われるとおり、「職官志」担当者というか官職担当の人が必要で
すよね。官職全般の知識がないと列伝の正しい翻訳もあやうくなりますから。
今回のご指摘ありがとうございます。

39 suite@職官志 :2004/11/30(火) 22:55
(移行対象 投稿日: 2004/10/17(日) 20:40)

晉書職官志727ページ箇所の、

裵公及開府位從公加兵者、筯置司馬一人、秩千石、
從事中觔二人、秩比千石、主簿・記室督各一人、
舍人四人、兵鎧士曹、營軍・刺姦・帳下觥督、外觥督、令史各一人。
主簿已下、令史已上、皆絳服。
司馬給吏卒如長史、從事中觔給侍二人、主簿・記室督各給侍一人。
其餘臨時筯崇者、則襃加各因其時爲節文、不爲定制。

裵公及び府を開き位公に從ひ兵を加へし者には、司馬一人を筯して置き、秩は千石、
從事中觔二人、秩は比千石、主簿・記室の督各ゝ一人、
舍人四人、兵鎧士曹(兵曹・鎧曹・士曹)、營軍・刺姦・帳下の觥督、外觥督、令史各ゝ一人。
主簿より已下、令史より已上は、皆な絳服す。
司馬に吏卒を給すること長史の如くし、從事中觔には侍二人を給し、主簿・記室の督には各ゝ侍一人を給す。
其の餘の臨時に筯崇する者は、則襃加(?)各ゝ其の時に因りて節文を爲し、定制と爲さず。

「則襃加」の箇所が読めないのですが、どのように読まれるでしょうか。
教えてください。

40 えちぜん :2004/11/30(火) 22:57
(移行対象 投稿日: 2004/10/18(月) 00:38)

「襃加」は漢語大詞典によると、”嘉奨進秩”とありました。
一つの単語と考えて良いようです。一応体言化して読んでみました。

「其の餘時に臨みて筯崇すれば、則ち襃加すること各ゝ其の時に因りて節文を爲し、定制と爲さず。」

41 中村 :2004/11/30(火) 22:58
(移行対象 投稿日: 2004/10/18(月) 12:20)

襃加・・・
漢語大詞典ではまさにこの『晋書』職官志が用例として出てますね^^;
襃めて加える(→嘉奨進秩)ということで理解できるかと思います。

なお、『漢語大詞典』は下記のURLよりウェブ上で使うことができます。
「ENGLISH」を選んでください。
http://www.ewen.cc/hd20/

42 suite :2004/11/30(火) 22:59
(移行対象 投稿日: 2004/10/20(水) 20:12)

『漢語大詞典』WEBは自分のPCからは見られなかったのですが、ありがとうございました。

>>中村さん
「領」などの説明は、そのまま抜き出すか、「護西夷校尉を兼任させた」等が適当と思ったりします。
中華書局の点に従うのか、このあたりも話し合う必要がありそうですね。

43 suite :2004/11/30(火) 23:01
(移行対象 投稿日: 2004/10/20(水) 22:55)

726ページ10行目以降、「裵公及開府位從公者、品秩第一、食奉日五斛」で始まる段落で、
よくわからない点があるので、教えてください。
この段落は、文武公の属官と服飾制度等が記載されているのですが、その属官を整理すると、

文武公 【兵を統率せず、持節觥督ではない者】
  長史(一人・秩一千石)
  西閣祭酒(一人)
  東閣祭酒(一人)
  西曹掾(一人)
  東曹掾(一人)
  戸曹属(一人)令史(一人)
  倉曹属(一人)令史(一人)
  賊曹属(一人)令史(一人)
  御属令史(一人)
  閤下令史(一人)
  西東曹倉戸賊曹令史(?)
  門令史(一人)
  記室省事令史(一人)
  閤下記室書令史(一人)
  西曹学事(一人)
  東曹学事(一人)

司徒
  左右長史(各一人・秩は千石)を加えて置く。
  左曹掾(一人)属(一人)
  右西曹掾(一人)属(一人)
  令史以下は同じ。

司空
  導橋掾(一人)を加えて置く。


ほぼ以上のようになるのですが、「西東曹倉戸賊曹令史」がよくわかりません。
さらに細かく言えば、「戸倉賊曹令史屬各一人」とありますが、
「屬令史」と記されていないのは何故か、という疑問が残ります。

44 えちぜん :2004/11/30(火) 23:05
(移行対象 投稿日: 2004/10/22(金) 01:27)

何曾伝です。翻訳するにあたり、不明な個所がありますので、ご教示ください。

996ページ 故將明袞職,未如用乂厥辟之重。

 「未如用乂厥辟之重」が不明です。

  「かつて三公の職務を明らかにしようとしたが、・・・。」

997ページ 置長史掾屬祭酒及員吏,一依舊制。所給親兵官騎如前。主者依次按禮典,務使優備。

 最後の「務使優備」が不明です。

  「長史掾屬祭酒及び員吏を置く。ひとまず旧制度に従って、与えた親兵官騎は以前のままとする。主な者は順次礼典に従うようにし、・・・。」


998ページ 都官從事劉享嘗奏曾華侈,以銅鉤 [耑友]紖車,瑩牛蹄角。

 「以銅鉤 [耑友]紖車,瑩牛蹄角。」はどういうことでしょうか?

  「都官従事の劉享はかつて何曾が贅沢であると奏上するにあたり、・・・。」

よろしくお願いします。

45 中村 :2004/11/30(火) 23:07
(移行対象 投稿日: 2004/10/24(日) 20:00)

>>43 suiteさんへ

ひとつの解釈として。。。

「西東曹倉戸賊曹令史」はその前にある「西東曹掾・戸倉賊曹令史属」と対応して
いるところを見ると、前者は「令史」で後者は「令史の属」を意味するのではない
でしょうか。
すなわち「西東曹掾・戸倉賊曹令史属」は
  西曹掾(一人)
  東曹掾(一人)
  戸曹令史の属(一人)
  倉曹令史の属(一人)
  賊曹令史の属(一人)
そして「西東曹倉戸賊曹令史」は
  西曹令史(一人)
  東曹令史(一人)
  倉曹令史(一人)
  戸曹令史(一人)
  賊曹令史(一人)

このように解すれば「令史屬」となっている点も理解できると思います。
ただ掾と令史の属とが一緒にあげられていて、令史がつぎに出てくる点が
やや不思議ですが、こうした官職の列挙できちんと高下の順になっていな
いのは漢碑などでまま見られます。ご参考までに私見を。。。

46 中村 :2004/11/30(火) 23:11
(移行対象 投稿日: 2004/10/24(日) 21:01)

>>44えちぜんさんへ

「故將明袞職,未如用乂厥辟之重」
「だから三公の職を明らかにしようと思ったら、用乂厥辟の重きが一番である」?
検索すると「尚書(書経)の周書・君奭(セキ)篇に「用乂厥辟」という句が
見えますからそれを踏まえてのことでしょう。(訳せないので、訳はなにかの訳
書をご覧ください//爆)

「務使優備」
務めて優備せしむ でしょうか。優には「ゆたかな。充足したさま」(漢辞海)
の意あり。なお上記記事での「一」「主者」は「すべて」「つかさどる者」の意
かと。

「以銅鉤 [耑友]紖車,瑩牛蹄角」
銅製のかぎ状のぬいとりのあるもので車を引き、牛の蹄と角を〔宝石のように〕
磨き上げるほどであった。
でしょうか。かなり分かりませんが^^; ご参考までに。

47 えちぜん :2004/11/30(火) 23:12
(移行対象 投稿日: 2004/10/26(火) 01:41)

中村さんへ

早速のご回答ありがとうございました。
これらをもとに、もう一度検討してみます。

『晋書』は『尚書』の引用が多いですね。『尚書』の翻訳を
手に入れないと。。。

48 中村 :2004/11/30(火) 23:22
(移行対象 投稿日: 2004/11/25(木) 13:42)

巻33を読んでみました。以下、ご検討ください。

王祥伝

爲具車牛(ために車を引く牛を用意した)…車牛は「牛車」のこと。

政化大行(政治の改革を大いにおこなった。)…うまく言えないが、政治がうまく行き渡る、政治のいい結果が広く行き渡った、の意。後文に政化を「国を治め民を教化する」と訳しているのが適訳かと。

時人歌之曰(時に人は歌った。)…誤訳ではないが、やはりここは原文の意をくんで「時の人」とすべきか。

損魏朝之望,虧晉王之徳(魏朝を損なう望みは、晋王の徳を欠くこととなる。)…魏朝の望を損ない、晋王の徳をかく。訳しにくいが、魏朝への名声?期待?を傷つけることは、晋王の徳も欠けさせることになる。

今日方知君見顧之重矣(今日、君主が支持されることの重大さを知った)…「顧」は大切にする、重んじるの意。「重」は、重大ではなく程度が重いこと。今日はじめて、君主がかくも大切にされていることを知った。

詔聽以[目隹]陵公就第(武帝(司馬炎)は[目隹]陵公(王祥)が官職をやめて私邸に戻ることを許した)…[目隹]陵公の身分で(官職をやめて)私邸に戻ることを許した。

古之致仕,不事王侯(古の辞職は王侯に仕えないという)…訳文の意がやや不明。古の辞職は王侯には関係ない(王侯は辞職するものではない、いつまでもその身分を保障される)、の意か。

不宜復苦以朝請(再び数多く参内を請うことがあってはならない)…「苦」を「数多く」と訳しているが誤り。「よろしく復た苦しめるに朝請を以てすべからず」。参内を請いて苦しめてはならない、の意。

大事皆諮訪之(大事は皆で検討して、王祥を訪ねよ。)…大事はすべて王祥を訪ねて諮るように。「諮訪」は諮ることと訪ねること、ないし訪ねて諮ること。

家無宅宇(家には軒がない)…宅宇は住居・住まい。王祥の「家」(家)には舎人や官騎が住む「宅宇」(住宅)がないから、下賜する第(邸宅)が完成するまで役所住まいにさせるとのこと。軒がない(豪華でない?)からではない。

山玄玉佩、衞氏玉棔(山玄玉佩、衞氏玉棔)…山玄の玉佩、衛氏の玉玦。「棔」とあるが原文は「玦」。

徐喪…「徐」とあるが原文は「除」。注(25)もまた同じ。

親親故吏(親しくしていた元の部下たち )…「親親」は親族、親戚の意。親戚と元の部下たち、の意。
不忘故飲…「飲」とあるが原文は「郷」。

朱楠以非理使祥…「楠」とあるが原文は「屡」。
以太中大夫歸老(太中大夫を引退させた)…太中大夫の身分のまま引退させ、の意。

故以相與(だから〔この刀でその〕助けとしないか)…相を助けると訳しているが、書き下せば「ゆえに以てあい与ふ」で、だから〔この刀を〕あなたに与えよう、となろう。ここの相は副詞で、たがいにの意ではなく、「ある対象が想定される関係の中で動作が一方向にのみ向かうことを表す《訳出しないか、対象を「私に」「彼に」などと明示して訳す》」(漢辞海)の意。

49 中村 :2004/11/30(火) 23:23
(移行対象 投稿日: 2004/11/25(木) 13:42)

巻33を読んでみました。以下、ご検討ください。

鄭沖伝

及高貴郷公講尚書,沖執經親授(高貴郷公(曹髦)の代になって、〔鄭沖が〕尚書の講義をおこなう時、鄭沖は経書を手に持って、親切に講義をおこない、侍中の鄭小同とともにその功労を誉められた)…高貴郷公(曹髦)が尚書を研究(勉強)した時、鄭沖は経書を手に持って、高貴郷公(曹髦)にじかに教え、侍中の鄭小同とともに賞賜をたまわった、の意。「親」は親切ではなく自ら、じかに。

而不預世事(政治には関与しなかった)…世俗のことには関与しなかった、の意。世俗のつきあい、交流などを指すか。

其爲壽光、朗陵、臨淮、鉅平國置郎中令…原文の「博陵」が抜けてます。「其爲壽光、朗陵、臨淮、博陵、鉅平國置郎中令」が正しい。

可謂朝之儁老,衆所具瞻者也(晋朝の賢老と言うことができ、衆人が見本とした)…可謂〜者也、で、晋朝の賢老で、衆人の羨望の対象(衆人が仰ぎ見る人)と言える、くらいの意か。

豈必遂朕憑頼之心,以枉大雅進止之度哉!…この原文に対応する訳文が抜けている。

以壽光公就第(寿光公の官職をやめさせて、私邸に帰す)…寿光公の身分のまま私邸に帰す

第一區(家一棟)…「第」はやはり邸宅と訳すべきか。

(17)原文「明年薨」 『資治通鑑』晋紀二に、「泰始十年閏正月(癸酉)??日、寿光成公鄭沖が卒去した。」とある。 …泰始十年閏正月癸酉は、十一日にあたる(陳垣『二十史朔閏表』)。

(18) 原文「追贈太傅」 武帝(司馬炎)が即位した時に、太傅に任命されているが、死後に再度追贈されている。誤りか?…即位時に任命され、その後辞職して「寿光公の身分のまま私邸に帰」されている。つまり死んだ時はただの寿光公で役職にはついていなかった。そのために死後、太傅を追贈されたのだろう。

50 中村 :2004/11/30(火) 23:25
(移行対象 投稿日: 2004/11/25(木) 15:28)

巻34羊コ伝は以前指摘したこともあり、自分としては指摘するところはありません。

陳騫伝

侍中劉曄(侍中の劉嘩)…侍中の劉曄。訳文は誤字。

而所苦未除,毎表懇切,重勞以方事(骨折りな事も除かず(5)、各々の上奏は懇切であり、苦労を重ねて事柄を正した)…しかし苦心していることはまだ取り除かれていないので、ことあるたびに懇切に上奏し、辺境の事案に苦労を重ねている。

(5)原文「所苦未除」。「苦」は文字通り「苦しい、骨折りである」の意であろうと思われるが、この一節は意味がよく分からない。…上記参照。

陳騫伝はやや意訳のところが多いかと感じましたが、明らかな誤訳ではないところはスルーしました。

51 <削除> :<削除>
<削除>

52 中村 :2004/12/01(水) 22:09
列女伝の指摘その1

義殊月室者(奧部屋で義をことにする人たちである。)…義をことにする、というのが少し分かりにくいかと思うので、奥部屋で義を突出させた人たちである。くらいはどうでしょうか。「月室」は漢の長楽樂宮の宮殿名なのでそのまま訳出してもよいか。

至若(このうえなく若くして)…訓読すれば「〜のごときに至りては」。以下に続くものたちに至っては、の意。

原文省略(子政(劉向)(15)が以前に彼女らの事跡を〔『列女伝』に〕あつめ、元凱(杜預)(16)が後になって〔『女記讃』を〕編んだのは、女性が守るべき手本をつぶさに述べ、女性が身につけるべき徳の教えをおぎなうためである)…子政(劉向)(15)が以前に彼女らの事跡を〔『列女伝』に〕あつめ、元凱(杜預)(16)が後になって〔『女記讃』を〕編んで、女性が守るべき手本をつぶさに述べ、女性が身につけるべき徳の教えをおぎなった、とすべきか。こうすると後段の「故」が生きてくる。前代の2著書で泰始年間以前の女性については記されているので、ここではそれ以降の女性について記す、とのことであろう。

有才鑒(目端が利いていた)…目端が利くという言葉を知らなかったので^^。人を見る目があった、くらいが分かりやすいかと。

美容止(顔かたちの美しさをとどめ)…「容止」は容貌のこと。訳文でも意は通じるが、美しい容貌で、の意。

(22)「吉凶導従の儀」…注にあるように司馬孚伝に「吉凶導從二千餘人」とあり、「導從」とは皇帝や貴人・官人が出行するときの従者たちを言う。思うに吉凶導従とは婚礼や葬式の時に付き従う従者(行列)のことだろう。二次葬であるが略式でなくきちんとした葬儀として執り行ったということ。

汝輩逆賊無道,死有先後,寧當久活!(おまえたち逆賊は道徳心がないから、死に早い遅いがあれば、さぞ長生きがしたかろう!)…おまえたち逆賊には道徳心がないから、死に早い遅いがあっても、長生きはしまい!

劬勞備至(成長するまで懸命に働いた)…原文には成長するまで、という意はない。「劬勞」は苦労、「備至」は備わり至る、すべて備わっていること、極まっていること。非常な苦労をした、の意。

吾聞忠臣出孝子之門(忠臣は孝子の門から出ないとわたしは聞いています)…忠臣は孝子の家から出るとわたしは聞いています

嘗冬至置酒(かつて冬至に酒を置き)…「置酒」で宴会、酒宴をすることを言う。かつて冬至に宴会をして。

當於奚官中奉養大家。義無歸志也(なんの官でみなを養っていくべきでしょうか。義とは後戻りしない決心なのです)…奚官というのは官府の名。犯罪者の親族は官奴婢となって奚官に属すことがある。「歸」はこの場合離婚して実家に帰ること。(官奴婢となって)奚官の中にあってみなを養います。道理からして離婚する気はありません。

潛自剔緜,以絳與昶,遂得數十人被服赫然(ひそかに自ら綿を切り取ってできた赤い衣を孟昶に与えた。こうして数十人を得ると服を着せて赤く燃えるごとくであった。)…ひそかに自ら(衣服から)綿をほじくり出し、赤い布地(だけ)を孟昶に与えた。そうして数十人分の立派な衣服を作った。赤のものは不吉としてしまいこみ、その服の中の綿でさらに服を作ったとの意味だろう。

以娥表示元達(娥を顔見せして)…娥の上奏した文を元達に見せて。この「表」はやはり前段に見える娥の啓を指すのでは。

復何用妾爲!(またなんでわたしを用いようとなさるのですか!)…「用」はここでは「以」と同じ。「復」は前句の「既」と呼応している。その上わたしをどうしようというつもりですか!

逆人之誅也,尚汚宮伐樹(反逆者を誅殺すると、宮殿を汚した樹でさえ斬る)…「汚宮」は汙宮に通じて、犯罪者の宮殿・住居を破壊すること、か。反逆者を誅殺する時には、住居を壊し(住宅にうわっていた)樹木さえ斬る。

服牛乘馬(牛に寄り添って馬に乗ったのは)…「服」とは車につけて操ること。牛を車につけて馬に騎乗したのは、の意。牛と馬の性質の違いから一方は車につけ、一方はじかに乗ったことを言う。

織錦(機織りをしながら)…機織りをして。詩文を縫いつけたのでしょう。

(31)「迴文旋圖詩」…調べ中です。…「迴文」は回文(下から読んでも意味をなす)の意とぐるぐるまわっている文というふたつの意味があります。「旋圖」は図をめぐって、の意か。そうすると回文で図柄をめぐって詩文が書かれている詩、となるかと思います。

文多不録(文の多くは記録に残されなかった)…文字数が多いので(ここに)載せない、の意。

53 中村 :2004/12/01(水) 22:11
列女伝の指摘 その2

皇天后土,寧不鑒照!(皇天后土、どうかご覧にならないでいただきたい!)…「寧」は反語。皇天后土(天の神、地の神)よ、(姚萇の悪行を)どうしてご覧にならないのですか! ご覧になるはずだ、ご覧になっていただきたいという語意。

我終不作凡人妻(わたしはどう終わっても凡人の妻にはなりませんよ)…「終不〜」は終わるの語意はあまりなく、決して〜ない、絶対に〜ないの意。わたしはけして凡人の妻にはなりませんよ。

若魂魄有知,當歸彼矣(もし魂魄があることを知るなら、段氏のもとに帰るべきなのです)…もし魂魄に知能知覚があるなら、段氏のもとに帰る(嫁ぐ?)でしょう。死後、魂魄となったときにも生前同様に知覚があるか、なにもなくなるかこの時代は論争があった。「當」はこうなるはずだ、という語意。

沐浴置酒(沐浴して酒を置くと)…沐浴して宴会を開くと

(38)「荐之以劉石、汨之以苻姚」は、「劉石をもってこれを荐(し)き、苻姚をもってこれを汨(べき)す」。…伝統的な訓読では「これを荐(あつめ)るに劉石をもってし、これを汨(こつ)するに苻姚をもってす」。荐はあつめる、汨はおさめる、とおす、みだす、しずむ。劉石を集めて、苻姚のように水を通す(治水)するの意味か。この部分難読、考を待つ。

夫繁霜降節,彰勁心於後凋;膻流在辰,表貞期於上紱,匪伊君子,抑亦婦人焉(そもそも霜の繁く〔雪の〕降るように節義は〔さかんで〕あり(37)、強い心を明らかにしていたものが、後代にはしぼんでいった。時にあってはとめどなく流れ、徳を高くして正しさを顕彰されるのを待っているのは、かの君子でないか、あるいはまた婦人であるか。)…「繁霜」は、詩経・小雅・正月の「正月繁霜、我心憂傷」を踏まえた表現で、周の正月歳首の4月に霜が降りることから、世が乱れていることを言う言葉。「降節」は節度が堕落する、低落すること。「後凋」は後彫と同じく君子の晩節あることをいう。松柏が冬に他の木より遅れてしぼむことを君子の節が変わらぬことを比喩する。「膻流」は乱世・動乱の世のこと。「抑亦」は「匪伊」と呼応し、ただ〜のみならずそもそもまた〜と訓じ、〜だけでなくさらにまた〜の意。
世が乱れて人々の節度は地に落ちている時は、強い心は君子の変わらぬ節度としてあらわれ、動乱の時にあっては貞節は上徳としてあらわれるものだ。それは君子だけではなく婦人にもあてはまる(言える)。

罕樹風檢,虧閑爽操(教化の手本を立てるものもまれであり、落ち着きはなくなり、品行にはそむき)…「風檢」は風紀、「閑」はここでは守るの意。風紀を立てるものはまれで、素直な節操を守るものもなく。

54 中村 :2004/12/01(水) 22:11
列女伝の指摘 その3

馳騖風埃,脱落名教,頽縱忘反,於茲爲極(馬を走らせて土ぼこりが舞い(戦乱が巻き起こり)、名教は脱け落ち、頽廃や放縦や忘恩や謀反は、このとき極まった)…訓読すれば、馳騖、風埃ありて、名教を脱落し、頽縱、忘反すること、茲において極たり、か。「頽縱」は退廃してやりたい放題になる、退廃して秩序がないこと。「忘反」は純朴な状態に返ることを忘れる、純朴を忘れること。軍馬が走り土ぼこりが舞(戦乱が巻き起こ)ってから礼教は地に落ち、退廃して秩序が無く純朴さを忘れることは、このとき極まった。

至若惠風之數喬屬(そのような状態にいたって恵風(愍懐太子妃王氏)が喬属を責め)…「至若」は〜がごときに至りては。例として挙げる時の言葉。後句の「斯皆冥踐義途,匪因教至」の直前までかかる語。恵風(愍懐太子妃王氏)が喬属を責め〜〜〜〜たりというようなことは。

斯皆冥踐義途,匪因教至(これみな正しい道を踏んで亡くなったのは、教化によるものではないか)…「匪因教至」は普通に否定でとらえていいかと。このようにみな正しい道を踏んで亡くなったのは、教化によるものではないのだ。その意味は、史臣曰くのすぐ後や後句に書いてあるように、列女伝に記された人々は教化によるものではなく、教化・秩序が低落した時期にあってある意味当たり前のこと(再嫁しないなど)を行った人たちだから、ということだろう。

聳清漢之喬葉,有裕徽音;振幽谷之貞蕤,無慚雅引(〔彼女らは〕天の川がそびえ立ち、葉が高いところにつくように、ゆったりとすぐれた評判があった。幽谷の節操が垂れ下がっているのを奮い立たせ、もとより引いて恥じることなく)…「清漢」は天の川の他に天空の意もある。「貞蕤」は冬でも枯れない常緑樹の葉。「雅引」は、『漢語大詞典』に正曲のこととあり、文選の劉孝標「広廣絶交論」に見える語。
天にまでそびえる高木の葉には非常にすぐれた評判がある(のは当然だ)が、山深い谷底に揺れる冬でも枯れない葉もまたただしい調べと言ってもその名に恥じない。(高い木=君子などの正しい行い、にはすぐれた評判があるのは当然だが、谷間の常緑樹=秩序の乱れた時のただしい行動(つまりは列女伝の女性たち)、にもまた賞賛すべきことである)

比夫懸梁靡顧,齒劍如歸,異如齊風。可以激揚千載矣。(男をならべて梁(はり)に引っかけて顧みることなく、剣をならべてあるべきところに落ちつくようであり、普通でないやりかたで風格を整えるようであった。千年のあいだも称揚すべきであろうか。)…まず原文のが「異如齊風」は「異日齊風」の間違い。また中華書局の断句の「異如齊風,可以激揚千載矣。」でいいかと思う。「比夫」は発辞の句で、「このごろそれ」。「懸梁」は梁(はり)に(縄を)かけて自害すること、「靡顧」は顧みない、気にかけないこと。「齒劍」は殺害されることまたは自害すること、「如歸」は前後の脈絡、対句の表現のありかたからすれば、家に戻るよう(に当たり前の様子)であった、の意か。「異日」は以前と以後の両意あるがここでは後世の意か。「齊風」は風俗を正しくする。
ここに挙げたように躊躇せずに梁に縄をかけて自害したり、当たり前のように殺害された女性たちは、後世の風俗を正しくするもので、以後千年のあいだも称揚すべきであろう。

賛曰:從容陰禮,婉娩柔則。載循六行,爰昭四紱。操潔風霜,譽流邦國。彤管貽訓,清芬靡忒(訳文省略)…「靡忒」は靡慝に同じく、変わることがないの意。訓読すれば、從容たる陰禮,婉娩たる柔則。ここに六行に循い,ここに四紱を昭らかにす。操潔、風霜は、誉れ邦國に流る。彤管もて訓を貽(おく)り,清芬は忒(かわ)ること靡し。以下私訳。たおやかな女性の規範、麗しき女性の規律があれば、〔孝、友、睦、婣、任、恤の〕六つの行いに従い、〔婦徳・婦言・婦容・婦功の〕四つの徳を明らかにする。純粋な操は風や霜のようであれば、そのよい評判は国中に流れ、〔女性が使う〕朱色の筆が遺訓を書き残せば、清々しい徳行は不変なのである。

55 中村 :2004/12/04(土) 07:22
suiteさんが訳された部分の指摘です。明らかな誤訳は少ししかありません。
言葉が足りない部分もあるかと思いますが、ご参考までに。

巻90杜軫伝

奏議駁論多見施行(上奏文や他者への反論文において、引用が多くみられた)…「施用」は施行・実行すること。上奏や他人の上奏の反駁で、〔彼の意見が〕用いられることが多かった。

巻91范平伝

謝病還家(重病を理由に職を辞して家へ帰り)…細かいことですが、重病かどうかは分からず。病気だと言って職を辞して家に帰り。

蔚爲辧衣食(范蔚は〔彼らの〕衣食を工面した(2))
(2)おそらく、蔵書を有料にて閲覧させていたと思われる。教示を待つ。…「辧」は中型漢和辞典にはあまり見えない意ではあるが、食事などを準備する意がある(『漢語大字典』引晋書石崇伝)。范蔚は彼らのために衣食を準備した(備えた)。工面でもニュアンスは伝わるか。有料で閲覧ということではなく、まったく無料で彼の蔵書を閲覧させ、さらには遠来からの閲覧者には衣食をも提供した、との意味だろう。

巻91文立伝

陳壽、李虔爲游夏(陳寿と李虔(李密)を游夏にたとえ)…游夏は孔子の弟子の子游、子夏の2人。陳寿と李虔(李密)を子游と子夏にたとえ。注3も。

坐是停滞者累年(〔仕官に対して〕何もできずに隠退したまま年を重ねた)…訓読すれば是に坐して停滞すること累年、かと。是にあたるのは、蜀が平定されたこと(旧敵国の臣であったこと)か親不孝という郷里の議論ではないかと思う。そのために仕官できぬまま年を重ねた、そのために数年間仕官できなかった。

文立忠貞清實,有思理器幹(文立は、信念がかたく清実であり、仕事をするには深く考えて道理を見極めることができる。)…誤訳ではないがやはり忠誠、貞心、というニュアンスが欲しいし、仕事をするには、というのははっきりとは書かれていない。私訳として、文立は、忠誠であり清実であり、思慮深く才能がある。

蓋所以拔幽滯而濟殊方也。(それはおそらく、埋もれてしまった人材を抜擢することによって他郷を救うことができる、ということであろう)…「殊方」はたしかに他郷の意であるが、より平易には遠方、異域の意。「所以」はゆえん。それはおそらく、埋もれてしまった人材を抜擢することによって遠方を助けることができるからでしょう。

程瓊雅有徳業(程瓊は上品で徳行があり)…「雅」はもとより、の意。程瓊は平素から徳行があり。

56 えちぜん :2004/12/05(日) 02:09
中村さん、王祥伝・鄭沖伝へのご指摘ありがとうございます。
ひとまず王祥伝について確認しました。

爲具車牛(ために車を引く牛を用意した)…車牛は「牛車」のこと。

 「車牛」を”車を引く牛”と訳したのは、『大漢和辞典』によります。『漢語大詞典』には
 ”指牛車”とありますね。王祥伝のこの箇所を訳していた時には『漢語大詞典』を持っ
 ていなかったので。(持っていたとしても、『大漢和辞典』に載っていれば調べてなかった
 でしょうね。(笑))どちらの辞書も王祥伝のこの箇所を用例として引いています。
 「牛車」を採用したいと思います。

政化大行(政治の改革を大いにおこなった。)…うまく言えないが、政治がうまく行き渡る、政治のいい結果が広く行き渡った、の意。後文に政化を「国を治め民を教化する」と訳しているのが適訳かと。

 ”政治が大いにおこなわれた”と訳したいと思います。”改革”はちょっと踏み込みすぎた
 かなと。『十三経注疏』によると、「大行」は『孟子注疏』尽心章句上に「君子所性、
 雖大行不加焉」とあり、趙岐の注に「大行、行之於天下」とあり、阮元の校勘記によ
 ると「之」は本によって「政」となっているらしいので、"政治を天下におこなう"となります。
 このことから「大行」は政治が大いにおこなわれる、という行為を表し、うまく行き渡る、と
 いう結果までは含まないのではと考え、冒頭の訳としようと思った次第です。”国を治め
 民を教化する”もたしか『大漢和辞典』によったものだったはずです。これは”政治”と一
 言でまとめました。

損魏朝之望,虧晉王之徳(魏朝を損なう望みは、晋王の徳を欠くこととなる。)…魏朝の望を損ない、晋王の徳をかく。訳しにくいが、魏朝への名声?期待?を傷つけることは、晋王の徳も欠けさせることになる。

 「望」は『大漢和辞典』に”標的。尊び敬うところのもの。”とありました。”標的”は?で
 すが、次のように訳してみました。”〔天子をさしおき、王に拝礼するという行為は〕魏朝
 の尊貴なることを傷つけ、晋王(司馬昭)の徳を欠けさせることになる。”

今日方知君見顧之重矣(今日、君主が支持されることの重大さを知った)…「顧」は大切にする、重んじるの意。「重」は、重大ではなく程度が重いこと。今日はじめて、君主がかくも大切にされていることを知った。

 「重」は”重大”・”重要”の意で良いのではないかと考えます。晋王(司馬昭)が権勢
 を持ち始めたころに、”今日はじめて、君主がかくも大切にされていることを知”るという
 のは、不自然かと。寧ろ拝礼を拒否されて、上に立つものにとって、下のものたちの支
 持が非常に重要だと強く感じたというニュアンスではなかろうかと思います。”今日はじ
 めて君主が〔家臣から〕大切にされることの重要性を知った。” ”支持される”というの
 はやはり意訳が過ぎました。

古之致仕,不事王侯(古の辞職は王侯に仕えないという)…訳文の意がやや不明。古の辞職は王侯には関係ない(王侯は辞職するものではない、いつまでもその身分を保障される)、の意か。

 『十三経注疏』によると、『周易正義』蠱に「上九。不事王侯。高尚其事。」とあり、
 これを踏まえているようです。王弼の注に「最處事上、而不累於位。不事王侯。高
 尚其事也。」とあり、孔穎達の疏に「不復以世事為心、不係累於職位、故不承事
 王侯、但自尊高慕尚其清虛之事、故云高尚其事也。」とあります。また、『禮記
 正義』表記に「易曰、不事王侯、高尚其事。」とあり、鄭玄の注によると「言臣致仕
 而去、不復事君也。君猶高尚其所為之事、言尊大其成功也。」とあります。武帝
 (司馬炎)はこの『禮記正義』の鄭玄の注を見ていて、詔書に引用したものと思われま
 す。次のように訳してみました。”昔の辞職は、〔易経・礼記によると〕「王侯(君主)に
 事えず〔世俗や職位に縛られず自身を高めた〕」と言う。”


家無宅宇(家には軒がない)…宅宇は住居・住まい。王祥の「家」(家)には舎人や官騎が住む「宅宇」(住宅)がないから、下賜する第(邸宅)が完成するまで役所住まいにさせるとのこと。軒がない(豪華でない?)からではない。

 「家」には『漢辞海』によると、”卿大夫の采地。俸禄を得るための知行地。”とあります。
 「宅宇」の訳”のき”は『大漢和辞典』によったのですが、”家に家がない”では意味不明
 だったので、翻訳当時は”のき”を採用したのだと思います。「家」が土地の意であれば、
 すっきりしました。”〔王祥の〕知行地には、〔舎人・官騎が住む〕宿舎がない”

57 中村 :2004/12/06(月) 14:04
えちぜんさん、検討して頂きありがとうございます。

レスのないところはえちぜんさんのレスで納得しましたが、以下の点はもう少し。
また基本的に指摘に際しては『漢語大詞典』をひいています。

車牛、は『大漢和辞典』は「車を引く牛」、『漢語大詞典』は「指牛車」ですね。自分は『漢語大詞典』を先に引き、それでも不明な時は『大漢和辞典』をひきます。この順番を推奨します(笑)。
どちらもほぼ同じ用例を引き、そこからはっきりと語釈が分かるものではないので今回、検索かけてみました。

後漢書・烏桓列伝「遮截道上商賈車牛千餘兩」→数詞が「両」
三國志・魏書・倉慈伝注引魏略「是時民多無車牛。斐又課民以輭月取車材、使轉相教匠作車」→「車牛」のない民衆のために「車」を作らせている。なおちくま訳は「車と牛」
魏書・文帝紀「車牛百乘」→数詞が「乗」
と原文からするとやはり牛車がいいかと。ただ官が支給する例を見ても牛車の車だけを給付するのではなく
牛もまた給付しただろうから(そうでないと動力がなく移動手段の支給という目的にそぐわない)、「車牛」
は牛と牛車のセットだったのかもしれませんね^^

「今日方知君見顧之重矣」はやはり私訳のように考えます。
晋王(司馬昭)が権勢を持ち始めた時だからこそ、その権勢に従わずなおも皇帝を重んじたのが王祥の行為だと思うからです。
そして権勢を持っていた司馬昭は、その行為を目の当たりにして、実際の権勢よりも権勢がなくなったとしても皇帝というだけ
で重んじられることを実感したのだと思います。
セリフのニュアンスをどう解釈するか、意見が分かれるところだと思いますので、他の人の意見も聞いてみたいところ^^

「古之致仕,不事王侯」はなかなか難しいですね。
王弼注は「最高位にあって、位を気にしない」つまり「王侯を事とせず。其事を高尚す」と読んでいるようで、
孔疏は「俗事や職位を気にかけない、だから王侯には仕えない。その清らかなことを自分がよしとする、だからその事を高尚とす」
礼記引用の鄭注は「引退したらもう出仕しない。君主がその行いを高尚とする」と3者の解釈はすべて違ってます^^
どうも易の原文は「王侯を事とせず」最高位の王や侯に自分がいてもその位を気にしない、という意で、
礼記の文脈でさらに鄭注にいたって「王侯に事えず」という解釈が生まれたように思えるのですがどうでしょう。
上記注釈の訳もあるいは間違っているかもしれませんから、やはり注釈を含んだ五経の訳書は手元に置いてみたいですね(とすると新釈漢文大系か?)。
晋書の「古之致仕、不事王侯」は、前後の文脈からしても一旦引退したらもう仕えない、の意でしょうから、
その文脈で訳せば「易経にあるように、昔は辞職すれば、もう王侯には仕えないものだった」とするのはどうでしょうか。

「家無宅宇」
家はやはり知行地の意味ではないと思います。春秋以前の「家」はたしかにその意があるようですが、
晋書の「家」は「いえ」「うち」の意だと思います。
「宅宇」はこの時期から出てきた新語のようですので、うまい訳語が思いつきませんが、前回の私訳
は下賜される舎人と関連づけて訳しましたが、彼の清貧たるを言う言葉とすれば「家には豪華な(広い?)
家屋がない」の意かもしれません。

58 スート :2004/12/07(火) 16:58
中村さん、指摘ありがとうございました。


巻82陳寿伝

  坐是停滞者累年。「そのために仕官できず隠退したまま年を重ねた」に改めました。

巻90杜軫伝

  奏議駁論多見施行。
  「上奏や、他者への上奏への反駁では、〔彼の意見が〕用いられることが多かった」に改めました。

巻91范平伝

  謝病還家。「病気と称して職を辞して家に帰り」に改めました。
  蔚爲辧衣食。「范蔚は彼らに衣食を提供した」に改めました。
  尚、この伝の注は全て削除しました。

巻91文立伝

  陳壽・李虔爲游夏。「陳寿と李虔(李密)を子游と子夏にたとえ」に改めました。
  文立忠貞清實、有思理器幹。「忠実で心正しく清実であり、思慮深く才能がある」に改めました。
  殊方。「辺境の異域」に改めました。「辺境地域」でもよろしいのでしょうか。
  程瓊雅有徳業。和刻本に従って、「雅ヨリ」と読みました。


范平伝と文立伝は、全面的に修正し次第、新稿を送ろうと思っています。

59 えちぜん :2004/12/12(日) 02:37
中村さん、王祥伝への更なるご検討、ありがとうございます。

「車牛」
辞書は中村さんご推奨の引き方にしてみます。数詞に着目して意味を特定する方法も目からうろこな感じで、とても参考になります。

「今日方知君見顧之重矣」
確かにこのニュアンスをどう捉えるかは難しいですね。文法的な観点、前後の文脈からの観点、他の書籍でこの件をどう伝えているかという観点などから、妥当なところを決めていくということになるのでしょうか?正直なところ、7:3くらいの割合で中村さんの訳が自然なのかなと感じています。というのも、えちぜんの訳は司馬昭が帝位に就くことをかなり本気で考えているということが前提となるからです。この前提が明らかになれば。。。という淡い期待が3の割合ということです。この前提については今後も考えていきたいと思います。

「古之致仕,不事王侯」
私は易経の注疏、礼記の注は更に間違うことを恐れて、訳せなかったのですが、中村さんの検討で納得です。

「家無宅宇」
「家」は知行地の意味ではないのですか。。。しっくりくると思ったのですが、ぬか喜びでしたね。


鄭沖伝へのご指摘については、私の方でも検討しましたが、すべてご指摘の通りであろうと思います。


詳細なご検討・ご指摘ありがとうございました。

60 仁雛 :2005/09/29(木) 16:23:59
こちらの掲示板は、【解體晉書】の掲載されている翻訳についての意見・指摘・質問を募るスレッドです。
会員・非会員にかかわらず、気軽に指摘してください。誤訳をなくすために、迅速に対応します♪


また、翻訳が出ていない『晋書』本文や他書の漢文についての質問も随時受け付けています。
答えられるかどうかわかりませんが、お気軽にカキコミください!!!

#なお、1〜59は会員内でやりとりしていた部分です。

61 菅原 :2006/01/09(月) 23:34:36
公開してからこの【解體晉書】で重要なスレに書き込みがないのは寂しいですね。
翻訳が出ていない『晋書』本文や他書の漢文についての質問も随時受け付けています。
答えられるかどうかわかりませんが、お気軽にカキコミください!!!

62 スート :2006/01/18(水) 17:36:26
『晋書』武帝紀、冒頭部分。

初、文帝以景帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、特加愛異、自謂攝居相位、百年之後、大業宜歸攸、

初め、文帝以へらく、景帝旣に宣帝の嫡なれども、早世して後無し、帝の弟攸を以て嗣と爲し、特に愛異を加へ、自ら謂ひて相位に攝居せしめ、百年の後、大業宜しく攸に歸すべしと。

当初、文帝は、景帝は宣帝の嫡男であったが早世して後嗣が無かったので、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣として特別に愛情を注いでおり、自ら説明して宰相の位に就かせることで百年後には大業は司馬攸に帰すべしと考えていた。

「自謂攝居相位」が不明瞭なので、どのように訳すのが適当か迷っております。

63 仁雛 :2006/01/19(木) 16:33:08
スートさん、こんにちは!武帝紀の翻訳始められたんですね^^;

「自」は副詞では「みずから」で日本語化している通りの意味(自分で〜する)ですが、他にも「自殺」(自分で自分を殺す)の熟語のように「自分で自分を(V=動詞)する」という意味があります。
さらには、「自(V)」の(V)の後に従属節(まぁ、文ですね)がある場合は、その主語にもなるようです(魏晋以降の用例かと)。
「自謂攝居相位」の部分はまさにそれにあたります。「自分で自分が「攝居相位・・・」だと「謂」(=(V))する」ということです。「謂」はここでは、おもう、です。
それから始めの「以」は「以へらく」ではなく「以て」だと思います。原文はスートさんの通りですから、自分は訓読と私訳を掲げます。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡なれど、早世して後なく、帝の弟の攸を以て嗣と為すを以て、特に愛異を加へ、自ら謂へらく、相位に攝居し、百年の後なれば、大業は宜しく攸に帰すべし、と。

当初、(兄の)景帝は宣帝の嫡男であったが早世して跡取り(後嗣)がいなかったので、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にしていたことから、文帝は司馬攸のことを特に可愛がっていた。文帝は、自分は宰相の位で補佐し、百年の(or宣帝が死んだ)後、(天下統治という)大事業は司馬攸に任せるべきだ、と思っていた。

『晋書』巻三十八「齊王攸」伝に、攸のことを「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」と記しています。景帝に男子なく、攸を跡取りにしたとのこと。
「攝居」はちょっと分かりにくいですね。仮訳です。あまり時間もなく、誤りもあるかもしれませんが、ご検討ください。

64 えちぜん :2006/01/20(金) 01:48:49
仁雛さんのコメントを踏まえて、もう少し追加。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡ならば、(すなわち)早世せば後なしを以て、帝の弟の攸を以て嗣と為し、特に愛異を加ふ。自ら謂へらく、相位に攝居するも、百年の後、大業は宜しく攸に帰すべし、と。

当初、文帝は、(兄の)景帝が宣帝の嫡男であるから、早世すれば跡取り(後嗣)がいなくなるだろうという理由から、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸のことを特に可愛がっていた。文帝は、しばらくは自分が宰相の位に就くが、自分の死後、(天下統治という)大事業は司馬攸に任せるべきだ、と思っていた。

「景帝既」の「既」は、「既にAならば、すなわちB」と読んで、前節での行為や事態が原因となって、後節の結果が導かれるであろうことを推定する用法。(『漢辞海』) 景帝の状況を見て、跡継ぎがいなくなることを推定。
「文帝以」の「以」は、理由や原因を表す。(『漢辞海』) 跡継ぎがいなくなることを推定したので、司馬攸を跡継ぎとした。
「攝居」は、『漢語大詞典』を引くと「暫居君位」とあり、「相位」は「宰相的職位」とあります。「攝居相位」で「実質的な最高権力者の地位(晋王?)に、嫡流ではないが一時的にしばらく就任する」というニュアンスでしょうか。
「百年之後」はそのまま訳すと、司馬攸はかなり長生きをしないといけなくなるので、ここでは人の死後のことを忌んでいう言葉。「百歳之後」「百歳後」の用例が『詩経』や『史記』高祖紀や『資治通鑑』秦紀にあるようです。(『大漢和辞典』)

65 殷景仁 :2006/01/20(金) 09:36:02
スートさん、仁雛さん、えちぜんさん:

初めまして、殷景仁ともうします。
こちらのサイトは、以前から時々のぞいていたのですが、今回「武帝紀」の訳について、皆さんがお話しされているのが面白そうですので、書き込ませて頂きます(横レスになりますがお許しください)。

これから急ぎの用がありますので、詳しい説明が書けずもうしわけないのですが、この部分についての訳は、私の考えではこのようになると思います。

当初、文帝は(自分の兄の)景帝が宣帝の嫡男であり、早世して跡取りがいないことから、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸を特にかわいがっていた。文帝は(即位したら)ひとまずは(皇太子は司馬炎にし、司馬攸は)宰相の位に就かせるが、自分の死後は、帝業は司馬攸に継がせるべきだと自身では考えていた。

「既」は「既然」の意、「〜である以上は」。
「自謂」の目的語は、文の最後までかかり、つまり「文帝自身は、〜だと考えていた」
「暫居相位」の目的語は、後半の「大業」以下の記述から考えて、「司馬攸」を指すものと思われます。
「大業」は「帝業」(『漢語大詞典』)、つまり皇帝の位を指します。

66 Guang-Bi :2006/01/20(金) 19:31:51
>>52

武帝紀の訳で盛り上がっているところに、一年以上前の投稿について
の話で申し訳ありません。

あるいは、その後にもうお調べになられているかもしれませんが、
列女伝・竇滔妻蘇氏に出てくる「迴文旋圖詩」については、
「[王旋][王幾]図」(せんきず)で『大漢和辞典』を見られると
良いかと思います。

たまたま以前に、自分の周りでこのことが話のタネになったために
知っているのですが(^^;)

67 殷景仁 :2006/01/20(金) 23:16:24
前回のは急ぎ書き込みしましたので、あらためて「武帝紀」を読み直しました。すると、この文の後に、太子を決めるという話が出てきており、そこで「将議立世子、属意於攸」という記述がありますので、以前の私の訳ではふさわしくないと思いますので、以下のものに変えることにします。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡にして、早世して後なきを以て、帝の弟の攸を以て嗣と為し、特に愛異を加ふ。自ら謂へらく、相位に攝居するも、百年の後、大業は宜しく攸に帰すべし。

当初、文帝は(自分の兄の)景帝が宣帝の嫡男であり、早世して跡取りがいないことから、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸を特にかわいがっていた。文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが、自分の死後は、帝位は司馬攸のものになるべきだと自身では考えていた。

68 仁雛 :2006/01/21(土) 16:39:58
>>62 Guan-Biさん

ご無沙汰してます。情報提供ありがとうございます。
実は、自分も諸橋『大漢和辞典』を見てみたのですが、説明が分かるような分からないような感じでした(笑)。
「[王旋][王幾]図」(せんきず)で、もう一度見てみる必要がありますね。情報提供ありがとうございます!!!

>殷景仁さん・えちぜんさん

書き込みありがとうございます!!
お二人のご意見、解釈、それぞれ拝見しました。前半部分はなお自説が正しいと思っていますが^^;、後半部分は、お二人の解釈を見て、「攝居相位」の「攝」が動詞なのか副詞なのか判別し、さらに意味を確定する必要があり、「百年之後」が誰の死後を指すのか確定しないといけないなと思いました。
前半部の自説の再説明と後半部については、再度検討してレスいたします(実はこれから明日の夜まで外出いたしますので、時間がないのです)。ご挨拶、お礼かたがた、簡単なレスで失礼します。

69 えちぜん :2006/01/22(日) 00:48:44
殷景仁さん、はじめまして。書き込みありがとうございます。【解體晉書】会員としての立場から申せば、このようにご意見を頂くと我々の翻訳作業にとって大変刺激になり、うれしく思います。今後ともよろしくお願いします。

さて、武帝紀の訳に関して、仁雛さんのご意見を踏まえ、若干、私の意見も追加して書き込みをしましたが(>>64)、殷景仁さんのご意見も踏まえ、もうちょっと考えてみました。私の訳出の理由など、前回の書き込みで書かなかったことも追記しようと思います。ただ、厳密に史料を追ったわけではなく根拠も薄弱、私の想像や思いこみも入っているので、参考程度でお読みいただければと思います。(スートさんのご質問からどんどんはずれていってしまいますが、ご容赦ください。)

1.「既」の用法について など
これは、文帝が司馬攸を景帝の跡継ぎにした時期を、景帝が死ぬ前だと想定していることからきています。仁雛さんが、「『晋書』巻三十八「齊王攸」伝に、攸のことを「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」と記しています。」と紹介されていますが、「齊王攸」伝にはその後に「及景帝崩,攸年十歲」と記述があります。この前後関係から司馬攸は景帝が生きている間に跡継ぎになったと考えたわけです。それから、これは思いこみもあるかも知れませんが、跡を継ぐというのは、景帝が死んでから(断絶してから)では遅いような気がするのです。ということで、文帝は、体調を崩しつつある景帝を見て、男子が生まれる可能性は低いと考え、司馬攸に跡を継がせたのだろうと思っています。

ところで、文帝が司馬攸を跡継ぎにしたように書きましたが、ここで「齊王攸」伝の「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」がちょっと引っかかりました。この文脈からいくと、宣帝が司馬攸を景帝の跡継ぎにしたととれるのです。つまり「宣帝命攸為嗣。」ということです。この可能性を考えたのですが、景帝が死んだ正元二年(255)、司馬攸は10歳です(前段引用)。宣帝が死んだのは、嘉平三年(251)ですから、司馬攸6歳です。「宣帝毎器之。」というからには、少なくとも6歳以前にそう評価したということになるので、それでは司馬攸は若すぎるのではないかと思います。そこでここは、「文帝毎器之。」ではないかと疑っています。(証明する版本を提示できないので本文は直しませんが。)そうすると武帝紀にあるような、文帝の司馬攸への期待とも辻褄があうかなと考えています。そして、司馬攸を景帝の跡継ぎにしたのも文帝ということになります。しかも時期的には宣帝の死後のことだろうと考えています。

2.「攝居相位」・「百年之後」について
「攝居」については、『漢語大詞典』の語義をほぼそのまま使いました。語義の「君位」と本文の「相位」を「実質的な最高権力者の地位」と考え、訳上は「宰相」としています。さて、先ほど司馬攸が景帝の跡継ぎになったことについて述べましたが、私の説でいくと、景帝が死ぬ前、つまり司馬攸が10歳になる前に跡継ぎとなっています。景帝が死に、嫡子とはいえやはり10歳と若すぎるため、「しばらくは自分が宰相の位に就く」と考え、そうしたのだと思います。そして権限を「自分の死後」に司馬攸へ返すことになると考えていたのだと思います。先述のように、司馬攸に跡を継がせたのは、宣帝の死後と考えていますから、この「百年之後」はやはり文帝の死後となります。

それから、殷景仁さんの訳に「文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが」とあり、私はこの訳から文帝が帝位をねらう野心をもっているように感じたのですが(違っていたらすみません)、私はむしろ、文帝は帝位を積極的に避けていたのではないかと感じています。その一方で司馬氏としての権力は着々と強化し、文帝の次の代では禅譲を受けられるような準備はしていたのだと感じています。なので、司馬攸が成長し禅譲を受けられる環境を整えるのが文帝自身の役目と自覚し、それは自身が生きている間の期間は必要だと思っていたのではないかと感じているのです。訳文の「(天下統治という)大事業は」の箇所は仁雛さんの訳そのまま使いましたが、私の認識では殷景仁さんと同じく「帝業」・「皇帝の位」を想定していました。

以上です。魏晋の頃の制度や風俗などの知識がほとんどない状態で、想像で書いていますので、説得力に欠けるものですが、ご参考までに。

70 殷景仁 :2006/01/22(日) 12:05:43
仁雛さん・えちぜんさんへ

お二方には、丁寧なご返事くださいまして、ありがとうございます。こちらもいろいろと考えさせられるご指摘で、感心することしきりでした。以前のご意見も再度拝察し、その上で、こちらもまた書き込ませていただきます。長々とした文で、読みにくいこと恐縮ですが、また何かご意見・疑問点ございましたら、ご返事ください。

仁雛さんへ
>前半部分はなお自説が正しいと思っていますが^^;

具体的には、司馬攸を景帝の後継にしたのは、①「景帝」か②「文帝」かということをおっしゃっているかと思います。これについて、私の方は、次のように考えます。
文の構造から判断して、仁雛さんの解釈には無理があるように思います。仁雛さんの解釈の場合、最初の「文帝……特加愛異」(文帝は……特に可愛がった)の文の間に、「以景帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣」というフレーズが入ることになります。しかし、「文帝」という主語のいきなりすぐ後ろに、主語の異なるフレーズを長々と置き、それから「特加愛異」という、最初の主語に対応する述語がくるというのは、読みにくくて不自然だと思います。その上、仁雛さんの解釈では、最初の「以」のフレーズの中に、さらに「以帝弟攸爲嗣」という、別の「以」のフレーズが入り、煩瑣な感じが免れません。私には、こういう見栄えが悪く読みにくい文を『晋書』の筆者が書くとは思えないのですがどうでしょう。仁雛さんの解釈のような主旨で書くなら、「初、「景」帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣。故文帝特加愛異。」とすっきりした書き方にすると思います。ですから、この文だけを見る限りでは、私は司馬攸を景帝の後継にしたのは、②「文帝」であり、最初の「以」以下のフレーズは、「早世無後」までであると考えます。ただ、後継にしたのは誰かという問題は、えちぜんさんのご指摘にあるように、他の箇所も丹念に見る必要があると思いますので、この結論も一応のものとしておきます。お帰りくださった後、再度のご意見をお待ちしております。

71 殷景仁 :2006/01/22(日) 12:06:17
えちぜんさんへ
>「跡を継ぐというのは、景帝が死んでから(断絶してから)では遅いような気がするのです。」

私自身は、文帝が司馬攸を景帝の後継に立てたのは、死後であった可能性は否定できないと思います。もちろん、えちぜんさんのように、生前から養子となっていた可能性も否定しません。ですが、やはり「文帝が」攸を景帝の跡継ぎにしたのは、死後のことと考えた方が比較的いいと思います(「文帝が」とカギ括弧にした理由は後述します)。

というのも、死後、別の養子を立てて跡継ぎにしたという例は、たとえばこのサイトの次の例をみてもあり得るように思うからです。

「薨,無子。安帝時立武陵威王孫蘊爲淮陵王,以奉元王之祀,位至散騎常侍。薨,無子,以臨川王寶子安之爲嗣。」
「〔司馬融が〕薨じたとき、子がなかった。安帝の時に武陵威王の孫の司馬蘊が淮陵王となり、元王(司馬漼)の祭祀を受け継いだ。官位は散騎常侍にまで至った。薨じると子がなかったので、臨川王司馬寶の子の司馬安之を後継ぎとした。」(巻三八の訳を借りました)

『晋書』の他の箇所にも、「薨 、追加封諡、以…爲嗣」「薨 、無子、以…爲嗣」というような記述は結構ありますので(「文六王伝」だけでも四例あります)、景帝死後でも、攸が跡継ぎになる可能性は十分あります。ですから、「死後ではおそい」という判断だけでは、根拠とはなり得ないと思います。

ただし、やはり気になるのは、司馬攸の列伝の記述です。ご指摘の通りここは問題ある箇所です。この「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣」の記述からでは、攸を景帝の後継としたのは、明らかに宣帝(司馬懿)ということになり、「武帝紀」の記述と食い違っているように思われます。えちぜんさんのように、「宣帝」を「文帝」の間違いと考える手段もありますが、その場合、すぐ後ろに続く「從征王淩」の記述がネックとなります。これは明らかに司馬懿生前のことですから、やはり「景帝無子、命攸為嗣」したのは、「宣帝」とする方がいいと考えます。頭を悩ませる記述ですが、一つの考えとして、私は次のように考えています。

「武帝紀」の「以帝弟攸爲嗣」とは、攸伝の記述にある「襲封舞陽侯」のことを指している。つまり、宣帝(司馬懿)の在世中、攸は、司馬懿によって景帝の跡継ぎとされていたが、それは一族内での取り決めとしてであり、正式に跡継ぎに「なった」のは、景帝の死後、「文帝が」改めて攸を「襲封舞陽侯」としてからである。

いかがでしょうか。まだ苦しいところはあるとは思いますが、一応つじつまはとったつもりです。あるいは単に『晋書』編纂時に、異なる史書の記述を採録し、整合性をとらないままにしてしまっただけなのかもしれませんが…。とりあえずこの問題については、皆さんのご意見をお待ちしております。

>「文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが」

この部分、以前の訳から内容を変えています。新しい訳(つまり引用されている訳ですね)では、実はえちぜんさんのおっしゃるような主旨に訳し直しています。つまり、「文帝自身は即位するつもりはなく、とりあえず魏の宰相の地位に甘んじるが、自分の死後は、攸を即位させる。」というつもりで書きました。以前の訳では「文帝自身が帝位を窺っていた」という方向に訳していましたが、読み直して「相位に攝居する」のが、「文帝」であるように思われたので、上のように訳し直しました。ですから、「文帝は帝位を積極的に避けていたのではないかと感じています。その一方で司馬氏としての権力は着々と強化し、文帝の次の代では禅譲を受けられるような準備はしていたのだと感じています。」というえちぜんさんのご意見には、私も賛成なのです。「とりあえずは…留まる」というところにその意味を込めたつもりでしたが、前の訳と違うことを説明していなかったので、わかりにくかったかもしれません。失礼しました。

72 えちぜん :2006/01/23(月) 02:51:40
殷景仁さん、丁寧かつ詳細な書き込みありがとうございます。

ご意見を拝読し確認いたしましたが、殷景仁さんのおっしゃる通りですね。
異論はありません。

前回の書き込み(>>69)は根拠薄弱であることは自覚しておりましたが、結論(最初に提示した訳)としては概ね間違いなかろうとは思っていました。やはりいけませんね。
死後の跡継ぎの有無や王淩のことなどは、汗顔の至り、自らの不明を恥じ入るばかりです。
まだまだ修行が足りません。(>_<)

73 仁雛 :2006/01/24(火) 15:03:02
殷景仁さん、丁寧なレスありがとうございます。
まずはじめに、このスレッドへのレスをしてくださり、えちぜんさん同様、掲示板管理担当会員・副代表として本当に感謝しております。ありがとうございます!従来このような議論は、過去ログにある通り、会員内部で行っておりました。それを公開して会員外からもお知恵をぜひ借りたい、それにはスレ式掲示板の導入を、というのが私(たち)の願いで現実になりました。その意味もあり、>>61の菅原代表の声があったのですが、こうして漢文の解釈について掲示板上で話し合えることを幸せに思っています。
それから、>>70の書き込みも、こちらの意図を理解してくださっての意見を書いてくださり、ありがとうございます。

>>70 殷景仁さんへ
「文帝以景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、特加愛異」
この前半部分について私が63のように「文帝以【景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、】特加愛異」と解釈したのは、文帝「以〜〜特加愛異」という構文を重視したためです。検索で「以〜特加(動詞)」という文が散見したので(指摘後に再調査したところ、理由を「以」で表さない「特加(動詞)」の例もあり、なんとも言えずです^^;)。「読みにくくて不自然」というのは私も感じましたが、「〜〜」の部分に違う主語の文がくることがあり、その部分が長くなることはありえるので、文法的には間違いではないと考えました。それから「以」が重なる「煩瑣な感じ」も指摘の通りですが、書き込み当時は【景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣】の「以帝弟攸爲嗣」の主語をあまり深く考えていませんでした。あとは、以前このような「以」が文内に重なっているのを読んで「こんな文もあるのか」と記憶しているので、これもありなのかと思った次第です。しかし、【 】内だけを素直に読めば「以帝弟攸爲嗣」の主語は景帝となり、現実的にはその可能性はないようですから、自分の読みがあまり説得力のないものだということが分かりました。やはり短時間でのレスには誤りがつきもので、自分もまだまだ精進せねば、と思った次第です。ご指摘、本当にありがとうございます。

さて、71の殷景仁さんのレスは、非常に興味のある解釈だと思います。
殷景仁さんは「文帝以【景帝既宣帝之嫡、早世無後、】以帝弟攸爲嗣、特加愛異」という解釈かと思います。これも「以」が重なってしまいますが、前者は理由・原因をあらわし、後者は動詞の対象をあらわしているので、不自然な感がないわけではありませんが、文法的に間違いはないと思います。そうなると「以帝弟攸爲嗣」の主語は文帝ですが、司馬攸の列伝の「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣」と矛盾してしまいます。その点の解釈の理解を示されており、検討の価値がある見解だと思います。

いずれにせよ、なかなか突き詰めると難しいですね・・・。跡取り決定に関して、いろいろと調べないと確定できないですね。うーむ。
取り急ぎ、忙しいのですが、あまりレスを延ばすのも失礼かと思い、自説を再考するということで失礼します^^;

74 殷景仁 :2006/01/25(水) 18:10:37
えちぜんさん、仁雛さん

ご返事ありがとうございます。お二方のご意見は、私にとっても>>70のレスを出すとき非常に参考にさせていただきました。このように漢文の解釈をめぐって、実のある意見のやりとりができることは、私自身とてもうれしく思います。

司馬攸後継に関する今回の問題についてですが、「武帝紀」の訳自体は、たぶん>>70のようになるのでしょうが、司馬攸の列伝の記述との食い違いはさて一体どういうことなのか?なかなか難しいところです。あまり深く入り込むと、このスレッド(漢文解釈)の主旨とはややはずれるかもしれませんが、興味深い問題ではあります。>>70の考えはとりあえずのものです。あくまで参考/たたき台として出してみたものですので、これを補強するような考えや、もっと説得力のある別のご意見など、出てきてくれればうれしいです。私の>>65の時のように、急ぎのレスは間違えたり、読みが浅かったりすることがあるので、これはというご意見がありましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。

あと、本の推薦ということで、参考文献のスレッドにも書き込ませていただきました。あるいはこの問題の参考になるかもしれません。

75 NAGAICHI Naoto :2006/01/27(金) 19:59:36
>>66
Guang-Biさん
遅レスm(_ _)mですが、「[王旋][王幾]図」情報ありがとうございます。
列女伝第二稿も凍結してしまって久しいですし、
少しはやる気出さないとなあ…(;)

76 スート :2006/01/27(金) 21:40:53
どのように読み下し、どのように訳せばよろしいでしょうか?>武帝紀

77 スート :2006/01/29(日) 19:47:08
76はすみません。
注釈を入れて、「こういう解釈もある」等としようと思います。

再び武帝紀についての質問なのですが、序盤に、

  「咸煕二年五月、立爲晉王太子、八月辛卯、文帝崩」

とあるのですが、「夏五月」とか「秋八月」というふうに、季節が抜けているのは何故でしょうか。注釈に、「『夏』の一字を補った」とか附すべきでしょうか。

78 えちぜん :2006/01/30(月) 01:35:04
>>77

>季節が抜けているのは何故でしょうか。

校勘の立場からだと、異なる版本を比較して「咸煕二年夏五月」となっているテキストがあるかどうか確認する必要があると思います。異なる版本に「咸煕二年夏五月」となければ、ここには脱字はなく「咸煕二年五月」だと考えるのが妥当と思われます。

あとは、同様の用例があるかどうかを『晋書』の中から探して、「咸煕二年五月」のような用例が他になく、あったとしても非常に少ないと言えれば、脱字があると推定できるかも知れませんが、恵帝紀・孝懐帝紀にも用例があるので、脱字である可能性は低いと思います。

季節が抜けているのは何故かは分かりませんが、ざっと見た感じ、帝位に就いてから(宣帝・景帝・文帝は実権を握ってから)は季節がついているようで、それ以前の記述には季節なしとなっているようです。全部見たわけではないので、悪しからず。

>注釈に、「『夏』の一字を補った」とか附すべきでしょうか。

スートさんが用意される「原文」に『夏』の字を補っている(テキストを修正している)のであれば、このように注釈を加えるべきだと思いますが、それ以前に「原文」は直さない方がよいと思います。注釈者が不用意に原文を改め、本来の文意が変わっていったというのが、校勘の歴史であるようですから、原文の修正には慎重の上にも慎重を期すというのが、大事なようです。

「原文」は修正せず、翻訳の文章上に付け加えたのであれば、上記の注釈で良いと思いますが、「夏」の字を補った根拠は示すべきかと思います。

「校勘の立場から・・・」なんて書きましたが、最近校勘学のテキストを読んだだけのことなので、思わぬ勘違いをしているかもしれません。ご参考までに。

79 仁雛 :2006/01/31(火) 13:10:55
>>77 スートさん
「咸煕二年五月、立爲晉王太子、八月辛卯、文帝崩」と季節が抜けている理由は、>>78のえちぜんさんのレスの「帝位に就いてから(宣帝・景帝・文帝は実権を握ってから)は季節がついているようで、それ以前の記述には季節なしとなっているよう」だというのが当たっていると思います。その他の部分は省略だと思います(たとえば「春正月」という記事で記述があり、次の記事が「三月」から始まる場合、本来は「春三月」なわけですが省略して「三月」としています。晋書帝紀をパラパラめくってのことですが^^;)。

80 スート :2006/01/31(火) 22:56:59
えちぜんさん、仁雛さん

なるほどです。『三国志』帝紀とは基準が違うのですね・・・。
ありがとうございました。

81 殷景仁 :2006/02/01(水) 13:57:34
>>77 スートさん:

ここ数日、用事がありまして、掲示板を見ていませんでした。済みません。
書き下し・訳については、とりあえず、私の方ではこのようになると思うものを書いておきます。

(書き下し)
初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡にして、早世し後無きを以て、帝の弟攸を以て嗣と為し、特に愛異を加う。自ら謂えらく、相位に摂居すれど、百年の後、大業宜しく攸に帰すべしと。

(訳)
当初、文帝は、景帝が宣帝の嫡子であり、早世して跡継ぎがいないことから、武帝の弟司馬攸を跡継ぎとし、非常に可愛がった。(自分は)とりあえず宰相の地位に留まるが、その死後、帝位は司馬攸のものにすべきだと自身では思っていた。

書き下し・訳は、大体このようになると思います。ただ、語られている内容については、おっしゃるとおり、他の部分との異同を訳注で補う必要があるでしょう。

取り急ぎですみませんが、この程度で宜しくお願いします。

82 仁雛 :2006/03/13(月) 17:30:56
ageもかねて、カキコミを(笑)。

この部分、和刻本はどうなっているのでしょうね。。。ずっと気になっていたところです。
なかなか所蔵している図書館に行って確認する時間がないので、ずっと見れずじまいできてしまいました。購入したいのですが、先日の鶴本書店の目録では、和刻本『晋書』が3万くらいでした・・・。あぁ、手が出ない^^;
あと、晋書は現代中国語訳が出たので、そこでもどう訳されているのやら。。。現代中国語訳は、古典漢語のあいまいな部分も、あいまいに訳せてしまう(主語や述語などを明示しないなど)し、実際に訳出する人はそれほど専門な人でもなかったりするので、経験上それほどあてにはならないのですが、参考にはなるので。

83 巫俊(ふしゅん) :2006/03/13(月) 18:27:49
東晋時期に李充という文官がいまして、晋書の文苑伝に名を挙げられている人なんですが、
そこの李充の伝記の終わりにこういう記述があります。

- 2391 -
充注尚書及周易旨六篇、釈莊論上下二篇、詩賦表頌等雑文二百四十首,行於世.

李充が尚書(書経)と周易(易経)、荘子関係、雑文などに注を付けて、
それが「行於世.」すなわち世間に流通した(という意味ですよね?)と書かれているようです。

そいで李充という人の名を挙げたところとしては、
西晋の武帝が呉を平定した年の前後に発掘された『竹書紀年』をはじめとする、
晋代に新出した出土史料を使って宮廷に伝来する古文献を再構成したのではないか?
と目されるところにあります。

84 巫俊(ふしゅん) :2006/03/13(月) 20:56:26
『竹書紀年』は河内(晋代は汲郡に分離)の戦国期魏の王族墓から出土したとされる、
司馬遷の『史記』に先行する戦国時代の「史記」(年代記)で、呉平定の司令官のひとり杜預をはじめとする、晋代の人が目にしたという中国史上の重要文献です。
元明時代に散逸してしまった為に惜しくも、古典籍の注に引かれた内容を輯本にしたものがあるだけですが、
それでも、夏代〜戦国中期までの通説的なものを変えてしまうだけの内容がそこに書かれています。

それら出土史料を整理したのが出土当時の現代人の晋代人で、そこから晋という時代に関心があるようです、私。
そいで晋代の人に整理されたという出土史料の竹簡は、『竹書紀年』(年代記の類)ひとつではなくて、書経や易経にも及ぶようです。
書経や易経の出土史料バージョンは、晋の秘閣(史料庫)に収納されて、図書館司書にあたる晋代の人や一部の知識人(杜預など)は見ることができたといいます。

85 えちぜん :2006/04/15(土) 00:56:07
『晋書』石苞伝翻訳中のえちぜんです。不明な箇所がありますので、質問させてください。

『晋書』石苞伝(二十四史点校本p.1002 L2)に

 武帝踐阼,遷大司馬,進封樂陵郡公,加侍中,羽葆鼓吹。

とあります。「羽葆鼓吹」というのは、「劍履上殿」や「入朝不趨」のような特権を表しているものと考えているのですが、具体的にはどのような特権なのでしょうか?

『大漢和』によれば「羽葆」は「鳥の羽で作った儀仗などに用いる車の華蓋。親王、又は大勲功ある者などの用ひるもの。」とあります。
「鼓吹」は「①軍楽を奏する官。」「②つづみ及びふえの類。又、それらの楽器を鳴らすこと。太鼓を打ち笛を吹くこと。又、軍事に奏する音楽。軍楽。」とあります。

似た用例として、『文選』所収の任纊「王文憲集序」に

 追贈太尉、侍中、中書監,如故。給節加羽葆鼓吹,増斑劔為六十人。

とあるのは見つけたのですが。。。
ご教示よろしくお願いします。<(_ _)>

86 殷景仁 :2006/04/15(土) 18:38:22
>加羽葆・鼓吹

ここでは、天子に許されている特権が功臣に与えられたことを意味しているといっていいでしょう。

手元に増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社)があるので、鼓吹について述べますと、この制度は前漢の武帝の時代に始まり、基本的には、軍楽や天子の鹵簿の時のみに用いることが許されたようです。

これが臣下に下賜されるようになったのは、後漢の時代からのようですが、それでも鼓吹を下賜された臣下は、(軍楽という性質上)軍事を執行する将軍在職者、あるいは功臣を表彰する目的で特賜される場合は、死後葬送の際にのみ限られていたようです(時代は違いますが、「王文憲集序」にある王倹のケースはまさにこの場合に相当します。この場合は、柩車に鼓吹が随従したようです)。それが三国を経て西晋時代になると、生前において功臣を表彰するため、鼓吹が下賜されるようになりました。さらにこうした功臣に下賜されたのは、一般の武将たちに下賜される諸官鼓吹の伶人ではなく、天子直属の黄門鼓吹の伶人だったとされています。

なお臣下への鼓吹下賜は、晋代では比較的頻繁に行われたようですが、南朝にはいると、再び厳しく制限されるようになったともあります。

87 えちぜん :2006/04/18(火) 23:49:10
殷景仁さん、ご教示ありがとうございます。

鼓吹についてよく分かりました。ただ、王倹のケースであればイメージしやすいのですが、石苞のように生前に下賜された場合、その特権をどういう場合に行使するのかが、よく分からないのでした。手元に適当な資料がないので実態がどうか分からないのですが、特権というより栄誉賞みたいなものなのでしょうか?鼓吹は音楽に関する特別な技能者でしょうから限られた人からなると思われ、かつ「天子直属の黄門鼓吹の伶人」となれば、その道の一流の人でしょうから、そういう鼓吹を下賜されるということ自体が非常に名誉なことだったのかなと想像しております。

ちなみに「王文憲集序」を『文選』を開いて見ましたら、冒頭に

 公諱儉字仲寳,琅邪臨沂人也。

とあります。この王倹も琅邪王氏ですね。王祥伝を訳したので、「琅邪臨沂人」に思わず反応してしまいます。(^^;)
李善注を頼りに、『宋書』の目次をめくれば、王倹の祖父王曇首の名の横に殷景仁さんのお名前が。奇遇ですね。(^o^)

88 山口博数 :2006/10/31(火) 11:51:36

郤詵伝のカク注に「詵表自理曰臣生三月而孤随母依外祖舅為縣悉家以咸寧二年母亡家自祖以下十四墳在緱氏而墓地数有水規悉遷改常多悉病遂使留此此方下湿唯城中高故遂葬於所居之宅祭於所養之堂不知其不可也。」とあるのですが、うまく句読点がうてません。どう訓むのでしょう。それから咸寧二年の寧は「うかんむりに丁の下に皿」の如きを寧としました。

89 仁雛 :2006/10/31(火) 21:27:46
山口さん

ご協力ありがとうございました!

90 仁雛 :2006/11/02(木) 01:51:19
カク注が、『通典』のどのテキストを利用したか知りませんが、中華書局本では以下のようにあります。
詵表自理曰,臣生三月而孤,隨母依外祖,舅為縣悉將家。以咸寧二年母亡,家自祖以下十四墳在緱氏,而墓地數有水,規悉遷改,常多疾病,遂便留此。此方下濕,唯城中高,故遂葬於所居之宅,祭於所養之堂,不知其不可也。

むじんさんが既に内容を紹介されていますが、以下のように読んでみました。

「詵、表して自らを理して曰く、臣、生まれて三月にして孤なり。母に隨い外祖に依る。舅、縣(吏?)と為り、悉く家を將う。咸寧二年を以て母、亡す。家、祖より以下の十四墳、緱氏に在り。而るに墓地に數(しばし)ば水有り。規、悉く遷改し、常に疾病多し、遂に便ち此に留まる。此の方、下は濕にして、唯だ城中のみ高なり、故に遂に居る所の宅に於いて葬し、養う所の堂に於いて祭す。其の不可なるを知らざるなり。」

91 山口博数 :2006/11/06(月) 12:06:07
仁雛さん
『通典』の訓読有難うございます。この時代の人は父を亡くしたり孤児だったり戦乱の世は大変ですね。
テキストは無く、芸文印書館印行の二十五史の晋書カク注の一文でした。
郤詵と郷品の格下げと関連の人物などに今関心を持っています。それにこの部分は重要でした。

92 駿 :2006/12/08(金) 21:40:11
於是項王乃上馬騎,麾下壯士騎從者八百餘人,直夜潰圍南出,馳走。平明,漢軍乃覺之,令騎將灌嬰以五千騎追之。項王渡淮,騎能屬者百餘人耳。項王至陰陵,迷失道,問一田父,田父紿曰「左」。左,乃陷大澤中。以故漢追及之。項王乃復引兵而東,至東城,乃有二十八騎。漢騎追者數千人。項王自度不得脫。謂其騎曰:「吾起兵至今八歲矣,身七十餘戰,所當者破,所擊者服,未嘗敗北,遂霸有天下。然今卒困於此,此天之亡我,非戰之罪也。今日固決死,願為諸君快戰,必三勝之,為諸君潰圍,斬將,刈旗,令諸君知天亡我,非戰之罪也。」乃分其騎以為四隊,四嚮。漢軍圍之數重。項王謂其騎曰:「吾為公取彼一將。」令四面騎馳下,期山東為三處。於是項王大呼馳下,漢軍皆披靡,遂斬漢一將。是時,赤泉侯為騎將,追項王,項王瞋目而叱之,赤泉侯人馬俱驚,辟易數里與其騎會為三處。漢軍不知項王所在,乃分軍為三,復圍之。項王乃馳,復斬漢一都尉,殺數十百人,復聚其騎,亡其兩騎耳。乃謂其騎曰:「何如?」騎皆伏曰:「如大王言。」

93 駿 :2006/12/08(金) 21:40:43
訳して〜!!

94 菅原 :2006/12/09(土) 23:06:20
駿さん、はじめまして。【解體晉書】代表の菅原です。
92の文章92の文章を訳してほしいとのご要望ですが、どういった事情があるのでしょうか?
92の文章は『史記』「項羽本紀」の一部ですので、もし訳が必要でしたら『史記』の訳本を読まれた方が
われわれの拙い訳よりもはるかにわかりやすいことと思います。
『史記』の訳本はいろいろな種類があります。
もし漢文の宿題等でしたらそんなに難しい文章ではないので、
漢文の基本に従って読んで時間をかければ訳すことができると思います。

95 <削除> :<削除>
<削除>

96 齊藤 :2006/12/13(水) 13:30:59
漢文のことは何も判りません。教えてください。
他の未だ成さりしことを成さんとす を漢文に訳したいのですが。
他未事不成 ですか??全然わかりません。。。

97 菅原 :2006/12/17(日) 00:10:19
齊藤さん、はじめまして。【解體晉書】代表の菅原です。
もしよかったらその漢文が必要な理由を教えていただければ幸いです。
またその文章が何からの引用とかわかりましたらもっとお力添えできるのですが。
「他の未だ成さりしことを成さんとす」というのは読み下しに少し違う点や足りない点が
ありそうな感じですので、私が現時点で漢文を試みても間違えそう気がします。
「未だ成さりしこと」や「成さんとす」で間違いないでしょうか?

98 こばやし :2007/01/07(日) 20:16:58
いきなりすみません
この漢文の意味・読み方わかる方いらっしゃいますか?
 他日趨庭叨陪鯉対
趨と庭の間にレ点があって鯉の前に二、対のあとに一とあります
漢文についての知識が全くないのでわかる方がいたら教えてください

99 えちぜん :2007/01/08(月) 01:17:01
>98

唐の王勃の著した『滕王閣序』の一節ですね。
読み下し文、日本語訳は、星川清孝 著『古文真宝(後集)』(明治書院 新釈漢文大系16)にあります。

これによると、お尋ねの一節の読み下しは、

「他日庭に趨(はし)つて叨(みだ)りに鯉対に陪せん」

とあります。

この一節の意味ですが、この箇所は『論語』季子篇の故事を踏まえている点と、この文章を著した際の王勃の境遇を知らなければ十分な理解はできないと思います。先に挙げた『古文真宝(後集)』をご覧になることをお勧めします。

100 こばやし :2007/01/08(月) 09:51:56
わかりました。ありがとうございました!!


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)


■ したらば のおすすめアイテム ■

無邪気の楽園 1 - 雨蘭

学園七不思議のプールから小学校時代にタイムスリップ

この欄のアイテムは掲示板管理メニューから自由に変更可能です。


read.cgi 無料レンタル掲示板 powered by Seesaa