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鬼和尚の経典解説まとめ

101避難民のマジレスさん:2024/09/10(火) 10:53:32 ID:cnSG28OY0
0059鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/11(火) 00:13:03.21 ID:1oEqxfGV

***
(十三)
「スブーティよ、如来が説いた法はあるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、如来が説いたものは何もありません。」

「スブーティよ、この果てしなく広い世界の大地の塵は多いだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、非常に多いです。」

「スブーティよ、如来は大地の塵を大地の塵ではないと説く。それゆえに大地の塵と言われる。如来は世界を世界ではないと説く。それゆえに世界と言われる。」

***

 それからお釈迦様は自分が何か説いた法があるかと、須菩提長老にきくのじゃ。
 須菩提長老は何も無いと答えるのじゃ。

 更にお釈迦様は三千大千世界の塵は多いかと聞いたのじゃ。
 須菩提長老は多いと答えたのじゃ。
 何故ならば如来は世界は世界ではなく、地理は塵ではないと説いたからというのじゃ。

 そうであるから世界の塵は多いというのじゃ。
 先には如来は何も説いていないといいながら、世界は世界ではないと説いたというのじゃ。
 それが世界の説き方であるからなのじゃ。

 世界は世界ではないとお釈迦様は説いたのじゃ。
 そうであるから世界とよばれると、説いたのじゃ。
 それは説いたことではないというのじゃ。

 説いてはいないから、説いたことになるというのじゃ。
 このように幾重にも重なって、観念を破壊する般若の法は説かれるのじゃ。
 それは論理や知識で理解することではないのじゃ。
 理解しなくて善いのじゃ。

 むしろ理解してはいかんのじゃ。
 理解とは観念を記憶による既存の知識と照らし合わせて、それもまた知識として記憶の中にしまいこむことであるからなのじゃ。
 それでは観念は定着するばかりで、破壊されないのじゃ。

 矛盾のある理解できない観念であれば、決して知識としてしまいこまれることはなく、他の観念を破壊して自らも破壊されるのじゃ。
 それがこのような構造をとる意味なのじゃ。
 どこまでも矛盾した理解し難い法門を、繰り返し念じることで身につき、観念は破壊されるのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

102避難民のマジレスさん:2024/09/11(水) 10:33:25 ID:31Y9QnpI0
0075鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 00:05:20.69 ID:6AXOW6C6

***
「スブーティよ、どう思うか。如来は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるだろうか。」

「いいえ、師よ。如来は三十二の特徴によって見分けることはできません。それはなぜかというと、如来は三十二の特徴は特徴ではないと説いているからです。それゆえに三十二の特徴と言われるのです。」

「スブーティよ、もし善き男や善き女が、ガンジス河の砂と等しいほど体を捧げたとしても、この経の中でたとえ四行詩一つでも心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説く人がいるとすれば、その福徳のほうが遥かにに大きいのだ。」

(十四)
 そのときスブーティはこの教えを聞き、その深い意味を洞察し、感動して涙を流しました。
 涙を拭い終わって、師に言いました。
「師よ、すばらしいことです。如来がこのような非常に深い教えを説かれたことは、私がこれまでに得た智慧をもってしても、聞いたことがありませんでした。

 師よ、この教えを聞いた菩薩が、清らかな信心を持って受け入れ、真実だという思いが生じるならば、そのような人は最も稀有な功徳を成就すると知るべきです。なぜならば師よ、この真実だという思いは、実は真実だという思いではありません。それゆえに如来は真実だという思いと言うのです。

***

 そしてお釈迦様は須菩提長老に、
 三十二相をもって如来を見るべきかと問うたのじゃ。
 長老はそうではないというのじゃ。

 三十二相は相ではないのであるから、三十二相と言われる。
 と、答えたのじゃ。
 
 この後、お釈迦様はこの経を広めたら功徳が一杯あるとか宣伝するのじゃ。
 それは大乗経典によくある宣伝であるからみんな飛ばしよみで善いのじゃ。
 解説ではみんな飛ばしてよんでいくのじゃ。
 
 長老は感激してなきながら、こんな素晴らしい経を説かれたのを聞いたことがないと、賞賛するのじゃ。
 後の世にこの経を聞いて清い心で信じることができる者は、これが真実と思うというのじゃ。
 なぜならば真実であるという観念は、真実ではないから、というのじゃ。
 そうであるから真実であると説かれたというのじゃ。

 真実という観念は真実そのものではないのじゃ。
 それに気付けば真実なのじゃ。
 真実は観念の届かないところにあるものじゃ。
 そのように観念を離れた境地に入れば真実がありのままにわかるのじゃ。

103避難民のマジレスさん:2024/09/12(木) 10:43:29 ID:qu33Whyg0
0081鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 23:56:04.87 ID:6AXOW6C6

***
 師よ、わたしが今、このような教えを聞いて、信じて受け入れる ことは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる人がいれば、その者はこの上なく希有でありましょう。なぜならば、その者には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れることが、諸々の覚者であるからです。」

***

 更に須菩提長老は続けて、
 自分がこの経を受け容れて理解するのは難事ではないというのじゃ。
 後の五百年になってこの経を受け容れて記憶して理解する者こそわしよりえらい、とかいうのじゃ。
 
 何故ならばそのような人は前述の自己認識の四つの観念がないからなのじゃ。
 それらの観念すらもないというのじゃ。
 一切の観念を離れたものが仏陀であるからなのじゃ。

 つまりこの経を受け容れて、理解できるようなものはもはや悟っているというのじゃ。
 悟っていなければ理解できないというのじゃ。
 一切の観念がない仏陀であればこの経を受け容れて理解できるというのじゃ。
 そうであるから自分よりも偉いと須菩提長老はいうのじゃ。

 本来、経とはまだ悟っていない修行者のためものじゃ。
 悟っていない者たちが経典を学び、実践して悟りを目指すのじゃ。
 悟ってしまえばもはや経典はいらないのじゃ。

 しかし、この経は悟っていなくては理解できないというのじゃ。
 それでは修行者はどうすればよいのか。
 理解できなくとも悟っていない者達はただひたすら信仰によって、実践するしかないのじゃ。
 実践することで観念の切断を学び、身につけ、全ての謬見と煩悩を断じて進むのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2024/09/13(金) 10:35:58 ID:p2ICcw1E0
0094鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/13(木) 23:53:17.99 ID:zH9ccZo+

***
師はこのように話されました。
「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜか というと、スブーティよ、かつてわたしがある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切無かったからだ。
 それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。」

「スブーティよ、また過去を振り返ってみると、わたしは五百の生涯のあいだ、忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。」

***

お釈迦様は須菩提長老に六波羅蜜の最初の忍辱波羅蜜は、忍辱波羅蜜ではないと、説いたのじゃ。
 なぜならば前世に忍辱仙人だったときに、悪王に体をばらばらにきられたが、何も思わなかったというのじゃ。
 それは自己認識の四つの観念がなかったからだというのじゃ。

 もしそれがあれば怒っていたが、無いから怒りも何も無かったというのじゃ。
 それが忍辱波羅蜜、即ち忍耐の完成の行だったというのじゃ。

 それ故に六波羅蜜の中の忍辱波羅蜜とは、忍辱波羅蜜ではないというのじゃ。
 そうであるから忍辱波羅蜜であるというのじゃ。
 自己認識の四つの観念がないとき、忍辱、忍耐は最高の完成をみるのじゃ。
 
 しかし、それはもはや自分という観念が無いから、もはや自分の忍耐の完成ではないのじゃ。
 そこには忍耐する何者もいないからなのじゃ。
 忍耐する者が居らず、忍耐がない時、忍耐の行は完成するのじゃ。
 
 それが金剛般若経による忍耐の完成なのじゃ。
 大乗経典の般若経典ではこのように、般若波羅蜜によって他の波羅蜜は真の完成を遂げるというのじゃ。

105避難民のマジレスさん:2024/09/14(土) 11:22:41 ID:IJyX4bTE0
0099鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/14(金) 23:34:59.21 ID:/GDqYd9y

***
「それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、『菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない』と説かれたのだ。」

 スブーティよ、菩薩はすべての生きとし生けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を語る者、正しい言葉を語る者、いつわりなく語る者、正しく語る者であるからだ。」

「スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。」

「スブーティよ、もし菩薩が法に執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩が法に執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。」

***

 お釈迦様は更に一切の観念に囚われずに、悟りを求める心を起こすのじゃ、というのじゃ。
 色にも囚われず、声香味触法の全てに囚われず発菩提心を起こすべきだというのじゃ。
 なにものにも囚われずに心を起こすべきだといのじゃ。

 なぜならば心に囚われがあるならば、それは囚われではないからというのじゃ。
 そうであるから囚われというのじゃ。

 一切の観念は夢幻である故に、囚われているという観念もまた無であるからなのじゃ。
 それが真実であるから、そのように心を起こすべきなのじゃ。

 そうであるから如来は、菩薩はなにものにも囚われずに布施をするべきというのじゃ。
 それが真実の布施であり、布施の完成の行であるからなのじゃ。
 
 心が何かに囚われて布施をするのは、闇の中に居るようなものというのじゃ。
 なにものにも囚われない布施をするのは、日光で照らされた所でいろいろなものを見るようなものというのじゃ。
 それが観念を廃絶した布施の完成なのじゃ。

106避難民のマジレスさん:2024/09/15(日) 11:19:22 ID:CROLWSBs0
0155鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/16(日) 00:29:21.43 ID:0O1J1evH

***
「スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」

(…中略…)

 スブーティよ、もし正しい教えが滅びる時代に、善き男や善き女がこの経を記憶し、読誦するとして、彼らが得る功徳を私が全て語ったとしたら、それを聞いた人の中には、心が乱れ、疑いを持ち、信じない者もいるだろう。スブーティよ、この経の意義は計り知れず、その果報も同様に計り知れないことを知るべきである。」

***

 それからお釈迦様は長い宣伝に入るのじや。
 この経を受持して他人にも説けば大きな功徳があるというのじゃ。
 そのためにこの経は広く流布しているのじゃ。

 なかなか侮れないのじゃ。
 法華経も同じように受持して他人にも説けば大きな功徳があるというから、広まったのじゃ。
 現世利益なのじゃ。

 誰でもやはり来世よりも現世で利益が欲しいから広まるのじゃ。
 それから今までのまとめに入るのじゃ。

107避難民のマジレスさん:2024/09/16(月) 13:08:27 ID:M4arHG/60
0557鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 00:06:00.63 ID:Id/CH6q0

***
(十七)
 その時スブーティは尋ねました。
「師よ、善き男や善き女を問わず、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」

「善き男や善き女が菩薩の道に向かうには、このような決意を持たなければならない。すなわち、『私は全ての生きとし生けるものを救済し、ニルヴァーナに導くべきである。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
 それはなぜかと言うと、スブーティよ。もし菩薩が自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を生ずるなら、それは菩薩とは言えないからだ。
 それはなぜかと言うと、スブーティよ。実際には、菩薩の道に進む人というようなものは何も存在しないからだ。」

***

 須菩提長老は改めてお釈迦様にきいたのじゃ。
 善男子善女子が悟りを求めようとするときどのようにすればよいのかと
 これは最初の問いと同じなのじゃ。

 ここからは今までの問答をまとめる要旨なのじゃ。
 お釈迦様は改めて、答えるのじゃ。
 
 無上正等正覚を求める者は、一切衆生を掬って悟りを得させようと意志を起こすのじゃ。
 しかしそのようにしても一人の衆生も悟りをえるものではない」
 と、念じるのじゃ。
 
 なぜならばその時、自分という四つの観念があれば、菩薩ではないからというのじゃ。
 四つの観念がない時には菩薩であるからというのじゃ。

108避難民のマジレスさん:2024/09/17(火) 12:00:44 ID:ONZaFl7Y0
0577鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 23:15:21.58 ID:Id/CH6q0

***
 師は尋ねました。
「スブーティよ、どう思うか。如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのだろうか?」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。わたしが師の教えを理解する限り、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのではありません。」

 師は言いました。
「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しい覚りを得た方法は存在しない。スブーティよ、もしこの上ない正しい覚りを得る方法が存在したならば、ディーパンカラ如来はわたしに対して『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。実際には、この上ない正しい覚りを得る方法はないので、ディーパンカラ如来は私に『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なされたのだ。

 それはなぜかというと、如来とは、諸法の真の意味を説くが如きものだからだ。

***

 そして更に法として無上正等正覚というものはないというのじゃ。
 過去の仏にそのような無上正等正覚を授かったことはないというのじゃ。
 そうであるから、過去仏に無上正等正覚を得ると受記されたというのじゃ。

 なぜならば無上正等正覚を得た如来とは真如の異名であるからというのじゃ。

 悟りを得るとはいうが、無上正等正覚とは何かを得ることではなく、むしろ謬見を無くすことであるといえるのじゃ。
 自分があるという謬見、認識したものが実在するという謬見を失い、本来の認識に回帰することなのじゃ。
 それは実に何かを得るのではなく、謬見を無くすことであるからろ、法として得るものはないのじゃ。

 そして悟りを得た如来とは、既に自己の概念も、観念も無いから語るべきことも無いのじゃ。
 語るべきこともないが、衆生のためにあえて真理を語るのであるから真理を語るものの如しなのじゃ。

109避難民のマジレスさん:2024/09/18(水) 11:16:44 ID:p54R1Ff20
0637鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/19(水) 23:23:53.63 ID:AEMpn1Ia

***
 もしも誰かが、『如来がこの上ない正しいさとりを得られた』と言うならば、それは誤りである。それはなぜかというと、スブーティよ、 実際にはこの上ない正しいさとりによって得られることがらは存在しないからだ。スブーティよ、如来が得たこの上ない正しい覚りは、その中に真実も虚妄も無い。それゆえに、如来は『すべての法は目覚めた者の法である』と説くのだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ、すべての法と言われるものは、実際にはすべての法では無い。それゆえにすべての法と言われるのだ。」

***

 そして更にお釈迦様は、誰かが如来は無上正等正覚を得たというならば、誤りであるというのじゃ。
 法として無上正等正覚を得るということはないからというのじゃ。
 無上正等正覚には真実はなく、偽りも無いからというのじゃ。

 真実も、偽りもまた観念であるからなのじゃ。
 一切の観念を離れれば、真実もなく、偽りも無いのじゃ。
 もともとそれはないものじゃ。

 ただ人が世間で日常の観念として使うだけのものなのじゃ。
 世間から離脱すれば、それもなくなるのじゃ。
 それが出世間の法なのじゃ。

 それ故に一切の法は、仏法であると言うのじゃ。
 全ての法則であれ、方法であっても全ては真実とか、偽りを離れているのじゃ。
 ただありのままにあるだけなのじゃ。
 
 それに気付いたならば、それが目覚めるための法になるのじゃ。
 全てが目覚めた者の証になるのじゃ。
 それが一切の法が仏法であるということなのじゃ。

110避難民のマジレスさん:2024/09/19(木) 10:25:26 ID:ism7Hp1c0
0896鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/20(木) 23:35:29.86 ID:36+od2gP

***

「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」

 スブーティは言いました。
「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」

「スブーティよ、その通りだ。もし菩薩が『わたしは生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。それはなぜかというと、スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」

 師は言われました。
「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻の主体というものはない』と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『私は浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『ものには自我がない、ものには自我がない』と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩とであると言うのである。」

***

更にお釈迦様は一切の法とは一切の法ではないというのじゃ。
それ故に一切の法とよぶというのじゃ。
それは例えば体のでかい人のようなものじゃというのじゃ。

すると須菩提長老がそれをうけて、
如来の説いたところのでかいからだの人は、でかいからだの人ではないというのじゃ。
そうであるからでかいからだの人とよぶというのじゃ。

お釈迦様は続けて菩薩もまた同じであると言うのじゃ。
一切の衆生を滅度せしめるというのは菩薩ではないというのじゃ。
なぜならば法として菩薩という者はないからというのじゃ。

自我の四つの観念が無い者が菩薩であるからなのじゃ。
自分が無いのに他人を滅度せしめることができるはずもないのじゃ。

111避難民のマジレスさん:2024/09/20(金) 10:56:05 ID:9LBlwX7.0
0476鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/22(土) 23:30:26.83 ID:i36ZTocU

***
(十八)
「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には仏眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。ガンジス河にある全ての砂、その砂のことを如来は説いたであろうか。」
「師よ、その通りです。如来はその砂のことを説かれました。」

「スブーティよ、どう思うか。 一つのガンジス河にある全ての砂粒があるとし、そのような砂粒の数だけのガンジス河があり、その全てのガンジス河にある砂粒の数ほどの世界があるとすれば、それは多いと思うか?」
「非常に多いです、師よ。」

 師はスブーティに告げました。
「これらの世界にいる全ての生きものの数々の心を、如来はすべて知っている。それはなぜかというと、如来はすべての心を心ではないと言っており、それゆえに心と説いているからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心は得ることができず、現在の心も得ることができず、未来の心も得ることができないからだ。」

***

 そしてお釈迦様は須菩提長老に、如来は肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼があるかと問うのじゃ。
 須菩提長老はあると答えるのじゃ。
 
 肉眼はそのまま肉体の眼じゃな。
 天眼は千里眼の通力の眼なのじゃ。
 慧眼は智慧の眼なのじゃ。
 法眼は法を見る眼なのじゃ。
 仏眼は仏陀としての眼なのじゃ。

 それらの眼によって衆生の心を悉く知るというのじゃ。
 ガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、その河の砂の数と同じ三千大千世界があるとして、それらの世界に住む衆生の心を全てしるというのじゃ。
 
 どのようにして知るのかといえば、それは心ではないものとして知るというのじゃ。
 現在の心も、過去の心も、未来の心も得られるものではないからというのじゃ。

 心というものも又観念であるから、それはあるものではないのじゃ。
 心は心では無いものとして知れば、全ての衆生の心を知ったことになるのじゃ。

112避難民のマジレスさん:2024/09/21(土) 11:07:45 ID:KYeYlvEc0
0638鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/24(月) 00:18:54.70 ID:NY6g/8Y8

***
(十九)
「スブーティよ、どう思うか?もし誰かがはてしなく 広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人がその因縁によって得る福徳は多いだろうか?」

「その通りです、師よ。その人はその因縁によって非常に多くの福徳を得ます。」

「スブーティよ、もし福徳が実際に存在するならば、如来は多くの福徳を得るとは説かない。福徳が実際には存在しないから、如来は多くの福徳を得ると説くのだ。」

(二十)
「スブーティよ、どう思うか。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきだろうか?」

「いいえ、師よ。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。なぜかというと『端麗な身体を完成していると言われるものは、実際には端麗な身体を完成しているのではない。それゆえに端麗な身体を完成していると言われる』と如来が説かれているからです。

「スブーティよ、どう思うか。 如来は特徴をそなえたものと見るべきだろうか?」

「いいえ、師よ。如来は特徴をそなえたものと見るべきではありません。なぜかというと『特徴をそなえていると言われるものは、実際には特徴をそなえてはいない。それゆえに特徴をそなえていると言われる』と如来が説かれているからです。」

(二十一)
「スブーティよ、如来が『わたしは法を説いた』と考えるだろうか。」

「師よ、そのように考えることはありません。」

「スブーティよ、もし人が『如来は法を説いた』と語るならば、それは誤りを語ることになる。それは、真実でないことに執着して、わたしを謗ることになる。それはなぜかというと、スブーティよ、法を説く者には、説くべき法が無いからだ。それゆえに、法を説くと言われるのだ。」

 このように言われた時に、スブーティは師に問いました。
「師よ、未来の世において、この法を聞き、信心を生じる者がいるでしょうか?」

 師は言いました。
「スブーティよ、その者らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。なぜならば、スブーティよ、『生きているもの』『生きているもの』と言われるものは、如来によって『生きているものではない』と言われているからだ。それゆえに、『生きているもの』と言われるのだ。」

***
 更に又お釈迦様は福徳とか、色身とか、特徴とか、法を説く事とかについて否定してからそのように名づけると説いたのじゃ。
 それぞれがあるものではなく、そうであるからそのように名づけられたというのじゃ。
 そのようにして固定観念を滅して行くのじゃ。
 
 それに対して須菩提長老が、それを聞いて信じる衆生が後の世にいるとかきくのじゃ。
 するとお釈迦様はその衆生さえも衆生ではないと説いたのじゃ。
 そうであるから衆生とよばれるのであるというのじゃ。

 そのようにあらゆるものについて否定されるべき観念があると示したのじゃ。
 そのようにして否定された観念が、正しい観念の滅といえるのじゃ。

113避難民のマジレスさん:2024/09/22(日) 11:32:42 ID:5/M687i60
195鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/25(火) 23:44:51.04ID:1qbD/h3V

***
(二十二)
スブーティは、師に尋ねました。
「師よ、如来がこの上ない正しいさとりを得た時、何も得なかったのでしょうか。」

「スブーティよ、その通り、その通りだ。私がこの上ない正しいさとりを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しいさとりと言われるのだ。」

「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。それだからこそ、この上ない正しいさとりと言われるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しいさとりを得ることができる。スブーティよ、善法と呼ばれるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と言われるのだ。」

***
>>197
 お釈迦様は須菩提長老に、
 わしが無上正等正覚を得たということがあるじゃろうか
 と、聞いたのじゃ。

 須菩提長老は、
 無上正等正覚を得たのは、何も得ていない
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は 
 そうじゃ、わしは無上正等正覚においてほんの少しの法も得ていないのじゃ、
 それをこそ無上正等正覚というのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 続いて
 この法は平等でなんの差別も無いのじゃ。
 そうであるから無上正等正覚というのじゃ。
 というのじゃ。

 自己の四つの観念がなく、全ての善法を修めれば、無上正等正覚を得るというのじゃ。
 その善法も善法ではないから、善法というのじゃ。
 と、説いたのじゃ。

 全ての観念がなくなれば、そこに何の差別もなく、一切が平等なのじゃ。
 何かの観念を足して平等なのではなく、観念が無いことで平等なのじゃ。
 そうであるから何も得ないことが無上正等正覚そのものなのじゃ。

 更に善法とはこの金剛般若経による観念の破壊に他ならないのじゃ。
 一切の観念を破壊するこの善法は、自らも破壊される観念であるから、善法ではないのじゃ。
 それがこの善法とよばれるものなのじゃ。

114避難民のマジレスさん:2024/09/23(月) 10:42:09 ID:hup9jwns0
274鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/26(水) 23:30:14.42ID:FZ5ktjQi

***
(二十五)
「スブーティよ、どう思うか。『わたしは生きものを救った』というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」

***

 更にお釈迦様は須菩提長老に、
 如来が衆生を滅度させたというようなことを思ってはいかん、
 というのじゃ。

 なぜならば如来が滅度させた衆生はないから、というのじゃ。
 もし如来が滅度させた衆生があるとするならば、自己の四つの観念を如来がもっていたといことになるからなのじゃ。
 そのようなものがないから、如来が滅度させた衆生はいないのじゃ。

 更に自己の四つの観念もまたない、というのじゃ。
 それらはもともと幻想である故にないものなのじゃ。
 しかし、凡夫はあると思っているのじゃ。

 その凡夫さえも無いものというのじゃ。
 もはやなにものも観念としてないのじゃ。

 観念そのものさえもないというのじゃ。
 このようにして段々と全てはないことが深化していくのじゃ。

 始めは観念としての自己が無いということであったのじゃ。
 ここではもはや観念そのものもないというのじゃ。
 それがそのまま修業の段階を示していると言えるのじゃ。

115避難民のマジレスさん:2024/09/24(火) 12:43:47 ID:FcJmAzQg0
295鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/27(木) 23:35:36.19ID:d1GOtp5D

***
(二十六)
「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」

 スブーティは答えました。
「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」

 師は言いました。
「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
 スブーティは言いました。
「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」

 その時、師は、次のような詩を歌われました。

形によってわたしを見、
声によって私を求める者は、
間違った努力を行っており、
わたしを見ることはできない。

***

 次にはお釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
 三十二相をもって如来を見るべきかと、

 須菩提長老は
 そうではなく、如来の説いたところによれは、三十二相をもって如来を見るべきではないと、
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は
 そのとおりじゃ、三十二相をもって如来を見てはいかんのじゃ。
 三十二相があるから如来と思うならば、転輪聖王も如来となってしまうからなのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 前にも書いたが、三十二相とはインド人が考えた高貴な人の相なのじゃ。
 同じ相が転輪聖王にもあるというのじゃ。
 そうであるから如来を三十二相によってみてはいかんというのじゃ。

 お釈迦様はそれを詩にして吟詠したのじゃ。
 肉体の特徴や、音声によって如来を見てはいかんのじゃ。
 もしそのように見る者が在れば如来を見ていないのじゃ。
 外道なのじゃ。
 というのじゃ。

 如来とは法を説いて衆生を導くものであるから、肉体の相や音声で見分けてはいかんの邪。
 人を悟りに導き、福楽への道を示すのが如来なのであるからのう。
 法によって如来を見るのが正しいのじゃ。

116避難民のマジレスさん:2024/09/25(水) 11:42:28 ID:iUT6mCKg0
305鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/29(土) 00:15:25.82ID:kx9X2WUS

***
(二十七)
「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」

***

 それからお釈迦様は
 如来は相を持つことで無上正等正覚を得たのではないというのじゃ。
 そのようなことはないからというのじゃ。

 なぜならば相は相ではないからなのじゃ。
 そうであめから相とよばれるのじゃ。

 無上正等正覚も無上正等正覚ではないからなのじゃ。
 そうであるから無上正等正覚とよばれるのじゃ。
 このようにして相とか無上正等正覚という観念をも滅して行くのじゃ。
 
 更に悟りに向かう者達は、何かの法が断滅することもないというのじゃ。
 煩悩とか、囚われが断滅することもないというのじゃ。
 なぜならばそれらは煩悩ではなく、囚われでもないからなのじゃ。
 そうであるから煩悩とか囚われといわれるのじゃ。

 更に断滅も断滅ではないのじゃ。
 そうであるから断滅とよばれるのじゃ。
 そこには煩悩とか囚われがあり、それが断滅するという事実もないからなのじゃ。

 ただ煩悩や囚われを原因から観察して、気付くことで自然に消えて行くのじゃ。
 それを断滅という観念にしてはいかんのじゃ。
 観念になればまたそれに執着することもあるからのう。
 なにものにも囚われずに進むのじゃ。

117避難民のマジレスさん:2024/09/26(木) 10:44:56 ID:WMlMXrA60
324鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/30(日) 00:02:30.07ID:56BL9zOh>>327

***
(二十八)
「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」

 スブーティは師に問いました。
「師よ、菩薩はどうして福徳を受け取らないのですか?」

 師は答えました。
「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」

***

 更にお釈迦様は
 ガンジス川の砂の数の世界を宝で満たして供養するより、
 無性法忍を得たほうが優れた功徳をえるというのじゃ。
 それは功徳を受けないからであるというのじゃ。

 なぜならば功徳とは功徳ではないからなのじゃ。
 功徳では無いものを功徳というのじゃ。
 観念の功徳を受けたとすれば、それは幻想なのじゃ。

 幻想から離れたほうが大きな功徳であることは言うまでも無いのじゃ。
 無性法忍を得れば幻想から離れている故に、功徳を受けず、大きな功徳を得たことになるのじゃ。

 それをお釈迦様は次に、
 菩薩は功徳に貪着しないから受けないというのじゃ。
 貪欲も執着も無い境地なのじゃ。

118避難民のマジレスさん:2024/09/27(金) 10:45:01 ID:3mnA./cI0
0353 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 00:01:39.41
***
(29)

「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」

***

 それからお釈迦様は、
 もし人が居て如来は去り、来たり、座したり、臥したりする
 と、言う者が居れば理解していないというのじゃ。

 なぜならば来たり去ったりしないのが、如来であるからというのじゃ。
 如来とは来るが如しという意味なのじゃ。
 来ることも去ることもないものなのじゃ。

 既に死を超越したからなのじゃ。
 死の世界へ去ることはなく、生まれてきたものでもないのじゃ。
 一切の観念から離れた故に、生死も滅したのじゃ。

 死を超える事は生をも超えることなのじゃ。
 生きるということの停止が死ぬことなのであるからのう。
 生死の観念を超えたものが如来なのじゃ。
 そうであるから来ることも去ることもなく、来るが如しなのじゃ。

119避難民のマジレスさん:2024/09/28(土) 10:49:06 ID:ysay.BJM0
423鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 23:43:45.16ID:0qVp+4Vw

***
(三十)
「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。

 師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。
 如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」

「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはそのことに執着するのだ。」

***

 続いてお釈迦様は須菩提長老に、
 もし善男子善女子がこの三千大千世界を砕いて微塵衆にしてら、それは多いか。
 と、聞いたのじゃ。

 須菩提長老はそれは多いと、答えたのじゃ。
 なぜならばその微塵衆が本当にあるならば、如来は微塵衆と説かなかったから
 と、いうのじゃ。

 なぜならば如来の説いた微塵衆は微塵衆ではない
 それを微塵衆と名づけたからというのじゃ。

 そして三千大千世界も三千大千世界ではないというのじゃ。
 そうであるから三千大千世界というのじゃ。

 なぜならば三千大千世界が本当にあるならば、全てである観念があるからなのじゃ。
 全てであることは、全てであることではないと如来は説いたのじゃ。
 それが全てであることなのじゃ。

 しかし凡夫はそれに執着するものであるというのじゃ。

 つまり全ては観念としてあると認識されるが、実体はないということなのじゃ。
 実体はないとこに執着するのが凡夫であるというのじゃ。

120避難民のマジレスさん:2024/09/29(日) 10:59:35 ID:MTrO3kMc0
460鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/01(火) 21:04:17.55ID:6MyWF6U0

***
(三十一)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者は私が説いた意味を理解しているだろうか?」

  スブーティは答えました。
「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」

「スブーティよ、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」

***

 お釈迦様は更に須菩提長老に、
 もし人が仏は自己の四つの観念に対する見解を説いたというならば、それは正しいか、
 と、聞いたのじゃ。
 
 長老は、
 それは正しくない 
 なぜならば、それらの見解は見解ではない。
 それを見解とよぶのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は、
 その通りじゃ。
 無上正等正覚を得ようとする者は、そのように一切の法を知り、見て、信じ、理解して、
 法という観念を持つべきではない、
 と、答えたのじゃ。

 なぜならば、法という観念は、法という観念ではない
 そうであるから法という観念なのじゃ。
 と、説いたのじゃ。

 そもそもお釈迦様の教える法とは、全ての観念を離脱し、破壊する方法なのじゃ。
 それなのに法そのものに何かの見解や観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
 そうであるから、法をも否定して、否定された法を認めるべきなのじゃ。

121避難民のマジレスさん:2024/09/30(月) 10:45:39 ID:aAiVlFes0
488鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 00:00:30.43ID:6i90X4wU

***
(三十二)
「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
 それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。

 世界の一切のものごとは
 夢や幻、泡や影、
 露や稲妻のよう、
 そのように観るがよい。」

 師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。

***

>>489
長く続いた金剛経も終わりなのじゃ。
 最後にお釈迦様は宣伝も入れて、
 もし人が無量阿僧祁世界を満たして供養しても、この経の四句を保持して、
 人のために説いた方がより大きな福を得る
 といったのじゃ。

 どのようにして人のために説くのかといえば、説かないようにするのじゃ、
 それが人のために説くということなのじゃ。
 というのじゃ。

 つまり観念を持たないで゜説くようにするのじゃ。
 自ら観念を持たずに説けば、動揺せず不動の心で説き明かすことが実現できるからというのじゃ。
 
 そして詩句を示すのじゃ。

 一切の有為法は夢幻泡影の如きであり、露や雷の如くであるという観想をするのじゃ、
 と、説いたのじゃ。
 つまり観念とは全て、夢幻の如くであるというようにイメージするということじゃな。
 
 今まで述べてきた法とは違う一切の観念を滅するための観念なのじゃ。
 直接的に観念に対して夢幻であると念じる法なのじゃ。
 それもまた金剛般若経の法なのじゃ。

 この後、弟子達は歓喜して教えを受けたという大乗経の決まり文句で終わりなのじゃ。
 次は総評なのじゃ。

122避難民のマジレスさん:2024/10/01(火) 11:11:28 ID:M1/k7XNo0
500鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 23:51:41.90ID:6i90X4wU

 金剛般若経も終わったのじゃ。
 全体で見れば、先ずは悟りとか、衆生とか、法までも無いものとして、観想するべきだという主張が目立つのじゃ。
 仏教徒が目指すべき目標である悟りも、悟りを得るべき衆生も、導く法さえも無いものとするのじゃ。
 それが正しい悟りであり、衆生であり、法であるというのじゃ。

 もとよりそれはもはや悟りに向かって全ての観念を捨てる、最終段階の修行者に向けての教えなのじゃ。
 そうであるから須菩提長老に向けて説法をした構成になっているのじゃ。
 阿羅漢となる須菩提長老に説法することで、最終段階の教えを示しているのじゃ。

 全てのものごとを一度否定して、そうであるからそのものごとを名告げるという逆説の法によって、名称の断絶を図ったのじゃ。
 そして最後には、全てを夢幻泡影であるとして、形態、イメージの断絶をも説いているのじゃ。
 その両方によって観念は完全に断ち切られるのじゃ。

 それが金剛石のように能く断つことができる叡智の教えという経の意味なのじゃ。

 観念に囚われているものには、役に立つ教えなのじゃ。
 しかし、他の教えと同じように、全ての人に効果がある訳ではないのじゃ。
 それが向いている者には効果がある法なのじゃ。

 自分に向いている法なのか、よく吟味して実践すると善いのじゃ。

123避難民のマジレスさん:2024/10/02(水) 10:06:38 ID:lladodqI0
◆鬼和尚の解説・直リンクまとめ◆

・大乗経典

<金剛般若経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/86-122

<法華経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/2-14

<浄土三部経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/20-27

<大乗起信論>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/15-19



・その他

<信心銘>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/33-42

<十牛図>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/28

<坐禅和讃>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/29-32

<マハームドラーの詩>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/43-55

<ラマナ・マハルシの問答>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/56-85

124避難民のマジレスさん:2024/11/01(金) 09:33:20 ID:jbnABVgU0
<解説・パタンジャリのヨーガスートラ>

https://itest.5ch.net/fate/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/85-211
より抜粋

※鬼和尚の解説に合わせ書き込みを整えて転載

___

<第一章>

1.1 これよりヨーガを明細に説く。

1.2 心の作用を止滅することが、ヨーガである。

1.3 その時、見る者【自己】は、それ本来の状態に留まる。

1.4 その他のときは、【自己は】心の様々な作用に同化した形をとっている【ように見える】。

1.5 心の作用には五種類あり、それらは、苦痛に満ちたもの(煩悩性のもの)、あるいは苦痛なきもの(非煩悩性 のもの)である。

1.6 それらは、正知、誤解、言葉による錯覚、睡眠、そして記憶である。

1.7 正知のよりどころは、直接的知覚、推理、及び聖典の証言である。

1.8 誤解は、あるものに対する知識が、その実態に基づいていないときに起こる。

1.9【基盤となる】実態がなく、単に言葉だけを聞いて生ずる心象は、言葉による錯覚である。

1.10 無を把握の対象として成り立つ心の作用が睡眠である。

1.11 過去に経験し、今も忘れられていないものを対象とする作用が意識に戻ってくるとき、それが記憶である。


0088 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/22(日) 23:30:45.21
パタンジャリのヨーガスートラはサマーディによる悟りを目指すものなのじゃ。
分類すればサマーディヨーガということになるじゃろう。
集中によって忘我に成り、無我から悟りを目指す道なのじゃ。
才能のある者には容易であるが、そうではない者には厳しい道なのじゃ。

125避難民のマジレスさん:2024/11/02(土) 09:34:27 ID:z8VYi6Rg0
1.12 これらの心の作用は、修習(アビイアーサ)と離欲(ヴァイラーギヤ)によって止滅される。

1.13 これら二者のうち、心に不動の状態をもたらそうとする努力が、修習(アビイアーサ)である。

1.14 修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、堅固な基礎を持つものとなる。

1.15 見たり聞いたりした対象への切望から自由である人の、克己の意識が離欲(ヴァイラーギヤ:無執着)である。

1.16 プルシャ【真の自己】の悟得によってグナ【自然(プラクリティ)の構成要素】に対してさえ渇望のなくなったとき、それが至上の離欲(ヴァイラーギヤ)である。

1.17 【サムプラジュニャータ・サマーディ:区別ある三昧】(有想三昧)には、論証性(尋)、反射(伺)、歓喜(楽)、及び純粋な我-性(我想)が伴う。


0093 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/23(月) 22:38:23.80
ヨーガスートラでは修業の実践を修習(アビイアーサ)というのじゃ。
日々の修習(アビイアーサ)なくして進歩は無いのじゃ。 
日々の修習(アビイアーサ)によって至上の離欲(ヴァイラーギヤ)にも到達できるのじゃ。
 
サマーディにもいくつかの段階が有り、ヨーガスートラでは最初の段階から説いていくのじゃ。

126避難民のマジレスさん:2024/11/03(日) 10:45:11 ID:3n8qOYWo0


1.17 【サムプラジュニャータ・サマーディ:区別ある三昧】(有想三昧)には、論証性(尋)、反射(伺)、歓喜(楽)、及び純粋な我-性(我想)が伴う。

1.18 心の作用の完全停止が確固不抜に修められることによって、後に残るのは印象(サンスカーラ:行)のみとなる。これがいま一つのサマーディ【アサムプラジュニャータ・サマーディ:区別なき三昧】(無想三昧)である。

1.19 単に物質的身体を去って天界の神格たる状態に至った者、あるいは自然(プラクリティ)〔自性〕に没入した者には、再生がある。

1.20 その他の者〔ヨーギーたち〕は、堅信、努力、念想、三昧、叡智を通して、このアサムプラジュニャータ・サマーディを得ることができる。

1.21 強い情熱をもって修練する者には、これ【アサムプラジュニャータ・サマーディ】は非常に速やかに来る。


0096 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/24(火) 22:58:14.10
有想三昧にはまだ論理思考があり、我という思いも残って居る。
無想三昧にはそれらはなくもはやサンスカーラだけとなる。
サンスカーラとは今の言葉で言えば潜在意識とかになるじゃろう。
それは日常では意識できない心の働きであり、心を支配するものじゃ。

127避難民のマジレスさん:2024/11/04(月) 11:52:48 ID:rFbiC8Yk0


1.22 成功のために要する時間はさらにまた、その修練が穏和であるか、中位であるか、非常に熱烈であるかによって異なる。

1.23 神【イーシュバラ】への完全な帰依によっても【サマーディ】は達成される。

1.24 イーシュバラとは、いかなる苦悩(煩悩)、行為(業)、行為の結果(業報)、欲望の内的印象(業遺存)によっても染められていない無常のプルシャである。

1.25 彼の中には、一切知の種子が完全に備わっている。

1.26 彼は時間によって制限されないがゆえに、太古の師達にとってさえも師である。


0098 名無しを整える。 2018/07/25(水) 15:00:02.21
>>96
>印象(サンスカーラ:行)
↑記憶と照合される以前の、あるがままの観察のことでありますかね。
行とは、受、想、行、識 の行でありますか?
(´・(ェ)・`)つ

0100 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/25(水) 22:30:52.93
>>98 そのようなものじゃ。
 漢字では行と翻訳されているのじゃ。

 神への帰依によってもサマーディは達成されるのじゃ。
 勿論その神に対して元から強い信仰がなければならないがのう。
 信仰する神仏に身も心も捧げるのが真の帰依なのじゃ。
 真の帰依によってサマーディも訪れるのじゃ。

128避難民のマジレスさん:2024/11/05(火) 10:13:05 ID:EZm/ob9.0


1.27 イーシュヴァラを言葉で表したものが、神秘音オームである。【オームは神の名であると同時に形である】

1.28 意味を熟慮しつつ、それを反復誦唱するがよい。

1.29 これを修することにより、すべての障害が消え、同時に内なる自己の智が開け初める。

1.30 病気、無気力、猜疑、散漫、怠惰、好色、盲見、不動の境地に至り得ない状態、獲得した地歩からの滑落-これらの心の散動が、その障害である。

1.31 心の散動に随伴して起きるものに、苦悩、失意、身体の震え、乱れた呼吸がある。

1.32 ひとつの対象に集中して修練を行なう【あるいは、ひとつの技術を用いる】ことが、障害とその付随物を防ぐ最良の方法である。

0113 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/27(金) 23:03:04.11
>>108 修業を続けるためには信仰も必要になる事が在るじゃろう。
 本当に悟れるのかとか、修業に疑いが出た時に信じることによって乗り越えられるのじゃ。
 
マントラも集中するための道具なのじゃ。
それ自体には何の力も無いものじゃ。
信じて実践することで力も発揮できるのじゃ。

129避難民のマジレスさん:2024/11/06(水) 14:20:00 ID:vVuVYCwA0


1.33 他の幸福を喜び(慈)不幸を憐れみ(悲)他の有徳を欣び(喜)不徳を捨てる(捨)態度を培うことによって、心は乱れなき静澄を保つ。

1.34 あるいはその静澄は、息の制御された排出、または保留によって保たれる。

1.35 あるいは微妙な感覚的知覚に対する集中が、心の不動をもたらす。

1.36 あるいは永遠の至福に満ちた、内なる無上の光に集中することによって。

1.37 あるいは感覚対象への執着を離れた聖者の心に集中することによって。

1.38 あるいは夢や深い眠りの中で得られる体験に集中することによって。

1.39 あるいは何でも心を高揚させるようなものを選び、それに瞑想することによって。


0118 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/28(土) 22:17:33.74
>>114 仏陀を信仰するとよいのじゃ。
 信仰によって疑いを乗り越えるのじゃ。

 対象はどんなものでも集中することでサマーディも訪れるのじゃ。
 対象はサマーディの成就と関係ないのじゃ。
 集中力が大事なのじゃ。

130避難民のマジレスさん:2024/11/07(木) 10:30:34 ID:gMNWkOEI0


1.40 集中の修得は次第に拡大して、根源的原始から最も巨大なものにまで及ぶ。

1.41 自然の透明な水晶が傍らに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ(三昧)である。

1.42 名称と形態、及びそれらに関する知識が混入しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴うサマーディ(有尋三昧)呼ばれる。

1.43 記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の智がひとり輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴わないサマーディ(無尋三昧)である。

1.44 同様にして、精微な対象について修されるところの、サヴィチャーラ・サマーディ【反射を伴うサマーディ】(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ【超サマーディすなわち反射を伴わないサマーディ】(無伺三昧)は説明される。

1.45 精微さは集中対象として存在しなくなり、ただ定義しあたわざるものに帰着する。


0120 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/29(日) 22:51:01.14
サマーディが深くなっていくと集中の対象もなくなっていくのじゃ。
対象があるうちはまだ観念による分別があるのであるからのう。
神に集中した者が神を超えられない状態ではこのような対象のないサマーディには辿りつけないのじゃ。
神を超えてこそ対象の無いサマーディにも到達できるのじゃ。

131避難民のマジレスさん:2024/11/08(金) 11:15:55 ID:KSd2F1QE0


1.46 以上がサビージャ・サマーディ【有種子三昧】であり、そこにはまだ修行者を束縛や心的動揺に引き戻す可能性が残っている。

1.47 ニルヴィチャーラ・サマーディが純粋となったとき、至高の自己は輝く。

1.48 これがリタムバラー・プラジュニャー、すなわち絶対的な真理意識である。

1.49 この特殊な真理認識は、聞いたり、聖典から学んだり、推理したりして得られる知とは完全に異なっている。

1.50 このサマーディによって生ずる印象(サンスカーラ:行)は、他の全ての印象を消す。

1.51 この印象さえも拭い去られるとき、あらゆる印象が完全に消滅して、そこにはニルビージャ・サマーディ【無種子三昧】がある。


0125 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/30(月) 22:37:04.93
最初の段階では意志によって強く対象に集中することでサマーディに達するのじゃ。
それから対象を無くし、サマーディに意志することなく入れるようになるのじゃ。
無意識のサマーディに入れるのじゃ。
そうすることで一切の観念を超えた境地に到達するのじゃ。
それには知識や思考ではなく日々の実践だけが必要なのじゃ。

132避難民のマジレスさん:2024/11/09(土) 12:51:40 ID:BBkrJEf20


<第二章>

2.1 浄化を助けるものとして苦痛を受け入れること、霊的な書物を研究すること、至高の存在に身を委ねることが、実行のヨーガである。

2.2 それらは、障害(煩悩)を最小にして、サマーディを達成させる。

2.3 無知、我想、執着、憎悪、生命欲が、五つの障害(煩悩)である。

2.4 無知(無明)は、それに続く他の諸障害 -それらは、(1)休眠状態であったり、(2)弱体化していたり、(3)遮断されていたり、(4)維持されていたりするが- の田地である。

2.5 無知(無明)とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすものである。

2.6 我想(アスミター)とは、いわば見る者【プルシャ】の力と、見る器官【身心】の力との同一視である。

2.7 執着(ラーガ)とは、快楽体験との同一視から来るものである。

2.8 憎悪(ドゥヴェーシャ)とは、苦体験との同一視から来るものである。


0129 名無しを整える。 2018/07/31(火) 07:45:06.44
>>128
2.6 我想、ば見る者の力と、見る器官の力との同一視 とは、どういうことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

0131 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/31(火) 21:47:42.83
>>126 サマーディの方法は才能が在るものにしかできないじゃろう。
 普通のサマーディでも難しいのに無種子三昧にまで行き着くのはかなり才能の在るものだけなのじゃ。
 
>>129 見るという能力によって、見る器官が主体と思うことなのじゃ。
 その働きによって自分が在るという認識も起こってしまうのじゃ。

133避難民のマジレスさん:2024/11/10(日) 12:25:01 ID:sIdsvs4Y0


2.9 生命欲(アビニヴェーシャ)は、【過去の経験から来る】独特の潜勢力から発し、賢人にさえもある。

2.10 これらの障害(煩悩)が微妙な状態にあるときは、始源の原因【=自我】に還元するところによって破壊することができる。

2.11 それらが活動の状態にあれば、瞑想によって破壊することができる。

2.12 カルマ【行為とその反作用】(業)の子宮の根は、これらの障害の中にあり、そうしたカルマが、見える生【現世】及び見えざる生【来世】における諸経験を引き起こす。

2.13 根因が存在する限り、その結実すなわち、様々な生類への再生と寿命と経験とがある。

2.14 カルマは、善業に起因するものは楽、悪業に起因するものは苦として結実(業報)する。

2.15 得たものを失うことへの恐怖と懸念、結果として心の中に残り新たな切望をひき起こす印象、心を支配する三グナの絶えざる相克、これらに鑑みるとき、識別ある者にとっては実にあらゆるものが苦である。


0140 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/01(水) 22:43:53.18
>>133 どういたしまして、またおいでなさい。

無明による個我の観念があれば今の世が有り、生まれかわることも在るものじゃ。
それは刹那の安楽と苦があるが、安楽も執着すれば苦になるのじゃ。
それ故に一切は苦であるとパタンジャリも説いているのじゃ。

134避難民のマジレスさん:2024/11/11(月) 10:26:06 ID:UZ7fI6Ew0


2.16 未来の苦は回避することができる。

2.17 その避け得る苦の原因は、見る者【プルシャ】と見られるもの【プラクリティ:自然】の結合である。

2.18 見られるものは、照明(プラカーシャ)・活動(クリヤー)・惰性(スティッティー)というグナの三つの性向を備え、元素(五大)と感覚器官から成っているが、その目的とするところは、プルシャに経験と開放(解脱)を与えることである。

2.19 グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。

2.20 見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現れ方をする。

2.21 見られるものは、見る者のためにのみ存在する。


0153 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/02(木) 22:13:04.89
普通、グナの三つの性質とはサットヴァ、ラジャス、タマスと呼ばれるものじゃ。
日本語訳の意味はあっているようじゃ。
物質的存在はプルシャが目覚めるためのものとしているのじゃ。
その教義そのものが全て目覚めるためのものであるがのう。
物質的存在が全て観察され、自他の区別がなくなれば悟りとしているのじゃ。

135避難民のマジレスさん:2024/11/12(火) 12:55:46 ID:NQ4q9ciE0


2.22 それ(見られるもの)は解脱した者にとっては破壊されているが、他の者にとっては共有財として存在し続けている。

2.23 所有する者(プルシャ)と所有されるもの(プラクリティ)の結合が、それら両者が各自の本性と力(シャクティ)を把握する原因である。

2.24 この結合の原因は無知(無明)である。

2.25 この無知がなければ、そのような結合も起こらない。それが見る者の独存位である。

2.26 途切れることのない明敏な識別が、その除去の方法である。

2.27 最終段階の智は、七重である。(人は(1)もっと知りたいという願望、(2)何かを遠ざけておきたいという願望、(3)何かを得たいという願望、(4)何かをしたいという願望、(5)悲しみ、(6)恐れ、(7)惑わし、の七つが終息するのを体験する)


0159 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/04(土) 00:22:52.81
グナの三つの性質であるサットヴァ、ラジャス、タマスと言葉は違うが性質の翻訳は同じなのじゃ。
サットヴァとは気づくこと、認識することなのじゃ。
ラジャスとは活動なのじゃ。
タマスとは惰性なのじゃ。
ラジャス、タマスで検索するとよいのじゃ。

大体の意味はそれでよいのじゃ。

136避難民のマジレスさん:2024/11/13(水) 10:59:49 ID:mkSc9Yy20


2.28 ヨーガの諸支分を修練していくことによって次第に不純が消え、そこに明敏なる識別へと導く智が明け初める。

2.29 以下がヨーガの八支分である。【禁戒】【勧戒】【座法】【調気】【制感】【集中】【瞑想】【三昧】

2.30 ヤマ(禁戒)は、非暴力(アヒンサー)、正直(サティヤ)、不盗(アステヤ)、禁欲(ブラフマチャーリヤ)、不貪(アパリグラハ)より成る。

2.31 これらの大誓戒は普遍的なものであり、階層、場所、時間、環境等によって制約されない。

2.32 ニヤマ(勧戒)は、清浄(シャウチャー)、知足(サントーシャ)、苦行(タパス:苦痛を受容し、それをひき起こさないこと)、読誦(スヴァディアーヤ:霊的書物の研究)、
自在神への祈念(イシューヴァラ・プラニダーナ:自己放棄)より成る。

2.33 否定的想念によって攪乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。それがプラティパクシャ・バーヴァナである。

2.34 暴力等のような否定的想念または行為がひき起こされたとき、あるいはたとえそれらが容認されただけであっても、そしてそれらが貪欲、怒り、迷妄(貪・瞋・痴:とん・じん・ち)のいずれによって煽られたものであっても、またそれらが穏和、中位、過激のいずれの度合いによってなされようとも、それらは無知に根ざしており、確かな苦をもたらすものである。このように省察することも、プラティパクシャ・バーヴァナである。

2.35 非暴力(アヒンサー)に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。


0162 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/04(土) 22:49:57.63
ヤマ(禁戒)はしてはいけないことなのじゃ。
ニヤマ(勧戒)はすべきことなのじゃ。
してはいけないことをしり、すべきことを知って実践するのが修行者なのじゃ。

137避難民のマジレスさん:2024/11/14(木) 09:59:44 ID:HVsHORVw0


2.36 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。

2.37 不盗(アステヤ)に徹した者のところには、あらゆる富が集まる。

2.38 禁欲(ブラフマチャーリヤ)に徹する者は、精力を得る。

2.39 不貪(アパリグラハ)が揺るぎないものとなったとき、自らの生の原因と様態が余すところなく照らし出される。

2.40 浄化によって、自分自身の身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。


0164 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/05(日) 23:26:29.80
戒の効果が説かれているのじゃ。
それがそのまま現実になるのではないのじゃ。
督励の為に説かれているのじゃ。

138避難民のマジレスさん:2024/11/15(金) 09:37:34 ID:K4nk.52A0


2.41 さらに、サットヴァの浄化、心の愉悦、一点集中、自己実現への適合性を得る。

2.42 知足(サントーシャ)によって、無上の喜びが得られる。

2.43 苦行(タパス)によって、身体と感覚の不浄が消え、超自然力が得られる。

2.44 読誦(スヴァディアーヤ:霊的書物の研究)によって、自らの望む神霊との霊交が得られる。

2.45 神に全てを任せることによって、サマーディは達成される。


0167 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/06(月) 22:28:46.59
ここでも神への帰依によるサマーディが説かれているのじゃ。
本当に心の底から信仰している神がなければ無理で在るがのう。
信仰の薄れた現代では難しいじゃろう。

139避難民のマジレスさん:2024/11/16(土) 10:21:20 ID:GtU6A1Eg0


2.46 アーサナ(座法)は、快適で安定したものでなければならない。

2.47 自然な性向である落ち着きのなさを減じ、無限なるものに瞑想することによって、座位(アーサナ)は習得される。

2.48 以後その者は、二元性によって乱されることがない。

2.49 安定した座位(アーサナ)が得られたならば、呼気と吸気が制御されなければならない。これがプラーナーヤーマ(調気)である。

2.50 気息のはたらき(ヴリッティ)は、内部的、外部的、制止的のいずれかである。それらは時間と空間と数によって規定され、長、短のいずれかである。


0171 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/07(火) 22:40:15.52
座方と呼吸法が説かれているのじゃ。
背筋を伸ばして正しく座ることが出来ればそれだけでもサマーディは達成されるのじゃ。
それが習得されればもはや迷妄に陥ることもないのじゃ。

140避難民のマジレスさん:2024/11/17(日) 10:04:19 ID:bK6gesqg0


2.51 プラーナーヤーマ(調気)には、内的あるいは外的な対象に集中しているときに起こる、第四の型がある。

2.52 その結果、内なる光を覆い隠していたヴェールが破壊される。

2.53 そして、心がダーラナー(集中)への適正を得る。

2.54 諸感覚がその対象から自らを撤退させ、いわば心そのものを模倣するとき、それがプラティヤーハラ(制感)である。

2.55 それにより、感覚に対する無上の統御が得られる。


0175 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/08(水) 22:46:22.99
>>172 それはまだ座方が習得できていないからなのじゃ。
 座方が習得できれば座るたびにサマーディに入れるのじゃ。
 そうすればもはやあれこれと迷う事無く進むこともできるのじゃ。
 自らの身が聖典が正しいことの証となるのであるからのう。

>>174 そうじゃろう。
 感覚が心を離れて自らありのままに至った時、無に等しくなるのじゃ。
 眼で見ても耳で聞いても自我は起こらないのじゃ。
 それが真の制感なのじゃ。

141避難民のマジレスさん:2024/11/18(月) 10:22:35 ID:az21l6po0


<第三章>

3.1 集中とは、心をひとつの場所、対象、あるいは観念に縛り付けておくことである。

3.2 瞑想(ディアーナ)とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。

3.3 三昧(サマーディ)とは、この瞑想(ディアーナ)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。

3.4 同一の対象についてこれらの三者【集中(ダーラナー)、瞑想(ディアーナ)、三昧(サマーディ)】をなすことが、サンヤマ(綜制)と呼ばれる。

3.5 サンヤマ(綜制)の終了によって、知の光が生まれる。

3.6 サンヤマは段階的になされるべきである。

3.7 これらの三支(集中、瞑想、三昧)は、それ以前の五支(禁戒、勧戒、座法、調気、制感)よりも内的である。

3.8 これらの三支さえも、無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)にとっては外的である。


0177 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/09(木) 22:08:41.42
集中の三段階が説かれているのじゃ。
最初は対象に心を留めるだけで精一杯じゃろう。
それがダーラナーなのじゃ。
それから意識せずとも対象に集中しているディヤーナに至るのじゃ。
それでもまだ対象と自己が在るのじゃ。
自己が対象に統一されて一つになった感覚がサマーディなのじゃ。
サマーディまで到達するのはなかなか難しいものじゃ。
観察を行えばディヤーナだけでも悟りは訪れるのじゃ。

142避難民のマジレスさん:2024/11/19(火) 10:21:11 ID:f9bV3Mho0


3.9 生起してくる印象(サンスカーラ:雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって止滅される。この、新たな作用と心との結合の刹那が、ニローダ・パリナーマ(止滅転変)である。

3.10 ニローダ・パリナーマの持続状態は、習慣づけによって確実となる。

3.11【心】の散動が滅衰して一点集中が実現してくると、サマーディ・パリナーマ(サマーディへの進展:三昧転変)が現れる。

3.12 また、過去となってひいていく想念と、今まさに生起しつつある想念が等似であるならば、それがエーカーグラター・パリナーマ(一点集中:専念転変)である。

3.13 これ(以上の三つのスートラ)によって、物質元素と感官に関する、可視的特性と時間的位相と状態の転変も説明された。

3.14 本性的に、潜伏、生起、非顕現の諸相を経ていくのは、根底体(プラクリティ)である。

3.15 それらの諸相の連続が、進化(転変)に諸段階の存在する理由である。

3.16 進化のその三段階にサンヤマ(綜制)を施すことによって、過去と未来についての知が生まれる。


0179 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/10(金) 23:02:17.29
集中によって雑念が無くなるのがニローダ・パリナーマじゃ。
更に深く集中して対象と一体になるとサマーディに入るのじゃ。
想念の自己同一化が止まり、刹那に生滅する想念が一時に見られるのがエーカーグラター・パリナーマなのじゃ。
それができれば気づきが自在にあり、心の働きの全てを観ることも容易なのじゃ。

143避難民のマジレスさん:2024/11/20(水) 08:55:21 ID:y5We/Tns0


3.17 通常は、語と、その意味と、その語の表象内容とを混同するために混乱が生ずる。いかなる生類により発された語(あるいは音)でも、それにサンヤマを施すことによって、その意味を知ることができる。

3.18 サンヤマによって自らの心的印象(サンスカーラ)を直感することにより、前生についての知識が得られる。

3.19 他人の身体の区別的特長にサンヤマを施すことによって、その人の想念を知ることができる。

3.20 だがそれは、その人の心の中でその想念を支えているもの(例えばその思いの背後にある動機等)にまでは及ばない。それはそのサンヤマの対象とはならないからである。

3.21 自らの身体の形態にサンヤマを施すと、観察者の眼の光を遮ることによって知覚の力に干渉し、身体を見えなくすることができる。

3.22 同様にして、音その他(触、味、香)の消失も説明される。

3.23 カルマには、速やかに発現するものと徐々に発現するものとの二種類がある。それらあるいは死の前兆にサンヤマを施すことによって、死期を知ることができる。


0181 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/11(土) 21:40:46.48
集中することで得られるさまざまな力について語っているのじゃ。
そのまま信じられるものではないが在る程度は正しいのじゃ。
集中力が強くなれば不可能も可能になるのじゃ。
それを目当てに修業する者も居るのじゃ。

144避難民のマジレスさん:2024/11/21(木) 10:06:18 ID:yl6ETzkg0
 

3.24 慈その他の徳性にサンヤマを施すことによって、それらを発する力を得る。

3.25 象その他の動物の力にサンヤマを施すことによって、それらの力を得ることができる。

3.26 内なる光へのサンヤマによって、微細なもの、秘匿されたもの、遠方のものを知ることができる。(例えば原子のように微細なもの、隠された財宝、遠隔の地など)

3.27 太陽にサンヤマを施すことによって、太陽系全体を知ることができる。

3.28 月にサンヤマを施すことによって、星の配置を知ることができる。

3.29 北極星にサンヤマを施すことによって、星の運行を知ることができる。

3.30 臍の神経叢(チャクラ)にサンヤマを施すことによって、身体の構造を知ることができる。


0184 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/12(日) 22:45:07.71
↑ そうじゃ、実際に集中することでその対象に関して詳しく知ることもできるものじゃ。
 かなり真実が語られているのじゃ。
 実践によって確かめられるのじゃ。

145避難民のマジレスさん:2024/11/22(金) 12:19:14 ID:gzFwGDdQ0


3.31 喉の窪みにサンヤマを施すことによって、飢えと渇きが止まる。

3.32 クールマ・ナーディ(喉の下方にある亀の形をした微細な管)サンヤマを施すことによって、瞑想の座位の不動性が達成される。

3.33 脳天の光(サハスラーラ・チャクラ)サンヤマを施すことによって、神人(シッダ)たちを見ることができる。

3.34 また、(純粋な生活を通じて)自然に発露する知(プラティバー)の中で、全ての力はおのずから現れる。

3.35 心臓にサンヤマを施すことによって、心(チッタ)を知ることができる。

3.36 知性(サットヴァ:覚)とプルシャ(あるいはアートマン)とはまったく別のものであり、知性がプルシャのために存在するのに対して、プルシャはそれ自身のために存在する。
これを峻別しないところに経験の全てがあるのであって、この区別にサンヤマを行なうことによって、プルシャの知があらわれる。

3.37 この知(プラティバー)より、任意の直感による超自然的聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が生ずる。


0187 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/13(月) 22:05:10.86
↑そのようなものじゃ。
集中によって智慧と力は発現するのじゃ。
それを正しく自らの本心の観察に使うべきなのじゃ。

146避難民のマジレスさん:2024/11/23(土) 12:15:50 ID:dFqtfulU0


3.38 これら(超自然的感覚)は、(ニルビージャ)サマーディにとっては障害であるが、世俗的追及にあってはシッディ(力、霊能)である。

3.39 (心を身体に縛り付けている)原因を緩めることによって、また、心の働きの筋道を知ることによって、他人の身体に侵入することができる。

3.40 ウダーナ気(上向きの生命エネルギー)を支配することによって、水、沼沢、刺などの上に浮揚することができる。

3.41 サマーナ気(均等化のエネルギー)を支配することによって、身体が光輝に包まれる。

3.42 耳と虚空(エーテル)との関係にサンヤマを施すことによって、超常的な聴覚が得られる。

3.43 身体と虚空との関係にサンヤマを施すことによって、綿の繊維のように軽くなり、隠して虚空を飛ぶことができる。

3.44 身体の外にあって(身体によっては)確認されない想念派動に対してサンヤマを施すこと(マハー・ヴィデハすなわち大脱身)によって、自己の光を覆う緬紗が破壊される。


0189 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/14(火) 22:40:38.03
それらの力に囚われればサマーディに至る障害になるのじゃ。
世間で金や名声を得て修業をやめてしまうからのう。
欲に負けずに修業を続けるのじゃ。
力にも囚われずに進むのじゃ。

147避難民のマジレスさん:2024/11/24(日) 09:39:43 ID:LJlrqpbc0


3.45 粗大及び微細な元素、それらの本質、相関性、合目的性にサンヤマを施すことによって、それらの元素に対する支配が得られる。

3.46 それにより、アニマその他のシッディがもたらされ、身体の完成が遂げられて、その機能が諸元素の影響による妨げを受けなくなる。

3.47 端麗、優雅、強靭、金剛石のごとき堅固さが、身体の完成である。

3.48 諸感覚の把握作用、それらの本質、それらの目的と我想との関係等にサンヤマを施すことによって、諸感覚に対する支配がえられる。

3.49 それより身体は、心と同じ速さで動く力、感覚の補助なしに機能する力、そして根本原因(プラクリティ)に対する完全な支配を得る。

3.50 サットヴァ(純粋な反映性)と自己との差異を認識することによって、存在のあらゆる様態に対する至上位(全能)-それは全知である-を得る。

3.51 それ(=これら全てのシッディ)に対してさえ無執着であることにより、束縛の種子が破壊され、かくしてカイヴァリャ(独存)の状態が顕現する。


0191 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/15(水) 22:45:42.68
修業の途中に現れる全ての体験に囚われなければ悟りも訪れるのじゃ。
囚われてしまえばそこで止まってしまうのじゃ。
囚われることが魔と呼ばれるのじゃ。
魔に何かの力があるわけではないのじゃ。
囚われる心が魔を呼ぶのじゃ。

148避難民のマジレスさん:2024/11/25(月) 12:51:41 ID:u3ly67pU0


3.52 ヨーギーは、天人からの賞賛といえどもこれを受容するべきではなく、慢心の笑みさえ浮かべるべきではない。ふたたび望ましくないものに補足される恐れがあるからである。

3.53 連続する刹那のまさしくひとつにサンヤマを施すことによって、識別知が現れる。

3.54 かくして、種類、特徴、位置などが酷似しているために見分けのつかないものが、識別されるようになる。

3.55 全ての対象のあらゆる在り方を同時的に理解するその識別知が、解脱をもたらすところの直感知である。

3.56 静穏な心(サットヴァ)の清浄さが、自己のそれと等しくなるに至ったとき、そこにカイヴァリャ(絶対、独存位)がある。


0193 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/16(木) 22:18:03.31
体験にも囚われずに修業を続けていれば今まで見えなかったものも観えるようになるのじゃ。
それも集中力が強くなったためなのじゃ。
悟りを得るための観察力も身につくのじゃ。
その観察力が主体であった観念をも見抜く力となるのじゃ。

149避難民のマジレスさん:2024/11/26(火) 08:53:54 ID:CqygXZ960


<第四章>

4.1 シッディは、前生においてなされた修行、あるいは薬草、あるいはマントラ、あるいは苦行(タパス)、あるいはサマーディにおいてもたらされる。

4.2 ひとつの生類から他の生類への転変は、自然(プラクリティ)の流入によってひき起こされる。

4.3 付帯的事象は、直接には自然の進化をひき起こすものではない。それらは、農夫のように(農夫が自分の田に水を引き入れるために、水路を塞いでいる物を取り除くように)、障害物を取り除くだけである。

4.4 ヨーギーの我想(アスミター)のみが(人為に)発現する(その他の)心の原因である。

4.5 発現した多くの心の働きはさまざまだが、大元であるヨーギーの心は、それら全てに対する命令者である。


0195 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/17(金) 23:20:43.99
ヨーギーの心がプラクリティの充実を果たした時、アバターを表すことができるというのじゃ。
業という付帯的な事象ではなく、ヨーギーの心が因としてアバターは成せるのじゃ。
それらは一つ一つ自らの心を備えているがヨーギーの心がその絶対的な命令者であるのじゃ。

150避難民のマジレスさん:2024/11/27(水) 09:25:42 ID:pnJxBir60


4.6 (そのようにして発現した心のうち)瞑想から生じたものだけが、カルマの刻印を免れている。

4.7 ヨーギーのカルマは白(善)くも黒(悪)くもない。しかし他の者の行為には、善と悪、そしてそれらの交じり合ったものの三種類がある。

4.8 これらの(行為)のうち、結実(業報)のための好条件がそろったヴァーサナー(潜在記憶)(習気:じっけ)だけが、特定の生において発現する。

4.9 欲望とその成就は、類・空間・時間によって隔てられているが、それらには連続性がある。(欲望の)印象と(欲望の)記憶とは、同一だからである。

4.10 生命欲は永遠であるので、印象もまた無始である。


0197 名無しを整える。 2018/08/18(土) 10:31:24.29
>>195
他の生類への転変=アバターを成す
でありますか?

これは、輪廻的な意味ではなく、凡夫が悟るみたいなことでありましょうか?
生命の進化には、意思が必要みたいなことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

0198 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/18(土) 22:47:34.89
そうじゃ、アバターを成すのじゃ。

輪廻ではなくヨーギーの能力によるものなのじゃ。
夢幻の如く生命を作り出す能力なのじゃ。
仏教では変化身と呼ばれたりするのじゃ。

151避難民のマジレスさん:2024/11/28(木) 11:50:24 ID:E6Q5tyec0


4.11 印象は、原因・結果・基板・支持によって成立しているので、それら四者の消滅に伴い、これら(=印象)も消える。

4.12 過去と未来は、位相差のゆえにそのような特性をもって現出しているところの、事象そのものの内にある。

4.13 顕現の状態であれ精妙な状態であれ、それらの特性はグナ性のものである。

4.14 事象の自己同一性は、グナの転変の一律性に基づく。

4.15 客体は同一であっても、それを受け止める心がさまざまであるから、認識はさまざまに異なるのである。


0200 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/20(月) 00:14:03.40
グナとはサットヴァ、ラジャス、タマスの三つの心の性質なのじゃ。
客体が同一でも認識が異なるのはその性質の優位に違いがあるからというのじゃ。
同じものを観てもサットヴァが優位ならば智慧を持って見られるのじゃ。
ラジャスが優位ならば活動的なものとしてみるのじゃ。
タマスが優位ならば怠惰なものとしてみるのじゃ。

152避難民のマジレスさん:2024/11/29(金) 13:39:33 ID:6l8cgHy20


4.16 また、客体の存在は、ただひとつの心に依存しているのではない。もしそうであるならば、そのひとつの心がそれを認知しない場合、その客体はどうなるのか?

4.17 客体は、心がそれによって染められるか否かによって、その存在が知られたり知られなかったりする。

4.18 心の作用は、その主であるプルシャには常に知られている。プルシャは不変だからである。

4.19 心は、自ら輝くものではない。それはプルシャに知覚される客体だからである。

4.20 こころは、主・客を同時に知覚することはできない。(そのことから見ても、心は自ら輝くものではないことがわかる)


0202 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/20(月) 21:35:31.86
心によってものがあるのではないというのじゃ。
ものはあるが心の状態によって知られたり知られなかったりするのじゃ。
主客を同時に知覚出来ない心は、それ自らが知覚されたものであるからであるというのじゃ。

153避難民のマジレスさん:2024/11/30(土) 10:06:00 ID:Ps0.I7n.0


4.21 もし、ひとつの心がもうひとつの心によって知覚されるということがあり得るとするならば、それら(=心)は数限りなく在ることになって、結果として記憶の混乱が生ずるであろう。

4.22 プルシャの意識は不変である。その像を映すことによって、心は自己に気付くのである。

4.23 心は、見るものと見られるものの両方から染められることによって、あらゆるものを理解する。

4.24 無数の欲望を持ってはいるが、心は他者(プルシャ)のために存在するのである。それ(心)はプルシャと連合してはじめて機能することができるからである。

4.25 心とアートマン(自己)の区別を知る者は、心をアートマンと考えることが永遠に止む。


0206 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/22(水) 00:01:16.30
>>203 そうじゃ、観察されることで自我は観察者ではないと気付くのじゃ。

決して認識されない認識主体で在るアートマンに達すれば認識される心は止まるのじゃ。
それは認識されるものであるからアートマンではありえないのじゃ。
そのようにしてアートマンの道は成就されるのじゃ。

154避難民のマジレスさん:2024/12/01(日) 10:01:00 ID:ASbRfQCI0
 

4.26 そのとき心は識別(ヴィヴェーカ)の方へと傾き、絶対(カイヴァリャ)に引き寄せられる。

4.27 その間隙にも、過去の印象(サンスカーラ)から来る雑念が生ずることはある。

4.28 それらは、前述の(サーダナ・パダ 1、2、10、11、26)諸障害(煩悩)の除去と同様の方法によって除去することができる。

4.29 完全なる識別によって最も高い報償に対してさえ全く無欲となった者は、不断の、明敏なる識別のうちにとどまるものであり、それはダルマメガー・サマーディ(法雲三昧)と呼ばれる境地である。

4.30 そのサマーディによって、全ての苦悩(煩悩)とカルマ(業)は終熄する。


0208 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/22(水) 23:00:39.95
全ての苦悩と業が消滅するのは観照が起きたからなのじゃ。
パタンジャリはサマーディによって観照まで至れると主張するのじゃ。
そのためには自我の観察が為されているのじゃ。
実践によって確かめる以外にないのじゃ。

155避難民のマジレスさん:2024/12/02(月) 12:43:44 ID:PdiFnhGo0


4.31 かくして、知の全ての覆いと汚れが完全に取り除かれる。この知は無限であるので、なおも知られるべきものはほとんどない。

4.32 そのとき、三つのグナはその目的を遂げたので、転変の継起を終える。

4.33 (前述の)継起とは、刹那の不可分の連続である。そしてその刹那は、その転変の終極においてはじめて把握される。

4.34 かくして、もはやプルシャに仕えるという目的のなくなった三グナはプラクリティに還入し、かの無上なる独存の境地(カイヴァリャ)が現れる。それは、純然たる意識の力が自らの純粋な本性の内に安住することだといってもよい。

(終)


0211 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/23(木) 22:43:28.63
悟りに達すれば全ての知られるものもなくなるのじゃ。
知識さえも悟りのための道具に過ぎなかったのじゃ。
全ての観念は無くなり、三つのグナさえもなくなるのじゃ。
全ては永遠の意識に回帰していくのじゃ。

156避難民のマジレスさん:2024/12/03(火) 09:24:10 ID:x2s8oyhk0
<解説・バガヴァット・ギーター>

https://itest.5ch.net/fate/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/218-455
より抜粋


___

<第一章>


クル族の王、ドリタラーシトラは、こう言った。

「サンジャヤよ、この神々が守る聖なる地、
クルクシェートラに集った、我が軍勢を見よ。
我が息子と、敵のアルジュナは、何をしている。」

盲目の王に代り、サンジャヤは語り始めた。
彼は、神仙の力で、千里眼を与えられていた。
この物語は、サンジャヤが、語ったものである。

ドリタラーシタラの子、ドゥルヨーダナは、
布陣した、アルジュナの大軍を、眺めていた。
そして、軍師のドローナに近づき、こう言った。

「アルジュナ率いる、壮大なる敵軍を見よ。
あれは、貴方の弟子により、布かれたものだ。
そこには、アルジュナに匹敵する、勇士がいる。」

「偉大な戦士ドルパタ、強力な国王カーシ、
スバドラーの息子に、ドラウパディーの息子、
見なさい、彼らは、誰もが、勇敢な戦士である。」

「ドローナが率いる、屈強なる自軍を見よ。
これは、貴方の手によって、布かれたものだ。
そこには、ドローナに匹敵する、大賢者がいる。」

「最大の英雄ビーシュマ、常勝の士ドルナ、
ソーマダッタの息子に、ドローナ軍師の息子、
見なさい、彼らは、誰もが、聡明な戦士である。」

その時、高らかに法螺貝が吹き鳴らされた。
英雄ビーシュマの、獅子吼が呼び水となって、
戦場に鬨の声が響き渡り、遂に戦闘が始まった。

この凄まじい大音量は、天と地を引き裂き、
ハヌマーンを掲げる、敵の軍勢を切り裂いた。


0220 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/25(土) 22:13:57.15
クリシュナ神を信仰する者の話なのじゃ。
カルマヨーガなのじゃ。
それは戦士階級の者には欠かせない教えとなるのじゃ。

157避難民のマジレスさん:2024/12/04(水) 10:49:12 ID:pXexUg8g0


ハヌマーンを掲げる、敵の軍勢を切り裂いた。
アルジュナは、クリシュナに向かって、言った。

「ああ、クリシュナよ、戦車を止めてくれ。
わたしは、誰と戦うべきか、分かっていない。
見よ、戦うべき敵軍に、我が親族が集っている。」

「クリシュナよ、敵陣に並ぶ、親族を見て、
我が口は渇き、皮は焼かれ、足は震えている。
心が苦しむ余り、立つ事さえも、ままならない。」

「戦いで親を殺して、良い報いが有ろうか。
どうして、王国の勝利を望むことが出来よう。
王国も、勝利も、彼らの為に、望んでいたのに。」

「師匠、父親、息子、叔父、その他の縁者。
彼らが私を殺そうとも、私は彼らを殺せない。
たとえ、全宇宙の為にも、況や、王国の為には。」

「我らを危める者を、我らが殺めるならば、
我らの方にこそ、その報いは降り懸るだろう。
それゆえ、殺されようとも、殺すべきではない。」

「心を乱された者が、罪を犯したとしても、
心を乱さない者が、法を侵すべき道理はない。
我が一族が罪を犯せば、全ての民族が法を侵す。」

「ダルマが破られて、アダルマが現われる。
アダルマは、この世の、カルマを汚していく。
カルマに歪められて、カーストが壊されていく。」

「宇宙の秩序である、カーストが壊れれば、
地獄の蓋が開いて、すべての人が地に落ちる。
地上の王国が滅びる、そんな類いでは済まない。」

「どうして、王権の為に、大罪を犯せよう。
真剣を掲げた彼らが、王権を捨てた私を殺す。
それこそ、私が望むべき、相応しい結末である。」

それだけ言うと、戦いの最中、彼は座り込んだ。


0225 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/26(日) 21:36:34.94
殆どの宗教は殺人を罪としているのじゃ。
そのために武士の階級では苦悩が生じるのじゃ。
その階級の者のために戦闘的な教えが説かれるのじゃ。
日本では日蓮宗とかなのじゃ。
昔の武士は日蓮宗が多かったのじゃ。

158避難民のマジレスさん:2024/12/05(木) 09:23:38 ID:ZP2zg2PA0

<第二章>


悲しみに沈む彼に、クリシュナは、こう言った。

「この危急に際して、その女々しさは何か。
アルジュナよ、悲劇に酔い痴れてはならない。
その弱気を、神々が歓ぼうか、賢者が喜ぼうか。」

アルジュナは、クリシュナに、このように語る。

「私が尊敬する、ビーシュマやドローナ達。
戦争だからと、どうして、彼らと戦えようか。
彼らの血で汚れた物を、食べて喜べると思うか。」

「我らが勝つべきか、彼らこそ勝つべきか。
どちらが良いのか、わたしには、分からない。
だた、彼らを殺したくない、それだけは解かる。」

「どちらが良いか、はっきり示して欲しい。
私は、悲しみの為に、真我が曇らされている。
私の迷妄を払えるのは、君の他に私は知らない。」

アルジュナに、クリシュナは、微笑んで言った。

「アルジュナよ、世に響く、賢者たる者は、
死についても、生についても、嘆かぬものだ。
君は、嘆く必要のない事で嘆く、言い訳じみて。」

「アルジュナよ、私にしても、君にしても、
我々は、今までに、存在しなかった事がない。
それゆえ、これからも、存在しなくなる事がない。」

「確かに、少年期、青年期、老年期を経て、
生まれた自我は、老いていき、死んでしまう。
しかし、真我は不滅ゆえに、再び生まれ変わる。」

「賢者は、それを見とめて、迷う事がない。
確かに、自我が生まれて、苦楽が生まれるが、
無常であることを見とめて、囚われる事がない。」

「楽が生まれると、必ず、苦が埋れている。
苦と楽や、生と死を、平等に見とめるものは、
楽を捉えようと、苦に捕らわれず、不死となる。」

「自我は不滅ではない、真我は不滅である。
真理を悟った者は、自我と真我の境界を見る。
アルジュナよ、遍く満ちる真実を、不滅と見よ。」


0228 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/27(月) 22:50:51.62
不滅の真我とは認識できない認識主体なのじゃ。
在ると言えるのはそれだけなのじゃ。
それを知れば迷うことは無いのじゃ。

159避難民のマジレスさん:2024/12/06(金) 09:17:05 ID:ZAWmd/4I0


「彼が殺すと思う者、彼が滅びると思う者、
どちらも、私という者を、理解できていない。
真我は殺しもしないし、真我は殺されもしない。」

「彼は、決して生まれず、決して死なない。
彼は、不生であり、常住であり、不滅であり、
自我は殺められようとも、真我は危められない。」

「さながら、人々が、服を着替えるように、
魂は、古い体を捨てて、新しい体に着替える。
服を破った処で、彼を殺せたと言えるだろうか。」

「如何なる物も、彼を危めることは出来ず、
如何なる者も、真我を殺めることは出来ない。
真我は、不動であり、堅固であり、永遠である。」

「彼が、死なないと考えて、嘆くにしても、
彼が、死んでしまうと考えて、歎くにしても、
彼が嘆くことはない、彼は現れないものである。」

「生が生まれると、必ず、死が埋れている。
生れれば死んでしまい、死ねば生れてしまう。
避けられないことに、君は、嘆くべきではない。」

「無いものが、現われてから、消えていく。
あらゆる現れは、無から始まり、無に終わる。
どうして、この事実を、悲しむ必要があろうか。」

「ある者は、この事実を、見て驚くだろう。
又、ある者は、この真実を、聞き愕くだろう。
それでも、彼を見とめる者は、何処にも居ない。」

「一切の者の身体に宿っている、この魂は、
永遠不滅であり、殺すことなど不可能である。
だから、君は、このことを、嘆くべきではない。」

「クシャトリア、武人の義務から考えても、
真理を護る戦いより、優れるものがあろうか。
武人として、聖戦に挑めれば、冥利に尽きよう。」

「戦えば、天国の使者が、君を出迎えよう。
逃げるなら、義務を果せず、武人の名が廃る。
戦士が汚名を残す屈辱は、戦死よりも耐え難い。」

「君が逃げるなら、今まで称えていた者も、
卑怯者や、臆病者と、君を蔑むようになろう。
況や敵をや、これに勝る恥辱が、何処にあろう。」

「君が戦死すれば、天上で極楽を味わうし、
君が戦勝すれば、地上で栄華を味わうだろう。
アルジュナよ、立ち上がれ、戦う、決心をせよ。」

「幸か不幸か、損か得か、勝つか負けるか、
考えることなく、我を忘れ、戦うべきである。
そうすれば、決して、君は罪を負うことがない。」
 

0237 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/28(火) 22:51:02.81
>>229 そうじゃ、お釈迦様は産まれによるカーストの区別には反対であったがのう。
 それぞれの義務を果たすものがその職に在るものなのじゃ。
 修業するものがバラモンであり、商いをする者が商人なのじゃ。

>>233 三つのグナはどれも執着すれば苦になるじゃろう。
 しかし、サットヴァは知覚するものであり、苦を厭離できる性質のものでもあるのじゃ。
 よく使えば苦を厭離できるのじゃ。
 執着せずに使うとよいのじゃ。

160避難民のマジレスさん:2024/12/07(土) 10:11:21 ID:DG.qTh5g0


「以上は、理論に於ける、知性の話をした。
以下は、実践に於ける、知性の話しをしよう。
知性を磨き上げれば、君は行為の束縛を離れる。」

「知性は、多くのものに、分けようとして、
真の知性は、一つのものに、集めようとする。
その念の力を、真我に集めて、人々は解脱する。」

「この実践には、無駄もなく、後退もなく、
それゆえ、この道を、少しだけ進むだけでも、
大いなる輪廻の恐怖が、減っていくことになる。」

「愚か者は、ヴェーダの華麗な詩句に酔い、
感覚の満足と、贅沢な生活に、心を奪われる。
様々な儀式を執り行い、天界に至ることを望む。」

「財宝の蓄積や、感覚の快楽に捕らわれて、
その追求のために、彷徨い続ける人の心には、
真理を愛して、神理に仕える、思いは生じない。」

「ヴェーダでは、善性と暗性と動性を説く。
アルジュナよ、いつも、善性を拠り所として、
執着を離れ、相対を脱却して、自己を統御せよ。」

「至る所に水が溢れる時、井戸は要らない。
同様に、真理を悟った者に、経典は要らない。
ヴェーダに溺れる者には、ヴェーダが未だ要る。」

「カルマとは、行為であり、結果ではない。
よって、行為の結果を、行為の動機とするな。
また、何もしないことに、囚われてはならない。」

「アルジュナよ、カルマを忠実に遂行せよ。
成否に捕らわれる、あらゆる余念を放棄せよ。
こうした、心の静寂を、ヨーガと呼ぶのである。」

「奉仕の精神で、行為の果報を期待しない。
一切の結果を、真我に委ねて、義務を果たせ。
報酬を期待するのは、雇われている人間である。」

「全智者に対して、自らを奉げた奉仕者は、
この世に於いて、自我を越えて善悪を離れる。
アルジュナよ、これこそが、行為の秘訣である。」


0240 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/29(水) 22:28:46.15
>>238 そうじゃ、次の文もグナを説いているのじゃ。

「ヴェーダでは、善性と暗性と動性を説く」
 善性とはサットヴァのことなのじゃ。
 暗性がタマスであり、動性がラジャスなのじゃ。
 「アルジュナよ、いつも、善性を拠り所として、
執着を離れ、相対を脱却して、自己を統御せよ。」
というのがサットヴァによって観察し、執着を離れ、相対的な観念を脱却して自己を統御せよというのじゃ。

161避難民のマジレスさん:2024/12/08(日) 10:21:10 ID:gJubAPlw0


悲しみに沈む彼に、クリシュナは、こう言った。

「仏性が、真理である、神と合一した者は、
行為の結果を捨てて、生と死の束縛を離れる。
そして、苦楽を越えた、憂い無き境地に達する。」

「仏性が現れて、迷妄の闇から抜け出すと、
過去に捕えたこと、未来に捉えるだろうこと。
すべてに超然として、心が囚われることがない。」

「君の心が、ヴェーダの詩句に惑わされず、
すべてを平等に捉える、自己の本性を悟ると、
三昧により、不動となり、神の意識に到達する。」

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「クリシュナよ、真我に没入した者の意識、
智慧を具足した者の心とは、如何なるものか。
彼は、如何に語り、如何に座り、如何に歩むか。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「アルジュナよ、感覚の欲望を悉く離れて、
自己の本性に満足し、超然として泰然とする。
純粋なる意識に、目覚めた者、彼を賢者と呼ぶ。」

「逆境に於いても、心が乱れることがなく、
順境に在っても、心が思い上がることがない。
貪瞋痴を越え、不動となる者、彼を聖者と呼ぶ。」

「好きなものを見ても、囚われることなく、、
嫌いなものを見ても、捕らわれることがない。
好き嫌いの感情を超越した者、彼を覚者と呼ぶ。」

「あたかも、亀が手足を甲羅に収める様に、
眼耳鼻舌身の対象から、感覚を引き払う者は、
完全なる智慧、プラジュニャーを得たと言える。」

「たとえ、禁欲を為して、快楽を離れても、
過去に味わった快楽は、記憶として残される。
それは、より良い物を味わい、越えるしかない。」


0242 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/30(木) 22:51:44.79
行為の結果を期待せずに行うのがカルマヨーガなのじゃ。
難しいことでは在るがのう。
それが出来れば修業にも成果を気にせず打ち込めるのじゃ。
精進すれば純粋な意識にも到達するのじゃ。


0246 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/31(金) 22:28:46.63
>>243 期待すると記憶による観念を見ようとしてしまうからなのじゃ。
 何の計らいも捨ててただひたすら集中するとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>245 サットヴァは心の性質であるから阿頼耶識ではないのじゃ。
 ものごとを認知する性質なのじゃ。
 阿頼耶識がもつ性質の一つとはいえるじゃろう。
 それをうまく使えばよいのじゃ。

162避難民のマジレスさん:2024/12/09(月) 10:59:42 ID:Hv77knq60


「アルジュナよ、感覚の欲求は強く激しく、
行を修めた者の心さえ、力ずくで揺るがせる。
不動の真我に、心を合わせる者は、智者である。」

「対象を見たり、対象を思ったりする事で、
人は、その対象に、愛着を感じるようになる。
愛着から欲望が生じて、欲望から嫌悪が生じる。」

「嫌悪から妄想が生じ、妄想で記憶が乱れ、
今までの教訓を忘れ、仏性が曇らされていく。
その結果、人々は、物質次元、現象界に落ちる。」

「解脱の道を歩んで、感覚を統御する者は、
真我の恩寵により、愛着と嫌悪から出離する。
現象界の、三重苦が消滅して、知性が安定する。」

「知性が、真我に回帰しようとしない限り、
感情も治められないし、仏性も修められない。
平安の境地に臨めないと、真の幸福も望めない。」

「あたかも、舟が風に吹き流されるように、
たった、一つの感覚でも、心を奪われたなら、
たちまち、人の仏性は、吹き飛ばされてしまう。」

「クンティーの息子である、アルジュナよ。
諸々の感覚の対象から、完全に撤退した者や、
完全に超越した者は、完全に覚醒したと言える。」

「愚者に夜であろうと、賢者には昼である。
愚者には昼であろうとも、賢者には夜である。
賢者は、他の生物とは、異なる見方をしている。」

「さながら、無数の川が流れ込んでいても、
海は泰然としていて、常に不動であるように、
他の欲が流れ込んでも、賢者は平然としている。」

「物欲や肉欲、すべての欲望を放棄した者、
支配欲や所有欲、あらゆる願望を出離した者、
このような人だけが、真実の平安に至るだろう。」

「これが、ブラフマンに到達する道である。
ここに到達した者は、一切の迷妄が消滅する。
臨終に際して、ここに至れば、光明に没入する。」


0250 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/01(土) 23:22:53.42
>>247 サットヴァはものごとを認知する性質なのじゃ。
 サットヴァは阿頼耶識のもつ性質の一つと言えるのじゃ。
 そのように理解すると善いのじゃ。

>>249 真我とはそれ自体は認識できない認識の主体なのじゃ。
 ただ見るだけのものなのじゃ。
 見る意識そのものなのじゃ。
 何かを見ても心にそれに対する好悪や愛着が無ければ真我に心を合わせたといえるのじゃ。
 ただ見たものごとを見たものだけであると認識するのじゃ。
 サマーディ、忘我、無我の認知なのじゃ。

163避難民のマジレスさん:2024/12/10(火) 11:20:37 ID:Zun9VeNU0

<第三章>

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「クリシュナよ、果報を求める行為よりも、
知性を磨く行為の方が、優れているのならば、
どうして、わたしに、戦えと言われるのですか。」

「あなたが、曖昧な言い方をしているため、
わたしの心は、迷いを越えることが出来ない。
私にとって、最善の道は何か、明言して下さい。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「この世で、真理を悟る道は、二つがある。
ヨーギーには、実践者の道、行為の道があり、
サーンキャには、理論家の道、哲学の道がある。」

「たとえ、作為を恐れて、行為を避けても、
すでに犯した罪からは、逃れられる事はない。
この世を捨てたとしても、越えられる事はない。

「好もうが、好むまいが、人というものは、
プラクリティのグナによる、カルマによって、
唯の一瞬たりとも、活動しないでは居られない。」

「体が動かなくても、心が動いているのは、
自らを欺く行為であり、彼は偽善者に等しい。
体が動いても心は動じず、これが放棄者である。」

「何もしないこと、無作為に徹するよりも、
何も囚われないこと、無頓着に徹するべきだ。
行為をしなければ、肉体さえ維持できなくなる。」

「アルジュナよ、真我のために、活動せよ。
さもなければ、行為に縁って、行為が導かれ、
この、現象界に縛り付ける、輪廻の原因となる。」

「はじめに、創造主は、万物を創造されて、
それぞれ、カルマを与え、このように言った。
行為を奉げなさい、願望は適えられるだろうと。」

「人々から供養を受けて、神々は満足して、
神々から加護を享けて、人々は安心している。
神に報いられ、神に酬いない者は、盗賊である。」

「自らが食べる物を、自ずから食べる前に、
神に対して奉げる者は、すべての罪を免れる。
味を貪り食べる者は、罪を食べるようなものだ。」

「すべての生物は、穀物により生きている。
すべての穀物は、恵みの雨により生きている。
天からの雨は、義務の遂行によって降って来る。」

「カルマは、ブラフマンから発されていて、
ブラフマンは、永遠普遍の至高の存在である。
だからこそ、カルマに不滅の存在が関って来る。」

「アルジュナよ、こうして、行為の車輪を、
すなわち、チャクラを、回転し続けない者は、
感官の快楽を貪り続けて、空しい人生を過ごす。」


0257 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/02(日) 23:44:13.29
>>251 そうじゃ、それがアートマンの法であり、道なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>253 違うのじゃ。
 それはないのじゃ。
 アートマンはそもそも存在しないのじゃ。
 上に書いたようにそのような認識できないものがあるとしたほうが修業の目標になり、やり易いから説かれたのじゃ。
 そしてそれは正しい説き方なのじゃ。
 何か修業の途中で認識できるものがあればそれは幻影と言えるからのう。
   
 唯識論が概ね正しいのじゃ。
 記憶に依存した認識である阿頼耶識が消えれば本来の認識が現れるのじゃ。
 主体も客体も無く認識するのが本来の認識なのじゃ。
 それを9識というとものいるが、言葉で説かないほうが正しいとする者も居るから知られないのじゃ。
 どちらも正しいのじゃ。

>>255>>256 クリシュナが説いたのは、本来カルマヨーガであるが、ここではそれとともにアートマンの法やブラフマンも説いているのじゃ。
 ギーターが読むべきものとされているのはそのようにヴェーダの法を遍く解説しているところじゃろう。
 仏教で言えば法華経のようなものじゃ。
 重要な法を物語りに託してそれぞれ説いているものなのじゃ。
 ここまでは百科事典的なものといえるのじゃ。
 後に更に詳しく解説が為されるのじゃろう。

164避難民のマジレスさん:2024/12/11(水) 11:21:32 ID:T/DDB4aU0


「一方で、自らの中に、アートマンを認め、
歓喜を帯び、満足を得て、安住している者に、
もはや、果たすべき業、義務は存在していない。」

「彼は、行為することで、得るものも無く、
また、行為をしないことで、失うものも無い。
そして、他の如何なる者にも、頼ることが無い。」

「よって、行為の結果に囚われることなく、
果すべき義務として、淡々と天命を遂行せよ。
そうしなければ、魂は、真我に回帰が出来ない。」

「例えば、ジャナカ王などが、挙げられる。
彼らは、義務の遂行により、覚醒に到達した。
君も、人々の手本となるべく、為すべきを為せ。」

「何事に於いても、偉人が行なったことを、
一般の人々は、同じように真似るものである。
指導者が範を示せば、彼に、全世界の人が倣う。」

「わたしは真我であり、この三界に於いて、
課せられていることなど、何一つとしてない。
それでいながら、なお、私は活動し続けている。」

「というのも、もし、私が活動しなければ、
誰もが私に倣って、活動しなくなってしまう。
私が活動しなければ、直ちに全世界が消滅する。」

「愚か者は、果報を求めて、活動をするが、
賢い者は、果報を求めないで、活動している。
その活動は、世の人を、正しく導くことである。」

「果報を求めない、賢者が活動しないとき、
果報を求めてしまう、愚者が混乱してしまう。
賢者は無償で活動して、奉仕の精神を倣わせる。」

「アルジュナよ、自我に囚われている者は、
サットヴァ、ラジャス、タマスの動きを見て、
自分が為している、働いていると考えてしまう。」

「しかし、一方、自我に捕らわれない者は、
自分の行為は、三つのグナの作用と見とめて、
決して、自分の行為に、捕らわれることがない。」

「アルジュナよ、三つのグナに惑わされて、
迷わされた人々は、現象界の活動に捕われる。
この姿は、囚われると見えず、越えると見える。」

「囚われた者に、不安を与えてはならない。
アルジュナよ、すべての行為を真我に任せて、
自らの行為と捕らえることなく、勇ましく戦え。」


0264 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/03(月) 22:13:46.77
>>262 真我は意識ではないのじゃ。
 それは悟りを得るための法なのじゃ。
 真我を実現して意識にたどり着くと言えるのじゃ。
 アートマンは月を示す指のようなものじゃ。
 
(質問:上座部仏教で言われている心、心所、色(物質)、涅槃の4つがあるという見方は妥当ですか? 妥当だとした場合、「私は在る」「観照者」「無我の境地」「九識」はどこに対応するものでしょうか?
心と完全に厭離することで本来の認識(九識)があらわれそれが悟りであるということでしょうか)

>>263 それらも修業の為に作られた観念なのじゃ。
 囚われてはいかんのじゃ。
 何も対応しないのじゃ。
 
 心というならばそれは唯識ではマナ識とかになるのじゃ。
 阿頼耶識を厭離できれば悟りなのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

165避難民のマジレスさん:2024/12/12(木) 13:17:38 ID:BFm1nlaM0


「もし、真我を信じて、私の教えに従がい、
いつでも、疑うことなく、行為をするならば、
いずれ、カルマの鎖を断ち、自由に成るだろう。」

「一方、真我を疑って、私の教えに逆らい、
いつでも、従うことなく、行為をしなければ、
いずれ、カルマの淵に落ち、破滅に至るだろう。」

「たとえ、優れた者でも、天命に縛られる。
つまり、あらゆる者は、本性に従がっている。
先天の性に逆らおうとしても、徒労に過ぎない。」

「感覚の対象に対して抱く、愛着と嫌悪を、
人は、よく修めることで、よく治めるべきだ。
この善悪の観念は、真理を悟る時に障害となる。」

「完全なる、他人の義務を引き受けるより、
不全だろうと、自分の義務を果し切りなさい。
他人の道で迷うよりは、自分の道で死ぬべきだ。」

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「クリシュナよ、自分の意志に反してまで、
時に人は、罪深い行為に、駆り立てられるが、
このような、無意識の力は、何の力であろうか。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「アルジュナよ、その力は、カーマである。
カーマとは、ラジャスから生じたものであり、
この欲界に現われる、最大の敵であると心得よ。」

「煙に巻かれている炎、塵で曇らされた鏡、
それから、子宮に包まれている胎児のように、
あらゆる生物は、それぞれ、欲に覆われている。」

「欲望という天敵に、意識は汚されている。
それは、底なしの谷のように、飽きを知らず、
燃え盛る炎のように、身と心を焼き焦している。」

「欲望は、眼と耳と鼻と舌と身と意に宿る。
欲望に狂わされた心は、仏性を覆い隠すため、
正しい道が解らなくなり、我々の魂を迷わせる。」

「バラタ一族の子孫である、アルジュナよ。
何よりも先ず自らの、五感を統御することで、
理論知と実践知を損う、欲望を滅尽することだ。」

「真我が現われないと、仏性は現われない。
仏性が現われないならば、精神は洗われない。
精神のない感覚は無く、感覚のない対象も無い。」

「それゆえ、私は、仏性よりも上位と知り、
至高の支配者である、アートマンを確立して、
カーマと呼ばれている、恐るべき敵を征服せよ。」


0272 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/04(火) 22:56:46.38
>>265 悟ったということをアートマンによって現したのじゃ。
 アートマンは本来実現されず、発見されないものじゃ。
 しかし、そのように言わなければ衆生はわからないからいうのじゃ。
 悟りも得るものでも、開くものでもないが衆生の為に悟りを得たとか、開いたとかいうのじゃ。
 得るものも開くものも無い悟りもそのように語らなければならないのじゃ。
 アートマンも実現されず、発見されないがそのように語らなければわからない者のために実現したとか発見したと言うのじゃ。

>>267 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさぃ。

>>270 そうじゃ、オウムの者も実はカルマヨーガによって洗脳されていたのじゃ。
 組織の為に殺人も良いという教義であるからのう。
 気をつけなればいかんのじゃ。


(質問:カルマヨーガとは結局どうやって悟りに至るんですか? )
0277 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/05(水) 21:39:37.73
>>276 行為に没頭してサマーディに至るのじゃ。
 よくあることじゃ。
 仕事に熟れた職人などはそのようにして名品を生み出すのじゃ。

 サマーディに至れば自我も見えて無我にもなるのじゃ。
 無我になれば認識も厭離できるのじゃ。

166避難民のマジレスさん:2024/12/12(木) 13:18:09 ID:BFm1nlaM0

0284 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/08(土) 22:07:56.02

三章ではカルマヨーガによる義務の遂行が詳しく説かれているのじゃ。
真我の実現、或いは発見のためにと義務を遂行するのが修行者の務めであるというのじゃ。
義務の遂行を果たしてこそ覚醒もあると説かれたのじゃ。
制感によって欲から離れ、義務の遂行を果たせばいずれ、カルマの鎖を断ち、自由に成るというのじゃ。

167避難民のマジレスさん:2024/12/13(金) 11:30:06 ID:s6ysZdKs0

<第四章>

クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「この不滅のヨーガを、至上者である私は、
太陽神である、ヴィヴァスヴァットに教えた。
それから、彼が、人類の父であるマヌに伝えた。」

「こうして、ヨーガの道は、受け継がれて、
古の聖者達は、伝承の教えを守り継いで来た。
しかし、長い歳月を経て、この法統は失われた。」

「アルジュナよ、君は、私の真の信奉者だ。
だからこそ、君に、この原初のヨーガを説く。
君は、この人智を超えた、神秘を会得できよう。」

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「クリシュナよ、太陽の神が現われたのは、
あなたの誕生の時より、遥かに昔のことだが、
どうして、あなたが、太陽神に授けられたのか。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「私も、君も、何度も生まれ変わっている。
わたしは、前世のことを、全て覚えているが、
世の人々は、前生のことを、何も知らないのだ。」

「私は、生まれることも、死ぬこともなく、
万物の主にして、恒常不変たる真我であるが、
自己の本性に依存する、自己の幻影が出現する。」

「ダルマが滅びて、アダルマが栄えるとき、
私は、この現象界に、身体を現わすのである。
ダルマを伝える為なら、どんな時代にも現れる。」

「こうして、私の活動を、如実に知る者は、
この世の死に際して、魂が身体を離れた後に、
生まれ変わることなく、我が元に来るのである。」

「古より数多の人々が、全てを私に任せて、
執着と無智と憎悪を離れ、清浄となったのだ。
彼らは、熱により浄化され、私の状態に達した。」

「真我に奉げただけ、真我から与えられる。
すべてを私に任せれば、すべてが報いられる。
あらゆる人は、あらゆる道から、真我に向かう。」

「世の人々は、行為の成就と果報を求めて、
様々な神々を供養して、それらを願っている。
こうして、欲界の果報は、速やかに与えられる。」


0279 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/06(木) 22:12:09.05
クリシュナは自らがアートマンとして語っているのじゃ。
それもまた教えの一つではあるのじゃ。
アートマンに全てを捧げたものは全てを得るとは無我になり、悟りを得るからなのじゃ。
難しい道ではあるがのう。

168避難民のマジレスさん:2024/12/14(土) 10:54:54 ID:p17B9XuY0


「自然界にある、三グナとカルマに応じて、
わたしは、人間界を四つのカーストに分けた。
それでいて、わたしは、それらを超越している。」

「わたしは、如何なる行為も囚われないし、
また、真我は、如何なる果報も望んでいない。
私を悟った者も、行為や果報に縛られなくなる。」

「古来より、解脱した者は、誰であろうと、
こうして、真理を解して、行為を正していた。
よって、君も、先達に倣い、カルマを浄化せよ。」

「カルマとは何か、又、アカルマとは何か。
賢者でさえ、カルマを定義するのは、難しい。
カルマについて、今から、わたしが説明しよう。」

「アカルマは無活動、ヴィカルマは誤活動、
カルマ、つまり、活動の諸相は複雑であるが、
人は、カルマを正しく理解しなければならない。」

「カルマの中にも、アカルマを認めるもの、
アカルマの中にさえ、カルマを認めるものは、
如何に行為していても、相対を超越できている。」

「如何なる欲望も持たず、行動できる者は、
完全なる覚醒を得た者、覚者であると心得よ。
彼らは、真理の炎で、業を焼き尽した者である。」

「行為の結果について、捕らわれない者は、
カルマを作りながら、カルマに縛られないし、
自我を所有しない者は、ヴィカルマを作らない。」

「自然に得られたもので、満足を得ながら、
自他を比較して羨まず、成否に悩まない者は、
如何に活動していようと、縛られることがない。」

「現象界における、相対の利害を超越して、
自我を放棄して、無頓着に徹する者の行為は、
すべて、真我に対する供養となり、功徳となる。」

「ブラフマンの意識で、供養を行うならば、
ブラフマンの領域に、必ずや到達するだろう。
供物も、供養する者も、ブラフマン自身である。」

「種々の神々に、供養する修行者もいれば 、
ブラフマンに対し、供養する修行者もいよう。
音色を供える者もいれば、香を供える者もいる。」

「ある修行者は、感官や呼吸を供物として、
また別の修行者は、信念や苦行を供物とする。
ヨーガの八段階を実践して、ヴェーダを修める。」

「三昧に入るため、調気法を実践する者は、
入息と出息を供養し、最終的に呼吸が止まる。
また、ある者は、断食を為して、呼吸を止める。」

「供物の意義を知り、供養を実践する者は、
悪業の果報を清算して、心身を浄化しながら、
無上の甘露を味わい、永遠の楽土に入っていく。」

「甘露を得る者は、ブラフマンに到達する。
アルジュナよ、この供養を実践しないならば、
すべてのカルマは、究極の処、ダルマに通じる。」

169避難民のマジレスさん:2024/12/14(土) 10:55:52 ID:p17B9XuY0


「アルジュナよ、正しい導師に倣うことだ。
導師に仕えて、法則を尋ねて、真理を修めよ。
真我に至った覚者のみ、弟子に法を授けられる。」

「真理を悟った者は、幻影に迷うことなく、
あらゆる生き物は、真我の中に存在していて、
真我である私が、所有するものであると、知る。」

「たとえ、君が、悪人の中の悪人だろうと、
この偉大な、智慧の船に乗ることが出来れば、
あらゆる不幸の大海を、渡り切ることが出来る。」

「あたかも、森を、炎が焼き尽くすように、
全てのカルマは、智慧の炎で焼き尽くされる。
アルジュナよ、智慧が浄化の源泉であると知れ。」

「ヨーガを完成して、真我を楽しめる者や、
熱烈なる信仰を持って、欲望を制御する者は、
この無上の智慧を具えて、究極の平安に達する。」

「一方、無知にして、信心が足りない者や、
神から下ろされた、聖典を疑ってしまう者は、
現世においても、来世においても、不幸である。」

「果報を求めず、淡々と天命を果たす者や、
正しい智慧により、疑念や迷妄を払った者は、
自己の本性に徹して、業に捕らわれないと知れ。」

「君の心の迷いは、君の無智が原因である。
アルジュナよ、さあ、真理の剣で無智を祓い、
ヨーガにより武装して、立ち上がり自己と戦え。」


0288 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/09(日) 23:00:58.94
四章ではこのヨーガの起源と理論が説かれているのじゃ。
クリシュナはアダルマ、非法が栄えた時にこの世に姿を現し、正法を説くというのじゃ。
相対性を超越し、自我も行為も無い者はブラフマンとなるのじゃ。
制感や呼吸法を行い、ヨーガを行いヴェーダを学ぶことでブラフマンに到達するというのじゃ。

>>287 そうじゃ、全てを放棄してヨーガを実践するのじゃ。

170避難民のマジレスさん:2024/12/15(日) 13:37:47 ID:eO1Z4d6s0

<第五章>

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「執着の心を捨てて、為すべきことを為し、
その果報を、ブラフマンに供養している者は、
蓮の葉が水に濡れないよう、罪を寄せ付けない。」

「カルマヨーガを行う者は、執着を捨てて、
心身と知性を用いて、あらゆる活動を行うが、
それは、ひたすら、自らを浄化するためである。」

「ヨーガを行じれば、心から平安に達して、
ヨーガを行じなければ、絶えず不安に怯える。
これは、果報を求めるか、否かの、違いである。」

「体を持った魂が、三つのグナを支配して、
諸々の活動について、心が無頓着でいるなら、
不自然な行為が消えて、自然な感覚に安らげる。」

「この体に宿っている、真我というものは、
行為することもなく、行為させることもない。
現象界の三グナが、すべての行為を演じている。」

「善行を果たすにせよ、悪行を果すにせよ、
真我は、そのどちらにも、突き動かされない。
真我は不動であるのに、自我が苦悩してしまう。」

「真の道理によって、無明の闇を打ち破り、
真の光明を得たならば、疑問は悉く氷解する。
あたかも、太陽の下では、万物が明らかな如く。」

「心と知性を、真理に固定して不動となり、
真我に帰依して、すべてを真我に委ねたとき、
智慧によって、すべての迷妄を祓い、解脱する。」

「真理を修めた賢者は、慈愛に満ちていて、
選民も、賤民も、家畜も、犬も、牛も、象も、
差別することなく、万物を平等に観るのである。」

「すべてを平等に見て、心が安らかな者は、
すでに輪廻を越えていて、生まれ変わらない。
彼らは、ブラフマンの中に、安住し切っている。」


0290 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/10(月) 23:16:03.07
カルマヨーガでは行いの結果を求めずに行動することが常に協調されるのじゃ。
果報をブラフマンに捧げるとか言うのじゃ。
それがサマーディにいたる行いのヨーガなのじゃ。
そのようにして光明を得たなら万物を等しく見る平等性智がもたらされるのじゃ。

171避難民のマジレスさん:2024/12/16(月) 10:39:51 ID:vq0JwP4I0


「真理を修めることで、迷妄を越えた者は、
好いものに囚われず、悪いものに捕われない。
彼らは、二元を越えて、ブラフマンに安住する。」

「解脱した者は、外なるマーヤに捕われず、
快楽を離れて、内なるアートマンに囚われる。
ブラフマンに集中し、永遠に続く幸福を味わう。」

「仏陀は、快楽というものが続かないこと、
過ぎた後に、苦悩が訪れることを知っている。
それゆえ、このような、虚しい喜びに耽らない。」

「もし、体を捨てる前に、感覚を制御して、
欲情と憤怒を抑制することが、出来るならば、
その人は、現世においても、幸福になるだろう。」

「内なる幸福を得て、内なる歓喜を味わい、
内なる光明を見とめる、ヨーガの実践者こそ、
ブラフマンと合一をして、涅槃に達するだろう。」

「二元の善悪を超え、内なる喜びに溢れて、
全ての疑念を打ち払い、利他を実践する者は、
ブラフマンに回帰し、永遠の平安を得るだろう。」

「憎悪や物欲や肉欲、煩悩を放棄した者や、
自己の本性を知り、真我に至る精進する者は、
やがて、梵我一如の境地、一元の境地に達する。」

「外界との接触を離れて、眼を眉間に注ぎ、
鼻腔を通る、入息と出息を、均等にしながら、
心と感覚と知性を統御すれば、必ずや解脱する。」

「供養の究極の目的である、自在神であり、
生類の幸福を願っている、大慈悲神であると、
真我を、よく知る者は、シャーンティに達する。」


0293 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/11(火) 22:12:24.92
ここではヨーガのさまざまな技法が解説されるのじゃ。
制感、眉間への集中、呼吸法、怒りや欲の放棄等なのじゃ。
それらを実践してアートマンに至れば、この世を離れた喜びが訪れるのじゃ。
そしてブラフマンに回帰して永遠の平安に住する者となるのじゃ。

0298 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/13(木) 21:47:13.81
>>296 ぼやけていてよいのじゃ。
 ただ集中する目標で在るだけなのじゃ。
 鼻先がいつでも目の前にあってやりやすいからなのじゃ。
 そしてサマーディにも入りやすいのじゃ。
 チベット密教のミラレパも弟子に鼻先に仏陀をイメージする行を教えたのじゃ。
 眉間に集中するのと同じなのじゃ。

172避難民のマジレスさん:2024/12/16(月) 10:40:48 ID:vq0JwP4I0
0295 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/12(水) 22:46:44.11

第五章ではカルマヨーガの詳しい解説が説かれたのじゃ。
果報を期待せずに実践することがその要旨なのじゃ。
それによって行為は忘我の状態に導く方法となるのじゃ。
次の章では実践の方法が説かれるのじゃ。

173避難民のマジレスさん:2024/12/17(火) 11:14:14 ID:AQYilJos0
(1/2)

<第六章>

クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「行為の結果に執着せず、義務を果す者は、
たとえ、供犠を為さず、祭儀を為さなくとも、
真の出家者であり、ヨーギーである、と言える。」

「真の離欲とは、ヨーガと同じものであり、
ヨーガの目的とは、神と合一することである。
欲望を放棄しなければ、ヨーギーにはなれない。」

「ヨーガの初心者では、行為を果たすこと、
ヨーガの熟練者では、行為に囚われないこと、
これが、八段階のヨーガを修める、定法である。」

「あらゆる事物に対する、欲望を捨て去り、
あらゆる感覚に於ける、快楽を貪ることなく、
無償で行為する者は、ヨーガの完成者と言える。」

「己の心次第で、向上もして、下向もする。
人は、己の心を治めて、自らを高めるべきだ。
我が心とは、我が親友であり、我が仇敵である。」

「心を克服できれば、心は最良の友であり、
心を克服できなければ、心は最大の敵である。
友となるか、敵となるか、我が心が決めている。」

「心を克服した者は、至上の我に到達する。
彼にとっては、幸福も不幸も、寒さも暑さも、
名誉も恥辱も同じであり、真我に安らいでいる。」

「真智により、真我に満足したヨーギーは、
感覚を統御して、ブラフマンに安住している。
玉であれ石であれ、すべてを平等に認めている。」

「己に好意を持つ者と、己に悪意を持つ者。
友も敵も、善人も悪人も、そして中立の人も、
すべてを平等に捉える者は、非常に優れている。」

「ヨーギーは、心を真我に対して集中して、
人里を離れた所、森の中に独り暮らしながら、
心を常に制御して、欲望と所有を捨てるべきだ。」

「アルジュナよ、ヨーガを実修する行者は、
人里を離れた所で、クシャの草を大地に敷き、
その上に、鹿の皮と、柔らかい布を被せて座る。」

「座は、高すぎる事も、低すぎる事もなく、
神聖な場所に定めて、意識と感覚を統御する。
彼は、心を鮮明にして、精神を一点に集中する。」

「頭と体を直線に保ち、鼻の先を凝視する。
心を乱さず恐れを抱かず、梵行の戒律を守り、
意識を制御しながら、真我に専心しようとする。」

「クンティーの息子である、アルジュナよ。
こうして、身口意を統御する、ヨーギー達は、
現象界を解脱して、真我である、私に回帰する。」

174避難民のマジレスさん:2024/12/17(火) 11:15:29 ID:AQYilJos0
(2/2)

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「あなたは、平等の境地について説いたが、
クリシュナよ、わたしの動揺しやすい心では、
その不動の境地を見つけることは、甚だ難しい。」

「心は、絶えず揺れ動き、荒れ狂っている。
この頑迷な心を、わたしが、統御することは、
思いのままに、風を操ることより、困難である。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「アルジュナよ、絶え間なく動いてしまう、
心を治めることは、確かに難しいことである。
しかし、それは、不断の修練により可能となる。」

「アルジュナよ、信念が揺らいでいる人が、
真の理を体得することは、極めて困難である。
しかし、努めて励むならば、必ずや達成できる。」

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「初め信仰していたが、持続しなかった者、
初めこそ精進していたが、俗心に流された者、
こうした人は、その後、どんな運命を辿るのか。」

「こうして、真理の道を踏み外した人々は、
流される雲のように、消滅するしかないのか。
この問いは、あなたしか、答えられないものだ。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「真理を悟るため、善行を積み重ねる者は、
今生でも、来世でも、破滅に至ることがない。
善業を重ねた者は、決して、悪趣には落ちない。」

「挫折した修行者は、次に天界に生まれて、
とても長い間、天における生活を楽しんだ後、
人間界に生まれ、豊かな貴族の家庭に生まれる。」

「あるいは、彼は、偉大なる智慧を有する、
優れた修行者の家に、生まれ変わる筈である。
このような出生は、人の世界において稀である。」

「アルジュナよ、このような家庭に生まれ、
彼は前世における、神聖な意識を蘇らせた後、
再び最高の目的に向けて、精進することになる。」

「前世で、聖なる意識を経験したがために、
彼は、無意識の内に、ヨーガの思想に魅かれ、
ヨーガを、学ぼうとしただけで、魂が歓喜する。」

「転生を繰り返し、修行を重ね続けながら、
あらゆる穢れを、洗い清めているヨーギーは、
この至上の目的に、最終的に帰り着くのである。」

「どの苦行者より、ヨーギーは偉大である。
いかなる知識人より、ヨーギーは偉大である。
あらゆる祭祀者よりも、ヨーギーは偉大である。」

「アルジュナよ、偉大なるヨーギーとなれ。
すべてのヨーギーの中で、最も優れた者とは、
信愛を奉げて、バクティヨーガを為す者である。」


0307 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/15(土) 22:20:48.44
>>303 それは本人の行いによって違うじゃろう。
 真面目に善事を積んで修業していた者にはそのような福楽も在るじゃろう。
 適当にやって悪事をしていた者はやはり地獄行きなのじゃ。
 本人次第なのじゃ。

>>304 それでもよいのじゃ。
 自分に合ったやり方でよいのじゃ。
 実践し続けることが大事なのじゃ。

>>306 違うのじゃ。
 それは修業の目標なのじゃ。
 悟りに導く方法の一つなのじゃ。
 悟って気づく境地である意識とは違うものなのじゃ。

 六章ではカルマヨーガの実際的なやり方が示されたのじゃ。
 座法から鼻先に集中する法や果報をブラフマンに委ねる精神的な法まで余すところ無く説かれたのじゃ。
 これに従って実践することができるのじゃ。
 例え道半ばで挫折しても志は無駄にはならないことも示されたのじゃ。

175避難民のマジレスさん:2024/12/18(水) 13:21:51 ID:Jge.8LEI0
(1/2)

<第七章>

クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「アルジュナよ、真我の言葉を聴きなさい。
心を真我に定めて、全力でヨーガを実修せよ。
そうすれば、必ずや、君は私を知ることになる。」

「アルジュナよ、私は、今、ここにおいて、
あらゆる理論知と、あらゆる実践知について、
残らず、君に語ろう、これ以上の教えなどない。」

「真理を求めている者は、千人の中の一人、
真我に達している者は、その千人の中の一人。
優れたヨーギーさえ、真理を悟れる者は少ない。」

「地、水、火、風、空、マナス、ブッディ、
アハンカーラ、これらの、八つの構成要素で、
真我から分離した、プラクリティは形成される。」

「プラクリティとは、物質源のことである。
真我には、物質原理の他に、精神原理がある。
それは、万物を支える、生命エネルギーである。」

「物質的な物にせよ、精神的な者にしても、
全てのものは、真我により生起するのであり、
総べてのものは、真我により消滅するのである。」

「真我より貴いものは、何一つとしてない。
あたかも、糸に通された、珠の飾りのように、
あらゆるものは、アートマンが支えているのだ。」

「真我は水の味であり、日と月と光である。
ヴェーダの真言における、聖音AUMである。
空間における音であり、人間の中の能力である。」

「真我は大地の芳香であり、火の熱である。
生きている者の命であり、タパスの炎である。
万物の種子で、知の中の知、光の中の光である。」

「真我とは、肉欲にも物欲にも囚われない、
一切から超然とした、強者の中の強者であり、
ダルマに背かないカーマ、法に従がう欲である。」

「サットヴァ、ラジャス、タマスからなる、
あらゆる現象は、すべて真我から生じている。
万物から真我は生じず、真我から万物が生じる。」

「サットヴァ、ラジャス、タマスからなる、
マーヤに覆われている、生きとし生ける者は、
高次であり、不変である、真我を認識できない。」

「幻影に打ち勝つことは、甚だ困難である。
しかし、全てを任せて、真我に服従する者は、
三つのグナを、容易に乗り越えることが出来る。」

176避難民のマジレスさん:2024/12/18(水) 13:23:15 ID:Jge.8LEI0
(2/2)

「智を損っている者、悪業を為している者、
心が惑わされている者、魔性を有している者、
これら四種の人々は、決して真我の元に来ない。」

「苦を抱えている者、幸福を考えている者、
道を求めようとする者、智慧を愛している者、
これら四種の人々は、いずれ真我の元に訪れる。」

「彼らの中でも、真理の法則を良く学んで、
浄心を抱いて、真我を崇める者が最上である。
彼らが真我を愛するから、真我が彼らを愛する。」

「彼らの魂は、実に、清らかで高貴であり、
自我の根本が真我であることを、良く心得る。
彼らは皆、至高の帰趨である、真我に帰依する。」

「数多の生涯を経て、真理を悟り得た者は、
真我が、万物の中の万物、因の中の因と知る。
このような、偉大な魂の存在は、実に稀である。」

「物欲など、煩悩に歪んだ心を有する者は、
そのカルマによって、様々な神々を妄信して、
そこのダルマによって、教義や戒律に従属する。」

「どのような形でも、神を拝む気になれば、
その神に相応しいよう、彼の信仰心を固める。
それは、真我である私が、助けているのである。」

「人は、望んでいるものに、臨んでしまう。
彼は、望ましい神に、望ましい者を、望むが、
それは、真我である私が、授けているのである。」

「神々を望む者は、必ず、神々の世に行き、
真我に臨む者は、必ず、真我に帰って来れる。
知性が低い者ほど、低級な世界を望んでしまう。」

「愚か者は、現れたものしか見えないため、
隠されている、不変の真我の存在が見えない。
彼らは、真我が作り出した、幻影しか見えない。」

「わたしは、過去のことも、現在のことも、
未来のことも、知っているが、皆は知らない。
真我は皆を知っているが、皆は真我を知らない。」

「アルジュナよ、生きとし生ける者たちは、
無明の中に生まれ、欲望と憎悪により生じた、
二元の世界を、実在していると、錯覚している。」

「遠い過去の生から、今生の今に至るまで、
悪しき業を落して、清らかな生活を続けた者、
二元の迷妄を払い除けた者は、真我を礼拝する。」

「智慧ある者は、真我にこそ平安を求めて、
老や死から解脱しようと、精進し続けるのだ。
彼らは、ブラフマンを知り、アートマンを知る。」

「わたしが、すべての現象の支配者であり、
三界を通して、すべての供養の享受者である。
こう悟った者は、死に際しても私から離れない。」


0310 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/17(月) 00:13:41.04
真我とアートマンがべつのもののように翻訳されているのじゃ。
そもそも真我と翻訳すべきではないのじゃ。
真の我などはないのであるからのう。
アートマンは求める者のみが見出すことが出来るのじゃ。

0315 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/17(月) 20:00:38.21
>>311>>313 悟れば全ては一つと言えるのじゃ。
 そうでなければ同じではないのじゃ。
 人は内なるアートマンの追求によってブラフマンに至るのじゃ。
 アートマンは川であり、ブラフマンは海のようなものじゃ。
 人は川を通って海に入り、川と海が一つの水でできていることを知るのじゃ。
同じようにアートマンを追求して全てを捧げれば、ブラフマンに至り、全て一つと知るのじゃ。
 
>>314 1 そうじゃろう。
 混乱しているようじゃ。

2 そうじゃ、同じなのじゃ。
  認識する全てを否定して認識できないものに行き着くのじゃ。

 3 認識する全てを否定すればそれ自体は認識できない認識主体に至るのじゃ。
  それこそが人の内なる原理、本性本質であるアートマンなのじゃ。
  それは論理や文字で語るべきことではなく、実践して至ることで了解するものなのじゃ。

 4 迷信なのじゃ。
  行いの報いによって相応しいところに行くのじゃ。

  認識主体に来るのじゃ。
  ただ見るだけの意識に合一するのじゃ。
 
 5 七章ではアートマンの解説と実践が説かれたのじゃ。
  三つのグナでさえアートマンによるものなのじゃ。
  アートマンに全てを捧げることや、集中すべきことが実践なのじゃ。
  アートマンを通してブラフマンに至ることがその最終目的なのじゃ。

177避難民のマジレスさん:2024/12/19(木) 10:17:29 ID:arA//S5U0

<第八章>

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「ブラフマンとは、アートマンとは、何か。
カルマとは、現象界とは、神とは、何なのか。
クリシュナよ、どうか、私に、説明して下さい。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「カルマは、万物を生み出す、生命であり、
ブラフマンは、永遠かつ不変の、実在であり、
アートマンとは、内なる原理たる、本性である。」

「確かに、プラクリティは、変化し続ける。
しかし、三界を含む大宇宙は、私の体であり、
生き物の、心臓に宿った真我は、私自身である。」

「誰でも、死に際して、肉体を離れるとき、
真我だけ念じる者は、真我の元に遣って来る。
アルジュナよ、これを、決して疑うべきでない。」

「誰でも、死に際して、肉体を捨てるとき、
生前に念じていたことを、死後も念じている。
そして、死後に念じる者に、来世は生まれ変る。」

「真我を観想し続け、自己の義務を果たせ。
いつでも、意識を、真我に結び付けておけば、
死に際して、必ずや、真我の元に帰れるだろう。」

「絶え間なく訓練して、至上者を観想せよ。
決して、他のものに、心を乱してはならない。
そうすれば、必ず、至上者の元を訪れるだろう。」

「全知かつ全能たる、宇宙の支配者であり、
最古にして最新である、万有の維持者である、
輝ける人格神として、私、クリシュナを念じよ。」

「ヨーガで培われた、不動の信念によって、
臨終の際、眉間に気を集めて、真我を念じる。
そうすれば、真我の元に、必ず来る事が出来る。」

178避難民のマジレスさん:2024/12/19(木) 10:20:00 ID:arA//S5U0

<第九章>

クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「アルジュナよ、君は、私を疑うことなく、
私を信じているから、最高の秘儀を授けよう。
これを知るならば、あらゆる苦悩を解決できる。」

「これは、至上の叡智にして、無上の浄化、
神秘の中の神秘であり、ダルマの完成である。
行い易い道であり、永遠に続く歓喜の道である。」

「バラタ一族の勇者である、アルジュナよ。
この至上の道を信じない、疑い深い者たちは、
解脱することが出来ず、現象界を転生し続ける。」

「決して現れない、非顕現である私の中に、
このすべての宇宙は、普遍的に広がっている。
真我の中に万物が現れ、万物の中に真我が宿る。」

「私の中に、万物は物質として存在しない。
真我は、万物の維持者で、普遍に存在するが、
現象の一部ではなくて、創造の源泉なのである。」

「あたかも、気として流れる、風の元素が、
いつでも、空元素の中しか、存在しないよう、
万物は、真我である、私の中しか存在できない。」

「クンティーの息子である、アルジュナよ。
カルパが始まる時に、真我が万物を展開して、
カルパが終わる時には、万物が真我に回帰する。」

「アートマンの意思が、宇宙の法則である。
真我である私の意志により、すべてのものが、
繰り返し現象して、繰り返し消滅するのである。」

「それでいながら、私は、意志に縛られず、
すべての現象を離れ、すべての活動を行なう。
わたしは、いつも、中立であり、無頓着である。」

「万物の物質原理である、プラクリティは、
アートマンの意思で活動し、陰陽を描き出す。
陰と陽が移り変わると、創造と破壊を繰り返す。」

「私は、超然たる心と、超越した力を持ち、
すべての支配者、真我であるにもかかわらず、
愚かな者達は、普通の人間であると見てしまう。」

「迷える者は、正しい信仰を捨ててしまい、
虚しい知識を得ながら、虚しい行為を為して、
その空しさ故に、彼らは、分別を失ってしまう。」

「優れた者は、いつでも、真我を賛嘆して、
信愛の心をして、私の前で、恭しく礼拝する。
彼らは、忍辱を為し、精進を忘れることがない。」

「知性を磨いて、真理に至ろうとする者は、
真我を、至上主として、姿を変える者として、
あるいは、宇宙そのものとして、礼拝している。」


0317 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/18(火) 22:54:57.99
アートマン、認識できない認識主体から全ては生まれるのじゃ。
それこそが秘儀としてクリシュナが説くことなのじゃ。
唯識論と同じなのじゃ。
語る言葉は違っても説くことは同じなのじゃ。

179避難民のマジレスさん:2024/12/20(金) 10:19:51 ID:M5Fb0VbM0
0322 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/19(水) 22:56:45.34

>>318 わしもギータにも認識主体を認めてはいないのじゃ。
 それは認識できないと書いてあるのが読めないようじゃのう。
 おぬしは認識できないという意味が理解できていないのじゃ。
 
 常・一・主・宰などもわしもギータにも認めていないのじゃ。

 認識主体を認めているのはおぬしなのじゃ。
 それがあると思って書いているのであるからのう。
 常・一・主・宰を認めているのもおぬしなのじゃ。
 その観念を心に持ち、それが存在しない言葉に投射しているのであるからのう。
 おぬしのようにそれらに囚われることこそ煩悩になるのじゃ。

 涅槃や不死の境地をお釈迦様も説いたのじゃ。
 それも観念をもって見れば常住一切の境地に他ならないように見えるものじゃ。
 
>>320 ここにも毎日書いているのじゃ。
 多くは無いのじゃ。
 他のスレと同じなのじゃ。

>>321 そうじゃ、全ては意識なのじゃ。
 物とか空とかも観念のみなのじゃ。
 実践によって確かめるのじゃ。

180避難民のマジレスさん:2024/12/21(土) 09:56:00 ID:xjBtVDn20


「アートマンは、供養であり、供物であり、
バターであり、ヴェーダであり、礼拝であり、
マントラであり、儀式の火であり、薬草である。」

「アートマンは、目的であり、真理であり、
帰依処であり、聖なる音であり、友人であり、
宇宙の父であり、宇宙の母であり、始祖である。」

「真我は、雨を留めて、雨を降らせている。
また、真我は、不死でもあり、可死でもある。
さらに、真我は、実在でもあり、不在でもある。」

「三ヴェーダを学んで、善業を重ねる者は、
悪業を浄化した後に、神々の世界に生まれて、
地上では想像も及ばない、快楽を得るのである。」

「善業の果報で、天国の快楽を味わう者も、
果報が尽きたなら、即座に地上に落とされる。
楽を求めて生きれば、虚しく現象界を浮沈する。」

「何も求めることなく、私を礼拝する者は、
必要なものが必要なだけ、私から与えられる。
そして、必要なものは、決して失うことがない。」

「私以外の他の神を、無欲に信仰する者は、
それは、正しい方法とは、決して言えないが、
実は、真我を信仰していると、言えるのである。」

「真我は、あらゆる宗教の、主宰神である。
他の神を信じる者は、真我のことを知らない。
そして、知らない限り、輪廻の苦楽を繰り返す。」

「神々を拝めば、神々の世界に生まれるし、
祖先を拝むならば、祖先の世界に生まれよう。
即ち、真我を拝めば、真我の元に来るのである。」

「誰であれ、私に対して、信と愛を込めて、
一枚の葉、一輪の花、一個の果物、一椀の水、
少しでも供えれば、それを喜んで私は受けよう。」


0352 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/21(金) 21:59:54.04
九章はアートマンの真の本質が説かれたのじゃ。
全てはアートマンから生まれ、アートマンに帰っていく。
アートマンが全ての源泉であり、礼拝すべきものというのじゃ。
アートマンに全てを捧げる帰依こそ真の秘儀であるとクリシュナは説いたのじゃ。

181避難民のマジレスさん:2024/12/22(日) 11:14:55 ID:9fjQTxGI0
<第十章>

クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「アルジュナよ、私の深遠なる言葉を聞け。
君は、掛け替えの無い、私の親友であるから、
更に深い教えを、君の為に、話して聞かせよう。」

「たとえ、神であろうと、聖者であろうと、
わたしの起源を、すべて知ることは出来ない。
というのも、私が、神や聖者の起源であるから。」

「私が、世尊であると、見とめる者だけが、
人間の世界にあって、幻影に迷えることなく、
すべての罪の穢れから、解脱していくのである。」

「知性、知識、不惑、寛容、正直、自制心、
寂滅、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、満足、
不殺生、平等心、禁欲、布施、名誉、不名誉等。」

「これらの資質を与えるのは、真我である。
人類の始祖である、マヌは、真我から生じた。
すべての生物は、彼らを、先祖として生まれた。」

「このような、私の働きを認めている者は、
バクティーヨーガにより、常に私と共にある。
そう、これについては、何の疑いもないことだ。」

「一切の根源の真我から、万物が展開する。
この真理を悟った者は、全身と全霊をもって、
真実の私を信仰して、真我である私を賛美する。」

「彼らは、いつでも、わたしを想い続けて、
すべての生活を、私のために奉げるのであり、
私について語り合うことを、無上の喜びとする。」

「アートマンを、信愛して、奉仕する者に、
アートマンは、仏性を用いるヨーガを授ける。
ブッディにより、彼らは、真我の元に回帰する。」

「このような者に、特別な慈悲を施すため、
真我である私は、彼らの胸の中に宿りながら、
智慧の灯明を以って、無智から生じた闇を破る。」

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「あなたは、至高のブラフマン自身であり、
無上の住処にして、万物を浄化する方である。
不生にして不滅、世に遍在する元始の神である。」

「神仙たちは、あなたを、このように呼ぶ。
ナーラダ、アシタ、デーヴァフ、ヴィヤーサ。
そして、今、あなたも、そのように宣言された。」


0337 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/20(木) 21:00:21.23
十章において終にクリシュナは神も聖者もアートマンから生じると説いたのじゃ。
もはや神への信仰から離れ、アートマンを唯一の道として実践すべきことが説かれたのじゃ。
それこそがアートマンへの献身の道なのじゃ。
全てをアートマンに捧げ、全てになる道なのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2024/12/23(月) 10:12:56 ID:.a4xIGkQ0
0338 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/20(木) 21:02:05.42

>>323 あいかわらず瞬殺しやすいのう。
 わしの反証としてあげたものから、おぬしがわしは認識主体を認めたと思うならば、それこそがおぬしがその観念を認めていることになるのじゃ。
 唯識を本当に知っているならば認識できないものと書いたことが何を意味するのか、わかるはずであるがのう。
 字面だけで本当は唯識を理解していないのじゃ。

 有為の視座であろうが無為の視座であろうがその観念を持っているならばおぬしが執着していることになるのじゃ。
 それすらもわかってないのじゃ。
 瞬殺ブーメランじゃな。
 
>>325 眼を通した程度ではいかんのじゃ。
 ちゃんと理解していないと上の如く見当違いのことを書いて恥をさらし、瞬殺ブーメランを食らうことになるのじゃ。
 わからないことはちゃんと分からないと書くべきなのじゃ。

>>326 そうじゃ、そう言えるじゃろう。
 ちゃんと理解しているのじゃ。
 もともとアートマンも修業の為に作られた法であるからのう。
 お釈迦様もそれを正しく知ってアートマンの無を説いたのじゃ。
 お釈迦様こそただしくヴェーダを理解して衆生に説いたのじゃ。
 
>>327 上のレスを読んでみるのじゃ。
 賢い者にはちゃんと理解できるのじゃ。
 おぬしだけが理解できていないのじゃ。
 お釈迦様もヴェーダを正しく理解し、ヴェーダの言葉で法を説いたのじゃ。
 おぬしもここでちゃんと学ぶと善いのじゃ。

>>329 ありがたいことじゃ。
 わしの間違いを指摘してくれるというのじゃな。
 もしそれが正しければわしは喜んでそれを受け入れ、訂正するじゃろう。
 
 おぬしもそのようであって欲しいものじゃ。
 学者の本は役に立たないのじゃ。
 常に自分の眼で原典を読むのじゃ。
 原典にはしばしば学者の本と正反対のことが書いて在るのじゃ。
 実際に読んで確かめるのじゃ。

183避難民のマジレスさん:2024/12/24(火) 11:03:36 ID:RN6Ckvds0


「クリシュナよ、あなたが語られたことは、
全て真実であると、わたしは信じて疑わない。
神にせよ、魔にせよ、あなたのことを知らない。」

「真我を知っているのは、真我のみである。
あなたこそは、神の中の神、万神の神にして、
生きとし生ける者の父であり、至高の主である。」

「願わくは、この私に、あなたの聖なる力、
すべての世界に光り輝く、あなたの麗しい姿。
これらについて、詳らかに、解き明かし下さい。」

「いかに、あなたを思い、知ったら良いか。
どのように、あなたを想い、念じたら良いか。
ヨーガの主よ、どうか、私に、現わして下さい。」

「あなたの神秘について、聞けば聞くほど、
わたしは、飽きることなく、味わいたくなる。
クリシュナよ、どうか、私に、明かして下さい。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「いいだろう、我が信奉者、アルジュナよ。
それらについて、詳しく言えば、切りが無い。
それゆえ、主要なものだけを選び、君に語ろう。」

「私は、真我として、生き物の心臓に宿る。
万物の本初であり、中間であり、終末である。
マリーシやヴィシュヌであり、太陽や月である。」

「ヴェーダならば、サーマヴェーダであり、
神々ならばインドラ、山々ならばスメール山。
感覚ならば意識であり、生命ならば知力である。」

「バラモンならば、ブリハスパティであり、
夜叉ならばクベーラ、ルドラならシャンカラ。
供養ならば唱名であり、湖水ならば大海である。」

「ガンダルヴァならば、チトララタであり、
将軍ならばスカンダ、神仙ならばナーラダ仙。
聖仙ならブリグであり、達人ならカピラである。」

「馬ならば、ウッチャイシュラバーであり、
牛ならカーマデュク、象ならアイラーヴァタ。
竜ならアナンタであり、魚ならばマカラである。」

「征服者ならばカーラ、生殖ならばカーマ、
人類ならば王であり、祖先ならばアリヤマン。
獣類ならば獅子であり、鳥類ならガルダである。」

「戦士ならラーマ、悪魔ならばプララーダ、
武器ならばヴァジラ、水ならヴァルナである。
川ならガンジスであり、山ならヒマラヤである。」

「浄化なら雨であり、文字ならア字である。
創造の本初であり、中間であり、終末である。
学問ならば哲学であり、議論ならば合理である。」

「賛歌で言えば、ブリハト・サーマであり、
詩ではガヤトリー、音声ならばAUMである。
全て奪い去る死であり、全て生み出す生である。」

「暦月ならば、マールガシールシャであり、
季節ならば春であり、光輝ならば栄光である。
審判ならばヤマであり、詐欺ならば賭博である。」

「女性で言えば、名声、幸運、吉祥、記憶、
叡智、堅実、忍耐を揃えた、女性の中の女性。
ゆえに、勝利であり、決意であり、勇気である。」

「バーンダヴァならば、アルジュナであり、
聖者ならヴィヤーサ、思想家ならウシャナー。
統治者なら刑罰であり、政治家なら政策である。」

「ヴリシニなら、ヴァースデーヴァであり、
賢者なら智慧であり、存在ならば種子である。
真我がなければ、如何なる物も、存在し得ない。」


0361 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/22(土) 22:58:18.80
アートマンは心臓に宿り、種子は阿の字であり、オームの真言を唱えて観想するのじゃ。
正確に書けばアウムの真言じゃな。
全てはアートマンによって創造され、アートマンに収束されるのじゃ。
密教の阿字観にも通じる法なのじゃ。

184避難民のマジレスさん:2024/12/25(水) 10:14:07 ID:vpxkQqq.0
0369 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/23(日) 23:05:38.25
>>363 どういたしまして、またおいでなさい。

>>364 臨済宗の完全な敗北宣言じゃな。
 わしがそう言うと予測していたという事はおぬしはごまかしとはったりを書いて、わしに見抜かれて完全に論破されることもわかっていたということじゃな。
 このように旧弊を改められない臨済宗は真の如来であるわしによって論破され破滅したのじゃ。
 後は何を書いても負け犬の遠吠えに過ぎないのじゃ。
 今日も5ちゃんねるで真実の瞬間が現われたのじゃ。

>>365 そうじゃ、一息なのじゃ。
 最近はYOUTUBEにマントラの音声があげられていて無料で聞けたりするのじゃ。
 興味の在る者はマントラとかで検索して聞いてみると善いのじゃ。

>>367 それはクリシュナを深く信仰している者ならばそうしてよいのじゃ。
 そうでなければ何の効果もないのじゃ。
 クリシュナもアートマンの一つの化身にすぎないのであるからのう。
 静かな所にすわり、最初は胸に玉座とか蓮の座をイメージするのじゃ。
 その上に阿の字があるとイメージするのじゃ。
 クリシュナを信仰する者はそれがクリシュナになるとイメージしても善いのじゃ。
 万物が阿の字やクリシュナから生じ、還っていく様を観るのじゃ。
 更に自分の存在も胸の中心に帰り、認識さえも還って行くと観るのじゃ。
 途中に雑念が湧いても無であり、非であると念じて消していくのじゃ。
 恐れずに全てを投入すれば悟りにも近づいていくのじゃ。

185避難民のマジレスさん:2024/12/26(木) 11:03:44 ID:aRimTg3E0


「アルジュナよ、以上は、一部に過ぎない。
この世界に於いて、真我の私が映し出す姿は、
このように神聖であり、このように際限がない。」

「アルジュナよ、この世界に現われている、
高貴なものや、壮麗なものや、偉大なものは、
全て私が現した、一筋の閃光に過ぎないと知れ。」

「こうして、真我を分析して、何になろう。
すべてを総合した、わたしを悟るべきである。
すべての存在は、私から生じているに過ぎない。」


0368 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/23(日) 22:50:13.47
全ての存在はアートマンから生じているとクリシュナは語ったのじゃ。
それすらも全ての一部なのじゃ。
凡そ認識できる全てのものがアートマンから生じ、アートマンに回帰していくさまを観想するのじゃ。
認識するもの全てと心身の全てを心臓の奥のアートマンに投入すればアートマンの法は完成に近づいていくのじゃ。

186避難民のマジレスさん:2024/12/27(金) 09:59:28 ID:frZEiA4o0

0380 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/24(月) 21:22:09.65

十章ではアートマンの法の完全な実践法が示されたのじゃ。
胸の奥にアートマンを観るのがその方法なのじゃ。
阿の字をイメージしてオームのマントラを唱えるのじゃ。
認識する全てがアートマンから生じ、アートマンに帰っていくのを観るのじゃ。
認識するもの全てをアートマンに捧げ、認識できないものに到達するのじゃ。

187避難民のマジレスさん:2024/12/28(土) 10:07:51 ID:m1G5cECI0
(1/2)

<第十一章>

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「最も神秘的なもの、真我の問題について、
あなたが、懇切丁寧に、教えて下さったため、
今や完全に、私の迷妄は、悉く消え失せました。」

「クリシュナよ、蓮のような眼を持つ方よ。
万物の生成と消滅について、詳しく教えられ、
あなたの力と栄光が、無限であると知らされた。」

「至上者にして、大元霊である、至上神よ。
願わくは、あなたが、宇宙の現象の中に入り、
活動している、普遍的な様相を、見せて下さい。」

「ヨーガの支配神よ、もし、このわたしに、
彼方の宇宙的な形相を、見る資格があるなら、
どうか、あなたの宇宙の形相を、見せて下さい。」

クリシュナは、アルジュナに、このように解く。

「良いだろう、それでは、良く見るがよい。
神聖にして多様なる私の姿、アーディティヤ、
ヴァス、ルドラ、アシュヴィン、マルトの姿を。」

「いまに見たいもの、これから見たいもの。
見たいものは、何でも、私の中に、見とめよ。
すべてが私の中で、渾然一体であることを見よ。」

「アルジュナよ、肉眼で、真我は見えない。
だから、いまから、天眼を、君に授けるから、
天眼によって、我が荘厳なる、神秘の姿を見よ。」

すると、ヴィシュヌの化身、クリシュナは、
大宇宙の支配者であることを、十二分に示す、
脅威の姿を、アルジュナの前に、現して見せた。

188避難民のマジレスさん:2024/12/28(土) 10:09:02 ID:m1G5cECI0
(2/2)

それは、無数の口、無数の眼、無数の腕で、
清々しい衣服を着て、華々しい花環を付けた。
全ての方角に顔を持つ、無限なる神の姿だった。

あたかも、千の太陽が、同時に昇るように、
至上者の持つ普遍の光は、辺りに満ち溢れた。
アルジュナは、神の体内に、万物の活動を見た。

数え切れない宇宙が、動いているのを見て、
アルジュナの髪は逆立ち、驚嘆して合掌した。
そして、一心に、至上主を、礼拝したのである。

アルジュナは、クリシュナに、このように叫ぶ。

「あなたの体内に、あらゆる生物が見える。
聖仙も、竜王も、蓮華に座したブラフマーも。
遍満して辺際なく、本初もなければ終末もない。」

「天に昇る太陽か、いや、燃え上る火炎か、
十方に広がる光輝は、眼が暗むほど眩しいが、
それでも、至る所、白光を放つ、御姿が見える。」

「究極の真理の実在、宇宙の本源の帰依処。
あなたは、永遠なる法則の、守護者であって、
人類の記憶を遥に越えた、最古の支配者である。」

「その腕の力は無限、その両眼は太陽と月。
その口からは、光り輝く、火炎が燃え広がり、
その光輝により、全宇宙が、燃え上がっている。」

「あなたは、天と地の間に、充満している。
その畏るべき姿を見て、生きとし生けるもの、
いや、三界すべての存在が、悉く震撼している。」

「あらゆる神々は、あなたに吸い込まれる。
あなたに恐れ戦いて、祈りを奉げる神もいる。
聖者や覚者は、幸あれ、と、あなたを賛美する。」

「ルドラ、アディティヤ、ヴァス、マルト、
ガンダルヴァ、ヴィシュヴェ、アシュヴィン、
サーディヤ、ヤクシャ、アシュラ、シッダ達も。」

「数え切れない顔に、数え切れない腕や脚、
恐ろしい歯、怖ろしい眼、言語に絶する姿を、
一目も見れば、三界すべて、悉くが打ち震える。」

「すべての宇宙に遍満する、ヴィシュヌよ。
無数の口を大きく開き、爛々と眼は燃え盛る、
あなたの姿を見て、私の心は、恐怖に揺れ動く。」

「神々の支配者である、全宇宙の守護者よ。
どうか、わたしを哀れみ、慈悲を与え下さい。
恐怖で竦み上がり、どうすべきか、解からない。」

「敵も味方も、あなたの口に吸い込まれる。
あなたの凄まじい牙で、頭から噛み砕かれる。
悉く押し潰され、散り散りに消えるのが見える。」

「燃え上がる火炎に、蛾が飛び込むように、
国王も英雄も、あなたの口に飛び込んで行く。
何と怖ろしい光景を、あなたは現されたものだ。」

「ああ、あなたは、もとより、何者なのか。
万物の始祖たる至上者よ、あなたが見えない。
この私には、あなたの意思、あなたが解らない。」


0385 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/25(火) 23:30:21.70
ビシュヌはアートマンそのものの姿を見せたのじゃ。
創造神も聖者も全てがその中にあるのじゃ。
それは認識するもの全てが含まれるのじゃ。
自らは認識するが、認識されないアートマンの姿なのじゃ。
それは個人の認識からは正しい姿なのじゃ。

189避難民のマジレスさん:2024/12/29(日) 10:11:51 ID:8ZcQ3SQ60


クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「我は時なり、諸々の世界の支配者である。
私は、この世を滅ぼすため、この世に現れた。
おまえを除いて、すべての将兵は、滅ぼされる。」

「良いか、アルジュナよ、我が手足となれ。
時なる私は、すでに、彼らの死を定めている。
眼前の敵を征服し、王国の栄光を楽しむが良い。」

「ドローナ、ビーシュマ、ドゥルヨーダナ、
豪傑達の命は、すでに、私が奪い取っている。
ただ戦えば良い、汝らは滅びず、彼らが滅びる。」

このように、クリシュナの言葉を聞かされ、
アルジュナは、震えながら、何度も礼拝した。
そして、口ごもりながら、このように言上した。

「諸々の感覚の支配者たる、クリシュナよ。
あなたを見て、世界は喜んで、生類は信じる。
あなたを聞いて、阿修羅は逃げ、成就者は拝む。」

「ブラフマーよりも偉大な、万物の始祖よ。
あなたは、神々の支配者、世の帰依処であり、
不滅の太源、全ての因、有無を越えた者である。」

「あなたは、最初の人格にして最古の太祖。
すべてを知る存在であり、究極の目的である。
あなたの無限の変化で、この宇宙は満ちている。」

「あなたは、最初の生物にして最古の生命。
あなたは、風神ヴァーユ、月神シャシャンカ、
火神アグニ、水神ヴァルナ、死神ヤーマである。」

「わたしは、あなたを、十方から礼拝する。
あなたは、無限の能力と、無限の権能を持ち、
すべての宇宙に遍満し、すべてがあなたである。」

「あなたの、このような姿を知ることなく、
わたしは、あなたを、親友として接していた。
愛する余りの数々の非礼、どうかお許し下さい。」

「同じものを食べては、冗談を言い合って、
同じところに寝ては、一緒に寛ぎ合っていた。
親しい余りの数々の不敬、どうかお許し下さい。」

「あなたは、万物の父で、無上の師でした。
あなたと、同等な者も、同座できる者もない。
この三界において、あなたに勝る者などいない。」

「あなたは、万物の母で、至上の神でした。
あたかも、父が、我が子の失敗を許すように、
妻が夫の浮気を許すように、私を許して下さい。」

「ああ、千の手を有する、宇宙の支配者よ。
なにとぞ、以前の姿に、戻ってくれませんか。
歓喜と恐怖に占められて、私の心が悩み悶える。」


0387 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/26(水) 23:51:56.16
これはヴィシュヌ派の書であるからブラフマーさえもクリシュナの中にあると説かれるのじゃ。
ヴィシュヌに絶対の帰依を図る書なのじゃ。
全ての神もヴィシュヌの化身ということになるのじゃ。
真言宗では大日如来のようなものなのじゃ。

190避難民のマジレスさん:2024/12/30(月) 11:21:46 ID:MFX2e1ss0


クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「アルジュナよ、君に恩寵を与えるために、
ヨーガの力を用い、我が最高の姿を現わした。
今まで誰一人として、見た事が無い元始の姿を。」

「この姿は、何をしようと、見れはしない。
凄まじい姿を見て、君は、畏れてしまったが、
もう安心するが良い、直ぐ、元の姿に戻るから。」

クリシュナは、アルジュナに、こう言って、
以前の人間の姿に戻り、彼を慰めたのである。
人の姿に戻ったのを見て、彼は漸く落ち着いた。

「先の姿は、見たくても、見れないものだ。
苦行や供犠を修めて、慈善や祈祷を重ねても、
そうした手段では、真我の真実の姿は見えない。」

「ただ、わたしを、信愛することによって、
真我の真実の様相を、見とめることが出来る。
この方法を除いて、他には有り得ない、と知れ。」

「利己を離れ、空理を捨て、生類を愛する。
真我を信愛して、真我に奉仕し、目的とする。
アルジュナよ、彼は、必ずや、私に還って来る。」


0389 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/27(木) 22:04:43.40
本来の帰依は神仏に心身の全てを捧げる事なのじゃ。
そのようにしてこそ速やかにアートマンにも辿りつけるのじゃ。
なかなかそこまで行う者は居ないがのう。
むしろ献身の道こそ難しいのじゃ。

191避難民のマジレスさん:2024/12/31(火) 10:29:18 ID:J5BaIaDA0

<第十二章>


アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「あなたを愛して、礼拝している修行者と、
ブラフマンを愛して、礼拝している修行者は、
ヨーガにおいて、どちらが優れているのですか。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「信愛によって、真我を礼拝している者と、
知識によって、真理を探究している者とでは、
前者の方が、優れていると、真我の私は考える。」

「しかし、非人格的な、真理を礼拝する者、
感覚を抑制し、すべての生命を平等に見る者、
利他の為に働く者も、最終的に真我の元に来る。」

「目には見えない真理に、心を寄せる者は、
困難なる道を歩んでいると、わたしは考える。
肉体に覆われている者に、その道は甚だ険しい。」

「地に現れている真我に、心を寄せる者は、
すべてを、真我に供養して、真我を礼拝する。
真我は、速やかに彼らを、生と死から救い出す。」

「いつも、私を想い、全ての知性を委ねよ。
そうすれば、君は、私の中に住むことになる。
それができなければ、信愛のヨーガを実修せよ。」

「バクティは、信愛のヨーガのことである。
信愛が出来ないならば、奉仕に努めることだ。
私に献身することで、信愛の境地に至るだろう。」

「バクティは、奉仕のヨーガのことである。
奉仕が出来ないならば、放棄に務めることだ。
我を放棄することで、奉仕の境地に至るだろう。」

「ヨーガが出来ないならば、知性を究めよ。
知性より瞑想が優り、瞑想よりも放棄が勝る。
果報を放棄すれば、速やかに、心は平安になる。」


0394 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/28(金) 22:57:23.44
>>391 そうじゃ、一体化するのじゃ。
 自分を無くすのじゃ。
 難しいことでは在るがのう。

全てを捨ててアートマンと一体化するのが最上のヨーガなのじゃ。
それが出来なければ信愛によってアートマンを念じるのじゃ。
それが出来なければ奉仕、奉仕が出来なければ放棄をするのじゃ。
果報の放棄なのじゃ。
更に下に瞑想が有り、その下が知性なのじゃ。
知性によって悟りを求めようとするのは最低の部類に入るのじゃ。

192避難民のマジレスさん:2025/01/01(水) 10:55:52 ID:OGqvWs.20


「すべての生き物に対して、慈悲のある者、
幸福と不幸を平等に受け容れ、寛大である者、
足るを知っている者、こういう人を私は愛する。」

「誰にも迷惑を掛けず、他を干渉しない者、
誰からにも影響を受けず、他を強制しない者、
私心を捨て切った者、こういう人を私は愛する。」

「順境にも、逆境にも、心が動揺しない者、
全てに淡々と振る舞って、何も苦悩しない者、
見返りを求めない者、こういう人を私は愛する。」

「敵方や味方を問わず、他に平等である者、
名誉と侮辱に心が動かず、常に平静でいる者、
相対を越えている者、こういう人を私は愛する。」

「無益な交際を避けて、真我を信愛する者、
無益な言葉に捕らわれず、真我に奉仕する者、
バクティを修める者、こうした人を私は愛する。」

「住む場所に囚われず、究極の道を進む者、
断固とした決意を持って、不滅の道を歩む者、
真我を目的とする者、こうした人を私は愛する。」


0402 名無しを整える。 2018/09/29(土) 22:57:11.86
>>397 そうじゃ、物語に託してアートマンを説いたのじゃ。
 人は物語を好むからのう。

>>398 そうじゃ、知識だけでは悟りは訪れないのじゃ。
 お釈迦様も知識だけではいかんと言っているのじゃ。
 
 対象が無ければそうなるじゃろう。
 そもそも何を信じ、実践すればよいのかわからないからのう。
 対象があれば帰依もしやすいのじゃ。

>>399>>400>>401 そうじゃ、阿弥陀信仰などもそういえるじゃろう。
 しかし、最後には捨てなければいかんのであるがのう。
 それが難しいのじゃ。
 入り易く捨て難い、入易捨難といえるのじゃ。

 出家修業の道は入り難いが捨て易いのじゃ。
 厳しい生活ならば全て捨ててしまえと思うからのう。
 入難捨易といえるのじゃ。

193避難民のマジレスさん:2025/01/02(木) 10:18:50 ID:YnwHHbvI0

<第十三章>


クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「クンティーの息子である、アルジュナよ。
もう一度、君に、最高の知識を話しておこう。
古の聖者は、これを知って、完成の域に達した。」

「この知識を、体得することによってのみ、
あらゆる生命は、真我である、私と同化して、
物質宇宙の創造と破壊に、巻き込まれなくなる。」

「バラタ一族の子孫である、アルジュナよ。
プラクリティは、大ブラフマンとも呼ばれて、
わたしが、種子を蒔くと、生物が現われてくる。」

「クンティーの息子である、アルジュナよ。
私は、生命の種子を蒔く、すべての父であり、
同時に、生命を子宮に宿す、すべての母である。」

「プラクリティには、三つの性が存在する。
即ち、サットヴァ、ラジャス、タマスであり、
プラクリティに接触すると、霊魂が束縛される。」

「バラタ一族の勇者である、アルジュナよ。
サットヴァは、幸福を求める、善の性であり、
他より優れているが、他と同じく魂を束縛する。」

「クンティーの息子である、アルジュナよ。
ラジャスは、欲望を昂らせる、動の性であり、
際限なく、利益を求める行為に、魂を束縛する。」

「バラタ一族の子孫である、アルジュナよ。
タマスとは、迷妄に陥らせる、暗の性であり、
狂気や怠惰や多眠に塗れさせて、魂を束縛する。」

「タマスは、人々が怠惰に執着してしまい、
ラジャスでは、人々が利益に執着してしまい、
サットヴァでは、人々が幸福に執着してしまう。」

「サットヴァが、優勢になったかと思えば、
別の時には、ラジャスやタマスが優勢になる。
こうして、三つの性質は、互いに競合している。」

「アルジュナよ、善性が優勢になった時は、
両目、両耳、両鼻、口、肛門、生殖器、即ち、
肉体の九門が、智慧の光により輝くようになる。」

「アルジュナよ、動性が優勢になった時は、
激烈なる執着、利益を求める活動、焦燥の感、
激しい努力、昂ぶる欲望、飽くなき追求である。」

「アルジュナよ、暗性が優勢になった時は、
人は、暗愚になり、邪悪になり、物臭になり、
無気力、狂気、妄想などが、現れるようになる。」


0404 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/09/30(日) 21:24:58.73
ここからまたプラクリティの詳しい説明に入るのじゃ。
サットヴァ、ラジャス、タマスの三つの心の性質なのじゃ。
この三つの性質が時々にどれかが優勢になって心が変化するというのじゃ。

194避難民のマジレスさん:2025/01/03(金) 10:22:20 ID:/Knrh5t.0


「タマスで死ねば、無智に陥る家に生まれ、
ラジャスで死ぬなら、仕事を追う家に生まれ、
サットヴァで死ぬなら、信仰を培う家に生れる。」

「タマスで行えば、行うほど、愚昧になり、
ラジャスで行なえば、行うほど、苦痛になり、
サットヴァで行なえば、行うほど、善良になる。」

「タマスから、愚鈍や狂気が生まれて来て、
ラジャスからは、食欲や貪欲が生まれて来て、
サットヴァからは、真実や智慧が生まれて来る。」

「タマスで生きると、低い世界に転生して、
ラジャスで生きるなら、同じ世界に転生して、
サットヴァで生きるなら、高い世界に転生する。」

「すべての行為は、自分が行うのではなく、
これら、グナの働きに過ぎないと、知る者は、
三グナの働きを超越して、真我の元に辿り着く。」

「肉体を纏った者が、三グナを超越すれば、
生老病死の苦しみから、完全に解脱を果たし、
現象界にいる内から、至福の神酒を飲むだろう。」

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「グナを超越した人の、特徴とは何ですか。
彼は、どのように生活し、どのように行動し、
さらに、グナを、どのように超越するのですか。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「パンドゥ王の息子である、アルジュナよ。
サットヴァの光、ラジャスの欲、タマスの闇。
これらの、三つの性質に、中立を保ち続ける者。」

「真我に定住して、幸福と不幸を区別せず、
石と金を平等に見て、善悪の感情を起さない。
賞賛と非難や、名誉と恥辱に、心を動かさない。」

「友と敵を同じように見て、平等に扱う者、
物質を求める仕事には、全く手を出さない者、
以上のような人は、三グナを超越したと言える。」

「いかなる場合も、自我を放棄している者、
真我を信愛しながら、真我に奉仕している者、
以上の者は、速やかに、ブラフマンに到達する。」

「そして、私が、ブラフマンの住居である。
即ち、不滅の一元であり、永遠の法則であり、
相対の幸福と不幸を越えた、絶対の幸福である。」


0407 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/01(月) 22:50:35.13
>>405 そうじゃ、いかすのじゃ。
 昔のインドでは現代の哲学者の考えるようなことは既にみんな考え尽くされているのじゃ。
 唯心論も唯物論もみんなあるのじゃ。

 修業によって三つのグナを超越するのじゃ。
 三つのグナを超越した者はブラフマンに到達するというのじゃ。
 それそこそが時間にも制約されない永遠絶対の幸福なのじゃ。

195避難民のマジレスさん:2025/01/04(土) 11:07:27 ID:WFFUD4Ps0

<第十四章>


クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「根が上に枝が下に、葉がヴェーダの讃歌、
決して枯れない、菩提樹がある、と言われる。
この樹を知る者は、すべての、ヴェーダを知る。」

「無数の枝は、グナに養われる感覚の対象。
下に伸びる根は、利欲に培われる人間の名利。
この無数の根こそ、人の世界に縛る行為となる。」

「この世に住む者は、この枝の姿が見えず、
始まりも終わりも、根ざす所も分からないが、
無頓着の斧を持って、樹を切り倒すべきである。」

「それから、不退転の境地を求めるが良い。
そこから、全てが開始して、総てが展開する。
そこは、至上神に、すべてを任せる境地である。」

「名声を望むことなく、迷妄を出離した者、
欲による善と悪を越えて、真我に安住した者、
これらの者は、必ずや、不滅の境地に導かれる。」

「真我の住処は、日も月も火も必要がない。
自らが光り輝いて、ここを訪れた者は誰でも、
現象界に戻ろうとは、決して考えないのである。」

「生命に内在する魂は、真我の部分である。
魂は、眼耳鼻舌身意、六つの感覚を使用して、
苦労を重ねながら、肉体を操っている、と知れ。」

「あたかも、春の風が、香りを運ぶように、
魂は、自らの想いを、次の体に運ぶのである。
こうして、人は、体を乗り換え、生まれ変わる。」

「不滅の魂は、六つの識別の作用、つまり、
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を持ち、
それに応じた、生まれ方や、生き方をしている。」

「霊魂は、三つのグナに、支配されながら、
様々に経験して、時が来れば、肉体を離れる。
しかし、無智なる者には、この事実が見えない。」


(質問411=クリシュナの言う「魂」は、鬼和尚の言葉では何と表せますか?)
0412 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/02(火) 23:06:40.20
>>408 そうじゃ、知識は実践のためのものなのじゃ。
 実践できるだけの知識があれば善いのじゃ。

>>410 それは次の文につながるのじゃ。
 通常の人の樹は感覚を求めて枝が上で、名利を求めて根が下にいくのじゃ。
 それが逆であるから感覚を制御し、名利を求めぬ者が枯れぬ菩提樹に例えられるのじゃ。
 そしてヴェーダの賛歌を常に唱える修行者となるのじゃ。

>>411 そのようなものはないが、意識でも善いのじゃ。
 輪廻も意識の見る夢路であるからのう。

196避難民のマジレスさん:2025/01/05(日) 12:17:12 ID:NQXzuvII0


「自己の本性を悟るとき、この事実を知る。
しかし、未熟ゆえに、自覚できていない者は、
不滅の魂を見とめることが、出来ないのである。」

「すべての世界を照らす、太陽の光にせよ、
月の光にせよ、火の光にせよ、私の光である。
すべての輝きは、真我である私から発している。」

「天体は、真我の力で、天空を回っている。
真我の神酒は、大地の食物を養い育てている。
地の植物に、滋養が溢れる、甘露を与えている。」

「生物は、真我の力で、生命が宿っている。
呼気と吸気に合せながら、四種の食物、即ち、
飲む物、噛む物、舐める物、啜る物を消化する。」

「真我は、全ての人類の心臓に宿っていて、
彼らに、記憶と知識と忘却を与える役がある。
ヴェーダは、真我を知るため、真我に著される。」

「この宇宙には、必滅と不滅の二つがある。
物質の世界は、必滅なるが故に、無常であり、
霊魂の世界とは、不滅なるが故に、常住である。」

「この二つを超越して、至上者が存在する。
それは、不死不滅である、真我のことであり、
三界に入ってきて、すべてのものを支えている。」

「わたしのことを、真我であると知る者は、
迷いの無い者であり、すべてを知る者である。
彼らは、全霊を以って、真我を礼拝し奉仕する。」

「今、私は、最も神秘的な教えを明かした。
アルジュナよ、この秘儀を解する者は誰でも、
必ずや、智慧を得て、究極の目的を果すだろう。」


0414 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/03(水) 22:56:57.71
アートマンは人の世のみならず太陽や月や星の光さえも自身から発しているというのじゃ。
全ての植物や生命さえもアートマンによってあるという。
人の心臓に宿り、不生不滅のものなのじゃ。
全霊をもって礼拝すればアートマンに達することもできるというのじゃ。

197避難民のマジレスさん:2025/01/06(月) 10:22:50 ID:zsM5dTCg0

<第十五章>


クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「無畏、善性の増大、智慧のヨーガ、布施、
節制、祭祀、ヴェーダの学習、非暴力、廉直、
不瞋恚、苦行、正直、離欲、生類に対する慈悲。」

「小言を言わないこと、欠点を探さぬこと、
平静、威光、寛容、堅固、清潔、柔和、謙虚、
アルジュナよ、以上は、神性に属すものである。」

「口が煩いこと、他の人の欠点を探すこと、
思い上がり、尊大、高慢、憤怒、粗暴、無知。
アルジュナよ、以上は、魔性に属すものである。」

「アルジュナよ、君は、神性を持っている。
神性は、天人の性質であり、人を解脱に導き、
魔性とは、修羅の性質であり、人を束縛に誘う。」

「世の創造物に、神性と魔性の二つがある。
既に、神性について、君に説明しているから、
今度は、魔性について、君に解説するとしよう。」

「魔性の者には、勧戒と禁戒の分別がない。
礼儀も弁えないし、清らかさの欠けらもない。
彼らは、不誠実であり、誰もが、不正直である。」

「魔性の者は、得てして、このように言う。
世界は幻影であり、因も無いし、神も居ない。
すべては、性欲により、生じているに過ぎない。」

「このように考えるため、彼らは自ずから、
知性を失い、無智に覆われ、堕落を免れない。
残酷な行為を喜んで、世界を破滅に導いていく。」

「欲は飽きを知らず、独善に嵌り慢に陥る。
迷妄なるがゆえに、誤まった見解に囚われて、
不浄なる信念を抱き、邪まなる行動に捕われる。」

「欲望を満たすことが、進化に必要である。
魔性の者は、このように考え、死に至るまで、
欲望の享受に没頭して、焦燥感に苦しめられる。」

「数え切れない、欲望の網に捕らえられて、
情欲と瞋恚に心身を委ね、快楽を求めるため、
彼らは、不法な手段で、富を蓄積しようとする。」

「魔性の者は、無智のために、妄想してしまう。」


0416 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/04(木) 22:36:25.02
自ら破滅を招く愚かな者の性質を明らかにするのじゃ。
不誠実で不正直の者には悟りの道を行く資質すらないのじゃ。
貪欲を正しいものと肯定し、自ら苦を作り出すのじゃ。
無知の為に不正に富を求め、破滅を招くのじゃ。

198避難民のマジレスさん:2025/01/07(火) 09:51:52 ID:IGlnTIyU0


“私は、財産を、増やさなければならない。
私は、現在、これしか、財産を持っていない。
しかし、将来、これより、財産を持てるはずだ”

“私は、宿敵を、減らさなければならない。
邪魔者は消せ、わたしだけが、主人公である。
成功者であって、有力者であり、資産家である”

“私は、血統を、誇こらなければならない。
高貴な血筋の縁者に囲まれ、私は幸福である。
祭祀を行ない、慈善を行なう、我が喜びである”

「アルジュナよ、心配と焦燥に囚らわれて、
幻影の呪縛に、捕えられてしまった者たちは、
欲望の満足に執着し、地獄の底まで落ちていく。」

「彼らは、独善的であり、無遠慮であって、
いつも、売名の目的で、偽善を誇らしくする。
規則に従わず、無礼に振る舞って、頑固である。」

「魔性の者は、非常に、利己的であるため、
権力欲と自尊心に囚われ、情欲と瞋恚に耽る。
彼ら自身の中に住まう、真我を軽蔑しさえする。」

「彼らは、嫉妬心や羨望心が、極めて強く、
他に害を加える事を、喜んで良しとするため、
繰り返し繰り返し、修羅の胎内に投げ込まれる。」

「修羅に転生する者は、真我に近づけない。
生まれ変わるごとに、悪趣の世界に沈み込み、
最終的には、最も忌わしい存在に生まれ変わる。」

「地獄に至る原因に、三種類の欲望がある。
その三つの欲とは、肉欲と憤怒と食欲である。
魂を堕落させる、この三つの欲望を切り捨てよ。」

「これらの、三つの悪しき門を避けた者は、
真我の実現に、相応しい道を歩むことが出来、
次第に向上して、必ずや、究極の目的を達する。」

「アルジュナよ、聖典が示す道を軽視して、
欲望のまま行動する者は、生命の完成を損い、
絶対の幸福が得られず、至高の目的に至らない。」

「アルジュナよ、聖典が示す教えに拠って、
行うべきを為して、為さないべきを行なうな。
それを知り、それを守り、向上の道を突き進め。」


(質問417= 誠実で正直であることを、諦めてはいけないのでありますね。 )
0420 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/05(金) 23:30:44.04
>>417 そうじゃ、それが悟りを求める者に必要なのじゃ。
 全ての者にも必要なのじゃ。

 魔性の者も敵を倒せとか思うのじゃ。
 それは利己のためであり、利益という結果を望んで行うのじゃ。
 結果を望まないカルマヨーガとは違うのじゃ。

199避難民のマジレスさん:2025/01/08(水) 09:57:51 ID:1mJ0yZMo0

<第十六章>
 

アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「以下のものについて、私に教えて下さい。
すなわち、プルシャとプラクリティについて、
活動と活動の実感、知識と知識の対象について。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「我々の身体こそが、活動する主体であり、
身体を統御する精神が、実感する主体である。
そして、真我こそが、一切を認識する者である。」

「真の知識とは、この関係を理解すること。
アルジュナよ、では、認識する者とは、何か。
如何に解釈して、知識とするのか、聞きなさい。」

「この知識について、古来から聖者たちは、
賛歌や格言の形で、様々に表現を為している。
取り分け、ブラフマ・スートラに、明瞭である。」

「地水火風空、個我、仏性、プラクリティ、
意識、十門、五感、欲望、憎悪、喜楽、悲苦、
意志力、肉体、知力、以上により、解釈される。」

「アルジュナよ、慢心や虚栄を捨てること。
欲望の対象から心を離し、我執を無くすこと。
非暴力、寛容、正直、奉仕、清浄、決意、自制。」

「生老病死を苦と見て、本質を究めること。
あらゆる執着を捨て去り、愛着を越えること。
好きなこと、嫌いなことを、平等に捉えること。」

「至上者に対する信仰、世俗を離れること。
無益な交際を避けて、悟る意義を認めること。
以上が智慧であり、これに反すれば無智である。」


0422 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/06(土) 22:51:45.85
悟りに必要な真の知識とは肉体と精神とアートマンの関係を理解することなのじゃ。
肉体が活動の主体であり、精神が実感の主体であり、アートマンが認識の主体なのじゃ。
それを知るには地水火風空の五大から、心身全ての観察に拠るしかないのじゃ。
その実践を助けるためにさまざまな禁戒と勤戒もあるのじゃ。

200避難民のマジレスさん:2025/01/09(木) 10:21:35 ID:D5RnE4420


「永遠の生命を得るため、知るべきことを、
アルジュナよ、今から君に、説明しておこう。
ブラフマンは無始であり、有無を超越している。」

「至る所、彼の手や足や目や頭や顔があり、
至る所に彼の耳があり、すべての音を聞いて、
すべてを覆い尽して、彼は時空に充満している。」

「彼は、すべての感覚機能を具えているが、
彼自身は、すべての感覚器官を持っていない。
彼は、グナを楽しみながら、グナを越えている。」

「彼は、万物の内にも、万物の外にも在り、
動であり不動であり、遥かに遠く極めて近い。
その精妙なること、とても、肉眼では見えない。」

「個々に、分かれているように、見えるが、
決して、分かれることなく、常に同一である。
創造者にして、維持者であり、破壊者でもある。」

「彼は、光輝の中の光輝、光の源泉であり、
グナの明暗を超越した所で、光り輝いている。
彼は、知識の目的であり、すべての中心に住む。」

「以上のものが、活動と知識の説明である。
以上のことを解する、私の熱心な信者だけが、
真我である私の浄土に、来ることが出来るのだ。」


0425 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/07(日) 23:01:01.25
ブラフマンの説明なのじゃ。
ブラフマンは一切でありながら、一切をも超越している観念の彼方に在るものじゃ。
全てである意識と同じであると理解してよいのじゃ。
知識として理解できるものではないが、悟ればそれが認識されるのじゃ。

201避難民のマジレスさん:2025/01/10(金) 11:32:42 ID:ayUeggfg0


「プルシャとプラクリティは、無始であり、
変化作用のヴィカーラーと、属性の三グナは、
どちらも、物質源である、プラクリティである。」

「プルシャは、精神源であり、経験の主体。
プラクリティは、物質源であり、現象の因果。
全ての物理現象は、プラクリティが源泉である。」

「プルシャが、プラクリティである三グナ、
三つの属性に干渉され、物質世界が誕生する。
トリグナの干渉の仕方で、善悪二元が出現する。」

「一方で、体の中に、至上霊が宿っている。
それは、パラマートマー、至上我と呼ばれて、
全ての活動を経験して、全ての体験を監督する。」

「プルシャとプラクリティの、相互の関係、
あるいは、三グナの相互の作用を解する者は、
たとえ、どの環境に居ても、地上に再生しない。」

「これを、人は、瞑想や哲学や奉仕で悟る。
或いは、他の人から聞いて、私を拝み始める。
こうした人々も、生死の鎖から解放されるのだ。」

「バラタ一族の勇者である、アルジュナよ。
動く者も、動かない者も、すべての生き物は、
肉体と霊魂、対象と認識者の結合であると知れ。」

「すべての生命には、至上主が等しく宿る。
必滅の中に、この不滅のものを見とめる者は、
真に存在の実相を見ていると、言えるのである。」

「あらゆる場所や、また、あらゆる生命に、
至上主の存在を、等しく見とめている者達は、
自分を傷つけることなく、至高の境地に達する。」

「プラクリティが、カルマを作るのであり、
アートマンは、無関係であると見とめる者は、
真に存在の実相を見ていると、言えるのである。」

「クンティーの息子である、アルジュナよ。
アートマンは不滅であり、物質を越えている。
それは、肉体に宿るが、決して影響を受けない。」

「バラタ一族の子孫である、アルジュナよ。
あたかも、太陽が、世界を照らし出すように、
霊魂は、肉体の中で、意識を照らし出している。」

「智慧の芽を開き、霊魂と肉体を見る者は、
プラクリティの鎖を、断ち切る法を見とめる。
彼らは、速やかに、至上の目的に達するだろう。」


0427 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/08(月) 22:51:01.89
プルシャとプラクリティ、パラマートマーの説明なのじゃ。
プルシャは精神の原理であり、経験の主体、
プラクリティは物理現象の源なのじゃ。
三つのグナはプラクリティに属してプルシャに働きかけるのじゃ。
そして物理世界の認識が起こるのじゃ。
パラマートマーはそれらの上で経験の監督をするというのじゃ。
この言葉通りに全てが在るのではないのじゃ。
あらゆる観念が主体無く起こることを認識できればよいのじゃ。

202避難民のマジレスさん:2025/01/11(土) 10:12:06 ID:EQeedK360
(1/2)

<第十七章>


アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「クリシュナよ、聖典の教えには従がわず、
独特の信仰により、神々を礼拝する修行者は、
サットヴァ、タマス、ラジャス、どれに属すか。」

クリシュナは、アルジュナに、このように説く。

「肉体を有する者には、三つの信仰がある。
それは、生まれながらの、三グナで決定する。
これから、それぞれについて、君に説明しよう。」

「生まれつきの性格で、異なる信仰を持つ。
信仰とは、その人の性質を表わすものであり、
その実、信仰の本体は、その人自身の姿である。」

「タマスが優位な人は、幽鬼を信仰し易く、
ラジャスが優位な人々は、魔神を信仰し易く、
サットヴァが優位な人々は、善神を信仰し易い。」

「聖典に従うことなく、禁欲を行なう者は、
その実、虚栄心のために、苦行を為しており、
すればするほど、欲望と執着の虜になっていく。」

「プラクリティである、三つのグナにより、
人々が好む食物について、三つの種類がある。
供養、修行、布施について、同じことが言える。」

「サットヴァの人が愛する、食物とは何か。
水分や脂肪が豊富であり、生命力を増進して、
体を浄化して、力と健康と幸福と歓喜を与える。」

「ラジャスの人々が愛する、食物とは何か。
苦味や酸味や塩味が強く、熱くて乾いていて、
刺激性が高いばかりに、心身の病の原因となる。」

「タマスの人が愛している、食物とは何か。
新鮮でない、悪臭がある、不味いものであり、
食べ残しなど、食べてはいけない不浄物である。」

「サットヴァの人が愛する、供養とは何か。
聖典の指示に従がって、果報を望むことなく、
ひたすら、真我を愛して、供養に専心している。」

「ラジャスの人々が愛する、供養とは何か。
聖典の指示に従わず、現世の利益を得るため、
虚栄のため、名声のため、供養に専心している。」

「タマスの人が愛している、供養とは何か。
聖典の指示に従わず、信仰心が伴うことなく、
真言も唱えず、食物も供えず、供養を軽蔑する。」

「サットヴァの人が愛する、修行とは何か。
清らかな信仰心を持ち、果報を望むことなく、
身と口と意に於ける、三種の修行を修めている。」

203避難民のマジレスさん:2025/01/11(土) 10:13:24 ID:EQeedK360
(2/2)

「ここで、身の修行とは、如何なるものか。
神々を礼拝し、先達を尊敬し、師匠に仕える。
清潔、正直、節制、非暴力、以上に努めること。」

「ここで、口の修行とは、如何なるものか。
悪口を言わないこと、ヴェーダを唱えること、
優しい言葉を語ること、有益な言葉を語ること。」

「ここで、意の修行とは、如何なるものか。
自己を抑制して、心身の浄化に精進すること。
実直であり、率直であり、心が穏かであること。」

「ラジャスの人々が愛する、修行とは何か。
尊敬を受けるために、名誉を得るためにして、
不安定で長続きしない、苦行に励むことである。」

「タマスの人が愛している、修行とは何か。
自分を傷つけるため、他人を傷つけてしまい、
自他のためにならない、無智に励むことである。」

「サットヴァの人が愛する、布施とは何か。
適正な時に、適切な所で、適当な人に対して、
果報を求めることなく、布施を喜ぶことである。」

「ラジャスの人々が愛する、布施とは何か。
果報が有ると歓喜し、果報が無いと後悔する。
果報を求めるあまりに、功徳を損うことである。」

「タマスの人が愛している、布施とは何か。
不適な時に、不適な所で、不正な人に対して、
敬意を供えることなく、無礼を施すことである。」

「創造の元始より此の方、三つの聖なる言、
オーム・タット・サットは、至上者を示した。
僧侶は、いつも、礼拝の時に、この語を唱えた。」

「それゆえ、ブラフマンを知っている者は、
礼拝や布施や修行をする時に、聖典に従がい、
必ず、はじめに、聖音オームを唱えるのである。」

「あるいは、この世界から解脱を願う者は、
現象界に結び付ける、果報を求めることなく、
いつも、心から、聖音タットを唱えるのである。」

「聖音サットは、実在や善行の意味であり、
礼拝や布施や修行による、最高の境地であり、
それらを、すべて、至上者に奉げることである。」

「アルジュナよ、たとえ、信仰のない者が、
礼拝や布施や修行をしても、徒労に過ぎない。
それはアサットと呼ばれ、図らずも無益である。」


0438 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/11(木) 00:06:46.50
更に三つのグナについて解説しているのじゃ。
身口意の修業が説かれるのじゃ。
  いずれもサットヴァによるものこそ真の実践であり、悟りに導くものであるというのじゃ。
そして真言とそれを唱える実践が信仰による礼拝でなければ意味が無いと説くのじゃ。

>>433 ご苦労さんなのじゃ。

>>434 どういたしまして、またおいでなさい。

204避難民のマジレスさん:2025/01/12(日) 10:38:08 ID:OBpelI1o0

<第十八章>


アルジュナは、クリシュナに、このように問う。

「無限の力を持たれている、クリシュナよ。
離欲とは何か、出家とは何か、教えて下さい。
ケーシ鬼を、打ち滅ぼされた神、ヴィシュヌよ。」

クリシュナは、アルジュナに、このように語る。

「アルジュナよ、賢者は、このように見る。
離欲は、行為の果報を、望まないことであり、
出家とは、果報の行為を、行わないことである。」

「アルジュナよ、学者は、このように言う。
全ての行為を止めなさいと、言う者が居れば、
布施と供養だけ続けなさいと、言う者も居よう。」

「バラタ王家の勇者である、アルジュナよ。
ここで、離欲について、わたしの見解を聞け。
聖典には、離欲に三種があると、説かれている。」

「供養と布施と修行に関する、三つの行い。
これらはの行為は、決して止めてはいけない。
それを行う者を、浄らかに変える、からである。」

「しかし、たとえ、この行為を行なう時も、
果報を求めることなく、義務と考えることだ。
アルジュナよ、これこそ、わたしの見解である。」

「ラジャスの人々が愛する、離欲とは何か。
行なうべきことが苦しく、苦しい故に離れて、
怠ける故に疎かになり、成長しないことである。」

「タマスの人が愛している、離欲とは何か。
自分に与えられた義務を、遂行することなく、
ひたすら、為すべきことを、避けることである。」

「サットヴァの人が愛する、離欲とは何か。
名誉や利得に関心がなく、願望することなく、
ひたすら、為すべきことを、行なうことである。」

「アルジュナよ、サットヴァの離欲者とは、
不運な仕事を嫌わず、幸運な仕事に囚われず、
為すべきことを行なう、信念を有する者である。」

「肉体を持っている人にとって、実際的に、
あらゆる行為を捨てることは、不可能であり、
行為の果報を求めない者が、真の離欲者である。」

「離欲しないと、死後に生前の業が現れる。
楽や苦や不苦不楽、三つの果報が現れ始める。
しかし、離欲すれば、これらの果報は現れない。」


0440 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/11(木) 22:39:53.98
この章でカルマヨーガの真髄が解説されるのじゃ。
離欲が果報をもとめないということなのじゃ。
供養と布施と修業の三つに関しても果報を求めずに行うのじゃ。
離欲もまたサットヴァの性質によって為されるべきなのじゃ。
「不運な仕事を嫌わず、幸運な仕事に囚われず、
為すべきことを行なう、信念を有する者である。」
と、クリシュナはその真髄を語るのじゃ。

205避難民のマジレスさん:2025/01/13(月) 09:22:24 ID:KgTlPXW60


「アルジュナよ、行為を全て完成するには、
五つの因があると、奥義書では説かれている。
これから、これについて、わたしの言葉を聞け。」

「行為の場である体、行為の主である自我、
器官があること、運動すること、宇宙の意思。
これら五つのものが、行為の要因であると知れ。」

「身口意において、善い行為をするにせよ。
身口意において、善からぬ行為をするにせよ。
どちらも、これら五つのものが行為の因となる。」

「それゆえ、行為するのは自分だと考えて、
この五つの要因に、考えが及ばない愚か者は、
意識の深層、宇宙の真相を見ることが出来ない。」

「自らの欲のために、行為していない者は、
たとえ、多くの人を殺し、悪い業を積んでも、
悪しきカルマの報いに、苦しめられる事がない。」

「知る事、知る物、知る者が、行為の原因。
行なう感官、行う事、行う者が、行為の条件。
これらが揃い、行為という結果が、現れて来る。」

「プラクリティである、三つのグナにより、
人々が好む知識について、三つの種類がある。
知識、行為、主体について、同じことが言える。」

「サットヴァの人が愛する、知識とは何か。
すべての存在に、真我が実在することを知り、
無数の異なる姿に、分かれたと知ることである。」

「ラジャスの人々が愛する、知識とは何か。
分かれているものは、違うものと考えるため、
実は同じものであると、見とめないことである。」

「タマスの人が愛している、知識とは何か。
部分を捉えるだけで、全体と捕えているため、
確かめることなく、盲目的に信じることである。」

「サットヴァの人が愛する、行為とは何か。
囚われることもなければ、避けることもなく、
果報を求めることなく、義務を果すことである。」

「ラジャスの人々が愛する、行為とは何か。
自我に囚われているため、欲望が大きくなり、
欲望を満たすためなら、苦労を喜ぶことである。」

「タマスの人が愛している、行為とは何か。
将来のためにならず、他人のためにもならず、
聖典を修めることなく、迷妄に陥ることである。」

「サットヴァの人が愛する、主体とは何か。
成功に囚われることなく、失敗に捕われない。
私欲を捨てているのに、熱心に行なう者である。」

「ラジャスの人々が愛する、主体とは何か。
成功に囚われているため、失敗に捕らわれる。
熱望と絶望の間を、飽きずに行き交う者である。」

「タマスの人が愛している、主体とは何か。
無智に覆われているため、分別が侭ならない。
高慢と卑屈の間を、懲りずに繰り返す者である。」


0442 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/12(金) 22:44:25.51
行為についての解説と、知識と行為と主体について三グナとの関わりが解説されるのじゃ。
ここでもやはりサットヴァによる実践が推奨されるのじゃ。
なかなか難しいことではあるがのう。
知識も行為も主体もサットヴァを優位に進めるのじゃ。

206避難民のマジレスさん:2025/01/14(火) 13:46:53 ID:mKnMNKzc0


「プラクリティである、三つのグナにより、
人々が好む知性について、三つの種類がある。
知性、決意、幸福について、同じことが言える。」

「サットヴァの人が愛する、知性とは何か。
束縛するものと解放するもの、活動と非活動、
勧戒と禁戒、美徳と不徳を分別するものである。」

「ラジャスの人々が愛する、知性とは何か。
束縛するものと解放するもの、活動と非活動、
勧戒と禁戒、美徳と不徳を分別しない事である。」

「タマスの人が愛している、知性とは何か。
束縛するものと解放するもの、活動と非活動、
勧戒と禁戒、美徳と不徳を取り違える事である。」

「サットヴァの人が愛する、決意とは何か。
ヨーガの修行することで、精神が不動となり、
マナスとプラーナと感覚を、支配する事である。」

「ラジャスの人々が愛する、決意とは何か。
世間に於いても、修行に於いても、ひたすら、
名誉と利欲を得ようと、努力し続ける事である。」

「タマスの人が愛している、決意とは何か。
恐れること、嘆くこと、悲しむこと、愚かさ、
これらを愛して、抜け出そうとしない事である。」

「サットヴァの人が愛する、幸福とは何か。
始めは毒薬のようで、後で甘露のようになる。
覚醒の道を進むことで、清純に至ることである。」

「ラジャスの人々が愛する、幸福とは何か。
始めは甘露のようで、後で毒薬のようになる。
感覚の味を得ることで、錯覚を喜ぶことである。」

「タマスの人が愛している、幸福とは何か。
始めが幻想のようで、後も妄想のようである。
真我を覆い隠すことで、幻影を見ることである。」


0444 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/13(土) 22:57:16.98
次は知性、決意、幸福と三つのグナとの関わりなのじゃ。
これもまたサットヴァによるものを至高とするのじゃ。
それはただの知識ではなく、実践のための教えなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

207避難民のマジレスさん:2025/01/15(水) 10:34:12 ID:.Dqrf1rc0


「悪人を懲罰する者である、アルジュナよ。
地上の世界に於いても、天上の世界に於ても、
プラクリティのグナから、解脱した者は居ない。」

「僧侶のバラモン、武人たるクシャトリア、
平民であるヴァイシャ、奴隷であるスードラ、
生まれつきのグナにより、義務が決まっている。」

「忍耐できる、自制すること、修行、純潔、
平静であること、信仰すること、智慧、正直。
アルジュナよ、これらは、僧侶のカルマである。」

「決断できる、支配すること、武勇、知謀、
寛大であること、指導すること、勇敢、戦闘。
アルジュナよ、これらは、武人のカルマである。」

「バラタ王家の子孫である、アルジュナよ。
農耕や、牧畜、商売は、平民のカルマであり、
強制的な、労働、使役は、奴隷のカルマである。」

「自分に与えられた、天命を果たしながら、
すべての生き物は、いずれ完成の境地に至る。
それには、どうすればよいか、良く聴きなさい。」

「自分に与えられた、義務を果たしながら、
あらゆる所に遍在する、真我を礼拝する者は、
善人であれ、悪人であれ、究極の完成に達する。」

「自分のカルマを、完全に果たせなくても、
他人のカルマを、完全に果たせるよりもよい。
与えられたカルマを遂げる者は、罪を犯さない。」

「さながら、火には煙が付いて回るように、
たとえ、自らの義務に障害が付いて回ろうと、
アルジュナよ、決して天命を諦めてはならない。」

「何事にも執着しない、鋭い知性を持って、
自我を克服しながら、何事も切望しない者は、
すべてのカルマを超越して、完成の境地に至る。」


0446 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/14(日) 21:57:04.70
当時の信仰によるカーストの解説なのじゃ。
生まれによる職の違いは決まっているというのじゃ。
その中で義務を果たすことが究極の完成に近づくことであるというのじゃ。
それはお釈迦様の言うとおり、間違いで在るがのう。
自ら定めた義務を果たすことが大事なのじゃ。

208避難民のマジレスさん:2025/01/16(木) 09:45:53 ID:5snAlu560


「クンティーの息子である、アルジュナよ。
どのように、この完成の境地に到達するのか。
ブラフマンに到達するのか、話して聞かせよう。」

「静かな所に住んで、多くの物を食べない。
身口意を統御して、世事に囚われることなく、
ヨーガを修める事に、ひたすら、専念し続ける。」

「権力、物欲、名誉、情欲、瞋恚を捨てて、
自我を所有することなく、常に平静である者。
彼は、ブラフマンと合一し、完成の境地に至る。」

「この地に達した者は、絶対の歓喜に浸り、
憂いもなく、望みもなく、全てを平等に見る。
そして、真我に対して、純粋なる信愛を奉げる。」

「人は、信仰と慈愛に通じることによって、
真我である、わたしの実相を知るようになり、
彼は、直ちに、わたしの浄土に入るようになる。」

「たとえ、如何なるカルマを果していても、
私を信愛して、奉仕する者は、私に守護され、
私の祝福により、永遠の楽土に、至るのである。」

「いつでも、真我を思って、活動を行ない、
全ての活動を、真我の保護の下で行うがよい。
心から真我を信愛して、心を真我に集中させよ。」

「真我に奉仕すれば、真我の守護によって、
必ずや、すべての障害が取り除かれるだろう。
真我に仕えず、自我に疲れる者は、必ず滅びる。」

「たとえ、私に逆らい、君が戦わなくても、
クシャトリアとして、武人の義務がある限り、
君は、カルマによって、戦うことになるだろう。」

「バラタ王家の子孫である、アルジュナよ。
君は情に流されるばかり、私の命を逆らうが、
必ず、カルマによって、従うことになるだろう。」

「真我は、人の胸に宿り、彼らを指揮する。
アルジュナよ、真我に対して、絶対服従せよ。
そうすれば、真我に導かれ、永遠の浄土に至る。」


0448 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/15(月) 22:54:04.44
まとめとしてブラフマンへの道が説かれるのじゃ。
感覚を制して食事を節しただひたすらアートマンを求めるのじゃ。
アートマンに全てを捧げて奉仕する者がブラフマンに到達して永遠の歓喜に入るのじゃ。
更には義務を果たすことも説かれるのじゃ。

209避難民のマジレスさん:2025/01/17(金) 09:25:05 ID:L59cJgfc0


「最後に、君に、秘儀の中の秘儀を語ろう。
アルジュナよ、このことを充分に考えてから、
戦うにせよ、逃げるにせよ、君が望む通り行え。」

「アルジュナよ、君は、最愛の友人だから、
今から君に、無上の真理を話して聞かせよう。
この真の理は、真の利になるから、良く考えよ。」

「あらゆる宗教を退け、わたしに服従せよ。
わたしが、すべての悪業から、君を救い出す。
恐れることは何もない、ひたすら、私を畏れよ。」

「わたしを信じない者、わたしに逆らう者、
禁欲しない者、修行しない者、学習しない者、
これらの者には、この秘儀を解いてはならない。」

「わたしを見とめる者、わたしに従がう者、
禁欲をする者、修行をする者、学習をする者、
これらの者だけに、この秘儀を説くことである。」

「こうして、この秘密の教えを説くことは、
真我に対して、無上の奉仕をしたことになる。
こうした奉仕者は、私が愛して、私の元に来る。」

「アルジュナよ、私は、ここに、宣言する。
この我々の対話を学ぶ者は、その知性により、
必ず、私を信愛して、私を礼拝するようになる。」

「また、疑うことなく、信じて確める者も、
諸々の悪業から解脱して、吉祥の世界に至る。
さあ、アルジュナよ、汝の迷妄は取り払えたか。」

アルジュナは、クリシュナに、このように叫ぶ。

「ああ、クリシュナよ、貴方の慈悲により、
我が迷妄は消え去り、私は真知を取り戻した。
私の信念は揺るぎ無い、私は貴方に付き従がう。」

すべてを見ていた、サンジャヤは、王に言った。

「奥義の内容に、私の頭髪は逆立っている。
わたしは、神仙に与えられた、天眼通により、
この神聖なる対話に、巡り会えることが出来た。」

「王よ、クリシュナが示した、普遍の真相、
あの言語に絶する、偉大な形相を思い出すと、
何度でも驚嘆し、私は歓喜に満ち溢れてしまう。」

「ヨーガの支配者、クリシュナが立つ陣営、
弓の名手である、アルジュナが居る敵陣こそ、
勝利と繁栄が存在すると、そう、私は確信する。」


(終)

0450 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/16(火) 23:40:20.68
クリシュナはここに至って秘儀を説くというのじゃ。
それは他の宗教を全て退け、わたしだけを信じることであるというのじゃ。
それが秘儀であり、信じて確かめるものも救われるというのじゃ。
このことから全ての教えはヴィシュヌに対する信仰から来ているということが出来るのじゃ。

210避難民のマジレスさん:2025/01/18(土) 10:18:28 ID:ZJtWG4pk0
(452:バガヴァッド・ギーターの総評をお願いします)
0455 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/10/17(水) 22:31:58.98
>>451 ご苦労さんなのじゃ。

>>452 バガヴァッド・ギーターは総じてカルマヨーガによるアートマンの法を説いているものじゃ。
 果報を期待する事無く実践するカルマヨーガによって、アートマンの法も実現するというのじゃ。
 その根底にはヴィシュヌ神への信仰が不可欠なのじゃ。
 信仰によって人間には困難なカルマヨーガによる義務の遂行が為され、アートマンの法も成就するのじゃ。

 そのアートマンの法の実際的なやり方をも説いているのじゃ。
 適切な座を選んですわり、胸に種字の阿字をイメージし、真言を唱えて集中するのじゃ。
 全てが胸のアートマンから作られ、アートマンに還っていくことをイメージするのじゃ。
 認識できないものにまで達すればアートマンの法は完成したといえるのじゃ。

 その法のための自らの義務の遂行や三グナのサットヴァによる日々の精進にも言及しておるのじゃ。
 誰にでもできるという法ではないが、実践すればためになるものじゃ。
 実践によってその効果も確かめるのじゃ。

211避難民のマジレスさん:2025/01/19(日) 10:43:37 ID:QFMRtrbU0
<解説・ブラフマンの法>

http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-176.html

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解説・ブラフマンの法

投稿日:2018-07-02 Mon


  ブラフマンの法とは元はヴェーダに記載されていた法なのじゃ。
 肉体をどこまでも広がっていくイメージをすることで、意識を拡大していくのじゃ。
 そのようにイメージすると実際に拡大された空間に自らの意識を感じることができるのじゃ。

 集中の行を実践していると意識が際限なく広がる識無辺処定に入るが、その境地を直接に目指すのがこの法なのじゃ。
 密教に伝えられている法と同じなのじゃ。
 ヴェーダによって伝えられているのは、体が広がるイメージなのじゃ。

 集中して座っている自分の体がどんどん大きくなっていくとイメージするのじゃ。
 体が部屋一杯に広がり、更に広がっていくのじゃ。
 部屋からもはみ出していって、どんどん大きくなっていくのじゃ。
 山川海空の全てに体が広がり、全ての空間を満たすようにイメージするのじゃ。

このようにイメージして行くと、ただのイメージではなく、空間に意識が感じられるようになるのじゃ。

 
 お釈迦様は三明経等で感情を使うブラフマンの法を説いているのじゃ。
 ブラフマンと同じ境地になる法としているのじゃ。

 心の中で慈悲を感じる対象を想い起こし、慈悲の感情を起こすのじゃ。
 その感情が体中に広がっていくとイメージするのじゃ。
 更に体から外にまで慈悲が広がっていくとイメージするのじゃ。
 今座っている部屋一杯にまで広がっていくのじゃ。
 そして部屋からも広がって、慈悲がどこまでも大きくなるようにするのじゃ。
 慈悲がどこまでも広がり、大地も空も埋め尽くすほどに大きくなっていくとイメージするのじゃ。
 地球とか宇宙とかの知識として知っている全ての空間を埋め尽くすのじゃ。

 集中が途切れてきたら、その感情が少しずつ小さくなり、自分の体に収まるとイメージして行を終えるのじゃ。

 そのようにイメージしていくのがお釈迦様の教えられたブラフマンの法なのじゃ。
 これも同じように日々続けているとただのイメージではなく、空間に実感が在ることが感じられるのじゃ。

 元々意識は全てに繋がり、空間にも在るものであるが個我の観念があればそれは感じられないのじゃ。
 肉体の感覚だけが自分の感覚と認識するからなのじゃ。
 そして自分の肉体と感覚以外に自分は無いと認識するのじゃ。

 このブラフマンの法を行えば、観念を超越した空間の意識が感じられるのじゃ。
 それを感得することで、肉体や感覚だけが自分であるという観念が薄れ、無辺の境地に至ることが出きるのじゃ。
 未だ悟りに至らなくとも、無辺の意識に到達しただけでも死という肉体の消滅によって全てが消滅するという観念は無くなるじゃろう。
 そして死の恐れも超えることが出来るのじゃ。

 死を恐れる者、更なる集中の境地を求める者、真実の意識を確かめたい者はこの法を日々修業するとよいのじゃ。

212避難民のマジレスさん:2025/01/20(月) 10:38:09 ID:zH2F03LE0
http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-196.html

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ブラフマンの法 詳解

投稿日:2020-03-02 Mon

  以前にお釈迦様が説いたブラフマンの法を書いたが、更に詳しく解説する必要があるようじゃ。
 前の記事は慈悲の感情を自分の肉体から全ての空間に広げる法と書いただけだったのじゃ。
 それだけではなかなか難しかったようじゃ。
 そこで今回の記事ではブラフマンの法を詳しく解説するのじゃ。

 ブラフマンの法を実践するには、最初に慈悲の感情を起こさなくてはならないのじゃ。
 自分が慈悲を感じるものをイメージするとよいのじゃ。
 愛する者とか、ペットとかでもよいのじゃ。

 するとその縁によって、慈悲の感情が起こるじゃろう。
 それは胸の辺りに感じるかもしれん。 
 頭の中に感じるかもしれん。
 人によっては腹に感じるという者も居るじゃろう。

 どこに感じても構わないのじゃ。
 そしてその感覚も人によって違うじゃろう。
 少し暖かい感じがするとか、むず痒いとか、少し痛いとかいろいろあって構わないのじゃ。
 その感覚を全身に広げていくようにするのじゃ。

 その感じが肉体に広がると念じたり、広がっていくことをイメージすることで少しずつ広げていくのじゃ。
 頭に感じるものは頭から下に広げ、胸や腹に感じるものは頭や手足にまで広げていくのじゃ。
 そのようにして全身に慈悲の想いから起こる感覚を広げていくのじゃ。

 どうしても広げられないという者は、慈悲を起こす縁となるものを手足にイメージすると善いのじゃ。
 手で猫を撫でるとか、そのようなイメージによって手に感じる慈悲の感覚を広げるのじゃ。
 広げている途中で感覚がなくなってしまったら、また感じるところにまで戻ってやり直すのじゃ。

 そのようにして慈悲の感覚が全身に広がって感じられるようになったならば、それを肉体の外に広げるのじゃ。
 最初は頭からとか、胸から丸く広がっていくとか、少しずつ広げていくのじゃ。
 それも途中で感覚が感じられなくなったら、感じられるところからやり直すのじゃ。

 それが出来ない者は、常識で考えて感情が肉体の外にある筈はないとかの観念に囚われているからかもしれん。
 或いは全ては脳で感じるのであるから、肉体の外に感情は無いと、唯脳論から離れられないからかもしれん。
 実際には全ては意識であるから肉体の外にも感情は在るものじゃ。
 観察と実践によって囚われを打破するのじゃ。

 肉体の外に広げられるようになったら、その感覚を部屋の中一杯にまで広げるのじゃ。
 人によっては頭から上には広がるが横に広がらないとか、腹から横にだけ広がるとか感じる者もいるかもしれん。
 そのような者は囚われずに、上でも横でも構わないからどんどん広げていくと善いのじゃ。

 慈悲の想いが今ここにある全てに浸透して、慈悲に変っていくことをイメージするのじゃ。
 全てのものが名前と形を無くして慈悲の思いになっていくことを念じ、イメージするのじゃ。
 更に慈悲の想いが今ここに感じる全てから、認識する全てに広がることを念じ、イメージするのじゃ。

 その時、頭の中で地球とか宇宙とかをイメージして、それが慈悲に変化することを念じてはいかんのじゃ。
 それでは観念遊戯になるからなのじゃ。
 あくまでも自分が今ここで感じ、認識する全てが慈悲となることを念じ、イメージするのじゃ。
 
 全てが名前と形を無くして、慈悲の思いになることを念じ、イメージするのじゃ。
 自らの肉体と精神もまた名前と形を無くして慈悲の想いそのものであることを感じるのじゃ。

 それが出来たならば、全てのものごとはただ慈悲の想いだけになるのじゃ。
 そうすればそれはサマーディと呼ばれる境地なのじゃ。
 自分も他のものもなく、全てが一つであるから自他を忘れたサマーディなのじゃ。

 それはまだ悟りではないが、自己を見ることのできる最良の境地に入れるのじゃ。
 そのように大いに成果の在るブラフマンの法を実践するとよいのじゃ。

213避難民のマジレスさん:2025/01/21(火) 10:01:25 ID:rOdpranY0
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1649249411/792

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792:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/04(金) 23:00:54 ID:Jj0/owdk0
>>789 善い事じゃ。
 そのように主体を追求していくとよいのじゃ。
 


 主体とは認識されないものじゃった。
 間違えたのじゃ。
 認識できるものは主体ではな客体であるから否定していくとよいのじや。

>>790 アートマンもブラフマンも実践する方法なのじゃ。
 アートマンの法は自分の心の中に主体を追求していく法なのじゃ。
 ブラフマンは自分と感じるものごとを拡大していく法なのじゃ。

 どちらも最後まで追求していけば、悟りに達するのじゃ。
 そしてアートマンとブラフマンが同じものであったとわかるのじゃ。

214避難民のマジレスさん:2025/01/22(水) 09:50:59 ID:KPki9r5k0
◆鬼和尚の解説・直リンクまとめ◆


◇大乗経典

<金剛般若経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/86-122

<法華経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/2-14

<浄土三部経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/20-27

<大乗起信論>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/15-19



◇その他

<信心銘>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/33-42

<十牛図>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/28

<坐禅和讃>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/29-32

<マハームドラーの詩>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/43-55

<ラマナ・マハルシの問答>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/56-85

<パタンジャリのヨーガスートラ>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/123-155

<バガヴァット・ギーター>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/156-210

<ブラフマンの法>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/211-213


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