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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
804
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 00:00:54 ID:NkGXn8e20
変化の緊要
苦痛 1
質問者 私は一生涯たいへん多くの苦痛を受けてきたと思われます。物理的にではなく、死とさびしさと私の存在の全くの無益さをとおして、です。私には、大いに愛している息子がいました。彼は事故で死にました。私の妻は去っていきました。それはたいへん多くの苦しみの因となりました。私は、充分なお金と安定した仕事をもつ何千何万の他の中流階級の人たちに似ています。私は私の境遇に不平を言っているのではありません。悲しみはどういう意味なのか、それはいったいなぜ訪れるのかを理解したいのです。英知は悲しみをとおして訪れると言われてきましたが、私は全く正反対を見てきたのです。
K あなたは苦痛から何を学ばれたのかと思うのです。あなたはいったい何かを学んだのでしょうか。悲しみはあなたに何を教えてくれたのでしょうか。
質問者 それは確かに私に、けっして人々に執着しないこと、一定の苦々しさ、一定のよそよそしさ、私の感情にうつつを抜かさないをことを、教えてくれました。
K それで、あなたが言われるとおり、それはあなたに英知を教えなかったのです。反対に、それはあなたをもっとずるがしこくもっと鈍感にしたのです。悲しみは、明白な自己保存的反応以外に、いったい何かを教えてくれるのでしょうか。
質問者 私はいつも苦痛を私の生の一部として受け入れてきました。しかし、私はいまなぜか、それから自由であり、二度と執着の苦しみすべてを経ずに安っぽい苦々しさと無頓着のすべてから自由でありたいように感じるのです。私の生はこんなにむだで空っぽで、全く自閉的で無意味です。それは凡庸の生ですし、おそらくその凡庸さがすべてのなかで最大の悲しみです。
K 個人的悲しみと世界的悲しみがあるのです。無知の悲しみと時間の悲しみがあるのです。この無知は、自分自身を知ることの欠如です。時間の悲しみは、時間が癒し治し変化させられるという欺瞞です。ほとんどの人々はその欺瞞に捕らわれています。悲しみを崇拝するのか、説明してしまうのかのどちらかです。しかし、どちらの場合にも、それは継続するし、それが終わりになるのかを自分自身に訊ねることはけっしてないのです。
質問者 しかし、私はいま、それが終わりになるのか、そしてどのようになのかを訊ねているのです。私はどのようにしてそれを終わらせるのでしょうか。私は、それから逃げ去ること(が)、苦々しさと冷笑でもってそれに抵抗することが何にもならないことは、理解します。私はこんなに長く持ちはこんできた嘆きを終わらせるには、何をすべきなのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
805
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 00:03:42 ID:NkGXn8e20
くまめも14-1
苦痛、悲しみは何を教えたか。それはあなたに英知を教えなかった。反対に、それはもっとずるがしこく鈍感にした。
悲しみは、明白な自己保存的反応以外に、いったい何かを教えてくれるのか。
個人的悲しみと世界的悲しみがある。無知の悲しみと時間の悲しみがある。無知は、自分自身を知ることの欠如。時間の悲しみは、時間が癒し治し変化させられるという欺瞞。その欺瞞に捕らわれてる。悲しみを崇拝するのか、説明してしまうかのどちらか。しかし、どちらの場合にも、それは継続するし、それが終わりになるのかを自身に訊ねることはけっしてない。
(´・(ェ)・`)
806
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/27(月) 00:12:43 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティは非常に注意深く言葉を選んで説いているのじゃ。
人が何かを実践するという想いを持ってしまえば、その時自我も起こってしまうのじゃ。
そうであるから全注意を与え、知識を蓄積せずに学ぶというのじゃ。
それが今ここで気付くことを与える最良の方法と知っているからなのじゃ。
しかし、聞く者にそれを受け容れる準備が整っていなければ難しいのじゃ。
807
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 01:11:26 ID:L9KjyRNc0
>>806
うむ。Kが一番厳しいであります。
本気で、追求すれば出来るのに、できないのは、本気でないからだ!
と、言われてるようであります。
(´・(ェ)・`)
808
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/27(月) 23:05:26 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただ自分の欲とか苦悩を相談しに来た者には理解できないじゃろう。
逃避を続けることがそのような者達の希望であるからのう。
哀れな事じゃ。
809
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 23:17:07 ID:vJe4KXhY0
変化の緊要
苦痛 2
K 自己憐憫は悲しみの諸要素の一つです。もう一つの要素は、誰かに執着し、その人のあなたへの執着を助長、育成することです。悲しみは執着があなたを見捨てるときにあるだけではありません。その種子は、その執着のまさに始まりにあるのです。このすべてにおいてやっかいなのは、自分自身を知ることが全く欠如することなのです。自分自身を知ることが悲しみの終わることなのです。私たちは自分自身を善と悪、邪悪と高貴、清浄と不浄とに分割してきたから、自分自身を知るのを恐れています。善はいつも悪を判断しているし、これら諸断片は互いに戦争しているのです。この戦争が悲しみです。悲しみを終わらせるとは、所作の対極を考案しないで、所作を見ることです。というのは、両極は互いに収めあっているからです。この両極の回廊を歩むことが悲しみです。高いものと低いもの、高貴なものと低俗なもの、神と悪魔への生のこの断片化が、葛藤、抗争、苦しみを生み育てるのです。悲しみがあるとき、愛はないのです。愛と悲しみはともに生きられないのです。
質問者 ああ!しかし、愛は他の一人に悲しみを負わせうるのです。私は他の一人を愛しながらも、彼に悲しみをもたらすかもしれません。
K あなたが愛するなら、あなたがそれをもたらすのでしょうか。彼がもたらすのでしょうか。他の一人が助長あってまたは(助長)なしにあなたに執着していて、あなたが彼にそっぽを向いて、彼が苦痛を受けるのなら、彼の苦痛をもたらしたのはあなたでしょうか、彼でしょうか。
質問者 いわれるのは、たとえそれが私ゆえであるとしても、私は他の誰かの悲しみに応ずる責任能力はないという意味でしょうか。それでは、悲しみはいったいどのように終わるのでしょうか。
K 私たちが言ったとおり、悲しみが終わるのは、自分自身を完全に知るなかだけなのです。あなたは一瞥であなた自身を知るのでしょうか。それとも長い分析の後で知りたいと願うのでしょうか。分析をとおしてあなたはあなた自身を知りえないのです。あなたは蓄積なく、関係のなか、瞬間瞬間にあなた自身を知りうるだけなのです。これは、どんな選択もなく現行として起きていることに気づかなければならないという意味です。それは、対極、理想なく、自らがどうであったのかの知識なしに自分自身をあるままに見る、という意味です。あなたが憤慨や怨恨の眼であなた自身を見つめるなら、そのとき、あなたに見えるもの・ことは、過去に彩られるのです。あなた自身が見える(とき)すべてのときに過去を脱ぎ捨てることが、過去からの自由です。悲しみは、理解の光があるときにだけ、終わるのです。この光は、一つの経験や一つの閃きの理解では灯されません。この理解は、すべてのときそれ自体を照らしているのです。誰もあなたにそれを与えられません - どんな書物も仕掛けも教師も救世主も。あなた自身を理解することが、悲しみの終わることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
810
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 23:20:50 ID:vJe4KXhY0
くまめも 2
自分自身を知ることが悲しみの終わること。自分自身を善と悪とに分割するから、自分自身を知るのを恐れている。善はいつも悪を判断しているし、この断片は互いに戦争している。この戦争が悲しみ。悲しみを終わらせるとは、所作の対極を考えないで、所作を見ること。なぜなら、両極は互いに収めあってから。両極の回廊を歩むことが悲しみ。
生の断片化が、葛藤、抗争、苦しみを生み育てる。悲しみがあるとき、愛はない。愛と悲しみはともに生きられない。悲しみが終わるのは、自分自身を完全に知るなかだけ。分析をとおしてはあなた自身を知りえない。あなたは蓄積なく、関係のなか、瞬間瞬間にあなた自身を知りうるだけ。選択なく現行として起きていることに気づかなければならない。対極、理想なく、自分自身をあるままに見る。憤慨や怨恨の眼で自身を見つめるなら、そのとき、見えるもの・ことは、過去に彩られる。あなた自身が見えるすべてのときに過去を脱ぎ捨てることが、過去からの自由。
悲しみは、理解の光があるときにだけ、終わる。この光は、一つの経験や一つの閃きの理解では灯されない。この理解は、すべてのときそれ自体を照らしている。誰もあなたにそれを与えられない。あなた自身を理解することが、悲しみの終わること。
(´・(ェ)・`)
811
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/28(火) 23:52:05 ID:1d4drIFg0
自分自身を知ること、それこそが全ての仏陀達の教えの真髄なのじゃ。
自分に気付かないで悟りを得ることは在り得ないのじゃ。
善悪も好悪も清浄も不浄も無しに自分を観るのじゃ。
全ての苦から逃れる道はそこにしかないのじゃ。
812
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/28(火) 23:59:03 ID:8Fv5HEzU0
変化の緊要
心と頭 1
質問者 人間が自らの存在を異なった諸区画 - 知能と情動 - に分割してきたのは、なぜなのでしょうか。それぞれがもう一つに依らず独自に存在しているように思われます。生におけるこれら二つの駆り立てる力はしばしば矛盾しあっていて、そのため私たちの存在のまさに織地を引き裂くように思われるほどなのです。人間が全的存在として行為できるようにそれらをまとめることは、いつも生の主要な目的の一つでありました。そして、人間のなかのこれら二つのものに加えて、変化する環境たる第三のものがあるのです。それで、人間のなかのこれら二つの矛盾したものはさらにまた、人間自身の外側にあるように見える第三のものと対立しているのです。ここに問題があり、こんなに混乱させ、こんなに矛盾し、こんなに広大であり、そのため知能は、それらをまとめるために神と呼ばれる外側の機関を考案するほどです。そしてこれが、さらにいっそう事態全体を錯綜させるのです。生にはただ一つこの問題があるのです。
K あなたは、あなた自らの言葉に乗せられていくように思われます。これは本当にあなたにとって問題なのでしょうか。それともあなたは、よい議論をするために、それを考案しているのでしょうか。それが議論のためであるなら、そのときそれは本当の内容をもちません。しかし、それが本当の問題であるなら、そのとき私たちはそれに深く入れます。ここで私たちにはとても複雑な状況があるのです - 内がそれ自体を諸区画に分割し、さらにまたそれ自体をその環境から分離するのです。さらにまた、それは環境を - それを社会と呼ぶのですが - 諸階級、人種に、経済的、国家的、民族的、地理的諸集団に分離するのです。これが、世界で現行として起きていることであるように思われるし、私たちはそれを生きることと呼ぶのです。この問題を解決できないので、私たちは超越的存在を考案します。私たち自身と私たちの間に調和と束ねる性質をもたらしてくれるだろうと私たちが願うところの機関です。私たちが宗教と呼ぶこの束ねる性質は、今度はもう一つの分割の要因をもたらすのです。それで、疑問はこうなります - 諸分割がない生きることの完全な調和、知能と心がどちらも全的存在の表現である状態を、何がもたらすのでしょうか。その存在は断片ではないのです。
質問者 私はあなたに同意しますが、しかし、どのようにすればこれはもたらされるのでしょうか。これは、人間がいつもあこがれてきたし、諸宗教すべてと政治的、社会的ユートピアすべてをとおして探し求めてきたものなのです。
K あなたはどうすればを訊ねます。「どうすれば」は最大の誤りです。それが分離的要因なのです。あなたの「どうすれば」と私の「どうすれば」と他の誰かの「どうすれば」があるのです。それで、もしも私たちはけっしてその言葉を用いなかったなら、決定された成果を達成するための方法を探し求めているのではなくて、本当に探究しているでしょう。それで、あなたはこの方法や成果という観念をそっくり片づけられるでしょうか。あなたが成果を定義できるなら、あなたはすでにそれを知っているし、ゆえにそれは自由ではなく、条件づけられてあるのです。私たちが方法を片づけるのなら、そのとき私たちはどちらも、外側の機関を考案せずに調和的全体をもたらすことがいったい可能なのかを、探究する能力があるのです。というのは、外側の機関すべては、環境的であっても、超環境的であっても、ただ問題を増大させるからなのです。
まず初めに、それ自体を感情、知能、環境とに分割するのは、頭です。外側の機関を考案するのは、頭です。問題を創作するのは、頭です。
(´・(ェ)・`)つ
813
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/29(水) 00:01:03 ID:8Fv5HEzU0
くまめも1
人間は自らを知能と情動に分割し、人間自身の外側にあるように見える、変化する環境たる第三のもと対立している。さらにまた、環境、社会を、諸階級、人種に、経済的、国家的、民族的、地理的諸集団に分離する。私たちはそれを生きることと呼ぶ。この問題を解決できないので、超越的存在を考案する。自身と私たちの間に調和と束ねる性質をもたらすと願うところの機関、宗教と呼ぶこの束ねる性質は、今度はもう一つの分割の要因をもたらす。諸分割がない生きることの完全な調和、知能と心がどちらも全的存在の表現である状態を、何がもたらすのか。
どうすればと訊ねるのは誤り。それが分離的要因。「どうすれば」という言葉を用いなかったなら、決定された成果を達成するための方法を探し求めているのではなくて、本当に探究している。成果を定義できるなら、すでにそれを知っているし、ゆえにそれは自由ではなく、条件づけられてある。方法を片づけるのなら、問題を増大させる外側の機関無しに調和的全体をもたらすことが可能なのかを、探究する能力がある。それ自体を感情、知能、環境とに分割するのは、外側の機関を考案するのは、問題を創作するのは、頭。
(´・(ェ)・`)
814
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/29(水) 22:59:46 ID:1d4drIFg0
ものごとをさまざまに定義し、分別することが問題を作り出すのじゃ。
それに対して何かをしようとすることが更に問題を多くするのじゃ。
山火事を消そうとして燃料になる木を燃やしたらますます火が燃え広がるようなものじゃ。
思考も分別もただ止めるだけで問題はなくなるのじゃ。
815
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/29(水) 23:11:36 ID:P0G9aj8U0
変化の緊要
心と頭 2
質問者 この分割は頭のなかだけではありません。それは感情においてさらに強いのです。イスラム教徒とヒンドゥー教徒は自分自身を分離していると考えません。彼らは自分自身を分離していると感じるのです。そして、彼らを実際に分離させ、彼らをして互いに破壊させるのは、この感情です。
K そのとおり。思考と感情は一つです。それらは始まりから一つであったし、それがまさしく私たちの言っていることなのです。それで、私たちの問題は、異なった諸断片の統合ではなく、一つであるこの頭と心を理解することなのです。私たちの問題は、どのように諸階級を取り除くのかや、どのようにもっとよいユートピアを築くのか、もっとよい政治的指導者や新しい宗教的教師を生み育てるのかではないのです。私たちの問題は頭です。理論的にではなくこの点に来ること、現行としてそれをみることが、最高の形態の智恵なのです。というのは、そのときあなたはどの階級や宗教的集団にも属していないからです。そのときあなたはイスラム教徒、ヒンドゥー教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒ではないのです。それで、私たちはいまただ一つの主題があるのです - なぜ人間の頭は分割するのでしょうか。それは自らの諸機能を感情と思考に分割するだけではなく、それ自体を「あなた」から(異なる)「私」、「彼ら」から(異なる)「私たち」として分離するのです。頭と心は一つです。それを忘れないようにしましょう。私たちが「頭」という言葉を用いるとき、それを思い出してください。それで、私たちの問題はこうなのです - なぜ頭は分割するのでしょうか。
質問者 そうです。
K 頭は思考です。思考の活動すべては分離、断片化です。思考は、頭脳たる記憶の応答です。頭脳は危険を見るとき、応答しなければなりません。これは智恵なのです。しかし、この同じ頭脳はなぜか、分割の危険を見ないよう条件づけられてきたのです。その諸行為は所作を扱うとき、妥当で必要です。同等に、それは、分割と断片化が自らにとって危険であるという所作を見るとき、行為するでしょう。これは観念や思想や原理や概念ではありません - それらのすべては白痴的で分離的なのです。危険を見るには、頭脳はとても鋭敏で目覚めていなくてはなりません。それの一断片だけではなく、それのすべてが、です。
質問者 頭脳全体を目覚めさせておくことは、どうすれば可能なのでしょうか。
K 私たちが言ったとおり、「どうすれば」はなく、ただ危険を見ることだけがあるのです。それが論点のすべてです。見ることは宣伝や条件づけの成果ではありません。見ることは、頭脳全体でもってです。頭脳が完全に目覚めているとき、頭は静かになるのです。頭脳が完全に目覚めているとき、断片化はなく、分離はなく、二元性はないのです。この静けさの性質は、最高の重要なのです。あなたは、薬物やあらゆる種類の仕掛けで、頭を静かにできます。しかし、そういう欺瞞は、さまざまな他の形態の幻想と矛盾を生み育てるのです。この静けさは、けっして人格的、非人格的ではなく、けっしてあなたのや私のではない最高の形態の智恵なのです。無名であるので、それは全体的で、清浄無垢なのです。それは性質を持たないので、叙述を拒むのです。これが気づきです。これが注意です。これが愛です。これが最高のものなのです。頭脳は完全に目覚めていなければなりません。それですべてです。密林のなかの人は、生存するには恐ろしく目覚めていなければなりません。それと同じく、世界の密林のなかの人は、完全に生きるには、恐ろしく目覚めていなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
816
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/29(水) 23:12:51 ID:P0G9aj8U0
くまめも 2
分割は頭のなかだけではなく、感情においてさらに強い。思考と感情は一つ。異なった諸断片の統合ではなく、一つであるこの頭と心を理解することが問題。理論的にではなく、現行としてそれをみることが、最高の智恵。なぜ頭は分割するのか。それは自らの諸機能を感情と思考に分割するだけではなく、それ自体をあなたから私、彼らから私たちとして分離する。頭は思考。思考の活動すべては分離、断片化。思考は、頭脳たる記憶の応答。頭脳は危険を見るとき、応答しなければならない。これは智恵。しかし、この同じ頭脳は分割の危険を見ないよう条件づけられてきた。その諸行為は所作を扱うとき、妥当で必要。同等に、それは、分割と断片化が自らにとって危険であるという所作を見るとき、行為する。これは観念や思想や原理や概念ではない。それらは白痴的で分離的。危険を見るには、頭脳は鋭敏で目覚めていなくてはならない。ただ危険を見ることだけがある。それが論点のすべて。宣伝や条件づけの成果ではなく、頭脳全体でもって見ること。頭脳が完全に目覚めているとき、頭は静かになる。頭脳が完全に目覚めているとき、断片化、分離、二元性はない。この静けさの性質は、最高の重要。この静けさは、人格的、非人格的ではなく、あなたのや私のではない最高の智恵。無名であるので、それは全体的で、清浄無垢。それは性質を持たないので、叙述を拒む。これが気づき、注意、愛、最高のもの。頭脳は完全に目覚めていなければならない。
(´・(ェ)・`)
817
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/30(木) 23:37:40 ID:1d4drIFg0
何かをすることではなくただ見ることだけが分離も断片化も無くせるのじゃ。
見るということはすることでもないからなのじゃ。
全てに集中して見るならば、することではなくなるのじゃ。
そうすれば主体が想起されないからなのじゃ。
818
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/01(金) 01:21:19 ID:ul6tVrh20
化の緊要
美しさと芸術家 1
質問者 私は芸術家とは何だろうかと思うのです。ガンジスの岸では、暗く小さな部屋に一人の男が座って、絹と金のたいへん美しいサリーを織っています。パリでは、自分のアトリエでもう一人の男が、自分に名声をもたらしてくれるだろうと願う絵画を、描いています。どこかには、作家がいて、男と女の古い古い問題を述べる物語を、さかしく紡ぎ出しています。それから、自分の実験室には科学者がいるし、ロケットが月に行くように百万の部品を組み立てている技術者がいます。インドでは、音楽家が、自分の音楽の純化された美しさを忠実に伝えるために、たいへんなきびしさの生を生きています。主婦がいて食事を準備しているし、詩人は森を一人で歩いています。これらすべては彼らなりに芸術家ではないでしょうか。美しさは誰でもみんなの手にあるが、彼らはそれを知らないのだと私は感じます。美しい衣服や卓越した靴を作る男、テーブルに花を飾る女 - 彼らはみんな、美しさについて働くように思われます。靴職人や料理人ではなく、画家、彫刻家、作曲家、作家 - いわゆる創作芸術家が、この世界でこんなとてつもない重要性を持つのはなぜなのかと、私はしばしば思うのです。彼ら(靴職人や料理人)もまた創造的ではないでしょうか。美しいと人々が考える多様な表現すべてを考えるとき、真の芸術家は生においてどういうところを占めるのでしょうか。そして、真の芸術家とは誰なのでしょうか。美しさは生、いのちすべてのまさに本質であると言われます。向こうのあの建物は、とても美しいと考えられるのですが、あれもその本質の表現でしょうか。もしもあなたが美しさと芸術家というこの疑問全体に入ってくださるようなら、私は大いに感謝するでしょう。
K 確かに芸術家は、行為の技術に巧みである人でしょう。この行為は、生の外側ではなく、生にあるのです。ゆえに、巧みな技術で生きているなら、それで真に芸術家になるのです。この巧みな技術は、彼が楽器を塩蔵していたり、詩を書いていたり、絵画を描いているとき一日のわずかな時間の間、作動できるのです。または、いくつもの異なった媒体で働いたルネッサンスの偉人たちのように、彼がこういう多くの諸断片の巧みな技術があるのなら、もう少し多く作動できるのです。しかし、音楽や書いたり描いたりのわずかな時間は、無秩序と混乱にある彼の残りの生活と、矛盾するかもしれません。それで、そういう人はいったい芸術家なのでしょうか。芸術的技巧でヴァイオリンを弾き、自分の名声に眼を留めている人は、ヴァイオリンに興味があるのではありません。彼は有名になるため、それを利用しているだけですし、「私 'me' 」が音楽よりもはるかに重要です。名声に眼を留めている作家や画家についても、そうなのです。音楽家は、その「私 'me' 」を、自らが美しい音楽と考えるものと、同定します。宗教的な人は、その「私 'me' 」を、自らが崇高であると考えるものと、同定します。これらすべては、彼ら特定の小さな分野では巧みな技術があるのですが、残りの生の広野全体は無視されるのです。それで私たちは、書くこと、描くこと、科学技術においてだけではなく、行為(における巧みな技術)、生きることにおいて巧みな技術は何なのか(を見出し)、どのように巧みな技術と美しさをもって生の全体を生きられるのかを、見出さなくてはなりません。巧みな技術と美しさは同じなのでしょうか。人間は、芸術家であってもなくても、巧みな技術と美しさをもって生の全体を生きられるでしょうか。生きることは行為ですし、その行為が悲しみを生み育てるとき、それは巧みな技術をなくしてしまうのです。それで、人は悲しみなく、あつれきなく、嫉妬と欲なく、どんな種類の葛藤、抗争もなく生きられるでしょうか。主題は、誰が芸術家であり、誰が芸術家でないのかではなくて、人間は、あなたや他の人は、苦悶と歪曲なく生きられるのかです。もちろん、偉大な音楽、偉大な彫刻、偉大な詩歌や舞踊を見くびったり、せせら笑うことは、冒涜的なのです。それは、自分の生において巧みな技術がないことです。しかし、行為の巧みな技術である芸術的技巧と美しさは、一日のわずかな時間の間だけではなく、一日中作動すべきです。これが真の挑戦です。ピアノを美しく弾くだけではなくのです。あなたはそもそもそれに触れるのなら、美しく弾かなければなりませんが、それでは十分でないのです。それは、広大な平野の小さな一角を耕作するようなものなのです。私たちは広野全体に関心があるし、その広野が生なのです。私たちがいつもやることは、広野全体を放置し、諸断片、私たち自身のや他の人たちのに集中することなのです。芸術的技巧は、完全に目覚めることであり、ゆえに、生の全体で行為の巧みな技術を持つことなのです。
(´・(ェ)・`)つ
819
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/01(金) 01:25:12 ID:ul6tVrh20
くまめも 1
芸術家は、行為の技術に巧みである人。この行為は、生の外側ではなく、生にある。ゆえに、巧みな技術で生きているなら、それで真に芸術家になる。この巧みな技術は、一日のわずかな時間の間、作動できる。しかし、そのわずかな時間は、無秩序と混乱にある残りの生活と、矛盾するかもしれない。
芸術的技巧をもって、自分の名声に眼を留めている人は、芸術に興味があるのではない。有名になるため、それを利用しているだけ。
音楽家は、「私 'me' 」を、自らが美しい音楽と考えるものと、同定する。特定の小さな分野では巧みな技術があるが、残りの生の広野全体は無視される。それで私たちは、技巧技術においてだけではなく、生きることにおいて巧みな技術は何かを見出し、どのように巧みな技術と美しさをもって生の全体を生きられるのかを、見出さなくてはならない。生きることは行為だし、その行為が悲しみを生み育てるとき、それは巧みな技術をなくす。
人は悲しみ、あつれき、嫉妬、欲、葛藤、抗争なく生きられるか。
主題は、誰が芸術家であるかではなくて、人間は、苦悶と歪曲なく生きられるのか。行為の巧みな技術である芸術的技巧と美しさは、一日のわずかな時間の間だけではなく、一日中作動すべき。これが真の挑戦。芸術的技巧は、完全に目覚めることであり、ゆえに、生の全体で行為の巧みな技術を持つこと。
(´・(ェ)・`)
820
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/01(金) 22:59:08 ID:1d4drIFg0
芸術とは限られた分野での優れた技に過ぎないというのじゃ。
それに囚われれば全てを見ることが疎かになるのじゃ。
自分を見ることもなくなるのじゃ。
それは生きることにおいては進歩ではなく衰退なのじゃ。
自分自身を知ることでのみ生の全体を芸術にすることができるのじゃ。
821
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/01(金) 23:30:38 ID:MutNoc3w0
変化の緊要
美しさと芸術家 2
質問者 工場の労働者やオフィスで雇用される人についてはどうでしょう。彼は芸術家でしょうか。彼の仕事は、行為の巧みな技術を排除するので、彼を殺し、そのため彼は他の何ごとにもまた巧みな技術を持たないようになるのではないでしょうか。彼はその仕事によって条件づけられないでしょうか。
K もちろん条件づけられます。しかし、彼は目覚めるのなら、その仕事を離れるか、またはそれが芸術的技巧になるように変容させるかのどちらかでしょう。重要なことは、仕事ではなくて、仕事に目覚めることなのです。重要なことは、仕事の条件づけではなく、目覚めることなのです。
質問者 どういう意味でしょう、目覚めるとは。
K あなたは、ただ環境により、挑戦により、何か災難や喜びによってのみ、目覚めるのでしょうか。それとも、何の因もなく目覚めている状態があるのでしょうか。あなたが出来事、因により目覚めるのなら、そのときあなたはそれに依存します。そして、あなたは何かに依存するなら、それが薬物でもセックスでも絵画でも音楽でも、あなたはあなた自身が眠りを就くに任せているのです。それで、どんな依存も、巧みな技術の終わり、芸術的技巧の終わりです。
質問者 この、因を持たない他の目覚めた状態は、何なのでしょうか。あなたは、因もなく効果もない状態について、話しておられます。何らかの因の結果ではない心の状態がありうるのでしょうか。私はそれが理解できません。なぜなら、私たちが考えるものごとすべてと私たちなるものごとすべては、因の結果であるからです。因果の終わりなき連鎖があるのです。
K 果が因になり、因がさらなる果を設けるなどするから、この因果の連鎖は終わりないのです。
質問者 それでは、この連鎖の外に、どういう行為があるのでしょうか。
K 私たちの知るすべては、因や動機ある行為、結果である行為ばかりです。行為すべては、関係のなかあるのです。関係が因に基づいてあるのなら、それはずるがしこい適応ですし、ゆえに必然的にもう一つの形態の鈍さにつながります。愛は、因なくあり、自由であるただ一つのものなのです。それは美しさです。巧みな技術です。芸術です。愛なしに芸術はないのです。芸術家が美しく演じているとき、「私 'me' 」はないのです。愛と美しさがあるのです。そして、これが芸術です。これが行為の巧みな技術です。行為の巧みな技術は「私 'me' 」の不在です。芸術は「私 'me' 」の不在です。しかし、あなたが生の広野全体を放置し、小さな一部にのみ集中するとき - そのとき「私 'me' 」がどれほど不在であろうとも - あなたはやはりへたにでたらめに生きているし、ゆえにあなたは生の、いのちの芸術家ではないのです。生きるなかの「私 'me' 」の不在は、愛と美しさです - これが独自の巧みな技術をもたらすのです。生、いのちの広野全体を巧みな技術で生きること - これが最も偉大な芸術です。
質問者 おお、神さま!私はどのようにしてそうするのでしょうか。私はそれが見えるし、心に感じるのですが、私はそれをどのように維持できるのでしょうか。
K それを維持する道はないし、それを養う道はないし、それの実践はないのです。ただそれが見えることがあるだけです。見えることが、巧みな技術すべてのなかで最も偉大なものなのです。
(´・(ェ)・`)つ
822
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/01(金) 23:31:35 ID:MutNoc3w0
くまめも2
工場やオフィスでの仕事は、行為の巧みな技術を排除し、それによって条件づけられる。しかし、彼は目覚めるなら、その仕事を離れるか、またはそれが芸術的技巧になるように変容させる。重要なのは、仕事ではなく、仕事に目覚めること。
環境により、挑戦により、災難や喜びによってのみ、目覚めるのか。それとも、何の因もなく目覚めるのか。出来事、因により目覚めるのなら、そのときそれに依存する。何かに依存するなら、自身が眠りを就くに任せている。依存は、巧みな技術、芸術的技巧の終わり。因果の連鎖は終わらない。行為すべては、関係のなかにある。関係が因に基づいてあるのなら、それはずるがしこい適応。ゆえに必然的に別の形態の鈍さにつながる。
愛は、因なくあり、自由であるただ一つのもの。それは美しさ、巧みな技術、芸術。愛なしに芸術はない。芸術家が美しく演じているとき、「私 'me' 」はない。芸術、行為の巧みな技術は「私 'me' 」の不在。しかし、あなたが生の広野全体を放置し、小さな一部にのみ集中するとき−そのとき「私 'me' 」がどれほど不在であろうとも −あなたはやはりへたにでたらめに生きているし、ゆえにあなたは生の、いのちの芸術家ではない。生きるなかの「私 'me' 」の不在は、愛と美しさ。生の広野全体を巧みな技術で生きることが最も偉大な芸術。それを維持する道、養う道はないし、それの実践はない。ただそれが見えるだけ。見えることが、巧みな技術すべてのなかで最も偉大なもの。
(´・(ェ)・`)
823
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/02(土) 23:34:20 ID:1d4drIFg0
観念があれば全ての働きは因となり、果を起こすのじゃ。
それを止めようとすればそれがまた因となり、果を起こすことになるのじゃ。
それは何かを維持しようとしたり、実践することでは止められないのじゃ。
もはや観ることですらなく、見えることだけが道だというのじゃ。
見ることではまだ実践する者がある故に、更に進んで見られることだけがあるとクリシュナムルティは語るのじゃ。
824
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/03(日) 20:10:21 ID:Uw6IHqhg0
変化の緊要
依存 1
質問者 私は依存の本性を理解したいように思うのです。私は私自身が、こんな多くのものごとに - 女性に、さまざまな種類の慰みに、よいワインに、私の妻と子どもに、私の友だちに、人々が言うことに - 依存するのを、見てきました。幸いに私はもはや宗教的娯楽には依存しませんが、私は、私を刺激してくれる書物とよい会話に、依存します。私は、若者もまた依存的であることが、分かります。おそらく私ほどではないが、彼らには彼ら特定の形態の依存があるのです。私は東洋に行ったことがあり、彼らがどんなに導師と家族に依存するのかを見てきました。そこでは伝統が、もっと重要性を持っているし、ここヨーロッパ(で根づいている)よりも深く根づいているのです。もちろん、アメリカよりもはるかにそうなのです。しかし、私たちはみんな、物理的にだけではなくはるかに内的に、自分たちを支える何かに依存するように見えるのです。それで私は、本当に依存から自由であることがいったい可能なのかと思っているし、それから自由であるべきなのでしょうか。
K あなたは心理的、内的な執着に関心があるのだと思います。執着が多いほど、依存は大きいのです。執着は人物へだけではなく、観念(へ)とものごとへもあるのです。特定の環境へ、特定の国などへ執着するのです。そして、これから依存が発し、ゆえに抵抗(があるの)です。
質問者 なぜ抵抗なのしょう。
K 私の執着の対象は、私の領土、なわばりや私の性的領域です。これを私は保護するし、それに対する他からのどんな形態の侵犯にも抵抗します。私はまた、私が執着している人物の自由を制限し、私自身の自由を制限します。それで、執着は抵抗です。私は何かや誰かに執着します。その執着は所有欲です。所有欲は抵抗ですので、執着は抵抗です。
質問者 はい、それは分かります。
K 私の所有物へのどんな形態の侵犯も、法律的または心理的に、暴力につながります。それで執着は、暴力、抵抗、投獄です - 自分自身と執着の対象の投獄です。執着は、これは私のであり、あなたのではない。離れていなさい!という意味です。それで、この関係は他に対する抵抗です。世界全体が私のとあなたのとに分割されるのです。私の見解、私の判断、私の助言、私の神さま、私の国 - 無際限のそういう無意味です。抽象においてではなく私たちの日々の生活で現行として、このすべてが起きているのを見ると、私たちは、人々、ものごと、観念へのこの執着がなぜあるのかを、訊ねられるのです。なぜ依存するのでしょうか。有ることすべては関係です。そして、関係すべては、暴力、抵抗、領有(支配)をともなうこの依存にあるのです。私たちは世界全体をこれにしてきたのです。所有するところでは、領有(支配)しなければなりません。私たちは美しさに出会います。愛が発生します。即時にそれは執着になるし、このすべての悲惨が始まるし、愛は窓から出ていってしまったのです。そのとき私たちは、「私たちの大きな愛には何が起きたのだろうか」と訊ねるのです。これが現行として、私たちの日々の生活に起きていることなのです。そして、このすべてを見て、私たちはいま訊ねられるのです - 人はなぜ、愛らしいもの・ことに(執着する)だけではなく、あらゆる形態の幻想とこんなに多くの白痴的空想にもまた、間違いなく執着するのでしょうか。
自由は、無依存の状態ではありません。それは、どんな依存もない肯定的状態です。しかし、それは結果ではないし、因を持ちません。私たちが、人はなぜ依存するのか、悲惨すべてをともなう執着の罠に陥るのかの疑問に入るまえに、これはごく明確に理解されなければなりません。私たちは、執着するので、依存なき自立の状態を養成しようとします - これもまたもう一つの形態の抵抗です。
(´・(ェ)・`)つ
825
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/03(日) 21:15:48 ID:Uw6IHqhg0
くまめも1
執着が多いほど、依存は大きい。執着は人物、観念、特定の環境、国などへある。執着の対象を保護し、それに対する他からの侵犯にも抵抗する。執着している人物の自由を制限し、私自身の自由を制限する。
執着は所有欲。所有欲は抵抗なので、執着は抵抗。所有物へのどんな形態の侵犯も、法律的または心理的に、暴力につながる。それで執着は、暴力、抵抗、投獄。自分自身と執着の対象の投獄。
執着は、これは私のであり、あなたのではないという意味。この関係は他に対する抵抗。
世界全体が私のとあなたのとに分割される。
私の見解、私の判断、私の助言、私の神、私の国 - 無際限のそういう無意味。
有ることすべては関係。関係すべては、暴力、抵抗、支配をともなうこの依存にある。
美しさに出会う。愛が発生する。即時にそれは執着になり、このすべての悲惨が始まり、愛は窓から出ていった。人はなぜ、愛らしいもの・ことに執着するだけではなく、あらゆる形態の幻想とこんなに多くの白痴的空想にもまた、間違いなく執着するのか。
自由は、無依存の状態ではない。それは結果ではないし、因を持たない。執着するので、依存なき自立の状態を養成しようとする。これもまたもう一つの形態の抵抗。
(´・(ェ)・`)
826
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/03(日) 23:30:50 ID:1d4drIFg0
執着し、依存する状態があれば人はそれらを守ろうとして攻撃的に成るのじゃ。
それが戦争とか犯罪を産む原因ともなるのじゃ。
しかし、それでは執着や依存をしないようにすればよいと実践すれば、それがまた他の依存や執着を産むのじゃ。
依存する自分への明確な理解があれば、依存は何もせずに止むのじゃ。
827
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/04(月) 00:29:30 ID:Uw6IHqhg0
>>826
うむ。
それが、自己を観察する目的であり、それが唯一の法なのでありますね。
(´・(ェ)・`)b
828
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/04(月) 00:49:23 ID:Uw6IHqhg0
けど、それはむずかしいのである。
やっぱり、サマディまで頑張るしかないのでありますかね。
(´・(ェ)・`)
829
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/04(月) 23:18:45 ID:1d4drIFg0
>>827
>>828
そうじゃ、気づくことが悟りへの唯一の道なのじゃ。
ディヤーナでも観察すれば気づくことは可能になるのじゃ。
精進あるのみなのじや。
830
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/04(月) 23:23:17 ID:vmrHMyY.0
変化の緊要
依存 2
質問者 それで、自由とは何なのでしょうか。あなたは、それは依存の否定や依存の終わることではないと言われます。あなたは、それは何かからの自由ではない。ただ自由のみ、と言われます。では、それは何なのでしょうか。それは抽象でしょうか、現実でしょうか。
K それは抽象ではありません。それは、いかなる形態の抵抗もない心の状態です。それは、ここそこで丸石に適応し、それら(丸石)をよけたり越えたりする川には似ていません。この自由には、丸石が全くなくて、水の動きがあるだけです。
質問者 しかし、執着の丸石はそこに、この生の川にあるのですや。丸石のないもう一つの川については語れないのです。
K 私たちは丸石を回避していたり、それが存在しないと言っているのではありません。私たちはまず初めに自由について理解しなければなりません。それは、丸石のあるのと同じ川ではないのです。
質問者 私はまだ、丸石ある私の川を持っています。丸石なき何か他の知られざる川ではなく、それが、私が訊ねるために戻ってきたことなのです。それでは私には全く何のためにもなりません。
K 全くそのとおり。しかし、あなたは、あなたの丸石を理解するためには、自由は何なのかを理解しなければなりません。しかし、この比喩を使いまくってだめにしないようにしましょう。私たちは自由と執着をどちらも考慮しなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
831
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/04(月) 23:28:51 ID:vmrHMyY.0
くまめも2
自由とは、依存の否定や依存の終わることではない。何かからの自由ではない。では、自由とは何か。それは抽象ではない。それは、抵抗のない心の状態。それは、ここそこで丸石に適応し、それらをよけたり越えたりする川には似ていない。自由には、丸石が全くなくて、水の動きがあるだけ。丸石を回避していたり、それが存在しないと言っているのではない。まず初めに自由について理解しなければならない。それは、丸石のあるのと同じ川ではない。
あなたの丸石を理解するためには、自由は何なのかを理解しなければならない。自由と執着をどちらも考慮しなければならない
(´・(ェ)・`)
832
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/05(火) 20:19:45 ID:aiE4qJxY0
変化の緊要
依存 3
質問者 私の執着は自由と、または自由は私の執着と、何の関わりがあるのでしょうか。
K あなたの執着には、苦しみがあるのです。あなたはこの苦しみを免れたいので、もう一つの形態の抵抗である無執着を養成するのです。対極に、自由はありません。これら二つの対極は、同一的であり、相互に強めあうのです。あなたが関心のあることは、その悲惨なく執着の楽しみを得るすべです。それはできません。そういうわけで、自由は無執着にあるのではないのを理解することが、重要であるわけです。執着から逃げ去るなかにではなく、執着を理解する過程に、自由があるのです。それで私たちの疑問はこうです - なぜ人間は執着し、依存するのでしょうか。
何でもなく、自分自身では砂漠なので、他をとおして水を得たいと願うのです。空っぽで貧しくつらく不充分で、興味や重要性を欠如するので、他をとおして豊かになりたいと願う望むのです。他の愛をとおして、自分自身を忘れたいと願うのです。他の美しさをとおして美しさを取得したいと願うのです。家族をとおし、国家、民族をとおし、恋人をとおし、何か空想的信念をとおして、この砂漠を花で覆いたいと願うのです。そして、神は究極的な恋人です。それで、これらすべてのものごとを引っかけるのです。ここには苦しみと不確実性があるし、砂漠はかつてよりもっと不毛に見えるのです。もちろん、それの不毛は増えても減ってもいないのです。それは前のとおりです。苦しみをともなう何かの形態の執着をとおして逃避し、それからその苦しみから無執着へ逃避しながら、それを見つめるのを回避してきただけなのです。しかし、自らは前のとおり、不毛で空っぽです。それで、執着をとおしたり無執着をとおして逃避しようとするかわりに、私たちはこの所作に、この深い内的な貧しさと不足、この鈍くうつろな孤立に気づけないでしょうか。これが、ただ一つ大事なことなのです。執着や無執着ではありません。あなたは、どんな非難や評価づけの感覚もなく、それを見つめられるでしょうか。そうするとき、あなたは、観察されるもの・ことを見つめる観察者として、それを見つめているのでしょうか。それとも、観察者なしに、でしょうか。
質問者 観察されるもの・こととは、どういう意味でしょうか。
K あなたは、好き嫌い、見解、判断という結論すべて(をもつ中心から)、この空しさから自由でありたいとの願望などをもつ中心から、それを見つめているのでしょうか。あなたは、結論の眼でこの不毛を見つめているのでしょうか。それとも、完全に自由である眼で見つめているのでしょうか。あなたが完全に自由な眼でそれを見つめるとき、観察者はないのです。観察者がないのなら、さびしさ、空しさ、つらさという観察されるもの・ことは、あるのでしょうか。
質問者 あなたは、もし私が結論なく、観察者である中心なくあの樹を見つめるなら、あれも存在しないという意味で、言われるのでしょうか。
K もちろん樹は存在します。
質問者 私が観察者なく見るとき、なぜさびしさは消えるのに、樹は消えないのでしょうか。
K 樹は、中心により、「私 'me' 」の心により、造り出されないからです。しかし、その自己中心的活動すべてにおける「私 'me' 」の心が、この空しさ、この孤立を造り出してきたのです。そして、その心が中心なく見るとき、自己中心的活動は終わるのです。それで、さびしさはないのです。そのとき、心は自由のなか作用します。執着と無執着の構造全体と苦しみと楽しみの動きを見つめると、私たちは、「私 'me' 」の心がどのように自らの砂漠と自らの諸逃避を築くのかが、分かるのです。「私 'me' 」の心が止まっているとき、砂漠はないし、逃避はないのです。
(´・(ェ)・`)つ
833
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/05(火) 20:22:21 ID:aiE4qJxY0
くまめも3
なぜ執着し、依存するのか。自分自身では砂漠なので、他をとおして水を得たいと願う。空っぽなので、他をとおして豊かになりたいと願う。他の愛をとおして、自分自身を忘れたいと願う。他の美しさをとおして美しさを得たいと願う。家族、国家、空想的信念をとおして、砂漠を花で覆いたいと願う。それで、これらのものごとを引っかかる。
ここには苦しみと不確実性があるし、砂漠はかつてよりもっと不毛に見える。
苦しみを伴う執着をとおして逃避し、その苦しみから無執着へ逃避しながら、それを見つめるのを回避してきただけ。逃避ではなく、深い内的な貧しさと不足、鈍くうつろな孤立に気づくことが、ただ一つ大事。
非難や評価づけの感覚なく、それを見つめるとき、観察されるものを見つめる観察者として、それを見つめているのか、観察者なしにか。好き嫌い、見解、判断という結論すべてをもつ中心から、この空しさ、不毛から自由でありたいとの願望などをもつ中心から、それを見つめているのか。完全に自由な眼で見つめるとき、観察者はない。観察者がないのなら、さびしさ、空しさ、つらさという観察されるものは、ない。
質問者 私が観察者なく見るとき、なぜさびしさは消えるのに、樹は消えないのか。
K 樹は、中心により、「私 'me' 」の心により、造り出されないから。しかし、「私 'me' 」の心が、空しさ、孤立を造り出してきた。その心が中心なく見るとき、自己中心的活動は終わる。それで、さびしさはない。そのとき、心は自由のなか作用する。
執着と無執着の構造全体と苦しみと楽しみの動きを見つめると、私たちは、「私 'me' 」の心がどのように自らの砂漠と自らの諸逃避を築くのかが、分かる。「私 'me' 」の心が止まっているとき、砂漠はないし、逃避はない。
(´・(ェ)・`)
834
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/05(火) 22:06:32 ID:1d4drIFg0
真の自由とは執着だけでなく、執着の根本原因である自己の観念も無いのじゃ。
自己観念が無いから執着もありようが無いのじゃ。
執着とは自己があるという観念から起こる孤独や不安からの逃避であるからのう。
自己が無ければ執着も根本から消えるのじゃ。
835
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/05(火) 23:06:17 ID:eA0qYXDk0
変化の緊要
信念 1
質問者 私は、本当に神を信じる人々の一人です。インドでは私は、現代の偉大な聖者の一人に従いました。彼は神を信じているから、そこ(インド)で偉大な政治的変化をもたらしました。インドでは国全体が、神の鼓動にあわせて脈打つのです。私はあなたが神に反する話をされるのを聞いてきましたので、たぶんあなたは神を信じないのでしょう。しかし、あなたは宗教人であるし、ゆえにあなたには、ある種の至高なものの感情があるにちがいありません。私はインド中に行ったし、ヨーロッパの多くの地域を行き、修道院、教会、モスクを訪問しましたが、私はいたるところで、自らの生を形作ってくださるのが望まれる神への、このとても強く圧倒的な信を、見てきたのです。ここで、あなたは宗教人であるけれども、あなたは神を信じられないうえは、この疑問に関するあなたの立場は正確にはどうなのでしょうか。あなたはなぜ信じないのでしょうか。あなたは無神論者なのでしょうか。ご存じのとおり、ヒンドゥー教では、無神論者や有神論者でありながらも、平等にきちんとヒンドゥー教徒でいられるのです。もちろんキリスト教徒については違います。神を信じないのなら、キリスト教徒ではありえません。しかし、それは論点を外れています。論点は、私があなたに、あなたの立場を説明し、その妥当性を私に証明していただくようお願いに来たということです。人々はあなたに従うし、ゆえにあなたは応ずる責任があるし、ゆえに私はこのとおりあなたに挑戦しているのです。
(´・(ェ)・`)つ
836
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/06(水) 00:34:29 ID:TOYCij1M0
鬼和尚、↓のスレが、まだ落ちてなかったので、
一休さんの詩を毎日一首づつ載せるであります。
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/
(´・(ェ)・`)つ
837
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/06(水) 00:42:49 ID:TOYCij1M0
くまめも1
質問者 あなたはなぜ神を信じないのかという疑問に関するあなたの立場を説明し、その妥当性を証明していただきたい。
(´・(ェ)・`)
838
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/06(水) 23:07:53 ID:1d4drIFg0
観察者の無い観察こそがクリシュナムルティの説きたかった法なのじゃ。
観察者があれば自我もまだある観察なのじゃ。
それでは自我の観念から逃れられない観察なのじゃ。
自我の観念から自我は観られないのじゃ。
観察者の無い観察でこそ自我も観られるのじゃ。
839
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/06(水) 23:45:46 ID:m4QWxTvg0
変化の緊要
信念 2
K まず最初にこの最後の点を明らかにしてしまいましょう。従う人はいないのです。そして私は、あなたや、私の話を聞く人々に応ずる責任能力はないのです。また私は、ヒンドゥー教徒や他の何でもないのです。というのは私は、宗教的、その他の、どの集団にも属していないからです。一人一人が自分自身にとって光でなければなりません。ゆえに、教師もなく、学徒もないのです。これは最初から、明らかに理解されなければなりません。そうでなければ、感化されるし、宣伝と説得の奴隷になるのです。ゆえに、何でもいま言われていることは、教義や信条や説得ではないのです。私たちは理解のなか、たがいに出会うのか、出会わないのかのどちらかです。ここで、あなたはたいへん強調的にあなたは神を信じていると言われましたし、たぶんあなたはその信念をとおして、神性とでも呼べるかもしれないものを経験したいのでしょう。信念には多くのものごとが関与しています。ニューヨークやエッフェル塔の存在のように、あなたは見たことがないかもしれないが、確証できる事実、所作への信念があるのです。それからあなたは、現行としてはそれを知らないけれども、あなたの妻が貞淑であると信じるかもしれません。彼女は思考が不貞であるかもしれませんが、それでもなおあなたは、現行には彼女が他の誰かと行ってしまうのを見ないから、彼女が貞淑であると信じるのです。彼女は日々の思考ではあなたを欺瞞するかもしれないし、あなたもまた確実に同じことをしてきたにちがいないのです。あなたは、輪廻転生といったものがあることには確実性がないけれども、そういうものを信じているでしょう。けれども、その信念はあなたの生に、何の妥当性をも持たないでしょう。キリスト教徒すべては、自分たちは愛さなければならないことを信じていますが、彼らは愛さないのです - 他のどの人すべてとも同じく、彼らは物理的、心理的に殺すことに努めるのです。神を信じなくても善良である人たちもいるのです。神を信じて、その信念のために殺す人たちもいるのです。自分たちは平和がほしいと要求するから、戦争の準備をする人たちなどです。それで、いったい何かを信じることがどうして要るのかを、自分自身に訊ねなくてはなりません - これは、生、いのちのとてつもない神秘を拒否しないのですが。しかし、信念と「有るもの」は別々のものなのです。信念は言葉、思考ですし、これは、あなたの名が現行にはあなたではないのと同じく、そのものではないのです。
経験をとおして、あなたはあなたの信念の真理に触れたい、それをあなた自身に立証したいと願うのですが、この信念はあなたの経験を条件づけるのです。それは、経験が信念を立証するにいたるということではなくて、むしろ、信念が経験を設けるということなのです。神へのあなたの信念は、あなたに、あなたが神と呼ぶものの経験を与えてくれるでしょう。あなたはいつも、他の何でもなくあなたが信じるもの・ことを、経験するでしょう。そして、これはあなたの経験を無効にするのです。キリスト教徒は聖母、天使、キリストを見るでしょうし、ヒンドゥー教徒は非常に多数の同様な神格を見るでしょう。イスラム教徒、仏教徒、ユダヤ教徒、共産主義者は同じです。信念は、それ自体の仮想される立証を、条件づけるのです。重要なことは、あなたが何を信じるのかではなく、あなたはいったいなぜ信じるのかだけなのです。あなたはなぜ信じるのでしょうか。そして、あなたが何か一つを信じようと他の一つを信じようと、それで、現行として有るものに、どんな違いがあるのでしょうか。事実は、信や不信に感化されません。それで、なぜいったい何かを信じるのかを、訊ねなくてはなりません。信念の基礎は何なのでしょうか。それは恐怖でしょうか。生の不確実性でしょうか - 知られないもの・こと(の恐怖)、この常に変化する世界での安全の欠如の恐怖でしょうか。それは関係の不安全でしょうか。それとも、生の無量性に向き合い、それを理解しないので、自分自身を信念の庇護に閉じこめるのでしょうか。それで、お訊ねしてもよいのなら、もしもあなたが全く恐怖を持たなかったなら、あなたは信念を持つでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
840
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/06(水) 23:52:20 ID:m4QWxTvg0
くまめも2
K 何かを信じることがどうして要るのか。
信念と「有るもの」は別々のもの。信念は言葉、思考。言葉、思考は、そのものではない。経験をとおして、信念の真理に触れたい、それを自身に立証したいと願うが、この信念はあなたの経験を条件づける。経験が信念を立証するにいたるのではなくて、むしろ、信念が経験を設ける。
神へのあなたの信念は、あなたに、あなたが神と呼ぶものの経験を与えてくれる。あなたはいつも、他の何でもなくあなたが信じるもの・ことを、経験する。そして、これはあなたの経験を無効にする。信念は、それ自体の仮想される立証を、条件づける
重要なことは、何を信じるのかではなく、なぜ信じるのか。そして、何を信じようと、現行として有るものに、どんな違いがあるのか。事実は、信や不信に感化されない。
それで、なぜ何かを信じるのかを、問う。信念の基礎は何か。恐怖か、生の不確実性か、知られないもの・ことの恐怖、常に変化する世界での安全の欠如の恐怖か。それは関係の不安全か、それとも、生の無量性に向き合い、それを理解しないので、自分自身を信念の庇護に閉じこめるのか。もしも全く恐怖を持たなかったなら、あなたは信念を持つか。
(´・(ェ)・`)
841
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/07(木) 23:21:05 ID:1d4drIFg0
人が神を信じるのは恐れからなのじゃ。
神を信じていれば死んだ時にひげのじじいが出てきて天国に連れて行ってくれるとかいうから信じるのじゃ。
幻想を期待しているだけなのじゃ。
そのために他の宗教の者を害したりさえもするのじゃ。
それでは迷いから迷いに陥るばかりなのじゃ。
人の心の中にこそ死を超える道は在るのじゃ。
842
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/07(木) 23:25:52 ID:tQXStZAQ0
変化の緊要
信念 3
質問者 私が恐れていることは全く定かではありませんが、私は神を愛しているし、私をして神を信じさせるのは、この愛です。
K あなたは、あなたが恐怖を欠如しているし、ゆえに愛が何なのかを知っている、という意味で言われるのでしょうか。
質問者 私は恐怖を愛に置き換えてしまったので、私には恐怖が存在しないし、ゆえに私の信念は恐怖に基づいていないのです。
K 恐怖を愛で代替できるのでしょうか。それは、恐れていて、ゆえに恐怖を、これまた信念の、愛という言葉で覆い隠す思考の行為ではないのでしょうか。あなたはその恐怖を言葉で覆い隠してしまったし、あなたは、恐怖を消散させたいと願って、その言葉にすがるのです。
質問者 あなたが言われていることは、私を大いに動揺させます。私はこれを続けたいのか全く定かではありません。なぜなら、私の信念と私の愛は、私を支え(てきて)、私がまともな生を送るのを助けてきたからです。私の信念へのこの疑問は、無秩序の感覚をもたらすし、それを、率直には、私は恐れています。
K それで、恐怖はあるのですし、それをあなたはあなた自身で発見しはじめているのです。これがあなたを動揺させるのです。信念は恐怖から来るし、最も破壊的なものなのです。恐怖と信念から自由であるのでなければなりません。信念は人々を分割し、頑なにし、互いに憎みあわせ、戦争を養成するのです。遠回しにいやいやながら、あなたは、恐怖は信念を設けることを、認めつつあるのです。恐怖の事実に向き合うには、信念からの自由が必要です。他のどの理念とも同じく信念は、「有るもの」からの逃避です。恐怖がないときに、心は全く違った次元にあるのです。そのときにだけ、あなたは、神があるのかないのかという疑問を、問えるのです。恐怖や信念で曇った心は、どんな種類の理解の能力も、真理は何なのかを悟る能力もないのです。そういう心は幻想のなか生きるし、明白に、至高なるものに出会えないのです。至高のものは、あなたや他の誰の信念、見解、結論とも、何の関わりもないのです。
あなたは知らないので、信じます。しかし、知ることは知らないことなのです。知ることは、時間の小さな分野のなかにあるし、「私は知っている」と言う心は、時間に縛られるので、有るものをとうてい理解できないのです。つまるところ、あなたが「私は私の妻と友だちを知っている」と言うとき、あなたはイメージや記憶だけを知っているし、これは過去なのです。ゆえに、あなたはけっして現行には誰をも、何をも知りえないのです。あなたは、生きているもの・ことを知りえません。ただ死んだもの・こと(を知りうる)だけです。あなたはこれが分かるとき、もはや、知るということにおいて関係を考えないでしょう。それで、けっして「神はない」とか「わたしは神を知っている」とか言えないのです。これらはどちらも冒涜です。有るものを理解するには、知られたもの・ことからだけではなく、知られたもの・ことの恐怖から、知られないもの・ことの恐怖からも、自由があるのでなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
843
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/07(木) 23:27:16 ID:tQXStZAQ0
くまめも3
恐怖を愛で代替しようとするのは、恐れを愛という言葉で覆い隠す思考の行為。信念は恐怖から来る、最も破壊的なもの。恐怖と信念から自由でなければならない。信念は人々を分割し、頑なにし、憎みあわせる。恐怖に向き合うには、信念からの自由が必要。信念は、「有るもの」からの逃避。恐怖がないときに、心は全く違った次元にある。そのときにだけ、神があるのかと問える。恐怖や信念で曇った心は、真理は何かを悟る能力はない。そういう心は幻想のなか生き、至高なるものに出会えない。至高のものは、信念、見解、結論と何の関わりもない。
知らないので、信じる。しかし、「私は知っている」と言う心は、時間に縛られるので、有るものを理解できない。「知っている」と言うとき、イメージや記憶だけを知っているし、これは過去。ゆえに、けっして現行には誰をも、何をも知りえない。生きているものを知りえない。ただ死んだもの・ことを知りうるだけ。これが分かるとき、知るということにおいて関係を考えない。それで、「神はない」とか「わたしは神を知っている」とか言えない。これらはどちらも冒涜。
有るものを理解するには、知られたもの・ことからだけではなく、知られたもの・ことの恐怖から、知られないもの・ことの恐怖からも、自由があるのでなければならない。
(´・(ェ)・`)
844
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/08(金) 23:25:05 ID:1d4drIFg0
人が何かを知るというのは観念として記憶しただけなのじゃ。
同じものを見た時に記憶から観念を引き出してそれを知っているというのじゃ。
それは実物ではなく観念を見ているだけなのじゃ。
観念の神を見ている者は神を知らず信じることもできないのじゃ。
それはただ恐れからの逃避として観念にしがみついているだけなのじゃ。
845
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/09(土) 00:01:37 ID:rMVuTNcc0
変化の緊要
信念 4
質問者 あなたは、「有る」ものを理解することについて語りながらも、知ることの妥当性を拒否するのです。この理解は、知ることでないのなら、何なのでしょうか。
K 二つは全く違っているのです。知ることはいつも過去に関係してあるし、ゆえにそれはあなたを過去に縛るのです。知るのとは違って、理解は結論ではなく、蓄積ではないのです。あなたは聞いてきたなら、理解したのです。理解は注意です。あなたは完全に注意するとき、理解するのです。それで、恐怖を理解することは、恐怖の終わることなのです。ゆえに、あなたの信念はもはや支配的要因ではないのです。恐怖の理解が支配的なのです。恐怖がないとき、自由があるのです。何が真なのかが見られるのは、そのときだけなのです。「有る」ものが恐怖により歪曲されないとき、「有る」ものは真なのです。それはその言葉ではありません。あなたは真理を言葉で計量できません。愛は言葉ではなく、また信念でもなく、何かあなたが捕捉し「それは私のです」と言えるものでもないのです。愛と美しさなしには、神と呼ばれるものは、全く何でもないのです。
(´・(ェ)・`)つ
846
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/09(土) 00:02:41 ID:rMVuTNcc0
>>844
超要約ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
847
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/09(土) 00:03:25 ID:rMVuTNcc0
くまめも18-4
知ることはいつも過去に関係してあり、過去に縛る。理解は結論、蓄積ではない。理解は注意。完全に注意するとき、理解する。
恐怖を理解することは、恐怖の終わること。
ゆえに、信念はもはや支配的要因ではない。恐怖の理解が支配的。恐怖がないとき、自由がある。何が真なのかが見られるのは、そのときだけ。「有る」ものが恐怖により歪曲されないとき、「有る」ものは真。それはその言葉ではない。真理を言葉で計量できない。愛は言葉、信念ではなく、「それは私のです」と言えるものでもない。愛と美しさなしには、神と呼ばれるものは、全く何でもない。
※恐怖に付いての講話は、
>>629
〜
>>633
(´・(ェ)・`)b
848
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/09(土) 23:57:37 ID:1d4drIFg0
>>849
どういたしまして、またおいでなさい。
849
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/09(土) 23:59:38 ID:1d4drIFg0
理解とは気付くことなのじゃ。
それは記憶による知識とは違い、常に今ここにあるものごとに気付くことなのじゃ。
常に変化する心を観るには気付くことしかないのじゃ。
知識は過去を記録するものであるから、今ここにある心を観る役には立たないのじゃ。
850
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/10(日) 00:09:06 ID:dcxeBd5E0
変化の緊要
夢 1
質問者 私は専門家によって、夢を見ることは昼間の思考と活動と同じぐらい生命に関わるし、もしも私が夢を見なかったなら、私の日々の生活を大きな緊張とストレスのもとに(あると)気づくだろう、と言われてきました。ここで私は彼らの仲間内の言葉ではなく、私自身の言葉を使っているのですが、彼らは、眠りの一定の期間にまぶたの動きが、さわやかにしてくれる夢を表示するし、これらは頭脳に一定の明晰さをもたらすと主張するのです。私は、あなたがよく語ってこられた心の静けさは、夢の諸様式がもたらす平衡よりももっと大きな調和を生活にもたらすのかもしれない、と思っています。私はまた、夢の言語はなぜ象徴の一つであるのかを、訊ねたいようにも思うのです。
K 言語自体が象徴ですし、私たちは諸象徴に慣れています。私たちは、樹の象徴であるイメージをとおして樹を見るし、私たちは隣人について持っているイメージをとおしてその人を見るのです。イメージ、見解、結論はすべて象徴ですが、それらをとおさず何かを直接的に見ることは、明らかに、人間には最も困難なことの一つです。それで、夢のなかで諸象徴は大きな役割を果たすし、これには大きな欺瞞と危険があるのです。私たちは夢の意味は象徴にあると悟って、それらを解読しようとするけれども、その意味はいつも私たちに明らかであるのではないのです。私たちは、何かを見るとき、自発的にそれについて語るので、そのため言葉もまた象徴であることを認識しないほどなのです。このすべては、技術的事物には直接的伝達があるが、人間的な関係と理解にはめったにないことを、表示するでしょう。誰があなたを叩くとき、あなたに象徴は要りません。それは直接的伝達です。これはとても興味深い点なのです - 心は、ものごとを直接的に見るのを、言葉と象徴なしに自分自身に気づくのを、拒絶するのです。あなたは空は青いと言います。そのとき聞く人は、これを自分の青さの言及対象に応じて解読し、自分の暗号であなたに送信するのです。それで、私たちは諸象徴のなか生きるし、夢はこの象徴的過程の一部です。私たちは、象徴、言葉、先入観、結論なしの直接的で無媒介の知覚の能力がないのです。これの理由もまた全く明らかです。それは、防衛、抵抗、逃避、恐怖をもつ自己中心的活動の一部なのです。頭脳の活動には、暗号化された応答があるのです。そして、目覚めている時間に、私たちは直接的な応答や知覚の能力がないのだから、夢は自然と、象徴的であるにちがいないのです。
質問者 それではこれは頭脳の本来的機能であるように、私には見えるのです。
K 本来的とは、何か恒常で、必然的で、長続きするもの・こと、という意味です。確かにどんな心理的状態も、変化しうるのです。ただ、有機体の物理的安全に対する頭脳の深く常なる要求だけが、本来的なのです。象徴は、精神を保護するための頭脳の装置です。これが、思考の過程全体です。「私 'me' 」は、現行ではなく、象徴です。「私 'me' 」の象徴を造り出しておいて、思考は自分自身をその結論、定式と同定するし、そのときそれを防衛するのです。悲惨と悲しみのすべてが、これから来るのです。
質問者 それでは、私はどのようにそれを避けるのでしょうか。
K どう避けるのかを訊ねるとき、あなたはやはり「私 'me' 」の象徴に取りすがっていますが、それは虚構です。あなたは、あなたの見るもの・ことから分離したものになるし、それで二元性が生ずるのです。
質問者 これを継続するために、また他の日に戻ってきてもいいでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
851
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/10(日) 00:10:58 ID:dcxeBd5E0
くまめも1
言語、イメージ、見解、結論はすべて象徴。それらをとおさず直接的に見ることは、人間には困難。夢のなかで諸象徴は大きな役割を果たす。これには大きな欺瞞と危険がある。夢の意味は象徴にあると悟って、それらを解読しようとするが、その意味は明らかでない。何かを見て、それについて語るが、言葉もまた象徴。技術的事物には直接的伝達があるが、人間的な関係と理解にはない。心は、ものごとを直接的に見るのを、言葉と象徴なしに気づくのを、拒絶する。諸象徴のなか生きるし、夢はこの象徴的過程の一部。象徴、言葉、先入観、結論なしの直接的で無媒介の知覚の能力がない。防衛、抵抗、逃避、恐怖をもつ自己中心的活動の一部。頭脳の活動には、暗号化された応答がある。目覚めている時間に、直接的な応答や知覚の能力がないから、夢は自然と、象徴的。
有機体の物理的安全に対する頭脳の深く常なる要求だけが、本来的。象徴は、精神を保護するための頭脳の装置。「私 'me' 」は、現行ではなく、象徴。「私 'me' 」の象徴を造り出しておいて、思考は自身をその結論、定式と同定するし、そのときそれを防衛する。悲惨と悲しみのすべてが、これから来る。
それをどう避けるのかを訊ねるとき、「私 'me' 」の象徴に取りすがっているが、それは虚構。あなたは、見るもの・ことから分離したものになるし、それで二元性が生ずる。
(´・(ェ)・`)
852
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/10(日) 22:45:44 ID:1d4drIFg0
質問にあわせて自分の観念を象徴と呼ぶのじゃ。
人は自分という象徴を守ろうとしてさまざまな観念を作り出し、それが苦になるのじゃ。
それも自分という象徴があるという孤独や不安からの逃避として起こるものじゃ。
それが無ければ恐れも孤独も逃避も苦も無いのじゃ。
853
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/10(日) 23:18:29 ID:4/qOEk/o0
変化の緊要
夢 2
質問者 よくも戻ってこさせていただきました。私は、昨日私たちが離れたところから継続したいように思います。私たちは夢における象徴について話していました。あなたは、私たちが象徴によって生き、それらを私たちの満足に応じて解読することを、指し示されました。私たちは夢のなかだけではなく、日々の生活でもそうなのです。それは私たちのふつうの行動です。私たちの行為のほとんどは、私たちの持つ象徴やイメージの解釈に、基づいてあるのです。ふしぎにも、先日あなたとお話しした後、私の夢は奇妙な転換をしました。私はとても動揺する夢を見てきたのですが、それらの夢の解釈が、夢のなかで起きているままに、起こったのです。それは同時的過程でした。夢は夢見る者により解釈されつつありました。これは私には前に起きたことはないのです。
K 私たちの目覚めた時間には、観察されるもの・ことから異なった観察者、行為から分離した行為者が、いつもあるのです。同じように、夢から分離した夢見る者があるのです。彼は、それが自分自身から分離していて、ゆえに解釈が必要だと思うのです。しかし、夢は、夢見る者から分離しているのでしょうか。夢を解釈する必要があるのでしょうか。観察者は観察されるもの・ことであるとき、解釈し、判断し、評価づけるどんな必要があるのでしょうか。もしも観察者が観察されるもの・ことと異なっていたなら、この必要は存在するでしょう。これは理解することがとても重要です。私たちは観察されるもの・ことを観察者から分離してきたし、ここから解釈の問題だけではなく、葛藤、抗争と、それに関連する多くの問題もまた生じるのです。この分割は幻想です。諸集団、諸人種、諸民族、諸国家の間の分割は、虚構です。私たちは、名、ラベルにより分割されない存在です。ラベルばかりが重要になるとき、分割が起きるし、そのとき戦争と他の格闘すべてが存在するにいたるのです。
質問者 それでは、私は夢の内容をどのように理解するのでしょうか。それは意義を持つにちがいありません。私が、何か特定の出来事や人物の夢を見るのは、偶然なのでしょうか。
K 私たちは本当に、これを全く違ったように見つめるべきなのです。何か理解すべきもの・ことがあるのでしょうか。観察者が自らは観察されるもの・こととは異なると思うとき、彼自身の外側にあるもの・ことを理解しようとする試みがあるのです。同じ過程は彼のなかで続きます。自らの観察するもの・ことは彼自身であるのに、それを理解したいと願う観察者があるのです。しかし、観察者が観察されるもの・ことであるとき、理解するという問題はないのです。観察だけがあるのです。あなたは、夢には何か理解されるもの・ことがある、そうでなければ夢はないだろうと言われます。そして、夢は、何か未解決で理解すべきもの・ことのほのめかしであると、言われます。あなたは、「理解する」という言葉を使われますが、まさにその言葉こそに二元的過程があるのです。あなたは、「私 'I' 」と、理解されるべきもの・ことがあると思うのですが、真実には、これら二つの事物は一つで、同じなのです。ゆえに、夢の意味へのあなたの探求は、葛藤の行為です。
質問者 あなたは、夢は心の何かの表現であると言われるのでしょうか。
K 明白にそうです。
(´・(ェ)・`)つ
854
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/10(日) 23:23:03 ID:4/qOEk/o0
くまめも2
目覚めた時間には、観察されるものと異なった観察者、行為から分離した行為者がある。同様に、夢から分離した夢見る者がある。彼は、それが自分自身から分離していて、解釈が必要だと思う。しかし、夢は、夢見る者から分離しているか。解釈する必要があるか。
観察者は観察されるものであるとき、解釈し、判断、評価づける必要があるのか。もしも観察者が観察されるものと異なっていたなら、この必要はある。この理解は重要。
観察されるものを観察者から分離してきた。ここから解釈、葛藤、抗争それに関連する多くの問題が生じる。この分割は幻想。
諸集団間の分割は、虚構。私たちは、名、ラベルにより分割されない存在。ラベルばかりが重要になるとき、分割が起き、戦争、格闘すべてが生じる。
観察者が自らは観察されるものとは異なると思うとき、彼自身の外側にあるものを理解しようとする。しかし、観察者が観察されるものであるとき、理解するという問題はない。観察だけがある。「理解する」という言葉こそに二元的過程がある。あなたは、「私 'I' 」と、理解されるべきものがあると思うが、真実には、これら二つの事物は一つで、同じ。ゆえに、夢の意味へのあなたの探求は、葛藤の行為。夢は心の何かの表現である。
(´・(ェ)・`)
855
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/11(月) 22:31:26 ID:1d4drIFg0
観察する事は観察される対象と観察する者を生み出すのじゃ。
それ故に観察する者そのものを観察する事は難しいのじゃ。
観察することが分離を生み出すからのう。
観察する者が今ここで観察する自らを観た時、観照は起こるのじゃ。
856
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/12(火) 00:29:50 ID:d76TxRxw0
変化の緊要
夢 3
質問者 私は、夢をあなたが叙述しておられるとおりに眺めることがどうして可能なのか、理解できません。それは、意義を持たないのなら、なぜ存在するのでしょうか。
K 「私 'I' 」は夢見る者です。夢見る者は、自らの考案または投影した夢の意義を分かりたいのです。それで、どちらも夢ですし、どちらも非真実です。この非真実は、自分自身を分離していると思う夢見る者に、観察者に、真実になったのです。夢の解釈の問題全体は、行為者と行為との間のこの分離、この分割から生じるのです。
質問者 私はますます混乱してきますので、私たちはそれを再び違ったように調べてみてもいいでしょうか。私は、夢は私の心の産物であり、それから分離していないことが分かります。しかし、夢は、探検されたことのない心の水準から来るように思われるのです。だから、夢は、何か心のなかの生きているもの・ことの暗示であるように、思われるのです。
K それは、隠れたものごとがあるあなた特定の心ではないのです。あなたの心は人間の心です。あなたの意識は人間の全体です。しかし、あなたはそれをあなたの心と特定化するとき、その活動を制限するし、この制限ゆえに夢が生ずるのです。目覚めた時間に、観察者は制限の表現ですが、彼なく観察しなさい。どんな分割も制限です。自分自身を「私 'me' 」と「非私 'not me' 」とに分割しておいて、「私 'me' 」、観察者、夢見る者は、多くの問題を持つのです - それらのなかは、夢と夢の解釈です。どの場合にも、あなたは、制限された仕方でのみ夢の意義や価値が分かるでしょう。なぜなら、観察者はいつも制限されているからです。夢見る者は、自分の制限を永続化します。ゆえに、夢はいつも、全体の(表現)ではなく、不完全なもの・ことの表現です。
質問者 月の構成を理解するために、月から破片が持ち帰られるのです。同じように、私たちは、私たちの夢から破片を持ち帰り、それらの表現するもの・ことを検討することにより、人間の思考を理解しようとするのです。
K 心の表現は心の断片です。各断片が、それなりにそれ自体を表現し、他の諸断片と矛盾するのです。一つの夢はもう一つの夢と、一つの行為はもう一つの行為と、一つの願望はもう一つの願望と矛盾するかもしれません。心はこの混乱に生きるのです。心の一部分は、自分は、夢、行為、願望といったもう一つの部分を理解しなければならないと言うのです。それで、各部分が自分の観察者、自分の活動を持つのです。そのとき、超観察者がそれらすべてを調和に持っていこうとします。超観察者もまた心の断片です。夢を生み育てるのは、これら矛盾、これら分割です。
それで、本当の疑問は、特定の夢の解釈や理解ではないのです。それは、これら多くの諸断片が全体に収まるという知覚です。そのとき、あなたはあなた自身を、全体の断片としてではなく、全体として見るのです。
質問者 あなたは、一日の間に、自分の家庭生活や実業生活や生の他のどんな個別の面だけでもなく、生の動き全体に気づくべきである、と言われているのでしょうか。
K 意識は人間の全体であり、特定の人に属していないのです。特定の一人の意識があるとき、断片化、矛盾、戦争という複雑な問題があるのです。目覚めた時間に(一人の)人間に生の全的動きの気づきがあるとき、いったい夢にどんな必要があるのでしょうか。この全的気づき、この注意は、断片化と分割を終わりにするのです。いかなる葛藤、抗争もないとき、心は夢の必要がないのです。
質問者 確かにこれで、扉が開かれるし、それをとおして多くのものごとが見るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
857
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/12(火) 00:41:36 ID:d76TxRxw0
くまめも3
夢見る者、夢、どちらも夢、どちらも非真実。この非真実は、自分自身を分離していると思う夢見る者、観察者に、真実になった。
夢の解釈の問題全体は、行為者と行為との間のこの分離、分割から生じる。
夢は、隠れたものごとがあるあなた特定の心ではない。あなたの心、意識は人間の全体のそれ。それを特定化するとき、その活動を制限するし、この制限ゆえに夢が生ずる。
目覚めた時間、観察者は制限の表現。彼なく観察しろ。どんな分割も制限。自分自身を「私 'me' 」と「非私 'not me' 」に分割しておいて、「私 'me' 」、観察者、夢見る者は、多くの問題を持つ。夢見る者は、自分の制限を永続化する。ゆえに、夢はいつも、全体のではなく、不完全なもの。
心の表現は心の断片。各断片が、それなりにそれ自体を表現し、他の諸断片と矛盾する。
一つの夢、行為、願望はもう一つのと矛盾する。心はこの混乱に生きる。心の一部分、自分は、夢、行為、願望といったもう一つの部分を理解しなければならないと言う。それで、各部分が自分の観察者、活動を持つ。そのとき、超観察者がそれらすべてを調和に持っていこうとする。超観察者もまた心の断片。夢を生み育てるのは、この矛盾、分割。
夢は、多くの諸断片が全体に収まるという知覚。自身を、全体の断片としてではなく、全体として見る。
質問者 一日の間に、生の動き全体に気づくべきか。
K 意識は人間の全体であり、特定の人に属さない。特定の一人の意識があるとき、断片化、矛盾という複雑な問題がある。
目覚めた時間に人間に生の全的動きの気づきがあるとき、この全的気づき、注意は、断片化と分割を終わりにする。いかなる葛藤、抗争もないとき、心は夢の必要がない。
(´・(ェ)・`)
858
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/12(火) 00:50:06 ID:d76TxRxw0
>>856
>意識は人間の全体であり、特定の人に属していない・・・この全的気づき、この注意は、断片化と分割を終わりにする。
うむ。それが、むずかしいのである。
結局、Kは、いつも、常に、注意してあれば、気づけると言うのでありましょう、
(´・(ェ)・`)っ
859
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/12(火) 22:14:09 ID:1d4drIFg0
↑それも難しい事じゃ。
悟りを得ていない者にはほとんど不可能なのじゃ。
結局悟った者が悟りを得る方法となってしまうのじゃ。
悟りを得ていない者はただひたすらに観察在るのみなのじゃ。
観察そのものになりきるまで実践すれば観察者無しに観察する事も出来るのじゃ。
860
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/13(水) 03:15:45 ID:eCJLneZg0
変化の緊要
伝統 1
質問者 本当に伝統から自由になれるのでしょうか。いったい何かから自由でありうるのでしょうか。それともこれは、それをよけてかわし、それとどんな関係をも持たないという事態でしょうか。あなたは過去とその条件づけについてたいへん多くを話されます - しかし、私は本当に、私の生のこの背景全体から自由になれるのでしょうか。それとも私は、背景から自由になるよりむしろ、単にそれをさまざまな外的要求と挑戦に応じて修正し、私自身をそれに適応させられるだけなのでしょうか。これは最も重要なものごとの一つであるように私には思われます。そして、私は自分が重荷を、過去の重さを運んでいるといつも感じるから、私はそれを理解したいように思うのです。私はそれを降ろし、二度とそれに戻ってこないで、それから歩み去りたいように思うのです。これは可能でしょうか。
K 伝統は、過去を現在に運ぶ、持ち越すという意味ではないでしょうか。過去は、自分特定のひとまとまりの相続(である)だけではなく、特定の文化と伝統に生きてきた特定集団の人々の集合的思考すべての重さでもあるのです。人は、人種、民族と家族の蓄積された知識と経験を、持ち運びます。このすべて - 知られたもの・ことから現在へ持ち越す、運ぶこと - が、未来を形作る過去なのです。歴史すべてを教えることは、伝統の一形態ではないでしょうか。あなたは、このすべてから自由になれるのかを訊ねています。まず最初に、なぜ自由になりたいのでしょうか。なぜこの重荷を降ろしたいのでしょうか。なぜでしょう。
質問者 私はそれはそうとう単純であると思います。私は過去でありたくないのです - 私は私自身でありたいのです。私は、新しい人間になれるように、この伝統全体を浄化されたいのです。私たちのほとんどには、新しく生まれたいというこの感情がある、と私は思うのです。
K あなたは、(新しい者になることを)願うだけでは、または新しくなろうと格闘するだけでは、とうてい新しい者になれません。あなたは過去を理解するだけではなく、またあなたが誰であるかをも見出さなくてはなくてはなりません。あなたは過去ではないでしょうか。あなたは、あったもの・ことの、現在により修正された継続ではないでしょうか。
質問者 私の行為と思考はそうですが、私の存在はそうではありません。
K あなたは、行為と思考の二つを、存在から分離できるのでしょうか。思考、行為、存在、生きること、関係は、すべて一つではないでしょうか。「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」へのこの断片化は、この伝統の一部です。
(´・(ェ)・`)つ
861
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/13(水) 03:16:27 ID:eCJLneZg0
くまめも20-1
伝統は、過去を現在に運ぶ、持ち越すという意味。過去は、自分特定のひとまとまりの相続だけではなく、特定の文化と伝統に生きてきた特定集団の人々の集合的思考すべての重さでもある。人は、人種、民族と家族の蓄積された知識と経験を持ち運ぶ。知られたもの・ことから現在へ持ち越す、運ぶことが、未来を形作る過去。歴史すべてを教えることは伝統の一形態、これから自由になれるか。
新しい者になることを願い、格闘するだけでは、新しい者になれない。過去を理解するだけではなく、あなたが誰かをも見出さなくてはならない。あなたは過去ではないか。あなたは、あったもの・ことの、現在により修正された継続ではないか。
行為と思考の二つを、存在から分離できるか。思考、行為、存在、生きること、関係は、すべて一つではないか。
「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」へのこの断片化は、この伝統の一部。
(´・(ェ)・`)
862
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/13(水) 22:46:32 ID:1d4drIFg0
過去から自由になりたいという願望ですら、過去からの観念なのじゃ。
それだけでは到底自由にはなれないのじゃ。
自分がなにものであるかを見出さなければならんのじゃ。
自分を過去からの観念ではなく、今ここで観ることにより理解して気付くのじゃ。
それが全ての賢者達の教えなのじゃ。
863
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 02:55:14 ID:6AQRseHA0
変化の緊要
伝統 2
質問者 あなたのいわれるのは、私が考えていないとき、過去が作動していないとき、私は滅却される。私は存在するのを停止する、という意味なのでしょうか。
K あまりに多くの質問をしないで、私たちが始めたところを考慮しましょう。過去 - 近来のだけではなく有史以前のもの、集合的なもの、人種的なもの、人間的なもの、動物的なもの - から、自由になれるでしょうか。あなたはそのすべてです。あなたはそれから分離してないのです。そしてあなたは、そのすべてを片づけ、新しく生まれられるのかを訊ねています。「あなた 'you' 」はそれであるのです。あなたが新しい事物として生まれ変わりたいと願うとき、あなたが想像する新しい事物は、「新しい」という言葉で覆い隠された、古いものの投影です。しかし、下ではあなたは過去なのです。それで、疑問はこうです - 過去は片づけられるのでしょうか。それとも、修正された形態の伝統はいつまでも継続するのでしょうか。変化し、蓄積し、取り除くが、いつも、違った結合での過去でしょうか。過去は原因ですし、現在は結果です。今日は昨日の結果ですが、明日の原因になるのです。この連鎖が思考の道なのです。というのは、思考は過去であるからです。あなたは、今日への昨日のこの動きを止められるのかを訊ねています。過去を検討するため、見つめられるでしょうか。それともそれは全く可能ではないのでしょうか。それを見つめるには、観察者がそれの外側にあるのでなければなりません - しかし、そうではないのです。それでここに、もう一つの主題が生ずるのです。観察者自身が過去であるのなら、そのとき、過去はどのように、観察のため孤立させられるのでしょうか。
質問者 私は何かもの・ことを客観的に見つめられるし・・・
K しかし、あなたは観察者ですが、それ自体を見つめようとしている過去なのです。あなたは、あなたが長年にわたってあらゆる形態の関係において組み立ててイメージとして、あなた自身を客体化できるだけなのです。それで、あなたが客体化する「あなた」は、記憶と想像、過去なのです。あなたは、まるであなたが、見つめている人とは異なった事物であるかのように、あなた自身を見つめようとしています。しかし、あなたは、古い判断、評価づけなどをともなう過去であるのです。過去の行為が、過去の記憶を見つめているのです。ゆえに、過去からの救出は、けっしてないのです。過去による過去の継続的検討は、過去を永続化するのです。これがまさに過去の行為ですし、これが伝統のまさに本質です。
(´・(ェ)・`)つ
864
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 13:09:17 ID:6KoK9UVM0
くまめも2
過去−有史以前の、集合的、人間的、動物的なもの−から、自由になれるか。 あなたは、分離してない。そのすべてを片づけ、新しく生まれられるか。新しい事物として生まれ変わりたいと願うとき、想像する新しい事物は、「新しい」という言葉で覆い隠された、古いものの投影。それで、疑問は、過去は片づけられるか。それとも、修正された形態の伝統はいつまでも継続するか。変化、蓄積し、取り除くが、いつも、違った結合での過去か。過去は原因、現在は結果。今日は昨日の結果、明日の原因。この連鎖が思考の道。というのは、思考は過去であるから。
過去を検討するため、見つめられるか。それを見つめるには、観察者がそれの外側にあるのでなければならないが、そうではない。
それでここに、もう一つの主題が生ずる。観察者自身が過去であるなら、過去はどのように、観察のため孤立させられるのか。あなたは観察者だが、それ自体を見つめようとしている過去。あなたが長年にわたってあらゆる関係において組み立てたイメージとして、自身を客体化できるだけ。あなたが客体化する「あなた」は、記憶と想像、過去。
あなたは、まるであなたが、見つめている人とは異なった事物であるかのように、自身を見つめようとしている。しかし、あなたは、古い判断、評価づけなどをともなう過去。過去の行為が、過去の記憶を見つめている。ゆえに、過去からの救出は、けっしてない。過去による過去の継続的検討は、過去を永続化する。これがまさに過去の行為だし、これが伝統のまさに本質。
(´・(ェ)・`)
865
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/14(木) 22:27:28 ID:1d4drIFg0
自分を観る時に分別を働かせると過去の記憶から観ていることになるのじゃ。
過去の記憶からの価値観や条件付け等から見てしまうのじゃ。
それではやはり観念しか見えないのじゃ。
今ここに在るものとしてありのままに、己を起こす心の働きを感知するのじゃ。
866
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 23:36:55 ID:PWaryu2Q0
変化の緊要
伝統 3
質問者 それでは、どういう行為が可能なのでしょうか。私が過去であるのなら - 私はそうであることが分かるのですが、そのとき、私が過去を削りとるためするいかなることも、それに付け加えることなのです。それで、私はどうしようもないままなのです!私に何ができるのでしょうか。私は祈れません。なぜなら、神の考案もまた過去の行為であるからです。私は他の人を頼れません。他の人もまた私の絶望の創作であるからです。私はそのすべてから逃げ去れません。なぜなら、その終わりにもやはり私は、私の過去とともにいるのです。私は私自身を、過去のではない何かイメージと同定できません。なぜなら、そのイメージもまた私自身の投影であるからです。このすべてを見て、私は本当にどうしようもなく、絶望のなか残されているのです。
K なぜあなたは、それをどうしようもない、絶望と言うのでしょうか。あなたは、一定の結果を達成できないから、過去と見えるものを情動的心配に翻訳していないでしょうか。そうするなかであなたは再び、過去をして行為させていないのです。ここであなたは、伝統すべてをもつ過去のこのすべての動きを、それから自由になりたい、それを変化させたい、修正したい、それから逃げ去りたいと思わず、見つめられるでしょうか。どんな反応もなく単純にそれを観察できるでしょうか。
質問者 しかし、私たちがこの会話をとおして言ってきたとおり、私は過去であるのなら、どうして過去を観察できるのでしょうか。私はまったくそれを見つめられないのです!
K あなた自身は過去ですし、思考の動きは過去ですが、あなたはあなた自身を思考のどんな動きもなく見つめられるでしょうか。あなたが、考え、評価づけ、好き嫌い、判断なしに見られるなら、そのとき、過去に触れられない眼で見ることがあるのです。それは、静寂のなか、思考の音なく見ることです。この静寂には、観察者も、彼が過去として見つめているものも、どちらもないのです。
質問者 あなたは、評価づけや判断なく見るとき、過去は消えてしまったと言われているのでしょうか。しかし、そうなっていないのです - 何千の思考と行為、ほんの一瞬前にあばれていた卑小のすべてが、やはりあるのです。私はそれらを見つめるし、それらはやはりあるのです。過去が消えてしまったとどうして言えるのでしょうか。それは瞬間的に行為するのを止めたかもしれません・・・
K 心が静寂であるとき、その静寂は新しい次元です。そして、何かあばれる卑小さがあるとき、それは瞬時に解消されるのです。なぜなら、心はいまや、過去が生成したエネルギーではない違った性質のエネルギーを持つからです。これが大事なことなのです - 過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つこと、です。過去を持ち運ぶことは、違った種類のエネルギーです。静寂は他の一つを拭い去るのです。大きなものが小さなものを吸収し、触れられぬままなのです。それは、海に似ています。汚れた川を受容して、清浄なままなのです。これが大事なことなのです。過去を拭い去れるのは、このエネルギーだけなのです。静寂(があるの)か、過去の音があるのかのどちらかです。この静寂のなか音は停止するし、新しいものはこの静寂です。それは、あなたが新しくなるのではないのです。この静寂は無際限ですし、過去は制限されているのです。過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去るのです。
(´・(ェ)・`)つ
867
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 23:38:53 ID:PWaryu2Q0
くまめも3
質問者 過去を削りとるためすることは、それに付け加えること。私自身を、過去のではないイメージと同定できない。なぜなら、それもまた私自身の投影であるから。
K 過去のすべての動きを、それから自由になりたい、変化させたい、修正したい、逃げ去りたいと思わず、見つめられるか。反応なく単純にそれを観察できるか。
質問者 私は過去であるのなら、どうして過去を観察できるか。私はそれを観れない。
K あなた自身は過去、思考の動きは過去だが、あなた自身を思考の動きなく見つめられるか。考え、評価づけ、好き嫌い、判断なしに見れるなら、そのとき、過去に触れられない眼で見ることがある。それは、静寂の中、思考の音なく見ること。この静寂には、観察者も、彼が過去として見つめているものも、どちらもない。
質問者 何千の思考と行為、ほんの一瞬前にあばれていた卑小のすべてが、やはりある。
過去が消えてしまったとどうして言えるか。
K 心が静寂であるとき、その静寂は新しい次元。何かあばれる卑小さがあるとき、それは瞬時に解消される。心はいまや、過去が生成したのではない違った性質のエネルギーを持つ。過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つことが大事。静寂は過去を拭い去る。大きなものが小さなものを吸収し、触れられぬままなのだ。それは、海に似ている。汚れた川を受容して、清浄なままなのだ。過去を拭い去れるのは、このエネルギーだけ。新しいものはこの静寂。あなたが新しくなるのではない。この静寂は無際限。過去は制限されている。過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去る。
(´・(ェ)・`)
868
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/14(木) 23:48:20 ID:PWaryu2Q0
>>862
うむ。
質問者も、繰り返しその難しさを訴えているのであるが、
Kの説くところは、
「過去を持ち運ぶのを消し去るエネルギーを持つこと・・・過去の条件づけは、静寂の充実のなか崩れ去る。」
無思考の訓練は、瞑想で出来るでありますね。
(´・(ェ)・`)b
869
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/15(金) 22:50:39 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、結局は瞑想が必要なのじゃ。
悟っていない者には静寂に達することも無理であるからのう。
悟ってから静寂も感じるものじゃ。
過去から解放されるには悟ってから悟れというようなものじゃ。
870
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/15(金) 23:01:21 ID:1d4drIFg0
静寂は深い瞑想の中で我を忘れた時にも訪れるじゃろう。
忘我の境地はサマーディと呼ばれるのじゃ。
まだ悟りではないが自らの心を観るためには最も優れた境地なのじゃ。
サマーディの静寂の中で分別も過去もなく自らを観ることができるのじゃ。
871
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 00:23:05 ID:1jo0mRFQ0
変化の緊要
条件づけ 1
質問者 あなたは、条件づけについてたいへん多くを話されたし、この束縛から自由であるのでなければならない、そうでなければ、いつも投獄されたままであると言われました。この種の説はとても無法で、受け入れがたいと思われます!私たちのほとんどは、とても深く条件づけられているし、私たちはこの説を聞き、お手上げですし、そういう突拍子もない表現から逃げ去ります。しかし、私はお話を真剣に取ってきました - というのも、あなたは多かれ少なかれ、趣味としてではなく、深い真剣さをもって自らの生をこの種のことに捧げてこられたからです - ゆえに、私は、人間がどこまで自分自身を条件づけから解き放てるのかを見るため、それをあなたと議論したいように思うのです。それは本当に可能なのでしょうか。もし可能なら、どれはどういう意味なのでしょうか。私は、習慣、伝統(の世界)、こんなに多くの事態での正当的概念の受け入れの世界に生きてきましたが、可能なのでしょうか - 私が本当にこの深く根づいた条件づけを投げ捨てることは、可能なのでしょうか。正確には、条件づけとはどういう意味なのでしょうか。そして、条件づけからの自由とはどういう意味なのでしょうか。
K まず初めに第一の疑問を取りましょう。私たちは、物理的、神経的、精神的に条件づけられてあるのです - 私たちが生きる気候風土と食べる食物により、私たちが生きる文化により、私たちの社会的、宗教的、経済的環境の全体により、私たちの経験により、教育により、家族の圧力と感化によって。これらすべてが、私たちを条件づける要因です。知的、情的、外的、内的な私たちの環境の挑戦すべてへの私たちの意識的、無意識的応答 - これらすべては、条件づけの行為です。言語は条件づけです。思考すべては、条件づけの行為、応答です。
私たちが条件づけられてあることを知って、私たちは、私たちをこの機械的状態から救い出してくれるだろうと敬虔に願うところの神的機関を、考案するのです。私たちは私たち自身の外側または内側にその存在を措定します - アートマン、たましい、内なる神の王国として、後は神のみぞ知るです!それら自体が、破壊したり贖罪してくれるとされる条件づけの要因の一部であることが分からないで、私たちは、これら信念に必死にすがるのです。それで、この世界で私たち自身を条件づけから解き放つことができないし、条件づけが問題であることさえ分からないので、私たちは、天国や解脱や涅槃に自由があると思うのです。原罪というキリスト教の神話と輪廻という東洋の教義全体には、かなり曖昧ながら条件づけの要因が感じられてきたことが、分かるのです。もしもそれが明らかに分かったのなら、当然これらの教義と神話は生じなかったでしょう。今日、心理学者もまたこの問題に取り組もうとするし、そうするなかで私たちをさらにいっそう条件づけるのです。
(´・(ェ)・`)つ
872
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 00:24:29 ID:1jo0mRFQ0
くまめも1
私たちは、物理的、神経的、精神的に条件づけられてある。気候風土、食物、文化、社会的、宗教的、経済的環境の全体、経験、教育、家族の圧力と感化によって。
知的、情的、外的、内的な私たちの環境の挑戦すべてへの意識的、無意識的応答-これらすべては、条件づけの行為。言語、思考すべては、条件づけの行為、応答。私たちは、この機械的状態から救い出してくれるだろうと敬虔に願うところの神的機関を、考案し、自身の外側または内側に、アートマン、たましい、内なる神の王国としてその存在を措定する。それら自体が、破壊したり贖罪してくれるとされる条件づけの要因の一部であることが分からないで、これら信念に必死にすがる。それで、この世界で自身を条件づけから解き放つことができないし、条件づけが問題であることさえ分からないので、私たちは、天国や解脱や涅槃に自由があると思う。原罪という神話と輪廻という教義全体には、曖昧ながら条件づけの要因が感じられる。
もしもそれが明らかに分かったのなら、当然これらの教義と神話は生じなかった。
心理学者もまたこの問題に取り組むなかでさらにいっそう条件づける。
(´・(ェ)・`)
873
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 00:28:07 ID:1jo0mRFQ0
うむ。Kは、否定によってのみあらわされるアートマンをも、否定するのでありますね。
言葉で表現されることを一切見ない。一切の観念のない、無思考であること=静寂のみを追求せよと言うのでありますね。
(´・(ェ)・`)b
874
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/16(土) 23:00:28 ID:1d4drIFg0
アートマンの観念も創られた当初は有効な法であったが、長い間使われているうちに過去の条件付けになってしまったのじゃ。
人の間で伝播するうちにどうしてもいろいろな観念が付随してしまうからのう。
全ての観念を捨てるのがアートマンの法なのに、アートマンの観念を守ってしまうのじゃ。
本末転倒なのじゃ。
875
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 23:20:37 ID:5sl1fQqk0
変化の緊要
条件づけ 2
かくして、宗教的専門家は私たちを条件づけてきたし、社会秩序は私たちを条件づけてきたし、それの一部である家族は私たちを条件づけてきたのです。このすべてが、心の隠れた層とともに明らかなものを作り上げる過去なのです。ちなみに、いわゆる個人は全く存在しないことに注目するのは、興味深いのです。というのは、彼の心は、彼が他のあらゆる人と分かち合う条件づけの公共貯蔵庫に、頼るからです。それで、共同体と個人の間の区別は、虚偽なのです。ただ条件づけのみがあるのです。この条件づけは、ものごと、人々、観念との諸関係すべてにおける行為です。
質問者 それでは、私はそのすべてから自由になるには、何をすべわきでしょうか。この機械的状態に生きることは、全く生きることではないし、それでもなお、行為すべて、意志すべて、判断すべてが条件づけられてあるのです - それで、明らかに、条件づけについて私のできる、条件づけられていないことは、何もないのです!私は手足を縛られているのです。
K 過去、現在、未来の条件づけの要因こそが、時間ということで考える「私 'me' 」、それ自体を発揮する「私 'me' 」です。そしていま、それは、自由になりたいとの要求においてそれ自体を発揮します。それで、条件づけすべての根は、「私 'me' 」である思考です。「私 'me' 」は過去のまさに本質です。「私 'me' 」は時間です。「私 'me' 」は悲しみです - 「私 'me' 」が、それ自体から自由になろうと尽力するし、「私 'me' 」が、達成するため、拒否するため、なるため努力し、格闘するのです。なるためのこの格闘が、混乱ともっと多くもっと良くへの欲があるところの時間です。「私 'me' 」が安全を探し求めるし、それが見つからないので、探求を天国に移転します。それ自体を失いたいと願うところの何かもっと大きなものに - それが国家でも、民族でも、理想でも、何か神でも - それ自体を同定する「私 'me' 」こそが、条件づけの要因です。
質問者 あなたは、私からあらゆるものごとを取ってしまいました。この「私 'me' 」なしに、私は何なのでしょうか。
K 「私 'me' 」がないのなら、あなたは条件づけられていないし、それは、あなたが何でもないという意味です。
質問者 「私 'me' 」の努力なく、「私 'me' 」は終わりうるのでしょうか。
K 何かになろうとする努力は、条件づけの応答、行為です。
質問者 「私 'me' 」の行為はどのように止まるのでしょうか。
K あなたがこの全体、その事態全部を見てこそ、それは止まりうるのです。あなたが行為のなか、すなわち関係のなかそれを見るなら、見ることが「私 'me' 」の終わることなのです。この見ることは、条件づけられていない行為であるだけではなくて、条件づけに対して行為するのです。
(´・(ェ)・`)つ
876
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 23:27:29 ID:5sl1fQqk0
くまめも2
①彼の心は、あらゆる人と分かち合う条件づけの公共貯蔵庫に頼るから、いわゆる個人は全く存在しない。共同体と個人の間の区別は、虚偽。ただ条件づけのみがある。条件づけは、ものごと、人々、観念との諸関係すべてにおける行為。②過去、現在、未来の条件づけの要因こそが、時間ということで考える「私 'me' 」。条件づけすべての根は、「私 'me' 」である思考。③「私 'me' 」は、過去の本質、時間、悲しみ。④「私 'me' 」が、それ自体から自由になろうと尽力し、「私 'me' 」が、達成するため、拒否するため、なるため努力し、格闘する。なるためのこの格闘が、混乱と、もっと多く、もっと良くへの欲があるところの時間。
⑤「私 'me' 」が安全を探し求め、大きなものに−国家、理想、神−それ自体を同定する「私 'me' 」こそが、条件づけの要因。「私 'me' 」がないのなら、あなたは条件づけられていない。⑤何かになろうとする努力は、条件づけの応答、行為。この事態全部を見てこそ、それは止まりうる。
行為のなか、すなわち関係のなかそれを見るなら、見ることが「私 'me' 」の終わること。
この見ることは、条件づけられていない行為であるだけではなくて、条件づけに対して行為する。
(´・(ェ)・`)
877
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/16(土) 23:31:37 ID:5sl1fQqk0
①〜⑤までを全部見るなら「私」は終わる、無我にに気づけるみたいな。
がんばるしかありますまい。
(´・(ェ)・`)b
878
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/17(日) 22:37:57 ID:1d4drIFg0
見ることこそ条件付けられていない行為とクリシュナムルティは言うのじゃ。
条件付けに対して行為できるものであると。
そうであるから条件付けから脱することができるのじゃ。
自分という条件付けによる観念からも脱却できるのじゃ。
879
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/17(日) 23:14:56 ID:4r7N8PaQ0
変化の緊要
条件づけ 3
質問者 あなたのいわれるのは、頭脳 - すなわち、無際限の条件づけをもつ広大な進化の結果 - は、自由になれるという意味でしょうか。
K 頭脳は時間の結果です。それは、物理的にそれ自体を保護するよう条件づけられています。しかし、それが心理的にそれ自体を保護しようとするとき、「私 'me' 」が始まるし、私たちの悲惨すべてが始まるのです。「私 'me' 」の肯定とは、心理的にそれ自体を保護しようとするこの努力であるのです。頭脳は、学びうるし、科学技術的に知識を取得できるのですが、それが心理的に知識を取得するとき、その知識は関係のなか、経験、意志、暴力をもつ「私 'me' 」として、それ自体を主張するのです。これが、関係に区別、葛藤、抗争、悲しみをもたらすものなのです。
質問者 この頭脳は止まって、科学技術的に働かなくてはならないときにだけ、作動する - たとえば言語を学んだり、車を運転したり、家を建てたりのように、行為に知識が要求されるときだけ、作動することができるでしょうか。
K ここでの危険は、頭脳を心理的なものと科学技術的なものとに区別することです。これは再び、矛盾、条件づけ、理論になるのです。本当の疑問は、頭脳は、その全体は静かに止まって、科学技術や生活で応答しなくてはならないときにだけ、効果的にそうできるのかということです。それで、私たちは心理的なものや科学技術的なものに関心はないのです。私たちはただ訊ねるだけなのです - この心全体は完全に止まって、作用しなくてはならないときにだけそうできるのでしょうか。私たちは、それはできるし、これは冥想とは何なのかを理解することであると言うのです。
*
質問者 よろしければ、私は、昨日私たちが離れたところから継続したいように思います。あなたは、私が二つの疑問を訊ねたことを、憶えておられるかもしれません。私は、条件づけは何なのか、条件づけからの自由は何なのかを、訊ねました。あなたは、まず初めに第一の疑問を取ろうと言われました。私たちは第二の疑問に入る時間がありませんでした。ですから、私は今日、自らの条件づけすべてから自由である心の状態は何なのかを、お訊ねしたいように思うのです。昨日あなたと話した後で、私には、私がどんなに深く強く条件づけているのかが、ごく明確になったし、私は条件づけのこの構造の隙間、開きが見ました - 少なくとも私は見えたと思うのです。私は事態をある友だちと話しあいましたが、一定の条件づけの実例を取るなかで、自らの行為がそれによりどんなに深く有毒な影響をされるのかが、私はごく明確に見えました。あなたが終わりに言われたとおり、冥想は、心から条件づけすべてを空にし、そのため歪曲や幻想がないようにすることなのです。どのようにして歪曲すべて、幻想すべてから自由になるのでしょうか。幻想は何なのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
880
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/17(日) 23:17:02 ID:4r7N8PaQ0
くまめも3
頭脳は物理的にそれ自体を保護するよう条件づけられている。保護しようとするとき、「私 'me' 」が、私たちの悲惨すべてが始まる。「私 'me' 」の肯定とは、心理的にそれ自体を保護しようとするこの努力。
頭脳は学びうるが、心理的に知識を取得するとき、その知識は関係のなか、経験、意志、暴力をもつ「私 'me' 」として、それ自体を主張する。これが、関係に区別、葛藤、抗争、悲しみをもたらすもの。
頭脳は、その全体は静かに止まって、科学技術や生活で応答しなくてはならないときにだけ、効果的にそうできる。これは冥想とは何なのかを理解すること。
質問者 自らの条件づけすべてから自由である心の状態は何なのか
冥想は、心から条件づけすべてを空にし、そのため歪曲や幻想がないようにすること。
どのようにして歪曲すべて、幻想すべてから自由になるのか。幻想は何なのか。
(´・(ェ)・`)
881
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/17(日) 23:19:46 ID:4r7N8PaQ0
Kは、一切の観念を否定してるのではなくて、科学技術的知識を肯定してるのは、恣意的選択の余地がないからでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ
882
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/18(月) 22:59:07 ID:1d4drIFg0
心理的なものや科学技術的なものに関心はないというのじゃ。
それもまた条件付けされたものになるからのう。
心が止まり、作用しなくてはならないときに作用することも出来るというのじゃ。
それが真の瞑想であるというのじゃ。
883
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/18(月) 23:14:10 ID:sSVBh.220
>>882
釈迦が、形而上的ことに答えなかったのと、同じスタンスでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
884
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/18(月) 23:18:01 ID:sSVBh.220
変化の緊要
条件づけ 4
K 自分自身を欺瞞することはこんなに容易で、そもそも何でも確信することはこんなに容易です。自分は何かであるのでなければならない(、何かであるにちがいない)という感情は、欺瞞の始まりですし、もちろんこの理想主義的(観念論的)態度は、さまざまな形態の偽善につながるのです。何が幻想を作るのでしょうか。まあ、要因の一つは、有るものと有るべきものや有ってもよいもの(有るかもしれないもの)との間のこの常なる比較、善し悪しの間のこの計量です - 思考がそれ自体を、楽しみの記憶を改良しようとし、もっと楽しみを得ようとするなどです。何かを受け入れさせたり、信じさせたりするのは、もっと多くへのこの願望、この不満足です。これは必然的に、あらゆる形態の欺瞞と幻想につながります。目標を、経験されるべき帰結を投影するのは、願望と恐怖、希望と恐怖です。ゆえに、この経験に実在性はないのです。いわゆる宗教的経験すべては、この様式に従います。悟りへのまさに願望もまた権威の受け入れを生み育てるにちがいないし、これは悟りの対極です。願望、不満足、恐怖、楽しみ、もっと多くをほしがること、変化したがること、そのすべてが計量です - これが幻想の道なのです。
質問者 あなたは本当に、何にも全く幻想をもたないのでしょうか。
K 私はすべてのときに私自身や他の人たちを計量しているのではありません。この計量からの自由は、あなたが本当に、有るものと生きている - それを変化させたいと望むのでもなく、それを善し悪しということにおいて判断するのでもない - とき、訪れるのです。何かと生きるとは、それの受け入れではありません。あなたが受け入れようと入れまいと、それはあるのです。何かと生きるとはまた、あなた自身をそれと同定することでもないのです。
質問者 本当にほしいこの自由は何なのかという疑問に、戻れるでしょうか。この自由への願望は、あらゆる人に、ときには最も愚かな仕方で表現されるのです。しかし、人間の心にはいつも、けっして実現されない自由へのこの深いあこがれがあると言える、と私は思うのです。自由になろうとするこの絶え間ない格闘があるのです。私は私が自由でないのを知っています。私はこんなに多くのほしがりに捕らわれています。私はどのようにして自由になれるのでしょうか。本当に正直に自由であるとは、どういう意味なのでしょうか。
K おそらくこれが、私たちがそれを理解する助けになるかもしれません - 全的自由がその自由なのです。私たちが肯定的であると考えるものごとすべてを否定する。全社会道徳を否定する。権威の内的受け入れすべてを否定する。真実について自らの言ったり結論してきたことすべてを否定する。伝統すべて、教えすべて、科学技術的知識以外の知識すべてを否定する。経験すべてを否定する。憶えられたり忘れられた楽しみから派生する欲求すべてを否定する。充足すべてを否定する。特定の仕方で行為する参与すべてを否定する。観念すべて、原理すべて、理論すべてを否定する - こういう否定が最も肯定的な行為ですし、ゆえにはそれが自由なのです。
(´・(ェ)・`)つ
885
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/18(月) 23:21:58 ID:sSVBh.220
くまめも4
自分自身を欺瞞すること、確信することは、容易。自分は何かであるべきという感情は、欺瞞の始まり。この理想主義的(観念論的)態度は、偽善につながる。
幻想を作る要因の一つは、有るものと有るべきもの、有るかもしれないものとの間の常なる比較、善し悪しの計量。思考がそれ自体を、楽しみの記憶を改良しようとし、もっと楽しみを得ようとするなど。
何かを受け入れさせたり、信じさせたりするのは、もっと多くへのこの願望、不満足。これは必然的に、欺瞞と幻想につながる。
目標を、経験されるべき帰結を投影するのは、願望と恐怖、希望と恐怖。故に、この経験に実在性はない。悟りへの願望も権威の受け入れを生み育てる。これは悟りの対極。
願望、不満足、恐怖、楽しみ、もっと多くをほしがること、変化したがること、そのすべてが計量。これが幻想の道。
計量からの自由は、あなたが本当に、有るものと生きている−変化させたいと望むのでも、それを善し悪して判断するのでもない−とき、訪れる。
何かと生きるとは、それの受け入れではない。あなたが受け入れようと入れまいと、それはある。何かと生きるとはまた、あなた自身をそれと同定することでもない。
私たちが肯定的であると考えるものごとすべてを否定する。全社会道徳、権威の内的受け入れ、真実について自らの言ったり結論してきたこと、伝統、教え、科学技術的知識以外の知識、経験、憶えられたり忘れられた楽しみから派生する欲求、充足、特定の仕方で行為する参与、観念、原理、理論、これら全てを否定する-こういう否定が最も肯定的な行為だし、ゆえにはそれが自由。
(´・(ェ)・`)
886
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/19(火) 22:45:09 ID:1d4drIFg0
>>883
そうじゃ、実践こそが大事なのじゃ。
知識はそのためのものなのじゃ。
887
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/19(火) 22:48:38 ID:1d4drIFg0
全ての観念を否定することは伝統的なアートマンの法と同じなのじゃ。
しかし、アートマンと名づけられ、観念となってしまうと又同じことの繰り返しになるのじゃ。
全てを否定することで、全てであるものを肯定し、自由を見出すのじゃ。
観念の無い時にそれはあるのじゃ。
888
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/19(火) 23:41:58 ID:YYSZUkJs0
変化の緊要
条件づけ 5
質問者 私が少しずつこれを削りとろうとするのなら、私はいつまでもつづけるでしょうし、それ自体が私の束縛になるでしょう。そのすべては一種の閃きでしおれうる(しりうる?)のでしょうか。私は、人間の欺瞞全体、価値と渇望と標準のすべてを、即時に無媒介に否定できるでしょうか。それは本当に可能なのでしょうか。このすべてを一瞬の閃きで見て、それを光に、あなたが話された智恵に晒すとは、非常な能力、非常な理解を必要としないでしょうか。私はその能力を欠いているのです。これに何が付随するのかあなたは知っておられるのかどうかと思われます。私に、ふつうの教育を受けたふつうの人に、信じがたく何でもないように思われるものに、突っ込むよう求めるとは・・・私にそれができるでしょうか。私は、それに跳び込むとはどういう意味なのかさえ知らないのです!それは、私に全く突然に最も美しく無垢で愛らしい人間になるよう求めるのに、似ています。私がいま本当に怯えているのが、おわかりでしょう。前に怯えていたようにではなく、私はいま、何か真実であると知っているものを向き合っているのですが、それでもなお、そうできない私の全くの無能力が私を縛るのです。私はこのこと、本当に完全に何でもないことの美しさが分かるのですが、しかし・・・
K おわかりでしょうが、創造があるのは、自分自身に空性があるときだけ - 浅い心の空性ではなく、自らがあったものごと、あるべきものごと、なるであろうものごとすべての全的否定とともに来る空性、この空性のなかだけなのです。新しい何かが起こりうるのは、この空性のなかだけなのです。恐怖は知られざるもの・ことの思考です。それで、あなたは本当は、知られたもの・こと、執着、満足、楽しめる記憶、楽や快適を与える継続と安全を去ることに、怯えているのです。思考はこれを、空性と思われるものと比較しています。この空性の想像が恐怖です。それで、恐怖は思考です。あなたの疑問に帰ってくると、心は知ってきたものごとすべてを、自らの意識的、無意識的な自己の全内容 - すなわちあなた自身の本質 - を、否定できるでしょうか。あなたはあなた自身を完全に否定できるでしょうか。できないのなら、自由はないのです。自由は、何かからの自由ではありません - それではただの反応です。自由は全的否定のなか来るのです。
質問者 しかし、そういう自由を持つことは、どういう良いことなのでしょうか。あなたは私に死ぬよう求めているでしょう。
K もちろんです!あなたはこの自由はどういう良いことなのかと言うとき、「良い」という言葉をどのように使っておられるのかと、思われるのです。どういうことにおいて良いのでしょう。知られたもの・ことでしょうか。自由は全体的に良いし、その行為は日々の生の美しさです。この自由ばかりに生きることはあるし、それなしではどうして愛がありうるでしょうか。どのものごとも、この自由のなか存在し、有るのです。それはどこにもあるし、どこにもないのです。それは辺境がありません。あなたは、死ぬため明日を待たないで、いま、あなたの知るものごとすべてに対して、死ねるでしょうか。この自由が永遠と忘我と愛なのです。
(´・(ェ)・`)つ
889
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/19(火) 23:43:19 ID:YYSZUkJs0
くまめも5
創造があるのは、新しい何かが起こりうるのは、自分自身に空性がある時だけ-自らがあった、あるべき、なるであろうものごとすべての全的否定とともに来る空性の中だけ。
恐怖は知られざるもの・ことの思考。知られたもの・こと、執着、満足、楽しめる記憶、楽や快適を与える継続と安全を去ることに、怯えている。思考はこれを、空性と思われるものと比較する。この空性の想像が恐怖。恐怖は思考。
心は知ってきたすべてを、自らの意識的、無意識的な自己の全内容、すなわちあなた自身の本質を、否定できるか。あなた自身を完全に否定できるか。できないなら、自由はない。自由は、何かからの自由ではない。それはただの反応。自由は全的否定のなか来る。
自由は全体的に良いし、その行為は日々の生の美しさ。この自由ばかりに生きることはあるし、それなしではどうして愛がありうるか。どのものごとも、この自由のなか存在し、有る。それはどこにもあるし、どこにもない。それは辺境がない。
あなたは、死ぬため明日を待たないで、いま、あなたの知るものごとすべてに対して、死ねるか。この自由が永遠と忘我と愛。
(´・(ェ)・`)
890
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/20(水) 23:42:11 ID:1d4drIFg0
観念である自分を全て否定することから空性も起こるのじゃ。
しかし、それは悟っていない者には恐怖を生み出すのじゃ。
自分が全て否定されるのであるからのう。
それが出来なければ自由は無いのじゃ。
891
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/21(木) 00:36:38 ID:hMrPqebM0
変化の緊要
幸せ 1
質問者 幸せは何なのでしょうか。私はいつもそれを見つけようとしてきましたが、なぜかそれは私の道には来ないのです。私は人々が多くのさまざまなやり方で楽しんでいるのを見ますが、彼らがすることの多くはとても未熟で子どもっぽく見えるのです。私は彼らは彼らなりに幸せなのだと思うのですが、私は違った種類の幸せがほしいのです。私は、それを得ることが可能なのかもしれないという暗示はまれにあるのですが、なぜかそれはいつも私を避けてきたのです。私は本当に完全に幸せに感じるには何ができるのかと思うのです。
K あなたは、幸せはそれ自体が終わりの目的であると思うのでしょうか。それともそれは、智恵をもって生きるなか、二次的なものとして来るのでしょうか。
質問者 私はそれ自体が終わりの目的であると思うのです。なぜなら、幸せがあるなら、そのとき何をしようとも、調和的になるでしょうから。そのとき、努力なく、容易に、どんなあつれきもなく、ものごとをなすでしょう。私は確かに、この幸せのなから何をしようとも正しいだろう、と思うのです。
K しかし、そのとおりでしょうか。幸せはそれ自体が終わりの目的でしょうか。美徳はそれ自体が終わりの目的ではありません。もしそうであるなら、そのときそれはとても小さな事柄になるのでのです。あなたは幸せを探し求められるでしょうか。探し求めるなら、そのときたぶんあなたは、あらゆる種類の気晴らしと耽溺のなかに、それの模倣を見つけるでしょう。これは楽しみです。楽しみと幸せの間の関係は何でしょうか。
質問者 私は自分自身に訊ねたことがありません。
K 私たちが追求する楽しみは、誤って幸せと呼ばれます。しかし、あなたは楽しみを追求するように、幸せを追求できるでしょうか。確かに私たちは、楽しみが幸せであるのかどうかについて、ごく明確でなければなりません。楽しみは、愉快、満足、耽溺、娯楽、刺激です。私たちのほとんどは、楽しみが幸せであると思うし、最大の楽しみを私たちは最大の幸せであると考えるのです。そして、幸せは不幸せの対極でしょうか。あなたは、不幸せで不満足であるから、幸せになろうとしているのでしょうか。幸せは、いったい対極があるのでしょうか。愛は対極があるのでしょうか。幸せについてのあなたの疑問は、不幸せであることの結果でしょうか。
質問者 私は、世界のその他と同じように不幸せですし、自然にそうでありたくないと思うし、それが、私をして、幸せを探し求めるよう駆り立てているものなのです。
K それで、あなたにとって幸せは、不幸せの対極です。もしも幸せであったなら、あなたはそれを探し求めないでしょう。それで、重要なことは、幸せではなくて、不幸せが終わりうるのかということです。これが本当の問題なのでしょう。あなたは不幸せであるから、幸せについて訊ねているし、あなたは幸せが不幸せの対極なのかどうかを見出さずに、この疑問を訊ねるのです。
(´・(ェ)・`)つ
892
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/21(木) 00:40:07 ID:hMrPqebM0
くまめも1
あなたは幸せを探し求めるなら、そのとき、あらゆる種類の気晴らしと耽溺のなかに、それの模倣を見つける。これは楽しみ。
楽しみと幸せの間の関係は何か。私たちが追求する楽しみは、誤って幸せと呼ばれる。
楽しみが幸せであるのかについて、明確でなければならない。
楽しみは、愉快、満足、耽溺、娯楽、刺激。私たちのほとんどは、楽しみが幸せであると思うし、最大の楽しみを私たちは最大の幸せであると考える。
幸せは不幸せの対極か。あなたは、不幸せで不満足であるから、幸せになろうとしているのか。幸せは、いったい対極があるのか。愛は対極があるのか。あなたにとって幸せは、不幸せの対極。もしも幸せであったなら、あなたはそれを探し求めない。
重要なことは、幸せではなくて、不幸せが終わりうるのか。あなたは不幸せであるから、幸せについて訊ねているし、あなたは幸せが不幸せの対極なのかどうかを見出さずに、この疑問を訊ねる。
(´・(ェ)・`)
893
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/21(木) 22:50:37 ID:1d4drIFg0
苦や不幸からの逃避として人は幸せを捜し求めるのじゃ。
娯楽とか快楽とかで一時的に苦や不幸を忘れるだけなのじゃ。
その繰り返しが人生になってしまうのじゃ。
真の幸福はその繰り返しから抜け出した時に在るのじゃ。
894
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/21(木) 23:08:18 ID:GeSUPULM0
変化の緊要
幸せ2
質問者 あなたがそのように言われるのなら、私はそれを受け入れます。それで、私の関心は、私がおかれている悲惨から自由になるすべなのです。
K どちらのほうが重要でしょうか - 不幸せを理解することでしょうか、それとも幸せを追求することでしょうか。あなたが幸せを追求するなら、それは不幸せからの逃避になるし、ゆえにそれはいつも留まるでしょう。おそらく覆い隠され、いつも内側で膿みながら。それで、いまあなたの疑問は何でしょうか。
質問者 いま私の疑問としては、なぜ私は悲惨なのでしょうか。あなたは、私のほしい答えを私に与えるよりむしろ、私の実態をきちんとうまく私に指し示してくださいました。それでいま、私はこの疑問に向かい合っています。私はどのようにして、私のおかれている悲惨を免れるのでしょうか。
K 外側の機関が神でも、大師でも、薬物でも、救世主でも、その外側の機関が、あなたが自分の悲惨を免れるのを助けられるのでしょうか。それとも、不幸せの本性を理解する智恵を持ち、それを即時に無媒介に扱いうるでしょうか。
質問者 私は、あなたが助けてくださるかもしれないと思ったから、あなたを訪ねてきたのです。だから、あなたはあなた自身を外側の機関と呼んでもいいかもしれません。私は助けがほしいのであり、誰がそれを私に与えてくれるのは気にしません。
K 助けを受け入れたり、与えたりするなかには、いくつものことが関与しています。あなたはそれを盲目的に受け入れるのなら、どれかの権威の罠に捕らわれるでしょうし、これは、服従と恐怖といったさまざまな他の問題をともなうのです。それで、あなたは助けをほしがるのを始めるなら、どちみち誰もあなたを助けられないから、あなたは助けを得ないだけではなく、加えてあなたは一連の新しい諸問題全部を得るのです。あなたはかつてよりももっと深く泥沼にはまっているのです。
質問者 私はそれを理解し、受け入れると思います。私はそれを前に明らかに考えぬいたことがありません。それでは私は、自分で即時に無媒介に不幸せを扱う智恵を、どのように発達させられるのでしょうか。もしも私はこの智恵があったなら、確かに私はここにいないでしょうし、私はあなたに助けてくださるよう頼んでいないでしょう。それで、いま私の疑問はこうなのです - 私は、不幸せの問題を解決し、よって幸せを成就するために、この智恵を得られるでしょうか。
K あなたは、この智恵がその行為から分離していると言われています。この智恵の行為は、問題自体を見て理解することなのです。二つは分離し連続的なのではありません。あなたはまず初めに智恵を得て、それからそれを道具として問題に対して用いるのではないのです。まず初めに能力を得てそれからそれを用いるべきである、まず初めに観念や原理、それからそれを応用すると言うことは、思考の病気の一つです。これ自体が、智恵のまさに不在で、問題の起源です。これが断片化です。私たちはこのように生きるので、私たちは幸せと不幸せ、憎しみと愛などについて語るのです。
(´・(ェ)・`)つ
895
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/21(木) 23:16:13 ID:GeSUPULM0
くまめも2
あなたが幸せを追求するなら、それは不幸せからの逃避になり、それは留まり、覆い隠される。いつも内側で膿みながら。
外側の機関、神、薬物、その外側の機関が、あなたが自分の悲惨を免れるのを助けられるか。それとも、不幸せの本性を理解する智恵を持ち、それを即時に無媒介に扱いうるか。
助けを盲目的に受け入れるのなら、どれかの権威の罠に捕らわれ、服従と恐怖といった他の問題をともなう。
助けをほしがるのなら、どちみち誰も助けられないから、助けを得ないだけではなく、加えて一連の新しい問題全部を得る。あなたはかつてよりももっと深く泥沼にはまる。
幸せを成就するための智恵の行為は、問題自体を見て理解すること。二つは分離し連続的なのではない。まず智恵を得てから、それを道具として問題に対して用いるのではない。
まず初めに能力を得てそれからそれを用いるべきと言うことは、まず初めに観念や原理、それからそれを応用すると言うことは、思考の病気の一つ。これ自体が、智恵のまさに不在で、問題の起源。これが断片化。
(´・(ェ)・`)
896
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/22(金) 22:57:20 ID:1d4drIFg0
問題を見て理解することが智慧の行為とクリシュナムルティはいうのじゃ。
智慧とは能力ではなく行為そのものというのじゃ。
自分の心にある問題を観なければそこに智慧もないのじゃ。
どれほど頭が良くても自分を観ることから逃避しているならば、智慧はないのじゃ。
自分を理解することが智慧なのじゃ。
897
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/23(土) 04:01:21 ID:tZQ.Vl/c0
変化の緊要
幸せ 3
質問者 おそらくこれは言語の構造に本来備わっているのでしょう。
K おそらくそうなのでしょうが、ここでそれについてあまり大騒ぎし、主題を離れてさまよわないようにしましょう。私たちは、智恵と、その智恵の行為 - すなわち不幸せの問題を見ること - は、分割不可能なほど一つである、と言っているのです。また、これは、不幸せを終わらせることや幸せを得ることから分離していない、と。
質問者 私はどのようにしてその智恵を得るのでしょうか。
K あなたは、私たちが言ってきたことを理解したのでしょうか。
質問者 はい。
K しかし、あなたは理解したのなら、この見ることが智恵なのであることを見たのです。あなたのできるただ一つのことは、見ることです。あなたは見るために智恵を養成できません。見ることは智恵の養成ではありません。見ることは、智恵や幸せや不幸せよりも重要です。ただ見ることがあるのか、見ることがないのかです。残りのすべて - 幸せ、不幸せ、智恵 - は、ただの言葉です。
質問者 それでは、見ること、それは何なのでしょうか。
K 見るとは、思考がどのように対極を造り出すのかを理解する、という意味です。思考が作り出すもの・ことは、真実ではありません。見るとは、思考、記憶、葛藤、抗争、観念の本性を理解する、という意味です。このすべてを全的過程として見ることが、理解することです。これが智恵なのです。全的に見ることが智恵なのです。断片的に見ることが智恵の欠如です。
質問者 私は少しうろたえています。私は自分では理解すると思うのですが、それはかなり希薄です。私は緩やかに行かなければなりません。あなたが言われていることは、完全に見て聞きなさい、ということです。あなたは、この注意が智恵であると言われるし、それは即時で無媒介であるのでなければならないと言われるのです。ただ、いま見られるだけなのです。私はいま本当に見るのかと思われます。それとも、私は家に帰って、後で見ようと願って、あなたの言われたことを考えてみるのでしょうか。
K それではあなたは、けっして見ないでしょう。それについて考えるなかであなたは、けっしてそれを見ないでしょう。なぜなら、考えることは見ることを妨げるからです。私たちはどちらも、見るとはどういう意味なのかを理解しました。この見ることは、本質や抽象や観念ではありません。何も見られるもの・ことがないのなら、あなたは見られません。ここで、あなたは不幸せの問題があるのです。それを完全に見なさい、あなたが幸せになりたいことと思考がどのように対極を造り出すのかをも含めて。幸せへの探求と、幸せを得るために助けを探し求めることを、見なさい。失望、希望、恐怖を見なさい。このすべてが完全に、分離してではなく、全体として見られなければなりません。いまこのすべてを見なさい。あなたの全注意をそれに注ぎなさい。
質問者 私はやはりうろたえています。私はそれの本質を、論点全体を捉えたのかどうか分かりません。私は眼を閉じて、私が本当にこのことを理解したのかを見るため、私自身のなかに入りたいと思うのです。理解したなら、そのとき私は私の問題を解決したのです。
(´・(ェ)・`)つ
898
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/23(土) 04:02:21 ID:tZQ.Vl/c0
くまめも3
智恵と、智恵の行為−すなわち不幸せの問題を見ること−は、分割不可能な一つ。また、これは、不幸せを終わらせることや幸せを得ることから分離していない。
この見ることが智恵。あなたのできるただ一つのことは、見ること。あなたは見るために智恵を養成できない。見ることは智恵の養成ではない。ただ見ることがあるのか。幸せ、不幸せ、智恵は、ただの言葉。
見るとは、思考がどのように対極を造り出すのかを理解するという意味。思考が作り出すもの・ことは、真実ではない。
見るとは、思考、記憶、葛藤、抗争、観念の本性を理解するという意味。このすべてを全的過程として見ることが、理解すること。
これが智恵。全的に見ることが智恵。断片的に見ることが智恵の欠如。
質問者 完全に見て聞け。この注意が智恵。それは即時で無媒介であるのでなければならないと言われる。
K それについて考えるなかであなたは、けっしてそれを見ない。なぜなら、考えることは見ることを妨げるから。見ることは、本質や抽象や観念ではない。何も見られるもの・ことがないのなら、あなたは見られない。
ここで、あなたは不幸せの問題がある。それを完全に見なさい、幸せになりたいことと思考がどのように対極を造り出すのかをも含めて。幸せへの探求と、幸せを得るために助けを探し求めることを、見なさい。失望、希望、恐怖を見なさい。このすべてが完全に、分離してではなく、全体として見られなければならない。いまこのすべてを見なさい。あなたの全注意をそれに注ぎなさい。
(´・(ェ)・`)
899
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/23(土) 22:22:41 ID:1d4drIFg0
質問者は全て理解したと言いながら、まだどのようにして智慧を得るかと聞くのじゃ。
もはや知識ではなく観ることの実践のみが智慧と理解した筈であるがのう。
それは自分を観ることの実践への恐れから起こる無理解なのじゃ。
自分の心を観ることは今まで逃避してきた恐れを観ることでもあるからのう。
逃避の習慣を止める事はかなりの勇気が要るのじゃ。
強い決意が必要なのじゃ。
900
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/24(日) 05:03:43 ID:fBHCYJXA0
変化の緊要
学び 1
質問者 あなたはしばしば学びについて話してこられました。私は、あなたの言われるのがどういう意味なのか、よくは知りません。私たちは学校、大学で学ぶよう教えられるし、生もまた私たちに多くのことを教えるのです - 環境に、私たちの隣人に、私たちの妻や夫に、私たちの子どもに適応することです。私たちはほとんどあらゆるものごとから学ぶように思われます。しかし、あなたが学ぶことについて語られるとき、それがすっかりあなたの意味されることではないのは、確かであると思います。なぜなら、あなたはまた教師としての経験をも拒否されるように見えるからです。しかし、あなたは経験を拒否するとき、学びすべてを拒否していないでしょうか。つまるところ、科学技術でも人間的な日常生活でも、経験をとおして私たちは、私たちの知るものごとすべてを学ぶのです。それで、私たちはこの疑問に入ってもよろしいでしょうか。
K 経験をとおして学ぶこと - それは条件づけの蓄積です - と、客観的ものごとについてだけではなく自分自身についてもすべてのとき学ぶことは、全く別々のことなのです。条件づけをもたらす蓄積があります - これを私たちは知っています。そして、私たちが語る学びがあります。この学びは観察です - 蓄積なく観察すること、自由のなか観察することです。この観察は、過去から方向づけられません。それら二つのことを明らかにしておきましょう。
私たちは経験から何を学ぶのでしょうか。私たちは言語、農業、礼儀作法、月へ行くこと、医療、医薬、数学のようなものごとを学びます。しかし、私たちは、戦争をするのをとおして、戦争について学んだのでしょうか。私たちは戦争をもっと命取りで、もっと効果的にするのを学んだのですが、しかし、私たちは戦争をしやないことを学んでいないのです。私たちの戦争状態での経験は、人類の生存を危険にさらすのです。これは学びでしょうか。あなたはもっとよい家を建てるかもしれません。しかし、経験はあなたに、その内でもっと高貴に生きるすべを教えてくれたのでしょうか。私たちは経験をとおして、火は燃えて熱いことを学んできたし、それは私たちの条件づけになったのですが、しかし、私たちはまた私たちの条件づけをとおして、国家主義、民族主義が良いことを学んできたのです。それでもなお経験はまた私たちに、国家主義、民族主義が命取りであることをも教えてくれるはずなのです。証拠すべてがあるのです。私たちの条件づけに基づくような宗教的経験は、人から人を分離してきたのです。経験は私たちに、もっと良い衣食住、庇護を得ることを教えてくれました。しかし、それは私たちに、社会的不正が人と人との間の正しい関係を妨げることを、教えてくれなかったのです。それで、経験は、私たちの先入観、私たち固有の傾向、私たち特有の教義と信念を、条件づけ、強めるのです。私たちは、このすべてがどんなに愚かな無意味であるかを、学びません。私たちは、他の人たちと正しい関係に生きることを、学びません。この正しい関係は愛なのです。経験は私に、社会と他の諸家族と対立する単位として家族を強めることを、教えてくれます。これが闘争と分割をもたらすし、それは、家族を保護的に強めることをさらにもっと重要にするのです。それで、悪循環が継続します。私たちは蓄積し、これを「経験をとおした学び」と呼ぶのですが、この学びはますます断片化、狭さ、専門化をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ
901
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/24(日) 05:10:15 ID:fBHCYJXA0
くまめも-1
経験をとおして学ぶこと−それは条件づけの蓄積−と、客観的ものごとについて、自分自身について学ぶことは、全く別々のこと。
学びは観察。蓄積なく観察すること、自由のなか観察すること。この観察は、過去から方向づけられない。経験から何を学ぶのか。
あなたはもっとよい家を建てるかもしれない。しかし、経験はあなたに、その内でもっと高貴に生きるすべを教えてくれたのか。
私たちは経験をとおして、火は燃えて熱いことを学んできたし、それは私たちの条件づけになった。
経験は私たちに、もっと良い衣食住、庇護を得ることを教えてくれた。しかし、それは私たちに、社会的不正が人と人との間の正しい関係を妨げることを、教えてくれなかった。それで、経験は、私たちの先入観、固有の傾向、特有の教義と信念を、条件づけ、強める。このすべてがどんなに愚かな無意味であるかを、学ばない。他の人たちと正しい関係に生きることを、学ばない。
この正しい関係は愛。
経験は、社会と他の諸家族と対立する単位として家族を強めることを、教えてくれる。
これが闘争と分割をもたらすし、それは、家族を保護的に強めることをさらにもっと重要にする。それで、悪循環が継続する。
私たちは蓄積し、これを「経験をとおした学び」と呼ぶが、この学びはますます断片化、専門化をもたらす。
(´・(ェ)・`)
902
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/25(月) 00:27:35 ID:1d4drIFg0
普通は学ぶという事は経験して知識を得ることを言うのじゃ。
しかしそれは更なる断片化をもたらすというのじゃ。
蓄積無く観察すること、自由の中観察する事、それがクリシュナムルティの語る学びなのじゃ。
自分の心を観察し、気付いたことも知識として蓄積する事無く、自由に理解していくのじゃ。
それが悟りに至る学びなのじゃ。
903
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/25(月) 01:47:32 ID:EBqggWUs0
変化の緊要
学び 2
質問者 あなたは、技術的な学びと経験に対し、科学と蓄積された知識に対する、反例を示しておられるのでしょうか。私たちはそれに背を向けるなら、野蛮状態に戻るでしょう。
K いいえ。私は全くそういう反例を示しているのではありません。私たちは互いに誤解しあっていると思います。私たちは、二つの種類の学びがあると言いました - 経験をとおした蓄積と、その蓄積から行為すること。蓄積は過去であり、知識の行為が必要であるところではどこでも、これは絶対的に必要です。私たちはこれに反対しているのではありません。それはあまりに愚劣でしょう!
質問者 ガンジーは生活から機械を締め出そうとし、インドで「国内産業」または「家内工業」と呼ばれる産業すべてを始めました。それでもなお彼は、近代の機械化された運送を使いました。これは、彼の立場の不一致と偽善を示すのです。
K 他の人々はここから外しておきましょう。私たちは、二つの種類の学びがあると言っています - 一つは、知識と経験の蓄積をとおして行為することで、もう一つは、蓄積なく学ぶこと、まさに生きる行為のなかすべてのときに学ぶことなのです。前者は、技術的事態すべてにおいて絶対的に必要です。しかし、関係、行動は技術的な事態ではないし、それらは生き物ですし、あなたはすべてのときにそれらについて学ばなくてはなりません。あなたが行動について学んだことから行為するなら、そのときそれは機械的になるし、ゆえに関係は課業になるのです。
それから、もう一つとても重要な点があるのです。蓄積と経験である学びすべてでは、利得が、学びの効率を決定する基準です。そして、利得の動機が人間関係に作動するとき、それは孤立と分割をもたらすから、それら関係を破壊するのです。経験と蓄積の学びが、人間行動の領域、心理的領域に入るとき、それは必然的に破壊するにちがいないのです。開明的な利己心は一方では前進ですが、他方では、危害、悲惨、混乱のまさしく所在です。どんな種類でも利己心があるところに、関係は花開けないのです。そういうわけで、関係は経験や記憶に導かれるところで花開けないわけなのです。
質問者 それは分かります。しかし、宗教的経験は、何か違ったものではないでしょうか。私は、宗教的な事柄において集められ伝えられた経験について、話しています - 聖人と導師の経験、賢者の経験です。この種の経験は、無知のなかの私たちには有益ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
904
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/25(月) 01:48:45 ID:EBqggWUs0
くまめも2
経験をとおした蓄積と、その蓄積から行為すること。蓄積は過去であり、知識の行為が必要であるところでは、これは絶対的に必要。これに反対していない。それは愚劣。
二つの種類の学びがある。
一つは、知識と経験の蓄積をとおして行為することで、もう一つは、蓄積なく学ぶこと、生きる行為のなかすべてのときに学ぶこと。
前者は、技術的事態すべてにおいて絶対的に必要。しかし、関係、行動は技術的な事態ではないし、それらは生き物だし、すべてのときにそれらについて学ばなくてはならない。行動について学んだことから行為するなら、そのときそれは機械的になるし、ゆえに関係は課業になる。
もう一つ重要な点がある。蓄積と経験である学びすべてでは、利得が、学びの効率を決定する基準。そして、利得の動機が人間関係に作動するとき、それは孤立と分割をもたらすから、それら関係を破壊する。
経験と蓄積の学びが、人間行動の、心理的領域に入るとき、それは必然的に破壊する。
開明的な利己心は一方では前進たが、他方では、危害、悲惨、混乱の所在。利己心があるところに、関係は花開けない。関係は経験や記憶に導かれるところで花開けない。
質問者 宗教的経験−聖人、賢者の経験は、無知のなかの私たちには有益ではないか。
(´・(ェ)・`)
905
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/25(月) 23:41:55 ID:1d4drIFg0
とはいえ知識を否定するのではないのじゃ。
知識を蓄積することは日常生活で役立つから技術的な事態では絶対必要というのじゃ。
知識が適切に用いられれば智慧となるのじゃ。
智慧に拠って他者も導くことが出来るのじゃ。
906
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/26(火) 00:58:17 ID:Q9kJ3fsg0
変化の緊要
学び 3
K 全くそうではないのです!聖人は、社会に認識されなければならないし、いつも社会の聖人たることの概念に順応するのです。そうでなければ、彼は聖人と呼ばれないでしょう。同等に導師は、伝統によって条件づけられている従う人たちにより、それとして認識されなければなりません。それで、導師と学徒はどちらも、彼らが生きる特定の社会の文化的、宗教的条件づけの一部です。彼らが自分たちは真実と接触した、自分たちは知っていると主張するとき、あなたは、彼らが知っているものは真実ではないことを、全く確実だと思っていいのです。彼らが知っているものは、過去からの彼ら自身の投影です。それで、自分は知っていると言う人は、知っていないのです。これらすべてのいわゆる宗教的経験には、認識の認知過程が本来的に備わっているのです。あなたは、前に知っていたものを認識できるだけなのです。ゆえにそれは過去のであるし、ゆえにそれは、時間に縛るし、無時間ではないのです。いわゆる宗教的経験は、利益をもたらさないで、単にあなた特定の伝統、傾向、性癖、願望に応じてあなたを条件づけるだけで、ゆえにあらゆる形態の幻想と孤立を助長するのです。
質問者 あなたが言われるのは、真実を経験できないという意味でしょうか。
K 経験するとは、経験者があるのでなければならないという含意ですし、経験は条件づけすべての本質です。彼が経験するもの・ことは、すでに知られたもの・ことなのです。
質問者 あなたが経験者について話されるとき、それはどういう意味なのでしょうか。経験者がないのなら、あなたは消えさるという意味でしょうか。
K もちろんです。「あなた」は過去ですし、「あなた」が留まる、または「私 'me' 」が留まるかぎり、無量であるものはありえないのです。浅く小さな頭、経験、知識をもち、嫉妬と心配の重荷を負った心をもつ「私 'me' 」は - そういう事物がどうして、始まりもなく終わりもないもの、忘我であるものを、理解できるでしょうか。それで、英知の始まりはあなた自身を理解することなのです。あなた自身を理解しはじめなさい。
質問者 経験者は、彼が経験するもの・ことと違うのでしょうか。挑戦は、挑戦への応答と違うのでしょうか。
K 経験者が経験されるもの・ことであるのです。そうでなければ、彼は経験を認識できないでしょうし、それを経験と呼ばないでしょう。経験は、彼がそれを認識する前に、すでに彼にあるのです。それで、過去はいつも作動して、それ自体を認識しているのです。新しいもの・ことは、古いもの・ことに呑み込まれてしまうのです。同様に、挑戦を決定するのは反応です。挑戦は反応です。二つは分離してありません。反応なしには、挑戦はないでしょう。それで、経験者の経験、または経験者から来る挑戦への反応は、古いのです。というのは、それらは経験者によって決定されるからです。あなたが考えるにいたるなら、「経験」という言葉は、何かを経る、しるす。それを蓄えておくのではなく、それを終了させる、という意味です。しかし、私たちが経験について話すとき、それは現行としては反対の意味なのです。あなたは、経験について語るたびに、そこから行為が始まる何か蓄えられたものについて語るし、楽しんできて再び得たいと要求するもの、または嫌ってきて反復されるのを恐れているものについて語るのです。
それで、本当に生きるとは、累積的過程なく学ぶことなのです。
(´・(ェ)・`)つ
907
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/26(火) 01:03:19 ID:Q9kJ3fsg0
くまめも3
聖人は、社会に認識され、その概念に順応しなければならない。導師は、伝統によって条件づけられている従う人たちにより、それとして認識されなければならない。導師と学徒は、彼らが生きる社会の文化的、宗教的条件づけの一部。彼らが知っているものは、過去からの彼ら自身の投影。
前に知っていたものだけを認識できる。ゆえにそれは過去のであり、時間に縛られる。宗教的経験は、利益をもたらさないで、単に特定の伝統、傾向、性癖、願望に応じて条件づけるだけ、ゆえに幻想と孤立を助長する。
質問者 真実を経験できないという意味か。
K 経験するとは、経験者があるという含意。経験は条件づけすべての本質。彼が経験するものは、すでに知られたもの・こと。
経験者がないのであなたは消えさる。「あなた」「私 'me' 」が留まるかぎり、無量であるものはありえない。浅く小さな頭、経験、知識をもち、嫉妬と心配の重荷を負った心をもつ「私 'me' 」は、始まりもなく終わりもないもの、忘我であるものを、理解できない。経験者が経験されるもの・こと。そうでなければ、彼は経験を認識できないし、それを経験と呼ばない。経験は、彼がそれを認識する前に、すでに彼にある。
新しいものは、古いものに呑み込まれる。挑戦を決定するのは反応。二つは分離してない。それで、経験者の経験、経験者から来る挑戦への反応は古い。というのは、それらは経験者によって決定されるから。
「経験」という言葉は、それを蓄えておくのではなく、それを終了させる。本当に生きるとは、累積的過程なく学ぶこと。
(´・(ェ)・`)
908
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/26(火) 22:46:55 ID:1d4drIFg0
世間で言う聖人や導師は既に伝統による条件付けられているというのじゃ。
そこに真実は無いというのじゃ。
経験する者が居ない時に真の無量であるものがあるというのじゃ。
私もあなたも無い時に本当に生きるということが出来るのじゃ。
909
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/27(水) 00:06:55 ID:HQ/A94Rg0
変化の緊要
情熱と受苦 1
質問者 情熱とは何なのでしょうか。あなたはそれについて話してこられたし、明らかにあなたはそれに特別の意味を与えられるようです。私は自分がその意味を知っているとは思いません。あらゆる男と同じく私は、性的情熱と、速いドライヴや美しい庭の育成のような表面的なものごとへの情熱を、持っています。私たちのほとんどは、何らかの形態の情熱的活動に耽溺します。その人の特別の情熱について話をすると、その人の目が輝くのが見えるのです。私たちは、情熱 passion という言葉が、苦痛を表すギリシャ語から来るのを知っていますが、あなたがこの言葉を使われるとき私の受ける感情は、苦痛のそれではありません。むしろ、西から轟きながら来て、その前のごみくずと雲を追い払う風のそれのように、何か駆り立てる性質のです。私はこの情熱を所有したいように思うのです。どのようにそれに近づくのでしょうか。それは、何について情熱的なのでしょうか。あなたの言われる情熱は、何なのでしょうか。
K 私たちは情欲と情熱は別々のものであることを明らかにすべきであると、私は思うのです。情欲は思考により維持され、思考により駆り立てられるし、思考において成長し、実体を得て、ついに性的に爆発するにいたるし、またそれが権力への情欲であるなら、それ自らの暴力的形態の充足において、です。情熱は何か全然違ったものなのです。それは思考の産物ではないし、また過去の出来事の思い出でもないのです。それは、充足のどんな動機によっても駆り立てられません。それはまた悲しみでもありません。
質問者 性的情熱すべては情欲なのでしょうか。性的応答はいつも思考の結果です。それは、その愛らしさに圧倒される誰かにふいに出会うときのように、接触なのかもしれません。
K どこでも思考が楽しみのイメージを築き上げるところでは、それは必然的に、情熱の自由ではなく、情欲であるにちがいないのです。楽しみが主な駆り立てる力であるなら、そのときそれは情欲です。性的感情が楽しみから生まれるとき、それは情欲です。それが愛から生まれるなら、たとえそのとき大きな歓喜が存在していようとも、それは情欲ではありません。ここで私たちは、愛は楽しみと味わいを排除するのかどうかについて明らかであり、私たち自身で見出すのでなければなりません。あなたは雲を見て、その広大さとそれに当たる光に歓喜するとき、もちろん楽しみはあるのですが、楽しみよりももっと多くがあるのです。私たちは全くそれを非難していません。あなたが、思考や所作において刺激のためにその雲に戻りつづけるなら、そのときあなたは、空想の想像的高まりに耽溺しているし、明白にここでは楽しみと思考が、作動する誘因です。あなたがまず初めにあの雲を見つめて、その美しさが見えたとき、そういう楽しみの誘因は作動していなかったのです。セックスの美しさは、「私 'me' 」、自我の不在なのですが、しかし、セックスの思考はこの自我の定立です。そしてそれが楽しみです。この自我は、すべてのときに楽しみを探し求めているのか、苦しみを回避しているのかのどちらかで、充足をほしがり、よって欲求不満を招いているのです。このすべてのなか、情熱の感情は、思考により維持され、追求されるのです。ゆえに、それはもはや情熱ではなく、楽しみです。憶えられ思い出される情熱の希望、追求は、楽しみです。
(´・(ェ)・`)つ
910
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/27(水) 00:08:05 ID:HQ/A94Rg0
くまめも1
情欲と情熱は別々のもの。情欲は思考により維持され、駆り立てられ、思考において成長し、実体を得て、ついに性的に爆発するし、またそれが権力への情欲であるなら、それ自らの暴力的形態の充足において爆発する。
情熱は思考の産物ではないし、また過去の思い出でもない。それは、充足のどんな動機によっても駆り立てられない。それはまた悲しみでもない。
質問者 性的情熱すべては情欲なのか。
K 思考が楽しみのイメージを築き上げるところでは、情熱の自由ではなく、情欲。楽しみが主な駆り立てる力であるなら、それは情欲。性的感情が楽しみから生まれるとき、それは情欲。
それが愛から生まれるなら、たとえそのとき大きな歓喜が存在していようとも、それは情欲ではない。
ここで愛は楽しみと味わいを排除するのかを自身で見出すのでなければならない。
あなたが、思考や所作において感覚刺激に戻りつづけるなら、そのときあなたは、空想の想像的高まりに耽溺しているし、ここでは楽しみと思考が、作動する誘因。
あなたがまず初めに感覚刺激を得て、その美しさが見えたとき、そういう楽しみの誘因は作動していなかった。
セックスの美しさは、「私 'me' 」、自我の不在だが、セックスの思考はこの自我の定立。そしてそれが楽しみ。この自我は、すべてのときに楽しみを探し求めているのか、苦しみを回避しているのかのどちらかで、充足をほしがり、よって欲求不満を招いている。
このすべてのなか、情熱の感情は、思考により維持され、追求される。ゆえに、それはもはや情熱ではなく、楽しみ。
憶えられ思い出される情熱の希望、追求は、楽しみ。
(´・(ェ)・`)
911
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/27(水) 23:28:17 ID:1d4drIFg0
情熱と情欲は全く違うというのじゃ。
愛から生まれるのが情熱というのじゃ。
快楽に駆り立てられるならば情欲であるのじゃ。
楽しみはあっても善いのじゃ。
それを追い求めたり、苦からの逃避として選ぶならば苦を産むのじゃ。
執着になるからなのじゃ。
912
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/28(木) 03:56:39 ID:Q9kJ3fsg0
変化の緊要
情熱と受苦 2
質問者 それでは、情熱自体は何なのでしょうか。
K それは、喜びと忘我と関わります。これらは楽しみではありません。楽しみにはいつも微細な形態の努力があるのです - 探し求め、奮闘し、要求し、それを保とう、それを得ようと格闘すること、です。情熱には、要求がないし、ゆえに格闘がないのです。情熱には充足のいささかの影もないし、ゆえに欲求不満も苦しみもありえないのです。「私 'me' 」は充足と苦しみのすべての中心ですが、情熱は「私 'me' 」からの自由です。情熱は、有るから、要求しないのです。私は、何か静止したものについて語っているのではありません。情熱は、「あなた」と「私 'me' 」がない自己放棄のきびしさです。ゆえに、情熱は、生、いのちの本質です。動き生きるのは、これなのです。しかし、思考が、持つこと、保つことの諸問題すべてを持ち込むとき、情熱は停止するのです。情熱なしには、創造は可能ではないのです。
質問者 あなたのいわれる創造とは、どういう意味なのでしょうか。
K 自由です。
質問者 どういう自由ですか。
K 環境に依存し環境の産物である「私 'me' 」 - 社会と思考により組み立てられる「私 'me' 」 - からの自由です。この自由は明晰さであり、過去から灯されない光です。情熱はただ現在のみなのです。
質問者 私には、ふしぎな新しい感情が、燃え立ちました。
K それが学びの情熱です。私が日々生きるなか、どういう特定の行為が、この情熱が燃えて作動していることを、確実にしてくれるのでしょうか。
質問者 学びの注意以外に、何もそれを確実にしてくれないでしょう。その注意は行為であり、いまなのです。これには情熱の美しさがあるし、それは「私 'me' 」とその時間の全的放棄です。
(´・(ェ)・`)つ
913
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/28(木) 03:57:39 ID:Q9kJ3fsg0
くまめも2
情熱自体は、喜び、忘我と関わる。これらは楽しみではない。楽しみにはいつも微細な努力がある−探し求め、奮闘し、要求し、それを保とう、それを得ようと格闘すること。
情熱には、要求がないし、ゆえに格闘がない。情熱には充足のいささかの影もないし、ゆえに欲求不満も苦しみもありえない。
「私 'me' 」は充足と苦しみのすべての中心だが、情熱は「私 'me' 」からの自由。情熱は、有るから、要求しない。私は、静止したものについて語っていない。情熱は、「あなた」と「私 'me' 」がない自己放棄のきびしさ。
ゆえに、情熱は、生、いのちの本質。生きるのは、これ。
しかし、思考が、持つこと、保つことの諸問題を持ち込むとき、情熱は停止する。情熱なしには、創造は不可能。創造とは、自由。環境に依存し環境の産物である「私 'me' 」−社会と思考により組み立てられる「私 'me' 」−からの自由。この自由は明晰さであり、過去から灯されない光。情熱はただ現在のみ。ふしぎな新しい感情が、燃え立つこと、それが学びの情熱。私が日々生きるなか、どういう特定の行為が、この情熱が燃えて作動していることを、確実にしてくれるのか。
質問者 学びの注意。その注意は行為であり、いま。これには情熱の美しさがあるし、それは「私 'me' 」とその時間の全的放棄。
(´・(ェ)・`)
914
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/28(木) 22:15:03 ID:1d4drIFg0
自分が無い時に自由があると言うのじゃ。
自分とは環境や社会や思考の産物なのじゃ。
さまざまな記憶から起こる観念なのじゃ。
観念の自分から自由になれば今ここに在ることができるのじゃ。
915
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/30(土) 04:38:36 ID:uVMlvQas0
変化の緊要
思考を終わらせること 1
質問者 あなたの言われる思考を終わらせることは、本当はどういう意味なのかと思われます。私はそれについてある友人に話したのですが、彼はそれはある種の東洋のたわごとであると言いました。彼にとって思考は、最高の形態の智恵と行為で、いのちのまさしく塩分で、不可欠です。それは文明を創り出してきたし、関係すべてはそれに基づいてあるのです。一番偉大な思想家から一番つつましい労働者まで、私たちのすべてがこれを受け入れます。私たちは考えないとき、眠ったり、植物みたいであったり、白昼夢を見ています。私たちは空虚で、鈍く、非生産的なのです。ところが、私たちは目覚めているとき、考え、行い、生き、口論しています。これらが、私たちの知るただ二つの状態です。あなたは言われます - 両方を越えなさい。思考と空虚な無活動を越えなさい、と。これはどういう意味なのでしょうか。
K ごく単純に言うと、思考は記憶の応答、過去なのです。過去は無際限なのか、一秒前なのです。思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去です。意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望です。思考が作用しているとき、それは過去ですし、ゆえに新しい生活は全くないのです。それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去なのです。それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがないのです。何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけません。心が散らかっていないときにのみ、今は生じうるのです。そして、この理由のために私たちは、思考は作動しなくてはならないときにだけ - 対象的に、効果的に - 作動して、止まらなければならないと言うのです。継続すべては思考です。継続があるとき、何も新しいもの・ことはありません。あなたは、これがどんなに重要なのか、分かるでしょうか。それは本当に、生それ自体の疑問です。あなたは過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらかです。それが論点全部です。
質問者 私はあなたの言われる意味は分かると思うのですが、しかし、いったい全体どのようにして、この思考を終わらせるのでしょうか。私が鳥(の声)を聞くとき、即時にそれはクロウタドリであると語ってくれる思考があるのです。私が通りを歩いていくとき、思考は私は通りを歩いていくと語ってくれ、私の認識し分かるすべてを語ってくれるのです。私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやって戯れるのは、今度も思考です。意味と理解と伝達のすべては思考です。私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしています。私は目覚めているとき考えるし、私は眠っているとき考えるのです。私の存在の全構造が思考です。その根は、私が知るよりはるかに深くあるのです。私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考です - 思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出すのです。思考は殺害するし、思考が許すのです。それで、どうしてそれを乗り越えられるのでしょうか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
916
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/30(土) 04:41:37 ID:uVMlvQas0
>>915
順番を間違えたので、この章は、後回しにするであります。
(´・(ェ)・`)つ
917
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/30(土) 04:43:52 ID:uVMlvQas0
変化の緊要
自己表現 1
質問者 表現は私にはとても重要に思われます。私は芸術家として自己を表現しなければなりません。そうでなければ、私は窒息して深く欲求不満の感じがします。表現は自らの存在の一部です。男が言葉と身振りで女に愛を表現するように、芸術家として私がそれに私自身を捧げることは、自然です。しかし、このすべての表現をとおして、私がよくは理解できない一種の苦しみがあるのです。ほとんどの芸術家は、自らの最も深い感情をカンバスや他のどの媒体に表現するなかに深い葛藤があるということでは私に同意するだろう、と私は思うのです。はたしてこの苦しみから自由になれるのかどうかと思われるのです。それとも、表現はいつも苦しみをもたらすのでしょうか。
K 表現の必要とは何でしょうか。苦痛はどこでこのすべてに入ってくるのでしょうか。いつも、ますます深く過剰に十分に表現しようとしないでしょうか。いったい、表現したものに満足することがあるでしょうか。深い感情とそれの表現は、同じことではないのです。二つの間には多大な違いがあるし、表現が強い感情に相応しないとき、いつも欲求不満があるのです。たぶんこれが、芸術家が自らの感情に与える発言の不適切さへのこの不満足が、苦しみの原因の一つです。ここには葛藤があるし、葛藤はエネルギーのむだなのです。芸術家は、そうとうに真誠である強い感情を持ちます。彼はそれをカンバスに表現します。この表現はある人々を楽しませるし、彼らはその人の作品を買うのです。その人はお金と評判を得るのです。彼の表現は、注目されたし、流行になるのです。彼はそれを洗練させ、追求し、発達させるし、いつのときにも自分自身を模倣しています。この表現は習慣的になり、様式化されるのです。表現はますます重要になり、最終的には感情よりも重要になるのです。感情は結局、蒸発します。芸術家は、成功した画家としての社会的結果とともに、残されます。サロンと画廊の市場、通のくろうと、批評家。彼は、社会のために絵を描き、その社会の奴隷になるのです。感情ははるか前に消えてしまったし、表現は残る空っぽの殻なのです。結果的にこの表現さえ結局、魅力を失います。なぜなら、それは何も表現するものがなかったからです。それは意味のない身振り、言葉です。これが、社会の破壊的過程の一部です。これが良いものの破壊です。
質問者 感情は、表現のなか失われずに、残れないのでしょうか。
K (表現が)楽しめたり、満足できたり、収益が上がるから、表現ばかりが重要になるとき、表現と感情の間に断裂があるのです。感情が表現であるとき、葛藤は生じません。ここには矛盾がないし、ゆえに葛藤がないのです。しかし、収益と思考が介入するとき、この感情は欲をとおして失われるのです。感情の情熱は、表現の情熱とは全然違っているし、ほとんどの人々は表現の情熱に捕らわれるのです。それで、良いものと楽しめるものとの間には、いつもこの分割があるのです。
質問者 私は、この欲の流動に捕らわれずに、生きられるでしょうか。
K 重要であるのが感情であるなら、あなたはけっして表現について訊ねないでしょう。あなたは感情を持っているのか、持っていないのかのどちらかです。あなたは表現について訊ねるなら、芸術性についてではなく収益について訊ねているのです。芸術性は、けっして勘定に入らないものなのです。それは生きることなのです。
質問者 では、それは、生きるとはどういうことなのでしょうか。(生きて)有るとは、それ自体が完全である感情を持つとは、どういうことなのでしょうか。私はいま、表現は的外れであることを理解したのです。
K それは葛藤なく生きることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
918
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/30(土) 04:44:45 ID:uVMlvQas0
くまめも25-1
芸術家は、強い感情を持ち、それを表現する。深い感情とその表現の間には多大な違いがあるし、表現が強い感情に相応しないとき、欲求不満がある。この不満足が、苦しみの原因の一つ。ここには葛藤がある。
表現→人々を楽しませ、その人の作品を買う→金と評判を得る→表現は、注目され、流行→それを洗練、発達させる→いつのときにも自分自身を模倣→表現は習慣的、様式化される→表現はますます重要になり、最終的には感情よりも重要になる→感情は蒸発→芸術家は、成功した画家としての社会的結果とともに、残される→社会のために絵を描き、その社会の奴隷になる。
感情ははるか前に消えたし、表現は残る空っぽの殻。結果的にこの表現さえ魅力を失う。なぜなら、それは何も表現するものがなから。それは意味のない身振り、言葉。これが、社会の破壊的過程の一部。これが良いものの破壊。
質問者 感情は、失われず残れないか。
K 楽しめ、満足でき、収益が上がる→表現ばかりが重要になる→表現と感情の間に断裂。感情=表現→矛盾、葛藤がない。収益と思考が介入→感情は欲をとおして失われる。
感情の情熱は、表現の情熱とは全然違う。人々は表現の情熱に捕らわれる。それで、良いものと楽しめるものとの間には、いつもこの分割がある。
重要であるのが感情→けっして表現について訊ねない。感情を持っているのか、いないのかのどちらか。表現について訊ねる→芸術性ではなく収益について訊ねている。芸術性は、けっして勘定に入らない→生きること
質問者 生きて有るとは、それ自体が完全である感情を持つとは、どういうことか。
K それは葛藤なく生きること。
(´・(ェ)・`)
919
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/31(日) 00:08:30 ID:1d4drIFg0
表現とは他人に向けた感情のあらわれなのじゃ。
それによって芸術は金にもなるのじゃ。
芸術が表現に偏るならばもはや金のための商品にもなるのじゃ。
ありのままの感情を現す時、表現は葛藤の無い芸術になるのじゃ。
920
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/31(日) 06:03:50 ID:tFvY.HzI0
変化の緊要
秩序 1
質問者 あなたの教えには、千もの詳細があります。私は生きるなかで、それらすべてを一つの行為へ解消することができなければならないし、いまそれは、私のなすすべてに浸透します。なぜなら、私は生きるなかで、行為するための一つの瞬間が、私の真ん前にあるだけであるからです。頂点のうえに倒立したピラミッドのように、あなたの教えの詳細すべてを一点に持っていく日々生きるなかでの一つの行為とは、何なのでしょうか。
K ・・・危険ですね!
質問者 または違うように言うと、生きることの全的智恵を、一瞬に現在に集中させるだろう一つの行為は、何なのでしょうか。
K 問うべき疑問は、どう混乱、適応、悲惨なく、他の人間たちとの調和的な関係のなか、本当に智恵あり均衡ある活動的な生を生きるのかである、と私は思うのです。あなたがしているいかなることにも、この智恵を作動するよう喚起するであろう一つの行為は、何なのでしょうか。世界にはこんなに多くの悲惨、貧しさ、悲しみがあるのです。あなたは人間として、これらすべての人間的問題に向き合い、何をすべきなのでしょうか。あなたが他の人たちを助ける機会をあなた自身の充足のために使うなら、そのとき、そのときそれは濫用で危害です。それで、私たちは初めから、それを片づけられるのです。本当は疑問はこうなのです - 私たちはどのようにして、どんな種類の努力もなく大いに智恵あり秩序ある生を生きるのでしょうか。私たちはいつもこの問題に外側から接近し、自分自身に「私は、人類の、経済的、社会的、人間的な多くの問題すべてに直面して、何をすべきなのだろうか」と訊ねるように、思われるのです。私たちは、外ということにおいて働いてこれを解きたいと思うのです。
質問者 いいえ。私はあなたに、私がどのように世界の経済的、社会的、政治的問題に取り組んだり、解決したりできるのかを、訊ねているのではありません。それではあまりに愚劣でしょう!私が知りたいすべては、まさにあるとおりのこの世界でどう正しく生きるのかばかりです。なぜなら、それはいまあるとおりにここに私の真ん前にあるし、私はそれを他のどんな形にも望めないからです。私はいま、あるとおりのこの世界に生き、これら環境、境遇のなかで、生きることの問題すべてを解決するのでなければなりません。私はこの生きることを、どう義(ダールマ)の生にするのかを訊ねているのです。それは、外から課されないし、どんな訓戒にも順応しなくてどんな思考によっても養成されない美徳です。
K あなたのいわれるのは、あなたは即時にふいにあなた自身を、大いなる智恵、無垢、愛である恵みの状態に見たい - 過去や未来をもたずあなた自身をこの状態に見たい、この状態から行為したい、という意味でしょうか。
質問者 はい!全くそのとおりです。
(´・(ェ)・`)つ
921
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/31(日) 06:06:58 ID:tFvY.HzI0
くまめも1
質問者 あなたの教えの詳細すべてを一点に持っていく日々生きるなかでの一つの行為とは、何か。
K ・・・危険ですね!
問うべき疑問は、どう混乱、適応、悲惨なく、他の人間たちとの調和的な関係のなか、本当に智恵あり均衡ある活動的な生を生きるのかである。
世界にはこんなに多くの悲惨、貧しさ、悲しみがある。あなたは人間として、これらの問題に向き合い、何をすべきか。他の人たちを助ける機会を自身の充足のために使うなら、そのとき、そのときそれは濫用で危害。
本当は疑問はこう−私たちはどのようにして、どんな種類の努力もなく大いに智恵あり秩序ある生を生きるか。
私たちはいつもこの問題に外側から接近し、自分自身に「私は、人類の、経済的、社会的、人間的な多くの問題すべてに直面して、何をすべきなのだろうか」と訊ねる。
質問者 いいえ。どのように世界の経済的、政治的問題に取り組み、解決できるかを、訊ねているのではない。それでは愚劣。
私はいま、あるとおりのこの世界に生き、これら環境、境遇のなかで、生きることの問題すべてを解決するのでなければならない。
私はこの生きることを、どう義(ダールマ)の生にするのかを訊ねている。
K あなたは即時にあなた自身を、大いなる智恵、無垢、愛である恵みの状態に見たい − 過去や未来をもたずあなた自身をこの状態に見たい、この状態から行為したい、という意味か。
質問者 はい!全くそのとおり。
(´・(ェ)・`)
922
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/31(日) 06:18:40 ID:tFvY.HzI0
うむ。
「危険ですね!」
廻光返照
「言を尋ね語を逐うの解行を休すべし」
道元さんも覚者でありますか?
同じことを言ってるであります。
(´・(ェ)・`)b
923
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/01(月) 00:57:44 ID:1d4drIFg0
言葉だけ覚えて繰り返しても無意味なのじゃ。
現実が言葉の通りになることはありえないのじゃ。
それは心の中にイメージを持っていることであるからのう。
ありのままにものごとを観る障碍になるばかりなのじや。
924
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/02(火) 08:36:30 ID:WhCvvMPA0
変化の緊要
秩序 2
K これは、達成、成功、失敗とは何の関わりもありません。確かに、ただ一つの生きる道があるにちがいありません。それは何でしょうか。
質問者 それが私の疑問です。
K 始まりもなく終わりもないし、あなたの願望によって灯されないし、あなたのや他の誰かのではない光を、あなたの内に持つこと。この内的光があるとき、あなたが何をしようとも、いつも正しく真実であるでしょう。
質問者 格闘、探求、あこがれ、疑問のすべてなしに、その光をいま、どのように得るのでしょうか。
K あなたが本当に過去に対して完全に死ぬときにだけ、それは可能です。そして、これは、頭脳に完全な秩序があるときにだけ、できるのです。頭脳は無秩序に耐えられません。無秩序があるのなら、その活動すべては矛盾的で混乱し悲惨になるでしょうし、それはそれ自身とそれ自身のまわりに危害をもたらすでしょう。この秩序は、思考の企画、原理(へ)、権威(へ)、何かの形態の想像された善への服従の企画ではありません。葛藤、抗争をもたらすのは、頭脳の無秩序です。そのとき、この無秩序から逃避するため思考が養成した、宗教的その他のさまざまな抵抗すべてが、生じるのです。
質問者 この秩序は、それ自体が無秩序で矛盾的である頭脳へ、どのようにもたらされるのでしょうか。
K それは、一日中見張ることにより、それから眠る前に、日中になされたことごとくを秩序立てることにより、できるのです。そのとおりに頭脳は無秩序のなか眠りに就きません。これは、本当は(頭脳の)なかとまわりに無秩序があるときに、頭脳が自分自身に催眠をかけて秩序の状態にする、という意味ではありません。昼の間に秩序があるのでなければならないし、眠る前にこの秩序を締めくくることが、一日が調和的に終わることなのです。それは、帳簿を付け、毎晩それを適正に決算し、そのため次の日新たに始めるようにし、そのため眠りに就くとき、心が悩み混乱し心配で恐れているのではなく、静かで空っぽであるようにする人に、似ているのです。彼が目覚めるとき、思考や楽しみの産物ではないこの光があるのです。この光は、智恵と愛なのです。それは、私たちが育てられてきた道徳という無秩序の否定です。
質問者 私は即時に無媒介にこの光を得られるでしょうか。それが、私がまさに最初に訊ねた疑問です。ただ私はそれを違うように表しただけなのです。
K 「私 'me' 」がないとき、それを即時に無媒介に得られるのです。「私 'me' 」は、自らが終わらなければならないことを自分自身で見るとき、終わりになるのです。見ることが理解の光なのです。
(´・(ェ)・`)つ
925
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/02(火) 08:45:19 ID:WhCvvMPA0
くまめも2
K これは、達成、成功、失敗とは何の関わりもない。ただ一つの生きる道がある。始まりも終わりもないし、願望によって灯されないし、あなたのや他の誰かのではない光を、あなたの内に持つこと。この内的光があるとき、いつも正しく真実。
あなたが本当に過去に対して完全に死ぬときにだけ、それは可能。そして、これは、頭脳に完全な秩序があるときにだけできる。
頭脳は無秩序に耐えられない。無秩序があるのなら、その活動すべては矛盾的で混乱し悲惨になるし、それはそれ自身とそれ自身のまわりに危害をもたらす。この秩序は、思考の企画、原理、権威、想像された善への服従の企画ではない。葛藤、抗争をもたらすのは、頭脳の無秩序。そのとき、この無秩序から逃避するため思考が養成した、さまざまな抵抗すべてが、生じる。
秩序は、どのようにもたらされるか。それは、一日中見張ることにより、それから眠る前に、日中になされたことを秩序立てることにより、できる。頭脳は無秩序のなか眠りに就かない。昼の間に秩序があるのでなければならないし、眠る前にこの秩序を締めくくることが、一日が調和的に終わること。
彼が目覚めるとき、思考や楽しみの産物ではないこの光がある。この光は、智恵と愛。それは、私たちが育てられてきた道徳という無秩序の否定。
「私 'me' 」がないとき、それを即時に無媒介に得られる。「私 'me' 」は、自らが終わらなければならないことを自分自身で見るとき、終わりになる。見ることが理解の光。
(´・(ェ)・`)
926
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/02(火) 21:21:01 ID:1d4drIFg0
見る事に拠って私が終わるというのじゃ。
私が無ければ目覚めが在るのじゃ。
目覚めれば条件付けによる観念遊戯も全て終わるのじゃ。
見ることが理解の光であると言うのじゃ。
927
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/03(水) 06:39:47 ID:FyHVc0AM0
変化の緊要
個人と共同体 1
質問者 私はこの疑問の訊ね方をよく知らないのですが、私は、個人と共同体、これら二つの対立的事物の間の関係は、長い危害の歴史であったという強い感じを持っています。世界の(歴史)、思考、文明の歴史は、つまるところ、これら二つの対立的事物の間の関係の歴史です。社会すべてにおいて個人は多かれ少なかれ抑圧されるのです。彼は、理論家たちが決定してきた様式に順応し、適合しなければなりません。個人はいつもこれら様式を破って抜けようとしているし、二つの間の継続的な戦いが結果です。諸宗教は、集団的魂から分離したものとして、個人の魂について話すのです。彼らは個を強調します。(近代)現代の社会は、こんなに機械的になり、標準化され、集団的に活動することになったのですが、この社会では、個人は自分が何なのかを探究し、自分自身を主張し、自分自身を同定しようとしています。格闘すべては、何にもつながりません。私の疑問はこうです - このすべてのどこが、間違っているのでしょうか。
K 本当に大事であるただ一つのことは、生きるなか善と愛と智恵の行為があることです。善は個人的でしょうか、集団的でしょうか。愛は人格的でしょうか、非人格的でしょうか。智恵はあなたのや私のや他の誰かのでしょうか。それがあなたのや私のであるのなら、そのときそれは智恵や愛や善ではありません。善が、自らの特定の趣向や判断に応じた個人や集団の事柄であるのなら、そのときそれはもはや善ではありません。善は個人の裏庭にも集団の広野にもありません。善は両方からの自由にのみ花開くのです。この善と愛と智恵があるとき、そのとき行為は個人や集団ということにおいてではありません。善を欠いて私たちは、世界を個人と集団とに分割するし、さらに集団を宗教、国家、民族、階級に応じて無数の諸集団に分割するのです。これら諸分割を創り出したので、私たちは、新しい集団を形成することによりそれらに橋を渡そうとするのですが、それら(形成される集団)も再び他の諸集団から分割されるのです。私たちは、どの偉大な宗教もすべて仮定では人の同胞愛をもたらすために存在しているが、現行の事実ではそれを防止することが、分かるのです。私たちはいつも、すでに腐敗しているものを改革しようとするのです。私たちは腐敗を抜本的に根絶するのではなく、ただ単にそれらを配置しなおすだけなのです。
(´・(ェ)・`)つ
928
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/03(水) 06:41:46 ID:FyHVc0AM0
くまめも1
本当に大事であるただ一つのことは、生きるなか善と愛と智恵の行為があること。
智恵はあなたのや私のや他の誰かのか。それがあなたのや私のであるのなら、そのときそれは智恵や愛や善ではない。
善が、特定の趣向や判断に応じた個人や集団の事柄であるのなら、そのときそれは善ではない。善は個人の裏庭にも集団の広野にもない。善は両方からの自由にのみ花開く。
この善と愛と智恵があるとき、そのとき行為は個人や集団ということにおいてではない。善を欠いて私たちは、世界を個人と集団とに分割するし、さらに集団を宗教、国家、民族、階級に応じて無数の諸集団に分割する。これら諸分割を創り出したので、私たちは、新しい集団を形成することによりそれらに橋を渡そうとするが、それら(形成される集団)も再び他の諸集団から分割される。
私たちは、どの偉大な宗教もすべて仮定では人の同胞愛をもたらすために存在しているが、現行の事実ではそれを防止することが、分かる。私たちはいつも、すでに腐敗しているものを改革しようとする。私たちは腐敗を抜本的に根絶するのではなく、ただ単にそれらを配置しなおすだけ。
(´・(ェ)・`)
929
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/03(水) 22:59:09 ID:1d4drIFg0
個人の集まりが集団と呼ばれるのじゃ。
個人が無ければ集団も無いのじゃ。
それは分けられない一つのものなのじゃ。
集団のためにすることは個人の欲望のためにすることであり、腐敗は免れないのじゃ。
930
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/03(水) 23:36:39 ID:0u2NzBkU0
変化の緊要
個人と共同体 2
質問者 あなたは、私たちは個人と集団の間のこれら終わりなき取引に時間を費やしたり、それらは異なっているとか、それらは同様であるとかを立証しようしたりしなくてもいい、と言われているのでしょうか。あなたは、ただ善、愛、智恵のみが主題であるし、これらは個人や集団を越えていると言われているのでしょうか。
K そうです。
質問者 では、本当の疑問は、愛、善、智恵が日々生きるなかでどのように行為できるのかであるように、思われます。
K これらが行為するのなら、そのとき個人と集団の疑問は学理的なのです。
質問者 それらはどのようにして行為するのでしょうか。
K それらはただ関係のなかにのみ行為できるのです。存在すべては関係のなかにあるのです。それで、初めのことは、自らのあらゆるものごととあらゆる人との関係に気づくこと、この関係のなか「私 'me' 」がどのように生まれ、行為するのかを見ることなのです。集団と個人のどちらでもあるこの「私 'me' 」、です。分離するのは、「私 'me' 」です。集団的、個人的に行為するのは「私 'me' 」で、天国と地獄を創り出すのは「私 'me' 」です。これに気づくことがそれを理解することです。そして、それを理解することが、それの終わることなのです。それの終わることが善、愛、智恵なのです。
(´・(ェ)・`)つ
931
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/03(水) 23:41:26 ID:0u2NzBkU0
くまめも27-2
質問者 善、愛、智恵のみが主題であり、これらは個人や集団を越えていると言うのか。
K そうです。
質問者 愛、善、智恵が、日々生きるなかでどのように行為できるのか。
K これらが行為するのなら、そのとき個人と集団の疑問は学理的。
質問者 それらはどのように行為するのか。
K それらはただ関係のなかにのみ行為できる。存在すべては関係のなかにある。
初めのことは、自らのあらゆるものごととあらゆる人との関係に気づくこと、この関係のなか「私 'me' 」がどのように生まれ、行為するのかを見ること。集団と個人のどちらでもあるこの「私 'me' 」。分離するのは、「私 'me' 」。集団的、個人的に行為するのは「私 'me' 」で、天国と地獄を創り出すのは「私 'me' 」。これに気づくことがそれを理解すること。そして、それを理解することが、それの終わること。それの終わることが善、愛、智恵。
(´・(ェ)・`)
932
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/04(木) 23:32:11 ID:1d4drIFg0
全ては私から起こるというのじゃ。
分離も、個人と集団の行為も、天国と地獄を作り出すのも全て私なのじゃ。
それが観られて気付いたならば、全ては消え去るのじゃ。
私が無ければ私から創られた全てもなくなるからなのじゃ。
933
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/04(木) 23:50:57 ID:1R/9XXYg0
変化の緊要
冥想とエネルギー 1
質問者 今朝私は、冥想のもっと深い意味、もっと深い感覚に入りたいように思うのです。私は、少しの禅を含めて、その多くの形態を実践してきました。気づきを教える学派はさまざまにあるのですが、それらはすべてむしろ表面的なように思われます。それで、私たちはそのすべてをわきに置いておき、これに入れるでしょうか。
K 私たちはまた権威の意味全体をもわきに置かなければなりません。なぜなら、冥想のなかで、どんな形態の権威も、自分自らのも他の人の権威も、障害になり、自由を防止するからです。新しさ、新鮮さを防止するのです。それで、権威、順応、模倣は完全にわきに置かなければなりません。そうでなければあなたは、単に言われてきたことを模倣し、倣うだけですし、これは心をとても鈍く愚かにするのです。そこには自由がありません。あなたの過去の経験は導き、指導し、新しい道を確立するかもしれません。それで、それさえも去らなければなりません。そのときにだけ、冥想と呼ばれるこのとても深くとてつもなく重要なことに、入れるのです。冥想はエネルギーの本質です。
質問者 長年の間、私は自分が他の誰かの権威やある様式の奴隷にならないようにしてきました。もちろん私自身を欺瞞する危険はあるのですが、私たちが進むにつれて、私はたぶん見出すでしょう。しかし、あなたが冥想はエネルギーの本質であると言われるとき、あなたの言われる「冥想」と「エネルギー」という言葉は、どういう意味なのでしょうか。
K 思考のあらゆる動き、あらゆる行為がエネルギーを要求します。あなたが何をしようと、考えようと、エネルギーが要るのです。このエネルギーは、葛藤、抗争をとおし、さまざまな形態の不必要な思考、情動的追求、感傷的活動をとおして、消散するかもしれません。二元性に、「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」に、観察する者と観察されるもの・こと、思考する者と思考されるもの・こととの間の分割に生ずる葛藤、抗争のなか、エネルギーはむだになるのです。このむだがもはや起きていないとき、気づきと呼べるエネルギーの性質があるのです - そのなかに、評価づけ、判断、非難、比較がなく、単に注意深い観察、思考 - すなわち過去 - の干渉なく内的、外的にものごとをまさに有るとおりに見ることのみがあるところの気づき、です。
質問者 私はこれをとても理解するのが困難だと思います。もしも全く思考がなかったなら、樹や私の妻や隣人を認識することは、可能でしょうか。あなたは樹やお隣の女性を見るとき、認識は必要であるでしょう。
K あなたが木を観察するとき、認識は必要でしょうか。あなたがあの樹を見るとき、あなたはあれは樹であると言うのでしょうか、それともあなたはただ見るだけでしょうか。あなたがそれをニレ、カシ、マンゴーの来と認識しはじめるなら、そのとき過去が直接的観察に干渉するのです。同じように、あなたは、あなたの妻を見るとき、やっかいや楽しみの記憶をもって見るのなら、あなたは本当は彼女を見ていなくて、あなたが彼女について心に持っているイメージを見ているのです。それが直接的知覚を防止します。直接的知覚には、認識が要りません。あなたの妻、あなたの子ども、あなたの家、あなたの隣人の外的認識はもちろん必要です、しかし、なぜ眼、心、頭に過去の介入があったりするのでしょうか。それはあなたが明確に見るのを防止しないでしょうか。あなたが何かについて非難したり、見解を持つとき、その見解や先入観は、観察を歪曲するのです。
(´・(ェ)・`)つ
934
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/04(木) 23:52:32 ID:1R/9XXYg0
くまめも28-1
冥想のなかで、どんな形態の権威も、障害になり、自由を防止する。新鮮さを防止する。それで、権威、順応、模倣は完全にわきに置かなければならない。言われたことを模倣するだなら、それは、心をとても鈍く愚かにする。そこには自由がない。過去の経験は導き、新しい道を確立するかもしれない。それさえも去らなければならない。そのときにだけ、冥想のとても深く、重要なことに、入れる。冥想はエネルギーの本質。
思考のあらゆる動き、あらゆる行為がエネルギーを要求する。このエネルギーは、葛藤、抗争をとおし、さまざまな形態の不必要な思考、情動的追求、感傷的活動をとおして、消散するかもしれない。
二元性に、「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」に、観察する者と観察されるもの・こと、思考する者と思考されるもの・こととの間の分割に生ずる葛藤、抗争のなか、エネルギーはむだになる。
このむだが起きていないとき、気づきと呼べるエネルギーの性質がある。そのなかに、評価づけ、判断、非難、比較がなく、単に注意深い観察、思考、すなわち過去の干渉なく内的、外的にものごとをまさに有るとおりに見ることのみがあるところの気づき。
あの樹を見るとき、あなたは①あれは、木である。②ただ見るだけ③それを〇〇の木と認識しはじめるなら、そのとき過去が直接的観察に干渉する。
同じように、妻を見るとき、記憶をもって見るなら、本当は彼女について心に持っているイメージを見ている。それが直接的知覚を防止する、直接的知覚には、認識が要らない。妻、隣人の外的認識はもちろん必要、しかし、なぜ眼、心、頭に過去の介入があったりするのか。それは明確に見るのを防止する。何かについて非難したり、見解を持つとき、その見解や先入観は、観察を歪曲する。
(´・(ェ)・`)
935
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/05(金) 22:44:59 ID:1d4drIFg0
言葉とイメージに拠って過去の記憶から観念が起こるのじゃ。
それが悟っていない者の認識なのじゃ。
それは今ここにあるものごとを観ていないのじゃ。
記憶を観ているだけなのじゃ。
何の分別も無く観ることが気付きなのじゃ。
936
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 00:00:30 ID:2WdNfqJs0
>>935
いつも、簡潔なまとめをありがとうであります。
精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ
937
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 00:01:53 ID:2WdNfqJs0
変化の緊要
冥想とエネルギー 2
質問者 はい、それは分かります。その微細な形態の認識は歪曲するのです。それは分かります。あなたは、これらすべての思考の干渉はエネルギーのむだであると言われます。あなたは、どんな形態の認識、非難、判断もなく観察しなさい、名づけず観察しなさい、と言われます。その名づけ、認識はエネルギーのむだであるからです。それは論理的に現実的に理解できます。そのとき次の点、すなわち、二元性を創り出す観察する者と観察される者・ことの間に存在する分割、分離、あるいはむしろあなたがしばしば表してこられたとおり空間があるのです。あなたは、それもまたエネルギーのむだであり、葛藤、抗争をもたらすと言われます。私はあなたの言われることすべてを論理的だと思うのですが、その空間を取り除くこと、観察する者と観察される者・こととの間に調和をもたらすことを、とてつもなくむずかしいと思うのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。
K 「どのように」はないのです。「どのように」は、機械的になる体系、方式、実践を意味します。もう一度私たちは、「どのように」という言葉の意義を離れなくてはなりません。
質問者 それは可能でしょうか。私は可能という言葉は、未来、努力、調和をもたらそうと奮闘することを含意するのを、知っています。しかし、一定の言葉は使わなければなりません。私たちがそれら言葉を乗り越えられるのを私は願うのです。それで、観察する者と観察されるもの・こととの間の統一をもたらすことは、可能でしょうか。
K 観察する者は観察されるもの・ことにいつも陰を落としています。それで、二つの間の統合をどのようにもたらすのかではなくて、観察者の構造と本性を理解しなければなりません。観察者の動きを理解しなければなりません。その理解のなかおそらく観察者は終わりになるでしょう。私たちは、観察者が何なのかを検討しなければなりません。それは、意識的、無意識的な記憶、人種的、民族的な遺産、知識と呼ばれる蓄積された経験、諸反応をともなう過去なのです。観察者は本当は、条件づけられた事物です。彼は、その人はある、私はあると主張する者なのです。彼自身を保護するなかで彼は抵抗し、支配し、快適と安楽、安全を求めます。そのとき観察者は内的、外的に、自分自身を、観察されるもの・こととは異なる何かとして、分け隔てます。これが二元性をもたらすし、この二元性から葛藤、抗争があるし、これ(葛藤、抗争)がエネルギーのむだなのです。観察者、その動き、その自己中心的活動、その主張、その先入観に気づくには、自分は異なっているという分離主義的感情を築くこれら無意識的な動きすべてに、気づかなければなりません。それは、どんな形態の評価づけもなく、好き嫌いなく観察されなければなりません。ただそれを日々の生のなか、その諸関係のなか観察してください。この観察が明らかであるとき、観察者からの自由がないでしょうか。
質問者 あなたは、観察者は本当は自我であるとおっしゃっています。あなたは、自我が存在するかぎり、彼は抵抗し、分割し、分離する、というのは、この分離、この分割のなか彼は生きていると感じるから、とおっしゃっているのです。それは彼に、抵抗し戦う活力を与えるし、彼はその戦いが慣習となってしまったのです。それが彼の生きる道なのです。あなたは、この自我、この「私 'I' 」が、好き嫌いの感覚のなく、見解や判断のなく、ただ行為のなかこの「私 'I' 」の観察のみがある観察をとおして解消しなければならない、と言われていないでしょうか。しかし、そういうことは本当に起きるのでしょうか。私は私自身をそんなに完全に、真実に、歪曲なく見られるでしょうか。あなたは、私がそんなに明らかに私自身を見つめるとき、「私 'I' 」は全く動きを持たないと言われます。そしてあなたは、これが冥想の一部であると言われるのですか。
K もちろんです。これこそが冥想です。
(´・(ェ)・`)つ
938
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 00:02:51 ID:2WdNfqJs0
くまめも2
質問者 あなたは、観察者は本当は自我であるという。あなたは、自我が存在するかぎり、彼は抵抗し、分割し、分離する、というのは、この分離、この分割のなか彼は生きていると感じるから、と言っている。
それは彼に、抵抗し戦う活力を与えるし、彼はその戦いが慣習となってしまった。
それが彼の生きる道。あなたは、この自我、この「私 'I' 」が、好き嫌いの感覚のなく、見解や判断のなく、ただ行為のなかこの「私 'I' 」の観察のみがある観察をとおして解消しなければならない、と言うのか。
そういうことは本当に起きるのか。
私は私自身をそんなに完全に、真実に、歪曲なく見られるか。
私がそんなに明らかに私自身を見つめるとき、「私 'I' 」は全く動きを持たないと言う。これが冥想の一部であると言うのか。
K もちろんです。これこそが冥想です。
(´・(ェ)・`)
939
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/06(土) 23:25:37 ID:1d4drIFg0
>>936
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
940
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/06(土) 23:33:08 ID:1d4drIFg0
観察する時に観察する者と観察されるものをわけてはいかんというのじゃ。
観察する者こそを観察するべきなのじゃ。
観察する者がどのように観察しているのか理解するのじゃ。
観察する者を観察する事が瞑想だというのじゃ。
941
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 23:43:31 ID:zulUrRnU0
変化の緊要
冥想とエネルギー 3
質問者 この観察は確かに、とてつもない自己修練を要求します。
K あなたの言われる自己修練とはどういう意味でしょうか。自己に拘束服を帰せることにより自己を修練するという意味でしょうか。それとも自分自身(について)、主張し、支配し、野心的暴力的などである自分自身について修学する、それについて学ぶ、という意味でしょうか。学ぶことはそれ自体が修練です。修練という言葉は、学ぶ、修学するという意味です。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要るし、その学びがそれ自体の応答する責任能力、それ自体の活動、それ自体の次元をもたらすのです。それで、それに課されるものとしての修練はないのです。学びがあるとき、模倣はなく、順応はなく、権威はないのです。これがあなたが修練という言葉でいわれる意味であるのなら、そのとき確かに学ぶ自由がありますか。
質問者 あなたは、私をあまりに遠く、おそらくあまりに深く連れていっています。私は、この学びが関係するところでは、あなたにぜんぶは付いてゆけません。私は、観察者としての自己が終わりにならなければならないことが、明確に分かります。論理的にそのとおりですし、葛藤があってはなりません。それはごく明確です。しかし、あなたは、まさにこの観察が学びであるし、学ぶなかにはいつも蓄積があると言われています。この蓄積が過去になるのです。学びは付け加えの過程ですが、あなたは明らかにそれに全く違った意味を与えられています。私が理解したところからは、あなたは、学びは蓄積なき常の動きであると言われています。そのとおりでしょうか。蓄積なしの学びがありうるのでしょうか。
K 学びはそれ自体の行為です。一般的に起きることは、学んでおいて - 私たちは学んできたことにのって行為する、ということなのです。それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきもの・ことと有るもの・こと、またはあったもの・ことと有るもの・こととの間に、葛藤があるのです。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っているのです。すなわち、学ぶことはなすことです。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではないのです。これを理解することがとても重要です。なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、「私に 'me' 」、「私 が 'I' 」、自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性です。「私 'I' 」は過去のまさに本質ですし、過去は現在に触れて、さらに未来になるのです。ここには常に分割があるのです。学びがあるところには、常に動きがあるのです。「私 'I' 」になりうる蓄積はないのです。
質問者 しかし、科学技術の分野には、蓄積された知識があるのでなければなりません。知識なしには、大西洋を飛んだり、車を走らせたり、またはふつうの日々のことのほとんどをすることさえもできません。
K もちろんですね。そういう知識は絶対に必要です。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話しているのです。「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられるのです。「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられるのです。しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめるのです。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるからです。それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではありません。それは、何か他のものを達成するためにそれを用いているのです。それは、有名になるためピアノを用いる音楽家に似ています。彼が関心を持つものは、それ自体での、それ自体のための音楽の美しさではなくて、名声です。私たちは、技術的な知識を除かなければならないと、言っているのではありません。反対に、技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況があるでしょう。しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめるのです。
(´・(ェ)・`)つ
942
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 23:47:27 ID:zulUrRnU0
くまめも3
修練とは、学ぶ、修学するという意味。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要る。学びがあるとき、模倣、順応、権威はない。
質問者 蓄積なしの学びがありうるのか。
K 学びはそれ自体の行為。一般的に起きることは、学んでおいて-私たちは学んできたことにのって行為する、ということ。
それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきものと有るもの、またはあったものと有るものとの間に、葛藤がある。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っている。すなわち、学ぶことはなすこと。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではない。
これを理解することがとても重要。
なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、me' 、I' 自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性。「私 'I' 」は過去のまさに本質だし、過去は現在に触れて、さらに未来になる。ここには常に分割がある。学びがあるところには、常に動きがある。「私 'I' 」になりうる蓄積はない。
科学技術の分野の知識は絶対に必要。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話している。
「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられる。
「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられる。
しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめる。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるから。
それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではない。技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況がある。
しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめる。
(´・(ェ)・`)
943
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/07(日) 23:30:16 ID:Jqx6nX820
変化の緊要
冥想とエネルギー 4
質問者 私はあなたの言われていることを理解しはじめていると思います。あなたは、学びという言葉に、全く違った意味と次元を与えられています - それはすばらしいのです。私はそれをつかみはじめています。あなたは、冥想は学びの動きであるし、そこにはあらゆるものごとについて、冥想についてだけではなく、生き方、車の走らせ方、食べ方、話し方、あらゆるものごとについて学ぶ自由がある、と言われているのです。
K 私たちが言いましたように、エネルギーの本質は冥想です。それを違うように言うと - 冥想者があるかぎり、冥想はないのです。彼が他の人たちの叙述した状態や何か経験の閃きを達成しようと試みるなら・・・
質問者 お話を遮らせていただくと、あなたは、学ぶことは常であり、絶え間なき流れ、線であり、そのため学びと行為が一つ、または常の動きであるようでなければならないと、言われているのでしょうか。私はどういう言葉を用いるべきなのか知りませんが、私の言いたい意味は必ず理解なさると思うのです。学びと行為と冥想の間に絶え間があるととたんに、その絶え間は不調和ですし、その絶え間は葛藤です。その絶え間には、観察者と観察されるもの・ことが(あるし)、ゆえにエネルギーのむだ全体があるのです - それが、あなたの言われていることなのでしょうか。
K はい、それが私たちの言っている意味なのです。冥想は状態ではありません。行為が動きであるように、それは動きです。そして、ちょうどいま私たちが言いましたように、私たちが学びから行為を分離するとき、観察者が、学びと行為の間に来るのです。そのとき彼は、隠密の動機のために行為と学びを用いるのです。これが、行為し、学び、冥想する一つの調和的動きとしてごく明確に理解されるとき、エネルギーのむだはないし、これが冥想の美しさです。ただ一つの動きがあるのです。学びは、冥想や行為よりもはるかに重要です。学ぶには、完全な自由が、意識的にだけではなく、深く、内的に、あるのでなければなりません - 全的な自由です。そして、自由には、調和的全体として学び、行為し、冥想するこの動きが、あるのです。全体 whole という言葉は、(語源的に)健全 health というだけではなく、神聖 holy という意味なのです。それで、学びは神聖ですし、行為は神聖ですし、冥想は神聖です。これは本当に聖なることですし、美しさはそれを越えてではなく、それ自体にあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
944
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/07(日) 23:34:37 ID:Jqx6nX820
くまめも4
K エネルギーの本質は冥想。
冥想者があるかぎり、冥想はない。
彼が他の人たちの叙述した状態や何か経験の閃きを達成しようと試みるなら・・・
質問者 あなたは、学ぶことは常であり、絶え間なき流れ、線であり、そのため学びと行為が一つ、または常の動きであるようでなければならないと、言われているのか。
学びと行為と冥想の間に絶え間があるととたんに、その絶え間は不調和だし、その絶え間は葛藤。その絶え間には、観察者と観察されるもの・ことが(あるし)、ゆえにエネルギーのむだ全体がある。それが、あなたの言われていることか。
K はい、それが私たちの言っている意味。冥想は状態ではない。
行為が動きであるように、それは動き。
そして、私たちが学びから行為を分離するとき、観察者が、学びと行為の間に来る。
そのとき彼は、隠密の動機のために行為と学びを用いる。
これが、行為し、学び、冥想する一つの調和的動きとしてごく明確に理解されるとき、エネルギーのむだはないし、これが冥想の美しさ。
ただ一つの動きがある。
学びは、冥想や行為よりもはるかに重要。
学ぶには、完全な自由が、意識的にだけではなく、深く、内的に、あるのでなければならない。全的な自由。そして、自由には、調和的全体として学び、行為し、冥想するこの動きが、ある。
全体 whole という言葉は、(語源的に)健全 health というだけではなく、神聖 holy という意味。それで、学びは神聖だし、行為は神聖だし、冥想は神聖。
これは本当に聖なることだし、美しさはそれを越えてではなく、それ自体にある。
(´・(ェ)・`)
945
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/07(日) 23:46:54 ID:1d4drIFg0
通常の学問では習うことと実践は離れているのじゃ。
数学を習って金勘定をするとかのう。
しかし、悟りのための学びは実践そのものなのじゃ。
自分を学ぶことで理解と気付きが訪れるのじゃ。
道元も仏法とは自己を習うことだと言っているのじゃ。
自己を習うことで自分を忘れる忘我も訪れるというのじゃ。
946
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/08(月) 00:01:34 ID:Jqx6nX820
>>945
鬼和尚、いつもありがとうであります。
ありのままを見ていれることは、ありのままでいいと思えることになり、そこで、また、これで良いのかと、思えてしまうのであります。
そう思えるからこそ、きっと、見続けることができるのでありますね。
たぶん、これで良いのでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ
947
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/08(月) 22:47:46 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに己を観続けるのじゃ。
東西全ての賢者達の教えであるからそれを実践していれば間違うことは無いのじゃ。
ただひたすらに自己を観察し、蓄積無しに自己を習うと善いのじゃ。
948
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 00:21:22 ID:YNKg7Ogo0
変化の緊要
思考を終わらせること 1
質問者 あなたの言われる思考を終わらせることは、本当はどういう意味なのかと思われます。私はそれについてある友人に話したのですが、彼はそれはある種の東洋のたわごとであると言いました。彼にとって思考は、最高の形態の智恵と行為で、いのちのまさしく塩分で、不可欠です。それは文明を創り出してきたし、関係すべてはそれに基づいてあるのです。一番偉大な思想家から一番つつましい労働者まで、私たちのすべてがこれを受け入れます。私たちは考えないとき、眠ったり、植物みたいであったり、白昼夢を見ています。私たちは空虚で、鈍く、非生産的なのです。ところが、私たちは目覚めているとき、考え、行い、生き、口論しています。これらが、私たちの知るただ二つの状態です。あなたは言われます - 両方を越えなさい。思考と空虚な無活動を越えなさい、と。これはどういう意味なのでしょうか。
K ごく単純に言うと、思考は記憶の応答、過去なのです。過去は無際限なのか、一秒前なのです。思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去です。意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望です。思考が作用しているとき、それは過去ですし、ゆえに新しい生活は全くないのです。それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去なのです。それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがないのです。何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけません。心が散らかっていないときにのみ、今は生じうるのです。そして、この理由のために私たちは、思考は作動しなくてはならないときにだけ - 対象的に、効果的に - 作動して、止まらなければならないと言うのです。継続すべては思考です。継続があるとき、何も新しいもの・ことはありません。あなたは、これがどんなに重要なのか、分かるでしょうか。それは本当に、生それ自体の疑問です。あなたは過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらかです。それが論点全部です。
質問者 私はあなたの言われる意味は分かると思うのですが、しかし、いったい全体どのようにして、この思考を終わらせるのでしょうか。私が鳥(の声)を聞くとき、即時にそれはクロウタドリであると語ってくれる思考があるのです。私が通りを歩いていくとき、思考は私は通りを歩いていくと語ってくれ、私の認識し分かるすべてを語ってくれるのです。私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやって戯れるのは、今度も思考です。意味と理解と伝達のすべては思考です。私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしています。私は目覚めているとき考えるし、私は眠っているとき考えるのです。私の存在の全構造が思考です。その根は、私が知るよりはるかに深くあるのです。私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考です - 思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出すのです。思考は殺害するし、思考が許すのです。それで、どうしてそれを乗り越えられるのでしょうか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
949
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 00:28:27 ID:YNKg7Ogo0
くまめも1
思考は記憶の応答、過去。
思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去。
意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望。
思考が作用しているとき、それは過去だし、ゆえに新しい生活は全くない。
それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去。
それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがない。
何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけない。
心が散らかっていないときにのみ、今は生じうる。
そして、この理由のために思考は作動しなくてはならないときにだけ-対象的に、効果的に-作動して、止まらなければならない。
継続すべては思考。継続があるとき、何も新しいもの・ことはない。
過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらか。それが論点全部。
質問者 私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやるのは、思考。
意味と理解と伝達のすべては思考、
私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしている。
私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考。
思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出す。どうしてそれを乗り越えられるのか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないか。
(´・(ェ)・`)
950
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/09(火) 22:26:57 ID:1d4drIFg0
西洋では思考が最も霊妙な心の働きとされているのじゃ。
動物は思考できないから思考は人間だけの能力であり、人と動物を分けるものと考えているからなのじゃ。
しかし、思考は過去の記憶による観念を操作するだけのものであるから、新しいことは発見できないのじゃ。
新しい発見は科学であっても観察から起こるものじゃ。
自己についても観察に拠ってのみ学ぶことが出来るのじゃ。
951
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 23:11:49 ID:CMlQCb8I0
>>950
おー!!!
わかりやすいであります。
いつも、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
952
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 23:12:48 ID:CMlQCb8I0
変化の緊要
思考を終わらせること 2
K 私たちは両方とも、思考が止まっているとき、何か新しいもの・ことがありうる、と言いました。私たちは両方ともその点を明確に見ましたし、それを明確に理解することが思考が終わることなのです。
質問者 しかし、その理解もまた思考です。
K そうでしょうか。あなたは、それが思考であると想定しますが、しかし、現行にはそうなのでしょうか。
質問者 それは、意味をもつ精神的動きで、自分自身への伝達です。
K それが自分自身への伝達であるのなら、それは思考です。しかし、理解は、意味をもつ精神的な動きでしょうか。
質問者 はい、そうです。
K 言葉の意味とその意味の理解は、思考です。それは生のなかで必要です。そこでは思考は効果的に作用しなければなりません。それは技術的な事態です。しかし、あなたはそれを訊ねていないのです。あなたは、思考はあなたの知るとおり生のまさに動きであるのに、どうしてそれが終わりになりうるのかを、訊ねているのです。それは、あなたが死ぬときにだけ、終わりうるのでしょうか。それが本当はあなたの疑問であるでしょう。
質問者 はい。
K それが正しい疑問です。死になさい!過去に、伝統に対して死になさい。
質問者 しかし、どのように。
K 頭脳は思考の起源です。頭脳は質料ですし、思考は質料です。頭脳は - あらゆる挑戦と要求に対するその反応、即答のすべてとともに - その頭脳は静かに止まりうるのでしょうか。それは、思考を終わらせるという問題ではなく、頭脳が完全に静かでありうるのかという疑問です。それは必要なときに十全な能力で行為し、そうでなければ静かであることができるでしょうか。この静けさは物理的な死ではないのです。
頭脳が完全に静かであるとき、何が起きるかを見てください。
何が起きるかを見てください。
質問者 あの空間にはクロウタドリがいました。緑の樹、青い空、お隣でハンマーを打つ人、樹々のなかの風の音、私の心臓の鼓動、体の全的な静けさ。それですべてです。
K クロウタドリの歌っているという認識があったなら、そのとき頭脳は活動的であったし、解釈していたのです。それは静かではありませんでした。これは本当に、ものすごい鋭敏さと修練(を要求するのです。)、成果や楽しめる新しい経験を達成したいというあなたの無意識的な願望によって課されたり、もたらされたりするのではなく、それ自体の修学をもたらす注視を、要求するのです。ゆえに、昼の間に、思考は効果的に健全に作動し、そしてまたそれ自体を注視するのでなければなりません。
質問者 それは容易ですが、それを越えることについてどうでしょう。
K 誰がこの疑問を訊ねているのでしょうか。それは、何か新しいもの・ことを経験したいという願望でしょうか、それとも探究でしょうか。それが探究であるのなら、そのときあなたは思考の営み全体を探究、究明し、完全にそれに親しみ、その仕掛けと微妙さのすべてを知るのでなければなりません。あなたはこれをしたのなら、思考を乗り越えるという疑問は空っぽなものであることを、知るでしょう。思考を乗り越えるとは、思考は何なのかを知ることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
953
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 23:18:40 ID:CMlQCb8I0
くまめも2
K 思考が止まっているとき、何か新しいもの・ことがありうる、それを明確に理解することが思考が終わること。
質問者 その理解もまた思考。それは、意味をもつ精神的動きで、自分自身への伝達。
K それが自分自身への伝達であるのなら、それは思考だが、理解は、意味をもつ精神的な動きか。
質問者 はい、そうです。
K あなたは、思考は生のまさに動きであるのに、どうしてそれが終わりになりうるのかを、訊ねている。。。
それは、あなたが死ぬときにだけ、終わりうるのかがあなたの疑問。それが正しい疑問。死になさい!過去に、伝統に対して死になさい。
質問者 しかし、どのように。
K 頭脳は思考の起源。頭脳は静かに止まりうるのか。思考を終わらせるという問題ではなく、頭脳が完全に静かでありうるのかという疑問。頭脳が完全に静かであるとき、何が起きるかを見る。
静けさは、これはものすごい鋭敏さと修練、成果や楽しめる新しい経験を達成したいというあなたの無意識的な願望によって課されたり、もたらされたりするのではなく、それ自体の修学をもたらす注視を、要求する。
ゆえに、昼の間に、思考は効果的に健全に作動し、そしてまたそれ自体を注視するのでなければならない。
質問者 それは容易だがそれを越えることについてどうか。
K 誰がこの疑問を訊ねているのか。それは、何か新しいもの・ことを経験したいという願望か、それとも探究か。
それが探究であるのなら、そのときあなたは思考の営み全体を探究、究明し、完全にそれに親しみ、その仕掛けと微妙さのすべてを知るのでなければならない。
あなたはこれをしたのなら、思考を乗り越えるという疑問は空っぽなものであることを、知る。
思考を乗り越えるとは、思考は何なのかを知ること。
(´・(ェ)・`)
954
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/10(水) 21:42:48 ID:1d4drIFg0
>>951
どういたしまして、またおいでなさい。
955
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/10(水) 21:45:10 ID:1d4drIFg0
気付きや理解は思考ではないのじゃ。
思考に拠らず一瞬にして起こるものじゃ。
他人に対して説明したり、自分で記憶しようとする時に脳がそれを思考して言語にするのじゃ。
それまでは思考は入っていないのじゃ。
956
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/10(水) 22:35:12 ID:LGcECsDQ0
変化の緊要
新しい人間 1
質問者 私は改革者で、社会事業をする者です。世界にあるとてつもない不正を見て、私の一生は改革に捧げてきました。私はかつて共産主義者であったのですが、私はもはや共産主義とはやってゆけません。それは暴政に終わってしまいました。それでもなお私はやはり、人が尊厳と美しさと自由のなか生きて、自然が人に与えたと思われ、人自身はいつも仲間の人から盗んできたと思われる潜在能力を実現することができるように、社会の改革に献身しているのです。アメリカにはある種の自由がありながらも、そこでは標準規格化と宣伝広布が、とても強いのです - マスメディアすべてが、心に対してものすごい圧力を行使するのです。テレビ、(すなわち)人が発明したこの機械的なものの力は、それ自体の性格、それ自体の意志、それ自体の勢力を発達させてきたように、思われます。そして、たぶんだれも - おそらくどんな一つの集団さえも - 社会を感化するためにそれを意図的に用いていないけれども、その動向は私たちの子どものまさに魂を形作るのです。そして、民主主義国すべてにおいて、これは程度はさまざまでも同じです。中国では、人の尊厳や自由への希望は全くないように見えますし、インドでは、政府が弱く、腐敗し、非効果的なのです。世界の社会的不正すべては絶対に変化しなければならないように、私には思われます。私は情熱的にそれを何とかかしたいのですが、それでも、どれにどこから取り組みはじめるべきなのかを知らないのです。
K 改革はさらにいっそうの改革が要るし、これは終わりなき過程です。
そこで、それを違ったように見つめましょう。改革の思考全部をわきに置きましょう。私たちの血から拭い去りましょう。世界を改革したというこの考えを完全に忘れましょう。そのとき、世界中で何が起きているのかを、実際に見ましょう。政党はいつも、制限された計画を持っています - たとえ実現されても、間違いなく危害をもたらすし、そのときもう一度訂正されなくてはならない計画です。私たちはいつも、大変重要な行為として、政治的行為について話していますが、しかし、政治的行為は道ではないのです。それを私たちの心から出してしまいましょう。社会的、経済的改革すべては、この範疇に収まるのです。そのとき、信念、理想主義、観念論、教条主義、いわゆる神の救済法への順応に基づく、宗教的な行為の定式があるのです。これには、権威と受け入れ、服従と自由の全くの拒否とが、関与しているのです。諸宗教は地上の平和について話をするkれども、彼らは分離の要因であるから、無秩序へ貢献するのです。そしてまた教会は、危機の時にいつも何か政治的立場を取ってきました。それで、教会は本当は政治的団体ですし、私たちは政治的行為すべてが分割的であることを見てきました。教会は本当に戦争を拒絶したことがないのです。反対に、教会は戦争を行ってきたのです。それで、政治的定式をわきに置くように、宗教的救済法をわきに置くとき、何が残っているのでしょうか。何をなすべきなのでしょうか。当然に、市民的秩序は維持されなければなりません。水道の蛇口には水がなくてはなりません。市民的秩序を破壊するなら、初めからもう一度出発しなくてはなりません。それで、何をなすべきなのでしょうか。
質問者 それが、私が実際にあなたに訊ねていることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
957
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/10(水) 22:36:50 ID:LGcECsDQ0
くまめも30-1
質問者 私は改革者で、社会事業をする者。世界の社会的不正すべては絶対に変化しなければならないように思われる。情熱的にそれを何とかかしたいが、どれにどこから取り組みはじめるべきなのかを知らない。
K 改革はさらにいっそうの改革が要るし、これは終わりなき過程。
そこで、それを違ったように見つめる。
改革の思考全部をわきに置く。
政治的定式、宗教的救済法をわきに置くとき、何が残っているか。何をなすべきか。
当然に、市民的秩序は維持されなければならない。市民的秩序を破壊するなら、初めからもう一度出発しなくてはならない。それで、何をなすべきなのか。
(´・(ェ)・`)
958
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/11(木) 22:21:20 ID:1d4drIFg0
社会は常に変化しているが本質は変っていないのじゃ。
常に権力闘争の中にあるだけなのじゃ。
それは人を救うことは出来ないのじゃ。
個人が自らを学ぶことで永遠の安楽も得られるのじゃ。
それだけが唯一の人の救いなのじゃ。
959
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/12(金) 17:44:39 ID:d/ENCUjM0
変化の緊要
新しい人間 2
K 根本的変化、全的革命に関心を持ちなさい。ただ一つの革命は、人と人との間、人間存在の間の革命です。それが私たちのただ一つの関心です。この革命には、青写真がなく、イデオロギーがなく、概念的理想郷がないのです。私たちは人々の間の現行の関係という所作を取り、それを根本的に変化させるのでなければなりません。それが本当のことなのです。そして、この革命は即時、無媒介でなければなりません。時間が掛かってはありません。それは、進展 -- すなわち時間 - をとおして達成されないのです。
質問者 それはどういう意味なのでしょうか。歴史的変化すべては、時間のなかで起きてきました。それらのどれ一つとして即時、無媒介ではありませんでした。あなたは、何か全く不可思議なことを提起されています。
K もしあなたが、変化するのに時間を掛けるのなら、変化するのに掛かる時間の間、生は留保されているとお考えでしょうか。生は留保されません。あなたが変化させようとしているものごとすべてが、境遇により、生自体により、修正され、永続化されつつあるのです。それで、それに終わりはないのです。それは、汚れた水で常に満たされつつある貯水槽の水を浄化しようとするのに、似ています。それで、時間はだめなのです。
ここで、何がこの変化をもたらすことになるのでしょうか。それは意志や決意、選択や願望ではありえません。なぜなら、これらすべては、変化しなくてはならない事物の一部分であるからです。それで、私たちは、いつも葛藤、抗争の行為である意志と主張癖の行為でもって、現行として何か可能なのかを、訊ねなければなりません。
質問者 意志と主張癖の行為ではない行為が、あるのでしょうか。
K この疑問を訊ねるかわりに、はるかに深く入りましょう。そもそも変化しなければならないのは、現行として、ただ意志と主張癖の行為のみであることを、見ましょう。なぜなら、関係におけるただ一つの危害は、諸個人の間や諸個人のなかの葛藤ですし、葛藤が意志と主張癖であるからです。こういう行為なく生きるとは、私たちが植物のように生きるという意味ではありません。葛藤が私たちの主な関心です。あなたが触れた社会的病弊は、各人間存在の心のこの葛藤の投影です。ただ一つ可能な変化は、いつか漠然とした未来においてではなく今の、あなたの諸関係すべてにおけるあなた自身の根本的変革です。
質問者 しかし、私はどうすれば私自身のこの葛藤、この矛盾、この抵抗、この条件づけを、完全に根絶できるのでしょうか。私は、あなたの言われる意味は知的には理解できるのですが、私はそれを情熱的に感じるときにだけ変化できるのですが、私はそれを情熱的に感じません。それは私にとって単に観念です。私は心でそれが分かりません。私はこの知的理解によって行為しようとするのなら、私自身のもう一つのもっと深い部分と、葛藤におかれているのです。
K あなたが本当にこの矛盾を情熱的に分かるのなら、そのときまさにその知覚こそが革命です。あなたがあなた自身において、頭と心の間のこの分割が分かる - それを現行として分かり、理論的に構想するのではなく、それが分かるのなら、そのとき、問題は終わりになるのです。世界と変化の必要に情熱的である人は、政治的な活動、宗教的な順応と伝統から自由でなければなりません - それは、時間の重さから自由、過去の重荷から自由、意志の行為すべてから自由、という意味です。これが新しい人間です。ただこれのみが、社会的、心理的革命で、政治的革命でさえもあるのです
(´・(ェ)・`)つ
960
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/12(金) 18:17:32 ID:d/ENCUjM0
くまめも2
根本的変化、全的革命に関心を持て。ただ一つの革命は、人と人との間、人間存在の間の革命。
この革命には、青写真がなく、イデオロギーがなく、概念的理想郷がない。
私たちは人々の間の現行の関係という所作を取り、それを根本的に変化させるのでなければならない。
この革命は即時、無媒介でなければならない。それは、時間をとおして達成されない。
何がこの変化をもたらすことになるのか。
それは意志や決意、選択や願望ではありえない。なぜなら、これらすべては、変化しなくてはならない事物の一部分であるから。
そもそも変化しなければならないのは、現行として、ただ意志と主張癖の行為のみであることを見よう。なぜなら、関係におけるただ一つの危害は、諸個人の間や諸個人のなかの葛藤だし、葛藤が意志と主張癖であるから。
葛藤が私たちの主な関心。
社会的病弊は、各人間存在の心のこの葛藤の投影。
あなたが本当にこの葛藤、矛盾を情熱的に分かるのなら、そのときその知覚こそが革命。
あなたがあなた自身において、頭と心の間のこの分割が分かる、理論的に構想するのではなく、それが分かるのなら、そのとき、問題は終わりになる。
世界と変化の必要に情熱的である人は、政治的な活動、宗教的な順応と伝統から自由でなければならない。それは、時間の重さから自由、過去の重荷から自由、意志の行為すべてから自由、という意味。これが新しい人間。ただこれのみが、社会的、心理的革命で、政治的革命でさえもある。
(´・(ェ)・`)
961
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/13(土) 01:47:39 ID:1d4drIFg0
自分自身が変らなければ何も変らないのじゃ。
世界は自分の心で出来ているからなのじゃ。
自分が変れば世界は変るのじゃ。
それこそ真の革命なのじゃ。
個人の革命が世界の革命なのじゃ。
962
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/13(土) 18:35:59 ID:vgXnTAJE0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 1
互いに疎通しあうことは、たとえ私たちが互いにとてもよく知りあっているとしても、極めて難しいのです。私のとは違った意義をあなたにとって持つかもしれない言葉を、私は使うかもしれません。理解は、私たちが、あなたと私が、同時に同じ水準で出会うとき、訪れるのです。それ [理解]は、人々の間に、夫と妻の間に、親しい友だちの間に、ほんとうの愛情があるときだけ、起きるのです。それがほんとうの親しい交わりです。瞬時の理解は、私たちが同時に同じ水準で出会うとき、訪れるのです。
互いにたやすく、効果的に、決定的な作用をもって親しく交わりあうことは、とても難しいのです。私は、単純であり専門的でない言葉を使っています。なぜなら、私は、どんな専門的な種類の表現も、私たちが自分たちの難しい問題を解決するのを助けてくれそうに思わないからです。それで私は、心理学のでも科学のでも、どんな専門的な用語も使おうとしていません。私は幸いにも、心理学についてのどんな書物も、またどんな宗教書も読んだことがありません。私は、私たちが日常の生活で使うとても単純な言葉によって、より深い意義を伝えられたらと思うのです。しかしあなたはどのように聴くべきかを知らないなら、それはとても難しいのです。
聴くことの芸術があります。ほんとうに聴くことができるには、すべての先入観、前もっての定式化、日常の活動を、捨てるか、脇へ置くべきです。あなたが受け入れる精神状態にあるとき、ものごとはたやすく理解できるのです。あなたのほんとうの注意が何かに向けられているとき、あなたは聴いています。しかし不幸にも、私たちのほとんどは、抵抗の幕 [スクリ-ン] をとおして聴きます。私たちは、宗教的でも霊的・精神的でも、心理的でも科学的でも先入観の幕で-または私たちの日常の諸々の悩み、欲望、恐れの幕で覆い遮られています。そしてこれらを幕として、私たちは聴くのです。ゆえに私たちは、ほんとうは言われていることではなく、自分自身の騒音、自分自身の音を聴くのです。私たちの訓練、諸々の先入観、傾向、抵抗を脇へ置くこと、言葉上の表現を乗り越えて、私たちが瞬時に理解するように聴くことは、極めて難しいのです。それが私たちの困難の一つになろうとしています。
この会話の間、何かあなたの考え方と信念に反することが言われるとしても、ただ聴いてください。抵抗しないでください。あなたが正しいかもしれません。私が間違っているかもしれません。しかし一緒に聴くことと考えることによって、私たちは何が真理であるのかを、見出そうとしているのです。真理は、誰かによってあなたに与えられえません。あなたがそれを発見しなければなりません。そして発見するには、直接の知覚のある精神の状態がなくてはなりません。抵抗、安全装置、保護があるとき、直接の知覚はありません。理解は、有るものに気づくことをとおして訪れます。有るもの、真実、現実を、解釈せず、非難も正当化もせずに正しく知ることが、確かに英知の始まりです。私たちが真理を見失うのは、私たちが自分たちの条件づけに応じ、自分たちの先入観に応じて解釈し、翻訳しはじめるときだけです。結局、それは研究・調査に似ています。何か或るものが何であるか、それがまさに何であるかを知るには、調査が必要です-あなたはそれを自分の気分に応じて翻訳できません。同様に、私たちが有るものを正しく見、観察し、聴き、気づけるなら、そのとき問題は解決されます。そしてそれが、私たちがこれらすべての会話で、やろうとしていることです。私は有るものをあなたに指摘しようとしています-私の夢想に応じてそれを翻訳しようとするのではありません。あなたもまた自分の背景や訓練に応じて、それを翻訳したり解釈したりすべきではありません。
(´・(ェ)・`)つ
963
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/13(土) 18:46:35 ID:vgXnTAJE0
くまめも1-1-1
互いに疎通しあうことは、極めて難しい。
瞬時の理解は、私たちが同時に同じ水準で出会うとき、訪れる。
ほんとうに聴くことができるためには、すべての先入観、前もっての定式化、日常の活動を、捨てるか、脇へ置くべき。
あなたが受け入れる精神状態にあるとき、ものごとはたやすく理解できる。
しかし私たちは、抵抗の幕 [スクリ-ン] をとおして聴く。私たちは、先入観の幕で-または私たちの日常の諸々の悩み、欲望、恐れの幕で覆い遮られている。そしてこれらを幕として、私たちは聴く。ゆえに私たちは、言われていることではなく、自分自身の騒音、自分自身の音を聴く。
私たちは何が真理であるのかを、見出そうとしている。真理は、誰かによってあなたに与えられえない。あなたがそれを発見するには、直接の知覚のある精神の状態が必要。
抵抗、安全装置、保護があるとき、直接の知覚はない。
理解は、有るものに気づくことをとおして訪れる。有るもの、真実、現実を、解釈せず、非難も正当化もせずに正しく知ることが、確かに英知の始まり。私たちが真理を見失うのは、私たちが自分たちの条件づけに応じ、自分たちの先入観に応じて解釈し、翻訳しはじめるときだけ。
私たちが有るものを正しく見、観察し、聴き、気づけるなら、そのとき問題は解決される。私は有るものをあなたに指摘しようとしている。私の夢想に応じてそれを翻訳しようとするのではない。あなたもまた自分の背景や訓練に応じて、それを翻訳したり解釈したりすべきではない。
(´・(ェ)・`)
964
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/13(土) 22:11:45 ID:1d4drIFg0
同じ言語を使うもの同士でも個人の経験で同じ言葉に別の意味を持ってしまっていたりするものじゃ。
そうであるから意志の疎通は難しいのじゃ。
意味の違いで誤解したまま疎通したと思ってたりもするのじゃ。
誰もが自分の創った世界から抜け出せずに声を発しているだけなのじゃ。
965
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/14(日) 01:15:25 ID:tVL255ok0
Kは、数学、科学、技術的な世界の話は別と、解してるようであります。
Kは、物事の見方、考え方に付き、言葉を尽くして、語ろうとしているようであります。
見方、考え方、しかも、記憶を排した、捉え方でありますから、超難しいであります。
記憶によらずにとは、言っても、技術的な知識、記憶は別でありますから、要は、ありのままを捉える方法を説いてるのでありましょうか?
無分別の教えとは、ちょびっと違うようで、ありながら、実は、無分別の捉え方の具体的な実践法の様な気もするであります。
アートマンが、無我に至るための、具体的な実践法であるのと同じような、気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ
966
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/14(日) 18:45:39 ID:6WGU8YJM0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 2
それでは、あらゆるものごとにあるがままに気づくことは、可能ではないのでしょうか。そこから始めると、確かに、理解がありえます。有るものを認めること、気づくこと、発見することが、格闘を終わりにします。私は、自分が嘘つきであることを知り、それが自分の認識する事実であるなら、そのとき、格闘は済んでいます。自らが何であるかを認めること、気づくことが、すでに英知の始まり、理解の始まりです-それが、あなたを時間から解放するのです。時間-年代的な意味ではなく、媒介として、心理的な過程、精神の過程としての時間-の性質をもたらすことは、破壊的ですし、混乱を造り出します。
それで、私たちは有るものを、非難せず、正当化せず、同一化せずに認識するとき、それについての理解を持てるのです。人が一定の条件に、一定の状態にあることを知ることが、すでに解放の過程です。しかし、自分の条件、自分の格闘に気づいていない人は、何か自分以外のものになろうとします-それが習慣を生じさせます。ですから、そのとき、私たちは有るものを検討したい、何が現実であるのかを、どんな偏向も加えず、どんな解釈もつけずに、正しく観察し、気づきたいということを、心に留めておきましょう。有るものに気づくこと、付いていくことは、とてつもなく機敏な精神、とてつもなく柔軟な心を必要とします。なぜなら、有るものは常に動いていて、常に変化を受けているからです。そして精神は、信念に、知識に繋がれているなら、それを追求するのを止めます。有るもののすばやい動きに付いていくのを止めます。有るものは、確かに静止していません-それは、あなたがとてもきっちりと観察するならわかるように、常に動いています。それに付いていくには、あなたはとてもすばやい精神と柔軟な心を必要とします-それは、精神が静止して、信念に、先入観に、同一化に固定されているとき、否定されます。そして干からびた精神と心は、有るものにたやすく、すばやく付いていけません。
人は、あまり多くの議論、あまり多くの言葉で表現しなくても、集団的とともに個人的な混沌、混乱、悲惨があるということに気づいていると、私は思います。それはインドにおいてだけでなく、まさに世界中至るところにあるのです。-中国、アメリカ、イギリス、ドイツ、世界中に、混乱、次第に高まっていく悲しみがあります。それは国家的・民族的なだけではありません。それは特にここというわけではありません。それは世界中なのです。とてつもなく激しい苦しみがありますし、それは個人的なだけではなく集団的です。ですから、それは世界の大惨事です。それをたんに地理的な地域に、地図の色づけされた区域にだけ制限することは、不合理です。なぜなら、そのとき私たちは、個人的とともに世界的規模のこの苦しみの充分な意義を、理解しないであろうからです。この混乱に気づくと、今日、私たちの応答は何でしょうか。私たちはどのように反応するのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
967
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/14(日) 19:00:34 ID:6WGU8YJM0
くまめも1-1-2
あらゆるものごとにあるがままに気づくことは、可能か。有るものを認めること、気づくこと、発見することが、格闘を終わりにする。
自らが何であるかを認めること、気づくことが、すでに英知の始まり、理解の始まり。それが、あなたを時間から解放する。時間-年代的な意味ではなく、媒介として、心理的な過程、精神の過程としての時間-の性質をもたらすことは、破壊的だし、混乱を造り出す。
それで、私たちは有るものを、非難せず、正当化せず、同一化せずに認識するとき、それについての理解を持てる。人が一定の条件に、一定の状態にあることを知ることが、すでに解放の過程。しかし、自分の条件、自分の格闘に気づいていない人は、何か自分以外のものになろうとする。それが習慣を生じさせる。だから、そのとき、私たちは有るものを検討したい、何が現実であるのかを、どんな偏向も加えず、どんな解釈もつけずに、正しく観察し、気づきたいということを、心に留めておく。有るものに気づくこと、付いていくことは、機敏な精神、柔軟な心を必要とする。なぜなら、有るものは常に動いていて、常に変化を受けているから。そして精神は、信念に、知識に繋がれているなら、それを追求するのを止める。有るもののすばやい動きに付いていくのを止める。それは、精神が静止して、信念に、先入観に、同一化に固定されているとき、否定される。そして干からびた精神と心は、有るものにたやすく、すばやく付いていけない。
人は、集団的とともに個人的な混沌、混乱、悲惨があるということに気づいている。それは世界中至るところにある。この混乱に気づくと、今日、私たちの応答は何か。私たちはどのように反応するのか。
(´・(ェ)・`)
968
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/14(日) 22:50:52 ID:1d4drIFg0
>>965
そうじゃ、真理を発見するには直接の知覚のある精神状態でなければならなんというのじゃ。
それこそ記憶や言葉から離れたありのままを捉える観察なのじゃ。
瞑想をしていない者には難しいことではあるがのう。
969
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/14(日) 22:57:32 ID:1d4drIFg0
正しく観察し、気付くためにはとてつもなく機敏な精神、とてつもなく柔軟な心が必要だとクリシュナムルティも説いているのじゃ。
それは瞑想に拠って培われるものじゃ。
しかし、習慣的な瞑想では逆に心は鈍重になり、硬直してしまうというのじゃ。
それが難しいのじゃ。
瞑想にすら囚われずに観察しなければならないのじゃ。
970
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/15(月) 20:00:55 ID:YNKg7Ogo0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 3
政治的、社会的、宗教的な苦しみがあります。私たちの心理的存在全体が混乱しています。そして政治的、宗教的な指導者たちすべては、私たちを失望させてきました。書物すべてはそれらの意義を失ってしまいました。あなたは、バガバッド・ギ-タ-や聖書や、政治や心理学についての最近の論文に向かうかもしれません。そしてあなたは、それらが真理のあの響きを、あの性質を失ってしまっていることを、見つけるでしょう。それらはたんなる言葉にすぎなくなってしまいました。あなた自身は、それらの言葉の反復者ですが、混乱し、不確実ですし、言葉のたんなる反復は、何も伝えません。ゆえに、言葉と書物はそれらの価値を失ってしまいました。すなわち、あなたが聖書とかマルクスとかバガバッド・ギ-タ-を引用するなら、それを引用するあなたは、自分自身が不確実で混乱しているので、あなたの反復は嘘になるのです。なぜなら、そこに書かれていることは、たんなる宣伝にすぎなくなるし、宣伝は真理ではないからです。それで、あなたは反復するとき、自分自身の存在の状態を理解するのを止めたのです。あなたはたんに自分自身の混乱を、権威の言葉でもって覆い隠しているだけです。しかし私たちがやろうとしていることは、この混乱を引用でもって覆い隠してしまうのではなく、それを理解することです。それで、それに対するあなたの応答は何でしょうか。あなたは、このとてつもない混沌、この混乱、この存在の不確実性に対して、どのように応答するのでしょうか。私がそれを議論するにつれて、それに気づいてください。私の言葉にではなく、あなたにおいて活動している思考に、付いていってください。私たちのほとんどは、ゲ-ムに参加することにではなく、観客であることに慣れています。私たちは書物を読みますが、決して書物を書きません。観客であること、フットボ-ルゲ-ムを見物すること、著名な政治家と演説家を見つめることは、私たちの伝統、私たちの国民的、普遍的な習慣になってしまいました。私たちは、たんに見物している部外者にすぎません。そして創造的能力を失ってしまいました。ゆえに私たちは吸収し、参加したいのです。
しかし、あなたはたんに観察しているだけなら、たんに観客にすぎないなら、この会話の意義を全く失うでしょう。なぜなら、これは、あなたが習慣の力から聴くべきである講義ではないからです。私はあなたに、百科事典で拾い上げられる情報を与えようとしていません。私たちがやろうとしていることは、互いの思考に付いていくこと、できるかぎり遠く、できるかぎり深く、私たち自身の感情の暗示、応答を追求すること、です。それでどうか、この原因に対する、この苦しみに対するあなたの応答が何であるかを、見出してください-他の誰かの言葉が何であるのかではなく、あなた自身がどのように応答するのかを。あなたは苦しみにより、混沌により利益を得るなら、経済的、社会的、政治的、心理的、いずれかの利益を、それから引き出すなら、あなたの応答は無関心のものです。ゆえにあなたは、この混沌が継続するとしても、気にしません。確かに、世界に困難があればあるほど、混沌があるほど、人は安全を求めます。あなたはそれに気づいたことはないでしょうか。心理的に、そしてあらゆる点で、世界に混乱があるとき、あなたは、何らかの種類の安全-銀行預金のかイデオロギ-のか、いずれかの安全に、自分自身を囲い込みます。そうでないと、あなたは祈りに向かいます。寺院に行きます-それはほんとうは、世界で起きていることから逃避することです。世界中で、ますます多くの党派が作られています。ますます多くの「主義」が発生しています。なぜなら、混乱があればあるほど、あなたは、指導者を、誰かこの混乱からあなたを導き出してくれる者を、欲しいと思うからです。それであなたは宗教書に、または最近の教師たちの一人に向かうのです。そうでないと、あなたは、問題を解決するように見える体系、左翼や右翼いずれかの体系に応じて行為し、応答します。それが、まさに起きていることです。
(´・(ェ)・`)つ
971
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/15(月) 20:02:06 ID:YNKg7Ogo0
くまめも1-1-3
政治的、社会的、宗教的な苦しみがある。
私たちの心理的存在全体が混乱している。
私たちがやろうとしていることは、この混乱を理解すること。
あなたは、この混沌、この混乱、この存在の不確実性に対して、どのように応答するのか。
あなたの応答が何であるかを、見出してください-他の誰かの言葉が何であるのかではなく、あなた自身がどのように応答するのかを。あなたは苦しみにより、混沌により経済的、社会的、政治的、心理的、いずれかの利益を、それから引き出すなら、あなたの応答は無関心のもの。ゆえにあなたは、この混沌が継続するとしても、気にしない。
確かに、世界に困難、混沌があるほど、人は安全を求める。あなたは、何らかの種類の安全-銀行預金、イデオロギ-、いずれかの安全に、自分自身を囲い込む。そうでないと、あなたは祈りに向かう。それはほんとうは、世界で起きていることから逃避すること。
(´・(ェ)・`)
972
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/15(月) 22:42:11 ID:1d4drIFg0
伝統の教えも言葉になり、長く伝わると意味も失われ、ただの同じ言葉の繰り返しになったりするものじゃ。
聖典の言葉を記憶して何年も唱えればよいとか思ってしまうのじゃ。
更には死人に向かって唱えたりするのは言語道断なのじゃ。
全ての聖典は生きている者のためにあるのであるからのう。
聖典は生きている者に自らの心を追求することを実践せよと教えているのじゃ。
973
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/16(火) 19:48:43 ID:2WdNfqJs0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 4
あなたは、混乱に、まさに有るものに気づいた瞬間、それから逃避しようとします。経済的、社会的、宗教的な苦しみの解決のための体系をあなたに提供するそれらの党派は、最悪です。なぜなら、そのとき、人ではなく体系が重要になるからです-それが宗教的体系でも、左翼や右翼の体系でも。人ではなく体系が重要になります。哲学、観念が重要になります。そして観念、イデオロギ-のために、あなたは進んで全人類を犠牲にしようとします-それがまさに世界で起きていることです。これはたんに私の解釈だけではありません。あなたは観察するなら、それがまさに起きていることであることを見つけるでしょう。体系が重要になってしまったのです。ゆえに、体系が重要になったので、人は、あなたと私は、意義を失うのです。そして宗教的でも社会的でも、左翼のでも右翼のでも-体系の制御者が権威を身につけ、力を身につけて、ゆえにあなたを、個人を犠牲にするのです。それがまさに起きていることです。
では、この混乱、この悲惨の原因は何でしょうか。内側にだけでな外側にも、この悲惨、この苦しみ、戦争の-勃発しようとしている第三次世界大戦の-この恐れと予感は、どうして生じたのでしょうか。その原因は何でしょうか。確かにそれは、すべての道徳的、霊的・精神的価値の崩壊と、すべての感覚的価値、手や精神により作られたものごとの価値の讃美を表示しています。私たちが感覚のものごとの価値、精神や手や機械の産物の価値以外の他の価値を持たないとき、何が起きるでしょうか。私たちがものごとの感覚的価値に意義を与えれば与えるほど、混乱が大きくなるのではないでしょうか。またもや、これは私の理論ではありません。あなたは、あなたの価値、あなたの富、あなたの経済的、社会的存在が、手により、または精神により作られたものごとに基づいているということを見出すのに、書物を引用しなくてもいいのです。それで私たちは、感覚的価値において生き、作用し、自分たちの存在をどっぷり浸しているのです-それは、ものごとが、精神のものごと、手と機械のものごとが重要になった、という意味です。そしてものごとが重要になるとき、信念が優越的に意義深くなるのです-それがまさに世界で起きていること、ではないでしょうか。
こうして、感覚の価値にますます多くの意義を与えることが、混乱をもたらすのです。そして混乱 [の状態] にあると、私たちは、宗教的、経済的でも社会的でも様々な形をとおし、また野心をとおし、力をとおし、真実への探求をとおして、それから逃避しようとします。しかし真実は近いのです。あなたはそれを求めなくてもいいのです。そして真理を求める人は、決してそれを見つけないでしょう。真理は有るものにあります-そしてそれが、その美しさです。しかしあなたは、それを考え出した瞬間、それを求めた瞬間、格闘しはじめます。そして格闘する人は、理解できません。そういうわけで、私たちは静止して、観察して、受動的に気づいていなければならないのです。私たちは、自分たちの生活、自分たちの行動が、いつも破壊の領域の中に、悲しみの領域の中にあるということが、わかります。波のように、混乱と混沌がいつも私たちに襲いかかります。生存の混乱には、間隔がないのです。
現在、私たちが何をしても、混沌につながるように見えます。悲しみと不幸せにつながるように見えます。あなた自身の生を見つめてください。するとあなたは、自分たちの生活がいつも悲しみのきわにあるということが、わかるでしょう。私たちの仕事、私たちの社会的活動、私たちの政治、戦争を阻止するための国々の様々な集まり、すべてがさらなる戦争を生み出します。破壊が、生活のすぐあとに付いてきます。私たちが何をしても、死につながります。それが、現実に起きていることです。
(´・(ェ)・`)つ
974
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/16(火) 20:05:56 ID:2WdNfqJs0
くまめも1-1-4
あなたが、混乱から逃避しようとするとき、苦しみの解決のための体系をあなたに提供する党派は、最悪。なぜなら、そのとき、人ではなく体系が重要になるから。
体系の制御者が権威、力を身につけて、ゆえにあなたを、個人を犠牲にする。
この混乱、悲惨の原因は何か。それは、すべての道徳的、霊的・精神的価値の崩壊と、すべての感覚的価値、手や精神により作られたものごとの価値の讃美を表示している。私たちがものごとの感覚的価値に意義を与えるほど、混乱が大きくなる。
私たちは、感覚的価値において生き、作用し、自分たちの存在をどっぷり浸している。-それは、精神のものごと、手と機械のものごとが重要になった、という意味。
そしてものごとが重要になるとき、信念が優越的に意義深くなる。
混乱 の状態にあると、私たちは、宗教的、経済的でも社会的でも様々な形をとおし、また野心をとおし、力をとおし、真実への探求をとおして、それから逃避しようとする。
しかし真実は近い。真理を求める人は、決してそれを見つけない。真理は有るものにある。それが、その美しさ。しかしあなたは、それを考え出した瞬間、それを求めた瞬間、格闘しはじめる。そして格闘する人は、理解できない。私たちは静止して、観察して、受動的に気づいていなければならない。自分たちの生活、行動が、いつも破壊、悲しみの領域の中にあるということが、わかる。
現在、私たちが何をしても、混沌に、悲しみと不幸せにつながるように見える。私たちが何をしても、死につながる。それが世界中で起きていること。
(´・(ェ)・`)
975
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/16(火) 20:06:53 ID:2WdNfqJs0
うむ。
真理は、こねくりまわされた観念な中には無い。
ありのままの中から、直接受け取るしかない。と、言うようなことでありますかね。
(´・(ェ)・`)b
976
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/16(火) 22:31:35 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
混乱から逃避するために観念の体系が作られ、それがますます混乱を招くのじゃ。
その積み重ねが観念からの離脱を困難にしているのじゃ。
心を静止して、観察して受動的に気付いているとそれに気づくというのじゃ。
そして観念からの厭離も起こるのじゃ。
977
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 00:33:40 ID:2l4.MmVk0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 5
私たちは、混乱と悲しみの波にいつも捕らわれつづけるのではなく、この悲惨をすぐに止められるでしょうか。すなわち、ブッダでもキリストでも、偉大な教師たちがやって来ました。彼らは信仰を受け入れて、彼ら自身を、おそらくは混乱と悲しみから自由にしてきました。しかし彼らは決して悲しみを防ぎませんでした。彼らは決して混乱を止めませんでした。混乱は続きます。悲しみは続きます。あなたは、この社会的、経済的混乱、この混沌、この悲惨を見て、宗教生活と呼ばれるものに引きこもって、世間を捨てるなら、これら偉大な教師たちに加わっていると、感じるかもしれません。しかし世間は、その混沌、その悲惨と破壊、その富める者と貧しい者の永遠の苦しみを続けるのです。それで私たちの問題、あなたのと私の [問題] は、私たちがこの悲惨から瞬時に踏み出せるかどうか、です。世間で生きながら、あなたはその一部であることを拒絶するなら、他の人たちをこの混沌から助け出すでしょう-未来にではなく、明日ではなく、今です。確かにそれが私たちの問題です。戦争が、たぶんもっと破壊的で、もっとおぞましい姿で近づいています。確かに、私たちはそれを防げません。なぜなら、問題点があまりに強すぎ、近迫しすぎているからです。しかし、あなたと私は、即時に混乱と悲惨を知覚できるのではないでしょうか。私たちはそれらを知覚しなければなりません。そのとき他の一人に、真理についての同じ理解を目覚めさせる位置にいるでしょう。言い換えれば、あなたは瞬時に自由になれるでしょうか-なぜなら、それが、この悲惨から抜け出す唯一の道であるからです。知覚は、現在においてだけ、起こりうるのです。しかし、あなたは「私は明日それをやろう」と言うなら、混乱の波があなたに襲いかかるし、そのときいつも混乱に巻き込まれるのです。
(´・(ェ)・`)つ
978
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 00:36:17 ID:2l4.MmVk0
くまめも1-1-5
私たちは、混乱と悲しみの波にいつも捕らわれつづけるのではなく、この悲惨をすぐに止められるか。
ブッダやキリストは信仰を受け入れて、彼ら自身を、おそらくは混乱と悲しみから自由にした。
しかし彼らは決して悲しみを防がず、混乱を止めなかった。
私たちの問題は、私たちがこの悲惨から瞬時に踏み出せるかどうか。
世間で生きながら、あなたはその一部であることを拒絶するなら、他の人たちをこの混沌から助け出す。未来にではなく、今。
あなたと私は、即時に混乱と悲惨を知覚できる。そのとき他の一人に、真理についての同じ理解を目覚めさせる位置にいる。言い換えれば、あなたは瞬時に自由になれるか-なぜなら、それが、この悲惨から抜け出す唯一の道であるから。
知覚は、現在においてだけ、起こりうる。しかし、あなたは「私は明日それをやろう」と言うなら、混乱の波があなたに襲いかかるし、そのときいつも混乱に巻き込まれる。
(´・(ェ)・`)
979
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 00:38:45 ID:2l4.MmVk0
Kは、釈迦の信仰とは、梵我一如のことと、理解していたのでありますかね。
その上で、その実践法を説こうとチャレンジしてるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)
980
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/17(水) 22:55:23 ID:1d4drIFg0
↑知っていたじゃろう。
真の実践法を教えたいと思っていたのじゃ。
理解することも困難であるがのう。
瞬時に自由になれるというのじゃ。
自己に気付くことが出来ればそれは瞬時に起こるのじゃ。
明日に引き伸ばすことはできないのじゃ。
今ここでのみ知覚は働くのであるからのう。
981
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 23:31:18 ID:4uL.bxCk0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 6
そこで、あなた自身が真理を瞬時に知覚し、ゆえに混乱を終わりにするときのその状態に至ることは、可能でしょうか。それは可能ですし、それが唯一の可能な道であると、私は言います。それは仮定や信念に基づいてではなく、できるし、やらなければならないと、私は言います。このとてつもない革命をもたらすこと-それは、資本家を取り除いて、もう一つの集団を据えるという革命ではありません-このすばらしい変容、すなわち唯一の真の革命をもたらすことが、問題なのです。一般に革命と呼ばれるものは、たんに左翼の観念に応じた右翼の修正か継続です。左翼は結局、修正された形での右翼の継続です。右翼が感覚的価値に基づいているなら、左翼は、程度や表現においてだけ異なった同じ感覚的価値の継続でしかありません。ゆえに真の革命は、あなたが、個人が、他の一人との関係において気づくときだけ、起こりうるのです。確かに、他の一人と [の関係] 、あなたの妻と、子どもと、上司と、隣人との関係において、あなたが何であるかが、社会です。社会は、それ自体では存在しません。社会は、あなたと私が、私たちの関係において造り出したものです。それは、私たち自身の内側の心理的状態すべての外側の投影です。それで、あなたと私が自分たち自身を理解せずに、たんに外部、すなわち内部の投影であるものを変化させるだけなら、何の意義も持たないのです。すなわち私があなたとの関係において私自身を理解しないかぎり、社会における意義ある変更や修正はありえないのです。自分の関係において混乱していると、私は、あるがままの自分の複製、外側の表現である社会を造り出します。これは明白な事実です。それを私たちは議論できます。社会、外側の表現が私を生み出したのか、それとも私が社会を生みだしたのかどうかを、私たちは議論できます。
ゆえに、他の一人との関係におけるあるがままの私が社会を造り出すということ、そして私自身を根本的に変容させることなしに、社会の本質的作用の変化はありえないということは、明白な事実ではないでしょうか。私たちは、社会の変容のために体制・体系に頼るとき、たんに問題を回避しているだけです。なぜなら、体制・体系は、人を変容させられないからです。人がいつも体制・体系を変容させるのです。それは歴史が示しています。私があなたとの関係において、私自身を理解するまでは、私が混沌、悲惨、破壊、恐れ、残忍性の原因です。私自身を理解することは、時間の事柄ではありません。私は私自身を、まさにこの瞬間に理解できるのです。私は、「私は私自身を明日、理解するだろう」と言うなら、混沌と悲惨をもたらしています。私の行動は破壊的です。私は理解する「だろう」と言った瞬間、時間の要素をもたらし、そのためすでに混乱と破壊の波に捕らわれているのです。理解は、明日ではなく、今です。明日は、怠けた精神、ものぐさな精神、興味のない精神のためにあるのです。あなたは何かに興味があるとき、それを瞬時にやります。即時の理解、即時の変容があります。あなたは今変わらないなら、決して変わらないでしょう。なぜなら、明日起きる変化は、たんに修正にすぎないからです。それは変容ではありません。変容は即時に起こりうるだけです。革命は明日ではなく、今です。
それが起きるとき、あなたは完全に問題なしです。というのは、そのとき自己はそれ自身について悩んでいないからです。そのとき、あなたは破壊の波を越えています。
(´・(ェ)・`)つ
982
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 23:41:01 ID:4uL.bxCk0
くまめも1-1-6
あなた自身が真理を瞬時に知覚し、ゆえに混乱を終わりにすることは、可能だし、それが唯一の可能な道。
真の革命は、個人が、他の一人との関係において気づくときだけ、起こりうる。
社会は、それ自体では存在しない。社会は、あなたと私が、私たちの関係において造り出したもの。それは、私たち自身の内側の心理的状態すべての外側の投影。それで、あなたと私が自分たち自身を理解せずに、たんに外部、すなわち内部の投影であるものを変化させるだけなら、何の意義も持たない。すなわち私があなたとの関係において私自身を理解しないかぎり、社会における意義ある変更や修正はありえない。自分の関係において混乱していると、私は、あるがままの自分の複製、外側の表現である社会を造りだす。
私たちは、社会の変容のために体制・体系に頼るとき、たんに問題を回避しているだけ。なぜなら、体制・体系は、人を変容させられないから。私があなたとの関係において、私自身を理解するまでは、私が混沌、悲惨、破壊、恐れ、残忍性の原因。
私自身を理解することは、時間の事柄ではない。私は私自身を、まさにこの瞬間に理解できる。私は、「私は私自身を明日、理解するだろう」と言うなら、混沌と悲惨、混乱と破壊をもたらしている。理解は、明日ではなく、今。あなたは何かに興味があるとき、それを瞬時にやる。即時の理解、即時の変容がある。あなたは今変わらないなら、決して変わらない。なぜなら、明日起きる変化は、たんに修正にすぎないから。それは変容ではない。変容は即時に起こりうるだけ。
それが起きるとき、あなたは完全に問題なし。というのは、そのとき自己はそれ自身について悩んでいないから。そのとき、あなたは破壊の波を越えている。
(´・(ェ)・`)
983
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 23:45:36 ID:4uL.bxCk0
うむ。社会は、実際には無い。
即時に他との関係に於いて自分を理解すれば、一切の苦は、消え去る。
明日から、どのように理解すれば良いかの、お話しが、始まるのでありましょう。楽しみであります。
(´・(ェ)・`)b
(´・(ェ)・`)
984
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/18(木) 22:16:19 ID:1d4drIFg0
左翼や右翼の革命とやらも所詮は同じ権力争いのためのイデオロギーなのじゃ。
それは何も変えることは出来ないのじゃ。
人を真に変えることができるのは、今ここでしかないのじゃ。
今ここで自分自身を理解することで全ての問題も消えるのじゃ。
985
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/18(木) 23:28:45 ID:KCqMKKeM0
最初と最後の自由 第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 1
私たちのほとんどが求めているのは何でしょうか。私たち各自が欲しいのは何でしょうか。特に、この落ち着きのない世界では、あらゆる人が、何らかの種類の平和、何らかの種類の幸せ、避難所を見つけようとしていますが、確かに、見出すことが重要ではないでしょうか-私たちが求めようとしているのは何なのか、私たちが発見しようとしているのは何なのかを。たぶん、私たちのほとんどは、何らかの種類の幸せ、何らかの種類の平和を求めているのです。騒乱、戦争、競争、闘争で苦しめられている世界で、私たちは何らかの平和がありうる避難所が欲しいのです。それが、私たちのほとんどが欲しいものであると、私は思います。それで私たちは追求し、一人の指導者からもう一人へ、一つの宗教組織からもう一つへ、一人の教師からもう一人へと向かうのです。
そこで、私たちが求めているのは幸せでしょうか、それとも私たちが求めているのは、そこから私たちが幸せを引き出したいと願うところの何らかの種類の満足なのでしょうか。幸せと満足との間には違いがあります。あなたは幸せを求められるでしょうか。おそらく、満足は見つけられますが、確かに幸せは見つけられません。幸せは派生的です。それは、何か他のものの副産物です。それで、私たちは、何か多大のまじめさ、注意、思考、気づかいを要求するものに、私たちの精神と心を注ぐ前に、見出さなければならないのではないでしょうか-私たちが求めているのは何なのか、それは幸せなのか、満足なのかどうかを。残念ながら、私たちのほとんどは満足を求めていると、私は思います。私たちは満足したいのです。私たちは探求の終わりに充足感を見つけたいのです。
結局、平和を求めているなら、それはとてもたやすく見つけられます。何らかの種類の大義に、 [一つの] 観念に、盲目的に身を捧げ、そこに避難できます。確かにそれは問題を解決しません。閉鎖的な観念でのたんなる孤立は、葛藤・抗争からの解放ではありません。それで、私たちは見出さなければならないのではないでしょうか-外側とともに内側にも、私たち各自が欲しいのは何なのかを。私たちはその事について明確であるなら、そのときどこへも、どんな教師にも、どんな教会にも、どんな組織にも行かなくていいのです。ゆえに私たちの困難は、自分たちの意図に関して自分たち自身において明確であること、ではないでしょうか。私たちは明確になれるでしょうか。そしてその明確さは、探求をとおし、他の人たち-最高の教師から街角を曲がった教会のふつうの説教師に至るまで-の言うことを見出そうとすることをとおして訪れるでしょうか。あなたは見出すために、誰かのところへ行かなければならないでしょうか。けれどもそれが、私たちのしていることではないでしょうか。私たちは無数の書物を読みます。私たちは多くの会合に出席して議論します。私たちは様々な組織に加わります-それにより、私たちの生の葛藤・抗争の、悲惨さの治療を見つけようとしています。または、私たちはそのすべてをしないとしても、見つけたと思うのです-すなわち私たちは、特定の組織、特定の教師、特定の書物が、私たちを満足させてくれると言うのです。私たちはそのなかに、あらゆる欲しいものを見つけたのです。そしてそこにとどまって、凝結し、閉じこめられるのです。
私たちは、このすべての混乱をとおして、何か永久的なもの、何か永続するもの、何か真実、神、真理と呼ばれるものを、求めていないでしょうか-何でも好きなものです。名前は大事ではありません。言葉は実体ではありません。確かです。それで、言葉に捕らわれないようにしましょう。それは専門の講師に任せておきましょう。私たちのほとんどには、何か永久的なものへの探求があるのではないでしょうか-何か私たちがすがりつけるもの、何か私たちに保証、希望、永続する熱狂、永続する確実性を与えてくれそうなものへの。なぜなら、私たち自身があまりに不確実であるからです。私たちは自分たち自身を知らないのです。私たちは、事実について、書物が言ってきたことについて、たくさん知っています。しかし私たちは自分たち自身では知らないのです。私たちは直接の経験を持っていないのです。
(´・(ェ)・`)つ
986
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/18(木) 23:58:49 ID:KCqMKKeM0
くまめも1-2-1
苦しめられている世界で、私たちは何らかの平和がありうる避難所が欲しい。
私たちは探求の終わりに充足感を見つけたい。
結局、平和を求めて、何らかの種類の大義に、 一つの観念に、盲目的に身を捧げ、そこに避難することは、問題を解決しない。閉鎖的な観念でのたんなる孤立は、葛藤・抗争からの解放ではない。
それで、私たちは外側とともに内側にも、私たち各自が欲しいのは何なのかを見出さなければならない。私たちはその事について明確であるなら、そのときどこへも、行かなくていい。ゆえに私たちの困難は、自分たちの意図に関して自分たち自身において明確であること。その明確さは、探求をとおし、他の人たちの言うことを見出そうとすることをとおして訪れるか。あなたは見出すために、誰かのところへ行かなければならないのか。
私たちは、特定の組織、教師、書物が、私たちを満足させてくれると言う。そのなかに、あらゆる欲しいものを見つけた。そしてそこにとどまって、凝結し、閉じこめられる。
このすべての混乱をとおして、何か永久的なものへの、何かすがりつけるもの、何か私たちに保証、希望、永続する熱狂、永続する確実性を与えてくれそうなものへの探求がある。なぜなら、私たち自身があまりに不確実であるから。私たちは自分たち自身を知らない。私たちは直接の経験を持っていない。
(´・(ェ)・`)
987
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/19(金) 00:01:54 ID:KCqMKKeM0
苦からの避難所はない。
自分の外側にはない。
自分を知るしかない。
(´・(ェ)・`)b
988
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/19(金) 23:01:44 ID:1d4drIFg0
社会的な組織や団体は闘争と混乱しかもたらさないのじゃ。
孤独と不安から人々はそれらにしがみつき、ますます混乱して行くのじゃ。
そのような組織や団体には真の自己を知る道は無いのじゃ。
組織よりも書物にある言葉よりも今ここにある自分を知ることだけが真の幸福への道なのじゃ。
989
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/20(土) 10:48:15 ID:a5QLuWbE0
最初と最後の自由 第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 2
そして永久的と呼ばれるのは何でしょうか。私たちが求めているもの、すなわち私たちに永久性を与えてくれるだろう、または与えてくれるだろうと願うものは、何でしょうか。私たちは、永続する幸せ、永続する満足、永続する確実性を求めていないでしょうか。私たちは、何か永遠に続くであろうもの、私たちを満足させてくれそうなものが、欲しいのです。私たちは、言葉と文句すべてを剥ぎ取って、現実にそれを見つめるなら、これが、私たちの欲しいものなのです。私たちは永久の楽しみ、永久の満足が欲しいのです-すなわち神、真理と呼ばれるもの、何であれ、です。
たいへん結構です。私たちは楽しみが欲しいのです。おそらく、それ [その言い方] は、それ [私たちの実状] をとても粗雑に述べているかもしれません。しかしそれが、現実に私たちの欲しいものです-私たちに楽しみを与えてくれそうな経験、明日によって萎んでしまわない満足、です。そして私たちは色々な満足を実験してきました。そしてそれらはすべて消えてしまいました。そして私たちは今や、真実に、神に、永久の満足を見つけたいと願うのです。確かにそれが、私たちが皆求めているものです-利口な者と愚かな者も、理論家と何かを求めて奮闘している実際家も、です。そして永久の満足はあるのでしょうか。何か永続するようなものがあるのでしょうか。
そこで、あなたは、永久の満足を求めて、それを神または真理または何であれ、 [そう] 呼ぶなら-名前は大事ではありません-確かに、あなたは理解しなければならないのではないでしょうか-あなたが求めているものを、です。あなたは、「私は永久の幸せ-神または真理または何でも好きなもの-を求めている」と言うなら、また探求している者、探求者、求める者をも理解しなければならないのではないでしょうか。なぜなら、永久の安全、永久の幸せといったものは、ないかもしれないからです。真理は、何か全く違ったものであるかもしれません。それは、あなたが見、考え、定式化できるものとは全く違っていると、私は思います。ゆえに、私たちは何か永久のものを求める前に、求める者を理解することが、明白に必要ではないでしょうか。求める者は、彼が求めるものとは違っているのでしょうか。あなたが「私は幸せを求めている」と言うとき、求める者は、彼の探求の対象とは違っているのでしょうか。思考者は、彼の思考とは違っているのでしょうか。それらは分離した過程というより、むしろ共同の現象ではないでしょうか。ゆえに、それが本質的 [・不可欠] ではないでしょうか-彼 [求める者] が求めているのは何なのかを、あなたが見出そうとする前に、求める者を理解することが、です。
それで、私たちは、平和、幸せ、真実、神、何であれ、他の誰かによって与えてもらえるのかどうかを、ほんとうにまじめに奥深く、自分たち自身に訊ねる時点に至らなければなりません。この絶えざる探求、この憧れが、あのとてつもない真実の感覚、あの創造的存在を-すなわち私たちがほんとうに自分たち自身を理解するとき訪れるものを、私たちに与えられるでしょうか。自己認識は、探求をとおし、他の誰かに付いていくことをとおし、何か特定の組織に属することをとおし、書物を読むことなどをとおして、訪れるでしょうか。結局、それが主要な論点ではないでしょうか-私が私自身を理解しないかぎり、私は思考のための基礎を持たないし、私のすべての探求はムダになるだろうということが、です。私は幻影の中に逃避できます。私は競争、闘争、格闘から逃げ出せます。私は他の一人を崇拝できます。私は他の誰かをとおして、自分の救いを捜せます。しかし、私が自分自身について無知であるかぎり、私が自分自身の総合過程に気づかないかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たないのです。
(´・(ェ)・`)つ
990
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/20(土) 10:49:36 ID:a5QLuWbE0
くまめも1-2-2
私たちは何か永久のものを求める前に、求める者を理解することが、必要。求める者は、彼が求めるものとは違っているのか。あなたが「私は幸せを求めている」と言うとき、求める者は、彼の探求の対象とは違っているのか。思考者は、彼の思考とは違っているのか。それらは分離した過程というより、むしろ共同の現象ではないか。ゆえに、彼 [求める者] が求めているのは何なのかを、見出そうとする前に、求める者を理解することが、本質的 [・不可欠] ではないか。
それで、私たちは、平和、幸せ、真実、神、何であれ、他の誰かによって与えてもらえるのかどうかを、奥深く、自分たち自身に訊ねる時点に至らなければならない。
自己認識は、探求をとおし、他の誰かに付いていくこと、何か特定の組織に属すること、書物を読むことなどをとおして、訪れるのか。結局、私が私自身を理解しないかぎり、私は思考のための基礎を持たないし、私のすべての探求はムダになるだろうということが、主要な論点ではないか。
私が自分自身について無知であるかぎり、私が自分自身の総合過程に気づかないかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たない。
(´・(ェ)・`)
991
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/20(土) 11:11:25 ID:saJEBlPE0
思考者は、彼の思考と分離した過程ではなく、共同の現象。ゆえに、求めているのは何なのかを、見出そうとする前に、求める者を理解することが不可欠。自己認識は、外からは訪れない。
私が自分自身について無知であるかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たない。
(´・(ェ)・`)
992
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/20(土) 23:47:28 ID:1d4drIFg0
自分自身を理解しない限り全ての探求は無駄になるというのじゃ。
真に理解すべきは自分自身なのじゃ。
何かを求める者そのものが自分自身なのじゃ。
それを理解するべきなのじゃ。
993
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 00:36:32 ID:Vph/N6Jw0
最初と最後の自由 第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 3
しかし、それは、私たちが最も欲しがりそうにないものです-私たち自身を知ることが、です。確かに、それが、私たちがその上に築ける唯一の基礎です。しかし、私たちは築ける前に、変化させうる前に、非難したり破壊したりできる前に、私たちのあるがままを知らなければなりません。出かけて行って、教師たち、導師(グル)たちを求め、取り替え、ヨ-ガを実習し、呼吸 [法] をし、儀式を執り行い、大師たちに付いていくこと、その他すべては、全く役立たないのではないでしょうか。それは意味がありません-たとえ私たちの付いていく人たちそのものが「あなた自身を研究しなさい」と言うとしても、です。なぜなら、私たちのあるがままが、世界であるからです。私たちが卑小で、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であるなら-それが、私たちが自分たちのまわりに造り出すものです。それが、私たちの生きている社会です。
私たちは、真実を見つけ、神を見つける旅に出かける前に、行為できる前に、他の一人とどんな関係でも-すなわち社会を持てる前に、初めに自分たち自身を理解しはじめることが、本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。まじめな人は、特定の目標にどのように達するかにではなく、初めに、これに完全に関心のある人であると、私は考えます。なぜなら、あなたと私が、私たち自身を理解しなければ、どうして私たちは行動において、社会に、関係に、私たちがするどんなことにも、変容をもたらせるでしょうか。そして、それは明白に、自己認識は関係と対立するとか、関係から孤立するとかいう意味ではありません。それは明白に、大衆とは対照的に、他の一人と対照的に、私、個人の強調という意味ではありません。
そこで、あなた自身を知ることなく、あなた自身の考え方と、なぜあなたが一定の事を考えるのかを知ることなく、あなたの条件づけの背景と、なぜあなたが芸術と宗教について、あなたの国とあなたの隣人について、あなた自身について一定の信念を持つのかを知ることなく、どうして何かについて真に考えられるでしょうか。あなたの背景を知ることなしに、あなたの思考の実体と、それがどこから来るのかを知ることなしには、確かに、あなたの探求は全く無効であり、あなたの行動は意味を持たないのではないでしょうか。あなたがアメリカ人であってもインド人であっても、またあなたの宗教が何であっても、何の意味もありません。
(´・(ェ)・`)つ
994
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 00:49:14 ID:Vph/N6Jw0
くまめも1-2-3
私たちのあるがままが世界である。
真実を見つける旅に出かける前に、自身を理解しはじめることが、不可欠。
自己認識は関係と対立するとか、関係から孤立するとかいう意味ではない。個人の強調という意味ではない。
(´・(ェ)・`)
995
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/21(日) 22:56:53 ID:1d4drIFg0
自分を知ることは多くの者が嫌がるものじゃ。
今まで逃避してきた苦を見る事になるからのう。
しかし、自分を知らなければ全ての世界を知らないことになるのじゃ。
世界とは自分の心が作り出すものであるからのう。
自分も世界も知らなくては、闇から闇に移り住むだけの人生になるのじゃ。
996
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 23:23:58 ID:0a9GWmog0
最初と最後の自由 第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 4
私たちは、生の最終目的が何であるか、戦争、国家的・民族的敵対、葛藤・抗争、全体的紛糾状態-そのすべてがどういう意味なのかを見出せる前に、自分たち自身をもって始めなければならないのではないでしょうか。それはとても単純に聞こえます。しかし、それは極めて難しいのです。自分自身に付いて行くには、自分の思考がどのように作動するのかを見るには、とてつもなく鋭敏でなければなりません。そのため自分自身の考えることと応答と感情の複雑さに対してますます鋭敏になりはじめるにつれて、自分自身にだけでなく、関係のなかにある他の人に、より大きな気づきを持ちはじめるのです。自分自身を知ることは、行動すなわち関係において自分自身を研究することです。困難は、私たちがあまりに性急であることです。私たちは成功したいのです。私たちは目的に到達したいのです。そのため、学び、観察するための機会を、自分自身に与える時間もまたきっかけもないのです。あるいはまた私たちは色々な活動-生計を立てること、子供たちを育てること-に関与してきたり、また色々な組織の一定の責任を引き受けてきました。私たちは異なった仕方でこんなにも関与してきたので、そのため、観察し、学ぶべき自己反省のための時間がほとんど何もないのです。それでほんとうは、反動の責任は、他の人にではなく、自分自身にかかっているのです。世界中での「グル(導師)」と彼らの体系の追求、あれこれについての最新の書物を読むことなどは、私には全く空しく、全く無効に見えます。というのは、あなたは地球中をさすらうとしても、自分自身に帰って来なければならないからです。そして、私たちのほとんどは、総合的に自分自身に気づいていないので、自分たちの考えること、感じること、行うことの過程を、明確に見はじめることは、極めて難しいのです。
あなたは自分自身を知れば知るほど、明確になるのです。自己認識には終わりがありません-あなたは達成に至りません。あなたは結論に至りません。それは終わりのない川です。それを学ぶにつれ、それにますます入って行くにつれて、平和を見つけるのです。精神が平静であるときだけ-課された自己修練をとおしてではなく、自己認識をとおして-そのときだけ、その平静さに、その静けさに、真実が生じうるのです。至福がありうるのは、創造的行動がありうるのは、そのときだけです。そして、この理解なしに、この経験なしに、たんに書物を読むこと、講話に出席すること、宣伝をすることは、あまりに幼稚である-あまり意味のないただの活動であるように、私には見えます。ところが、自分自身を理解し、それによりあの創造的幸せ、あの何か精神のものではないものの経験をもたらすことができるなら、そのときおそらく、私たちのまわりの即時の [・当面の] 関係に、そのため私たちの生きている世界に、変化がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ
997
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 23:27:30 ID:0a9GWmog0
くまめも1-2-4
自分の思考がどのように作動するのかを見るには、鋭敏でなければならない。
鋭敏になるにつれて、自分自身にだけでなく、関係のなかにある他の人に、大きな気づきを持ちはじめる。
自分自身を知ることは、行動すなわち関係において自分自身を研究すること。
自己認識には終わりがない。それを学ぶにつれ、平和を見つける。精神が平静であるときだけ、真実が生じうる。至福がありうる。
自分自身を理解し、それによりあの創造的幸せ、あの何か精神のものではないものの経験をもたらすことができるなら、そのときおそらく、私たちのまわりの即時の [・当面の] 関係に、そのため私たちの生きている世界に、変化がありうる。
(´・(ェ)・`)
998
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 23:39:55 ID:0a9GWmog0
>>995
そうなのであります。
集中の瞑想に慣れて、記憶のおもちゃ箱が整理されて、心が鎮まることの安らぎを知ってしまうと、自分の本心をほじくり返して、苦しむことを避けたくなってしまうのでありますが、
実は、そうではないのであります。
本心を知ろうとする、覚悟さえできて、負の思いをしっかりと気づき、見据えることさえできれば、苦は消えてしまうのであります。簡単なことなので、カエルくんにも教えてあげたいのでありますが、難しいようであります。
(´・(ェ)・`)っ
999
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/22(月) 23:26:07 ID:1d4drIFg0
↑そのようなこともあるじゃろう。
しかし、その境地も永遠のものではないのじゃ。
死と共に失われてしまうものじゃ。
永遠の幸福を手に入れるには更なる境地を求めなければならないのじゃ。
階段を昇るには下の段から離れて上にいかなければならないようなものじゃ。
永遠に至るまで更に昇り続けるのじゃ。
1000
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/22(月) 23:28:51 ID:1d4drIFg0
世界の全ての意味を知るためには自分自身から始めなければならないのじゃ。
どのような聖者の教えを聞こうと、正しい教えは必ず自分自身を知ること教えられるのじゃ。
それならば今ここで自分自身を知ることに勤めたほうが善いのじゃ。
世界中をさまよって正しい教えを探す必要は無いのじゃ。
1001
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 00:08:50 ID:a0VRmIUo0
最初と最後の自由 第一部
第三章 個人と社会 1
私たちのほとんどが直面する問題は、個人はたんに社会の道具にすぎないのか、それとも社会の目的なのか、ということです。個人としてのあなたと私は、社会と政府によって使われ、指令され、教育され、制御され、一定の様式に会わせて形作られるべきものなのでしょうか。それとも社会、国家は個人のために存在しているのでしょうか。個人は社会の目的なのでしょうか。それとも彼はたんに教えられ、搾取 [・利用] され、戦争の道具として屠殺されるべき操り人形にすぎないのでしょうか。それが、私たちのほとんどが直面している問題です。それが世界の問題です-個人は、たんなる社会の道具、 [諸々の]影響力に型どられるべきおもちゃにすぎないのか、それとも社会は個人のために存在しているのか、ということが、です。
あなたはこれをどのように見出そうとしているでしょうか。それは深刻な問題なのではないでしょうか。個人がたんに社会の道具にすぎないなら、そのとき社会のほうが個人よりはるかに重要です。それが真実であるなら、そのとき私たちは個性をあきらめて、社会のために働かなければなりません。私たちの教育体系全体が全く革命化され、個人は、使われ、破壊されるべき道具に変えられ、粛清され、取り除かれなければなりません。しかし社会が個人のために存在しているなら、そのとき社会の機能 [・役割] は、彼をどんな様式にも順応させることではなくて、彼に自由の感じ、衝動を与えることです。それで私たちは、どちらが偽りなのかを見出さなくてはなりません。
あなたはこの問題をどのように探究するのでしょうか。それは命がけの問題なのではないでしょうか。それは、右翼のでも左翼のでもどんなイデオロギ-にも依存していません。それが一つのイデオロギ-に依存しているなら、そのときそれはたんに意見の事柄にすぎません。観念はいつも憎しみ、混乱、葛藤・抗争を産み出します。あなたは、右翼や左翼の書物や、聖典に依存するなら、そのとき、ブッダのでもキリストのでも資本主義、共産主義のでも何でも、たんなる意見に依存するのです。それらは観念です、真理ではありません。事実は決して否定できません。事実についての意見は否定できます。私たちはその事柄の真理が何であるかを発見できるなら、意見に依存せずに行動することができるでしょう。ゆえに、他の人たちが言ったことを切り捨てることが必要なのではないでしょうか。左翼の人や他の指導者たちの意見は、彼らの条件づけから出てきたものです。それであなたは、自分の発見のために書物で見つけられることに依存するなら、たんに意見に縛られているにすぎません。それは知識の事柄ではありません。
どのようにしてこれについての真理を発見すべきでしょうか。それに従って、私たちは行動するでしょう。これの真理を見つけるには、宣伝すべてからの自由がなければなりません。それは、あなたが意見に依存しないで問題を見つめる能力がある、という意味です。教育の仕事全体は個人を目覚めさせることです。これの真理がわかるには、あなたはとても明晰でなくてはならないでしょう。それは、あなたが指導者に依存できないという意味です。あなたは指導者を選択するとき、混乱 [の中] からそうするのです。それであなたの指導者もまた混乱しているのです。それが世界で起きていることです。ゆえにあなたはあなたの指導者に導きや助けを頼れないのです。
(´・(ェ)・`)つ
1002
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 00:10:24 ID:a0VRmIUo0
くまめも1-3-1
問題をイデオロギ-に依存して、探求するなら、それはたんに意見の事柄。観念はいつも憎しみ、混乱、葛藤・抗争を産み出す。
事実は決して否定できない。事実についての意見は否定できる。
私たちはその事柄の真理を発見できるなら、意見に依存せずに行動することができる。
どのようにしてこれについての真理を発見すべきか。それに従って、私たちは行動する。これの真理を見つけるには、宣伝すべてからの自由がなければならない。それは、意見に依存しないで問題を見つめる能力がある、という意味。教育の仕事全体は個人を目覚めさせること。これの真理がわかるには、とても明晰でなくてはならない。それは、あなたが指導者に依存できないという意味。
(´・(ェ)・`)
1003
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 00:15:09 ID:a0VRmIUo0
>>999
くまのは、境地などと、言えるものでは全然無いであります。
瞑想の、超入り口のところであります。
それでも、くまでも、楽になれたのだから、誰でも、くま程度には楽になれると思うのであります。
(´・(ェ)・`)つ
1004
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 08:22:45 ID:wCRrWiVM0
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/
(´・(ェ)・`)b 次スレ
1005
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/23(火) 22:56:08 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんなのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
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