したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

839避難民のマジレスさん:2020/05/06(水) 23:45:46 ID:m4QWxTvg0
変化の緊要

   信念 2

K まず最初にこの最後の点を明らかにしてしまいましょう。従う人はいないのです。そして私は、あなたや、私の話を聞く人々に応ずる責任能力はないのです。また私は、ヒンドゥー教徒や他の何でもないのです。というのは私は、宗教的、その他の、どの集団にも属していないからです。一人一人が自分自身にとって光でなければなりません。ゆえに、教師もなく、学徒もないのです。これは最初から、明らかに理解されなければなりません。そうでなければ、感化されるし、宣伝と説得の奴隷になるのです。ゆえに、何でもいま言われていることは、教義や信条や説得ではないのです。私たちは理解のなか、たがいに出会うのか、出会わないのかのどちらかです。ここで、あなたはたいへん強調的にあなたは神を信じていると言われましたし、たぶんあなたはその信念をとおして、神性とでも呼べるかもしれないものを経験したいのでしょう。信念には多くのものごとが関与しています。ニューヨークやエッフェル塔の存在のように、あなたは見たことがないかもしれないが、確証できる事実、所作への信念があるのです。それからあなたは、現行としてはそれを知らないけれども、あなたの妻が貞淑であると信じるかもしれません。彼女は思考が不貞であるかもしれませんが、それでもなおあなたは、現行には彼女が他の誰かと行ってしまうのを見ないから、彼女が貞淑であると信じるのです。彼女は日々の思考ではあなたを欺瞞するかもしれないし、あなたもまた確実に同じことをしてきたにちがいないのです。あなたは、輪廻転生といったものがあることには確実性がないけれども、そういうものを信じているでしょう。けれども、その信念はあなたの生に、何の妥当性をも持たないでしょう。キリスト教徒すべては、自分たちは愛さなければならないことを信じていますが、彼らは愛さないのです - 他のどの人すべてとも同じく、彼らは物理的、心理的に殺すことに努めるのです。神を信じなくても善良である人たちもいるのです。神を信じて、その信念のために殺す人たちもいるのです。自分たちは平和がほしいと要求するから、戦争の準備をする人たちなどです。それで、いったい何かを信じることがどうして要るのかを、自分自身に訊ねなくてはなりません - これは、生、いのちのとてつもない神秘を拒否しないのですが。しかし、信念と「有るもの」は別々のものなのです。信念は言葉、思考ですし、これは、あなたの名が現行にはあなたではないのと同じく、そのものではないのです。
  経験をとおして、あなたはあなたの信念の真理に触れたい、それをあなた自身に立証したいと願うのですが、この信念はあなたの経験を条件づけるのです。それは、経験が信念を立証するにいたるということではなくて、むしろ、信念が経験を設けるということなのです。神へのあなたの信念は、あなたに、あなたが神と呼ぶものの経験を与えてくれるでしょう。あなたはいつも、他の何でもなくあなたが信じるもの・ことを、経験するでしょう。そして、これはあなたの経験を無効にするのです。キリスト教徒は聖母、天使、キリストを見るでしょうし、ヒンドゥー教徒は非常に多数の同様な神格を見るでしょう。イスラム教徒、仏教徒、ユダヤ教徒、共産主義者は同じです。信念は、それ自体の仮想される立証を、条件づけるのです。重要なことは、あなたが何を信じるのかではなく、あなたはいったいなぜ信じるのかだけなのです。あなたはなぜ信じるのでしょうか。そして、あなたが何か一つを信じようと他の一つを信じようと、それで、現行として有るものに、どんな違いがあるのでしょうか。事実は、信や不信に感化されません。それで、なぜいったい何かを信じるのかを、訊ねなくてはなりません。信念の基礎は何なのでしょうか。それは恐怖でしょうか。生の不確実性でしょうか - 知られないもの・こと(の恐怖)、この常に変化する世界での安全の欠如の恐怖でしょうか。それは関係の不安全でしょうか。それとも、生の無量性に向き合い、それを理解しないので、自分自身を信念の庇護に閉じこめるのでしょうか。それで、お訊ねしてもよいのなら、もしもあなたが全く恐怖を持たなかったなら、あなたは信念を持つでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板