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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

913避難民のマジレスさん:2020/05/28(木) 03:57:39 ID:Q9kJ3fsg0
くまめも2
情熱自体は、喜び、忘我と関わる。これらは楽しみではない。楽しみにはいつも微細な努力がある−探し求め、奮闘し、要求し、それを保とう、それを得ようと格闘すること。
情熱には、要求がないし、ゆえに格闘がない。情熱には充足のいささかの影もないし、ゆえに欲求不満も苦しみもありえない。
「私 'me' 」は充足と苦しみのすべての中心だが、情熱は「私 'me' 」からの自由。情熱は、有るから、要求しない。私は、静止したものについて語っていない。情熱は、「あなた」と「私 'me' 」がない自己放棄のきびしさ。
ゆえに、情熱は、生、いのちの本質。生きるのは、これ。
しかし、思考が、持つこと、保つことの諸問題を持ち込むとき、情熱は停止する。情熱なしには、創造は不可能。創造とは、自由。環境に依存し環境の産物である「私 'me' 」−社会と思考により組み立てられる「私 'me' 」−からの自由。この自由は明晰さであり、過去から灯されない光。情熱はただ現在のみ。ふしぎな新しい感情が、燃え立つこと、それが学びの情熱。私が日々生きるなか、どういう特定の行為が、この情熱が燃えて作動していることを、確実にしてくれるのか。
質問者 学びの注意。その注意は行為であり、いま。これには情熱の美しさがあるし、それは「私 'me' 」とその時間の全的放棄。
(´・(ェ)・`)


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