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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
937
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 00:01:53 ID:2WdNfqJs0
変化の緊要
冥想とエネルギー 2
質問者 はい、それは分かります。その微細な形態の認識は歪曲するのです。それは分かります。あなたは、これらすべての思考の干渉はエネルギーのむだであると言われます。あなたは、どんな形態の認識、非難、判断もなく観察しなさい、名づけず観察しなさい、と言われます。その名づけ、認識はエネルギーのむだであるからです。それは論理的に現実的に理解できます。そのとき次の点、すなわち、二元性を創り出す観察する者と観察される者・ことの間に存在する分割、分離、あるいはむしろあなたがしばしば表してこられたとおり空間があるのです。あなたは、それもまたエネルギーのむだであり、葛藤、抗争をもたらすと言われます。私はあなたの言われることすべてを論理的だと思うのですが、その空間を取り除くこと、観察する者と観察される者・こととの間に調和をもたらすことを、とてつもなくむずかしいと思うのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。
K 「どのように」はないのです。「どのように」は、機械的になる体系、方式、実践を意味します。もう一度私たちは、「どのように」という言葉の意義を離れなくてはなりません。
質問者 それは可能でしょうか。私は可能という言葉は、未来、努力、調和をもたらそうと奮闘することを含意するのを、知っています。しかし、一定の言葉は使わなければなりません。私たちがそれら言葉を乗り越えられるのを私は願うのです。それで、観察する者と観察されるもの・こととの間の統一をもたらすことは、可能でしょうか。
K 観察する者は観察されるもの・ことにいつも陰を落としています。それで、二つの間の統合をどのようにもたらすのかではなくて、観察者の構造と本性を理解しなければなりません。観察者の動きを理解しなければなりません。その理解のなかおそらく観察者は終わりになるでしょう。私たちは、観察者が何なのかを検討しなければなりません。それは、意識的、無意識的な記憶、人種的、民族的な遺産、知識と呼ばれる蓄積された経験、諸反応をともなう過去なのです。観察者は本当は、条件づけられた事物です。彼は、その人はある、私はあると主張する者なのです。彼自身を保護するなかで彼は抵抗し、支配し、快適と安楽、安全を求めます。そのとき観察者は内的、外的に、自分自身を、観察されるもの・こととは異なる何かとして、分け隔てます。これが二元性をもたらすし、この二元性から葛藤、抗争があるし、これ(葛藤、抗争)がエネルギーのむだなのです。観察者、その動き、その自己中心的活動、その主張、その先入観に気づくには、自分は異なっているという分離主義的感情を築くこれら無意識的な動きすべてに、気づかなければなりません。それは、どんな形態の評価づけもなく、好き嫌いなく観察されなければなりません。ただそれを日々の生のなか、その諸関係のなか観察してください。この観察が明らかであるとき、観察者からの自由がないでしょうか。
質問者 あなたは、観察者は本当は自我であるとおっしゃっています。あなたは、自我が存在するかぎり、彼は抵抗し、分割し、分離する、というのは、この分離、この分割のなか彼は生きていると感じるから、とおっしゃっているのです。それは彼に、抵抗し戦う活力を与えるし、彼はその戦いが慣習となってしまったのです。それが彼の生きる道なのです。あなたは、この自我、この「私 'I' 」が、好き嫌いの感覚のなく、見解や判断のなく、ただ行為のなかこの「私 'I' 」の観察のみがある観察をとおして解消しなければならない、と言われていないでしょうか。しかし、そういうことは本当に起きるのでしょうか。私は私自身をそんなに完全に、真実に、歪曲なく見られるでしょうか。あなたは、私がそんなに明らかに私自身を見つめるとき、「私 'I' 」は全く動きを持たないと言われます。そしてあなたは、これが冥想の一部であると言われるのですか。
K もちろんです。これこそが冥想です。
(´・(ェ)・`)つ
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