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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
949
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 00:28:27 ID:YNKg7Ogo0
くまめも1
思考は記憶の応答、過去。
思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去。
意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望。
思考が作用しているとき、それは過去だし、ゆえに新しい生活は全くない。
それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去。
それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがない。
何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけない。
心が散らかっていないときにのみ、今は生じうる。
そして、この理由のために思考は作動しなくてはならないときにだけ-対象的に、効果的に-作動して、止まらなければならない。
継続すべては思考。継続があるとき、何も新しいもの・ことはない。
過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらか。それが論点全部。
質問者 私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやるのは、思考。
意味と理解と伝達のすべては思考、
私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしている。
私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考。
思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出す。どうしてそれを乗り越えられるのか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないか。
(´・(ェ)・`)
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