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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

942避難民のマジレスさん:2020/06/06(土) 23:47:27 ID:zulUrRnU0
くまめも3

修練とは、学ぶ、修学するという意味。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要る。学びがあるとき、模倣、順応、権威はない。
質問者 蓄積なしの学びがありうるのか。
K 学びはそれ自体の行為。一般的に起きることは、学んでおいて-私たちは学んできたことにのって行為する、ということ。
それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきものと有るもの、またはあったものと有るものとの間に、葛藤がある。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っている。すなわち、学ぶことはなすこと。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではない。
これを理解することがとても重要。
なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、me' 、I' 自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性。「私 'I' 」は過去のまさに本質だし、過去は現在に触れて、さらに未来になる。ここには常に分割がある。学びがあるところには、常に動きがある。「私 'I' 」になりうる蓄積はない。
科学技術の分野の知識は絶対に必要。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話している。
「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられる。
「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられる。
しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめる。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるから。
それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではない。技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況がある。
しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめる。
(´・(ェ)・`)


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