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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

989避難民のマジレスさん:2020/06/20(土) 10:48:15 ID:a5QLuWbE0
最初と最後の自由  第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 2

 そして永久的と呼ばれるのは何でしょうか。私たちが求めているもの、すなわち私たちに永久性を与えてくれるだろう、または与えてくれるだろうと願うものは、何でしょうか。私たちは、永続する幸せ、永続する満足、永続する確実性を求めていないでしょうか。私たちは、何か永遠に続くであろうもの、私たちを満足させてくれそうなものが、欲しいのです。私たちは、言葉と文句すべてを剥ぎ取って、現実にそれを見つめるなら、これが、私たちの欲しいものなのです。私たちは永久の楽しみ、永久の満足が欲しいのです-すなわち神、真理と呼ばれるもの、何であれ、です。
 たいへん結構です。私たちは楽しみが欲しいのです。おそらく、それ [その言い方] は、それ [私たちの実状] をとても粗雑に述べているかもしれません。しかしそれが、現実に私たちの欲しいものです-私たちに楽しみを与えてくれそうな経験、明日によって萎んでしまわない満足、です。そして私たちは色々な満足を実験してきました。そしてそれらはすべて消えてしまいました。そして私たちは今や、真実に、神に、永久の満足を見つけたいと願うのです。確かにそれが、私たちが皆求めているものです-利口な者と愚かな者も、理論家と何かを求めて奮闘している実際家も、です。そして永久の満足はあるのでしょうか。何か永続するようなものがあるのでしょうか。
 そこで、あなたは、永久の満足を求めて、それを神または真理または何であれ、 [そう] 呼ぶなら-名前は大事ではありません-確かに、あなたは理解しなければならないのではないでしょうか-あなたが求めているものを、です。あなたは、「私は永久の幸せ-神または真理または何でも好きなもの-を求めている」と言うなら、また探求している者、探求者、求める者をも理解しなければならないのではないでしょうか。なぜなら、永久の安全、永久の幸せといったものは、ないかもしれないからです。真理は、何か全く違ったものであるかもしれません。それは、あなたが見、考え、定式化できるものとは全く違っていると、私は思います。ゆえに、私たちは何か永久のものを求める前に、求める者を理解することが、明白に必要ではないでしょうか。求める者は、彼が求めるものとは違っているのでしょうか。あなたが「私は幸せを求めている」と言うとき、求める者は、彼の探求の対象とは違っているのでしょうか。思考者は、彼の思考とは違っているのでしょうか。それらは分離した過程というより、むしろ共同の現象ではないでしょうか。ゆえに、それが本質的 [・不可欠] ではないでしょうか-彼 [求める者] が求めているのは何なのかを、あなたが見出そうとする前に、求める者を理解することが、です。
 それで、私たちは、平和、幸せ、真実、神、何であれ、他の誰かによって与えてもらえるのかどうかを、ほんとうにまじめに奥深く、自分たち自身に訊ねる時点に至らなければなりません。この絶えざる探求、この憧れが、あのとてつもない真実の感覚、あの創造的存在を-すなわち私たちがほんとうに自分たち自身を理解するとき訪れるものを、私たちに与えられるでしょうか。自己認識は、探求をとおし、他の誰かに付いていくことをとおし、何か特定の組織に属することをとおし、書物を読むことなどをとおして、訪れるでしょうか。結局、それが主要な論点ではないでしょうか-私が私自身を理解しないかぎり、私は思考のための基礎を持たないし、私のすべての探求はムダになるだろうということが、です。私は幻影の中に逃避できます。私は競争、闘争、格闘から逃げ出せます。私は他の一人を崇拝できます。私は他の誰かをとおして、自分の救いを捜せます。しかし、私が自分自身について無知であるかぎり、私が自分自身の総合過程に気づかないかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たないのです。
(´・(ェ)・`)つ


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