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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

996避難民のマジレスさん:2020/06/21(日) 23:23:58 ID:0a9GWmog0
最初と最後の自由  第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 4

 私たちは、生の最終目的が何であるか、戦争、国家的・民族的敵対、葛藤・抗争、全体的紛糾状態-そのすべてがどういう意味なのかを見出せる前に、自分たち自身をもって始めなければならないのではないでしょうか。それはとても単純に聞こえます。しかし、それは極めて難しいのです。自分自身に付いて行くには、自分の思考がどのように作動するのかを見るには、とてつもなく鋭敏でなければなりません。そのため自分自身の考えることと応答と感情の複雑さに対してますます鋭敏になりはじめるにつれて、自分自身にだけでなく、関係のなかにある他の人に、より大きな気づきを持ちはじめるのです。自分自身を知ることは、行動すなわち関係において自分自身を研究することです。困難は、私たちがあまりに性急であることです。私たちは成功したいのです。私たちは目的に到達したいのです。そのため、学び、観察するための機会を、自分自身に与える時間もまたきっかけもないのです。あるいはまた私たちは色々な活動-生計を立てること、子供たちを育てること-に関与してきたり、また色々な組織の一定の責任を引き受けてきました。私たちは異なった仕方でこんなにも関与してきたので、そのため、観察し、学ぶべき自己反省のための時間がほとんど何もないのです。それでほんとうは、反動の責任は、他の人にではなく、自分自身にかかっているのです。世界中での「グル(導師)」と彼らの体系の追求、あれこれについての最新の書物を読むことなどは、私には全く空しく、全く無効に見えます。というのは、あなたは地球中をさすらうとしても、自分自身に帰って来なければならないからです。そして、私たちのほとんどは、総合的に自分自身に気づいていないので、自分たちの考えること、感じること、行うことの過程を、明確に見はじめることは、極めて難しいのです。
 あなたは自分自身を知れば知るほど、明確になるのです。自己認識には終わりがありません-あなたは達成に至りません。あなたは結論に至りません。それは終わりのない川です。それを学ぶにつれ、それにますます入って行くにつれて、平和を見つけるのです。精神が平静であるときだけ-課された自己修練をとおしてではなく、自己認識をとおして-そのときだけ、その平静さに、その静けさに、真実が生じうるのです。至福がありうるのは、創造的行動がありうるのは、そのときだけです。そして、この理解なしに、この経験なしに、たんに書物を読むこと、講話に出席すること、宣伝をすることは、あまりに幼稚である-あまり意味のないただの活動であるように、私には見えます。ところが、自分自身を理解し、それによりあの創造的幸せ、あの何か精神のものではないものの経験をもたらすことができるなら、そのときおそらく、私たちのまわりの即時の [・当面の] 関係に、そのため私たちの生きている世界に、変化がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ


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