したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

985避難民のマジレスさん:2020/06/18(木) 23:28:45 ID:KCqMKKeM0
最初と最後の自由  第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 1

 私たちのほとんどが求めているのは何でしょうか。私たち各自が欲しいのは何でしょうか。特に、この落ち着きのない世界では、あらゆる人が、何らかの種類の平和、何らかの種類の幸せ、避難所を見つけようとしていますが、確かに、見出すことが重要ではないでしょうか-私たちが求めようとしているのは何なのか、私たちが発見しようとしているのは何なのかを。たぶん、私たちのほとんどは、何らかの種類の幸せ、何らかの種類の平和を求めているのです。騒乱、戦争、競争、闘争で苦しめられている世界で、私たちは何らかの平和がありうる避難所が欲しいのです。それが、私たちのほとんどが欲しいものであると、私は思います。それで私たちは追求し、一人の指導者からもう一人へ、一つの宗教組織からもう一つへ、一人の教師からもう一人へと向かうのです。
 そこで、私たちが求めているのは幸せでしょうか、それとも私たちが求めているのは、そこから私たちが幸せを引き出したいと願うところの何らかの種類の満足なのでしょうか。幸せと満足との間には違いがあります。あなたは幸せを求められるでしょうか。おそらく、満足は見つけられますが、確かに幸せは見つけられません。幸せは派生的です。それは、何か他のものの副産物です。それで、私たちは、何か多大のまじめさ、注意、思考、気づかいを要求するものに、私たちの精神と心を注ぐ前に、見出さなければならないのではないでしょうか-私たちが求めているのは何なのか、それは幸せなのか、満足なのかどうかを。残念ながら、私たちのほとんどは満足を求めていると、私は思います。私たちは満足したいのです。私たちは探求の終わりに充足感を見つけたいのです。
 結局、平和を求めているなら、それはとてもたやすく見つけられます。何らかの種類の大義に、 [一つの] 観念に、盲目的に身を捧げ、そこに避難できます。確かにそれは問題を解決しません。閉鎖的な観念でのたんなる孤立は、葛藤・抗争からの解放ではありません。それで、私たちは見出さなければならないのではないでしょうか-外側とともに内側にも、私たち各自が欲しいのは何なのかを。私たちはその事について明確であるなら、そのときどこへも、どんな教師にも、どんな教会にも、どんな組織にも行かなくていいのです。ゆえに私たちの困難は、自分たちの意図に関して自分たち自身において明確であること、ではないでしょうか。私たちは明確になれるでしょうか。そしてその明確さは、探求をとおし、他の人たち-最高の教師から街角を曲がった教会のふつうの説教師に至るまで-の言うことを見出そうとすることをとおして訪れるでしょうか。あなたは見出すために、誰かのところへ行かなければならないでしょうか。けれどもそれが、私たちのしていることではないでしょうか。私たちは無数の書物を読みます。私たちは多くの会合に出席して議論します。私たちは様々な組織に加わります-それにより、私たちの生の葛藤・抗争の、悲惨さの治療を見つけようとしています。または、私たちはそのすべてをしないとしても、見つけたと思うのです-すなわち私たちは、特定の組織、特定の教師、特定の書物が、私たちを満足させてくれると言うのです。私たちはそのなかに、あらゆる欲しいものを見つけたのです。そしてそこにとどまって、凝結し、閉じこめられるのです。
私たちは、このすべての混乱をとおして、何か永久的なもの、何か永続するもの、何か真実、神、真理と呼ばれるものを、求めていないでしょうか-何でも好きなものです。名前は大事ではありません。言葉は実体ではありません。確かです。それで、言葉に捕らわれないようにしましょう。それは専門の講師に任せておきましょう。私たちのほとんどには、何か永久的なものへの探求があるのではないでしょうか-何か私たちがすがりつけるもの、何か私たちに保証、希望、永続する熱狂、永続する確実性を与えてくれそうなものへの。なぜなら、私たち自身があまりに不確実であるからです。私たちは自分たち自身を知らないのです。私たちは、事実について、書物が言ってきたことについて、たくさん知っています。しかし私たちは自分たち自身では知らないのです。私たちは直接の経験を持っていないのです。
(´・(ェ)・`)つ


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板